高校・中学校の教諭はなぜ親に言うべきことを生徒に言い、生徒に言うべきことを親に言うのか。高校の修学旅行なんかない方がいい。頼って行った生徒に「じゃあな」と言って去って行く高校教諭・卒業生をとばしてその親とつきあう高校教諭。

[第539回]
  義務教育の公立の小学校・中学校は行きたいと思ったけれども試験に合格できなかったために行けなかったということはない。それに対して、高校は私立の学校だけではなく公立の高校でも、行きたいと思って試験を受けて通る場合もあれば落ちる場合もある。大阪府立北野高校は行きたいと思って行った高校だったので、合格発表で自分の受験番号と名前があった時はうれしかった。実際には、合格発表の掲示板を見るより前に、同じ中学校から受けた者で先に発表を見てきた者が帰ってきて、私の顔を見て「(同じ中学校から受けた12人が)全員、合格やった♪」と教えてくれたので、合格発表の掲示を見る前に合格を知って、合格発表の掲示板を見るのはそれを確認するだったが、行きたいと思っていた高校だったのでうれしかった。
  しかし、野村のじいさんも「『失敗』と書いて『成長』と読む」と書いておったように、「失敗」した場合の方がそこで学ぶものがある場合もあるわけで、「成功」すると学ばないという時もある。 もしも、そこで、私が落ちていたならば、学んだかもしれないものを学ばなかった・・というものはある。大学受験については失敗だらけだったから、そこで学んだものもある・・が、だから、落ちた方がいいなどと言うつもりは毛頭ない・・が、そこで学んだものもある。
  東京のある私立大学の合格発表を見に行った時だが、うちの姉が一緒に見に行ってあげると言ってついてきたのだが、合格発表会場の手前で、北野高校の同じ学年だった男と会い、向うの方が先に気づいて私の名前を呼び、「おう」と手をあげて挨拶して通り過ぎたのだったが、そのすぐ後、姉が「今の子、話しなくていいの」と言うから「いいよ、別に」と言ったのだが、姉は「仲良さそうだったじゃないの。そのまま、行ってしまっていいの?」と言うので、「だから、いいって言ってるでしょ」と言ったのだが、理解できないようだった。そもそも、仲が良くても悪くても、そこは合格発表の会場のすぐ近くであり・・・ということは、そいつも合格発表を見に行った帰りという可能性が大きいわけだ。そんな時に話し込む必要はないし、話し込まない方がいい。そいつは合格発表を見に行った帰りで、こちらはこれから合格発表を見に行くということは、そいつが通っていて自分も通っていたならばいいが、そうとは限らない。そいつが落ちていて自分が通っている可能性もあれば、そいつが通っていて自分が落ちている可能性もあるわけだ。だから、合格発表は大学なら同じ高校・高校なら同じ中学校の人間と一緒に見に行くなどということはしない方がいいし、合格発表会場の近くで会うことがあっても、「おう」くらい言ってすませばいいことであって、余計な口はきかない方がいいのだ。うちのお姉さんは、そのあたりを理解できないようだった。
  大学受験は決して条件は公平ではない。北野高校の生徒や、それ以外の所で知り合った人でも、京大・東大などを卒業したお父さん、もしくは京大・東大あたりに行きたいと思ったが行けなかったというようなお父さんの息子というのは、本当にうらやましいと思った。うちの姉は2人とも「弟なんて要らなかった。お兄ちゃんが欲しかった」とか勝手なことを言うておったのだが、そんなことを言うなら、その弟の方だって言わせてもらってもいいところで、私は同年代の兄が欲しかった、「同年代の」というのは2つ違いとか3つ4つ違いとかいうくらいで、京大・東大くらいに進学した兄が欲しかった。もし、同年代の兄がいたならば、親の攻撃が2分されたであろうし、3人いたならば3分されて、実際より楽になっていただろう。たとえ、姉でも京大でも阪大でも行こうというくらいのお姉さんがいたならば、大学受験に関しては横で見ていてそれが参考にもなっただろうし、家族においていくらかなりとも理解もあったのではないか・・と思う・・が、我が家はそうではなかった・・が、まあ、それはしかたがない。
一流校合格への父親学 (1980年) (ゴマブックス) - 鵜川 昇
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  大学の合格発表なんてものは、友達と一緒に見に行くものではない。この場合、そいつが「友達」なのか「単なる知ってるやつであって、あんなやつ友達なんかじゃない」というやつかは関係ない。どっちにしても、合格発表では、そいつが落ちていて自分が通っていることもあるし、そいつが通っていて自分が落ちているということもある。「あんなやつなんかに」なんて、たとえ思っても、その「あんなやつ」が通って自分が落ちることだってある。だから、合格発表は一人で見に行くべきもので、「友達」もしくは「あんなやつなんか友達じゃなくて単に知ってるヤツ」と一緒に見に行くべきではない。高校の合格発表は大学と違って高校は狭いので、どこかで同じ中学校の人間と会う可能性が大きいのだけれども、又、大学の願書は個人個人で出すが、高校受験の時には同じ中学校の人間で一緒に出しに行ったので、受験番号も続いていたから、かつ、私が高校を受けた時は高校の合格発表は受験番号だけでなく氏名も書き出されていたので、通ったか落ちたかよその中学校の卒業生のことはわからないが同じ中学校から受けた者のことはすぐにわかったのだが、合格発表会場ではできるだけ顔を合わさない方がいいし、駅からの道もそんなに何通りもあるわけではないから、後から見に行くと先に見に行った人間と顔を合わす可能性があるので、そういったことを考えると、できるだけ早い時刻に見に行くようにした方がよかった・・と思うが、高校の合格発表の時には私はそんなこと、ちっとも考えていなかった。親がそういったことを理解している親なら、息子にそういったことを教えるのだが、うちの親は父親も母親もそんな知恵があるような人間ではなかった。
  成人してからなら、自分自身で判断するしかないのだが、高校受験・大学受験においては、「親の力」の差は大きいと思う。だから、大学受験は決して公平ではないのだ。週刊誌に載っていた話だが、大王製紙の2代目の社長は北野高校から東大を受けたが合格することができずに慶應大に行ったが、息子は何としても東大に進学させてやると思い、3代目は筑波大付属駒場高校から東大に合格して進学したらしい・・・けれども、その3代目がカジノでしょーもないことしよったあ~あ・・・( 一一) らしい。東大・京大など卒業したお父さんか、東大・京大に行きたいと思ったが行けずに早慶あたりに行ったというお父さんの息子ですんなりと合格できた人は「うらやましい」とは思う「えらい」とは別に思わない。しっかりした親の息子は本当にうらやましかった。

  高校の教諭の立場からすると、すべての生徒の親が大学進学について適切な判断をできる親だとは限らないので、高校の教諭は、能力がない親の息子・娘には親のかわりの役をいくらかやり、理解がない親・身勝手な親には理解してもらえるように尽力するのが高校の教諭の仕事であろう・・と私は思い込んでいたし、特に、北野高校というのは大阪府で一番の高校で、先生も中学校の先生というのは「府立池田高校卒⇒大阪教育大卒」くらいの人が多いのに対して、北野高校の先生というのは「府立北野高校卒⇒京都大学卒」とか「府立北野高校卒⇒大阪大学卒」といった人が多かったので、それだけの大学を出て母校もしくは母校と似たタイプの公立進学校の先生になっているような人は、生徒の気持ちもわかるであろうし、生徒のために「家族の政治学」に対処しようという気持もある人が「東京海上火災」とかに勤めるのではなく高校の先生になっているのだろう・・と思い込んでいた・・というのか、勘違いしていた・・が違った。そうではなかった。あいつらは、およそ、そんな人間ではなかった。
家族の政治学 - R.D. レイン, Laing,R.D., 良男, 阪本, 嘉, 笠原
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家族の死 - デーヴィッド クーパー, Cooper,David, 嘉寿, 塚本, 嘉, 笠原
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  その例はいっぱいあるのだが、ここでは「親に言うべきことを親に言わずに生徒に言う教諭」の例を高校の教諭で3例、中学校の先生の方でも「親に言うべきことを親に言わずに生徒に言う教諭」の例をあげる。なぜ、生徒に言うべきことを生徒に言わずに親に言い、親に言うべきことを親に言わずに生徒に言うのか・・・。 結論として、あいつら「アホやから!」・・という点があり、「そういう人間性の人間だから」ということもあるだろう。 私は、高校生くらいの時、もしも、司法試験を受けて通ったとしたならば、裁判官・検事・弁護士のどれかになることができるが、そのうちの裁判官というのは、裁判官になろうというような人だから、もしも、収入が目的なら司法試験なんて難しい試験に合格しようと努力するより東京海上火災を目指した方がいいわけだから、年収が目的の人ではなく、検事や弁護士になる人よりも人間的に品行方正で倫理観のある人がなるものではないのか・・などと思ったが、実際に裁判官になっている人間を見ると、決して一般の人間より品行方正な人間でもなく、社会正義の実現のために貢献したいという志を持っているからその職業についたというような人間でもない。むしろ、人間がねじくれているから裁判官になったのではないのか・・みたいな人間が少なくない。 高校の教諭というものも、年収が目的なら「東京海上火災」とかに勤めればいいところを、高校の教諭になったということは、その担当する科目を学ぶことを続けたいという気持と生徒の役に立ちたいという気持がある人だからなのだろう・・・と思い込んでいたのだったが、違った。そうではなかった
  ひとつには、たとえば、営業の仕事をすると、自分が誠意をもって良心的に対応すると見込客は必ずそれを評価してくれるとは限らない。自分が良心的に対応したとしても、誤解されることもあるし、又、変な考え方をしている人もいる。こんな人、契約してもらわんでもええわ・・と言えればいいけれども、片っ端からそんなことやっていたら営業成績は伸びないことになってしまう。ところが、「先生」という仕事につくと、正しいか悪いかという基準を常に自分の側が決めて通じてしまうことが多いのだ。学校の「先生」もそうならば、弁護士とか「先生業」についている人間というのは、その点で、常に自分の基準がまかり通ると思い込んでいる人間が多く、普通の会社員なら職場で学ぶものを学べていないという人が多い。
  今回は、その学校の先生の話を述べる。今回は、高校・中学校編で、後に小学校編も述べようと予定している。

