東京ステーションギャラリーと「くまのもの」展【3/6】行きたい学部、大学院に行けた人と行けない者

[第359回] 東京の美術館・博物館(14)‐3
   「東京ステーションギャラリー」は、1階で入場し、エスカレーターで3階まで上がり、3階の展示室を巡った後、階段で2階におり、2階の展示室を巡った後に、ドームに面した回廊に出て、1階に降りて出るようになっています。
   ↓ は、3階から2階に降りる階段内部ですが、
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↑  この内装は、復元工事の際にこのようにされたかと思えるものですが、シャンデリアは竣工時からのものか、竣工時からのものを復元したのか? という感じがするもので、なかなか、おしゃれです。
  手摺が2段に設けられていますが、最近、こういう設置のしかたをしている所を時々見ます。 背の高さ、腕の位置はひとによって違いますから、手摺をどの高さに設置するのが好ましいかはいちがいに言えません。 背の高い人、背の低い人、どちらにも対応できるように、2段に設置するというのはひとつの方法です。
    階段の側壁が透明な板になっています。 おしゃれのようにも見えますが、他の部分ならともかく、階段部分でそれがいいでしょうか。

   今回、「東京ステーションギャラリー」では、「くまのもの―隈研吾とささやく物質、かたる物質」展が開催されており、「(建築家+建築屋)÷2」としては、特に木質系住宅建築業の会社に勤務してきた者として、これは見ておきたいと思って見学に足を運んだのでした。 隈研吾という人は、建築家でも、木を使ったデザイン、自然感を覚えるデザインの建物が多く、根津美術館(東京都港区)にしても、サントリー美術館(内装)にしても、なかなか、親しみを感じるものがあります。 根津美術館の北側道路は、それより北は青山の繁華街で「洋」のデザインがあふれている地域で、逆に根津美術館の敷地の北寄りに作られている美術館の建物を挟んでそれより南の根津美術館の庭園は「和」の空間であり、「洋」の地域と「和」の地域の間の位置において、見事に調和したものになっており、又、美術館として、建物が出しゃばり過ぎて展示物より前に出るということもなく、特に北側の道路と並行に設置された通路は、敷地の北寄りに設けられた美術館の建物に、東京メトロ「表参道」駅から南下してきて美術館の入口に至るまで、入場者の気持ちを徐々に美術館の空間の意識に近づけていく配慮がされていて、なかなかのもの・・・・と思っておりました。
   しかし・・・・・。 先におきますが、隈研吾という人について、気に入らない部分もあります。隈研吾という人は、《ウィキペディア―隈研吾》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%88%E7%A0%94%E5%90%BE によると、1954年(昭和29年)8月、横浜市生まれ、田園調布小学校→栄光学園高校→東大工学部建築学科卒→東大工学部大学院建築意匠専攻修士修了で、その後、日本設計・戸田建設に勤め、コロンビア大学 建築・都市計画学科客員研究員(1985年 - 1986年)を勤めて、隈研吾建築都市設計事務所を設立し、法政大学建設工学部非常勤講師・慶應大学環境情報学部特別招聘教授を経て、慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授(2007年 - 2009年3月)、アメリカイリノイ大学建築学科客員教授(2007年 - 2008年)を経て、2009年4月より東京大学工学部建築学科教授。 ・・・・てことは、やっぱり、慶應の理工学部の教授よりも東大工学部の教授の方が隈研吾さんにとってはええいうことやな・・・ははあ~ん、やっぱり・・・なんてことを「飯田÷井田」(いいだ悪いだ)なんて言いません。 慶應という大学はいまだに建築学科がないみたいですし。 まあ、要するに、田園調布の小学校に行っていた人が私立高校から東大に行って、今は東大の工学部の教授先生やってはる・・いうことです。ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ~あ・・・・私ら、そんな道に進みたいと思うても、絶対に進ませてもらわれへんかった。ほんまにええなあ、うらやましいなあ。わしぁ日陰の月見草・・・・。