高山右近の郷、大阪府豊能町高山 。右近夫婦像、右近生誕地碑他。「聖書なんて読んだらいかん」が敬虔なクリスチャンか? 信仰とは洗礼受けて得するためのものか、立場を捨ててでも守るものか。 

[第476回]
   むかし、地方から大阪に出てきて大阪の商店に丁稚(でっち)として入った新人を先輩がからかう話・・というのがありまして、
「お~い。これから福島行くどお。用意せえ」と言われ、丁稚どんは、
「ええ~え? ふくしまあ~あ????」と驚き、あわてて泊りがけで出かけるような荷物をこしらえたところ、
行先は、大阪市福島区・・・でしたあ・・・。
  次いで、
「お~い。いばらぎ 行くどお。用意せえ」と言われて、
「ええ~え? いばらぎ~い???」と驚き、あわてて泊りがけで出かける用意をしたところ、
行先は、大阪府茨木市でしたあ・・・。
  次いで、
「お~い。長野行くどお」と言われて、
「ええ? な~が~のお~お?」と驚き、あわてて用意したところ、
行先は、大阪府河内長野市でしたあ・・・なんて、こんな話がありましたよねえ・・・。
  私が小学生だったか中学生だったかの時、「歩く遠足」というのがありまして、行先は「高山」なんて言うのです。
「ええ~え? 高山~あ???」と思ったのです。 普通、単に「高山」と言われると、岐阜県高山市を思い浮かべますでしょ。
ところが、「高山」は岐阜県高山市だけではなく、大阪府豊能郡豊能町、かつての大阪府豊能郡東能勢村 にも「高山」があったのです!♪!

   戦国時代のキリシタン大名として、けっこう何人もの大名の名前があげられますが、しかし、そういう「キリシタン大名」というのが、いったいどれだけキリスト教を本当に理解していたのか、どれだけ信仰心があったのかというとかなり疑わしいとも言われます。単に、物珍しさから「キリシタン大名」になっただけとか、ヨーロッパからの文物を取り入れるための便宜として「キリシタン」になった程度という人が多かったのではないかと言われるのですが、その中で、唯一、「本物のキリシタン大名」であったとされるのが高山右近。なにしろ、摂津・大阪府の高槻の城主であった高山右近は、《秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。》(《ウィキペディアー高山右近》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 )と、大名をとるかキリスト教の信仰をとるかと選択を迫られると、たいていの大名は大名の地位の方を選んだのですが、高山右近はキリスト教の信仰の方を選び、《その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し小田原征伐の中で最も悲惨だったと云われる八王子城の戦いにも参加している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。》と、大名でなくなった後も小西行長や前田利家などに庇護されて、それなりの処遇を受けていたようですが、さらに、《慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63。マニラ到着からわずか40日のことだった。》と、キリスト教の信仰を捨てないなら国外に追放すると言われると、大名の地位を捨てたのみならず、キリスト教の信仰を守り国外へ追放される船に乗ってマニラに赴いた、という筋金入りのキリスト教徒であったらしい。
   1970年代後半、高山右近が城主の高槻城があった大阪府高槻市の今は大阪医大 本部北西部キャンパスになっている場所に、YMCA予備校高槻校というのがあって(今はつぶれて、ない!)、そこの「主事」というよくわからん役職の藤井というおっさんが「ぼくらはクリスチャンだから、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金払ってるんやけどもな。聖書なんてあんなもん、読まんでもええねん、あんなもん。聖書なんてあんなもん、ええことなんて何一つとして書いてないんやから、あんなもん。聖書なんて読んだらいかん。聖書なんて読まんでも、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金払っておけばそれでええことやねん。聖書なんて読んだらいかん。たとえ、読むにしても歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばええことであって、若いうちには読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかりまちがっても絶対に考えてはいかん。あんなもん、ええことなんて何一つとして書いてないんやから。聖書なんて読まんでも、洗礼うけて・日曜ごとに教会に行って礼拝に出て・献金払っておけばそれでええことなんや。聖書なんて絶対に読んではいかん!」などと毎日毎日言っていて、私はそれを聞いて、「そんなこと思っているのなら、洗礼うけなきゃいいのと違うのかあ?」と思ったものでしたが、なにしろ、あのおっさんにとっては洗礼を受けることによって、
(1)YMCA予備校という「キリスト教系」の職場で仕事にありつけますし、
(2)「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」とか私の母みたいな人間から思ってもらえますから、
「コストと利益を比較考量して」考えると、彼にとって
(1)「洗礼を受ける」
(2)「日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、『牧師先生のけっこううなお話』を聞く」
(3)「献金を払う」
(4)「聖書は読まない。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて絶対に考えない」
という「敬虔なクリスチャンの4大義務」を果たしておけば、そのコストに見合うだけの利益が十分にあったので、経済学的に考えると、そのコストを払うというのは神の前に正しい行為であったようです。そういう人のことを「敬虔なクリスチャン」と言うらしかったのだが、どうも、「敬虔なクリスチャン」と高山右近はずいぶんと違いがあるようです。
  YMCA予備校の良くないところは、予備校職員として優秀かどうかという基準ではなく「洗礼受けている」かどうかで職員の採否を決めていたという点にあると思います。予備校職員として優秀な人よりも「洗礼受けている」人を「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」とかいう判断で採用していた、という点に問題がある。そして、「聖書みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんや、あんなも~ん。聖書なんて絶対に読んではいかん。洗礼うけて礼拝にでて献金払っておけばそれでええことなんや。聖書なんて読んではいかん」とか毎日「伝道」させる・・・ということをやっていたのですが、そういう「キリスト教系」の予備校とはいえ学校でしたが、私はそういう「キリスト教系」は好きではありません。又、そういう「キリスト教系」の施設にはそこで仕事にありつくためだけに、「聖書みたいなもん、あんなもん、読んではいかん」とかいう使徒信条の人が洗礼を受けるようにもなるようです。私なら、「キリスト教系」の所で雇ってほしいと思っても、採用条件が「キリスト教会で洗礼を受けていること」という場合、さて、洗礼を受けていいものかどうか・・と相当考えます。何らためらうことなく、「聖書みたいなもん、あんなもん、何ひとつとして価値のあることなんて書いてないんやから」とか思っている人間が平気で洗礼うけるなどということは私ならしません・・・が、そういうことを平気でする人が採用されるという結果になるようです。 藤井は「ぼくは早稲田の政経でてるんやけどな」と毎日最低3回は言わないと気がすまないという男で、私はそれを聞くたびに「早稲田大学というのはくだらん大学なんだなあ~あ」と思ったものでしたが、貧乏人のことゆえ、あまり高いものはかけることはできませんが、牛丼かカツ丼くらいならかけてもいいよ、あの男の「早稲田の政経でてる」はまず学歴詐称です。早稲田大学という大学は国立大学と違って内部進学もあればスポーツ入学もあり、私立ですからいくらかは裏口入学もあるかもしれませんし、玉石混交の度合いが大きい大学と言われていますが、それにしても、あんな「早稲田」ないわ、いくらなんでも・・・と思いますね・・・。(昔から「早稲田の政経」というのは「学歴詐称の定番」ですしね。建築業界限定で「早稲田の建築」も「学歴詐称の定番」ですが) 万一、実際に卒業していたとしても、あくまで、学歴詐称なのか、それとも詐称ではなく「早稲田の政経」卒がくだらないのか、どっちかです。まあ、詐称だと思いますよ。
   今、阪急京都線「高槻市」駅の南側の、高槻カトリック教会には高山右近の像があります。〔⇒[第213回]《高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)と「高山右近天守教会堂跡」、野見神社(大阪府高槻市)》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201510/article_2.html 参照〕 もっとも、高山右近は、キリスト教に熱心で、多くの「キリシタン大名」がヨーロッパの文物を取り入れるために「入信」して、バテレン追放令など出るとさっさとキリスト教は捨てたのに対して、大名の地位をとるかキリスト教の信仰をとるか選択を迫られるとキリスト教の信仰の方を選び、キリシタン国外追放令が出ると、信仰を守ってマニラに渡るという本物のキリスト教徒であったようではあるのですが、野見神社の説明書きなど見ると、その片方で、キリスト教には熱心であっても、神社や寺は迫害して破壊したといったことがあったらしく、はたして、そのような「信仰の自由」を守らない「クリスチャン」というものをクリスチャンと言うべきなのか、キリスト教徒として高く評価していいものかどうかとその点においては疑問を感じるところもあります。 他の大名でも、たとえば、武田信玄は仏教に熱心で、京都五山・鎌倉五山にならって甲府五山の寺を設けた・・などと言われるのですが、熱心で悪いということはないのですが、武田信玄が仏教でも臨済宗妙心寺派であったことから、既存の寺を臨済宗妙心寺派に改宗させて甲府五山を設立したとかいったことがあるようで、そういう自分の宗教に合わせて既存の宗教を変更させるという姿勢を「仏教に熱心」と高く評価していいものかどうか、疑問を感じるところもあります。但し、《ウィキペディアー高山右近》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 によると、《(父の)友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。》とされるものの、《反面、 『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。》とある。
  その筋金入りのキリシタン大名だったらしい高山右近は、高山の出身だ・・ということでしたが、岐阜県高山市に行っても高山右近の史跡なんてありません。高山は高山でも高山右近の出身の土地は岐阜県高山市の高山ではなく、大阪府豊能郡豊能町高山 の高山だったのです。