【1】-1 
  小学校・中学校・高校には「遠足」「修学旅行」「運動会」があり、中学校・高校には「文化祭」というものがある。幼稚園には「遠足」「運動会」があった。予備校には普通はないが、いつだったか、代々木ゼミナールで余興みたいな「運動会」をやっているのをテレビで見たことがある。大学にはそれらはないが、ゼミの人間で集まって「遠足」みたいにどこかに行くという場合もあるようだが、それは学校としての行事ではない。
  小学校・中学校の「遠足」「運動会」、中学校の「文化祭」、小学校・中学校の「修学旅行」が「教育の一部分」であり、「友達同士で遊びに行く」というものとは性質が違うのと同様に、高校の「遠足」「修学旅行」「体育大会」「文化祭」もまた、「高校教育の一部分」であり、参加してもしなくても自由という性質のものではない・・というものだと思っていた。
  幼稚園の「遠足」はバスに2人かけの席に3人座らされて、補助席にも座らされて、居心地のよくないバスに揺られて、ちっとも楽しくなかった。小学校の「遠足」も面白くなかったが、一度、今のJRの阪和線の駅から各停で「天王寺」駅まで乗って天王寺動物園に行くという「遠足」があって、電車での「遠足」の方がバスでの「遠足」よりずっといいと思ったものだったが、学校の先生にとってはバスに押し込めて運んだ方が途中でいなくなったりする危険が小さいので楽だったのだろう・・と思う。
  北野高校の「遠足」は行先の候補地が生徒手帳にいくつか記載されていて、そこからクラスごとに決めて、クラスごとに電車で行くことになっていた。なおかつ、雨天の時は中止だったが、担任の先生が「中止」を宣告すると、有志で「それじゃあ、これから遠足行こうかあ~あ」とか言って出かけたりもした。そういうのはけっこう面白かった・・・が、うちの親は「面白くない」そうだった。
  北野高校の2年の5月初旬、「遠足」の時、雨天で担任の旧姓作野礼子が「中止」を宣言した後、「それじゃあ、これから遠足行こうかあ」と言い出した男がおり、又、最初からそれを想定してバレーボールのボールを持参してきていた男もおり、阪急「十三(じゅうそう)」駅から京都線の特急に乗って「京都河原町」駅まで行き、円山公園でバレーボールのトスやったりして、それから阪急京都線の特急に乗って「大阪梅田」駅まで戻り、今はなくなった「田園(でんえん)」という長居させてくれる喫茶店で時間を過ごした。一人の男は、それじゃあ、家に帰ってギター持ってくるわ・・と言ってギターを持ってきて、そこでみんなで歌を歌ったりした・・・が、うちの母親はそれが気に入らなかった。私としては、学年が変わってクラスのメンバーも変わってすぐだったので、そういうものには参加して、新しいクラスの人間となじみになっておいた方がいいと思ったのだったが、母親としては「私は遠足にもコンパにも行かせてもらっていないのに、なんで、あんたが行くの」という気持があったようだった・・・が、あんた、高校生と違うやろうが・・とも思ったが母はそうは思わなかったようだった。
  帰ってからえらい怒られた。特に、同じ中学校から同じ北野高校に行って、なぜか北野高校でも同じクラスになっていたN口 要という男、女みたいな名前だが男がいて、うちの母親はそのN口が大好きで私が嫌いだったのだが、いついかなる時も「N口はどうしたんや? N口は行ったのか、行かなかったのか?」ときき、N口が行ったものには私も行かないと面白くないようで、N口が行かなかったなら私も行ってはいけないらしかった。これは、きつかった。なんで、よその息子を基準にしなければ気がすまないのか? なぜ、そこまでよその息子が好きなのか?・・と何度も思ったのだが、それでいて、うちの母親は「親というものは、自分の息子のことを、いいようにいいように思うものやから!」と何度も言うのだったが、どこがやねん?!?・・・て感じやった。
  その日は、公式の「遠足」が中止と宣言された後、担任の旧姓作野礼子が返った後、「それじゃあ、これから遠足行くぞお~お!」と叫びだした男がいて、それじゃあ、行こうかと何人かが参加して行ったのだが、N口は他の所に他の人間と行ったようだった。どこに行くか、こそっと行ったわけでもなく、彼は口に出して言ったはずだったが、それがどこだったかははっきりと覚えていないが、彼もどこかに行ったのだが、「自主遠足」には彼は行かなかったのだ。ところが、うちの母は私が嫌いでN口が大好きな女だったので、「N口はそれ、行ったのか」ときくので「いや、N口は行かなかった。他の所に行ったみたいや」と言うと激怒するのだった。「なんで、N口が行かないものをおまえは行くんやあ!」と。実際、疲れた。本当に疲れた。N口が他の所に行ったら私もN口が行った所に行かないといけないらしく、N口が「自主遠足」の方に行ったら私も行かないといけないらしかった。これは、本当にきつかった。
  最近は通信課程の大学というものがいくつもできてきている。慶應大学は法学部・経済学部・文学部の3学部のみ、通信課程があり、通学過程の夏休みの最初の頃にスクーリングを日吉の校舎でやっていて、けっこう年配の人も来ているのを見たことがある。しかし、慶應の場合は知っている人は知っているが「内と外」という思考がある学校で、一番エライのは内部進学で、次にエライのは私立高校出身者で、私のように公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校・・→国立大学に行くはずだったが何の因果か慶應大に来てしまった・・なんてのは「慶應義塾カースト」の最底辺にならされるという大学だったのだが、それよりもまだ下のカーストが通信課程だった。通信課程に来ている人はそういったことを知らずに、同じ通信課程なら慶應大学は悪くないのではないかとか思って来ていた人がいたようだが、実は慶應大学の教授、特に内部進学の教授の思考では、内部進学の通学過程の学生というのが「(慶應義塾の)内部の者」で大学だけ慶應大学に行った者というのは「(慶應義塾の)外部の連中」という思考・思想・観念があり、通信課程の人というのはその「(慶應義塾の)外部の連中」のさらに外側にいる人間という意識だったのだ。そして、これはある助教授から聞いた話だが、ある教授は「通信課程の人のスクーリングでは講義が終わるとチャイムが鳴ると同時に、さああ~っと大急ぎで荷物を抱えて、質問など一切受けつけずに即座に帰るようにしている」とおっしゃったそうで、慶應の教授、特に内部進学の教授の意識というものはそういうものだったらしい。大学だけ慶應大に行った者でも、特に公立高校出身者というのは「(慶應義塾の)外部の者」と彼らは呼ぶのだが、それでも通学過程の学生は慶應大学の学生ではないとまでは言わないのに対して、通信課程の人というのは、慶應の学生のうちに考えていないのだ。だから、私も、もしも、もうひとつ、どこか大学に行くとしても、通信課程の場合は、慶應大学の通信課程はやめた方がいい・・というのか、通信課程の大学は他にもあるのに、何もそんなけったくその悪い大学に行くことない・・と思うようになった。 建築業界に勤めて、どうも、建築業の会社では社会科学系学部卒の人間は軽んじられて、建築学科卒の人間というのが「バカでも入れる美大の建築学科」でも「アホでも入れる私大の建築学科」でも〔この「バカでも入れる美大」という表現は『モジリアンニによろしく』という漫画にでてきた表現だ〕新卒入社したその日から右も左もわからん若造がお殿様という業界であり、あほくさいので〔ほんま、ええかげんにさらせよ! ・・て感じ〕、それなら、いっそのこと「建築学科卒」になってやろうか・・ということを考えた。それで、慶應大学の工学部というのは、日吉の教養課程のさらに駅から遠い側、「矢上」キャンパスと称していた、日吉キャンパスからは谷を隔てた向こう側にあって、東急東横線「日吉」駅からは教養課程の日吉キャンパスを越えた向こうにあったので「日吉」駅からはけっこう歩くのだが、逆にJR横須賀線「新川崎」駅からは頑張れば歩ける・・と言うにはきついが、実際に「新川崎」から歩いて理工学部に通学していた人がいたのだ。現在、千葉県に住んでいる者としては、横浜市港北区の日吉というのは直線距離では遠いのだけれども、JR横須賀線「新川崎」というのはJR総武線快速と直通運転しており、千葉県の「津田沼」「船橋」「市川」から乗ると「新川崎」まで電車は乗換なしで行けるので、「新川崎」まではけっこう行きやすく、「新川崎」から歩くつもりなら行けない場所ではなかった。もしも、学士入学とか「2年編入」とかで大学の別の学部に行こうとするならば、自分が卒業した大学ではない大学に行くよりも卒業した大学の方がうまくいく可能性が考えられ、「新川崎」から矢上キャンパスまで歩くというのはどうか・・・といったことも考えたのだが・・ところが、1985年(昭和60年)、記念すべき、あの年、阪神タイガースが日本一になった唯一の年(なにしろ、阪神にゃんこ はめったに優勝しないから、このきりのいい数字の年は覚えやすい♪)〔⇒《YouTuve-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE 〕、この年に横浜市港北区日吉の慶應大学日吉キャンパスに「東京大学建築学科を卒業されて、慶應大学で教えておられる槙文彦先生」が設計なさったという日吉新図書館が竣工・オープンしたのだったが、その竹中工務店の会長の孫らしい槙文彦先生というお方は慶應義塾の幼稚舎卒で、大学は慶應大学には建築学科がなかったこともあって東大の工学部建築学科を卒業されて、そして、1985年の時点では慶應大学で教員として教えておられたらしかった・・ということは、私が高校を卒業した1970年代後半くらいにおいては慶應大学には工学部⇒理工学部はあっても、実はその工学部⇒理工学部に建築学科はなくて、京大・阪大などは工学部は学科ごとに募集していたのに対して、東大は理科一類・理科二類として募集していたのと同じく、慶應大は工学部⇒理工学部として募集していたため、昔からある大学なので工学部⇒理工学部には建築学科くらい当然あるだろうと思い込んで入学したら、「慶應には建築学科はない!」と聞いて、あ~れええ~え・・・! ・・なんて学生が時々いたのだったが、1985年に竣工した日吉新図書館の設計者の槙文彦先生は「東京大学の建築学科を卒業されて、現在、慶應大学で教えておられる」というお方であったからには慶應大学の理工学部にも建築学科ができたのか・・・と思ったらそうではないらしく、その槙文彦先生が何を教えておられたのかようわからんが、建築学科はいまもって慶應にはないらしいのだ。・・だから、ないものは検討対象外だった・・が、慶應大学の通信課程にあったのは法学部・経済学部・文学部の3学部で理工学部の通信課程はなかった。
  やっぱり、工学部・理工学部というのは通信課程では無理ということなのか・・・と思ったら、通信課程の建築学科として、愛知産業大学・京都造形芸術大学・大阪芸術大学の3つに建築学科の通信課程があったのだ。〔京都造形芸術大学は「京都芸術大学」と改称しようとして「京都市立芸術大学」から、それはうちの名前だとクレームがついてどうたらこうたらと記事がでていたが〕特に、愛知産業大学と京都造形芸術大学は、通学過程と通信課程が2本立てで、慶應大みたいに通学過程が主で、夏休みに校舎が開いている期間にスクーリングをやる通信課程があるというものではなく、通信課程は通信課程として別で、通信課程は東京にもスクーリング用の教室が用意されていて、通信課程のみの教員もおられるようで、通信課程の方にも通学過程に劣らないだけ力を入れていた。建築学科なんて通信課程でできるのか・・というと、建築学科には「理工学部系の建築学科」と「芸術学部・美術学部系の建築学科」があって、「理工学部系の建築学科」は実験が多いので通信課程では無理らしいが、「芸術学部・美術学部系の建築学科」の場合は、理工学系の科目もあるけれども、理工学部系の科目よりもデザイン・意匠関係の方に比重があるので、通信課程でもできるらしかった。それで、ずいぶんとまわりくどいことを述べてきたが、愛知産業大学の通信課程の造形学部建築学科に入学させてもらったのだが、なかなか、仕事を持ちながら通信課程で学習するというのは大変で、3分の1くらい履修したかと思うが、6年の最大在籍期間中に履修できず、「再入学」という制度もあることはあるけれども、とりあえず、卒業を断念したのだった。
  その愛知産業大学の建築学科で、スクーリングを東京都港区の建物で受けた後、「みんなでお茶でもしましょう」という話が出てきて、行きたかったのだけれども、土・日・土と3日間のスクーリングを受けて、その翌日から別の講座のスクーリングを日・土・日と受ける予定にしていたので、翌日の準備をしなければならなかったので、残念ながら行かなかったということがあった。
  そういったものに参加した時には、独習するだけではなく、来ている人となじみになって、自分はこうやったけれどもうまくいかなかったと話すと、こうやるといいですよとかいった情報を教えてもらえる場合もあるし、「先生」から教えてもらうばかりではなく、「生徒」として来ている人に教えてもらえる場合ものもあるし、そうでなくても、同じ業界で働いている者として「人的つながり」はよほどおかしな相手でなければあった方がいいと思っていたので、行きたかったのだけれども、翌日の準備をしなければならないことと比較考量して参加を断念した。その時にしても、参加した方がいいかしない方がいいか吟味検討して決めたのだが、北野高校の2年の5月の「自主遠足」も、学年が変わってクラスが変わったことから、新しいクラスのメンバーとなじみになっておいた方がいいと判断して私は参加したのであって、さっさと帰宅して学習時間にあてるという選択もあり、N口のように別の所に別の人間と行くという選択もあったのだけれども、私は私としてどれがいいか判断して決めたのだった・・・が、うちの親はそれでは気に入らないのだった。うちの親は私が嫌いでN口という男が大好きだったので、N口が行ったものには私が今回はやめておこうと判断しても行かないといけないし、N口が行かないものには私が参加しておいた方がいいと思っても参加してはならないのだった。本当にこれはやりんくかったし、本当にきつかった。うちの親というのは、なんで、そこまでよその息子が好きなのか・・と思ったが、それでいて、うちの母親は「親というものは、自分の息子のことを、いいようにいいように思うもんなんやからなあ。わかってるなあ!」と言うのだった・・・が、どこがやねん?!?・・・て感じやったが、それで「親というものは、自分の息子のことを、いいようにいいように思うもんなんやからなあ!」と言いまくるのだった。 自分が参加した方がいいと判断している時でも参加できない、自分がこれは行かない方がいいと判断したものでも行かないといけない・・というのは、これは本当にきつい! そうではない親の息子・娘というのが、本当にうらやましかった。心の底からうらやましかった。
  それが、北野高校の2年の時の前半の「遠足」だった。

  高校の「遠足」は1年・3年は前半・後半に2回あったと記憶しているが、2年は後半に「修学旅行」があるかわりに「遠足」は前半だけだった。
  私は高校を卒業した後、大学に進学していいけれども、高校は大学受験のためにだけあるのではないと考えていたし、大学受験と関係がないものでも高校としての行事には参加するものだと思っていた。 1970年代後半、北野高校の2年の時の後半の方の「修学旅行」だが、たしか、3万円だったと思うのだが、1万円ずつ3回に分けて払うか一括して払うかどちらか選べたと思うのだが、事務室の方に持参して払うことになっていたと思ったが、そのお金をうちの親は出してくれなかったのだ。「高校は勉強しに行く所であって、修学旅行に行く所とは違いますでしょ」と言って。
  実際には、2年の時のクラスで1人だけ、修学旅行に参加しなかった男がいた。担任の旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)が言うには彼は修学旅行といったそういうものが好きではないので参加したくないということで参加しなかったらしく、修学旅行というのは高校の授業の一環なので「参加しない」というのは不可だろうと私は思い込んでいたのだったが、後から考えるとそうではなかったらしい。
  しかし、参加してもしなくても自由というものであるのなら、それならそれで、最初からそう言ってもらいたかった。旧姓作野礼子はそんなこと、一言も言わず、修学旅行というものは「参加するもの」という話し方をしていたのだった。
  うちの親は「高校は勉強する所であって修学旅行する所とは違うんやから、そんなもの行くことないでしょ」と言うのだったが、いったい、どうすればいいの? 私は、結論としてどっちでもよかったのだ。 別に「行ってはいかん」というものを無理に行きたいとも思わなかったが、「行かなければならない」というような言い方で担任の旧姓作野礼子は話していたのだった。だから、教諭が「行かないといけないもの」というように話して、片方で親が「高校は勉強する所であって修学旅行する所とは違うのだから行くことない」と主張するのなら、その両者で話し合ってどっちか決めてもらいたかった・・・が、ところが、親と担任の教諭とは「懇談」というものをもって会っていたはずなのだが、ところが、そういう場では両者は決して「修学旅行というものは高校生活の一環なので『行かないといけない』ものなのか、高校は勉強する所であって修学旅行する所ではないのだから『修学旅行は行ってはいけない』ものなのか」ということは議論してくれないのだった。
  教諭と親は、修学旅行というものは『高校生活の一環・教育の一環なので行かないといけないもの』なのか『高校は勉強する所であって修学旅行する所ではないので行ってはいけない』ものなのか、「懇談」で顔を合わせても決して話し合わないかわりにどうしたかというと、教諭は生徒、即ち、私に「〇〇くん、修学旅行の費用、まだ、払われてないけれども、早く払ってちょうだい」と要求したのだった。そんなこと言われても、親は「高校は勉強する所であって修学旅行する所と違うんだから、行ってはいかんでしょうが」と言い、修学旅行代なんて出してくれないし、アルバイトをして修学旅行代を稼ごうなんて、たとえ考えても、絶対にそんなもの、させてもらえないし、どうしていいのか、さっぱりわからなかった。高校の教諭というものは、生徒が困らないように配慮するのも仕事のうちだと私は思っていたが、北野高校の教諭というのは、そういう連中ではなかった。特に、2年の時の担任だった旧姓作野礼子は、親には「懇談」で会っても「修学旅行は高校生活の一環・高校の教育の一環という位置づけのものですから、修学旅行代は出してあげてください」と言ってくれても良さそうなものだったが、親には絶対にそういうことは言わない女だった。いったい、どうしたらいいの?
  私が中学校1年の時、父方の祖母が他界した。最後、祖母の財布に1万円札が3枚残っていたそうで、それで、孫がうちの父親の子が3人、父の弟(叔父)の子が2人いたが、うちの姉2人はすでに成人していたので、未成年だった私とイトコ2人の3人に祖母が持っていたお金から1万円ずつをもらった。それを持っていたので、私は、とりあえず、「修学旅行代」を分割で払う場合の1万円を事務室に持って行って払ったが、残りの2万円はいったいどうすればいいのか、めどはつかなかった。 私は、まがりなりにも担任の教諭ならば、生徒にどうもできないようにして困らせるのではなく、担任の教諭として親と話し合ってもらいたかった。親が言うように「高校は勉強する所であって修学旅行する所ではないのだから、修学旅行なんて行ってはいけない」というものならば、それでも私はかまわなかったし、担任の教諭だった旧姓作野礼子が話したように「修学旅行はみんなで行くもの」であって「遠足」や「体育大会」「文化祭」や「入学式」「卒業式」と一緒で授業ではなくても全員参加するものだということならば、親にそう話してほしかった・・・・が、うちの親は息子には「高校は勉強する所であって修学旅行する所ではないのだから、修学旅行は行ってはいかん」と言い、担任の教諭の旧姓作野礼子は修学旅行は行くのが当然という前提で「〇〇くん、まだ、修学旅行代、払われてないわよ。早く払ってちょうだい」と当たり前みたいに請求するのだった。
  今から考えて、高校の「修学旅行」なんて、あんなもの、ない方がいいと思うのだ。なければ、こんな苦労することはなかった。いったい、どうしたらいいのか、本当に困った。旧制作野礼子は「私は両親が離婚したから」というのが最大の自慢で、「私は両親が離婚して、家が貧乏だったから」とそれを自慢にするのだったが、それでも、修学旅行代は出してもらえたらしかった・・・が、うちは出してもらえなかったのだ。高校の教諭というのは「両親が離婚した」のだから自分は世界で一番エライんだ・・みたいに思いあがっている女はならさない方が生徒にとっていいと思う。又、修学旅行代を出してもらえない生徒もいるのだから、修学旅行というものを「全員が行くもの」として設定しないでほしいように思う。 