私などは父から「大学院に行って研究したいなんぞと甘ったれた口をきく人間というのは、社会に出るのを嫌がるモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライ先生がそうおっしゃってる」と言われ、「うちは大学院に行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言われ、「日本育英会奨学金というの学業成績と親の年収から受給できるかできないか決まるけれども、高校と大学については学業成績は『ある程度以上』であって親の年収の方が重視されるのに対して、大学院の場合は親の年収は関係なくて、ともかく、学業成績だけで判断されるから、日本育英会奨学金を受給して大学院に行くことができる」と私が話しても、「甘ったれるな。おまえを大学まで生かすためだけでもカネかかっとんのんじゃ。高校は義務教育とは違います。高校に行かすかどうか決めるのは親の権利です。本来、おまえみたいなもん、高校に行かんでも良かったんじゃ、チャンコロ。おまえは高校に行くべきではないんじゃ、チャンコロ。のぼせあがるなよ、チャンコロ。産まれなければよかったのにおまえが産まれてしもうたおかげで、わしはここまで育てるのにカネかかって迷惑しとるんじゃ。これからおまえに死ぬまで働いてそれをまどてもらわんといかんのじゃ、チャンコロ」と言った。「高校は義務教育ではない以上、高校も大学も行かすかどうか、どこに行かすか決める権利は親にあるんじゃ。おまえは本来は高校に行くべきではないんじゃ、チャンコゥロッ! ましてや、大学院みたいなもん、誰が行かすか、このチャンコロめが!」と言っていた。この「大学院に行かす」というのは、大学院に行ける学力もない人間を親の力で行かすという意味ではなく、大学院に行ける学力と資金を本人が何らかの方法で用意した場合にでも、行かすかどうか決めるのは親の権利じゃと父は言うのだった。私は、子供の頃から、「親というものは、子供が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってつきたいと思う仕事につけるようにと思って、それで、子供の頃から無理にでも勉強させるものなんや」と母から言われてきて、そんなウソッパチを信じてしまった。当然、母がそう言う以上は親もそう思っているものだと勘違いしていた。大学に行く時になれば、学費と生活費の問題さえクリアできれば本人が進学できるだけの学力がある限り行かせてもらえるものだと思いこんできたが、そうではなかった。「『親の恩は天より高く、地よりも深し』、すべてをこのわしのために、捧げ尽く~す。とってちってたあ~あ! すべてを親コッコッコのために。とってちってたあ~あ! 戸締り用心、火の用心。わしに孝行しろよお! マッチ一本火事の元お! とってちってたあ~あ!!!」「わしの権利じゃ、わしの権利じゃ。一億火の玉、とってちってたあ~あ! それ、どんがんどんがらがった、ちゃちゃちゃちゃちゃ~あん♪」〔⇒《YouTube-<軍歌>軍艦行進曲(軍艦マーチ) 》https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0 〕と父は言うのだった。
   「おまえはなあ、慶應大学に行ったと思うておるかもしれんけどなあ。おまえがエライから慶應大学に行けたのとは違うねんぞ、おまえは何の努力もしとらんねんぞ、チャンコロ。わしがエライから行かせてもらえてんぞ、チャンコロ。おまえはほんまは拓殖じゃ、チャンコロ、この拓殖めが。おまえはなあ、北野高校に行ったと思うておるかもしれんけどなあ、おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロ。おまえはほんまは浪商じゃ、この浪商めが。この浪商! わしは天高(大阪府立 天王寺高校)やぞ、わしはあ。わしは慶應やぞ、わしはあ。わしは天高―慶應やねんぞ、わしは。おまえは浪商で拓殖じゃ、この拓殖めが、この拓殖う!!! おまえみたいなもん、ほんまは高校に行く必要ないんじゃ、チャンコロ。義務教育でない以上、おまえは高校に行くべきではないんじゃ、このチャンコロめが、この浪商! おまえはロスケじゃ!ロスケ!!! おまえはロスケでイタコでチャンコロじゃ。おまえはロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコじゃ、このプエルトリコ! わしは天高から慶應やねんぞ、ほんまは。わしはドイツ人でアメリカ人で慶應やねんぞお。おまえは浪商で拓殖やねんぞ、ほんまは。わかっとんのんか、浪商! 浪商は高校行かんでもええんじゃ、この浪商! このチャンコロ! わしとおまえとは民族が違うねんぞ、浪商! わしとおまえとは階級が違うねんぞ、この拓殖! 浪商は高校に行くことないねんぞ、浪商、この拓殖! 拓殖は高校行くべきではないんじゃ、この拓殖! 本来ならおまえは高校に行かずに働かんといかん民族やねんぞ、このチャンコロ!・・・」と父は毎日毎日、言い続けた。 