  大阪府豊能郡豊能町は、私が小学生から中学生のころ、1960年代から1970年代は豊能郡東能勢村と言っていたのですが、村から町になる時に、豊能町になりました。東能勢村とか東能勢町だと、北側の能勢町のサブみたいな印象を受ける名称ですから、それで豊能町にしたのではないでしょうか。
  豊能町高山 は豊能町の中では南東側、箕面市に近い位置にあります。 阪急箕面線「箕面」駅の東のあたりから山を登るハイウェイ、府道豊中亀岡線(府道43号)で、役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角〔えんのおづぬ〕)が修業をして弁財天の助けを得て悟りを開いたとされる名称 箕面大滝から北東方向に進み、東の方、箕面市の粟生間谷地区から府道茨木能勢線(府道4号) が北西に進み、真ん中あたりに勝尾寺があるのですが、勝尾寺よりも西よりで北に曲がる道があり、こっちが茨城能勢線で、勝尾寺より東で北に、クリーンセンター(ゴミ焼却場)があるあたりに進む道の方が豊中亀岡線ということになっているらしいのですが、勝尾寺より西側、府道茨城能勢線の方を北に行くと、右手(東側)、箕面市と豊能町との境目あたりに北摂霊園というのがありますが、その前を通り過ぎて進むと、豊能町高山 に出ます。
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↑ これは、北から南を見た写真ですが、南から北を見ても、この「黄色い看板」には矢印の向きが違うだけで、同様の表示がありますので、それを見て、「ああ、このあたりなんだな」とわかります。
「ねえねえ、あの黄色い看板、あれ何?」と思ったら、そこを右折すると(東に進む)、左手(北側)に高山コミュニティーセンターがあり、その中に「高山右近・志野夫婦像」があります。ここの「黄色い看板」はプロミスではありません。「そうだんです」。
  自家用車なら、阪急「箕面」駅の東あたりから、それほど遠くありません・・・が、最初、広い道なのでそのままの状態で進むかと思いきや、箕面の浄水場のあたりから先は道も細い山道で、アスファルト舗装はされているものの、カーブの多い細い道なので運転は注意して進む必要があります。 どこで曲がるか、かつて、「政の茶屋(まさのちゃや)」と言われたあたりを曲がったように思ったのですが、「箕面ダム」ができたことで道がかわったのか、「ビジターセンター」なるものがあるあたりが「政の茶屋」で、ビジターセンターより東に北に曲がる道があり、「高山右近の里←」だったか、そんな感じの看板が出ていましたので、曲がる場所に迷うことはないでしょう。
  北に府道茨木能勢線を道なりに進み、「黄色い看板」で右折する(東に進む)と、左手(北側)に「高山コミュニティーセンター」がある。↓
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( ↑ 高山コミュニティーセンター。)