  そういえば、旧姓作野礼子が担任だったのは2年の時であって1年の時は別の先生が担任だったが、旧姓作野礼子は私が所属したクラスとは別のクラスの担任を持っていた。
  北野高校の入学式の日、私は「入学式」というのは授業ではなく、「入学式」の日には授業はおこなわれないけれども、それでも「入学式」というものは「参加するもの」「出席するもの」と思い込んでいた。ところが、「入学式」の日に観光の海外旅行に行って欠席した人がいたのだった。誰かというと、担任のクラスももっていた「国語」科の教諭だった旧姓作野礼子だった。
  今と違って、1970年代の半ばにおいては、海外旅行というのは誰でも簡単に行くものではなかった。ダイヤモンド社から『地球の歩き方』シリーズが発行されたのは1980年頃だったと思う。その頃はまだ発行されていなかったと思う。うちの姉が私が中学生の時、1970年代前半に結婚して新婚旅行にハワイに行ったが、それまで、新婚旅行というのは宮崎とか白浜(和歌山県)とかいうのが多くて、ハワイに新婚旅行に行くというのは、その頃から「出始め」だった。だから、「海外旅行に行く」というのは観光旅行であっても、かなり「進取の気質」があると評価する人もいたのではないか・・。 しかし、だからといって、なんで、入学式の日に行かないといけないの?
  高校の先生というのは、一般の会社員とは違って、夏休み・春休みがそれぞれ2か月近くずつくらいあって、冬休みは2週間あって、土曜は半日、日曜はきっちり休み。私が勤めたような日曜出勤で水曜が休みなんて会社では、「国民の祝日に関する法律」なんてあっても意味はない。「祝日」は出勤であり、「日曜休みの会社」と「水曜休み」とか「月曜休み」とか平日に週休がある会社では平日に週休がある会社というのは「国民の祝日」の分だけ休みが少ない。別の見方をすると、「国民の祝日」に働いている分だけ月給が高いわけではないから、その分だけ給料が安いということだが、高校の教諭というのは、日曜はきっちり休んで「国民の祝日」もきっちりと休んでいる。又、勤務時間だって、授業は平日6時間だけだから、「9時5時の仕事」と言われるような仕事でも1日8時間働くのに対して、高校の先生というのは1日6時間が基本だし、自分が担当している授業が2限目からなら1限目は出勤しないで2限目からの出勤だし、午後に授業をもっていなければ昼過ぎると帰宅している。それだけ、ものすごい休みがあるのに、なんで、わざわざ、よりによって「入学式」の日に観光の海外旅行に行かなきゃならないの?・・・と不思議に思ったのだったが、その後、自分自身が海外旅行に行ってみてわかった。海外旅行というのは国内の旅行と違って、時期によって値段が違うのだ。4月の初め、高校の入学式の日なんてのは、会社でも役所でも入社式の直後であり、労働基準法では有給休暇は「取得させないといけない」ということになっていたとしても、大部分の人間はそういう時期には休みにくいのだ。だから、入学式の日の頃は海外旅行は夏休み・冬休み・春休みの時期よりも安いのだ。それで、旧姓作野礼子は、北野高校の「入学式」の日に有休休暇とって観光の海外旅行に行きやがったのだった・・・( 一一)
   小学校・中学校には「授業参観」と「懇談」があったが、高校には「懇談」はあっても「授業参観」はなかった。しかし、「入学式」には父兄にも「どうぞ、お越しください」と案内していたわけで、その上で、各クラスの担任の教諭が立ち上がって、「A組の担任の◇◇先生で、教科は☆☆を担当されています」「B組の担任の・・・」と、校長先生だったかが紹介して、それぞれの先生が立ち上がって生徒と父兄に顔を見せるということをおこなっていたのだ。 入学式に親が行くのがいいとか悪いとか言う人がいるが、行っていいと私は思っている。生徒の立場からすれば、別に来てもらわなくてもいいと自分が生徒の時には思っていたが、親であっておかしくない年齢になってみると、自分が親なら行くようにした方がいいと思うようになった。どういう先生に世話になるのか、顔を見て名前を聞くくらいのことはしておいていいと思う。小学校・中学校の「参観」の代わりみたいなところがある。
  ところが、旧姓作野礼子が担任を持っていたクラスだけは「◇組の担任は作野先生ですが、只今、海外旅行に行かれてまして欠席されています。国語科を担当されています」ということで、担任の教諭が観光の海外旅行に行って入学式を欠席していたのだ。
  右翼 橋下徹が大阪府知事になって、公立高校の入学式・卒業式を「日の丸・君が代礼賛式」みたいにしてしまったことから、もしも、そういう行事はボイコットするべきだという考えのもとに、それならば、その「入学式」「卒業式」の日に、「いっちょ、その時間に、キャバレーでも行ってこましたろか♪ それとも、ソープランドでも行ってこましたろか♪」・・
がきデカ 第1巻 - 山上たつひこ
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・・ということで意図的に欠席するというのなら話はまた別だが、そうではないのです。そもそも、この人は「みんなの為に闘う」とかいうようなそういうタイプの人間と違いますからね。 そうではなく、入学式の日頃に行った方が海外旅行は安いからということで入学式の日に有休休暇とって観光の海外旅行に行く女・・て・・・( 一一)
  旧姓作野礼子は「入学式」なんて特に授業するわけでもないから有給休暇とって海外旅行に行ってもいい・・と思ったのだろうけれども、それはおかしい。もしも、教諭の方がそう考えるのならば、生徒の方だって有給休暇とって休んで京都でも奈良でも丹波篠山でも観光旅行に行って悪いわけはないはずだ。そもそも、教諭が観光旅行に行って出てこないような対面式に、なんで、親が有給休暇とって勤め先を休んで行かなきゃならんのだ!?! バカにしてんのか?!?
  有給休暇というものは労働基準法において、使用者は「取得させないといけない」というもので、有給休暇を取得するのに特に「取得する理由」は必要ないはずだが、しかし、使用者はいついかなる時でも有給休暇を取得したいと言われれば取らさないといけないというものでもないはずで、特に繁忙期とかに取得したいと言われた時には、本人が大怪我・大病をして入院することになったとか、親の葬式だとか子供が交通事故にあったとかいうことならしかたがないが、そうでなければ、「他の時期に取得するようにしてもらえませんか」と言って悪いことはないはずなのだ。だから、入学式の日に有休休暇とって観光の海外旅行に行きたいと言われたとしても、校長は何が何でも有給休暇の取得を認めなくても、「入学式の日に海外旅行に行くことないでしょう。春休みも長くあるのですから、他の時にしてもらえませんか」と言って悪いことはないと思うのだ・・・が、もしかすると、校長は言ったのかもしれない。言ったけれども、ききよらんかったのではないか。だから、校長もかばうのもあほくさいから、だから、「御家族の事情で」とか「所用で」とか何なりと言えるところを、あえて、そのまんま「海外旅行に行かれてまして、本日はお休みされています」とモロに言った・・のかな・・・とも思える。
  営業の仕事をしている者が、お客様と打合せ・商談をしましょうと約束した日に観光の海外旅行に行ったから、商談はお客様だけでやってくださいなんて、そんなこと言うか? そんなこと言って通じるか? 通じないだろう。高校の教諭が生徒や親との顔合わせの行事の日だということになっている入学式の日に観光の海外旅行に行っていないのならば、何も教諭が出てこない日に入学式をやることないだろうが! 人を馬鹿にしてんのか!?! 教諭が有給休暇とって観光の海外旅行に行っていない入学式に、なんで、親が勤め先に有給休暇を取って出席しなきゃならんのだ!?! バカにしてんのか!・・・ということになる。
  旧姓作野礼子は、「大学新卒2年目」にそういうことを平気でやる女だったから、だから、「修学旅行」も私はそれは「高校生活のひとつ」「高校教育の一環」と思っていたので、「出席するもの」「参加しないのは、理由なく授業を欠席するのと同じもの」と解釈していたのだが、入学式を観光旅行の為に欠席する女からすると、そうではなかったのかもしれない・・・が、それにしても、それならそうと、「修学旅行は行ってもいかなくてもいいものですから、御両親と話し合って行くか行かないか決めてきてください」とでも言うべきだったであろう。それを言わずに、むしろ、「〇〇くん、修学旅行代、まだ、未納よ。早く払ってちょうだい」などと請求したのだが、そういうのはおかしくないか。

【1】-2
  さらに、北野高校の2年の2学期だった。 阪急「十三(じゅうそう)」駅から北野高校に向かって歩いていた時、高校に近い場所で後ろから声をかけられた。後ろに誰がいたかというと、担任だった旧姓作野礼子がいた。「〇〇くん、1時間目の体育は遅刻?」・・と彼女はそう言ったのだった。
  これ、考えるべきことは2つあるのです。
(1) ひとつ目は、彼女はどこから声をかけたのかという問題。もしも、旧姓作野礼子が高校の敷地内にいて、校門を入ろうとする生徒に対して言ったのであれば、1時限目の体育の授業に遅刻をとがめた・・ということになるのでしょうけれども、旧姓作野礼子は私よりも後ろ、私よりも高校から遠い側、駅の側から歩いてきて後ろにいたのです。
  旧姓作野礼子は自分は何も悪くないと思っていたようで、そうであるから、こういう言い方をしたのでしょうけれども・・ね。こちらが遅刻ならば、あんたも遅刻と違うんかい???
  ・・・そう思いませんか? 違いますか? 1限目に遅刻した時刻に最寄駅から高校までの道を歩いていた生徒に、その生徒よりも駅の側から歩いてきた教諭が声をかけて言った言葉ですよ。こちらが遅刻ならば、あんたも遅刻と違うんかい? そうじゃないの? そうじゃないのなら、どう違うのか言ってみたらどうなん???・・・そう思いませんか?
  「学校の先生」でも「小学校の先生」と「大学の先生」は意味は同じではありません。「大学の先生」の場合は、裁判官と似たところがあるかと思うのですが、井上薫『狂った裁判官』(幻冬舎新書)によると、裁判官というのは、自分が担当している法廷には遅刻せずに出席しないといけませんが、そうでない時間には、自分が担当している裁判をどのように進行させるか、その裁判についてどういう判断をするべきかといったことを考えるのに、常に必ず裁判所で考えないといけないということはなく、自由にできるらしいのです。書記官はそうはいきません。
狂った裁判官 (幻冬舎新書) - 薫, 井上
狂った裁判官 (幻冬舎新書) - 薫, 井上
「大学の先生」もそれに似ているのではないでしょうか。慶應大学でも、横浜市港北区日吉 の教養課程の日吉キャンパスと東京都港区三田 の 法学部・経済学部・商学部・文学部の専門課程の三田キャンパスと両方で講義を持っている教授は、その日によって日吉に行ったり三田に行ったりされていましたし、ある少人数(要するに、受講者3人)の講座では、助教授が「きょうは天気がいいから外でやろうか」と言われて、大学の敷地内だけれども屋外で授業を受けたこともありましたし、何が何でもその場にいないといけないというものでもないわけで、一般の会社員や公務員のように始業時刻が何時で終業時刻が何時でその間はどこにいないといけないといったことはないはずです・・が、先生は先生でも「小学校の先生」はそうではなく、「小学校の先生」というのは担任を持っているクラスの授業を、特にその先生ができない科目、音楽がからきしだめという先生とか、年配の先生で体育は無理という先生とかがその科目を他の先生に担当してもらうということはあっても、基本的には全科目を担任の先生が担当して教えますし、「小学校の先生」は「教える」というのも仕事ならば、「生徒のめんどうをみる」というのも仕事のはずですから、たとえ、1限目に、音楽の授業で「音楽の先生」が授業を担当することになっていても、自分が1限目に教えないからといって2限目から出勤すればいいというものではないはずです。 ・・で、「高校の先生」はどうなのか? 「入学式」というのは、生徒に授業することはないから観光の海外旅行に行っていいのか?  自分が教える科目の授業は2限目以降にしかないなら、1限目に出勤する必要はなくて2限目から出勤すればいいのか? ・・そうではないだろう。 「高校の先生」でも「非常勤講師」という立場の先生がおられて、その科目を複数の高校で教えていて、自分が教える授業の前に学校に来ればいいという先生もおられたようですが、旧姓作野礼子はそうではなかったはずなのです。ですから、自分が教える授業が2限目以降にしかないから2限目から出勤すればいいというものではないはずなのです。「〇〇くん、1限目の体育は遅刻なの?」なんて、自分はまったく悪くないみたいに言うのでしたが、こちらが遅刻なら、あんたも遅刻でっしゃろうが。何を自分は何も悪くないみたいに言ってるんだ・・・と、後から思ったのです。思いませんか? なんか、この人、物の考え方を間違えているのではないのか。