父は「わしは天高(天王寺高校卒)じゃ」と私が子供の頃から言い続けてきたので、本人がそう言うからにはそうかいなあと思っていたのだが、それにしては、明星高校から同窓会の案内が時々来ていたので、なんでだろうなあ~あ? と不思議に思っていたのだった。 かつ、私が高校生から浪人の時には「わしは同志社大学という立派な立派な大学を卒業してます」と言うておったはずだったのだが、ところが、私が種々様々な妨害を受けて格下の大学である慶應に行かされてしまったところ、そのあたりから、「わしは同志社大学という立派な立派な大学を出てます」から「わしはほんまは慶應やねんぞ、わしは、わしは、わしはあ。わしは慶應やぞ」と宗旨替えするようになった。なんで、宗旨替えしたのかというと、父としては息子が「自分より上の大学」に行ったというのがこれはどうしても許せなかったらしい。だから、「わしはほんまは慶應やねんぞ、チャンコロ。わしはおまえとはちごうて慶應やねんぞお、わしはあ。おまえは拓殖じゃ。拓殖めが、この拓殖う!!!この浪商!!!」と言うようになったようだ。 今となっては10年以上前だが、朝日新聞に代議士秘書の話として、後援会会長から「息子を慶應大学に裏口で入れたい」と相談を受けた話というのが出ていたことがあった。世の中にはそういう人もあるのだろう・・・・けれども、私は東大には落ちたけれども、慶應には裏口で入れてもらったのではない。そもそも、我が家には、私の父には慶應大学に裏口で息子を入れてもらうコネもカネもない。「おまえはなあ、慶應大学に行ったと思うておるかもしれんけどなあ、おまえがエライから慶應大学に行かせてもらえたのとは違うねんぞ、この拓殖う。おまえはほんまは拓殖じゃ、この浪商、このチャンコロお! おまえはほんまは拓殖じゃ、この拓殖、この亜細亜大!」とか言う言い方は、父の親友で医者屋のM川がドバカ息子を私立高校から金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼いだカネで金権裏口入学させたことについて、息子に「おまえがエライから大学に行けたのとは違うねんぞ、わしがエライから行けてんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ、と言うてやりますねん」と父に言ったその表現を真似たもののようだった・・・・が、M川のドバカ息子は私立高校にも金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ にも「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼いだカネで裏口入学したかもしれんが、私は、慶應大学に裏口で入れてもらったのではない。一般入試に合格して入ったのだ。医者屋のドバカ息子と一緒にすんな! ましてや、北野高校というのは大阪府立であり、「進学校」とか「受験校」と言われる高校でも、たとえば、兵庫県の灘高校なんてのは、東京もんは関西の進学校というと灘高校しか知らないし、北野高校なんて「野球の強い学校でしたっけ?」なんて言うようなものだが、灘高校というのは私立であり、毎年、何人か裏口入学があるらしく、入学試験を受けて正門から入った人間には、「あいつ、裏口だな」とはっきりとわかる・・と灘高校→東大卒の人から聞いたことがあるが、公立(大阪府立)の北野高校には裏口なんてものは、ない! 私は裏口で入れてもらったのではない! 医者屋のドバカ息子と一緒にされたのでは迷惑だ! が、父は医者屋の文句を聞いて、「そうや。わしも、そない言うたろ」と考えたらしかった・・・・が、私は北野高校も慶應大学もいずれも裏口で入れてもらったのではない! 父としては息子が「自分より上の大学」に行くということは、これだけは絶対に許せないことだったようだ。 遠藤周作が「息子というものは親にとってどういうものか。父親にとって息子は自分の分身であり、自分ができなかったことをさせたい存在である」とどこかで書いていたが、そう考える父親もいるのだろうけれども、そうは考えない父親もいるのだ。私の父にとっては息子が「自分より上の大学」に行くというのは何としても阻止したかったようで、種々様々な卑劣な妨害を加えた結果、東大には2浪しても落ちた・・・・が、慶應には通った。そもそも、たとえ、裏口でも慶應という大学はけっこう難易度が高いらしい。だから、父も慶應に行きたかったようだが、行けなかったのだ。父は「わしだって、家が貧乏やなかったら、間違いなく絶対に慶應大学に行きました。家が貧乏やったから受けさせてもらえんかったから、しかたなしに同志社に行ったんや。おまえとは違うねんぞ、チャンコロ」と言っていた。母はその時は同調していたのだが、父が他界して10年経つと言うことが変った。「あの人、家が貧乏やったから慶應を受けさせてもらえんかったやなんて、ようそんなこと言うわ。あきれるわ。