角川庭園(旧角川源義邸)【1/10】角川書店、自分が創設した賞には応募しない者と自分に受賞させる者

[第402回] 角川庭園と大田黒公園【10/10】  「数寄屋造り」と言われる建物[6]-1
  東京都杉並区のJR中央線「荻窪」駅の南側にある「角川庭園」旧角川源義邸 「すぎなみ詩歌館」 「幻戯山房」)と「太田黒公園旧 太田黒元雄邸)を見学してきました。
  角川書店の創設者の角川源義〔1917年(大正6年)10月9日 - 1975年(昭和50年)10月27日〕の「源義」は「げんぎ」と読むのか何と読むのか・・と前々から思ってきたのですが、《ウィキペディア-角川源義》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%BA%90%E7%BE%A9 によると、どうやら、「げんよし」と読むのが正しいようですが、≪俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)≫と出ており、「げんよし」と読むのが本名だが「げんぎ」と読む「源義」も俳号として使用していた、というものらしい。 角川書店の創設者で、2代目の角川春樹は『セーラー服と機関銃』とか「見てから読むか、読んでから見るか」とかいった路線に進み、「なんかパッパした感じ」になりましたが、初代の角川源義(かどかわ げんよし)さんは、現地の「展示室」の説明書きによると、富山県の米問屋の3男で、角川源義さん自身が国文学者で新人・俳人であり、板橋区に角川邸があった時に、応接間を事務所として角川書店を創設したのが角川書店の始まりだったらしいが、源義さんの時代の角川書店は、硬い本、真面目な本の出版社だったはずです。もっとも、《ウィキペディア-角川源義》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%BA%90%E7%BE%A9 には、≪社内では「角川天皇」、私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って私生児を産ませるなど奔放な生き方を貫いた。≫とも出ている。他界した時、まだ、58歳ですから、けっこう若い年齢での他界ですね。
  私なんかが小学校の高学年から中学生・高校生くらいの時期、1970年前後から1970年代後半にかけての時期の角川書店と角川文庫・角川選書といったものは、岩波書店の岩波文庫やその他の出版物と並ぶ硬派の内容のある本が多かった。 とりあえず、思い浮かべるものとしては、
矢内原忠雄『イエス伝』(角川選書。今は、角川文庫から発行されたが、また、絶版になってるみたい)
阿部次郎『合本=三太郎の日記』(角川選書)
ロバート=ペイン『毛沢東』(角川文庫)
高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)
フロイト『性と愛情の心理』(角川文庫)
遠藤周作『火山』(角川文庫)
 〃 『わが青春に悔いあり』(角川文庫)
三浦綾子『石ころのうた』(角川文庫)・・・・
その他に、角川書店以外の出版社、岩波文庫・新潮文庫などからも出版されている文学者の著作、夏目漱石『三四郎』とかそういったものも角川文庫は出版していた。私が小学生・中学生の頃、書店の棚にある文庫本というと、新潮文庫、次いで角川文庫。岩波文庫は、≪他の出版社の用いる出版取次を通じた返品制を採用しておらず、全て書店の買取という責任販売制の形を採っている。≫(《ウィキペディア-岩波書店》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97 )ことから、《ウィキペディア-岩波書店》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97 では≪小さな書店では顧客からの注文が無い限り、岩波書店の書籍をほとんど取り扱っていないことが多い。≫と書かれているが、「岩波書店の書籍をほとんど取り扱っていない」とまでのことはなく我が家の近所の小規模書店でも岩波新書は置いていたが、夏目漱石・森鴎外・太宰治・芥川龍之介など、岩波文庫からだけでなく、新潮文庫や角川文庫からも出版されている小説については、第一に新潮文庫、次いで角川文庫で出版されているものが置かれていて岩波文庫のものはあまり置かれていなかった。 私が小学生だった1970年前後、近所の書店の棚にある文庫本というと、新潮文庫が多く、次いで角川文庫だったが、《ウィキペディア-角川源義》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%BA%90%E7%BE%A9 に≪1949年、角川文庫を創刊。文庫本の刊行形態は(今でいう出版レーベル)、戦前既に岩波書店と新潮社の二つの老舗により、開拓されていたため、新興出版社である角川書店の進出が成功するかどうか危ぶまれたが、結果として関係者が驚くほどの成果を得た。 ≫と出ており、新潮文庫の方が角川文庫よりも先に発刊されていたらしい。