(2) そして、もうひとつ、あるのです。 私は、小学校の時から体育はそれほど優秀な方でもなかったけれども、嫌いではなかったのです。そして、今から考えてみると、体育は「それほど優秀な方ではなかった」と言っても、小学校は4年の途中で転校して、1年から4年の途中までいた大阪市内の市立小学校は科目ごとに5段階相対評価だったのが、4年の途中から転校した北摂地区の市立小学校はそうではなく、各科目ごとではなくそれぞれの科目内の項目ごとの3段階絶対評価だったのですが、前半の方の小学校では、体育以外の科目はすべての科目が5か4だったのに対して体育はたいてい3だったので、それで体育は悪いように思っていたのですが、5段階絶対評価では「3」というのは「真ん中」であって無茶苦茶悪かったわけでもなかったのです。体育以外が5か4だったので体育が悪いような気がしましたし、高校に進学する時の内申書の成績も保健体育が7だったので悪いような気がしたのですが、これも、保健体育以外は大部分が10か9で、技術家庭が3年のある学期にさぼってしまって平均点くらいの点数を取ってしまったことがあって8になってしまったと記憶しているのですが、その技術家庭が8だった他は保健体育が7の他はすべて10か9のどちらかでしたので、7の保健体育が無茶苦茶悪いような気がしたのですが、10段階相対評価で7というのはそんなに悪い方でもなかったのです。運動会になると、毎回毎回、うちの母親から、徒競走について「一番になりや。絶対に一番になりや」と命令されて、そして、毎回毎回、なんとか一番になろうと必死で頑張ったものの、結局、幼稚園・小学校・中学校の徒競走、高校の体育大会の「◇百メートル走」では一度も1番になることはできなかったけれども、2番になったことはあって、最下位になったことは一度もなくて、真ん中より前か真ん中より後かというと、真ん中より前になっていたことの方が多かったのです。だから、そんなに無茶苦茶悪かったわけでもなかったのです。物事の考え方として、毛沢東は『体育の研究』(『毛沢東の体育の研究』ベースボールマガジン社)において、これまで、中国においては「体が頑丈な人は頭脳が優秀ではない、頭脳が優秀な人は体が弱い」と言われてきたけれども、それは間違った考え方で、これからはそうではなく、すべての国民が自ら体を動かし体を鍛えるスポーツマンになるとともに、自ら学び考える哲学者になるべきだ・・といった主張をしている。そして、毛沢東自身、遠泳をよくやったらしく、晩年、毛沢東の健康状態が良くないと海外の西側で言われた時にも揚子江を泳いで渡る毛沢東の写真が公開されたことがあった・・けれども、それは揚子江の写真の水面に毛沢東の顔の写真をセロテープで貼りつけたものだった・・とかいう話もあったらしいけれども、《 これまで、中国においては「体が頑丈な人は頭脳が優秀ではない、頭脳が優秀な人は体が弱い」と言われてきたけれども、それは間違った考え方で、これからはそうではなく、すべての国民が自ら体を動かし体を鍛えるスポーツマンになるとともに、自ら学び考える哲学者になるべきだ 》という考え方をしていて自分自身もその姿勢で体を鍛えていたというのは本当のことだったようで、戦後の中華人民共和国ではそういう考え方のもとに、「簡易化太極拳24動作」というものが広められたわけです。
  又、私は「北野高校の体育」の物の考え方は好きだった。「アホ学校の体育」「アホ学校の運動部」というのは「殴る」のがスポーツだという思想があったのに対して「北野高校の体育」はそうではなく、自分自身で自覚して体を動かして向上しようとしてこそ体育の成績も上がるという考え方であり、そういうものであるからこそ、私は運動選手になりたいといったことを考えたことは一度もないしなれるとも思わなかったけれども、体育は特に優秀ということではないけれども嫌いではなかったのだ。「慶應の体育」は嫌いです。どういうところがきらいかというと、京大は1年と2年に週に1コマ、「基本体育」という授業があるらしかったが、慶應大は1年に週に1コマ、「基本体育」があるのと別に、夏休みなどに「選択体育」というものを集中的に受講することになっていて、「選択体育」は名前の通り、希望するスポーツの種目を選ぶことができたのですが、私はこの際、他でできないようなものを選ぼうと思って「馬術」を選択したのでしたが、ある時、「馬術部のOBの方が来られましたので、講義をしていただきます」と体育会馬術部員が言い、そして、その「馬術部のOBの方」がどういう「講義」をなさったかというと「スポーツをやっていいことというと、どういうことがあるかというと、飲み屋で喧嘩した時に勝つ、ということがある」・・とそうおっしゃったのです( 一一)  ・・・なんか、慶應の体育会の人間て、程度低いなあ~あ・・・と思ったのですが、慶應という大学でそういうことを口にすると、「おまえ、東大の学生みたいなこと言うなあ。慶應の学生なら慶應らしくしろ」とか言われるのです。「慶應らしく」とはどういうものかというと、「スポーツをやっていいことというと、どういうことがあるかというと、飲み屋で喧嘩した時に勝つ」というのがそれが「慶應タイプ」らしいのです。そして、必修科目で「体育理論」という講義があって、これは好むと好まないとにかかわらず受講させられるのですが、そこで慶應の体育会の教授はどういう「講義」をされたかというと、「スポーツにとって一番大事なことというと、何と言っても、『殴る』ということだ。『殴る』ということが何よりスポーツの基本の基本なんだよ。『殴らないスポーツ』なんてそんなものはスポーツじゃないんだよ。『殴るな』なんて、そんなこと言うやつはスポーツすんなってんだ。『殴ったから怪我したじゃないか』なんて言ってからに、バカじゃないか。殴ってんだから怪我するのは当たり前だろうが。バカか! 頭おかしいんじゃないか。一回、病院に入院しろってんだ。スポーツというのは強い所はどこでも殴ってんだよ。殴るから強くなるんだろうが。殴ったらいかんとか言うような頭のおかしなやつは病院に入院しろお!!! 特に女子バレーが顕著なんだけれども、女子バレーでは男性のコーチが女子選手の髪の毛をつかんでコートの中をひきずりまわしたりするんだよ♪ それがスポーツてもんなんだよ。それをやってこそ、スポーツなんだよ。それがスポーツてもんなんだよ」とお叫びになったのでした・・・が、そういう野蛮人の雄たけび、酔っ払いの寝言みたいなものを必修科目の「体育理論」だなどと言って無理矢理きかされるというのは迷惑千万でした。「スポーツをやると、根性というものがつくんだよ。たとえば、今年、陸上部に入ったなんとかくんなんてのは、入部してすぐの頃はトラックを1周走るだけで、もう、ぜえぜえ言っていたのだけれども、半年経ってみると、4周走っても5周走っても平気でいるようになった。これは根性というものがついたということだ」とおっしゃったのでした・・・が、私は言いたかった。「せ~んせえ~え。それって、『根性がついた』のではなく『体力がついた』のと違うのですかあ~あ」と。しかし、言うと激怒するのは目に見えていたし、逆らうとうるさそうだったので言わなかった・・・が、それは「根性がついた」のではなく「体力がついた」のだと今も思う。私は体育とかスポーツというもの自体は嫌いではないのだけれども、「男性のコーチが女子選手の髪の毛をつかんでコートの中をひきずりまわすんだ。それがスポーツというものなんだ」とかそういう野蛮人の思想というのは好きになれないし、「体力がついた」ものを「根性がついた」とかアホなことを言わないとおれない症候群、ほとんどビョーキみたいな人・・というのは好きではない・・というか、大嫌いである。その教授がおっしゃる「強い所は殴ってるんだよ」という「強い所」というのは「スポーツ専門校」≒「不良学校」のことであり、そういう学校にスポーツ入学した人というのは、運動部をやめると学校もやめないといけないので、暴力をふるわれて怪我させられても学校をやめさせられたくないので我慢しているのです。それを「殴ってこそ、スポーツというものだ」「殴るから強くなるんだ」とか言う教授の話を聞いて、やっぱり、慶應という学校は程度低いなあ・・・という印象を受けたのでした。こういうことを言うと、「慶應タイプ」の学生から「おまえ、東大に行けなかったくせして東大の学生みたいなこと言うなあ。慶應の学生なら慶應らしくしろ」と言われるのですが、そういう人が言う「慶應らしく」とはどういうもののことかというと、「殴るということこそ、スポーツの基本の基本なんだよ」とか「男性のコーチが女子選手の髪の毛をつかんでコートの中をひきずりまわすんだよ。それをやってこそ、スポーツなんだ」とかそういう思想のことを「慶應らしい」とか「スマートな慶應ボーイ」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とかなんとかかんとかくんとかすんとか言うらしいのですが、何を言われても、私は「殴るということこそ、スポーツの基本の基本なんだよ」とか「男性のコーチが女子選手の髪の毛をつかんでコートの中をひきずりまわすんだよ。それをやってこそ、スポーツなんだ」とかそういう野蛮人は嫌いですし、それがスポーツだとは思っていないし、それがスポーツならば、その人のスポーツは私が考えるスポーツとは別物のスポーツです。
  私は高校の授業では、音楽とか美術とかいうものは京大とか東大とかを受けようとするなら大学の入学試験にはないけれども、それでも、一流校の生徒なら音楽でも美術でもある程度のものは身に着けておくべきものだと思っていたし、同様に体育もできた方がいいし、特に体育の場合は運動選手になる人と比べて優秀でなくてもいいけれども、毎日、睡眠時間を取るのと同様に、体を動かす時間をいくらか取るのが人間として当たり前のことのように思っていました。 加藤裕治『弁護士をめざして 56歳からの挑戦―司法試験一発合格―』(2014.法学書院)では、加藤裕治さんは司法試験合格をめざして学習中、体力も必要と考えていて、《今でも一日7キロ前後毎日走る。台風でも来ない限り、雨の日も傘をさして走る。出張や旅行に出かけても先々で必ず走る。》と書かれているが、試験に通るための体力ということなら1日7キロまで走らなくても、そこまでやらなくてもいいとは思うが、加藤裕治さんも体力づくりは生活のルーティンになっていたらしいが、私も毎日、いくらか体を動かすようにしてきたし、そのおかげかどうかわからないが、今でも「年齢よりは若く見える」。ニュースなどで私より5歳ほど若いおっさんが何かしょーもないことやりよった・・とかいうことで写真や動画が出てくると、「え、こんな爺さんなの?」と思ったりする。毎日7キロ走るなんてのは、はたしてそれが健康にいいのか、かえってよくないのかよくわからないが、毎日、少しずつでも体を動かすようにするのはいいことだと思うし、私はそういう考え方できた。
弁護士をめざして56歳からの挑戦―司法試験一発合格 - 加藤 裕治
弁護士をめざして56歳からの挑戦―司法試験一発合格 - 加藤 裕治
  私はそういう考え方の人間で「文武両道型の文治派」だと思っていた。ところが、世の中には「フォアグラ型文治派」みたいな人とか、「スポーツ専業型」みたいな人というのもいる。フォアグラというのは、鴨を体の下半分を土に埋めて動けないようにして、その状態でたらふくエサを食わせて太らせて病的な状態にならせた、そういう鴨の肝臓のことで、それが「世界の三大珍味」だか言うそうで、あと2つは、トリュフとキャビアとカラスミ・・だと4つになってしまうが、そういうものらしい。どっちにしても、私なんかは死ぬまで食べることはないものだから、どうでもいいものだし、「丹波産松茸」がこれまでより採れなくなってきたと『美味しんぼ(おいしんぼ)』に出ていたが、フォアグラもトリュフもキャビアもカラスミも「丹波産松茸」もこれまでにも食ったことなんてないし、今後も死ぬまで食うことは一度もないだろうから、そんなものは「美食倶楽部」の海原雄山とか陶芸家で人間国宝で若い女を嫁にもらった陶芸家の唐山陶人さんとか大金持ちで食通の京極さんとか東西新聞の大原社主とかそういう人にとって関係あるものであって、私にとっては「丹波産松茸」が絶滅しても何の関係もない、どうでもいい、そんなものは。そのフォアグラみたいな人、「フォアグラ型文治派」みたいな人というのも世の中にはいるわけなのです。そういう人は高校の授業の体育なども苦痛でしかないのでしょうけれども、私などは「文武両道型文治派」ですから、うまいか下手かは別として体育は嫌いではなかったのです。
  しかし、1限目に体育の授業を配置されると、「高校は勉強する所であって体育する所とは違うのだから、1限目が体育なら1限目は行くことないでしょ」と言って家を出してもらえないのです。うちの母親は「私は血圧が」「私は心臓が」とか年中言いまくっていましたので、それで弱弱しいみたいに見える時もあったようですが、そういう時にはけっこう力は強いですからね。家を出してもらえないのです。
  ですから、「〇〇くん、1限目の体育は遅刻なの」なんて言われても、どうしようもないのです。どうしようもないことを承知の上で旧姓作野礼子は言っていたのではないかと思いますが、ああいうところを見ると、高校の教諭ていない方がいいのではないのか・・というように思えてきます。
  そんなこと言うのなら、あんた、「懇談」でうちの親と会っているのだから、うちの親に「体育の授業も高校の授業のうちですから、体育の授業にも出席させてあげてください」と言ってくれればいいのに・・と思いましたが、「懇談」になると、旧姓作野礼子は必ず、親に同調して機嫌をとるのです。卑怯な女です。

  だいたい、高校2年の前半、「懇談」の少し前に、旧姓作野礼子は「懇談で、皆さんのことを皆さんの親に言いたいことがありますから」と発言したのだったが、同じ頃、うちの母親もまた「あんたのことを、先生に言わんといかんから」と言うのでした。なんで、両者とも本人に言わずに、「親に」言ったり「先生に」言ったりしたがるのでしょうね。 なんか、変なことやりよるなあ・・と思ったものでしたが、「懇談」では互いに「生徒」「息子」のことを悪口言い合って楽しんでいたのでしょう。・・・あんまり、いい趣味してませんね・・。

【2】 さらに。1970年代後半、高校3年の2学期のことです。文化祭もまた、高校の行事でしたので「行くもの」「参加するもの」と思っていたのでしたが、文化祭の日の朝になると、「高校は勉強する所であって文化祭する所と違うのだから、文化祭は行くことない」と言って、やっぱり、家を出してもらえないのです。・・実際のところ、どっちでもいいので、親と教諭と2人で会ってどっちか決めてくれないか・・と思ったものでしたが、ところが、高校の教諭というものは、「懇談」で親と会っても、絶対にそういった話はしないのです。親には言わないで生徒に言うのです。
  「文化祭は来なかったようだけれども、けっこう、クラスの人間は苦労してたみたいだけど」と大谷郁三(男。当時、40代)は私に苦情を言うのでした・・・・が、私に言うのではなく、あんた、「懇談」でうちの親と会ってるのだから、うちの親にそう言ってくれよ・・・と思いましたが、ところが、高校の教諭というのは親には絶対に言わないのです。親に言わないかわりに生徒に言うのです。しかし、いくら、生徒に言われても、文化祭の日の朝になったら、「高校は勉強する所であって文化祭する所とは違うのだから、文化祭の日は行くことないでしょ」と言って家を出してもらえないのですから、生徒はどうもできません。どうもできないのを承知の上で、生徒に行っても生徒は逆らえないと思って生徒に言うのでしょうけれども、今、考えると、高校の教諭というのは、どいつもこいつも卑怯なやつばっかりだったなあ・・と思います。

  私が北野高校にいた3年間で担任をもたれた3人の中では1年の時のO田先生が一番良心的だったのではないかと思うのですが、それでも、2学期の中間考査の後、「1学期の中間考査の成績と2学期の中間考査の成績を比較して、面談をやるから、放課後に、毎日、5人ずつ来てくれ」と言われたのです。「5人ずつ」だったかどうかは記憶がはっきりしないので正確ではないかもしれません。
  しかし、できれば、そういう面談は放課後ではなく、他の時間にしてほしいのです。なぜなら、我が家は門限が「2時」でしたので、放課後に面談されると、1限目が午前8時10分から始まり午前9時まで、午前の終わりの4限目が正午に終わり、昼休みが40分間で、5限目が午後0時40分から午後1時30分まで、6限目が午後2時30分までですから、その後に面談されると、自分の番がまわってくるまで待って面談して終わった時には午後4時を過ぎています。それから帰ると、通学時間が片道1時間ほどでしたので家に着いた時には午後5時を過ぎています。そうなると、門限を過ぎているということで、今度は家に入れてもらえないのです。家に入れてもらえないということは、翌日の予習もできません。
  そもそも、6限目が午後2時30分に終わって、それから即座に帰宅したとしても、通学時間に片道1時間ほどかかると、家に着いた時には午後3時30分頃となりますが、「門限は2時」というのは「午前2時」ではなく「午後2時」ですから、そんなもの、6限目は午後2時30分なのに、午後2時の門限までに家に帰ることなんてできるのか?・・・というと、できる場合があるのです。
  1日に6コマあると、休講がある場合があり、たとえば、2限目と5限目が休講だったとすると、クラスの総務の委員の者が6限目の担当の先生にかけあって、その先生が2限目に授業を担当していなければ、もともとは6限目だった授業を2限目にやってもらうということをすることがあったのです。そうすると、もともとは2限目と5限目が休講だったものが、5限目と6限目が休講になりますでしょ。そうなると、正午に4限目が終わると、後は弁当食って帰るだけ・・・になる。クラブ活動をやらない人は正午に4限目が終わるとすぐに帰ろうと思えば帰れるのです。通学時間が1時間として、午後1時には家に帰ることになります。我が家の比較的近くに住んでいた同じ中学校から同じ北野高校に行ったN川という男が、午後1時には家に帰っていたということがあったらしいのです。そうなると、「N川は午後1時には家に帰ってるのに、なんで、あんたは午後5時過ぎまでほっつき歩いてるの」と言って家に入れてもらえないのです。そんなこと言われても、N川とはクラスが違うのですから、N川のクラスは休校が2コマあって、その休講を5限目と6限目に休講をまわしてもらうということをやったから、だから、午後1時には家に帰ったかもしれないけれども、私のクラスは休講はその日は1コマもなかったのだから、6限目が終わるのは午後2時30分で、その後に担任の教諭との面談を何人かで順番に受けたら終わったのは午後4時くらいで、それから帰宅すると家に着くのは午後5時くらいになったのです・・・が、そうなると絶対に家に入れてもらえません。我が家の門限は午後2時ですから。翌日の予習なんかできません。
  私は、最初、高校の先生というものは、うちの親にそういうことを言ってもらえないものかなあ・・と思ったのでした。「クラスによって休講があるかないかは違いますから、よそのクラスの生徒で午後1時に家に帰っている人があっても、うちのクラスではまだその時間には授業をやっているということもあるのです」と先生から親に説明してもらえないものかなあ・・と思ったのでしたが、そういう考え方は私の考え方の方が間違っていたようです。北野高校の教諭というのは、そんな連中ではなかったのです。
  北野高校は行きたいと思って行った高校でしたので、合格発表の時はうれしかったのですが、卒業して10年以上経ってみると、特に自分が親くらいの年齢になってみると、どう考えても、あの学校はいい学校ではなかった・・と思うようになりましたし、北野高校の教諭というのは、どいつもこいつも、まったく、ろくなもんじゃなかったなあ・・・と思うようになりました。
  但し、それなら、どこに行けばよかったのかというと、それはよくわからない。他の所に行っていたとしても、そこも、あんまり良くなかったかもしれません。柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で、「能力的に優秀で、人間的にも優れた教師というのは、多くの人間が考えているよりも、はるかに少ない」と書いていたが、まったくその通りだと思います。
東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之

  北野高校の1年から2年になる春休み、クラブの練習で高校に行っていた時、教員室の前の廊下に白煙があがっていたことがあって、いったい何事か? ・・と思ったところ、それは休みの期間を利用して、教員室の消毒をしていたものだったようでした。その時、2年から3年になるある女生徒が「あそこ(教員室)、けったいなん、いっぱい いてるから、よお~お、消毒しておいてもらわんとあかん」と口にしたので、面白い冗談を言うと思って笑ったのでした・・・・が、あれは冗談ではなかった。 実際、「けったいなん、いっぱい」いたと思います。「よお~お、消毒しておいてもらわんとあかん」というのは「言いえて妙」な表現でした。