   箕面市は、かつて、箕面町・萱野(かやの)村・豊川村・止々呂美(とどろみ)村の4町村が合併して箕面市になり、豊川村の東半分が離脱して茨木市の方にくっついたらしい。地形を見ると、止々呂美地区は、道路としては箕面市の山の南側、旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村地区から行こうとすると、いったん、池田市に出て、池田市の市街から国道423号で、北の方、久安寺がある伏尾地区を経て止々呂美に行くことになり、国道423号は止々呂美を経て豊能町(旧 東能勢村)の町役場がある余野地区に至るのですが、箕面市の他の旧3町村の地域とは山を隔てて南北に別れており、むしろ、池田市との方が地形としても道路としても続きであり、なんで、止々呂美て、池田市と合併しないで箕面市とくっついたんだろうなあ・・・なんて思ったものでした。むしろ、箕面市の旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村とくっつくのなら、豊能町の高山地区の方が止々呂美よりも道路のつながりから考えるとくっついても良さそうな感じなのになあ・・なんて思ったものでしたが、なぜか、止々呂美村は池田市とではなく旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村と合併して箕面市の一部になり、高山地区は豊能町の町役場のある余野地区とか能勢電鉄の「妙見口」駅のある吉川地区などとともに豊能町(旧 東能勢村)の一部だったのです。
  その後、新御堂筋なんて広いクルマの通る道路が大阪市から北に延びてきて、豊中市の千里中央からさらに北の箕面市稲から箕面市の萱野・西宿の境目あたりから白島(はくのしま)地区まで延び、稲のあたりは「新船場」なんて地名になって、大阪市内の繊維団地ができ、さらに、千里中央までだった北大阪急行が北に2駅伸びて、「箕面船場阪大前」「箕面萱野」という駅が2020年にできる・・・という話になったはずが、なぜか完成竣工が延期ということになりましたが、道路の方は箕面市白島(はくのしま)地区から北に山をトンネルでくぐって止々呂美地区まで結び、昔は田舎で止々呂美小学校・止々呂美中学校は小学校と中学校が一緒になっていて、生徒の数も箕面市の他の小学校・中学校と違って少なかったのが、今では、森町(しんまち)なんて分譲地ができて、新町からは北大阪急行の千里中央まで直通のバスが走るようになり、なんだか、旧箕面町地区よりもしかすると便利かもしれん・・なんて感じになってきました。さらに、新名神高速道路に「箕面とどろみ」インターチェンジなんてのまでできて、西は神戸ジャンクションで山陽自動車道・中国縦貫自動車道に直結、東は高槻ジャンクションで名神高速道路に直結・・て、昔、うちの親が原付でを買いに行った止々呂美が、最近では「ゆず」の産地として売り出しているようですが、その栗とか「ゆず」とかの産地の止々呂美がなんだか「都会」になってきました。
  そうなると、新御堂筋はそれまで南北に直線に延びていたのを、箕面市の白島(はくのしま)地区から、もし、そのまま真北にトンネルを掘ったとすると、勝尾寺の西のあたりから北摂霊園の西を経て豊能町高山 のあたりにくるはずですが、トンネルは途中でぐいっと西に曲がって止々呂美地区に行ってるのですが、止々呂美は箕面市とくっついたことで、大阪市の梅田あたりから新大阪・江坂を経て千里中央を経て箕面船場から白島(はくのしま)まで来た大阪の南北のメイン通りが止々呂美に進んだということになり、今となっては、池田市とくっつくのではなく、豊能町(旧東能勢村)とくっつくのでもなく、箕面市とくっついたのは正解だったか・・・。箕面市の今の市長のなんとかは東大出で、静岡県の自民党の議員の息子だったのが、なぜか、大阪府でも箕面市なんてたいしたことない市の市長になった、箕面市の市長なんて、もともとは「高卒のおっさん」くらいか「せいぜい関関同立くらい出たおっさん」のなる仕事だったのに、東大出で静岡県の衆議院議員の息子がなんでなるの? なんて気もしないことはなかったが、静岡県の知事を目指すより知事なら大阪府あたりの方がいいか、そのためにはとりあえずは北摂地区、箕面市あたりの市長になって、それを足掛かりとして大阪府の「若手知事」になってそれを足掛かりとして国政にも出るか・・・とか考えていたら、橋下一派に大阪府知事になられてもうて、箕面市長なんてのから脱却できない~い・・・なんて、もしかして、そんなとこか??? で、その「人脈」のある市長が、新御堂筋の北へトンネルで延伸する先を豊能町にではなく、ぐいっと西に曲げて箕面市止々呂美地区にして、さらに新名神高速道路のインターチェンジもまた箕面市止々呂美地区にもってきたのか??? ・・・なんて、そうかどうか知らんけども、なんかありそうな感じ・・しません???
  で、はたして、それが良かったのかどうか?  トンネルの設置は箕面の自然環境に悪影響を及ぼすことはなかったか、なんてことも言われるらしいが、止々呂美地区が便利になったのはたしかだろう・・・が、便利になって分譲地ができて、高速道路のインターチェンジができて・・、良かったのかどうかというと・・・、どうも、よくわからんようなところもある。 もしも、トンネル掘って出た先が止々呂美ではなく豊能町高山 だったとしたら、新名神高速道路のインターチェンジが豊能町高山だったとしたら・・・、豊能町高山は今のような状態ではなく、もっと喧噪で、ごみごみした状態になってしまったのではないか。 そういうことを考えると、止々呂美地区にとって、良かったのかどうか・・・、どうも、よくなかったかどうかもわからんが、よかったと全面的に断定していいかどうかは、よくわからんようにも思う。

  それで。豊能町高山というと、どういう所かというと、「高山右近ゆかりの地」というのが一番有名なもののようだ・・・けれども、高山右近に関してあるのは、最近、人工的に造られたものが多い。
  まず、「高山右近・志野夫婦像」 ↓
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↑ 高山コミュニティーセンター(旧 高山小学校跡)にある。 運動場みたいな広場の前にあるが、「運動場みたい」ではなく、もともと、高山小学校の運動場だった所と校舎をそのままコミュニティーセンターにしているのかどうかはわからないが、建物の前に作られている。
「平成27年(2015年)5月31日建立」らしく、比較的、最近、4年半ほど前に造られたもののようだ。
  横の説明書きによると、右近夫人の志野は、豊能町の高山より北、町役場がある余野地区の生まれらしく、高槻から明石、小豆島、金沢、マニラと右近とともに歩んだらしい。
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↑ 「高山右近・志野夫婦像」の右の石碑には「高山小学校跡」と書かれています。
  たしか、私が小学生の時、1970年頃、「歩く遠足」で高山に行った時には高山小学校はあったと思ったのだけれども・・・。《ウィキペディアー豊能町立東能勢小学校》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%83%BD%E7%94%BA%E7%AB%8B%E6%9D%B1%E8%83%BD%E5%8B%A2%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1 を見ると、《1955年に高山地区が茨木市から東能勢村に編入されたことに伴い、同地区を茨木市立清溪小学校校区から当校校区に編入し、同地区に高山分校を設置した。高山分校は1980年以降には高山小学校として独立校となったが、児童数減少のために2005年に本校(東能勢小学校)と統合している。 》とある。私が「歩く遠足」で高山に行った1970年頃は、高山分校で、その後、1980年に高山小学校になったが2005年に東能勢小学校と統合して高山小学校はなくなったらしい。

