東京駅ステーションギャラリーと「くまのもの」展【5/6】―素材からの発展、「普通の顔」の隈研吾。

[第361回] 東京圏の美術館・博物館(14)‐5
   学問とは、一般教養という基礎の上に専門を打ち立てるべきものであり、それは、小学校から中学校にかけての「術」的なものを使用して、中学校から高校にかけて「すべてについて一通り」を学び、大学の教養課程において「すべてにおいて何か」を学び、その「すべてにおいて一通り」と「すべてにおいて何か」の上に大学の専門課程から大学院にかけて「何かについてすべて」を学ぶというもののはずで、基礎の部分がなく、専門だけしかないような人というのは、たとえ、その専門の部分が相当優れていたとしても、「専門バカ」もしくは「白痴インテリ」とでもいったものであり、高く評価できるものではない。 カール=マルクスが好んだ言葉として、「人間的なもので関心がないものは何もない」というものがあったと思う。これは、マルクスが言った言葉ではなく、マルクスが「好きな言葉」でアリストテレスが言った言葉であったはずだが、学問というのはすべての学問が関係しあって存在するものであり、自分が専門とするものだけわかればそれでいいというものではない。 慶應大学の「社会科学概論」という講座で、I 教授が、つくば科学万博のことを、「あんなものは技術万博であって科学万博じゃない」と言われたことがあったが、実際、「技術」は進歩しても、「科学」と言えないのではないかと思えるような自称「科学」がけっこうある。北村透谷は「漫罵」(『北村透谷選集』岩波文庫 所収)において、明治維新後の「文明開化」は、文明はあっても文化はないことを罵倒している。
   愛知産業大学の建築学科でお世話になった守屋先生の著作『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』(1993.5.20.悠思社)には、「建築家」になる方法として、
≪ 効果のあがりそうな順でいくと、まず有名な女優と結婚してマスコミを賑わすこと。女優が難しければ資産家の娘と結婚し、大金を出してもらって、奇妙でとても住めそうでない家をつくって話題になること。ガラスばりの家だとか空中に浮かんでいる家などがおすすめである。それから、よく分からない本を書くこと。テレビの深夜番組に出ること。ファッション雑誌のごとき事務所案内用のパンフレットをつくって、それに自分の顔を載せること。それも半分シャドーをかけた横顔で、着ているワイシャツは襟のついていないものでなければならない。
  一味違ったブランドで身を固めることも重要だ。グルメと思わせて、ゲテモノを好んで食べるような努力もした方がいいだろうし、時々髭をはやすのも効果がある。・・・≫ 
(守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』(1993.5.20.悠思社)
と、一理はあるけれども、いくらなんでも、そのまんま全部やるのは「勇気がある」か「アホ」かどっちかで、守屋先生もスクーリングの際など、これと同様のことを、時々、「一理はある」のだけれども、半分以上は冗談で話されたものだった・・・・が、なんだか、ちょっと変わった映りの写真が掲載されるのは、これは「建築家」だけが悪いのではなく、「建築家」の写真を掲載しようとして撮影する「写真家」がそんな撮り方をしている面もあって、「建築家」だけの責任でもないと思う。「音楽家」というのもこれと似たようなところがあり、小澤征爾なんてのも、なんか、わざわざ、変った髪形にして「大家」ぶろうとするところが私は好きではなかった。 フリーダムアーキテクツデザイン(株)〔本社:東京都中央区〕 では、五流私立大学か無試験ようこうで入れる建築専門学校だかを出たばかりで何もわかってないしろうと以下が、ちょろちょろっと「ラーメン屋みたい」にヒゲはやして、そういうのはいいことないぞ、と私は思ったが、なんだか、「ラーメン屋みたい」にヒゲはやしたがる男がけっこういた。よくないと思う。本多勝一は『冒険と日本人』(集英社文庫)だったかで、太平洋単独ヨット横断をやった堀江健一にしてもグリーンランド縦断とかやった植村直己にしても、会ってみると「普通の人」で変人でも何でもないし、「普通の顔」をしており、「冒険家みたいな顔」なんてしていない。むしろ、少年雑誌に登場する「冒険家」みたいな顔した人間というのは、たいした冒険のできない人間が多い、と述べているが、私もそうではないかと思う。 そもそも、音楽家と「建築家」はなんで普通と違う顔、普通と違う格好をしたがるのか。 「建築家」とラーメン屋は、なぜ、ヒゲをはやしたがるのか? そんな格好しなくても、普通の顔と普通の格好で、誰にも劣らない立派な設計をすればいいではないか・・・と思うのだが。守屋先生はそのあたりについて、「格好から入るタイプ」というのか「格好ばかり」の人間を批判されているのだが、そのあたり、私が思っていたことを言ってくださった面がある。