  角川文庫の「角川文庫発刊に際して   角川源義」を見ると、
≪ 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗北であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及浸透を任務とする出版人としての責任でもあった。
  1945年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を要すためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果たすべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする、しかし私たちは徒に百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
      1949年5月3日 ≫
と出ているが、戦前に始められた岩波書店の岩波文庫の「読書子に寄す-岩波文庫発刊に際して-  岩波茂雄 昭和2年(1927年)7月」の文章と内容はけっこう似ているみたいで、岩波文庫の戦後版みたいな感じともとれます。 角川書店と角川文庫・角川選書というのは、かつては、そういう「岩波書店・岩波文庫の戦後版みたい」な硬派の書籍を出していたのだが、1980年代に入って、角川書店は「読んでから見るか、見てから読むか」・・・に移行して、そして、「お母さん、阿部次郎『合本=三太郎の日記』とか出していたぼくのあの角川書店、いったい、どうしたでしょうね?」て感じになってしまった。・・・まあ、横溝正史の『八つ墓村』とか『犬神家の一族』とかも面白いけどね・・・・・。「たたりじゃ、たたりじゃ。八つ墓明神さまの、たたりじゃあ~あ!!!」てのも。
   ちなみに、明六社というのがいつ設立されたかというと、明治6年だから明六社というのだが、この覚え方として、私は高校生の時、「岩波(1873)ほど大きくない明六社」として覚えた、そして、明治6年=1873年 と覚えたのだが、実際の岩波書店はいつできたかというと、《ウィキペディア-岩波書店》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97 によると、1913年(大正2年)に東京の神田神保町に開いた古書店が始まりだそうで、戦後の1949年(昭和24年)に株式会社になったらしい。明治6年(1873年)には、まだ、できていない。角川書店は、《ウィキペディア-角川書店》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%9B%B8%E5%BA%97 によると、1945年に創業、≪1949年「角川文庫」を創刊し、岩波書店の文庫編集者だった長谷川覚を招き入れる。≫とあるから、岩波文庫と共通する部分があっても不思議はないようだ。≪ 2003年4月1日に持株会社制度に移行し、角川ホールディングス(現:KADOKAWA)に社名変更して純粋持ち株会社となる一方、事業会社として新規に株式会社角川書店を設立≫したらしい。 私が小学生・中学生の頃、1970年前後から1970年代前半、書店に行って、夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介・太宰治・志賀直哉・井上靖・山本有三・三島由紀夫・川端康成といった「文学者」の小説を購入したいと思うと、書店にあった最も一般的な文庫本は新潮文庫で次いで角川文庫だった。新潮社は、本多勝一の文章によると、右翼特高マスコミの1つだというのだが、言われてみると、たしかに、「週刊新潮」は、「週刊文春」とともに右派週刊誌の代表格で、しょーこりもなく、左派やリベラル派に対して、あるいは「朝日新聞」に対しての質の低い攻撃をしょっちゅうやっているが、だから、保守系には常にヨイショしているかというとそうでもないようで、自民党の敦賀の下着泥棒 高木某を批判する記事を載せたりもしている。
  新潮社と新潮文庫はいつできたのかというと、《ウィキペディア-新潮社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%AE%E7%A4%BE によると、≪1896年7月に創業された新聲社が前身。田山花袋などの自然主義者の書籍を出版していた。1914年には新潮文庫を創刊した。≫というものらしい。