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↑ 高山コニュニティーセンター、「高山右近 福者 認定」と書かれた横断幕。
  高山右近が、ローマ教皇庁から「福者」に認定されたらしい。《ウィキペディアー高山右近》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 によると、
《高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請した。
同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し、翌2016年(平成28年)1月22日に教皇フランシスコが認可した。 同年6月23日、カトリック中央協議会は、教皇庁国務省が高山右近の列福式を平成29年(2017年)2月7日に大阪市で執り行うと発表した。 平成29年(2017年)2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われた。列福式には、教皇代理として教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート(英語版)枢機卿が来日して司式した。》とある。
  「福者」て何なんだ? というと、《ウィキペディアー福者》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E8%80%85 によると、《 福者(ふくしゃ ラテン語: beātus (男性形), beāta (女性形)、スペイン語: Beato)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号。 この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。》というものらしく、《ウィキペディアー聖人》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BA%BA によると、カトリック教会では、
 神の僕 ⇒ 尊者 ⇒ 福者 ⇒ 聖人
という段階があるらしい。
  私の父は、「わし、M川先生、T子さん、M尾さん、それに聖徳太子、ヒットラー総統。この6人は聖人やね~ん」と毎日のように私に言っていたのだが、M川先生というのは新興宗教の教祖みたいなおっさんで、薬売りの医者屋で「お父さんほどえらいえらい人はめったにない」とか言ってくれる人、T子さんは私の兄弟3人の中で常に父につく人間、M尾さんというのは父の部下で父の機嫌をとることで出世させてもらったらしい人、その4人に聖徳太子とヒットラー総統との6人が「キリスト教の世界六大聖人」だそうだった。だから、「聖人」なんてのが私は嫌いなのだ。 むしろ、[第377回]《カトリック田園調布教会と聖フランシスコ修道院。『ABC殺人事件』の疑問-田園調布と教会【13/14】》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_13.html でも引用したが、
《 「前進しようとする青年たちはたいてい指導者を求めようとしている。けれども私は敢えていう。彼らは永遠にたずね当てないだろうと。青年はどうしてあの金看板をかけている指導者を求める必要があろう。それよりは友を求めて、一しょになって、生存できると思われる方向へ歩くに越したことはない」
  ( 魯迅『両地書』 ) 》
( 学習資料「世界史」編集委員会編『学習資料 世界史』1974.4.1. ほるぷ教育開発研究所 )
というこの魯迅の言葉こそ、私は尊重したい。
  だいたい、私は父から毎日、「この世の中にはやなあ。わしいみたいなエライえらいエライえらい、常にひとに命令したり号令かけたりするのが得意の人間ばっかしでもあかんしやなあ、あんたあみたいなやなあ、常にひとから命令されて号令かけられるのが向いておって、号令かけられることが何よりうれしいという人間ばっかしでもあかんわけや。両方の人間がおらんといかんわけや。そやからやなあ、天の神さまは大変賢明なお方であって、世の中のすべての人間を、生まれる時点で、ひとを支配する民族・ひとに命令する民族・ひとに号令かける民族と、ひとから支配される民族・ひとから命令される民族・ひとから号令かけられる民族とに2つにはっきりと分けて御造りになっておるわけや。わしいとかM川先生とかはひとに号令かける民族で、あんたあなんかは号令かけられる民族なんや。あんたはひとから号令かけられることが何よりもうれしい♪ あんたは号令かけられることに快感を感じるねん、あんたは。ソレ、てってこっこテッテテッテらったらったラッタラあ♪ てってこっこテッテテッテらったらったラッタラあ♪ 撃ちてしやまん、い~ちおく火の玉あ! とってちってたあ~あ! それ、おまえが号令かけられると喜ぶもんやから、わしはあんたを喜ばせてあげてやってあげてやろうと思うて号令かけたっとんねんぞ。ソレ、喜べ喜べ、チャンコロちゃんころ、喜べ喜べ、チャンコロちゃんころ、とってちってたあ~あ!!!」と言われ続けてきた。「私、号令かけられることに快感なんて感じませんけど」と言ったのだが、「何を言うとるんじゃ、何を。おまえは号令かけられることに快感を感じる民族! すなわち、おまえはチャンコロの民族であ~る! おまえはチャンコロであ~る。わかっとんのんか、このチャンコロめが、チャンコロっ! 生まれなければよかったのに生まれてきおってからに、このチャンコロめがチャンコロっ! このロスケ! イタコ! プエルトリコ! このチャンコロっ!」と毎日毎日言われてきた。「天の神さまはわしいとかM川先生とかのようなひとに命令し支配し号令かけるのが向いている人間とあんたあのような号令かけられることに快感を感じる民族とに人間をわけて御造りになったんや。わかっとんのか。民族でもそうやろ。ドイツ人とかアメリカ人とかはひとを支配するための民族。チャンコロはひとに支配されるための民族。わしとかM川先生とかはドイツ人でアメリカ人なんや。あんたはロスケでイタコでチャンコロなんや。わかっとんのんか、チャンコロ、このチャンコロめがチャンコロっ!」と毎日言われてきた。「そんでやなあ。天の神さまというものは、大変憐み深いお方であってやなあ、チャンコロにもまたチャンコロとしての人生というものを用意してくださっておるわけなんや。即ち、チャンコロには常に支配されて、常に服従するための人生というものを用意してくださっておるのでR. 神様に感謝しろ~お!!!」と毎日毎日言われてきた。その「ひとを支配するための民族」という人にとっては「ひとに支配されるための民族」というものが必要なのかもしれないけれども、「ひとに支配されるための民族」に「認定」された者にとっては「ドイツ人」とかいう「ひとを支配するための民族」は必要ないのである。どうも、その「ドイツ人でアメリカ人」というのはそのあたりを理解できていないようだが、「ひとに支配されるための民族」「チャンコロの民族」にとっては「ドイツ人の民族」などというものは存在してもらう必要はないのだ。で、どうも、その「聖人」というのは、その「ひとを支配するための民族と天の神様から使命を受けてこの世に使わされた民族」のことらしいのだ。
  「福者」というのは「聖人」の下らしいので、そういう「ひとを支配し、ひとに命令をし、ひとに号令かけるのが向いてるドイツ人の民族」のことを言うらしい「聖人」よりまだ下の「民族」らしい「福者」なんて、なんか「しょーもない民族なんやなあ」て感じがする。
 「前進しようとする青年たちはたいてい指導者を求めようとしている。けれども私は敢えていう。彼らは永遠にたずね当てないだろうと。青年はどうしてあの金看板をかけている指導者を求める必要があろう。それよりは友を求めて、一しょになって、生存できると思われる方向へ歩くに越したことはない」と、こう考えることのできない人というのは「聖人」とかいうのを欲しがる傾向があるように思う。私は、そんなもん、要らん! だから、高山右近が「福者」であろうが「聖人」であろうがそんなものは関係ない! なにしろ、私は「ロスケでイタコでチャンコロで浪商の民族」らしいのだから。「ドイツ人でアメリカ人で慶應の民族」とかいうおっさんからそう「認定」された「民族」としては、「聖人」だの「福者」だの「尊者」だのなんて、要らん!!! 私は「ドイツ人でアメリカ人で慶應の民族」も「聖人」も嫌いなのだ。