   同書には、
≪  まず、いくら高名であっても自分のために設計するような建築家は避けたい。 主義主張でなく名前だけで選ぶと、時にへんてこりんなものをつくられてしまう。
   先日もそういう建築家が手がけた建物に出くわした。ある地方都市に行った時のことだ。その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物がある。 そこで地元の人に「あれをつくったのは誰ですか」と尋ねてみたところ、まさに想像した通りの高名な建築家の名前がでてきた。そういう建築家は自分の作品をつくることしか考えていない。どこに建とうと関係ない。自分の作品をつくって宣伝すればそれでいいと思っている。・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20.悠思社 「第1章 建築家の自画像」)
   そして、
≪ その反対に、どこに建てようともパターンの決まっている建築家がいる。そういう建築家に頼んでも、また同じ様式でつくられるのは目に見えている。そういう人はもうオリジナリティが枯渇しているのである。 コンクリート打ち放しの大家が、北海道のリゾートを設計した。結果はいつも同じ、まるで収容所であった。・・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20.悠思社 「第1章 建築家の自画像」)
   この本は読むとなかなか面白い。 無名の出版社からハードカバーで出ているが、新書本か文庫本サイズでソフトカバーにして、署名ももう少し、アピールする書名にすればけっこうヒットする本ではないかと思うのだが、守屋先生の話は聞くだけでもなかなか面白いし、もっともなことを言われるのだが、この著書についてはそのあたりの工夫がないのは残念です。 で、この前の方、「その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物」「高名であっても自分のために設計するような建築家」と、後の方、「どこに建てようとパターンの決まっている建築家」「オリジナリティが枯渇している」という建築家だが、誰を想定して述べられているのだろうか。
   固有名詞があげられていないというのは、「建築家」業界で生きてきた方として、「建築家」ムラの住人として、「大家」「ビッグネーム」を固有名詞をあげて、ボロクソに言うわけにもいかないということもあるのかもしれない・・・・が、私の場合は、もともと、社会科学系学部卒の人間で、「建築家」業界ではなく「建築屋」業界に勤めてきた人間で、今さら「建築家」業界に進むわけにもいかないだろうから、少々、「大家」「ビッグネーム」をボロクソに言ったところでどうってことない、というよりも、そういう「世界的建築家」と言われるような人というのは、それなりに報酬ももらっているはずで、そのかわりに、たたき台として批判されてもしかたがないという立場ではないかと思う。 零細の食べて行けるかどうか微妙な「そのへんの設計事務所のおっさん」とか「傾きかけの工務店のおっさん」とかを、あまりにもボロクソに言ってしまうと、ボロクソに言われるのはボロクソの建築やってる側が悪いのではあるとしても、それが原因でつぶれてしまったりすると、少々寝覚めが悪い・・かもしれない。その点、「ちょっと前まで生きていた人」だと丹下健三・黒川紀章、今も生きている人だと磯崎新・槇文彦・安藤忠雄、それに隈研吾といった人というのは、私なんかが、少々、ボロクソに言ったところで、別にそれで食べていけなくなるということもないだろうから、だから、見当はずれな批判はしないとしても、思ったことを思った通り、言わせてもらったとしても、それでその人が食べていけなくなるという心配はないと思うので、言わせてもらってもいいと思うのだ。 もしも、それでも無理にでも私に称賛してほしいなら、年収1000万円以上で5年以上、雇ってくれるとか何か便宜をはかってくださるなら、よいしょヨイショよいしょ~としても悪くないと思うが、そういう恩義はないので、遠慮なく批判させてもらってもいいと思う。
   前者の「その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物」「高名であっても自分のために設計するような建築家」というのは、丹下健三と丹下都市建築設計のことではないか、と私は思ったのだ。 「丹下健三型自己顕示欲の塊建築」「丹下健三型いついかなる時もおのれが一番、おのれにひとが合わすのが当然という認識建築」、「ハルク=ホーガンみたいに『アイ アム いちば~ん!』と主張しないとおれない、『一番じゃないとだめなんですか。二番ではだめなんですか』と言われても決して譲らない建築」というのは、何と言っても「世界の丹下」こそそれにあてはまる・・・と私は思ったのだ・・・・が、守屋先生のこの本を読み進むと、守屋先生は丹下健三については高く評価されているような書きぶりなので、別の人のことなのかもしれない・・・・かな。
