箕面教会見学【4/5】「債権者に追われた」人て被害者ですか?「家が貧乏」なら慶應大学に行けませんか?

[第420回] 日本の教会シリーズ( )-4
  日本基督教団箕面教会 の建物は、特にオリジナリティーに富むものではないけれども、入口が狭くいつも混雑しているという印象がありますが、教会堂として悪くないデザインと思います。
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  問題点として、教会のデザインをしていますが、はたして、ここは「教会」なのだろうか? はたして、ここは「キリスト教の施設」なのだろうか? という疑問があるのです。

  私が小学生だったか中学生だったかの時、下村牧師が現役であった時、クリスマスに行き、讃美歌を歌いながら歩くのにも参加させてもらったことがありましたが、その時の礼拝はキリスト教の礼拝だと思いました。その時、洗礼を受ける方が3人あって、そのうちの1人は高校3年の女性でしたが、あるキリスト教系の短大に推薦入学で行きたいと考えたそうでした。その件について下村牧師は「私は、これはお話していいと思うのですが、◇◇さんは御両親も教会に来ておられて洗礼を受けておられる方で、御本人は今まで洗礼は受けておられませんでしたが、これまでから教会にずっと来られていたのです。今回、☆☆短大に推薦で行こうと考えられたのですが、推薦を受けるためにはキリスト教の教会で洗礼を受けているということが条件でしたので、それなら、この機会に洗礼を受けようと考えられたのですが、私はそれはいいと思っています。決して、これまでまったく教会に来ていなかった人ではなく、これまでも教会にずっと来ていた人ですから、そういう人が進学するのを機会として洗礼を受けようというのは悪くないと思っていますし、また、これはお話してもいいと思っています」と話されたのですが、私も、それまで、『聖書』なんか読んだこともない、教会になんか行ったことがないという人が、大学なり短大なりに進学するためだけに洗礼を受けるということなら、それはいかがなものかと思いますが、そうではなく、それまでからずっと教会に来ていた人でまだ洗礼は受けていなかったという人が、進学を機会として洗礼を受けようと考えたというのは、悪くないと思いますし、又、ひとに話して悪いことでもないと思います。

  その頃の箕面教会は「教会」だったと思いますし、「キリスト教の団体」で「キリスト教の施設」であったと思います。しかし、その後、S田さんが牧師になってからの「礼拝」は、あれは「礼拝」だろうか? S田さんの「牧師説教」というのは、あれはキリスト教の施設での礼拝で「牧師説教」として話されるような内容だろうか? と疑問に思うのです。というよりも、実際問題として私としては迷惑なんです。
   S田さんは「礼拝」で「牧師説教」としてどういうことを言うかというと、「私は、子供の頃から、日夜、債権者に追われてきた。人間、いったい何が大変かといって、債権者に追われることほど大変なものはない。ああいう経験をした者はどんなことだってできる」なんて言うのです。はあ、そういうご経験をされたのですか。ああ、そうですか・・・。「子供の頃から」ということですから、「債権者に追われてきた」というその債務は、S田さん御自身ではなくS田さんの親がこしらえた債務だったのでしょう。どういう経緯でできた債務かは知りません。たしかに、債権者に追われるのは大変だったのでしょう。しかし、債権者に追われている人というのは被害者なのですか? お金を借りて返さないのでそれを返してくれと言ってきているのか、もしくは、何らかの仕事をしてもらったか掛けで物を買ったのにその報酬を払わないかだから、その代金を払ってくれと言ってきているのかと違うのですか? 債券というのは最初に債権をもっていた者から他の人間にそれが譲渡されることがあり、たとえば、100万円の債権を持っていても、とりたてることは困難だと思ったところに、その債権を20万円で買いますと言ってくる人がいたとすると、どうせ1円にもならないと思っていた債券だからここは「損切り」として20万円でもカネになるならいいわと思って100万円の債権を20万円で売るなんて人がでてきます。いわば『ナニワ金融道』の世界ですね。20万円で買い取った者は、それよりも1万円でも高い金額を回収できれば利益になるわけですが、債券としては100万円の債権があるわけです。しかし、最初の債権者が1円としてとりたてることは困難とあきらめて手放した債権をとりたてようというのですから、債権を買い取った人というのは最初の債権者よりも「きびしい」取り立てをする人ですね。この「きびしい」というものですが、世の中には「ヤクザではないがヤクザの一歩手前」みたいな人もいますし、少々荒っぽいことをされたとしても、債務を返していないという側はあまり強い立場に出ることもできません。そこを取り立てようという債権者というのは、まさに『ナニワ金融道』の世界ということになります。漫画で読むとおもしろいのですが、自分が取り立てられる側になると大変です・・が、しかし、それにしても、やっぱり、借りたカネを返さないからか、やってもらった仕事の代金を払わないからか、買った品物の代金を払わないからか、何かそういう理由があるから債権者は取り立てに来るのですよね。ですから、たしかに大変だったかもしれませんが、「債権者に追われていた」というのを、何だか被害者みたいに言うのはどうかとも思いましたし、それは自慢することではないのと違いますか? 