【3】 次は中学校での話です。
  今もそうなのか、今はいくらか制度が変わったのかわかりませんが、私が中学校を卒業した1970年代の半ばにおいては、大阪府の府立高校は、数学・英語・国語・理科・社会科の5科目は内申書の成績と入学試験の時の筆記試験の成績を合わせて、音楽・美術・技術家庭・保健体育については内申書の成績そのままで、その両方を合わせて合否が決められていました。 私立高校の場合は、これはその私立高校によって異なったのではないかと思うのですが、私が併願で受けた金蘭千里高校は、学科試験が数学・英語・国語・理科・社会科と公立高校と同じ科目の試験があって、それと別に体力テストと面接がありました。 体力テストといってもスポーツクラスに応募したわけではなく、金蘭千里高校にはスポーツクラスなどありませんでしたから、特別に体力がある生徒でないと合格できないというものではなく、真面目に受けておれば特に問題はなかったようです。面接で何を言われたかは、もう忘れてしまいましたが、それほど特別のものでもなかったように思います。
  私は中学校3年の1学期の中間考査の時に風邪をひいたこともあって、1学期の中間考査の成績がよくなかったのです。それと、2学期の期末考査の時、何日かあったうちの1日、学校を帰ろうとすると、まわりの席の人間がトランプをやって、「一緒にやろう」と誘われたのです。片方で、もうすぐ中学校を卒業して別の学校に行くことになる同級生から誘ってもらったので、特にトランプをやりたかったわけでもないけれども、同級生がせっかく誘ってくれたことだからという気持と、期末考査の最中であり、翌日の科目の勉強をしておきたいという気持と両方の気持ちがあったのですが、つい、そのトランプの方をとってしまったのです。それで、その翌日の科目が少しよくなかった。その2つがマイナスになったかと思うのですが、内申書の成績は、保健体育が7で、技術家庭が8で、それ以外は10か9のどちらかで、私の場合は「体育以外は増位山」みたいなところがあって、音楽と美術は好きでしたので、音楽と美術は苦労せずに10の成績を取れたのですが、全体として「10」ではなく「9」になってしまったのです。もしも、1学期の中間考査の時に風邪をひいて少々悪い成績を取らなければ、もしも、2学期の期末考査の時に誘惑に負けてトランプしなければ、そうすれば、もしかすると「10」になったかもしれません・・・が、まあ、しかたがない。なんだかんだ言っても、結果としては、併願で受けた金蘭千里高校も通ったし、本名の北野高校も通ったのだから、まあ、いいか・・・と考えることにしたのでした。本人は。
  しかし、親はそうはいかなかったのです。金蘭千里高校の場合、「合格か不合格か」という発表ではなく、公立高校との併願の場合には「〇番」という発表で、その順番で合格が決まって行くというものでした。 そうはいっても、何番と番号がつけば、たいてい合格だったのですが、もしも、本名の公立高校を落ちる人が予想以上に多かったという場合には、その「〇番」というのが後の方の数字であると結果として不合格になる可能性があるというものだったのです。 1970年代後半から1980年代の慶應大学の合格発表では、「合格」と「補欠A」「補欠B」「補欠C」・・・という発表でしたが、これも、国立大学と併願の人で国立大学に合格した人が入学辞退する人がある程度あると想定して、下の方の順位なら結果として不合格になるが「補欠」なんて言っても「補欠A」「補欠B」あたりはまず合格で、「慶應は実際に行っている人間は補欠ばっかり」と言われており、「補欠A」とかなら実際に行っている学生の中では入学試験の成績はかなり上の方だったらしい。
  私が高校を受けた1970年代半ばでは、金蘭千里高校は公立との併願の難易度は「北野高校の入試より難しい」と中学校の先生は言っていたのです。 実際、北野高校には私と同じ年に、同じ中学校から男ばっかり12人受けて全員が合格したのですが、そのうち、金蘭千里高校を併願で受けたのは半分くらいで、残りの半分は公立高校との併願では金蘭千里高校よりも優しかった桃山学院高校を受けていました。北野高校に入学後、クラブの1年上の人から「併願ではどこを受けたの」ときかれて「金蘭千里高校を受けました」と言うと、「え? 金蘭千里に併願で通ったの? 優秀やなあ。俺は併願で受けたのは金蘭千里は難しいから桃山学院やった」と言われたことがありましたが、そんな感じでした。しかし、金蘭千里高校の合格発表の後、中学校に戻った時に、先生から「何番やったか、言うてみい」と言われて順位を言ったところ、金蘭千里高校を併願で受けて「不合格」だった者は1名だけで、他は合格だったのですが、合格だった者でも、比較的若い順位に何人かいて、後の方の順位に何人かいたのでしたが、私は後の方の順位の何人かの中では前の方というくらいの順位だったように記憶しています。
  中学校3年の時の担任の教諭のF谷からは「もうちょっと前の順位で通ってほしかったけれども・・、まあ、いいか」と言われたと記憶していますが、そんな感じ。その言葉の通り、「もうちょっと前の順位で通ってほしかったけれども・・」だけれども、それでも、もしも、公立の北野高校を落ちてしまった時には、その順位でも合格になる可能性が高いと思われたので、これから本命の北野高校を受けるのにあんまり細かいことをぐだぐだ言っていてもしかたがないから、「まあ、いいか」・・といったところでした。
  しかし、親はそうはいかなかった。成人した人間が相手の場合には、「合格か不合格か」の発表ではなく「何番」という発表でもいいけれども、高校受験生に「何番」という発表はできたら避けてほしいように思います。家に帰ると、「◇◇は何番やったんや?」「☆☆は何番やったんか?」と同じ中学校から金蘭千里高校を併願で受けた生徒が何番だったのか、親がきくのです。そして、「なんで、あんたは◇◇よりもできが悪いんやあ!」と言って怒られるのです。
  その時、私はふと思ったのです。中学校の3年の担任のF谷は、「公立高校は、数学・英語・国語・理科・社会科は入学試験の成績が7割・内申書の成績が3割で、音楽・美術・技術家庭・保健体育は内申書の成績が10割で、それを数学・英語・国語・理科・社会科は各科目6割、音楽・美術・技術家庭・保健体育は各科目4割にして合算してその数字で合否を決めることになっている」だったか、その具体的な数字は正確にどうだったか忘れてしまったので違うかもしれませんが、そういう説明をして、「私立高校の場合は、内申書はそれほど関係なくて参考程度です」ということだった・・・のだけれども、公立高校は府立か、中に市立の高校もあったけれども、府立高校はどこでも同じ方法で合否は決められたけれども、私立高校の場合は、それぞれが違うので、「参考程度」の高校もあれば、そうではなく、ある程度、点数化して入学試験の点数に合算していた高校もあったのではないか。金蘭千里高校の場合、併願は「合格か不合格か」ではなく「何番」という発表で、比較的若い順位に何人か固まっていて、そこからある程度離れた順位にまた何人か固まっていて、私は後の方の順位の中では前の方というくらいの順位だったので、親からえらい怒られたのでしたが、もしかすると、金蘭千里高校の併願の場合、内申書の成績をある程度、合算して合否を出していて、それで、内申書の成績に「10」をもらっていた者が若い数字の順位のところに何人か集まり、「9」だった者が後の方の順位に何人か集まっていた、ということはないか。その可能性は考えられるのではないか・・と思ったのです。実際にどうかはわかりません。合否の出し方については、詳細に公表されていませんから、中学校の先生が「私立高校は内申書の成績は参考程度です」というのも、私立高校は公立高校ほどは重視していない高校が多いようだ・・・というだけのことで、私立の場合は学校によって、それぞれ、違いますから、内申書の成績をある程度、加算して合否を決める高校があったかもしれないのです。私は、それを言ったのです。あくまでも、「もしかすると」だけれども。・・で、それはもう、「雑談」みたいな話です。なぜかというと、もう、それから1か月も経たないうちに本命の北野高校の入試を受けるのですから、併願の金蘭千里高校の順位が「できたら、もうちょっと前の順位で通ってほしかった」としても、「まあ、いいか」というくらいのもので、これから本命の所を受けるのに、併願で受けた私立高校のことに、それ以上、ぐだぐだ言っていてもしかたがない。 「株の格言」で「頭と尾っぽはくれてやれ」というものがあるそうで、これは、株価が一番低くなったところで購入して一番高くなったところで売ってということができればいいのだけれども、実際に「一番低いところ」「一番高いところ」と思って待っていると、まだ下がるだろうと思ったにに上がってしまったり、まだ上がるだろうと思ったら下がってしまったりするので、「一番低いところ」で買えなくても「比較的低いところ」で買えればいい、「一番高いところ」で売れなくても「比較的高いところ」で売れればいいと考えるようにした方がいいということを「頭と尾っぽはくれてやれ」と言うらしいのですが、大学入試にしても高校入試にしても、この「株の格言」のように「頭と尾っぽはくれてやれ」くらいに思っておいた方がいい。そうでないと、あまり細かいところにこだわると、かえって大事なものを失うことになりかねない
  だから、その時の私の気持ちとしては「もうちょっと前の順位で通りたかったけれども・・・、まあ、いいや」というところだったのです・・・が、親はそうはいかなかった。併願で受けた私立高校の合格発表の後、親と担任の教諭との「懇談」があって、うちの母親は帰ってくると、「内申書の成績に疑問がある。もっといいはずなのに不当に悪い成績を内申書につけられたから、だから、金蘭千里高校の順位を下げられたんだと文句言ってやった」と言って得意がるのでした。「文句、言うたった」「文句、言うたった」と言って得意がり、喜んで何度も何度も言うのでした・・・が、難儀なこと言ってくれるなあ、そんなこと言われたら困るなあ~あ・・・と思い、「なんで、そんなこと言うの」と言っても、「言うたった」「言うたった」と言って得意がるのでした・・・が、そういうことをすると、どうなると思いますか?
   翌朝、中学校に行くと、F谷はまっさきに私に、「ちょっと、きのうの懇談でお母さんから言われたことについて話があるから、来てくれ」と言われ、教員室の隣の個室に行くと、教室で他の生徒もいる場所にいた時とは声の調子も変えて、「ちょと来~い!」と怒鳴りつけるのです。「内申書の成績に疑問があるとは、おまえはいったい何だあ~あ!!!」と激怒して怒鳴りつけるのでした・・・が、そんなこと言われても、「内申書の成績に疑問がある」と言ったのはうちの母親であって私ではないのですから、「ちょと来~い!」と怒鳴りつけるのも、「内申書の成績に疑問があるとは、おまえはいったい何だああ~あ!」と怒鳴りつけるのも、言った人間に怒鳴りつけてもらわないと、私が言ったわけでもないことを私に怒鳴りつけられても私はどうしようもないのです・・・が。
  それにしても、「懇談」の場では、親には「はい、はい、はい。はい。」と言って聞いておいて、その為に、うちの母親は家に帰ってから、「言うたった」「言ってやった」と言って得意がり、翌朝になったら生徒に「ちょと来~い」「おまえは、いったい何だあ~あ!」と怒鳴りつけるというのは、このおっさんもなあ~あ・・・・( 一一) ( 一一) ( 一一) ・・て感じでした・・が、あの人はもともと「そういう人」でした。

  それにしても、今、考えてみると、中学校の先生とか高校の先生とかいうのは、ほんと、「けったいなん、いっぱい いてる」というのは、その通りであり、「よお~お、消毒しておいてもらわんといかん」というのも、まさに「言いえて妙」の言葉でした。