  整理してみよう。
<1868年(明治1年)  明治維新>
1873年(明治6年) 明六社 設立。
<1894年(明治27年) 日清戦争>
1896年(明治29年) 新聲社(新潮社の前身) 設立。
1913年(大正2年) 岩波書店、神田神保町に古書店として設立。
<1914年(大正3年) 第一次世界大戦>
1914年(大正3年) 新潮文庫 創刊。
<1925年(大正14年) 治安維持法制定>
1927年(昭和2年) 岩波文庫 創刊。
<1931年(昭和6年) 満州事変>
<1945年(昭和20年)  「終戦」もしくは、敗戦>
1945年(昭和20年) 角川書店、板橋区に設立。
1949年(昭和24年) 岩波書店 株式会社になる。
1949年(昭和24年) 角川文庫 創刊。
<1950年(昭和25年) 朝鮮戦争>
  こうやって、ウィキペディアの記事をもとに並べてみると、岩波書店と新潮社では岩波書店の方が先からあったのかと思っていたら、新潮社の前身の新聲社の方が設立は先で、岩波文庫と新潮文庫では岩波文庫の方が創刊は先かと思っていたら、新潮文庫の方が先らしい。

【受験生のための日本史】
≪ 明六社 めいろくしゃ 1873~79  啓蒙的思想団体。森有礼が発議。福澤諭吉・中村正直・西周・津田真道・加藤弘之・西村茂樹らが参加。明治6年創立で明六社という。
「明六雑誌」  1874~75  明六社の機関紙。啓蒙思想の紹介宣伝に貢献。新聞紙条例発布により43号で廃刊。≫
( 全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1975.新版  山川出版社 )

   今回、なぜ、旧角川源義邸(「角川庭園」「すぎなみ詩歌館」「幻戯山房」)を訪ねてみようと考えたかというと、《ウィキペディア-数寄屋造り》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AF%84%E5%B1%8B%E9%80%A0%E3%82%8A に、≪角川源義の元邸宅を近代数奇屋造りの邸宅として、国の登録有形文化財となっている(杉並区立角川庭園 )。≫と出ていたことによる。
  「数寄屋」「数寄屋造り」とは何か・・・というのは、実際のところ、けっこう難しいのだが、その「数寄屋造り」の建物としては、『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(インテリア産業協会)には、「わび」「さび」の方の「数寄屋造り」として桂離宮、「きれいさび」の方の「数寄屋造り」として西本願寺(浄土真宗本願寺派本山本願寺)の飛雲閣と金沢市の成巽閣(せいそんかく)があげられている。山田信亮(のぶあき)・井上国博・齋藤裕子・秋山秀猷(ひでのり)『初めて受ける インテリアコーディネーター試験 インテリア基礎編』(1989.9.1.オーム社)では、「インテリアの歴史」「日本の歴史(2)」のところで、≪数寄屋造り(茶室)-茶室趣味の建築様式で、丸太の肌や、土壁の持ち味などを生かして、風流・上品に洗練された表現をもつ造りをいいます。桂離宮や修学院離宮、また妙喜待庵などの茶室に見ることができます。≫と書かれているのだが、「数寄屋造り」と「茶室」は共通点もあるかもしれないが、同じではないと思うし、桂離宮・修学院離宮と妙喜庵待庵も共通点はあってもやはり同じではないように思うので、このあたりの記述は、インテリアコーディネーターの1次試験の「学科」においてはその程度の理解でも合格できるかもしれないが、まるまる見当はずれということではないとしても的確とは言えないのではないかと思う。私は、京都の桂離宮と修学院離宮、それに西本願寺飛雲閣と金沢市の成巽閣は、住宅建築業の会社に勤める者として一度は見学に行く必要があると思って、苦労して万難を排して見学にいったが、飛雲閣は通常は公開されていないが、西本願寺の御影堂からと北小路通りから端っこの方が少しだけ見える。修学院離宮については、霞棚など建物内部も外から見せていただくこともできたが、しかし、印象としては庭園の印象の方が大きく、数寄屋造りとしての印象はそれほどなかった。だから、『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』では「わび」「さび」の方の代表として桂離宮のみをあげているのはわかる。桂離宮のみを見学して、これが数寄屋だと言われると、はあん、そうかいなあ~あ・・・と思うところだが、『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』に「きれいさび」と言われる数寄屋もあって、西本願寺飛雲閣や金沢市の成巽閣がそれだと言われ、成巽閣を見学してみると、桂離宮だけにしておけば迷わないのに、両方見ると、なんだか、よくわからなくなってくる。
  《ウィキペディア-数寄屋造り》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AF%84%E5%B1%8B%E9%80%A0%E3%82%8A では、その他に、修学院離宮、伏見稲荷大社御茶屋(重要文化財)、曼殊院書院、臨春閣(旧紀州徳川家藩別邸、三渓園へ移築)、角屋があげられ、≪ 京都工芸繊維大学の名誉教授で茶室や数寄屋建築の研究や建築家でしられる中村昌生は京都の数寄屋造りについて「京数奇屋名邸十撰」として以下の邸宅をあげている。野村碧雲荘、霞中庵、清流亭、對龍山荘、四君子苑、広誠院(旧広瀬家別邸)、虎山荘、山科山荘、嵯峨有心堂、土橋邸≫、≪ 角川源義の元邸宅を近代数奇屋造りの邸宅として、国の登録有形文化財となっている(杉並区立角川庭園 )。≫と出ている。 それで、見学に行ってみたのだが、悪くはないが、しかし、「近代数寄屋造り」と言われると、う~ん・・・・、どうかな・・・という印象であった。
   ドイツ人の「建築家」のブルーノ=タウトさんという人は日本では知名度の高い「建築家」ではあるが、ブルーノ=タウトさんが設計した建物で有名であるのではなく、「日光東照宮をボロクソに言って桂離宮と伊勢神宮を称賛した人」として有名な人である。ブルーノ=タウト『日本美の再発見』(岩波新書)を見ると、タウトさんは、飛雲閣もまた「いかもの」として否定する方、日光東照宮の側に置いている。 タウトさんの感覚では、桂離宮・伊勢神宮はすばらしいものの方で、日光東照宮や飛雲閣は悪趣味で評価できないものの方らしいのだが、杉並区の旧角川源義邸は、もしも、タウトさんが見たとするとどちらになるかというと、おそらく、桂離宮・伊勢神宮の側、プラスの評価を得る側になるのではないかと思うが、あくまでも本屋の社長の個人の家であって、あまりにもものすごいものがあると期待して行くと、悪いことはないのだけれども、そこまでものすごいものがあるわけではないので、あくまで、本屋の社長の家だと思って行った方がいいのではないかと思う。規模としては、旧角川源義邸は、船橋市薬円台の野田邸(普通の家)よりは大きいが、渋谷の麻生邸の方がずっと大きい。
画像