何より「債権者に追われることほど大変なものはない」と何度も何度も言われるのですが、「債権者に追われることほど大変なものはない」と何度も言うのなら、せめて、払ってもらわないといけないものを払ってもらえずに逃げられた者の大変さというものもまた、百回に一回くらい言ったらどうなんだろうか? ・・と思います。思いませんか? 私、千葉市中央区の工務店 新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕で、給料を払ってもらえず逃げられましたし、私の私物まで持ち逃げされました。せめて、私の私物は、それは思い入れのある物だから返してくれと何度も言いましたが、社長の長谷川は返しませんでした。私、払うべきものを払わない社長とか、私物を持ち逃げして返さない男とか、そういう男から取り立てたいのですが、取り立てることができずにいます。弁護士もまた、私は、せめて、私の私物は返してもらいたいと弁護士に言ったのですが、千葉第一法律事務所の秋元は「いいが。そのくらい」と言うのですが、私は良くないのです。私の私物を持ち逃げした泥棒を、なぜ、いいにしてやらないといけないのでしょうか。弁護士の秋元こそまともに働かない着手金泥棒でしょう。S田さんは何度も何度も「債権者に追われることほど大変な物はない」と「牧師説教」としておっしゃるのですが、「払ってもらわないといけないものを払わってもらえずに逃げられた者の大変さ」「私物を持ち逃げされて返してもらえない者の大変さ」というものも、せめて、百回に一回くらいは考えたらどうかと思いますね。払ってもらわないといけないものを払ってもらえずに逃げられた者の大変さというものを、まったく考えない人間、払ってもらわないといけないものを払ってもらえずに逃げられた者の大変さというものをまったく考えないような男が、「債権者に追われることほど大変なものはない」と何度も何度も言われても、あんた、まだ、大変な思いが足らないのと違うの? と言いたくなりますね。そして、そういう話をして、S田さんは言うのです。「祈りましょう」と。 なんで、そんなもの、祈らないといけないの? S田さんは、本来なら払ってもらわないといけないものを払ってもらえずにいる人間て、ちっとも大変じゃないと言いたいのでしょうか? 何か、考え方が違うように思うのですけれども。

  S田さんは「私は家が貧乏だったから、だから大阪経大(大阪経済大学)に行った。家が貧乏だったから、慶應なんかには行かせてもらえなかった」とか、これも「牧師説教」で言うらしかった。「らしかった」というのは、先の「債権者に追われて大変だった」話の方は私が直接に聞いた話ですが、こちらの話はこれは母からのまた聞きです。しかし、これもおかしい。
  S田さんは私より少し年上ですが、S田さんが高校を卒業する時も私が高校を卒業した頃も制度は同じだったはずですが、今は制度が変ったかもしれませんが、私やS田さんが高校を卒業した頃は、日本育英会奨学金というものがあって、親の年収が低い人には日本育英会奨学金から学費分を出してもらえたのです。日本育英会奨学金から奨学金を受給できるかどうかは、高校・大学の場合は成績と親の年収によって決まります。大学院になると親の年収は関係なく成績だけで判断されるようです。高校・大学の場合は、成績は「ある程度以上」であればいいらしく、親の年収の方が重視されるらしい。会社員の場合、けっこう年収は少なくても、それでも日本育英会奨学金の規定する年収を越えているという評価になり、それに対して自営業の人は実際よりも安い年収として申告している人がいて、実際には相当の年収のある人の息子・娘で奨学金をもらっている人がいる。東大なんかは大学の敷地が広いので、片方で奨学金をもらっている息子が自動車で通学して東大の敷地にマイカーを停めているヤツがいるとかいう話があって、そんなヤツに奨学金をくれてやる必要があるのか? とか言われたりもします。ともかく、S田さんは「家が貧乏やった」ということですから、日本育英会の奨学金をもらえたはずなのです。支給してもらえた場合は、日本育英会奨学金で出してもらえるのは「学費分」で、私立金権医学部の「寄付金」なんてのは日本育英会奨学金は出してくれませんが、正規の学費であれば国立・公立・私立を問わず出してもらえます。ですから、S田さんは「家が貧乏やったから」ということなら日本育英会奨学金を支給してもらってそれで行きたい大学の行きたい学部に行けばよかったのです。
   母は、毎週のようにS田さんにそういう話を聞かされてきて、そして、私に何度も何度も言うのでした。「S田先生は家が貧乏やったから大阪経大に行ったんや。あんたとは違って慶應なんか行かせてもらえんかったんや」と。それを聞いて、父もまた、「そうや。S田先生はおまえなんかとは違うねんぞ。わかっとんのんか、チャンコロ! S田先生は家が貧乏やったから、大阪経大やねんぞ。おまえみたいに慶應みたいなもん、行かせてもらえてないねんぞ。わかっとんのんか、わかっとんのんか、チャンコロ! このチャンコロめが!」と。それで、私は言ったのです。「なんで、家が貧乏やったら、大阪経大なんて行かんといけませんのおん?」と。「家が貧乏やったのなら、学費のかかる私立大学の大阪経大じゃなくて、学費が安い国立の東大にでも行ったら良かったのと違いますのお~ん? なんで、S田先生は、東大に行かずに大阪経大にお行きになりましたあん? なんでですのおん? なんでえ?」と。そうでしょ。東大でなくてもいいけれども、「家が貧乏やったから」ということで、東京の慶應なり早稲田なりに行くのではなく地元の国立大学に行きましたあというのならわかりますよ。しかし、なんで、私立の大阪経大に行きますのおん? なんで?