あの人、慶應大学を受けたけれども落ちたんでしょうが。落ちたから行かせてもらえんかったんでしょうが。私、結婚する前からあの人の近所に住んでたから知ってるよ。だいたい、『家が貧乏やったから受けさせてもらえんかった』てよく言うわ。あの人のお父さん、ここのおじいさん、船場の商社で出世してものすごいやり手やったんじゃないの。新聞の一面に名前が出るような人やったんやないの。家に女中さんがいたような家でしょうが。そのボンボンが『家が貧乏やったから慶應に行きたかったけど受けさせてもらえんかった』て、よう言うわ。あきれるわ。落ちたから行けなかったくせしてからに」と言うようになった。「あの人、同志社だって、裏口でしょうがあ」と。厳密には、公式に「裏口入学」という名目はどこの大学にもないと思うのだ。実質、裏口の人でも、公式には別の名目で入っていると思う。父の場合は同志社には「推薦入学」だったらしい。誰が推薦したかというと、大阪市内の某教会の牧師のなんとか先生である。同志社に顔がきく牧師先生に頼んで推薦してもらったらしい・・・が、それまで、教会になんて行ったことがない人で、家の宗教は浄土真宗の人が、その教会で「洗礼」を受けることを条件に、いきなり、牧師さんから「推薦」してもらって同志社に入った・・・というのは、牧師屋に相当カネ渡したのと違うんかい・・・なんてことは今となってはようわからんが、それにしても、それまで、キリスト教とも教会とも何の関係もなかった人が、息子を大学に入れたいと思うと、なんとか、口をきいてくれる牧師屋を探しだしてくるというあたり、祖父はたいしたものといえばたいしたものだと思う。私にはそういうことはやりたいと思ってもそういう能力はない。そもそも、父が同志社に行った頃は、大学は入りやすかったはずで、もともと、父が行った頃の同志社なんて、裏口も正規もへちまもない、正規入試でも普通に受ければたいてい通る学校だったはずだから裏も表もない・・と私は思っていたが、どうも、裏口くさい話だった。要するに、父の父(祖父)が慶應大学に裏口で入れてもらえるコネを捜してくれば、父の希望通り「わしは慶應やねんぞお、わしはあ。おまえとは民族が違うねんぞお。わしは慶應でひとを支配する階級の人間やねんぞ、わしはあ」と言って、「慶應タイプ」になることができたのに、祖父は同志社に口をきいてくれる人を捜してくることはできたが慶應に口をきいてくれる人を探し出すことはできなかったようだ。だから、「本当に慶應」ではなく「ほんまは慶應」になったようだ。「わしはドイツ人でアメリカ人で慶應やねんぞお、わしは、わしは、わ、し、はあ~あ! おまえはロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖の民族やねんぞ、おまえはあ! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな、チャンコロ!」と、私はこういうことを父から毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になるくらい、朝昼晩と言われ続けてきた。だから、隈研吾みたいに、東大の工学部に行った、東大の大学院に行ったという人を見ると、ええなあ、うらやましいなあ・・・と思うし、私なんかとは「人種が違う」「民族が違う」「階級が違う」ということなんだなあと思う。父が「いらいらっとしたから仕送りを送るのをやめたってん」と突然、仕送りを送るのをやめたことがあり、1週間ほど、食べるものもなく、日吉の街で、自動販売機の下に100円玉でも50円玉でも落ちてないかと思ってさまよった時があったが、自動販売機の下で50円玉を見つけて、それと残っていたお金と合わせて買って食べたメロンパンのおいしかったことが今も忘れられない。その時、同じ日吉台学生ハイツに住んでいた、兵庫県の甲陽学院高校http://www.koyo.ac.jp/ から1浪で東大法学部に行って国家公務員1種試験合格で外務省に就職した加藤という男が、日吉で私らが知っている限りで一番高いレストランから談笑しながら出てきたのを見た。同じ「大学生」でもこいつと私とはこれだけ生活が違うのだと思った。 隈研吾の経歴を見ると、私立高校から東大工学部、そして、工学部の大学院修士に行った・・・何ぞというのを見ると、その時の加藤を思い出す。あいつみたいなものなんだな、と。 1週間ほど食べるものがなく、水だけ飲んで生きた時、日吉の街で自販機の下で見つけた50円玉と残っていたお金と合わせてメロンパンを食べて、これほどおいしいものはないと思った時、たっかいレストランから当たり前みたいに出てきた男、私なんぞは、父から「大学は勉強する所とは違うんじゃ、甘ったれるな、チャンコロ。アルバイトを嫌がる人間というのは働くのを嫌がるモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というえらいエライえらい先生がそうおしゃってる。とってちってたあ~あ! 」と言われてアルバイト漬けにされていた時、アルバイトなんてまったくせずに国家公務員試験の勉強をして外務省に入った男。 隈研吾の経歴を見ると、あの男の顔が重なってくる。食べるものがなく1週間ほどさまよった時、たっかいレストランから加藤が出てきた時、私の耳元では「おまえはロスケじゃ」と言われるだけあって、バックミュージックとして「ロシア人」の音楽が鳴っていた。〔⇒《 【ロシア音楽】仕事の歌 (Дубинушка ドゥビヌーシカ) (日本語字幕) 》https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8 〕
   隈研吾は年齢は私より年上だがそれほど変わらない人で、私なんかは、高校を卒業する頃、卒業した頃、親から、「うちは工学部みたいなもん、行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言われ続けてきたもので、それまで、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をしてやりたい研究をできるようにと思って、国立大学なら何学部でも学費は一緒だから、旧帝大系国立大学に行けるようにと思って、それで同級生が遊んでいる時も「雨ニモ負ケス風ニモ負ケス」「堪え難きを耐え忍び難きを忍び」して勉強してきたのにそう言われ、「国立大学なら法学部でも経済学部でも工学部でも学費は一緒のはずです」と言ったけれども、母は「何を甘ったれたことを言ってますのん。絶対に100%国立大学に通るとは限らないでしょうが。落ちる可能性だってゼロではないでしょうが。落ちる可能性がたとえ0.1%でもあったら工学部みたいなもん、受けてはいかんでしょうがあ」と言い、父は「産まれんでもええのにおまえが生まれたおかげで、わしは迷惑しとるんじゃ、チャンコロ。おまえが産まれてしもうたために、おまえをここまで育てるのにカネかかって迷惑しとるんじゃ。これから死ぬまでおまえに働いてそれをまどてもらわんといかんのじゃ。とってちってたあ~あ!」と言い、結局、日本で一番嫌いな大学である慶應大学の首をもがれても行かされたくないと思っていた「経済学部・商学部・経営学部」に暴力と脅迫で行かされてしまった。だから、建築学科なんて行った人というのは、うらやましくてしかたがないし、「うちは工学部なんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と毎日毎日朝昼晩と言われ続けてきた者としては、建築学科なんて行った人というのは、金持ちのボンボンで甘ったれた人間なのだろうなあ・・・という気がして不愉快です・・・・が、この基準で考えると私以外の大部分の人間は「金持ちのボンボンで甘ったれて甘ったれてした人間」ということになります・・・が、ここでは、それよりも別の点で言いたいことがある。 それを 次回【4/6】 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_5.html
で述べます。

  (2018.3.23.)

☆ 東京駅 丸の内駅舎(辰野金吾 設計)と東京ステーションギャラリーと「くまのもの―隈研吾とささやく物質、語る物質」展
☆ 東京駅 丸の内駅舎 と 東京ステーションギャラリー と 「くまのもの」展
1.丸の内駅舎 外まわり http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_2.html
2.丸の内駅舎 内部 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_3.html
3. 行きたい学部、大学院に行けた人間と行かせてもらえなかった者 〔今回〕
4.日本国民として、右翼結社を支援する「建築家」を支持するわけにはいかない http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_5.html
5.隈研吾、素材からの発展。隈研吾はヒゲはやしてない。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_6.html
6.新「丸ビル」と新「新丸ビル」、役立つ営業とだます営業。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201803/article_7.html 


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