↑ 「旧 角川源義邸」(「杉並区立 すぎなみ詩歌館」 「幻戯山房」 「角川庭園」)


   角川源義(げんよし)さんについて、どこで読んだか忘れてしまったのだが、角川源義さんは、自分自身も文学者であり俳人で、同時に出版社の社長でもあったのだが、源義さんは他の出版社が実施した文学についての賞に応募はしたが、自分の会社(角川書店)が実施した文学についての賞に自分が応募することは絶対にしなかった、というのだ。 自分で賞を作って自分に受賞させても、そんなものは何の意味もないし、その賞の価値を低くするだけだと認識していたようである。 2000年たったか2001年だったか、(株)一条工務店 http://www.ichijo.co.jp/ の社内報に、「杉山英男賞」という賞を創設いたしましたあ・・・という記事が出ていたのだが、それで、(株)一条工務店が創設した「杉山英男賞」という「賞」に誰を受賞させたかというと、第1回の受賞者は・・・・・→ なんと! (株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎です・・・・て、アホか! 自分で賞を作って自分に受賞させて、どないすんねん!!!アホちゃうか! と思ったが、どうも、(株)一条工務店という会社と初代社長の大澄賢二郎という男はそういうことをしたがる男だった。(労基法違反の会社が、本来なら従業員に払っておくべきであったカネをちょろまかし、本来ならかけておくべき安全対策費をけちって、それで貯め込んだカネから、「防潮堤の費用」と称して浜松市に300億円寄付するという売名行為をおこなったが、それも、「杉山英男賞」を作って自分に受賞させるという姿勢の延長の行為と考えてよさそうである。そんなものを受け取って大喜びして労基法違反の会社の大株主の大澄賢二郎を称賛している浜松市長で慶應大学ア法学部卒の鈴木康友、福島第一原発事故の直後に静岡茶の放射線量調査を拒否した静岡県知事の川勝なんたらは、自分もまた、大澄賢二郎の仲間のアホですよおと宣言しているようなものである。労基法違反の会社から浜松市が寄付をもらうということは、結果として本来なら従業員が受け取るべきであったカネを浜松市が強奪したということと変わらないことになる、その程度のことも理解できない鈴木康友という慶應大学ア法学部卒の男は白痴と言うしかない。又、(株)一条工務店は全国で営業してきた会社で全国から利益をあげさせてもらってきた会社であり、特に、たとえば、1992年からしばらく、「セゾン275S1」という商品は、東京都・神奈川県では坪55万円で契約していたにもかかわらず、浜松・掛川など静岡県西部においては、坪48万円、名古屋では坪49万5千円でダンピング販売していたのであり、いわば、(株)一条工務店で浜松・掛川・名古屋で契約して建てた人は、東京都・神奈川県で契約して建てた人が払ったカネで家を建てたようなものであった。そういうこれまでからして「もともと得してきた浜松」にのみ「お世話になった浜松に恩返しをしたい」などとふざけたことを大澄賢二郎が発言して、浜松市にのみカネを寄付するということは、浜松市以外の都道府県・市町村には世話になってないと言っているようなものである。浜松市以外の都道府県・市町村とその地域で建てた人たちにとってはこんな失礼な話はない。浜松市長の鈴木康友はこの程度のことも理解できないらしいが、ア法学部卒だけあって、賢明とは言えないようである。ともかく、カネもらえるならそれでいい、みたいに思っているのなら、そういう認識の人間というのは市長など行政機関の長になるのはふさわしい人間と言えるかどうか疑問である。)やることがあさましい。 杉山英男という人は明治大学の教授で東大農学部の名誉教授で木構造についての研究者であった人で、
『デザイナーのための木構造』(彰国社)
『木造住宅は地震に強いか』(講談社 ブルーバックス)
『地震と木造住宅』(丸善)
『木造の詳細 1.構造編』(彰国社)
『安心という居住学―今、なぜツーバイフォーか』(三水社)
など、木構造について良心的な本を書いてきた人であり、私も何冊も杉山英男の著作を読んで学習した。杉山英男の著作は良心的なものが多いと思うが、しかし、(株)一条工務店が創設して、まず、(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎に受賞させたという「杉山英男賞」という「賞」はあほくさい限りであり、杉山英男という人の値打ちを下げるだけのものでしかない。