   すると、母はこう言いました。「東大なんて言ったら、下宿せんといかんからお金がかかるでしょうよ。家が貧乏やったから、大阪の大学ということで大阪経大に行ったんでしょうが。あんたは何を言ってますのん」と。それで、私は言いました。「大阪の人間が東大に行くと下宿代がかかるというのなら、東大にはほんとに安い大学の寮がありますから、中には寮に入っていると学生運動やっていたのと違うかと勘繰られるのが嫌だと言って入らない人とか、学生のたまり場になって勉強しにくいと言う人とかもあるようですが、『家が貧乏やった』ということなら、この際、そういうことは言わずに寮に入れば良かったのと違いますのん?」と。
   そうすると、母は「何を言ってますのん、あんたは。たとえ、寮に入っても、東京まで行く交通費がかかるでしょうがあ」と。それで、私は言いました。「なるほど。大阪の人間が東大に行くと交通費がかかるけれども、大阪経大なら交通費がかからないから、それで大阪経大に行かれたということですか。それなら、東大じゃなくて、阪大か神戸大に行かれたらよかったのと違いますのおん? 阪大なら交通費がかからないでしょう。」と。
   母は「阪大よりも大阪経大の方がいいからでしょうがあ」と。「はあ? 阪大よりも大阪経大の方がよろしいか? なんか、ぼく、頭が悪いからなんか、ようわかりませんねんけど。阪大よりも大阪経大の方がよろしいんですかあ? あんまりそんな話、聞きませんけどねえ」。
   母は「何を言ってますのん。S田先生は家が貧乏やったから、あんたみたいに慶應なんて行かせてもらえんかったから大阪経大に行ったんでしょうがあ。あんたは甘ったれてるから慶應に行ったんでしょうがあ」と。慶應という学校は、どうも、世間から「ブルジョアの学校」みたいに見られているところがありますが、大学に関しては、昔から、学費は「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の学費の大学で、早稲田大学と慶應大学では、早稲田の方が「野人」とか言ったり、「庶民の大学」みたいなイメージをアピールしていますが、実際には、大学は慶應と早稲田なら慶應の方が学費は安いのです。かなり。早稲田と慶應と両方通ったけれども、慶應の方が学費が安いから慶應に入学したなんて言っていた人もありましたし。私は言ったのです。「なんで、慶應が『お金のかかる大学』なんですかあ?」と。世の中には、「慶應みたいなカネのかかる学校」などと言う人がいますが、大学に関しては慶應は「国立大学よりも高いが私立大学の中では安い方の大学」で「早稲田大学よりもかなり学費が安い大学」なのです。又、普通に考えて、最近、新設された私立大学は土地を買ったり建物を建てたりする費用がかかるのに対して、慶應のように古くからある大学は買わなくても前からのものがありますし、慶應は「OB(財界)が寄付をしてくれる大学」と昔から言われてきた大学であり、その分、運営しやすいようですし、新設の私立大学と違って、慶應の講師だと「ただでもやりたい」なんて人がいる・・かどうかはそこまでは知りませんが、特別に高い報酬を払わなくてもやりたいという人はあると思われる大学ですから、その点、新設の私立大学などより運営しやすいはずで、その分、学費を低めに設定しようと思えばできる大学のようです。ですから、「地方」の人で、地元の国立大学に行くか、東京の早稲田なり慶應なりに行くかという選択で、「家が貧乏やったから」地元の国立大学に行ったということなら話としてわからないことはないのですが、なんで「家が貧乏やったから」慶應大学ではなく大阪経大に行くのか、どうもよくわかりません。
   「慶應はカネのかかる学校」なんてどこの誰がそんなアホなことを言ったのかと思ったのですが、東京圏の生れの人に聞いた話では、慶應は大学に関しては「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の学費ですが、小学校から高校までは「私立の学校の中でも高い」そうです。なるほど、小学校から高校までは、意図的に高めに学費を設定して誰でもは行けないようにして、大学は逆に「私立大学の中では安い方」に設定することで「合格最低点を上回れば誰でも行ける」というようにして大学の価値を下げないように工夫しているようですね。なるほど、けっこう賢いじゃないですか。
   大阪経大というのは、昔から「私立の大学だが学費が安い学校」とされてきて、入試の難易度は易しいので、高校卒業時の成績はあまり良くないけれども、家は金持ちではなく、それでも大学に行きたいという人がよく行く学校で、家が金持ちではないがそれでも行きたいという人が行くだけあって、入試の難易度は高くないけれども、けっこう真面目な人が多い学校という印象を私は受けてきましたし、アルバイトで行った工場にも、昼間、工場で働いて、夜、大阪経大の夜間(二部)に行っていた人がいましたが、真面目ないい人だったという印象を受けています。しかし、私は慶應(東京のK大)と大阪経大(大阪のK大)のどちらが学費が高いか安いかなんてあんまり考えたことはありませんでしたが、慶應と大阪経大は、どちらも「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の学費の大学ですが、それでも、あえて、どちらが安いかというと大阪経大の方が安いという話もありますが、大阪経大に行った人というのは、慶應よりも大阪経大の方が学費が安いから大阪経大に行ったのですか? なんか、どう~も、違うように思うんですけどねえ・・。又、慶應の先生などは、「コストと利益を比較衡量して」といったことを言われるのです。たとえ、国立大学よりも慶應の方が学費がいくらか高かったとしても、「こっちの方がいいんだもん」と。少々コストが高くても、それを上回る利益があるならば、「コストと利益を比較衡量して」考えるならば、そのコストをかける価値は十分にあるという考え方があるわけです。大阪経大に行った人というのは、「コストと利益を比較衡量して」考えて、東大に行くよりも大阪経大に行った方が価値がある、慶應大に行くよりも大阪経大に行った方が価値がある、大阪大学に行くよりも大阪経済大学に行った方が「コストと利益を比較衡量して」価値があると判断して大阪経大に行ったということなのでしょうか? 