   インターネットで検索して見ると、豊能郡豊能町高山 の史跡というと、
高山コニュニティーセンター内の「高山右近・志野夫婦像」
高山マリアの墓
高山右近生誕地の碑
高山城跡
住吉神社
・・・といったものが出ていたと思う。
光明寺・西方寺という寺も地図には出ている。
豊能町高山に行ってみると、高札場 なるものがあるのが現地の案内図に出ている。
昔、小学生の時だったと思うが、「歩く遠足」で高山に行った時、神社か寺の入口の階段で昼の弁当を食べた記憶があり、その際、少し行った所を東に曲がったあたりに神社があったように思った。 それがどこだったかはっきりしなかったのだが、たいして広い場所でもなく、神社・寺といってもいくつもあるわけでもない。 考えられるものとしては、
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↑ 紫雲山 光明寺 ・・・浄土真宗本願寺派
  もっと長い階段だったような気がしたし、小学校の遠足で行ったからには階段で弁当を食べるにしても、児童の数はけっこういたはずで、それだけの者が座って食べるには階段の段数はもっとないと座り切れないように思うのだが、ここくらいしか考えられる所がない。
  鎌倉の光明寺は浄土宗だが、この大阪府豊能郡豊能町高山 の光明寺は浄土真宗本願寺派らしい。
  せっかく、ここまで来たのだから、お賽銭を10円でも50円でも入れて帰ろうかと思ったのですが、ないんですよ、お寺にとって一番大事なもの、賽銭箱が。困りましたね。「敬虔なクリスチャン」だと「洗礼を受ける」「日曜ごとに教会に行って礼拝に出る」「聖書は読まない」とともに四大義務のうちの1つである「献金を払う」というものに該当するような大事な行為、「賽銭を払う」というのができないとは・・・。それとも、「一見さん、お断り」だから一見さん用の賽銭箱はないてこと? ・・か・・・というより、地元の人で成り立ってる寺だから賽銭箱なんて要らんてことかもしれませんね。

  この寺の階段から外側を向いて左前あたりにあるのが住吉神社。 ですから、私が小学生の時の「歩く遠足」で来た時、お弁当を食べたのは、位置関係からすると、食べた場所が光明寺の階段で、その時に見えた神社が住吉神社・・・かな・・という感じなのですが、階段はもっと段数が多かったような気がしたのですが、小学生の時の記憶ですから、大人になってみるとそれほど多くなかったということなのでしょうか。
  府道茨木能勢線(府道4号)が南北に通り、高山コミュニティーセンター(旧高山小学校跡)を右手(東)に見て少々北に進むと、左手(西)に光明寺があり、さらに少し北に進むと右手(東)に分岐する道がある。↓
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その東に分岐する道を進むと左手(北側)にある神社が住吉神社
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↑ 左右のスペースは「神輿」が置かれる場所らしい。
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大阪市住吉区の住吉大社は、海の神さんだけあって、海に向かった平地にあるが、この豊野町高山の住吉神社は山の中にある。

  さて、府道茨木能勢線を南から来て、「黄色い看板」↓を見ると、
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↑ 「マリアの墓 300m」なんて書いてありますでしょ。
300mならそれほど遠くないだろうから行ってみようか・・・て気持ちになって府道茨木能勢線を北に歩きます。すると、右に分岐する道があってそれを進むと住吉神社という所に↓
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(↑ 写真はクリックすると大きくなるので大きくして見てください。)
↑ 「マリアの墓(0.3㎞)」なんて書いてあるんですよ。100mくらいは歩いたと思うのだけれども、300-100=300 だっけ?
  まあ、宗教的なものについて、あまり細かいことをごちゃごちゃいうのもなんですから、難しく考えないで、府道茨木能勢線をさらに進みます。すると、また、あったのです、案内表示が。親切ですよね。ガイドブックなんてないけれども、それでも行けるんですよ。
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↑ でも、ここでもまた、書いてあるんです。「マリアの墓(0.3㎞)」と。 住吉神社へ方へ分岐する所から50mくらい歩いたように思うのです。300-100-50=300 だっけ?  私が子供のころ、1960年代ですが、「石油は、今の使用量のペースで使っていくと、あと30年くらいでなくなる」なんて本に書いてあったのです。けっこうたしかそうな本に。・・ところが、それから15年ほど経ちまして、私が大学生になった時もまた、「石油は今の使用量のペースで使っていくと、あと30年くらいでなくなる」なんて言ってたのです。30-15=30 でしたっけ? それから、もう40年ほどなりますが、なぜか、石油はなくならないんですよね。不思議ですよねえ。そう思いませんか?  もうひとつ、私が子供の頃、「石油は、あと30年でなくなるから、だから、石油以外のエネルギーを考えないといけないんだ」と言われ、その有力なものが原子力なんだと言われたのでしたが、石油はあと30年でなくなるとして、それに変わる有力なエネルギーが原子力だとすると、原子力発電の原料のウランというのはそれは石油と違っていっぱいあるということか・・と思うと、そうでもないというのです。そうではなく、ウランも石油とたいして変わらんくらいしかないらしかった。それじゃ、石油に変わるエネルギーにならないじゃん・・・て思ったのですが、なぜか、良い子向けの教育的書物に、石油に変わるエネルギーなんていうことで原子力と出ていたのですよね。どうも、ようわからん・・・と思ったものでした。 この「石油はあと30年でなくなる」と言いながらそれから30年経ってもなぜかなくならないという話を不思議に思ったのは私だけではなかったようで、慶應大学の一般教養の「物理学」の講義の時に先生がその話をされたのでした。「不思議に思いませんか」と。「30年経つとなくなるはずなのに、30年経っても、やっぱり、『あと30年でなくなる』と言っているて」と。不思議ですよねえ・・・。私が子供のころ、「石油はあと30年でなくなる」と聞いてからすでに50年以上経っているのですが、今もあちらこちらにガソリンスタンドはありますし、石油はなくなっていませんよね。な~んでだ??? どうも、その「石油はあと30年でなくなる」というのは、その時点で発見されている油田で、かつ、取り出すことが可能なものの埋蔵量をその時点の消費量で消費していくと「あと30年」分だという話だったのではないか、というのです。その後も、油田は発見されていて、又、その時点よりも石油を取り出す技術も発展しているので、だから、石油はなくなってないようです。ひとつには、「石油メジャー」とかいった人たちにとっては「石油はまだまだいっぱいありまっせえ」と言うよりも、「石油は希少な資源だ」ということにした方が高く売れる、「石油はまだまだいっぱいありまっせえ」と言ったのでは石油の値段が安くなってしまうからそんなこと言うわけにはいかん、ということで出てきた話ではないか、とも言われるようですね。・・それと、なんだか似たような・・・。「マリアの墓 300m」と書いてあるから、300mなら遠くないわなあ・・と思ってしばらく歩くと、「マリアの墓(0.3㎞)」、ありぁ? ・・で、また、しばらく歩くと、「マリアの墓(0.3㎞)」て、ありぁりぁりぁ・・・。