   後者の「どこに建てようとパターンの決まっている建築家」「オリジナリティが枯渇している」という建築家なるものだが、私は前川國男という方の設計による東京都美術館に何度か行って、この建物は本当によくできているなあと感心したし、東京文化会館もよく工夫がされているとともに、「建築家」の設計にしては珍しい「使える建築」であり、新宿の紀伊国屋書店本店にしても、建てられてからけっこう経つけれども、今も使われているというのは、これはひとりよがり・独善的・「建築家」型ひょっとこ建築ではなくデザインも考慮されているけれども「使える」建築であるからで、江戸東京建物園にある前川國男自邸にしても、よく考えて作ってあると感心したし、熊本県立美術館は、一見、東京都美術館とそっくりではあるけれども、内部には行って見ると、熊本県立美術館独自のものがあり、これはすごい! と感動した・・・・のだけれども、しかし、前川國男設計の建物でよく見る「穴あきタイル」は、東京都美術館・熊本県立美術館、それに新宿の紀伊国屋書店本店に、上野の国立西洋美術館新館でも使われていて、そして、東大本郷キャンパスの山上会館でもそれを見た時、そして、東京都美術館・熊本県立美術館・国立西洋美術館で使われていた屋外灯が山上会館でもまた同じ物があったのを見て、その「穴あきタイル」にしても屋外灯にしても悪くはないのだけれども、この人、これしか考えつかないのだろうか・・・などと思ってしまったのだった。特に、東大の本郷キャンパスの御殿下グラウンドと三四郎池の間にある山上会館は、前川國男の晩年の作だけあって、どうも、「元気がない」という印象を私は受けてしまった。何ら配慮がないわけではなく、御殿下グラウンドで球技などをおこなう人に、横の建物が気になってプレーに支障がでないように配慮され、加賀前田家屋敷の時代からの史跡・名称である庭園 三四郎池の景観を損壊しないようにも配慮され、各階ごとに特徴もあるのですが、しかし、「元気がない」という印象を受けました。 「穴あきタイル」も東京都美術館・熊本県立美術館・国立西洋美術館新館・山上会館で使われている屋外灯も、なかなか素敵なもので悪いなどということはないのですが、それが、どこに行ってもあるというのは・・・・、私は前川國男設計の建物は好きではあるのですが、その点について、どうも、この人、他のものを考えられないのだろうか・・などと思ってしまったのです。もちろん、同じ人間がやることである以上、どこかは似たところがあっても、不思議はないとは思いますけれども。実際、アントニオ=ガウディのカーサ=ミラ・カーサ=バトリョとサグラダ=ファミリア教会だって似てるでしょ。
   それで。 隈研吾という人は、「今、日本で最も活動的、最も脂がのった建築家」と言えるのではないかと私は思います。 特に、
(1)ヒゲはやすとか、特別の格好してみせようとかいうことはない、
(2)「その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物」「高名であっても自分のために設計するような建築家」ではない。その土地の環境や先住建物との調和をよく考えて作られている、
(3)「どこに建てようとパターンの決まっている建築家」「オリジナリティが枯渇している」ということはない、それまでに建てられたものを見て、別のものを見ても、新たなものが見られる、そして、木質系の建物を扱ってきた者として、
(4)木をうまく使用して、かつ、必ずしも「和」ではない、必ずしも「古い」ものではない、「洋」にもなり、「近代的」「進歩的」でもあるデザインが見られる、
という点で、私は隈研吾という人の建築を高く評価していたのです・・・・・が。 大きな問題として、「右翼結社 日本ハウスホールディングス(株)」に加担して、同結社の宣伝に協力するという姿勢についてはhttps://www.nihonhouse-hd.co.jp/pdf/newsrelease/20170311.pdf#search=%27%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9+%E9%9A%88%E7%A0%94%E5%90%BE%27 )、これは、疑問を感じざるをえません。 カネもらえるならいい、というのならば無責任です。 そのあたりをまったく考えないのならば、たとえ、いくら、すばらしい建築を作っても、「専門バカ」「白痴インテリ」とそしられて文句は言えません。「白痴」は「インテリ」ではないのだけれども。