   母は「あんたは甘ったれてるから慶應みたいなもん行ったんでしょうがあ。S田先生は家が貧乏で根性が鍛えられてるから大阪経大に行ったんでしょうがあ。甘ったれなさんな、あんたはあ」と言うのですが、「家が貧乏で根性が鍛えられてる」人って大阪経大に行くのですか? 「家が貧乏で根性が鍛えられてる」のなら、その根性で京大でも阪大でも神戸大でも行けばいいのと違うのですか? なんで、「家が貧乏で根性が鍛えられてる」人が大阪経大に行かなきゃならんのですか? なんでえ? ぼく、頭が悪いからなんか、どうも、ようわからんのですけどねえ。
   日本育英会奨学金を受給できた場合、支給してもらえる金額はいくらかというと「学費分」で、関西医大に金権裏口入学したいなんて言っても、日本育英会奨学金は裏口入学の寄付金なんて絶対に出してくれませんが、正規の「学費」については、国立・公立・私立を問わず、学部学科に関係なく、「学費分」を出してもらえましたので、S田さんが言われる「家が貧乏やった」人の場合は、慶應大と大阪経大ではいずれも「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の大学であっても、もしも、大阪経大の方がいくらか安かったとしても、日本育英会奨学金で出してもらえる金額は「学費分」である以上、日本育英会奨学金を受給して大学に行く以上は行く人間にとっては一緒のはずなのです。なんで、S田さんは「家が貧乏やったから慶應には行かせてもらえなかったから大阪経大に行ったんや」などと言うのでしょう。わけわかんないよ。
   慶應大学の場合、慶應義塾奨学金というものがあって、日本育英会奨学金から学費分を受給できた人には慶應義塾奨学金から自動的に生活費を出してもらえるという制度がありました。他の大学にこういう制度があったのかなかったのかは知りませんが、慶應という大学は「ブルジョワの大学」みたいなイメージがあり、実際、内部進学の人などは比較的裕福な家庭の人が多いようですが、大学に関しては貧乏な家庭の息子・娘でも行けるようにという制度が相当ある大学であり、もし、S田さんが慶應大学に行きたかったのであれば、日本育英会奨学金で学費分をだしてもらい、慶應義塾奨学金で生活費を出してもらって慶應大学に行けばよかったのです。それでも、まだ不足なら、日吉に、月1万2千円で、毎日朝夕の食事つき、風呂は週に2回という大学の寮があり、同じクラスの人でその寮に入っていた人もいましたので、S田さんも日吉の寮に入るという方法をとっても良かったのかもしれません。母は「何を言ってますのん、あんたはあ。慶應なんか言ったら、行くための新幹線代がかかるでしょうがあ。何をあんたは甘ったれたこと言ってますのん、あんたはあ」と言うのです。しかし、私は大阪から東京、東京から大阪まで移動する際、新幹線なんか乗らずに、夜行バスの「ドリーム号」に乗るか、東京駅を11時半くらいに出た大垣行き快速にのって大垣で西明石行きに乗りかえて大阪駅まで行くかしていたのです。新幹線に乗ったことがないわけではないものの、「ぜいたくしてはならぬぞ、チャンコロ。ぜいたくすんなよ、チャンコロ」と父から毎日毎日言われてきましたし、東京駅から大阪駅行きの国鉄バスの「ドリーム号」に乗って大阪まで帰ったところ、父から「おまえ、そんな贅沢していいのか。甘ったれるなよ、チャンコロ。もう少し、安くする方法を考えなさい。甘ったれるなよ、このチャンコロめが、このチャンコロ」と言われ、なんとかそれよりも安く移動する方法はないかと考えたのですが、
1.飛行機のエコノミークラスと新幹線の普通席なら新幹線の普通席の方が安い。
2.新幹線の普通席と在来線夜行の急行「銀河」号のB寝台なら同じくらい。
3.新幹線の普通席と在来線の普通では、特急料金の分だけ在来線普通の方が安い。
4.在来線普通と夜行バス「ドリーム号」なら、「ドリーム号」の方が安い。
5.夜行バスは東京から大阪までの直通があるが、昼間の高速バスは東京から名古屋、名古屋から大阪はあっても東京から大阪の直通はない(1980年代)。昼間と夜行では特にどちらが安いということはない。昼間のバスは、箱根から東が渋滞して時間がかかる。
6.名古屋から大阪なら、近鉄特急という方法もあるが、東京から大阪だと、近鉄特急は高速バスより安いわけではないので、東京から名古屋まで高速バスに乗って、名古屋から大阪まで近鉄特急に乗るよりも、東京から名古屋、名古屋から大阪の両方を高速バスに乗った方が安い。
・・ということが判明したのですが、この中で最も安い夜行バス「ドリーム号」で東京から大阪まで乗って、それで父に「おまえ、そんな贅沢すんな。もうちょっと安くする方法を考えなさい」と言われたのですが、夜行バス「ドリーム号」より安い方法というと、その時、私が考えついたものとしては、東京駅の八重洲口から大阪駅行きのバスに乗ったのですが、大阪駅行きではなく京都行きに乗って京都から大阪府の家まで歩くという方法。 日吉から東急で渋谷まで行って渋谷から、東大地当時は国鉄であった山手線に乗って東京駅まで行って、東京駅から国鉄バス「ドリーム号」に乗ったのですが、日吉から東京駅まで歩くという方法。帰る日はお金がなくて、昼、日吉の食堂でチキンライスを食べたけれども、夜と翌日の朝はぬきましたが、夜と翌日の朝の食事をぬくのではなく、昼もぬくという方法。そのくらいしか思いつきませんでした。そういうことで、私は夜行バスに乗るか東京駅から大垣行き快速に乗って大垣で西明石行きに乗りかえるかという方法で東京―大阪間を移動していたのに、なんで、「家が貧乏やったから」というS田さんは新幹線に乗るという前提で考えるのでしょうか。「家が貧乏やった」人って、私が夜行バスか在来線の普通に乗るところを新幹線に乗るのですね。「家が貧乏やった人」って、もしかして、金持ちと違うのですか?