   この少し急な道を登っていくと、道が分岐する所にでます。親切に案内表示があるので迷うことはありません。
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「高山コース マリアの墓」と書いてありますが、今度は、「◇00m」とか「0.◇㎞」という表示はありません。・・ということは、実はま~だまだなのか、それとも、もうすぐなのか、どっちかな・・と思いつつ、案内表示が示す方の道を進みます。最初の府道茨木能勢線はバスも走る道でしたが、そこから分岐する道は舗装されているけれども人は通れてもクルマは軽トラックくらい通れるのかどうか・・みたいな道で、ここからは人かリアカーくらいなら通れるか・・という道です。
   その道を進むと、
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↑ う~ん、こういう道を進んでいくのか・・、軽登山靴でも必要だったか?・・なんて思い出しますが、
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矢印に沿って歩くとすぐに ↓
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↑ 「マリアの墓」と書かれた札が出ています。 軽登山靴まで必要ありません。ズック靴でも革靴でも行けます。私は革靴はいて行きましたから革靴で十分行けます。但し、女の人のハイヒールとかサンダル・下駄とかはやめた方がいいでしょう。そういうものでなければ、「普通の靴」で十分行けます。

  「マリアの墓」の「マリア」とは誰なのか? 青森県のなんとか町にはキリストの墓なるものがあるらしいが、それはあんまり信用できるものではないらしいが、豊能町高山 はキリシタン大名 高山右近の生誕地ですから、そういいかげんな話でもないでしょう。。
《ウィキペディアー高山右近》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 には、《(高山右近は)父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。》 と出ていますが、洗礼名がマリアである高山右近の母親のことなのか?
  大名の母親の墓にしては石碑は小さい。又、高山右近は豊能町高山の生まれだったらしいけれども、後に高槻城主になり、明石城主になっており、そのいずれかの時に母親が他界したのであれば、高槻か明石の近辺に墓が作られても良さそうにも思えます。その後、小豆島から金沢に高山右近は移り、国外追放でマニラに行った時は63歳だったということですから、今ではもっと長生きする人はいくらでもあるでしょうけれども、高山右近の時代の人の寿命を考えると、高山右近の母が他界したのは、右近が高槻城主・明石城主であった時代か、小豆島か金沢かにいた時代かの可能性が高そうで、キリスト教の信仰を捨てないことから大名の立場を剥奪されたとはいえ、築城家として有能だったらしい高山右近は前田利家に優遇されて金沢城の建築にも貢献したらしく、日本にいた時代は世間一般の水飲み百姓などと比べればそれほど不遇でもなかったようですから、高山右近の母のマリアなら、もっと豪勢な墓が作られてもよさそうに思えます。
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  現地の説明書きには、
《 高山マリアの墓
  墓碑は4基からなり、なぜか1基が離れている。墓碑には、江戸時代中期の元文(げんぶん)・延享(えんきょう)・寛延(かんえん)の年号が刻まれており、2組の夫婦の墓と伝えられている。
  当地高山はキリシタン大名として名を馳せた高山右近の居城のあともあり、キリシタンとは関係の深い土地柄である。
「マリアの墓」の所伝は不明であるが、明治時代の古老によると江戸幕府のキリシタン禁教後、キリスト教徒はほとんど姿を消したが、村には2軒が残り、やがて転宗したといわれている。所伝が正しければ、この2軒の夫婦が、墓碑2組の夫婦とも考えられ、江戸時代、高山でのキリシタンは寛延年間頃で後を絶ったことになる。
  平成5年(1993年)11月
      豊能町教育委員会 》
と書かれている。 高山右近の母親の墓と考えるよりも、江戸時代中期の2組の夫婦の墓という方がありそうに思える話ですね。 「高山マリアの墓」と言うからにはいずれかの石碑に「マリア」という文字があるのかとも思ったのですが、それは見当たりませんでした。「高山マリア」と言われると、高山右近の縁者なのか・・と考えたくなるのですが、もともと、高山というのはそれほど広い地域でもなく、「高山城主」であった頃の高山右近やその父親というのは、それほどものすごい「大名」ではなく、付近の住人とそれほどものすごい差があったわけでもなかったことも考えられますが、江戸時代中期に残っていた2組のキリシタンの夫婦の墓を、いつ誰が言い出したのか「高山マリアの墓」と言うようになったのか、その2組の夫婦の女性の方の片方の洗礼名がマリアだったのか・・・。

  《ウィキペディアー高山右近》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 には《高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。》と出ているのですが、現在は、大阪府では「郡」は、南の方に泉南郡・泉北郡、南河内郡があり、北摂地域に、豊能郡があって、豊能郡に能勢町と豊能町(旧 東能勢村)があり、三島郡に島本町があり、豊能郡はなぜ「能勢郡」じゃなくて「豊能郡」なのだろうか? なんて子供の頃、思ったことがありましたが、たしか、能勢郡と豊川郡だったか豊島郡だったかが合併して豊能郡になったはずです。で、豊野町高山は、現在では豊能郡豊能町高山なのに、高山右近が生まれる頃までは、「摂津国三島郡高山庄」と「三島郡」だったのか? それともウィキペディアが間違っているのか?
  《ウィキペディアー三島郡(大阪府)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%83%A1_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C) を見ると、
《 郡域
1896年(明治29年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、概ね下記の区域にあたる。
茨木市・摂津市の全域
吹田市の大部分(江坂町、円山町、垂水町、広芝町、江の木町より南西および山手町・千里山西・千里山東の各一部を除く)
高槻市の大部分(田能・中畑・出灰・杉生・二料を除く)
豊中市の一部(上新田・新千里各町)
箕面市の一部(小野原各町・粟生各町・彩都粟生南・彩都粟生北)
豊能郡豊能町の一部(高山) 》
とあり、豊能町でも高山のみはもともとは三島郡だったらしい。

  小学校の時の「歩く遠足」では、なんで、こういう所に連れて行ってくれなかったのか・・なんて後から思ったりもしましたが、「高山右近・志野夫婦像」も「高山右近生誕地」の石碑も私が小学生だった頃はまだ造られてなかったし、「マリアの墓」という山の中にひっそりとあるこういう小さい墓碑の所に、何百人もの小学生を来させて、中には不真面目な児童だっているでしょうから、神聖な場である墓の付近が荒らされてしまう可能性が小さくない・・と先生は思ったのかもしれないし(もし、私が小学校の教諭ならその危険を考えて、連れていかないですね)、宗教施設に公立の学校で連れて行くのはいいかどうかと考えたのかもしれない・・とも思ったのですが・・・・、実は・・・単に「高山右近の生誕地なんて知らんかっただけ」・・かもしれん・・。なんか、ありそう・・て思いませんか?

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↑ が「高山の棚田」というもののことなのでしょうか。

  さて、最初の「黄色い看板」の所に戻りまして・・・・。 高山コミュニティーセンターと逆側に、「高山城跡400m」「西方寺200m」と出ており、この付近の案内図には「高札場」というのが書かれていたようでしたので、お寺の場合は神社と違って、本山とか国宝・世界遺産とかの寺なら、誰でも入らせてもらえるでしょうけれども、地域の人たちのお寺の場合は檀家でもないのに入り込むと具合が悪いてことないかいなあ・・と思ったりしましたが、しかし、「黄色い看板」に「西方寺」と書かれている以上は入口から見物くらいならさせてもらっても悪くもないだろう・・とも思い行ってみることにしました。
  で、歩き出すとすぐにあったのが、 「高札場 + お地蔵さん」
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↑ 案内看板に「史跡・石仏 高山コース」「高札場跡」と書かれています。
なぜ、高札場とお地蔵さんがコラボレーションやってるのかはよくわかりませんが、上部が高札場で、その下にお地蔵さんが鎮座されています。
《 ・・・昭和52年(1977年)に明治時代の構造のまま改築され、以後、五輪塔、小石仏・地蔵尊が祀られるようになった。・・・》
というものらしい。 
  高札場には、↓
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《 一 切支丹宗門之儀
    是追御制禁之通
    固く可相守事
  一 邪宗門之儀ハ固く
    禁止候事
     慶應四年三月 太政官
  右之通被
  仰出候間堅相守者也
 ・・・  》
と書かれています。
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↑ 高札場の建物の左下に置かれている4つの石は「力石」といって、江戸時代に村の青年がそれを持って力比べをしたという石らしい・・・けれども、うかつに持とうとすると腰わるくしそうな・・・。4つのうち、一番軽いものでも60㎏、一番重いものは103㎏らしい。

  その道をさらに進むと、
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↑ この建物が、「七宝山 西方寺」らしい。

  さらに進むと、
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↑ 「高山右近生誕之地」の石碑
裏面に説明書きがあります。
《 1998年3月建立 》とありますから、2015年建立の「高山右近・志野夫婦像」よりは17年も古い!・・けれども、それでも、けっこう新しい。私が小学生の時に「歩く遠足」で高山に来た1970年頃にはなかった。だから、その頃には、豊能町の高山というと、
「高山右近の生誕地」と知っている人は知っていたけれども、行っても「別になんもあらへん」という所だったようだ。あえて言えば、箕面川の源流・・・てとこかな・・・。 そもそも、川って、下って行くとたいていは海に行くのだけれども、遡っていくと最後はどうなるんだろ・・・なんて、思いませんか? 役行者が修業をしたとされる箕面大滝あたりまでの箕面川はわかるのですが、箕面大滝から上はどうなってるんだろ・・、そこは猿の世界・・気をつけないと大人の男でも猿に襲いかかられる恐怖の世界・・・だったが、最近は、条例で猿にエサをやると罰金というのができて野生の猿はあまり人前に出て来なくなったので、猿に襲われる恐怖は薄らいだ・・が、逆にたまには見てみたいような気もしないでもないが、その箕面川を遡っていくと、だんだんと水量が少なくなっていき、1970年頃は高山の手前あたりで水がなくなっていたのを見ました。へえ~え、川の上流を遡っていくとああなってるんだあ・・と感動したのを覚えています・・・が、今は、箕面駅東側~箕面大滝~ビジターセンター(「政の茶屋」)~勝尾寺~粟生間谷の道のビジターセンターの東から北に入る府道茨木能勢線に入ってすぐあたりに箕面ダムができて、その関係か、感じが変わりました。
  「高山右近生誕之地」の石碑の後ろには祠が4つあります。↓
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↑ 右手前が、八幡神社
その奥が、稲荷
その左が、観音堂(観音、薬師如来)
その左が、阿多古神社
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↑ 「高山右近生誕之地」石碑あたりから見た西方寺です。
  
  さて、「高山右近生誕之地」の裏面に説明書きがあり、
《是より西北に隔たること三百米の高山城で、父 高山飛騨守、母 マリアの長男として生まれ・・・》
と書かれています。 
   「黄色い看板」から西方寺までが200mで、高山城跡までは400mだったわけですから、西方寺から20mか30mくらいは歩いた「高山右近生誕之地」石碑からは、400m-200m-30m=70m くらいか・・と思ったら、ここから300mらしい。となると、なんか計算が合わんような感じがしないでもないが・・・、まあ、あまり細かいことにごちゃごちゃ言うのはやめておくとして、高山城というのがそう遠くない場所にあるはずですから、行ってみよう・・と思って歩き出したのですが、どうも、それらしいものが見当たらない。天守閣なんてのはたぶんないと思うが、「これ、高山城です」と書いた看板とベンチくらい、それに清涼飲料水の自動販売機くらいあるかな・・とか思ったら、何も見当たらない。で、そのあたりで農作業をしているおじさんに尋ねてみたのです。「すいませ~ん。高山城てどのあたりなのでしょうかあ」と。すると、「このへんらしいなあ」と。「このへん・・て、石碑が建ってるわけでも何でもないんですかあ」と言うと、「そんなもん、あらへん、あらへん。これだけや。な~んもあらへん」ということでした。そのおじさんが示したのは ↓ のあたりですが、
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↑ これが正確に「高山城址」なのかどうかわかりませんが、「普通の山」です。ほんとに殿様がこんな山に住んでたのかあ・・て感じがしないでもない。むしろ、高山の集落でも、山じゃなくて、もっと平地に近い所でもっと大きい家に住んでる人があるような気もするのですが、高山の領主だったころの高山右近というのは領主といってもたいした領主じゃなかったわけですから、高山城といっても「普通の家」だったかもしれません。
  帰宅してから、グーグル地図で見ると、そこでおじさんが「このあたり」と教えてくれたのは「高山向山城」で、そこから北西方向に「高山城」と書かれた別の山がある。・・まあ、どっちにしても、「普通の山」であることに違いはないけれども・・・。
  ちなみに、千葉県船橋市薬円台に野田邸があるのですが、「総理大臣の家」と思って、一回、見てきたろとか考えて、東京都渋谷区の麻生邸とか目白の「田中御殿」とかを頭に描いて見に行くと、「ええ、これえ~え・・」て感じがします。みんな、言いますが「普通の家」なんです。私が住むのなら悪い家じゃないのですが、「元総理大臣の家」と思って見ると、もしくは、渋谷の麻生邸とかみたいなものを頭に描いて行くと、「ええ、これえ~え・・・」て感じ・・を誰もがするようです。 「高山城」というのも、高山右近がキリシタン大名として有名で、高槻城主・明石城主として何万石かの大名だったということから、その前の「高山城」も「大名のお城」みたいのを頭に描きがちですが、高山の領主だったころはそんな大規模な領主だったわけではないので、「高山城」と今は言っているものも、「そのへんの庄屋さんの家」くらいのものだったのかもしれませんね。