  「くまのもの」展は、全展示撮影可 とされていたので、何点か撮影させてもらった・・・・が、あくまでも何点か、としたのは、それは撮影することが目的ではなく、撮影するよりもその場できっちりと見学して自分なりに考えてみることが大事だと考えたからだ。
   素材ごとに展示はされており、最初は「竹」。 竹という素材は魅力的な素材ではあるのだけれども、問題点として、割れやすく、構造材としては使いづらい。 そこをなんとかできないかという工夫をしたのが↓
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らしい。

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( ↑ Sensing Spaces )
↑ ≪ ロンドンのロイヤル・アカデミーの依頼を受け、4mmの竹ヒゴを曲げながら編んで、匂いを発するくものような透明な構造体をつくった。 竹ヒゴと竹ヒゴとは、熱可塑性樹脂を用いて接合されている。 竹ヒゴは床下から香料を吸い上げて、空間を特別な匂い(タタミとヒノキの香り)で満たすことになる。 竹ヒゴを配置する密度を変えることで、匂いの濃度をもグラデーショナルに変化させることを試みみた。 ≫
( 「くまのもの―隈研吾とささやく物質、かたる物質」展 プログラム )


   竹の次が「木」です。 ↓
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( ↑ (左)Koeda House (静岡県)〔模型〕 
   (右)スターバックスコーヒー大宰府天満宮表参道店。〔部分〕 )
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( ↑ 浅草文化観光センター(模型と写真) )

   「竹」「木」に続いて、「紙」
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( ↑ (左)Paper Cocoon(ペーパーコクーン)  (右)Paper Brick(ペーパーブリック) )
cocoon (名詞)繭(まゆ)。
brick (名詞)れんが、れんが状のもの、《おもちゃの》積み木・・・
( 岩崎民平 監修『現代英和辞典』1973. 研究社)

   竹・木・紙 といった素材を、それぞれ、工夫して使う思考錯誤の過程が展示されています。 この「くまのもの」展の主催者は誰かというと、東京ステーションギャラリー[公益財団法人 東日本鉄道文化財団]と隈研吾建築都市設計事務所 らしく、協賛として、ゼネコンや建材会社の名前があがっている。 自分自身で自分がこれまでに設計してきたものについて、自己紹介しているような展示であり、それだけに、そういうことかとよくわかる展示である。
   竹・木・紙の展示が3階でなされた後、2階に降りると、今度は、「土」「石」「瓦」「金属」「樹脂」「ガラス」「膜・繊維」を素材とする展示になる。 隈研吾というと木を使った意匠という印象があったが、「石」や「金属」「ガラス」といった、硬そう・冷たそうという素材も扱っているらしい。本人も、それらは、当初は木や竹ほど魅力を感じなかったらしいが、扱い方によって、魅力あるものとできると考えて使うようになったという。

「膜/繊維」のコーナーにあったのが、↓
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(↑ (右向こう) 「浮庵」Floating Tea House. )
   これは、茶室について書かれた本で写真を見て、「なんだかなあ~あ」「あんまりなあ~あ」と思ったものでした。 その実物。 「膜」を使っていろいろなことをやってみようという精神は悪くないのですが、茶室としては、どんなものか。 やっぱり、伝統的な茶室の造りによる茶室の方が茶室としてはいいのではないか・・・・といったことを思ったのです・・・・が、「膜」を使ってこういった部屋を作るという試みとしてはいいのかもしれません・・・が・・・。

   東京ステーションギャラリーは、30年近く前に訪問した時は、東京駅丸の内駅舎の中でも、もう少し中央寄りの部分にあったような気がします。場所を移動して、展示スペースも広くなり、前は、東京駅に行った時に「ちょっと立ち寄る」みたいな小美術館というか、展示スペースだったと思いますが、今は、1階から入って3階へエレベーターで行き、3階から2階へ階段で降りて2階の展示スペースを見学して1階に降りて出るという構成で、展示スペースの広さもけっこうあり、一人前の美術館になりました・・・・が、それだけに、「駅に行った時に何気なしに立ち寄る」という感じではなくなりました。
   美術展の名称は「くまのもの―隈研吾とささやく物質、かたる物質」ですが、もしかして、「くまもん」にしたかったところを、「くまもん」の名前を先に熊本県のゆるキャラに使われてしまったので、それで「くまのもの」にした・・・のかな。 入館料は1100円。 安くありません。「駅に付属の展示スペース」なら、もう少し安くていいところでしょうけれども、「本格的な美術館」で、展示の内容も本格的な内容のものでした。2017年秋の国立 新美術館の「安藤忠雄展―挑戦」よりは内容があります。

   ↓ が、「くまのもの」展のプログラムです。これも、けっこう高いが、それなりの内容はあります。
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(↑ 上が、和紙調のカバーがかかった状態。 下が、そのカバーをはずした状態。)
↑  和紙調のカバーもおしゃれです・・・が、何回か頁をめくっていると、カドの部分が傷んでくる、よれてはずれそうになる、といった欠点はあります。 カバーをはずすと、表紙と裏表紙には、展示会場にもあった「樹形図」が載っています。これまでの作品がどのように発展してきたかが書かれています。 これまでの作品は、個々に、単独に作られたのではなく、ある素材を使ってこういうものを作った、次はそれを発展させてこれを作った。もしくは、別の素材を工夫してこのようなものを作った。 その2つを合わせてこのようなものを作った・・・といったことが示されています。 なるほど、建築・インテリアの作品は、それぞれを別個に思いつきで作ったのではなく、先に作ったものを踏まえて、その先のものを作るという経緯をたどってきた、ということのようです。