   父は私に「何でもお金を出す人間に決める権利があるはずや」と言っていたのです。「大学に行く学費を親が出す以上は、どこの大学のどの学部に行くか決める権利は親にあるんや」と言うのでした。「自分が行きたい大学の行きたい学部に行くようにしたいなんて言うのなら、新聞配達をして行きなさい」と言い、母もそれに同調していました。それで、私は「それなら、新聞配達をして自分が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行かせていただきます」と言ったところ、母は「何を甘ったれてますのん、あんたはあ」と言うのです。「親には息子には所有権という権利がある」と言うのでした。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」と孔子さんはおっしゃった。キリスト教の考え方では「父母に受く」ではなく、神から授かったと考えるものだったはずですが、ところが「教会」の考え方はそうではなく、自分の体というものは自分のものではなく、父母から授かったものでもなければ神から授かったものでもなく、生まれてから以降も親が所有権留保しているものだったようです。
   「たいだいな。おまえは慶應大学に行ったと思っておるかもしれんけどなあ。おまえが何か努力したから慶應大学に行けたのとは違うねんぞ。心得違いを起こすなよ、浪商! わしがエライから慶應に行けたのであって、お前が何か努力したから慶應大学に行けたのとは違うねんぞ、この拓殖めこのチャンコロ!」と言うのでした。この表現は、父の親友で医者屋やっていたM川という男が「わしはいつも息子に言うてやりますねん。おまえが関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学で入れたのは、おまえが努力したからと違うねんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。わしがえらいからお前は関西医大に入れてんぞ、とそないいつも言うたりますねん」と父に言っていたのです。父はそれを聞いて、「そうや。わしもそない言うたろ」と考えたようなのです。しかし。まず、M川は「わしがえらいからおまえは関西医大に裏口で入れてんぞ」とドバカ息子に言っていたというのですが、M川こそ心得違いをしています。それは、M川がえらいからではなく、M川に薬漬け・検査漬け・毒盛りされたかわいそうな「患者」とその家族のおかげで、M川のドバカ息子は私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口で行けたのであって、M川がえらいからではない。むしろ、そんな父親の息子に生まれたおかげで、「親の因果が子に報いた」のです。で、ともかく、M川のドバカ息子は私立金権関西医大に裏口入学したらしいのですが、しかし、私は、何も慶應大学に裏口で入れてもらったのではない。正規に入学試験を受けて合格最低点より高い点数を取って合格して入学したのです。M川のドバカ息子と一緒にされたのでは迷惑です。さらに、父は「おまえはなあ。おまえは北野高校に行ったと思っておるかもしれんけどなあ。おまえが何か努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ。おまえは浪商やねんぞ。浪商、このチャンコロ!」と毎日のように、私の鼻の頭を指さして言っていましたが、父の親友の医者屋のM川のドバカ息子は高校も裏口入学で入ったようですが、しかし、私は北野高校に裏口で入れてもらったのではないし、「一流大学」に合格者を多く出している高校でも、たとえば兵庫県の私立の灘高校などは、灘高校卒の人に聞いた話では、灘高校というのは私立なので、毎年、「あ、こいつ、裏口やな」てわかる人が何人かいるというのですが、しかし、北野高校は大阪府立であって裏口なんてないし、私は裏口で入れてもらったのではないのです。父は「おまえは、浪商で拓殖じゃ」と言うのでしたが、浪商高校というのは、私が高校生くらいの時は阪急京都線の沿線の大阪市東淀川区あたりにあったような気がするのですが、最近、インターネットで見ると、大阪府南部に引っ越したようですが、拓殖大学なんてどこにあるのかも知りません。拓殖というと、「右翼で・空手やってて・怖そう」というイメージがありますが、小堀住研(株)に入社した直後の新卒社員研修で隣の席の男が拓殖大学の建築学科だったか土木学科だったか卒の男でしたが、彼は右翼ではないようでしたし、優しそうな感じの男で、空手やってないみたいでした。拓殖というと「右翼で、空手やってて、怖そう」というステレオタイプは必ずしも拓殖大学のすべての卒業生にあてはまるわけではないみたいです。
  父は「おまえは慶應大学に行ったと思っておるかもしれんけどなあ。わしがえらいからおまえは慶應に行かせてもらえたのであって、おまえが努力したからとは違うねんぞ」と言うとともに、「わしかて、家が貧乏やなかったら、間違いなく慶應大学に行きました」と言うのでした。それに母も同調していたはずでした。しかし、父が他界して後、十数年経った後、マインドコントロールが抜けたのか、母は違うことを言うようになりました。「あの人、『家が貧乏やなかったら間違いなく慶應大学に行きました』やなんて、よく言うわ。あの人、家が貧乏やったから慶應大学に行きたかったけれども受けさせてもらえなかったのじゃなくて、落ちたから行けなかったのでしょうが。あの人のお父さん、ここのお祖父さん、船場の商社でものすごい出世して、ものすごいやり手で、新聞の一面に名前が載るような人だったのじゃないの。私と結婚した時は、戦争でだめになってお金のない家だったけれども、あの人が大学に行くころは、お祖父さん、ものすごいやり手で、家に女中さんがいたような家だったのじゃないの。あの人、毎日、女中さんに送り迎えしてもらっていた人でしょうが。な~にが、『家が貧乏やったから、慶應に行きたかったけれども受けさせてもらえんかった』よ。息子が知らんと思ってよく言うわ」と。まあ、そんなものなのかもしれませんが、しかし、世の中、そういうしょーもない嘘を言う人というのはけっこういるのですが、普通、よその息子にはそういう嘘を言っても、自分の息子には本当のことを言い、よその人間が言うウソッパチを、「おまえ、あんなしょーもないウソッパチを相手にすんなよ」と教えるものではないかと思うのですが、うちの父親は逆でした。 父は「わしは天高(天王寺高校)で慶應やねんぞお」と毎日のように言っていたのですが、「わしは天高(天王寺高校)やねんぞ」と言うわりに、なぜか、明星高校から同窓会の案内状が来ていたのです。なんでだろうなあ~あ・・と子供の頃から不思議に思ってきたのです。