  結局、高山城てのはどうもよくわからん。とりあえず、そのへん・・てことのようだ。それよりも、「これは、なんだ?」て感じのが、↓
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↑ 「〒 伊川谷郵便局」と書いてありますが、どう見ても、廃墟です。 かつて、ここに郵便局があったのでしょうか。

   府道茨木能勢線で東に行くと高山コミュニティーセンターという「黄色い看板」が建っている交差点の少し北に、阪急バスのバス停があります。私がいた時に、南行のバスが来ましたから間違いなく運行しているようです・・・が、南はどこに行くかというと、北大阪急行「千里中央」駅を経て阪急千里線「北千里」駅まで行くそうで、北はどこに行くかというと、豊野町の町役場がある余野を経てその東の「希望が丘三丁目」という地図で見ると豊能町木代(きしろ)の一部分を造成して分譲地として「希望が丘1~5丁目」とした「北大阪ネオポリス」の希望が丘三丁目まで行くらしいのですが、バス停の時刻表を見ると、平日は1日に3本、日祝は2本・・ですから、乗るのなら、あらかじめ、時刻を確認して早めに行って待ってるようにしないといけません。
   タクシーでなら、阪急箕面線「箕面」駅前のタクシー乗り場から乗るか、北大阪急行「千里中央」駅のタクシー乗り場から乗るか、今は「萱野中央」バス停の所、北大阪急行が延伸して「箕面萱野」駅ができる予定という所に箕面キューズモールなるものができていて、そのあたりにもタクシー乗り場はあったと思うので、そこから乗るか。但し、乗る方はいいけれども、帰りは電話で呼ばないと、豊能町高山にタクシー乗り場なんてないし、「流しのタクシー」なんて走ってるわけない。携帯電話は持っていかないと、公衆電話なんて、ない。清涼飲料水の自動販売機はあるがコンビニはない。スターバックスコーヒーなんて当然ない。
   豊能町高山に行くのなら、
1.マイカーで行くか、
2.箕面駅・千里中央駅・萱野中央のいずれかからタクシーに乗って、帰りは電話でタクシーを呼んで迎えに来てもらうか、阪急バスの時刻を見ておいて、行きか帰りかどちらか片方をバスに乗るようにするか、
3.最初から、ハイキングのつもりで歩くか。この場合、どこから歩くかという問題があるが、今では、箕面市の止々呂美は高山とどっこいどっこいだったかつての止々呂美とは違って、森町(しんまち)という分譲地ができて北大阪急行「千里中央」駅から止々呂美の森町まではバスの本数もけっこう多いようなので、中止々呂美あたりから歩くか。 北大阪急行「千里中央」から勝尾寺までのバスはそれなりにあるから、勝尾寺から歩くか。 勝尾寺からさらに北摂霊園まで行くバスは勝尾寺までよりも少ないとしてもそれなりにあったはずだから、北摂霊園から歩くか。いっそ、阪急箕面線「箕面」駅から、箕面滝道を歩いて箕面大滝に行き、箕面大滝の脇の道を登って箕面大滝の上から府道豊中亀岡線を歩き、ビジターセンター(「政の茶屋」)の東のあたりで左折して北に進んで箕面ダムの脇を通って高山まで歩くか・・となると、これは本格的にハイキング、登山ではないがハイキングだからそのつもりで行く必要がある。
  そんなとこかな・・・。 マイカーの場合、有料時間パーキングなんてないし、「無料駐車場」なんてものもないのだが、今回、そんなに来訪者がいっぱいあるわけでもない・・・というより他だれもおれへんかったので高山コミュニティーセンターに停めさせてもらったが、今現在の来訪者の状況ならそれでいいのじゃないかと思うが、もしも、もっとわんさと人が来るようになったら、その時は何か考えないといかんでしょうね。 田舎の道というのは路上駐車するほど広くないし。
  「高山右近の郷」とはいえ、高山右近に関するものというと、1998年に建立された「高山右近生誕之地」の石碑、2015年に建立された「高山右近・志野夫婦像」くらい、あとは1977年に改築されたという「高札場」がキリシタン禁教と関係あるか、「マリアの墓」はこの付近のキリシタンであった人の墓である可能性が高いが、高山右近の母の墓ではない可能性が高そう。高山城にいたっては、「このへんやろ」というくらい・・・だけれども、私の場合は小学校の時に一度行ったことがある場所なのでなつかしいということもあるけれども、いい所だと思います。 高速道路のインターチェンジが止々呂美じゃなく高山にできたりしなくて良かったような気もする。インターチェンジなんてできてたら、ぐちゃぐちゃになってしまっていたのではないかと思う。 止々呂美がドンネルで箕面市の南部とつながり、インターチェンジができて「都会化」して良かったか悪かったかは、なんともよくわからんが、高山はインターチェンジなんてできなくて良かったと思うよ。クルマなら「箕面とどろみ」インターチェンジから遠くないしね。

  「箕面の山」を隔てた南側、箕面市の旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村の古くからの家と、豊野町高山の家とでは、なんだか、かなり違う。同じ大阪府の北摂地区で距離も近いのだけれども、なぜか、かなり違うような気がします。
ひと様のお家を無断で撮影させてもらって、無断で掲載なんてしない方がいいかもしれないけれども、全景であって中は写っていない写真で、我が家のような貧相な家ではなく立派なお家だから、いいにしてもらってもいいか・・・てとこで、
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↑ 私は、「農家の家」というのは、建築探偵団としても嫌いではないのですが、「箕面の山」を隔てた南側と北側でけっこう大きな違いがあるというのは、どうしてなんだろうなあ・・などと思いながら帰ってきました。個人のお宅の正確な場所は示さないことにします。そう広くない町ですから、歩けばどこかで見ることはできるでしょう。


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↑ 阪急箕面線「箕面」駅前、箕面大滝に至る滝道を見たものです。なんだか、最近、滝道の「もみじの天ぷら」をあげて売っている土産物店の数が減ったような気がして、少々気がかりです。
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↑ 阪急箕面線「箕面」駅前ロータリー。 右側が箕面市のゆるキャラ、箕面市止々呂美でとれる「ゆず」をモチーフとした、箕面大滝への滝道では混雑時でも譲り合いの気持ちを持ってください・・という意味か? 「滝ノ道ゆずる」くん
ふなっしー にははるかに及ばないが、箕面市HPの「箕面市PRキャラクター「滝ノ道ゆずる」がゆるキャラ(R)グランプリ2018で全国5位に! 」https://www.city.minoh.lg.jp/eigyou/yurukyara2018.html によると、2018年、ゆるキャラ グランプリで、全国5位に入ったそうな。

 きょうは、12月23日、クリスマスイブの準備の日・・ではなく、天皇へーか、浩宮さん、なるちゃん のお父さんのお誕生日。

  (2019.12.23.)

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