   隈研吾の作品は、私はけっこう好きです。 年齢は私より上だけれどもそれほど大きく変わらない人なので、私なんかは、「うちは工学部なんか、行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」「すべてを親コッコッコのために、捧げつく~す。とってちってたあ~あ! 撃ちてしやまん、一億火の玉。 欲しがりません、勝つまでは。 わしに孝行せえよお。すべてを親コッコッコのために。すべてをわしのためにささげ尽く~す。とってちってたあ。戸締り用心、火の用心。マッチ一本、火事の元。とってちってたあ~あ」と毎日毎日朝昼晩と言われ続けてきましたので、工学部だの建築学科だの行かせてもらった人なんてのは、ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ・・・と思いますし、「大学院に行くような人間はモラトリアム人間病という病気です。甘ったれなさんな」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらい言われてきましたので、東大の工学部建築意匠専攻修士課程なんて行った人なんて見ると、この人、なんで、「モラトリアム人間病」じゃないのだろうなあ? 「治療」される必要があるのと違うのかなあ? などと思います・・・・が、先に述べた(1)~(5)、
(1)ヒゲはやすとか、特別の格好してみせようとかいうことはない、
(2)「その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物」「高名であっても自分のために設計するような建築家」ではない。その土地の環境や先住建物との調和をよく考えて作られている、
(3)「どこに建てようとパターンの決まっている建築家」「オリジナリティが枯渇している」ということはない、それまでに建てられたものを見て、別のものを見ても、新たなものが見られる、そして、木質系の建物を扱ってきた者として、
(4)木をうまく使用して、かつ、必ずしも「和」ではない、必ずしも「古い」ものではない、「洋」にもなり、「近代的」「進歩的」でもあるデザインが見られる、
という点でも評価できると思っています。
   「くまのもの」展のプログラムの最後に掲載されている隈研吾の写真を見ても、普通の顔をして普通の服装をしています。 だいたい、「建築家」ぶりたい人間、《「丹下健三のエピゴウネンになりたいなりたいなりたいな♪」とか思ってなったりならなかったりするおっさん》、「いっきゅうけんちくしい~い」と言いたいけれども通らないから「建築家」とか「設計士(さま)」とか「なんじゃらアーキテクト」とかわけのわからんことを名のるアホ》てのは、実際問題として、滑稽。 ヒゲはやせば「建築家」もしくは「ラーメン屋」。 大久保清みたいにちょっと変わった格好すれば「画家」もしくは「建築家」。 私立五流大学でたばかりでたいしたことないくせに、なんだか気難しくして多職種の人間にえらそうな態度を取れば「建築家」もしくは「設計士(さま)」とか。 暴走族みたいな羽根つきの真っ赤なスポーツカーに乗れば「建築家」。 変わった帽子かぶれば「建築家」。 ・・・なんか、そういう自称「建築家」、自称「設計士(さま)」というアホが、世の中、多くて・・・疲れる・・・が、「くまのもの」展のプログラムの最後に載っている隈研吾の写真では、隈研吾は普通の顔をして普通の服装をしている。 本多勝一が『冒険と日本人』で書いていたが、堀江健一でも植村直己でも「普通の顔」をしているし「普通の格好」をしており、特別に「冒険家」みたいな格好をしているわけでもなく「冒険家」みたいな顔をしているわけではない。むしろ、少年雑誌に出ている「冒険家」みたいな顔をした人間というのは、あんまり、たいした冒険のできない人間が多いように思える、と。 私もそう思う。 そもそも、今まで勤めた会社においても、「設計」という職種につくと、多職種の人間に機嫌をとってもらう権利があるみたいに思いだす者がいたが、その考え方自体がおかしいはずである。西岡常一さんの本に載っていた話だが、「大工の棟梁というものは、技術が一流であればいいというものではない。技術も一流、人間も一流でないといけない。」と教えられたというのです。 そのあたり、「設計」という職種につけば、多職種の人間に機嫌をとってもらうのが当たり前・・・みたいに思っているアホは、おのれの不認識を考えなおした方がいいと思う。 インターネットに、野村克也が侍ジャパンのチームの練習を見に行った時のテレビの録画が出ていたが、それを見ると、野村は、ある選手に「◇◇選手」と呼びかけ、「申し訳ないのだけれども、ひとつ、お願いがあるのだけれども、きいてもらえないかなあ」と言い、「何でしょうか」と選手が言ったのに対して、「誠に申し訳ないのだけれども、ヒゲそってもらえないかなあ」と言うのが映っていた。 今現在、所属のチームの監督でもないとしても、大先輩に「お願いがあるんだけれども、きいてもらえないかなあ」「誠に申し訳ないのだけれども、ヒゲそってもらえないかなあ」と言われると、嫌ですとも言いにくいところだろう。 「茶髪、長髪、ヒゲはいかん!」と、自称「建築家」「設計士(さま)」「いっきゅうけんちくしい~い」「なんじゃらアーキテクト」とか名のっているおっさん、にーちゃんにも、この文句、言ってやった方がいいのではないかと思う。「茶髪、長髪、ヒゲはいかん!」と。ヒゲはやしたら「アーキテクト」とか、バッハ・ヘンデルみたいな髪したら「建築家」とか・・・なんか、そういうアホなこと思っている五流大学卒のにーちゃんには、言ってあげた方が良心的だと思うが。 この点で、隈研吾は私は評価できると思っている。普通の顔をして普通の格好をしている点で。バッハ・ヘンデルみたいな髪したら「建築家」とか、ヒゲはやしたら「建築家」とか、暴走族みたいな羽根つきのクルマに乗ったら「建築家」とか、そういうアホなこと思ってるヤツには、それは違うぞ、と教えてあげるべきではないかと私は思う。フリーダムアーキテクツデザイン(株)https://www.freedom.co.jp/ の自称「設計士(さま)」の「設計兼営業」のにーちゃんには、「ラーメン屋みたいや」て感じのヒゲはやした男が多いが、やめた方がいいと思うがな。フリーダムアーキテクツデザイン(株)の「設計士(さま)」のE本は、待ち合わせをすると毎回必ず遅刻する男だったが、ひとを待たせるのが「設計士(さま)」などと、もしも思っているのであれば、その認識は間違っていると私は思う。そういう認識は改めた方がいいと思うぞ。