   そんな感じで、ともかく、私は「自分が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行きたいと言うのなら、新聞配達をやって行きなさい」と父から言われ、「それなら、新聞配達をやって行きます」と言うと、今度は、「そうはいくかい。これまで、おまえを育てるのにカネかかっとるんじゃ。それを、これからおまえに働いてまどてもらわんといかんのじゃ、チャンコロ! そんなもん、なんで、本人が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部になんか行かさんといかんのじゃ。のぼせあがるなよ、チャンコロ! つけあがるなよ、チャンコロ! この浪商!」と言うのでした・・が、私はそう言われてきたのですから、ですから、S田さんも、もしも、日本育英会奨学金を受給できるのなら日本育英会奨学金を受給して大学に行けばよかったけれども、成績が日本育英会奨学金を受給できるだけの成績を取れていなかったが大学に行きたかったということなら、それなら、新聞配達をやって「新聞奨学生」として大学に行けば良かったのです。なんで、S田さんは「家が貧乏やったから、だから、慶應には行かせてもらえなかったから大阪経大に行ったんや」などと言うのでしょうか。新聞奨学生として新聞屋の配達をやって大学に行けばよかったのと違うのですか?
   私は、新聞奨学生というものも調べたのです。又、父が「新聞配達をやりなさい」と言うので、やったのです。実際に。だから、ある程度知っているのですが、新聞屋の新聞奨学生というのは、「奨学生」とか「奨学金」とか言っても、日本育英会奨学金とか慶應義塾奨学金とかとは性質が違います。新聞奨学生の「奨学金」というのは、名前は「奨学金」でも賃金の一部分です。新聞屋にはその店の正社員として勤めている人と、「新聞奨学生」として勤めている人とがいて、正社員として勤めている人は配達・集金・拡張(営業)の3つの業務をやりますが、「新聞奨学生」として勤めている人は主として配達だけです。「主として」というのは、自分が配達している区域の家の集金を1件だけしてきてくれとか頼まれたりすることもあったのですが、基本的には配達だけです。それに対する報酬は、新聞屋が用意したアパートの部屋に住む住居費・朝晩の食事・毎月の給料、それに届け出た学校の学費です。学校は大学でも短大でも専門学校でも予備校でもいいのです。日本育英会奨学金は成績が「ある程度以上」でないといけませんし、親の年収が多いと受給できませんが、「新聞奨学生」の「新聞奨学金」は給料の一部分ですから、成績は関係ないし親の年収も関係ありません。配達さえきっちりやってくれれば、新聞屋は成績がどうの親の年収がどうのなんて言いません。よく、「新聞配達をやって学校に行くなんて、えらいねえ」なんて言う人がありますし、私の親も、我が家に配達していた大阪経大だったか近畿大学だったかに言っていた大学生を「あの子は、あんたなんかと違ってえらいわあ」とか言っていましたが、新聞屋としては、ともかく配達をきっちりとやってくれれば成績がどうであろうが文句は言いませんし、どこの学校に行こうがかまわないのですが、私が新聞配達の仕事をした店には、すでに3浪していて今度も落ちそうなんて「新聞奨学生」の人がいましたが、この人、こんなことやってるよりも、さっさとどこでも入れる所に入るか、そうでなければ、さっさと新聞屋になった方がいいのと違うのお? て感じがしました。この人、そのうち、新聞屋になるのと違うのかな・・て感じがしました。40代・独身で「新聞奨学生」をやって、新聞配達で食べながら、趣味として学校に行っているという人もいました。本人がそれでいいのなら他人がどうこう言う必要はないことでしょうし、そういう人は長く「新聞奨学生」をやっていますから新聞の配達の技術は習得していて配達は上手ですから、新聞屋としては文句は言いませんが、しかし、「えらい」かどうかというと、なんかよくわかりません。そういう中途半端なことを長くしてるよりも、どっちかはっきりした方がいいのじゃないか・・なんて、余計なお世話かもしれませんし、えらそうなことを言うとおまえはどうなんだと言われるおそれもありますが・・、感じる人もいました。
   新聞屋の配達というのは、たとえば、「英語が話せる」とか「東大・京大クラスの大学に合格できる可能性のある学力がある」とか「旧型司法試験に合格する能力がある」とかそんな能力はなくてもできますが、体力的にもけっこうきついし、けっこう大変な仕事ですから、それに対しての報酬も、月々の給与+新聞屋が用意したアパートの家賃とその光熱費分+朝夕の食事+「奨学金」 が報酬だったわけです。その「奨学金」は「報酬の一部分」であって、日本育英会奨学金のように成績はいいが親の年収が少ない人に大学に行けるようにしようという趣旨で作られたものとは性質が違いますが、この「新聞奨学金」の場合も、「奨学金」という名目でいくらもらえるかというと、行くことにした学校の「学費分」だったのです。ですから、S田さんは、「国立大学よりは高いけれども私立大学の中では安い方」の大阪経大に行かなくても、新聞配達をやって「新聞奨学生」として勤めれば、国立・公立・私立を問わず、学部学科を問わず、「学費分」を「新聞奨学金」として出してもらえたのですから、大阪経大でなくても、慶應大学に行きたかったのなら行けばよかったのです。又、新聞屋の場合は、新聞屋の近くに住まないと、朝、始発の電車が動かない時刻から新聞の配達をしないといけませんから、新聞屋はそのためにアパートを用意して従業員を住ませており、その家賃もまた報酬の中に入っていますから、S田さんは、もしも、東大に行きたかったけれども、東大だと下宿しないといけないし新幹線代がかかるとか何とか言うのであれば、「新聞奨学生」として新聞屋のアパートに住むようにすれば家賃も要らないことになったはずなのです。なんで、S田さんは「家が貧乏やったから」とか言いながら、新聞屋の配達を「新聞奨学生」としてやらなかったのでしょうね?
