洗礼・礼拝・献金で天国を買うクリスチャン。牧師は金持ちで牧師の息子は慶應義塾高校なんて行くべきか?

[第452回] 同志社今出川【13/13】
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(↑同志社 礼拝堂。 1886年 ダニエル=クロスビー=グリーン 重要文化財)

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(↑クラーク記念館。 1894年(日清戦争の年) リヒャルト=ゼール 重要文化財)
  1970年代後半、「敬虔なクリスチャン」を自称していたYMCA予備校高槻校の「主事」というよくわからん職種の藤井(男。当時、40代後半か50くらい?)は、「ぼくらは、クリスチャンとして洗礼を受けて、毎週、教会に行って礼拝に出て献金をしている」と言うのだったが、「『聖書』なんてあんなもん、いいことなんて何ひとつ書いてないんや、あんなも~ん! あんなもの、読むものと違う。『聖書』なんて読んではいかん。たとえ読むにしても、相当歳をいってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって決して若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。『聖書』なんて読まんでもええんや、あんなもおん! 『聖書』なんて読まんでも、洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金はらっておけばそれでいいことなんや。『聖書』みたいなもん、あんなもん、絶対に読んではいかん!」と何度も何度も言うのであった。そういう発言を無理矢理にでもひとに聞かそうとするのが、およそキリスト教でないものをキリスト教であるかのように誤解させてまわるのが、それが「敬虔なクリスチャン」としての「伝道活動」と考えたいたようだったなんだか、洗礼・礼拝・献金の3つが「敬虔なクリスチャン」の免罪符3種の神器みたいである。
  「敬虔なクリスチャン」とか牧師屋とかいう連中はそんなものか・・と思ったりもしたのだが、そうなのか? 『格言の花束』だかそんな感じの題名の文庫本だったか新書本だったかに、「哲学者」だったか「詩人」だったかの肩書の人の言葉として、「不信仰とは、信じているとか信じていないとかいう問題ではなく、信じていない宗教に帰依している、ということである」という言葉が載っていた。YMCA予備校の藤井というのは、まさにそれなんだとわかった。
  ヴィクトル=ユーゴー『レ・ミゼラブル』に出てくる司教、あのジャン=バルジャンを家に泊めて、銀の食器を盗まれ、警察官から問われて、それはこの方にさしあげたものですと言ったというあの話の司教はそうではなかったようだ。
≪・・四旬節の間に、一人の若い助任司祭がディーニにきて大会堂で説教をしたことがあった。彼はかなりの雄弁だった。説教の題目は慈善であった。彼は富者に勧むるに地獄をさけて天国を得るため貧者に施さんことをもってし、でき得る限り恐ろしく地獄の光景を説き、楽しく快きものとして天国の様を説いた。聴衆のうちにジェポランという隠退した金持ちの商人がいた。高利貸しの類で、粗悪なラシャやセルや綾織布(あやおり)やトルコ帽などを製造して五十万ばかりを得たのだった。一生のうちで彼は一人の不幸な人にも施しをしたことがなかった。がこの説教いらい、大会堂の玄関にいる年をとった乞食の女どもに、日曜ごとに1スー(訳者注 1スーは1フランの20分の1)を与えている彼の姿が見られた。その1スーを乞食の女たち6人は分けなければならなかった。ある日司教はジェポランがいつもの慈善をしているのを見て、ほほえみながら妹に言った。「そらジェポランさんが1スーで天国を買っているよ。」・・・≫
(ヴィクトル=ユーゴー『レ・ミゼラブル (一)』豊島与志雄訳 1987.改版 岩波文庫)

レ・ミゼラブル〈1〉 (岩波文庫)
岩波書店
ヴィクトル ユーゴー