  「懇談」の場では、親には「はい、はい、はい。はい。」と聞いておきながら、翌朝になったら生徒に「ちょと来~い!」「おまえは、いったい何だあ~あ!」と怒鳴りつけるというのは、このおっさんもなあ~あ・・・( 一一) という感じでしたが、それでも、中学校の3年の時の担任だったFは、そんなに悪い人ではないと私は思っているのです。申し訳ないけれども「その程度の人」だけれども、「そんなに悪い人じゃない」とも思っているのです。どこがかというと、高校を卒業して2年後、中学校の同窓会があったのですが、その時、Fは、結果として2年も浪人してしまった私に「浪人している時とか、そういう時にこそ、俺の所に来いよ。それが担任というものじゃないか」・・・と、そう言ってくれたのです。中学校の先生に大学受験のことはわからないでしょうし、F先生は自分自身はそれほど評価の高い大学を出た人でもなさそうでしたし、高校進学についてならともかく大学進学について話してもしかたがなかったでしょうけれども、それでも、「うまくいかない時にこそ、俺の所に来いよ」と、それは多少は「ええかっこ」したかったことからの発言だったかもしれないけれども、それでも、そう言ってくれたのです。だから、中学校や高校の教諭というものは、工場でベルトコンベアーの前に座って作業するような仕事とは仕事の性質が違い、卒業した生徒に何をやるかなんてのは仕事ではない・・と考えるような性質のものではない、卒業しても来てもらっていいし、卒業しても、うまくいって出世したとかいう時に来るのではなく、うまくいかない時にこそ来てもらっていいんだと、たとえ、口だけであって、実際に行っても何かやってくれるわけでもないとしても、それでも、そう言ってくれたのです。
  それに対して、逆やる男もいるのです。1970年代後半、北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三(男。当時、40代)は遠山啓(ひらく)『競争原理を越えて―ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社)などを引用して、「序列主義というのは大変嫌な言葉ですね」とか、「教育によって人間が序列化されるというのは、それは教育の本来のあり方から考えておかしなことで」とか、「けっこうなこと」を言っている男でした。
  遠山 啓(ひらく)の著者は私は『数学の学び方・教え方』(岩波新書)とこの『競争原理を越えて』(太郎次郎社)と『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)の3冊を読みました。最初、『Z会旬報』の「各科目学習法」の「数学」のところに、「数学そのもの」についての本について、そういった本を読んでいる生徒の方が数学の成績もいい場合が多いから読んでおいた方がいいと書かれていて、読むといいのではないかという本として何冊かあげられていた中に、遠山啓『数学対話』(岩波新書)があげられていたのですが、今のようにアマゾンに注文すると翌日に届くなんてシステムはない時代ですから、高校1年の時、梅田の阪急百貨店書籍部に行って見ると、『数学対話』は置かれていなくて、『数学の学び方・教え方』があったので、同じ著者の本ならいいかと思って購入して読んだのです。他に文庫本・新書本で、吉田洋一『零の発見』(岩波新書)・矢野健太郎『数学物語』(角川文庫)・『新しい数学』(岩波新書)など読みました・・・・が、『Z会旬報』が読めと言うのなら読まなきゃならんのだろうなあ・・と思って、1年の冬休みに、高校の数学の勉強をそっちのけにして、そんな本ばっかり読んで、休みも終わり近くになってから、そろそろ、冬休みの課題とされている数学の問題集をやろうと取り組みだしたところ、あ、あ、あ、あああ・・・あ~あ・・と思っているうちに「宿題テスト」の日が来てしまって、散々な成績だった・・ということがありました。だから、 『Z会旬報』の「各科目学習法」「数学」の筆者は、「数学そのもの」の本を読んでも「高校の数学」「大学入試の数学」の得点アップに直接つながるわけではないけれども、だから、読んでもしかたがないということではなく、やっぱり、そういった本を読んでいるような生徒の方が数学の成績はいい場合が多いと思われるので、そういったものは読まない方がいいということではなく、読むようにした方がいいと思う・・ということを言っていたのだと思いますが、しかし、「高校の数学」「大学受験の数学」ではなく、こういった「数学そのもの」の本というのを読むのは、「高校の数学」「大学受験の数学」を優先してやって余裕があった時に読むというようにした方がいい・・なんて言っているといつまで経っても「余裕がある時」なんてないのですが、高校1年の時の私みたいに、高校の数学の課題をそっちのけにして、そういった本を読むというのはやめておいた方がいいと思います。
  遠山啓『数学の学び方・教え方』(岩波新書)が言っていることはもっともなものがあります。小学校の低学年の時、「みかんが10個ありました。みかん10個から、りんご6個をひくと、みかんはいくつ残るでしょうか」なんて問題があったように思うのです。それを読んで小学生だった時の私は「みかん から りんご は引けませ~ん」と言った記憶があるのですが、小学校の先生からだったか親からだったか、「屁理屈こねないの」と言われて、それで、そういう考え方は「屁理屈」なのかと思い、その問題はそれで終わりになったのですが、遠山啓は、足し算・引き算というのは同じ性質のものであってこそできるもので、性質が異なるものを足したり引いたりはできないのであり、そういった思考こそ数学的思考なんだ、と言うのです。「男の子が10人いました。女の子が7人いました。男の子から女の子を引いたら何人でしょうか」なんて問題が出題されるけれども、「男の子から女の子は引けませ~ん」ということになる、というのですが、これはそういうことを言う子供が性格がねじ曲がっているとかではなく、もっともなことを言っているのだ、と。それなら、「男の子が10人いました。女の子が7人いました。男の子から女の子を引いたら何人でしょうか」なんて問題はできないのかというと、そうではなく、男の子と女の子にペアを組んでもらうようにすると、ペアを組むことができなかった男の子は何人でしょうか・・・という問題にすると、この問題はできるのだ・・と。こういうことを「数学者」が言うと、さすが♪ とか、もっともだ♪ とか言ってもらえることが少なくないと思うのですが、小学生が言うと、小学校の先生は「うるさいやっちゃなあ」とか言って嫌がる人の方が多いのではないかと思うのですが、遠山啓がここで言っていることはもっともなことで、「男の子から女の子は引けません」といったことに気づく生徒と気づかない生徒なら、気づかずに平気で男の子10人から女の子7人を引く引き算をやる生徒の方が優秀のように言われてしまうけれども、それは違うのではないか、というのはたしかにそうだと思います。
   しかし、『数学の学び方・教え方』(岩波新書)はもっともだと思うものが多いのですが、『競争原理を越えて』(太郎次郎社)の方については、もっともだと思うものと、これは違うのではないかと思うものと両方あります。インターネットで検索すると、遠山啓は日教組の研修の委員だかをやっていたようで、日教組からこういう内容の本を出すのに名前を貸してくれと頼まれて貸して作成された本ではないのか?・・と思える節があります。「知能指数」というものは、こんなものは決して有益なものではなく、そもそも、ニュートンとベートーベンはどちらが優秀か? ・・なんてことを言っても、やっている分野が違うのだから、どちらが優秀かなんて言えるものではないはずなのに、それが、知能テスト・知能指数というものを使うと、どちらが優秀かという判定ができることになってしまう。こんなおかしな話はない。たとえ、知能テスト・知能指数によってある程度の能力を判断することができたとしても、たとえば、山下きよし なんて人は精神薄弱の人だったと言われているけれども、しかし、山下きよし は すばらしい絵を描いた人であり、知能指数が高い人間が優秀な人間で知能指数が低い人間は劣った人間だというような思考はおかしい・・というのは、私もそう思います。慶應大学の「心理学」の講義の際に教授から聞いた話では、もともと、「知能指数」というのはフランスで差別政策の一環として作られたものらしいですしね。
   又、本当に優秀な人というのは、人との比較で物事を考える人ではなく、他の人と比べてどうかなんてことはどうでもいいとして、あくまでも自分がやりたいことをひたすら、追い求める人ではないのか・・というのも、それも間違っていないと思います。北野高校卒の漫画家の手塚治虫は自分で自分を「負けず嫌い」と言っていて、他の漫画家がある分野で成功すると、自分にだってそういうものを書けるんだとして、「負けるもんかあ」という気持でそういったタイプの漫画を描いたりしたようで、自分では「負けず嫌い」と言っていましたが、人によっては「嫉妬深い」とそれを評価する人もいたようですが、漫画家でも水木しげる などは手塚治虫とは違って、子供の頃から妖怪の話が好きで、ひたすら、妖怪の話を漫画に描きまくってきたし、社会風刺の漫画も書いてきており、それは他の人間が簡単に真似できるものではないと思います。手塚治虫は「負けず嫌い」だったのか「嫉妬深い」人間だったのか、どちらであったとしても、他の人間が何か成功し評価されると「俺だってできるんだ」という気持になるというのは、これは絶対に悪いということでもないけれども、他方で、ひとが自分をどう評価しようがそんなものは関係ないとして自分がやろうと思うものに突き進むという人こそ成果を出せるという場合はあるでしょう。東大卒の人の中には、まったく優秀でないわけではないけれども、な~んか、ともかく「一番」ばっかり追い続けて、結局、この人、何をやりたかったの?・・みたいな人って、時々いますでしょ。東大卒の人に限らず、そういう人はいますし、慶應大の学生には、そういった東大批判をどこやらから仕入れてきてそれを真似て口にするけれども、おまえの方がよっぽどその傾向あるだろうが・・みたいな人もいるのですが、「一番」ばっかり追い続けて、結局、何をやりたかったのかわからない人生というのは、つまらない人生ではないか・・というのはもっともなことです。他にも、この『競争原理を越えて』で述べられているもので、もっともだと思うものはあります。
  しかし、違うと思うものもあるのです。 比較的単純なものとしては、私立6年制受験校で東大などに合格者を多く出す学校がでてきたのはなぜか・・というと、それは、中学校でやる内容と高校でやる内容では、高校でやる内容の方が多くて、公立の中学校・高校では中学校でやる量と高校でやる量では、高校での方が多くの量をやっているが、それを均質化してやることで成果が出るようにしているんだ・・なんてことが書かれていたのですが、違うと思いますよ。 この話は、中学校の時の1年・2年の時の担任の教諭のH川先生も話されたことがあり、どうも、日教組の研修会でそのようなことを言っていたらしいのですが、それは事実に基づかない創作の話だと思います。 そもそも、中学校というのは、そんなにスカスカの内容しかやっていないのか・・というと、そうではないと思います。又、英語などは、難しい内容を早くからやった方がいいのか、それとも最初は基礎的なものを徹底的にやった方がいいのか、これはどちらとも言えないところがあるように思います。だから、中学校でやる量と高校でやる量では高校でやる量の方が多いので、私立6年制受験校ではそれを6年間で均質化して教えることにしていることで大学入試において合格者を多く出しているなどというお話は創作であり嘘です。 私はネトウヨではないので、教育労働者の労働組合の日教組を必死で攻撃しようなどというつもりは毛頭ありませんが、このあたりは違うと思います。 私立6年制受験校でも、麻布高校は中学校からのみの入学で高校からは行けなかったと思いますが、灘高校とか開成高校のように高校からも採る学校もあり、そういう高校では高校から入った人は中学校から入った人と比べて成績は悪いということは決してないのですから、中学校でやる量が高校でやる量より少ないのを均質化しているから大学入試で多くの合格者を出せるという説は創作で事実に反するでしょう。むしろ、中学校でやっているものでも、高校入試には必要だけれども大学入試には必要ないというものがあり、私立6年制受験校では、そういうものを徹底して省略しているということがあるようです。又、音楽・美術といった科目も開成高校などの出身者というのは大学入試にはないということでほとんどやっておらず、彼らは決して公立進学校出身者のようなものは身に着けておらず、むしろ、底辺の高校の出身者並みのものです。だから、ああいう私立6年制受験校というのは、たとえ、東大に合格できたとしても、はたして、あれがいいのだろうか・・とか思ったりすることもあります。『競争原理を越えて』を読んで、なんか変だな・・と思った部分というのは、日教組が創作したお話が混じり込んでいるからか?・・・どうか断定まではできませんが、その可能性はありそうに思っています。
  又、『競争原理を越えて』(太郎次郎社)は、「一流大学」を卒業した人は、実際はたいしたことない人でも高く評価されて出世できる、「一流大学」に行けなかった人は実際には優秀な人なのに低い評価をされて出世できない・・・とかいうようなことを述べて、「一流大学」に行った人間というのを目の仇みたいにしているのですが、これはおかしい。これは、《「三流企業の高卒もしくは五流大学卒のおっさん」の発想》です。「三流企業の高卒のおっさん」はそういうことを言いたがるのです。 しかし、この主張は2つの点で大きく間違っています。
(1) なんだか、「一流大学」を卒業したならば、それだけで誰でも卒業後は何の努力もしなくても出世させてもらえる、会社では何の努力もしなくても昇進させてもらえる・・みたいに遠山啓は書いていますが、そうですか? 違うでしょう。 「一流大学」を卒業したからというだけで、何の努力もしなくても、誰でも間違いなく昇進させてもらっていい思いをさせてもらえるなんて、「よく言うわ♪」「バカ言ってんじゃないわ♪」・・・と思いますね。むしろ、私が勤めたような三流以下企業では、「しょーもない高卒のおっさん」が、くっちゃらくっちゃら勝手な理屈をこねくりまわして自分だけ得するようなことしていたりします。
(2) 『競争原理を越えて』では、大学の経済学部・商学部・経営学部といった所でやっているものというのは有害無益なもので、法学部も司法試験を受けて裁判官・検事・弁護士といった職業につく場合以外は、何の役にも立たないものをやっていて高卒や五流大学卒の人間と「差別」するためだけの存在で、それに対して遠山啓が卒業したような理学部数学科とかは価値があることをやっているかのように述べられていますが、そうか? 違うと思いますよ。大学の経済学部・商学部・経営学部といった学部でやっていることは、そんなに何の価値もないことではないと思いますよ。 森川英正『日本経営史』(日経文庫)では、日本の商店では、江戸時代からオーナーではない者にかなりの権限を持たせて運営させる「番頭政治」のような伝統があったけれども、明治になって、その「番頭政治」とは別に「学識者」の採用というものがおこなわれたが、明治以降、「学識者」の採用は最初は理工系の分野でおこなわれて、その後、社会科学系の分野で「学識者」の採用がおこなわれたが、日本の企業で大きく伸びた会社とそうではない会社では、「学識者」の採用をおこなったかそうでなかったかという違いがある。そして、「学識者」が自分たちだけ得するような行動をとってきたかというとそうではなく、むしろ、労働運動が発生した時でも、「学識者」は企業のオーナーから雇われた立場であっても、「同情的」態度であったり、決して、ともかく押さえつけようという態度ではなく、労働者の主張も聞いた上で企業を運営していこうという姿勢があった場合が多い、という。これは実際に会社という所に勤めてみるとわかりますが、旧帝大系国立大学か早慶くらいの大学の社会科学系学部卒の者と「高卒のおっさん」とでは大きな違いがあります。学歴として高卒の人でも独学で努力して学んだという人も中にはいるかもしれないでしょうし、高卒の人でも優秀で良心的な人もいるかもしれないけれども、たとえば、社会科学系の学部卒で、大学で労働法など学んできた者が、労働基準法というのは日本国の法律なのだから、できる限り法律を守った会社経営をやろうと努力して、片方で「高卒のおっさん」が労働基準法なんて守ってたまるかという態度を取ったとして、「高卒のおっさん」の方が「労働者のため」に役立っていますか? そうではないでしょう。そのあたりが、この『競争原理を越えて』の主張は無茶苦茶です。
日本経営史 (日経文庫 519 経営学入門シリーズ) - 森川 英正
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(3) 東大の試験は、多くの科目が出題され、多くの科目について平均的にできる人間が有利になっているが、ある科目だけ好きでそれだけはできるという者は合格できないようになっているが、多くの科目を平均的にできる人間は官吏・役人にはいいが研究者には向いていない、役人に向いているような人間を高評価するのが今の大学入試の制度なんだ・・というようなことが書かれているのですが、それも違うでしょう。
  まず、私自身の大学受験の経験から言うと、多くの科目を平均的にできる人間が有利なのは、東大よりも京大・阪大・神戸大の方がその傾向があったと思います。『競争原理を越えて』が書かれた年あたり、共通一次試験がまだ実施される前、東大は一次試験で数学・英語・国語・理科・社会科が出題されて、二次試験では文科では理科がない、理科では社会科がなく、二次試験では文科では英語・国語・社会科の配点が120点だったのに対して数学が80点、理科では数学・英語・理科の配点が120点だったのに対して国語が80点の配点で、文科の場合の理科・理科の場合の社会科は「致命傷を防ぐ」という程度でよくて、二次試験でも配点が多い科目に重心を置いた方が通りやすい試験だったのに対して、京大・阪大は法学部・経済学部・文学部・教育学部でも数学・理科ができると通りやすい、工学部・理学部・農学部・薬学部などでも国語・社会科ができるとプラスになるという試験内容だったはずです。何よりも、もしも、国立大学は試験科目が多くて、試験科目が少ない方が受けやすいという人がいるのなら、そういう人は早稲田大でも受ければよかったはずなのです。早稲田大は法学部・政治経済学部・商学部・文学部は英語・国語と社会科1科目の3科目で受けることができたし、理工学部は数学・英語と理科が物理と化学の2科目で受けることができたのです。慶應大はその頃は経済学部と文学部は数学と英語の2科目で商学部は数学と英語と社会科が日本史か世界史のどちらか1科目の3科目でしたが、そのように大学によって試験科目は異なり、試験科目が少ない大学もありましたから、『競争原理を越えて』で書かれていたように、全科目を平均的にできるのではなく特定の科目はできるが別の特定の科目はできないという生徒であるから試験科目の多い国立大学は不利だというのなら、少ない試験科目で受けることができる早稲田大を目指せばよかったのではないのか・・と思った。そういった試験の制度を自分で調べもせずに、何を言ってるんだ・・てものです。早稲田大とかは私立だから国立大学よりも学費が高いでしょうが・・とか言い出す人もいるかもしれませんが、もしも、本当に貧乏な家庭の息子・娘なら、日本育英会奨学金を受給して行けばいいのです。日本育英会奨学金を受給できたなら、出してもらえる金額は「学費分」でしたから、国立も私立も行く人間にとっては一緒です。(今は、どうも、その頃とは奨学金の制度が変わったみたいですけれどもね。)早稲田大と慶應大では昔から慶應大の方が学費は安かったのだけれども、日本育英会奨学金を受給して行く場合には「学費分」を出してもらえるのですから、どちらでも行くに人間には変わりません。ですから、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)には、これはもっともだというものもあるけれども、なんか、おかしなことを言っておるなあ・・というものもあったのです。
  北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三は、そういうことを言って、どうも、目の前にいる「進学校の生徒」というものに敵意を持っていたようでした・・が、そんなに「進学校の生徒」というものが嫌いなら、進学校の教諭にならずに、府立高校でも、ほとんどの生徒が進学せずに就職するような高校の教諭になればよかったのではないのか・・、むしろ、大谷にはその方が向いていたのではないのか・・と思います。
(4) 又、『競争原理を越えて』では、実際にその専門とする学問分野をやるにおいて必要でもない科目が入学試験にあって相当難しい問題がでて、それに高得点を取ったものが合格というのはおかしいとかいったことが書かれているのですが、これについても、森 毅(もり つよし) は『元気がでる教育の話』(中公新書)で、文学部なのに数学ができてもしかたがないとか言う人がいるけれども、もともと、文学部なんてのは少々変わった人間の方が向いている学部だから、文学部なのに数学が相当できるなんていうけったいなやつは、むしろ、大いに合格にして入学させるべきだという考え方だってある・と述べている。だから、文学部を目指していて数学ができるという人は京大などに行けばいいし、文学部を目指していて数学はからきしできないが他の科目はできる、英語・国語と社会科1科目の3科目ならできるという人は早稲田大の文学部でも受けて行けばいいと思うのです。大学によって入試科目も出題傾向も異なるのですから、ある大学の試験科目と配点と出題傾向ならだめだが、別の大学の科目と配点と出題傾向ならけっこういい点数を取れるという場合はありますから、自分が有利な大学を受けて行くようにすればいいのに、それを、事実がどうかを無視して、多くの科目を平均的にできる生徒が有利にできているのはおかしいとか、ぐっちゃらぐっちゃらぐっちゃらぐっちゃら言いまくるあたりについては『競争原理を越えて』はその部分については評価できない。
元気が出る教育の話―学校・世の中・自分 (1982年) (中公新書) - 斎藤 次郎, 森 毅
元気が出る教育の話―学校・世の中・自分 (1982年) (中公新書) - 斎藤 次郎, 森 毅
   大谷の担当科目は「日本史」でしたが、授業においても、「『元寇』が失敗した原因は何か。何だと思いますか。戦前は、『朝廷を始めとして、日本の多くの寺社では敵国調伏の祈願をおこない、その結果として神風が吹いた」といったことが言われたのですが、戦後はそうではなくなったのです。(1)西日本を中心とした御家人が北九州に防備に向かい元軍と戦ったこと、(2)元が支配していた地域において元に対する抵抗運動がおこったことから元が日本侵攻にのみ力を向けることができなくなったこと、(3)台風シーズンに入り、台風によって博多湾沖で元の船が二度にわたって沈没したこと、この3つというのが戦後での理由とされてきたのですが、『下痢』というのはどうでしょうか」といったことを話していました。「下痢」て何かというと、二度目の時だったか、日本に進攻しようとして、高麗の港を出ようとしていた時に、元軍の司令官のような立場の男が病気になってしまい、そのかわりの人間を誰にしようかといったことを言っているうちに日数が経って、その為に、もともとの予定で出港していたならば台風シーズンに入らなかったのに台風シーズンに博多湾に行くことになってしまい、台風で元軍の船が流される事態になったということがあったらしく、その司令官のような立場の男がかかった病気ていったい何だったんだ・・というと、「下痢」だったそうなのです。「だから、なが~い論述の問題で、ただひとこと、『下痢』と書く」と半分冗談みたいに言うのでしたが、これは面白いと言えば面白い話ですし、又、「もしも、ズバリ一言、『下痢』とのみ入学試験で書いたとしたら、どういう採点になるでしょうね」・・と大谷は言うのでしたが、そういう視点もあっていいとは思います。いいと思いますけれども・・ね。 1970年代後半の頃、その「なが~い論述の問題」というのが出題されたのは、東大の二次試験だけでした。京大の「世界史」「日本史」は「記述式」でしたが、「論述式」の問題というと、「・・について、50字以内で述べよ」なんて問題は毎年1問か2問くらい出ていましたが、「50字以内」というのと、東大の二次試験で出た「・・について、800字以内で述べよ」は同じではないのです。「50字以内」なら特に練習しなくても書けるのに対して、「800字以内で」というのは、その字数で書く練習をしないとなかなか書けない。もしも、そういう問題で、ズバリ一言、「下痢」と書いたとして、その答えは「まるまる間違い」ということではないとしても、はたして、正解だとして高得点をもらえるものなのか? 一般論として、「ズバリ一言、「下痢」という答えをどう考えるべきか・・ということも考えてみて悪いということはないけれども、そこを考えるよりも、これから入学試験を受けるという生徒にとっては、
(1) 「800字以内で述べよ」というような問題で、もしも、800字近くの字数を費やさなくても、700字くらいで十分、その問いに対する答えにあたる内容を述べることができたとしたならば、それなら、697文字とか698文字とかで書いたものを提出していいのか、それとも、無理にでも文章を長引かせて795文字とか797文字とかにした方がいいのか。
(2) 「800字以内で」というからには「800字以内」であれば500字でも600字でもいいのか、やっぱり、「790字以上800字以内」というくらいで書くようにした方がいいのか。
(3) 「800字以内」という場合に、「800字きっちり」というのはいいのか悪いのか。
・・・といったことの方が、これから入試を受けようという者にとっては切実な問題で、「ズバリ一言、『下痢』とのみ書く」のがどうかというのは、それは、これから大学入試を受けようという者にとっては、いわば「不要不急の」問題です。
(4) そして、東大の二次試験において、私がずいぶんと頭を悩ませたのは、年号を文章の中で書く場合、たとえば、1689年「権利の色吐く(1689)、権利章典」、権利章典が定められた年は1689年ですが、この「1689年」というのは何文字なのか? どう思いますか? 「年」は漢字だから1文字かな・・として、「1689」は何文字なのか? 東大の二次試験の「世界史」「日本史」というのは、原稿用紙みたいな升目が印刷されていたのですが、「1689」は何マス使って書くべきなのか?
  「1689」で一体のものなのでこれで1マスにして一生懸命頑張って1マスに入るように書くべきなのか? 数字ごとに「1」で1マス・「6」で1マス・「8」で1マス・「9」で1マス、「1689」だと4マス使って書くべきなのか? ・・教学社から過去問集が発行されていたのですが、『過去問 東大文科』の「解答」を見ると、「16」で1マス、「89」で1マス、「年」で1マス使って書かれているのです。教学社からは『東大の世界史』『東大の日本史』という『東大文科』よりも過去の年数が多くて解説が詳しい本も出ていましたが、そちらでも、「16」で1マス、「89」で1マス、「年」で1マス使って書かれていたのです。しかし、それでは「1マスに1文字」ということにならないのではないか。
  さらに、河合塾から『東大オープン 日本史過去問集』『東大オープン 世界史過去問集』という、河合塾が過去に実施した「東大オープン」という模擬試験における「日本史」「世界史」の過去問と解答が書かれた本が発行されたのですが、その「解答」を見ても、1689年は「16」で1マス、「89」で1マス、「年」で1マスを使って書かれているのです。 ・・それで、私は、東京の河合塾駒場校まで行って、「私はここの予備校の生徒ではありませんが、河合塾から発行されているこの本の解答について教えていただけないでしょうか」とお願いして、「東大の二次試験の日本史や世界史で、年号は何文字と考えて書くべきでしょうか。この『東大オープン過去問集』の解答を見ると、数字2つで1マスとして書かれているようですが、それでいいのでしょうか」と尋ねてみたのです。〔今、インターネットで検索すると、河合塾は東京都に校舎はあるけれども、河合塾駒場校はなくなってしまったようですね。〕 そうすると、河合塾の人はYMCA予備校の人間なんかとは全然違って、自分の所の生徒でない者にでも親切に教えてくれたのです。「それは、数字1つを1マスに書くものです。ですから、1689年ならば、1689で4マス、『年』で1マス、合計5マスに書くことになります」と。私が「しかし、この本の解答を見ると、数字2つで1マスで書かれているのですが、数字1つで1マスという書き方でいいのでしょうか」と言ったところ、「これは印刷の都合でこうなっているだけで、実際に試験で書く時には、数字2つで1マスではなく数字1つで1マスにして書くものです」と教えてもらったのです。予備校にもいろいろあるみたいで、YMCA予備校の人間は自分の所の正規の生徒にも不親切で身勝手でしたが、河合塾・駿台・代ゼミの人は自分の所の模擬試験を受けたことがある・自分の所が発行している本を買ったことがあるという程度の人間にも親切に教えてくれました。「予備校はどこに行ったかは関係ないの」とYMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」の「古文」の講師の山之内というおっさんが言いましたが違います。予備校によって違いがあります。
  今では、たいていの人間がパソコンを使い、「半角」「全角」というものがあるということを知っていますが、その頃はパソコンなんて使う人間はほとんどなかったし、パソコンというもの自体を知らなかったし、「半角」「全角」なんて概念を知らなかった。その頃、原稿を印刷屋に渡すと、年号のような数字は自動的に「半角」で印刷されたらしい。それで、教学社から発行されていた『東大 文科』『東大の日本史』『東大の世界史』でも、河合塾から発行された『東大オープン 日本史過去問集』『東大オープン 世界史過去問集』でも、年号は「年」は全角で印刷されたが、数字の部分、「1689年」なら「1689」の部分は「半角」で印刷されることになったらしい。だから、印刷されて活字になったものでは、1マスに数字2つを入れるかのように印刷されたけれども、東大の二次試験の問題での指定は「1マスに1文字」だから、数字もまた、「1689年」は「1」で1マス、「6」で1マス、「8」で1マス、「9」で1マス、「年」で1マスを使って記入するべきだった・・ということのようでした。
  この問題は、別に1つの独立した稿で述べた方がいいことかと思うので、(4)については、どうすべきかの答えを述べましたが、(1)~(3)については、それについての答えを私は持っていますが、ここでの話と内容が離れますから別稿で述べることにします。
  「なが~い論述の問題で、単に一言、『下痢』と答える・・という、こういう答えをどう思いますか。間違いではないのですが」という、そういったことも考えてみる思考はあって悪いということはないと思いますよ。 『あしたのジョー』で、矢吹丈がプロボクサーのプロ資格試験を受けにいった時の話が出ていて、マンモス=西が「おい、ジョー。おまえ、あの『ボクシングの代表的な防御を3つあげろ』という問題、あれ、何と書いた?」と尋ねると、矢吹丈が「おう。その問題は自信あるぞ」と言い、西が「何と書いたんや?」と言うと、「ズバリ、『攻撃』だ。『攻撃こそ、最大の防御なり~い』」と矢吹丈は答えたのでしたが、西は「アホウ、何て答え、書いとるんや。そうやないやろ、『ボクシングの代表的な防禦』というのは、ブロッキング・ダッキング・スウェイバック・クリンチワークといったそういうものを書くんやがな」と言い、矢吹は「くっそお~お。ひっかけるような問題だしやがってええ~え」と言うのでしたが、「攻撃こそ、最大の防御なりい~い」というのはまるまる「間違い」ということではないのです。又、「おい、丈。おまえ、『ボクシングの反則を3つ書け』という問題には何と書いた?」と西に言われて、「それには自信あるぞ。噛みつく、蹴っ飛ばす、ぶん投げるだ」と矢吹が言うと、西が「アホウ。なんちゅうこと書いとるんや。噛みつくに蹴っ飛ばすにぶん投げるなんて、そんなことやったら反則どころかボクシング界追放もんやがな。ええか、ボクシングの反則ちゅうのは、バッティング(頭突き)・ローブロー(腰より下を打つ)・サミング(グローブの親指の部分で眼を突く)といったそういうものを書くんや」だったか言うのでした・・が、「噛みつく・蹴っ飛ばす・ぶん投げる」がボクシングの反則だというのは、これも「間違い」ということではないし、現実にタイソンはホリフィールドの耳に噛みついたし、亀田(中)は内藤をぶん投げた。いずれも世界タイトルマッチでだった。だから、「間違い」ではないのだけれども、しかし、そう書かれた時、採点者はどう考えたものだろうか・・・・ということになる。こういうことも、考えてみて悪いということはないでしょう。しかし、これから大学入試を受けるという者にとっては、「元寇が失敗した原因を700字以内で述べよ」とかいう問題が出たとして、ズバリ一言、「下痢」なんて書く人はないはずで(あるとすれば、他の問題に時間がかかって、その問題の答えを書く時間がなくなってしまったという時に、なかばヤケクソで、ズバリ一言『下痢』ではだめとしても『元軍の司令官の病気』なら書いておくと、運が良ければ何点かもらえるかもしれないと考えて書く人はあるかもしれません)、そういうことよりも、↑の述べた(1)~(4)の方が大事なのです。大谷は進学校の高校で3年の「日本史」を担当しておきながら、「ズバリ一言、『下痢』」とかそういうことは言っても、↑の(1)~(4)の話なんて一言もしないのです。・・結論として、そういう男だったのです。
   それで、大谷は私が3年の時、何かにつけて、「序列主義というのは嫌な言葉ですね」「学問というものは、人間を序列づけたり差別したりするためにあるものではないはずです」といったことをしばしば言う人間だったのです。そのあたりをきくと、なんだか、「受験指導一本ではなく、良心的で誠実な教諭」みたいな感じがしませんか?
   ところが・・・。私が浪人中、6月だったと思うのですが、高校3年の時の担任だった大谷に相談に乗ってもらえないかと思って北野高校の大谷など社会科の先生の教員室を訪ねたことがあったのですが、大谷は私の顔を見て、「おう、来たのか」と言い、「ちょっと、待ってくれな」と言うので、その場所で、「ちょっと」というより、かなり待ったのです。かなり待った後、こちらの話を聞いてくれるのかと思うとそうではなく、「出ようか」と言って席を立って部屋を出るのでついていくと、「出ようか」と言って教員室から外に出るということは、どこか、喫茶店にでも入って話を聞こうかということかと思ったらそうではなく、さっさあ~っと速足で十三駅の方に歩いていくのです。私はその後をついて行きましたが、普通、誰かと一緒に歩くのなら、相手の歩調も考えて歩くものですが、大谷はこちらを無視してずいぶんと速い歩調で駅に向かいます。いったい、どこまで行くんだと思ってついていくと、とうとう、十三(じゅうそう)駅の西口に着き、そして、大谷はそこで私の方を向いて「じゃあな」と一言だけ言って改札口から中に入ってしまったのです。なにが「じゃあな」なんだ? 私も定期券は持っていましたから切符を新たに買わなくても、大谷の後を追って改札口から中に入ることもやろうと思えばできたのですが、大谷のその時の態度にびっくりして、そこに立ちすくんでしまったのです。

( ↑ 大阪市淀川区。 北野高校 と 阪急「十三(じゅうそう)」駅。 )
  大谷に特別に嫌われるようなことはしていないと思っていたのですが、むしろ、大谷の主張する「学問というものは」とかいう論には賛成してきたところが多かったと思ったのですが、人間は自分では嫌われることはしていないと思っても嫌われることはあります。私が大谷から嫌われたのだろうか・・と思うと、高校3年の同じクラスにいた人間で、同じ予備校、YMCA予備校高槻校に行っていた男で、「大谷、なんか、最近、冷たいねん。あいつ、いったい、どうしたんやろう」と言う男がいたので、私にだけではないということがわかりました・・・が、あれはいったい何なんだ?
  今、思い出すと、高校卒業してすぐ、高校卒業時に大学入試に落ちてすぐの時に、大谷が「一度、来いよ」と言うので行った時も、大谷は、どうも、「通った人間=ええもん」「落ちた人間=わるもん」みたいな言い方があって、それが気になったということがありました。大学入試は通った方がいいのか落ちた方がいいのかというと、通った方がいいのです。しかし、通った人間といえども、何から何まで成功したわけでもなく、落ちた人間といえども何から何まで失敗したというわけでもなく、成功したものがあり失敗した部分もあるけれどども結果として合格最低点より高い点数を取ることができた人間というのが「通った人間」で、成功した部分もあり失敗した部分もあって結果として合格最低点を上回る点数を取ることができなかった人間というのが「落ちた人間」です。通った人間といえども、何から何まで成功していたわけではないし、落ちた人間といえども、何から何まで失敗だったわけでもない。ましてや、「通った人間=ええもん。落ちた人間=わるもん」ということではないはずです。通った方がいいか落ちた方がいいかというと、試験というものは通るために受けるのであって落ちるために受けるのではないので、通った方がいいのは間違いないけれども、しかし、落ちた人間といえども、別に人を殺したわけでもないのです。
  「じゃあな」と言って、ひとり、阪急の改札口から駅の中に入っていった時の大谷の姿は今も忘れませんし、あの時の心を締めつけられるような意識は今も忘れません。遠藤周作が『わが青春に悔いあり』(角川文庫)で、「浪人の経験」というのは2浪以上のことを言うのであって、1年の浪人をして大学に入ったようなテアイが「浪人の経験もいいものさ」とか「浪人の苦労というものをした」とかのたまうのを聞くと、「チャンチャラおかしい」と思うと書いていたが、私もそう思う。特に、北野高校から1浪で京大なり阪大なりに行った者は、同じ学年で現役でその大学に行った人間がいて、自分自身もどこでもいいわけはないとしても、どうしても現役で行きたければどこか通る所はあったが浪人したのであって、1年の浪人とはいえ、野村のじいさんが言う『「失敗」と書いて「成長」と読む』という「失敗」の経験を少しはしたわけだが、「1浪で慶應の経済」とか「『1浪で慶應の経済』を目指したが落ちたので、同じ試験科目の『1浪で慶應の文学部』」というようなテアイは、最初から「1浪で慶應の経済」を目指していたのであって現役で大学に通ることなんて予定していなかった人間だから、そういう人の「1浪」は遠藤周作が言う「浪人の経験というのは2浪から」に該当しないだけではなく、野村克也が言う『「失敗」と書いて「成長」と読む』の「失敗の経験」にも該当しないのですが、「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」は無視するとして、北野高校から京大や阪大に1浪で行った人というのは、遠藤周作が言う「浪人の経験というのは2浪から」には該当しないけれども、それでも、そこで経験するものはないわけではないのです。それでも、現役ですんなり通った方がいいか浪人した方がいいかというと、現役ですんなり通った方がいいに決まっていますが、浪人した人間ならばわかることが現役ですんなり通った人はわからないというものも中にはあります。私にしても、もしも、現役でどこかにすんなりと進学していたならば、大谷から、「ちょっと、待っててくれ」と言われて「ちょっと」ではなくかなり待たされたあげく、十三(じゅうそう)駅まですたすた歩いていかれて、改札口の前で「じゃあな」と言われて駅の中に入っていかれた経験なんて、することはなかったでしょう。私と同じ経験をしていなくても、「なんか、最近、大谷、冷たいねん」と言った男は、大谷郁三のそれに類する態度を見たのでしょう。それに対して、現役で大学に進学した人間はたいていの人間がそういうものを知らないのです。
   結局、2年も浪人してしまい、それでも落ちてしまって、行きたくもない慶應大の商学部に、どうでもいいような気持で受けたら通って行かされることになってしまったのですが、高校を卒業して2年経った時の3月の終わりだったか4月の頭だったか、高校2年の時の同窓会がおこなわれて、その時、隣の席にたまたま座っていた女子生徒で、高校2年の時だけでなく3年の時も同じクラスだった人が、私に「大谷先生、元気にしてられましたか」と言うので、「え? あんな人のことを気にしてるの?」と思ってのでした。彼女は浪人なんかしないで高校卒業すると同時に大学に進学したので、大谷が私などが浪人中に何をやったかということを知らないのでした。だから、「序列主義というのは、言葉からして嫌な言葉ですね」とか「学問というのは人を差別するものであってはならないもので」とか大谷が言いまくる「けっこうなお話」の方を聞いて知っていて、あの男が、私などが浪人中にどういう態度をとったかといったことはまったく知らなかったので、それで、現役で大学に行った人間は高校3年の時の担任の教諭と会うことはあんまりないけれども、浪人した者は、高校の模擬試験を受けにいったり、「調査書」(内申書)を書いてもらいに行ったり、そういったことで高校に行くことがあって、高校3年の担任の教諭と会うこともあるので、「大谷先生、元気にしてられましたか」などと私に言ったのでした・・・が、この人は知らんのだな、大谷が浪人中の人間にどういう態度を取っているのかということを、とわかりました。
  2000年代だったと思うのですが、北野高校の卒業生向けの年報だったかインターネット上の記事だったかに、「大谷先生が退職されますので、送別会を開催しましょう」という呼びかけをしている人がありました・・・が、「はあ~あ?」と思いました。あの男はこう言ったのですよ、「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」と。 私は最初にその言葉を聞いた時には、それは、「高校の目的は、人間としてあるべき姿のものになれるように学んでいくのを助けることや、その学問に興味を持ち学んでいこうという気持になってもらうことに協力することが高校の教師の主たる仕事であって、大学進学の指導が第一の仕事と考えるべきではない」という意味で言っているのだろうと誤解していたのです。しかし、そうではなかった。大谷は「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」言ったように、浪人中の人間が相談に乗ってもらいたいと思って訪ねて行くと、「おう、来たか。ちょっと待ってくれ」と言って「ちょっと」ではなくかなり待たせたあげく、「出ようか」と言って教員室を出て、さらに学校から外に出て、それからすたすたと十三駅まで速足で歩いていって、「じゃあな」と言って改札口から中に入っていったのであり、それは私にだけだったのかもしれないけれども、他の浪人中の人間にも「大谷、最近、なんでか、冷たいねん」という言葉が出てくるようなそういう態度・対応だったのであり、それが「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」という大谷の言葉の意味だったのです。
  そういう意味あいで「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」と言いたいのなら、基本的には全員が大学に進学するような進学校の教諭ではなく、ほとんどの生徒が大学に進学はしないで就職する高校の教諭になっておけば良さそうなものですが、しかし、「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」と進学校の教諭になって3年の担任を持っておきながら言うような男というのは、もしも、ほとんどの生徒が進学せずに就職する高校の教諭になっていたならば、その時はおそらく、こう言うでしょう。「就職の世話は高校の教師の仕事とは違う」と。
  実は、私の母方の伯父が大阪府立の進学校ではない方の商業高校の教諭をやっておったんですよ。そのおっさんは「北野高校の先生がうらやましい」と言うておったのです。「教えておればいいのだから」と。そのおっさんは高校で「教える」以外のことをやらなきゃならないのかというと、「教える」以外のことの方が多かったそうです。喧嘩して警察につかまった・・といって、警察から呼び出されて身元引受人になってやったり、女の子が妊娠したと言って病院から呼び出されたり・・・、「こんなん、高校の教師の仕事とは違うでえ」と思うことだらけだったそうです。「高校の教師の仕事と違うと思うけれども、でも、行ってやらなきゃ、他に誰も行ってやる人間がないのに、かわいそうだろう」と言って警察とか病院とかに行っていたそうです。そして、うちの父親などにも、「うちの高校の生徒をおたくの会社で雇ってやってもらえないか」と頼んだりしていたそうです。進学校の教諭をやっていて「進学指導は高校の教師の仕事とは違う」とか言って、十三駅まですたすたと歩いて行って「じゃあな」と言って駅の中に入って行く男というのは、もしも、ほとんどの生徒が進学せずに就職する高校の教諭になっていたならば、おそらく、その時には「就職の世話は高校の教師の仕事とは違う」と言うでしょう。・・そんなちっぽけな野郎のことを「大谷先生、元気にしてられましたか」なんて言う女性卒業生というのは、浪人しないで大学に行ったものだからその男の本性を知らずに大学に行ったのです。「大谷先生が退職されますので、送別会を開催しましょう」などと呼びかけた人も同様でしょう。なんで、あんな男に送別会なんてやってあげなきゃならないの???  むしろ、言ってやるべきですよ。「送別会は卒業生の仕事とは違う」と。
  それからね。 音楽のN川先生が「私は1年の担任だったら、やってくれと言われればやりますけれども、3年生の担任は、たとえ、やってくれと言われても断ります。もし、芸大に行きたいという人でもあれば私の経験など話してあげることもできるけれども、ここの高校の生徒は京大とか阪大とかに行く人ですから、私はそういう大学は受けたことがありませんから、そういう大学に進学することは私にはわかりませんから、だから、3年の担任は自分自身が京大とか阪大とかそういった大学に行った先生で入学試験にある科目を担当している先生が担当した方がいいと思います」と話されたことがあったのです。それで、大谷は3年の担任を持っていて、「日本史」という入学試験にある科目を担当していたので、その話に該当する人かと最初は思っていたのです。・・しかし、結局、2年も浪人してしまったおかげで私は知ってしまったのです。大谷郁三という男は、北野高校という進学校で3年の担任をもち、「日本史」という入学試験にある科目を担当しておきながら、あの男、東大の二次試験の試験科目を知らなかったのですよ。そんな男が「学問というもので人間を差別してはならない」だの「序列主義というのは言葉からして嫌な言葉ですね」とか、なんとかかんとか、「けっこうなお話」ばっかり口にしておったのですよ。
  もう一回、言っておきましょう。「送別会は卒業生の仕事とは違う」・・・と。

  北野高校の先生でも、人によっても違いはあるようです。2年浪人した年、共通一次試験を受けに大阪府豊中市の大阪大学豊中キャンパスに行くと、なぜか、北野高校で私より1年上だった男性がそこにいたのです。 え? なんで、あんた、ここにいるの??? ・・と、向うも思われたくなかっただろうけれども、それでも、共通一次試験を受けないわけにはいかないので、「3浪」でそこに受けにきていたらしい。1浪で静岡大学工学部に行ったらしいけれども、京大・阪大の工学部などを受けたけれども1浪でも落ちて、さらには早稲田大の理工学部も落ちて、ついでに、たぶん、慶應大の工学部(現 理工学部)も落ちて、二期校の静岡大工学部に行った人というのは、しばらくすると、「だ~れが、静岡大みたいなもん、行くかあ」という気持になる人が多いらしく、「2浪しようが3浪しようが、関係あるかあ」という気持になって受け直そうとする人が多いらしい。その人が北野高校の3年の時の担任の先生の所に、「3年遅れだと、医学部・歯学部とかならいいけれども、工学部は3年以上遅れは不利だと思う」と話して相談したところ、担任だった先生は「(理系学部の場合は)社会科は、共通一次試験で選択するのは、倫理社会と政治経済がいいと思うな」と言ってくれたそうで、「どうしてですか」と言うと、「そりぁ、教科書の厚さを比べてみても、倫理社会と政治経済の教科書に比べて、日本史・世界史の教科書は分厚いだろ」と言われて、それで、共通一次試験の社会科は倫理社会と政治経済の2科目の選択にしたらしい。そのアドバイスに従って、共通一次試験での社会科は倫理社会と政治経済を選択して、結果としては、その人は3年遅れで大阪大歯学部に合格できたようだ。そういうことを言ってくれる先生も北野高校の先生でもいたらしい。
  私自身の経験としても、何の用事でだったか北野高校の2浪の時に行った際、本来は担任の大谷が担当することだったが大谷が不在だったからだったか、進学指導担当で物理が担当だったF木先生がおられて、その際に、東大の理科三類はかなり難しいとしても、理科二類だったら合格できる可能性はあると思うが、東大の医学部医学科には理科三類に合格した人は全員が医学部医学科に進めるが理科二類からも医学部医学科に10人だけ進学できるから、そうできないかと思うという話をしたところ、「それなあ。目指して悪いということはないんだけれどもなあ。東大の理科二類から医学部医学科に進学する10人に入るというのは、けっこう大変だと聞くで」と言われて、「だから、目指して悪いということは何もないのだけれども、理科二類に行って医学部医学科に行こうと考えるのなら、もしも、医学部医学科に行けなかったなら、その時はどうするのかを、考えておく必要があるで」と言ってもらったことがありました。「私の場合は、医者になりたいということではなく、人間の身体と心の相互関係というものを研究したいと思っていて、医学部医学科に進んだなら、心身医学を専攻したいと思っているのですが、理科二類に行って医学部医学科に行けなかったならば、その時には、理学部の生物学科とか、そういう所で大脳生理学の研究をしたいと思っています」と話したところ、「そういう考えがあるのなら、理科二類に行って医学部医学科を目指すというのも悪くはないと思うわ」と言われたということがありました。実際のところ、進学校の生徒、および、進学校出身の浪人生なんてのは、落ちることとか、大学に入学してから競争に負けることなんて、ちっとも考えていませんからね。競争には「絶対に勝ってやる」と思っているのであって、「負けること」なんて頭の隅っこにもないですからね。『あしたのジョー』で矢吹丈が「3度倒されれば4度倒し返す。5度倒されれば6度倒してやる。そして、最後の最後、リングに立っているのはこの俺だ」とか言う場面がありましたが、そんな感じです。最後は俺が勝ってみせるんだ・・みたいな意識でいますからね。ところが、実際には「競争に負けること」というのは現実にあるわけで、たしか、代ゼミが出していた「代ゼミ新聞」だか「代ゼミ通信」だか(正確な名称は忘れたが)に、代ゼミで浪人して東大に合格した人の座談会みたいのが掲載されていて、そこに、理科二類に入学した人の発言として、「理科二類では、最初、『何が何でも、医学部医学科に行くんだあ』と言ってるやつだらけだけれども、そのうち、『農学部でいいやあ』みたいになってくる(笑)」なんて書いてあったのを覚えています。実際、「できなかったら、できるようになればいいだろう」という考え方で来た人間に、「できなかった時」のことを考えろといっても難しい。「できなかったら、石にかじりついても岩にかじりついてもできるようになればいいだろう」という考え方と、「できなかった時」のことを考える思考の両方を同時に持つというのは、けっこう難しい。
  山田久志『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)に、1971年の日本シリーズの時の話が出ている。日本シリーズで何度対戦しても巨人に勝てなかった阪急ブレーブスだが、1971年には「若きエース 山田」がいた。1勝1敗の五分で迎えた第3戦。山田は8回まで0点に抑えて、1ー0で1点リードで迎えた最終回、2人ランナーを出して、最強打者の王を打席に迎えたが、「王がなんじゃい、長嶋がなんじゃい」「打てるもんなら、打ってみろお」という気持で投げた球は、王が苦手とする内角低めぎりぎりのストライクで、球威も十分。「これで、終りじゃあ」と思った、まさにその時、山田が投げた会心の球を、王は見事にとらえて逆転サヨナラスリーランホームラン。試合後、飲みに行ってタクシーに乗ると、タクシーの運転手は巨人ファンだったらしく、興奮さめやらずという感じで、「お客さん、今日の日本シリーズの試合は感動したねえ。さすがは王だねえ」と話し、「でも、あの阪急の山田という若手投手もなかなかいいピッチングをしたねえ」と話し続けたらしい。タクシーを降りる時、「運転手さん、山田はぼくです。ぼくがその山田です」と話して降りたそうだが、なんで、あの球を打たれたのか、わからない。・・で、結局、「これで終わりじゃあ」と思って投げたから、「ストライクとボールの境目のストライク」を投げたが、そうではなく「ストライクとボールの境目のボール」を投げれば、いかに王でもホームランは打てなかったのではないか、前の8回にランナーを出してしまったために9回に王に打順がまわったが、8回にきっちりと抑えておけば9回に王に打順はまわらなかった。そして、何より、「野球は、ともかく勝てばええんや」と考えるなら、あの場面、空いている塁があったということから考えて、「セリーグ最強打者の王と勝負する必要はなかった」・・・と。『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)によると、山田は日本シリーズで9回に王に逆転サヨナラスリーランホームランを打たれたことで、片方で「王がなんじゃい、長嶋がなんじゃい」という気持を持ちながら、他方で「この場面、セリーグ最強打者の王と勝負する必要はない」という思考を学んだらしい。大学入試においても、進学校の生徒というのは、「王がなんじゃい、長嶋がなんじゃい」の方の意識が強くて、「負けること」というのはほとんど考えていないし、そんなもの、「一度、落ちたじゃないか」なんて言われても、それなら二度通ればいいだろうが・・みたいなもので、それこそ、ボクシングで一度ダウンさせられたみたいなもので、それなら、二度、ダウンさせてやるみたいな気持ちでいる。そういう人間には、「何が何でも行くぞという気持でやるのはいいけれども」「もしも、行けなかったら、その時にはどうするのか、ということも考えておかないといけないで」ということは親とか高校の教諭とかは教えてあげるべきだが、うちの親なんかは父親も母親もそんなことを教える能力なんかあるわけない親だった。だから、それを言ってくれる人というのは、ありがたい存在だった・・と思う。
プロ野球 勝負強さの育て方 (PHP文庫) - 山田 久志
プロ野球 勝負強さの育て方 (PHP文庫) - 山田 久志

   高校の先生とか中学校の先生とかいうのは、なんで、親に言うべきことを親に言わずに生徒に言うのか・・と思うが、他方で生徒に言うべきことを親に言う教諭というのもいて、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は、私が卒業後、何年も経った後も、私が旧姓作野礼子と関わっていない時にも、うちの親に連絡をとって手紙を出したりしていたらしく、私がそれを嫌がっていたにもかかわらず、平気でうちの親に手紙だしたりしていたようだった。私がこの女が結婚して苗字が変わったというのを知ったのは、この女から教えてもらって知ったのではなく、私が知らない間に苗字が変わった名前で私の親に手紙が来ていたのを見てしったのだ。この女、そういうことをする女なんだなあ・・とあきれた。もしも、卒業後も生徒とつきあいがあって、生徒を通して親ともつきあいがあるというのなら悪いことはないが、卒業生はその教諭を嫌がっているにもかかわらず、卒業して何年も経つのに、その卒業生が知らない間にその卒業生をとばしてその親とかかわりを持っている高校教諭というのは、そういうのは良くない・・・と思うが、言ってもきくような女じゃない。あの女、いったい私に何の恨みがあるのか・・と思うが、「両親が離婚したから」という理由で自分は世界一エライみたいに思っているバカ女症候群 は、言ってもきかないし、そういう女に態度を改めさせようと思っても極めて難しい。
バカ女は死ね!! - バカ女駆除協会
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   片方で、「両親が離婚したから」という理由で自分は世界一エライみたいに思っている女だったが、他方で、京大合格者数1位の北野高校卒で神戸大にしか行っていない、北野高校の教諭には京大卒・東大卒の人が何人もいるのに自分は神戸大卒でしかないという点でコンプレックスのようなものも持っている人だった。私が「大学はどこに行っても一緒とか言う人がいますが、やっぱり、ここの高校に行くと、京大か東大に行った人と比べて神戸大くらに行ったような人というのは、その点で負い目のようなものを持っているような人がいるように感じるのですよ」と言ったことがあったのだ。これは、かなり遠回しに「あんたのことやで」と言っているような言っていないような言い方で言っていたのだった。ところが、私がこう言うと、「私なんかは、卒業した大学は神戸ですけれども、そんなこと、ちっとも思ってないですよ」などとおかしなことを言うので、それで、「いや。私の比較的身近にいる人で、そんな感じの人がいたので、それで言っているのです」と、婉曲話法ではあるけれども、いくらなんでも、ここまで言ったらわかるやろう・・・という言い方で言ったのだが、ところが、私がそこまで言っても、それでも旧姓作野礼子は「もしかすると、中にはそんな人もいるのかもしれないけれども、私なんかはちっともそんなことないですよ」と言うので、この人に言ってもあかんなあ・・・と思った・・・ということがあった。そのあたりは、ふてぶてしいとともに、かなり、ドンカンな女のようだ。『C級サラリーマン講座』という漫画に、「無神経だがそれを補ってまだ余りあるくらいにふてぶてしい」というタイプの営業というのが登場したが、旧姓作野礼子もそのタイプの教諭だったようだ。
  北野高校は行きたいと思って行った高校だったが、卒業して何年か経って冷静に考えてみると、あんまりいい学校ではなかった。それならどこに行くといいのかというと、よくわからない。結局、学校というものはどこに行っても「絶対にいい」という所はないと思う・・・が、しかし、あの女がいたという点において、その理由で間違いなく「最低・最悪・最凶の学校だった」と思う。もしかすると「両親が離婚した」女子生徒で「ちょっと性格いがんでる系」の生徒にとっては「いい先生」だったのかもしれないが、そうでない生徒にとっては迷惑な女だった。

   北野高校は行きたいと思って行った高校だったので合格した時はうれしかったが、卒業して10年以上経って考えてみると、どう考えてもいい学校ではなかった。それなら、どこに行けばよかったかというと、それはよくわからないが、↑ に述べたようなことを考えると、やっぱり、どう考えてもいい学校ではなかった・・と考えざるをえない。

  今回、中学校・高校編を述べたが、次回かその次くらいに、小学校編を述べたいと思う。

  (2021.5.26.) 

"高校・中学校の教諭はなぜ親に言うべきことを生徒に言い、生徒に言うべきことを親に言うのか。高校の修学旅行なんかない方がいい。頼って行った生徒に「じゃあな」と言って去って行く高校教諭・卒業生をとばしてその親とつきあう高校教諭。" へのコメントを書く

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