    もっとよくわからないのは。S田さんは「家が貧乏やったから、だから、慶應には行かせてもらえなかったから大阪経大に行ったんや」と言いまくっていたようですが、しかし、「大阪経済大学卒」では牧師にはなれないはずなんですよね。大阪経済大学に限ったことではなく、東京大学文学部卒で東大で宗教哲学とか学んできても、文学部考古学科卒で『聖書』の世界について学んできた人でも、文学部の大学院に進んで大学の教員になる道はあっても牧師にはなれないはずなのです。牧師になろうとすると、関西学院の神学部とか同志社大学の神学部とかを卒業しないとなれないはずなのです。「ビッグコミック」に連載された『憂国のラスプーチン』の主人公のモデルである佐藤優氏は同志社大学の神学部卒で外務省に勤めたというのですから、けっこう「変わり種」ですね。S田さんは、牧師になったからにはどこかの神学部を卒業したのではないのか? ・・というと、トーシンダイ(東京神学大学)を卒業したそうです。なんで、トーシンダイ(東京神学大学)なんて行きますのん? 下宿代と交通費がかかるから、だから、東大に行かずに大阪経大に行ったのじゃなかったのですか? 東大に行くなら下宿代と交通費がかかるけれども、トーシンダイなら下宿代と交通費はかからないのですか? ・・なんか、もう、わけわかんないよ。
   それで。私は母に言ったのです。「下宿代と交通費がかかるから、東大に行かずに大阪経大に行ったという人が、なんで、トーシンダイになんて行くのですか?」と。「トーシンダイなんかに行くよりも、関西の人間なら、関学の神学部とか同志社の神学部とかに行った方がいいのと違うのですか」と。そうすると、母はこう言ったのです。「それは、関学の神学部とか同志社の神学部よりもトーシンダイの方がいいからでしょうがあ!」と。 はあ? で、私は言ったのです。「関学の神学部とか同志社の神学部よりもトーシンダイの方がいいですかあ? 普通に考えて、関学の神学部か同志社の神学部の方がいいのと違いますかあ? だいたい、トーシンダイやなんて、そんなん、知らんでえ~え。関学の神学部か同志社の神学部なら知ってるけど、トーシンダイなんて、そんなもん、知りまへんなあ」と。母は「あんたは神学部のことをよく知らんからそんなことを言うけれども、キリスト教の牧師さんにとってはトーシンダイの方が関学や同志社よりもいいてことでしょうよ」と言うのです。私は、「それなら、大阪経大と東大なら東大の方がいいのと違いますかあ? そりぁ、東大が何がなんでもいいてことではないとか、東大は役人養成所であって研究者の場合は京大の方がいいとか、民間企業には慶應などの方が向いているとか言う人もありますけれども。東大と大阪経大では東大の方が、まあ、普通に考えていいのと違いますの? 大阪経大の方が東大よりもよろしいですかあ?」と。すると、母は「東大に行くには下宿代も交通費もかかるから、だから、下宿代と交通費がかからない大阪経大にしたんでしょうがあ。そんなこともわかりませんのん、あんたはあ」と言うのです。それで、私は言いました。「はあ、そうですかあ。それなら、トーシンダイは下宿代とか交通費はかからんのですかあ?」と。母は言うのです。「それはトーシンダイの方が関学の神学部や同志社の神学部よりもいいからでしょうがあ。あんたは何を言ってますのん、あんたはあ」と言うのでした。
    たとえ、大阪経大が「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の学費の大学であったとしても、大阪経大とトーシンダイ(東京神学大学)と私立大学を2つも行ったのでは、両方を合わせると、ちっとも安くないはずなのです。かえって高いと思いますよ、かえって。大学を2つ行く人とか学部を2つ行く人とかは時々あります。しかし、そういう人というのはたいてい国立大学か慶應・早稲田といったそのくらいの大学に行った人であって大阪経大なんかに行ったような人が大学を2つ行くというのはS田さんの他にはあんまり聞いたことがありません。「私立大学を2つ行ったら、両方合わすとかえって高くなりませんか?」と私は母に言ったのです。ところが、母は「それは牧師になりたかったからでしょうが。それだけ、牧師になりたいという気持ちが強かったのでしょうが」と言うのですが、それなら、最初から関学の神学部か同志社の神学部か、それとも、その「名門」らしいトーシンダイに行っておけばよかったのであって、大阪経大は余計と違いますか? なんで、牧師になるのに必要もない大阪経大に行ったのですか? わけわかんないよ。

   結論を言うと、S田さんは高校を卒業する時点においては特に牧師になりたいとは思っていなかったのでしょう。「S田さんが高校を卒業する時点において、S田さんの学力で行ける大学の中では大阪経大が一番学費が安かったので、S田さんの学力で行ける大学いくつかの中では学費が一番安い大阪経大に行くことにした」ということでしょう。関学の神学部・同志社の神学部というのは、キリスト教系の大学としては大事な学部であるのですが、しかし、卒業後の進路としては牧師になる学部で、他の学部、法学部・経済学部・商学部・文学部と関学では理学部、同志社では工学部と比べて、神学部は入学試験の難易度が易しいようですが、高校卒業時において「神学部でも関学ならいい」「神学部でも同志社ならいい」というくらいの気持ちで受けて入学する人がいるようですが、卒業時において、法学部・経済学部・商学部卒の人と同じ扱いにはしてもらえないようです。しかし、関学の神学部や同志社の神学部の場合は、それでも、関学・同志社ですので、牧師以外の職業につく人もあるようで、必ずしも、牧師になろうという気持ちをはっきりと持っていたわけでもない人で入学する人もあるようです。入学試験の難易度は、旧帝大系国立大学に進学しようとしていたような人からすれば、関学の神学部も同志社の神学部も相当易しいはずですが、大阪経大くらいにしか行けない人にとっては関学の神学部や同志社の神学部は相当に難関だと思われます。それに対してトーシンダイ(東京神学大学)は、《ウィキペディア―東京神学大学》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6 によると、≪受験資格は、一般の大学の受験資格に加え、プロテスタント教会で洗礼(バプテスマ)を受けて1年以上教会生活を送っていることと、所属する教会からの推薦を受けられることが必要である。入試においては、学力というよりも召命感が重んじられているということで、たとえペーパーテストの成績が良かったとしても、伝道者を目指す目的が明示されないと入学が許されないこともあるという。社会人を経て受験する人も多い≫ということで、もっぱら牧師になる人を養成する学校という位置づけの学校らしく、関学の神学部や同志社の神学部が高校を卒業してすぐ、もしくは1浪くらいで入学する人が多いのに対して、トーシンダイの場合は、一度、勤めてから牧師に転職しようと考えた人で入学する人がけっこうおり、入学の合否は、試験の成績よりも、牧師になりたいという気持ちを強くもっているかどうかという点を見られるようです。ですから、学力は高校卒業時においても大阪経大くらいに入る程度の学力しかなかったが、牧師になりたいという気持ちははっきりしていたらしいS田さんにとっては関学の神学部や同志社の神学部よりもトーシンダイの方が入りやすかったし、S田さんに向いていたということでしょう。
  それにしても、大阪経大とトーシンダイと私立大学を2つも行った人から、「家が貧乏やったから慶應には行かせてもらえなかったんや」とかなんとかかんとか、「牧師説教」と称して言われる筋合いはないんですよね。
  そもそも、「家が貧乏やったから慶應なんかには行かせてもらえんかったんや」とか私立大学を2つも行ったような男が勝手なこと言うというのは、それは「牧師説教」でしょうかねえ? S田さんは「私は子供の頃から、債権者に追われる生活をしてきた。こういう経験をしてきた人間は、どんなことだってできる」とか言って、そして、「祈りましょう」とか言うのですが、そういうのって、「礼拝」ですか?

   S田さんは「牧師説教」だと言って「私は債権者にずっと追いかけられてきた。債権者に追われることほど大変なものはない」とかなんとかおっしゃるのですが、もし、私が借金こしらえて、その借金をS田さんに肩代わりしてもらって、そのためにS田さんが「債権者に追いかけられてきた」のであれば、「どうも、えらい、すんませんねえ」とでも言うべきでしょうけれども、違うだろ。私の借金を肩代わりしてもらったわけでもないのに、「私は債権者にずっと追われてきた。こんなに大変なことはない」とか、そんなこと言われても、知らんがな、そんなもん。そう思いませんか?

  教会員の息子で「一流大学」でない方の大学を卒業して勤めたがうまくいかないので牧師にDODAしたいと思った人があったらしく、S田さんは「トーシンダイに行けるように、皆さんで☆☆さんのために学費を特別献金してください」と呼びかけたという。私が東大の文学部に行って宗教哲学の研究者になりたいと思うと、私の父母はありとあらゆる嫌がらせをして妨害したものでしたが、よその息子がいったんどこかの大学を卒業した後、牧師に転職したいからトーシンダイに行くための学費がいるとなるとそのための「特別献金」を払ったようです。なんか、無茶苦茶むかつくんですけど。息子になら出さないカネをよその息子に「特別献金」して、そして父は「わしは聖人やねん」とか言っていました。

  箕面教会HPの「教会のあゆみ」を見ると、S田さんは≪青年層の伝道に力を入れ、多くの若者たちが集いました。新教室での卓球が盛んだったのもこの頃です。≫て書いてありますが、「私は子供の頃から債権者に追われてきた」とか聞かされて卓球やったとしても、それってキリスト教でしょうか? 

 (2018.11.28.)

  次回、5.「特別献金」でトーシンダイに行った男。「思考が柔軟だから」裏口入学の男 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201811/article_6.html

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