   フランク=ロイド=ライト という人は、建築の「世界3大巨匠」のひとりと言われ、アメリカ合衆国と日本を中心に活動した人でもあり、アメリカ合衆国では、サイモンとガーファンクルが「フランク=ロイド=ライトに捧ぐ」という歌まで作ったようにアメリカ合衆国では特に高い評価を受けている「建築家」のようですが、しかし、住宅の設計を依頼された施主の嫁はんと仲良くなって駆け落ちみたいにしたりとか、そういう行動については、住宅建築業の会社には「◇◇ハウス」という名前の会社と「☆☆ホーム」という名前の会社がありますが、その住宅は「ハウス」(house)なのか「ホーム」(home)なのかと考えた時、もしも、そこで家庭の生活が営まれる「ホーム」を作るのだとすると、施主の嫁はんと仲良くなってその家庭をぶっ壊すというのは、「ホーム」(home)(家庭)を作る作業に携わる者として失格ということになります。「建築家」だけあって、そういう思い上がった人間か・・・などと思って、愛知県犬山市の旧 帝国ホテル玄関ホール部分 を見学に行ったところ、施主の嫁はんと仲良くなって・・・とかいうのがいいとは言いませんが、しかし、旧 帝国ホテル については、思い上がった人間の作品などとはとんでもない。建築と日本の文化に対しての謙虚さの塊、精進の塊のような作品だった。
   隈研吾氏の作品も、その作品を見ると、なるほど、このように努力した結果がこうなったのか・・・と努力の過程がわかるし、それは評価できるのですが・・・・、しかし、そうであるにもかかわらず、「反動・戦中回帰・軍国主義回帰を目指す右翼系政治結社 日本ハウスホールディングス(株)」に加担する行動(https://www.nihonhouse-hd.co.jp/topics/50th-modelhouse/ 、 https://www.nihonhouse-hd.co.jp/pdf/newsrelease/20170311.pdf#search=%27%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9+%E9%9A%88%E7%A0%94%E5%90%BE%27 )については、なんとも、支持できかねます。 残念です。 隈研吾が、「戦中回帰・軍国主義回帰を目指す右翼系政治結社 日本ハウスホールディングス(株)」に加担している以上、日本国民として、そのような人を支持するわけにはいきません。

   (2018.3.23.)

  次回、6.新「丸ビル」と新「新丸ビル」、役立つ営業とだます営業。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_7.html

☆ 東京駅 丸の内駅舎 と 東京ステーションギャラリー と 「くまのもの」展
1.丸の内駅舎 外まわり http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_2.html
2.丸の内駅舎 内部 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_3.html
3. 行きたい学部、大学院に行けた人間と行かせてもらえなかった者 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_4.html
4.日本国民として、右翼結社を支援する「建築家」を支持するわけにはいかない http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_5.html
5.隈研吾、素材からの発展。隈研吾はヒゲはやしてない。〔今回〕
6.新「丸ビル」と新「新丸ビル」、役立つ営業とだます営業。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_7.html 


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