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『レ・ミゼラブル』に登場するミリエル司教は、少なくとも、YMCA予備校の「敬虔なクリスチャン」とはかなり異なるようだ。

 YMCA予備校高槻校で「主事」というよくわからん職種についていた藤井は、「ぼくらは、クリスチャンとして洗礼を受けて、毎週、教会に行って礼拝に出て献金をしている」と言うのだったが、「『聖書』なんてあんなもん、いいことなんて何ひとつ書いてないんや、あんなも~ん! あんなもの、読むものと違う。『聖書』なんて読んではいかん。たとえ、読むにしても、相当歳をいってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、決して若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。『聖書』なんて読まんでもええんや、あんなもお~ん! 『聖書』なんて読まんでも、洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金はらっておけばそれでいいことなんや。『聖書』みたいなもん、あんなもん、絶対に読んではいかん!」と何度も発言する男で、心からそう考えている男だった。そんなこと思ってるなら洗礼なんて受けなければいいのに・・という感じもするが、洗礼を受けて「敬虔なクリスチャン」という称号を得ると、YMCA予備校で仕事にありつくことができ、私の母みたいな人間から「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪い人じゃない」とか言ってもらえることになるので、「コストと利益を比較考量して考える」という経済学的思考をするならば、「クリスチャン」というのは献金代と礼拝に出る労力というコストを十分に利益が上回るようだった。教会というものがそういう人のもの、そういう人のためのものであるならば、そんな教会に行っても、そういう目的で教会に行きたいと考えているわけではない者にとっては何の価値もないことになるが、少なくとも、ヴィクトル=ユーゴー『レ・ミゼラブル』に登場するミリエル司教はそういう人ではなかったようだ。
  『レ・ミゼラブル』は腰を落ち着けて読むと、なかなか含蓄のある書物である。子供用にダイジェスト版として作られた『ああ無情』では、ジャン=バルジャンがどこも泊めてくれないのに司教が家に泊めてくれたにもかかわらず、その夜、司教の家から銀の食器を盗み、さっそく警察に捕まり、司教の家に連れてこられた時、司教が「それはこの方に私がさし上げたものです」と語り、警官がいぶかりながらも退散するという話ばかりが強調されているが、それだけの話ではない。子供用のダイジェスト版『ああ無情』を読むと、大人になって考えてみて、あの牧師って、なんで銀の食器なんてそんな高価な物を持っていたのだろうか?・・なんて思いませんか? 「日本のえらい人の話」のひとつに佐野源左衛門常世のお話というのがあって、冬の雪の日に老人が泊めてくれと言ってやってきたが、貧乏で部屋を暖めるための薪もない。そこで、高価な盆栽を割って燃やして来客をもてなしたところ、その来客が執権 北条泰時であった。北条泰時はそのことを覚えていて、鎌倉に武士を集めた時、佐野源左衛門常世の心がけがよいとして、その盆栽の梅と松となんだっけの名前にちなむ土地を与えた・・・といい、それが鎌倉武士の心がけであった・・とかいう。栃木県のかつては安蘇郡葛生町、今は佐野市と合併して佐野市の一部になった所に佐野源左衛門常世の墓というのがあって、栃木県佐野市に在住した時、見に行ったが大大名の墓ではないので特に大きい墓でもなく「普通のお墓」だったが、そのお話の方は、落ち着いて考えて見ると、冬、部屋を暖める薪もないくらい貧乏だったという男の所に、なんで、そんな「高価な盆栽」なんてものがあったんだあ~あ? なんかおかしくないかあ・・と思いませんか? 「戦前の修身の教科書」に載る話というのは、落ち着いて考えてみるとなんか変だなというのが多い。
  『レ・ミゼラブル』『ああ無情』に登場する牧師が銀の食器を持っていたというのも、それも変な話だなあ・・なんて思ったわけだ。しかし、子供用ダイジェスト版『ああ無情』ではなく岩波文庫で出版されている全訳を読むとそうではないことがわかった。ジャン=バルジャンに「この食器は私がこの方にさしあげたものです」と言った牧師というのは、牧師は牧師でも司祭よりもまだ上の司教であり、牧師でもけっこう「エライ人」だったのだ。かつ、その頃のフランスにおいては、司教・司祭は国から給料をもらっていたらしく、司教となるとそう少なくない額をもらっていたらしい。そのミリエル司教は「牧師が金持ちというのはおかしい」と言って、自分が持っている物は貧乏な人に片っ端から渡していき、残ったもので唯一比較的高価な物が、ジャン=バルジャンが持って行った銀の食器だったのだ。そして、銀の食器が盗まれたということがわかった時も、あれははたして私のものだったのでしょうか、あれは貧乏な人のためのものだったのではないか・・なんてことを言ったりしていたのです。
  片方で、『福音書』には「働き人がその生活の糧を得るのはあたりまえではないか」というイエスの言葉があり、価値のある宗教を職業とする者が生活の糧を得て何が悪いかという面もあり、牧師に落ちついて牧師の仕事をしてもらうためにはそれなりの報酬は必要ではないかとも言えるが、しかし、「牧師が金持ちというのはおかしい」という考え方もまたもっともなものではないかとも思える。1980年代、東京都大田区の日本キリスト教団田園調布教会の牧師 高橋泰二の息子は、慶應義塾高校から慶應大学の医学部に進学していたが、慶應義塾高校なんて、私ら、行きたいなんてみじんも思わなかったけれども、たとえ行きたいと思ったとしても、たとえ行きたいと言ったとしても、絶対にそんなもの行かせてもらえなかった。 慶應という学校はブルジョワの学校みたいなイメージがあるが、大学の経済学部・商学部・法学部・文学部については「国立大学よりは高いけれども、私立大学の中では安い方」の学費であり、金持ちの息子でない人間でも行ける大学であるのだが、国立大学の場合は何学部でも学費は同じであるところが、慶應は私立なので理工学部は経済学部・商学部・法学部・文学部よりも高く、医学部になると正規の合格者は私立金権医大みたいな寄付金は要らないけれども経済学部・商学部・法学部・文学部の倍ほどの学費が要り、かつ、経済学部・商学部・法学部・文学部は4年であるのに対して6年行かないといけない学部だった。慶應は大学については「国立大学よりは高いけれども私立大学の中では安い方」の学費の大学だったが、小学校から高校までは「私立の学校の中でも高い方」だそうだ。なぜ、そうなっているのかというと、何代か前の塾長がどこかで述べていたが、「日本の学校を調べると、小学校の場合は国公立と私立の比率は国公立が圧倒的に多いので、私立の小学校が高めの学費に設定しても、それが学ぶ権利を侵害するということにはならないのに対し、逆に、大学は国公立よりも私立の比率が圧倒的に大きいので、大学は私立だからということで高い学費に設定したのでは学ぶ権利を侵害することになる」と述べていたが、そういう考え方もあるかもしれないけれども、慶應の学費が小学校から高校までは「他の私立の学校と比べても高め」であるのに対して大学は「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い」という学費に設定してあるのは、それは、小学校から高校までは高めの学費に設定することで誰でもは行けないようにして、逆に大学は安めの学費に設定することで、入学試験で合格最低点より高い点数さえとれば誰でも行けるというようにして学校の値打ちを下げないように工夫していたのではないか・・と思う。それでも、国立大学は何学部でも学費は同じだったが、私立大学の場合は社会科学系・人文科学系学部(要するに、法学部・経済学部・商学部・文学部)は同じような学費だが、理工学部はそれより高く、医学部の場合は法学部・経済学部・商学部・文学部の倍ほどの金額であり、しかも6年行かないと行けないという事情があったので負担は軽くはなかった。なんで、日本基督教団田園調布教会の牧師の息子は、慶應義塾高校だの慶應大医学部だのといったカネのかかる学校に行っていたのだろうか? 牧師って給料高かったのだろうか?
  日本基督教団田園調布教会に行った時、「慶應の先生もここは来ておられますよ」と言う人があったのだが、「塾風教徒キリスト派」みたいなおっさんが来ていたということだろう。「一木一草に塾風が宿る」みたいな学校の教員やってる、《「塾風」の許す範囲内での「キリスト派」》、「塾風」をとるかキリストをとるかというとためらうことなく「塾風」をとる人、「塾風」のためならキリストを踏みつけるなんて当然で常識と思ってる男、それが「常識」であり「自我が確立されている」「アイデンティティーを身に着けている」であり、「独立自尊」とか「大人や」とか「そういう人間を企業は喜ぶ」とか「そういう人間が社会で役に立つ」とか「スマート」とか「社会を知っている」とか「ギャルにもてもて」とか思ってるおっさん。こういうことを言うと、そういうことを言う人間は「なんちゃらかんちゃら症候群」だ、「なんだかんだシンドローム」だとか「未成熟」とか「自我が確立されていない」とか「アイデンティティーを身に着けていない」とかなんちゃらかんちゃら「診断」してやろうと日ごろからたくらんでるようなおっさん。「独立自尊」とはどういう態度のことを言うべきだろうかなんて揺り籠から墓場まで考えることは絶対になく、あくまで慶應の内部進学の人間が「独立自尊」だと主張する権利があると心から信じているおっさん。田園調布教会の最寄駅は東急東横線・目黒線「田園調布」駅で、慶應の教養課程がある日吉は東急東横線「日吉」駅の前にあり、「日吉」から「田園調布」には、日吉-元住吉-武蔵小杉-新丸子-多摩川園-田園調布 と各停に乗っても5つ目、急行だと、日吉-武蔵小杉-田園調布 と2つめで便利で、同じ東急東横線の沿線だから、「慶應の先生」で行く人があっても不思議ではなかった・・が、あの牧師の息子、慶應義塾高校に行ったというのは、もしかして、その際に、その「塾風教徒キリスト派」みたいなおっさんに頼んだのだろうか? 「塾風教徒キリスト派」のおっさんは、牧師の息子を慶應義塾高校に入れることで、天国に近づいたのだろうか・・なんて言うと怒られるか? 別に怒ってもらってもかまわんけどな。なにしろ、私は、父親から「天の神さまは大変賢明なお方であってやなあ、この世の中は、ひとに命令したり号令かけたりする人間ばっかしでもいかんし、ひとから命令されたり号令かけられたりする人間ばっかしでもいかんわけで、天の神さまは賢明なお方であって、わしいのようにひとに命令したり号令かけたりするための民族と、あんたあのようにひとから命令されてひとに号令かけられてするのを喜ぶ民族と、2種類の民族をお造りになったわけや。わしはひとに号令かけるのが神さまからの使命であって、あんたあは号令かけられるのが神さまからの命令で、あんたあは号令かけられるのが何よりうれしいねん。あんたあは号令かかけられると喜ぶねん。そやからやなあ、わしはあんたを喜ばせてあげてやってやろうと思うて、号令かけたんねん。それ、てってこっこ、てっててって、らったらったらったらあ~あ!♪! 撃ちてしやまん! 一億火の玉! とってちってたあ! そら、うれしいじゃろ、チャンコロ、うれしいじゃろ、うれしいじゃろ、チャンコロ!」と毎日毎日言われてきた人間で、その「天の神さま」とかいうヤツは、私にとっては敵である。「天の神さまは大変憐み深いお方であってやなあ、天の神さまは、わしいのようなドイツ人にだけでなく、あんたあのようなチャンコロにもまた人生を用意してくださっておるのでR! すなわち、天の神さまは、チャンコロには常に服従する人生というものを用意してくださっておるのでR! 神さまに感謝しろおお!」と毎日毎日言われてきたものだ。「天の神さまがお決めになったオキテを変えようなどとは決して考えてはならぬぞ、チャンコロ! おまえはチャンコロでR! おまえは服従するための民族でR! ちゃんころチャンコロちゃんころ!」と毎日毎日言われてきた。だから、私にとっては「神」は敵である。そもそも、田園調布教会というのは「塾風をとるか学問をとるか」という時、迷うことなく「塾風」をとるような人達の行く教会である。いわば「塾風栄えて学問滅ぶ」みたいな大学にそれを疑問を感じることなく勤める人たちの行く教会である。「もはや、我、生くるにあらず。塾風我が内にて生くるなり」という人達(そういうのを「精神の独立」と思ってる人達、それって逆と違うのか・・なんて言う者は「未成熟」とか「なんとか症候群」と思ってる人)の行く教会である。そういう人達と「天の神さま」に呪われてきた者とは何の関係もない。
  「わしは同志社大学という立派な立派な大学を出てます」という「クリスチャン」の父は「この世の中というものは、ひとに命令する者、号令かける者ばっかしでもいかんし、ひとから命令されたり号令かけられたりする人間ばっかしでもいかん。天の神さまは大変賢明なお方であって、この世の中の人間を2つに分けてお造りになっているのであ~る。これは産まれる時点で神さまがお決めになったことであって、変えようとしても決して変えることはできないし、神さまがお決めになった分類を変えようなどという不遜なことを考えるような者を天の神さまは決してお許しにはならないのでR! 民族でもそうやろ、ドイツ人とかアメリカ人とかはひとに命令するための民族、ひとに号令かけるための民族でやなあ。わしはドイツ人でアメリカ人なんや。チャンコロとか、イタコとか、ロスケとか、ニグロとか、プエルトリコとかは、そいつらはひとから命令されるための民族、ひとから号令かけられることが向いている民族、号令かけられることに快感を感じる民族で、あんたはそれなんや。あんたはロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖で浪商の民族で、あんたは号令かけられることに快感を感じるんや。わかっとんねんなあ、この浪商め。浪商の分際で北野高校に行きおってからに、このチャンコロ!」と言うのであった。私は毎日毎日そう言われてきた。毎日毎日その「神さまの教え」を聞かされてきた。「天の神さまは、ひとに服従し支配されるための人間と、ひとに命令しひとを支配しひとに号令かけるための人間を、産まれる時点で分けてお造りになっておるのであ~る。これは神さまがお決めになったオキテであって、神さまが決められたオキテを変えようなどとする者を神さまは決してお許しにはならぬぞ、チャンコロ! わかっとんねんなあ、チャンコロ! わかっとんねんなあ、このチャンコロめがこのチャンコロ!」と父は毎日毎日、私の顔、鼻か眼のあたりを指で突き刺すようにして叫んできた。そう言われて、その「支配されるための民族」である「チャンコロでイタコでロスケで浪商の民族」らしい者は思ったのだ。「不忘階級苦(階級の苦しみを忘れるな)」「不忘民族恨(民族の恨みを忘れるな)」、「造反有理(反逆には理由がある。反逆は正しく、抑圧は間違っている)」、「革命無罪(革命は無罪である)」と。「革命はお客を招いてごちそうをすることではない」。教会の建物というものを見ると、「建築探偵団」としては、「いい建物だなあ」と思うこともあるが、「天の神さま」から呪われて産まれたらしい人間としては、カケヤでも持ってきて叩き壊したろか! て気持ちにならないこともない。

  牧師の給料については「働き人がその生活の糧を得るのは当たり前ではないか」という考え方もあるわけで、価値のある宗教について真面目に「職業としての宗教」に従事する人が報酬を得て悪いことはないはずである、という考え方はあるが、一方で、「牧師が金持ちというのはおかしい」という考え方もまたあるのではないか。
  私が高校に進学する時、大阪府に住んでいたということもあるが、慶應義塾高校に行きたいなんてまったく思わなかったし、そもそもそんな高校があることを私は知らなかったが、たとえ、慶應義塾高校に行きたいなんて思ったとしても、たとえ、慶應義塾高校に行きたいなんて口にしたとしても、そんなもの、絶対に行かせてもらえなかった。日本基督教団田園調布教会の牧師 高橋泰二の息子は、なんで、慶應義塾高校なんて行ったんだあ? なんで、慶應義塾高校なんて行けたんだあ? 慶應義塾高校に入学する際、牧師は田園調布教会に来ていた「慶應の先生」に、「どうぞ、よろしくお願いします」くらい言ったか? 今、刑務所にいるらしい山口組の若頭のなんとかさんが収監された理由は、「よろしく頼む」と言ったのが脅迫罪だかにあたるとされたそうで、「よろしく頼む」なんて単なる日常の挨拶じゃないかと反論したものの、検察・裁判所は、通常の人間が言えば単なる日常の挨拶でも、その人間の立場によるとそうではない、という判断をしたというものらしいが、日本基督教団田園調布教会の牧師が「よろしくたのみます」と言ったなら、それはどうだったのか・・? どう思います?
  母は、私が小学生や中学生の時、「親というものは、子供が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行って、やりたいと思う勉強をして、つきたいと思う仕事につけるようにと思うからこそ、無理にでも勉強させようとするんや」と言っていた。小学生や中学生の時の私は、そんなヨタ話を本気にしてしまって、それで、同級生が遊んでいる時も勉学に励み、そして、騙された。大学に実際に進学する時になると、そうではなく、「なんでも、カネだす者に決める権利があるんや。大学も親がカネだす以上は、親に決める権利があるのは当然や」と母も父も言い出した。騙された。ドブに捨てさせられるための努力をさせられたのだった。
  父は「うちは医学部になんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言うのだった。私は私立金権医学部に裏口入学したいなんて言ったのではない。国立大学の場合、試験に絶対通るという保証なんてないわけであり、落ちる可能性だってあるが、しかし、国立大学で合格しておかしくない点数をとれる可能性がある、という所ならあったはずだ。「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と私は言ったのだが、母は「何を甘ったれたこと言ってますのん、あんたはあ。落ちる可能性だってゼロとは違うでしょうが。落ちる可能性だってたとえ1パーセントでもあったら、落ちた時のことを考えると、医学部だの工学部だのなんて受けてはいかんでしょうがああ。何を甘ったれてますのんあんたわあ」と言うのだった。父は「うちは大学院になんか、行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言い、「うちは学校の先生になんかならすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言い、さらに、「学校の先生でも、数学か英語の先生でなかったら家庭教師のアルバイトができないから、特に数学か英語でない先生はなってはいかん!」と言い、「うちは司法試験なんか受けさせるような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言い、さらに、「京大はアカやから行ってはいか~ん!」と言い、「朝日新聞はアカや! 毎日新聞もアカや! マスコミに勤めるなら朝日新聞はいかん。毎日もいかん。マスコミに勤めるならNHKか産経新聞にしなさい。産経がええ、産経が」と言い、私が「産経新聞なんて絶対に嫌や!」と言うと、父は「何をこのチャンコロ、のぼせあがった口をきいとるんじゃ、このチャンコロ! このわしが産経がええと言うとるんじゃ。このわしがじゃ、わしが、わしが、わしが。んが、んが、んがあ!!!」等々と言い続けた。さらに父は「あんたが、どこでも行けるようにしなさい。そしたら、わしがどこがええか決めたるわあ」と言うので、「要りません」と言ったのだが、「のぼせあがるなよ、チャンコロ! このチャンコロろすけイタコ!」と言うのだった。「そういう大事なもんは、わしのようなえっらいエッライえっらいエッライドイツ人に決めてもらうものであって、チャンコロが決めるものとは違うねんぞ、このチャンコロめがのぼせあがりおってからに、産まれなければよかったのに、チャンコロ!」と言うのだった。
  私が行った北野高校は国立大志向の高校、特に「京大志向の高校」であったから、多くの科目を学習しないといけない高校であり、慶應大医学部の試験科目は数学1・2B・3、英語、物理・化学で、国語や社会科はなく、英語・数学・理科だけの大学というのは、北野高校のようなすべての科目を学習しないといけない高校の卒業生には不利であり、私は、もしも医学部を目指すとしても国立大学の医学部に行くつもりにしていて、慶應大医学部というのはあまり真剣に考えたことはなかったけれども、もし、私が慶應大医学部に行きたいと思って、かつ、模擬試験などでも合格できておかしくないというくらいの成績を取ることができたとしても、うちの親はそんなもの、絶対に受けさせてくれなかったと思う。「甘ったれるな!」「つけあがるなよ、チャンコロ!」と言われるのがオチだったはずだ。牧師の息子てええなあ、ほんまにええなあ、うらやましいなあ・・と思う。
  なんで、牧師の息子は、私なら絶対に行かせてもらえない慶應義塾高校だの、私なら受けさせてもらえないであろう慶應大医学部だのに行かせてもらえるのだろうか? 牧師って、そんなに金持ちなのか? 牧師にそんなに高い給料を払うべきなのだろうか? そもそも、日本基督教団田園調布教会は東急東横線「田園調布」駅から徒歩10分ほどの所にあって、それと別に駅から徒歩5分未満の場所に幼稚園と「牧師館」と称する牧師の社宅があったが、牧師館というのは、お寺の本坊がお寺の敷地の中の本堂からそれほど離れていない場所にあってこそ本坊であるのと同様に、牧師館は教会堂のすぐ横にあってこそ牧師館であって、教会堂と別の場所にあったのでは、それは「牧師の社宅」であって牧師館とは違うのではないか?!?
  田園調布駅の西側、田園調布の街は、渋沢栄一が計画して、駅の東側を商業地、駅の西側を住宅地として開発したもので、東側にも住宅はあるが、西側をもっぱら住宅地としたもので西側の方が「高級住宅地」になっているのだが、その西側、駅から徒歩5分未満なんて、超一等地に「牧師館」と称する牧師の社宅を用意してもらって、その「牧師の社宅」は教会堂とは別の場所にあるなんて、あんな「牧師館」なんて、あるか? ・・・といってもあったのであり、今もあるのだが、あんなものを「牧師館」とは言わないのじゃないか。
  実際、「田園調布駅から徒歩5分未満の戸建」なんて、そんなもの、住めたら一度住んでみたいもんだ・・と思うが、田園調布教会の牧師はそういう場所に「牧師館」と称する「牧師の社宅」を用意してもらって住んでいたのだ。牧師ってなんかええ職業やなあ。ぼくも牧師になったら良かった♪・・なんて思うなあ、ほんま! 牧師になるには、頭狂大学とか狂徒大学とか行かなくても、トーシンダイとかでなれるはずだし~い! ええよなあ、牧師って。日曜ごとに、なんちゃらむにゃむにゃ言っておればいいし、危険業務はないし。

  私は、東大の文学部にでも行って、宗教哲学を学びたいと思ったことがあったが、父は「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスは言うてお~る!」「宗教はアヘンであ~る。焼~き討ちじゃあ~あ! 焼~き討ちじゃああ!」と言ってきかなかった。そもそも、「焼~き討ちじゃあ~あ!」と始終叫んでいる「焼き討ち織田信長大好き人間」がなんでキリスト教の洗礼受けるのか、なんか、ぼく、頭悪いからなんかようわからんのやけど。まあ、キリスト教の洗礼を受けるとYMCA予備校で雇ってもらえて、「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」とか、「YMCAで主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない、相当にえらいクリスチャンのはずや」とか言ってもらえるという利益を得るためのコストとして洗礼を受けて献金払って礼拝に出ているという人もいるわけで、洗礼受けて特別献金払えば同志社に推薦入学で入れたわけだから、「コストと利益を比較衡量して」考えるという経済学的思考からいくと正しかったのかもしれない・・が。
 日本基督教団箕面教会(大阪府箕面市)のS田牧師は「家が貧乏やったから慶應大学なんか行かせてもらえないから一番学費が安い大阪経大に行ったんや」とか「牧師説教」で何度も言っていたらしいが、「家が貧乏やった」のなら私立の大阪経大より学費の安い国立大学の東大でも京大でも阪大でも行けばいいだろうが、なんで、「家が貧乏やった」のにからに私立の大阪経大に行くんじゃい!?! と思ったものだったが、「それは大阪経大の方がいいからでしょうがあ」と母は言うのだった、大阪経大の方が阪大よりもええかあ? で、大阪経大を卒業しても牧師になれるわけではなく、牧師になるためには同志社の神学部とか関学の神学部とかトーシンダイ(東京神学大学)とかを出ないとなれないはずで、S田牧師はトーシンダイに行って牧師になったらしいが、「家が貧乏やった」人間が、なんで私立大学を2つも行くのかマカ不思議! たとえ大阪経大の学費が「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」であったとしても、私立大学を2つも行ったら、両方合わせると決して絶対に安くないはずなのに、なんで、「家が貧乏やったから、慶應なんかには行かせてもらえなかったんや。家が貧乏やったから慶應なんかには行かずに大阪経大に行ったんや」と「牧師説教」で何度も何度も言うおっさんが、なぜ私立大学2つも行くのか、「ぼく、頭悪いからなんか、さっぱりわからへん」。
  さらに、日本基督教団箕面教会のS田牧師は、私立五流大学を卒業して会社員になったがうまくいかないので牧師屋に転職したいというにーちゃんをトーシンダイ(東京神学大学)に行かそうとして、「信者の皆さんで、◇◇さんをトーシンダイに行かすための学費を特別献金してください」などと言い出し、私には「うちは文学部になんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな、チャンコロ!」と言って、私が東大の文学部にでも行って宗教哲学の研究者になりたいと思ったら、「そんなもん、絶対にならすもんか、こいつうう~う」と母は言い、父は「おまえが産まれなければよかったのに産まれたおかげで、わしはおまえを育てるのにカネがかかって迷惑しとるんじゃ。これから、おまえに働いてそれをまどてもらわんといかんのじゃ! そんなもん、文学部なんて誰が生かすか! 甘ったれるな、チャンコロ!」と言い続けたが、その私の父は、私立五流大学を卒業して会社員になったがうまくいかないので牧師屋に転職したいからトーシンダイに行きたいという「ウルトラ甘ったれたヤツ」のために「特別献金」を払ったらしい。そして、言うのだった。「わしぁ、聖人やね~ん」と。
  『福音書』には「子供たちのパンをとりあげて子犬に与えるのはよろしくない」というイエスの言葉もあったはずだ。自分の子供がこういうことをやりたいと思って努力してきたのにそのための大学に行くカネは出さず、自分の子供よりもずっと成績が悪いよその子供が似たことをやりたいとなると「特別献金」をくれてやるというのは、そういうのはよろしくないと私が親なら考えるが、私の父母はそうは考えなかったようだ。そうではなく、息子というのは「すべてをわしのために、捧げつく~す! とってちってたあ~あ!」という存在で、それに対してよその息子というのは「特別献金」をくれてやることによって、おのれが「聖人」になるための存在であり、自分の息子とよその息子は立場が全然違ったわけであり、教会という所はそういう人のニーズを満たすための施設であり、牧師屋というのはそういう人を喜ばせることで報酬をもらう商売であるから、だから、それでいいということなのかもしれないが、自分には出してもらえなかったものを「特別献金」してもらってトーシンダイに行って牧師屋になったやつというのは私からすればおもしろくない。「それも神のおぼしめし」か? まったく、「神」というヤツはろくなものじゃないな。
  おそらく、私の父母から「特別献金」もらってトーシンダイに行ったやつも、今は牧師として「牧師説教」やっていることだろう。毎日毎日、私に「ちゃんころ、チャンコロ」言ってきたおっさんからもらった学費でトーシンダイに行って牧師屋にならせてもらった男が。私が牧師になりたいなんてたとえ言っても、トーシンダイじゃなくてトーシンダイよりは入試の難易度は難しいであろう同志社の神学部とか関学の神学部とかに行きたいと言っても絶対に行かせてもらえなかったが、私になら同志社の神学部でも関学の神学部でも行かせてくれないおっさんからトーシンダイに行くための学費を「特別献金」してもらって牧師屋になった男は、今は「一人前」の牧師屋になって日曜ごとに「牧師説教」していることだろう。終わりには「祈りましょう」とか言っていることだろう。・・なんか、その男の勤めている教会の教会堂、カケヤでぶっ壊してやりたいくらいの気持ちがする・・がそうもいかないだろうけれども気分の悪い話である。

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 田園調布教会の牧師の息子、なんで牧師の息子が慶應義塾高校だの慶應大医学部だのに行くのだろうか? ああいうやつを見るとたしかに「牧師が金持ちというのはおかしい」というのは真理だと思う。
 私が、もしも牧師になっていて息子がいたならば、ミッション系の私立の学校で比較的学費の安い所があれば、本人が希望した場合に行くという選択肢もあるだろうけれども、そうでなければ公立高校に行くべきだと思う。牧師の息子が慶應義塾高校に行くというのは、やっぱり、おかしい。牧師の息子が私立の医学部に行くというのも、やっぱりおかしい。『レ・ミゼラブル』の司教は給料を国から払われていたらしいが、現在の日本では牧師の給料を国が払ってりしない。牧師の給料は信徒の献金から出ているはずで、田園調布教会といえども金持ちばっかりが行っているわけではなく、信徒の息子が成績が良くても慶應義塾高校だの私立の医学部だのに行くことができないのに、牧師の息子が行けるというのはおかしい。
 (2019.4.28.+5.7.)

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