   「大田黒公園」の方は、荻久保駅から「角川庭園」(旧角川源義邸、「杉並区立 すぎなみ詩歌館」「幻戯山房」「角川庭園」)への途中にあったので、寄ってみたところ、「公園」とはいっても、野球やったり、滑り台やジャングルジムがあったりする「公園」ではなく、なかなかの庭園があり、由緒ある西洋館や茶室があったりする「公園」で、大田黒元雄という音楽評論家の邸宅だったところだと知った、というものである。

   次回https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_10.html
 、JR「荻窪」駅から 旧角川源義邸(「杉並区立 すぎなみ詩歌館」「幻戯山房」「角川庭園」)への順路をまず述べる。

※ 杉並区HP 角川庭園 http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/kouen/02/ogikubo/1007132.html
《ウィキペディア-角川源義》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%BA%90%E7%BE%A9
《ウィキペディア-数寄屋造り》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AF%84%E5%B1%8B%E9%80%A0%E3%82%8A
《ウィキペディア-杉並区立角川庭園》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA%E7%AB%8B%E8%A7%92%E5%B7%9D%E5%BA%AD%E5%9C%92

  (2018.9.26.)

☆ 角川庭園と大田黒公園訪問
1. 角川書店・角川文庫の由来。自分が作った賞には応募しない者と自分に受賞させるために賞を作る者 〔今回〕
2. 荻窪駅から。レッカー車で吊った鉄の塊の真下で作業させる会社 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_10.html
3. 角川庭園への道。さりげなくかわすべし。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_11.html 
4. 角川庭園への道。警察シンパの精神構造。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_12.html
5. 北面から入口へ https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_13.html
6. 外観と茶室への経路。住宅屋の言う「数寄屋」「桂」とはhttps://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_14.html
7. 内部。障子を引き込む戸袋。板張りの和室 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_15.html
8. 庭園。最寄バス停 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_16.html
9. 荻窪駅から大田黒公園。大谷戸さくら緑地・善福寺川 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_17.html
10. 大田黒公園。正門・銀杏並木・茶室・記念館・蔵・庭園 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_18.html

☆ 《 「数寄屋造」と言われる建物 》について
桂離宮(京都市) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201101/article_13.html
修学院離宮(京都市)
1.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_1.html
2.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_2.html
3.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_3.html
西本願寺飛雲閣(京都市)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html
三渓園 臨春閣(旧 紀州徳川家 巌出御殿)
1 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_1.html
2 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_2.html
3 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_3.html
4 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_4.html
成巽閣(せいそんかく)(金沢市) https://tetsukenrumba.at.webry.info/201610/article_1.html 


新版 合本 三太郎の日記 (角川選書)
KADOKAWA/角川学芸出版
2008-11-10
阿部 次郎

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト



イエス伝―マルコ伝による (角川ソフィア文庫)
角川書店
矢内原 忠雄

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト



デザイナーのための木構造 (1980年)
彰国社
杉山 英男

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト



地震と木造住宅
丸善
杉山 英男

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック