聖書を否定する「敬虔なクリスチャン」・YMCA予備校はだめな理由―早稲田奉仕園と信愛学舎【3/6】

[第342回]
   私は、小学校の3年くらいの時、親が行っていた・・といっても、たまにだが・・の教会の教会学校に、毎週、日曜日に行ったし、幼稚園はカトリック系の幼稚園だったし、小学校の1年から2年にかけて、YMCAの体操教室に通ったりしたので、子供の頃から、周囲にキリスト教の雰囲気というものはあった・・・が、それだけだったが、中学校から高校に行くにしたがって、国内・国外の文学作品を読むことがあり、そういった作品は、キリスト教の立場から書かれたものでなくても、キリスト教の影響を多かれ少なかれ受けたものが多いし、又、「世界史」や「倫理社会」などでもキリスト教について学ぶこともあり、そういう中で、『聖書』とキリスト教について理解してきた。 大学で何を学ぶか。私が最も関心を持っていたのは、哲学・宗教学と心理学・心身医学で、そういう方面の研究者になりたいという気持ちがあったが、そういう方向に進まないならば、法学部に行って司法試験を受けて裁判官か弁護士になることを考えていた。 キリスト教とは何か。そもそも、ヨーロッパの牧師・宣教師・司祭・伝道師といった人が何を言ったとしても、マルチン=ルターが「聖書に帰れ」と言ったように、『聖書』こそ、キリスト教の基本であるはずで、『聖書』に反するようなことをキリスト教会なり聖職者なりがやっていたならば、どちらが正しいのかといえば、当然、『聖書』の方が正しいはずだった。又、新約聖書の翻訳者で聖書の研究者である前田護郎は「聖書の思想と歴史」(『世界の名著 聖書』1978.9.20. 中公バックス 所収)で、≪ すべての人が勝手に聖書を読むのは危険である、という宗教家がある。しかし、宗教が少数の宗教家によって左右される危険とどちらが大きいか。健全な宗教は平信徒の良識によって支えられる。・・≫と述べているが、私もそう思ったし、今もそう思っている。「彼らは神の教えを守らずに、人の教えを守っている」とイエスがどこかで言っていたと思うが、そんな「宗教家」や「クリスチャン」が現実にいると思う。

   私は「クリスチャン」が嫌いだし、特に「敬虔なクリスチャン」というのが大嫌いなのである。それは、まず、1978年に行った YMCA予備校に原因がある。 YMCA予備校高槻校に「京大・東大文系クラス」というのがあったので行ったのだが、それは「看板に偽りあり」で、実際に、京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部、東大の文科1類・2類・3類に合格するための対策としての授業をするわけでもなく、そういう指導のできる講師をそろえたわけでもなく、テキストも全国の大学の入試の問題を集めただけのものでしかなく、高校を卒業する時点である程度の成績はとれていた人間で、翌年に京大なり東大なりに通りたいと思った人間なら、「ある程度の学力」はすでにあるのだから、そこからさらに「ある程度以上の学力」をつけることよりも、行きたいと思う大学の問題についての対策を徹底してとるべきである。 1973年、前後期制を実施したパリーグで、前期優勝した南海ホークスは、後期優勝の阪急にプレーオフで3勝2敗で勝ち越して優勝したが、その際、監督の野村は「後期は阪急に3つ勝てば、極端な話、他は全敗したっていい」と考えたと、あっちやらこっちやらで書いているが、この「阪急に3つ勝てば」というのは、プレーオフ5戦で先に3勝した方がシーズン通しての優勝というルールである以上、プレーオフでともかく阪急に3つ勝てれば、「極端な話、他は全敗したっていい」わけで、同様に、高校3年卒業する時点で、「ある程度の成績」はとれたという人間が、翌年に京大なり東大なりに合格したいと思ったならば、やはり、これと同様の考え方をとるべきで、京大に行こうと思うなら京大の試験問題についての対策を徹底してとるべきで、東大に行きたいと思ったならば東大の試験問題についての対策を徹底してとるべきであり、受けもしない大学の問題を大量にさせて、そんなものに時間を費やさせるというのは愚かである・・・が、アホのYMCAはそれをさせようとした。
   父の親友の医者屋のM川は「陸士(陸軍士官学校)と海兵(海軍士官学校)の両方通った」と称していて、父はそれを聞いて「えらいなあ。ものすごいえらいなあ」とか言っていたのですが、その話、なんか嘘くさいのですが、実際に両方通ったとしても、実際にはどちらにも行かずにどこかの医大に行って医者屋になったのですから、行きもしない所に通っても、だから、なんやねん、てところです。「ID野球 弱者の戦術」としては「戦力の集中」が大事で、行きもしない所の問題の対策に時間を費やして本命の対策を怠るのは愚の骨頂です。
   なぜ、YMCA予備校はそんなことをさせようとしたのか、というと、理由は2つだ。 ひとつは、「京大東大文系クラス」と名前をつけても、最初から、京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部、東大の文科1類・2類・3類に合格させてみせようという意志は持ち合わせておらず、「京大東大文系クラス」と名前をつけると成績のいい受験生が集まるから、そうやって、比較的成績のいい受験生を集めて、前年、京大を受けて落ちた人間に阪大を受けさせれば合格する可能性が小さくないので、そうやって阪大に合格させるなどすれば、「YMCA予備校から阪大に合格」と叫ぶことができて、予備校屋としては宣伝になって商売に成功するだろう・・・とそういうあさはかなことを考えたことによるようだった。
   その考え方は、純粋にビジネスとして考えて、成功する考え方か? というと、違うと思う。そして、違うから、だから、YMCA予備校はつぶれた。 その頃、大阪府に、土佐堀・天王寺・豊中・高槻・堺と5校、それに、横浜市に関内と菊名の2校あったのだが、今や、すべてなくなったようだ。当たり前だと思うし、つぶれて良かったと思う。
   高校を卒業する年に京大を受けて落ちた人間は、浪人すれば必ず通るかというと、そうとは限らない。高校を卒業する年に京大を受けた人間は、京大ではなく阪大か神戸大を受けていたならば、通ったかもしれないが、絶対に通ったなどということはない。阪大なり神戸大なりを受けていても、それでも落ちた可能性もある。しかし、京大と阪大、京大と神戸大なら、一般的には京大の方が難しい。手ごわい所を受けて落ちるよりも、阪大だって悪い大学じゃないんだから、神戸大だって悪い大学じゃないんだから、だから、通りやすい所を受けて行けばいいじゃないか・・・というのは、実際に京大を目指して勉強してきていない人間の思考である。 京大に行こうとして勉強してきた人間が、「あと少しで京大に合格圏」となったとしても、その「あと少し」というのが、けっこう大変だったりもする。資格試験においても、100点満点で75点が合格点だとして、最初、何も学習していないところから、60点とれるところまで上げるのはそれほど難しくなくても、70点から合格最低点を上回る77点か78点とれるところまで上げるのはけっこう大変だったりする。 京大なり東大なりを目指す人間にとっては、どこでもいいなら、どこか通るところはあるわけだ・・・・が、「どこでもいいなら、どこか通るところはある」としても、「どこでもいい」わけではないのだ。 いかにして京大の試験で「合格最低点よりも少し上」の点数をとるか、いかにして東大の試験で「合格最低点より少し上」の点数をとるか。浪人した時の目標はそれだけ! それだけのはずだ。ここで、邪念は捨てるべきだ。邪念とは、これまで同じような高校に行って学んできた人間で現役で京大なり東大なりに通った人間がいるわけで、それを見て自分は落ちてしまったんだ、なんで、あいつは通ったのに自分は落ちてしまったのだろうか・・・とか、どうしても考えてしまう。なんだか、人間としての価値を否定されてしまったみたいで、経歴にキズがついてしまったみたいで、なんとかそれを挽回したいとか思うのだが、挽回したいと思っても、これからいくら頑張っても、「現役で合格」にはならない。 そんなことを考えると、「次は、間違いなく、一番で通ってやる。」「この俺が一番で通るんだ」・・・とか、アホなことを考えがちである。ハルク=ホーガンみたいなこと、言いたくなったりする。〔⇒《YouTube-一番 ハルク・ホーガン(Itch Ban / Hulk Hogan)》https://www.youtube.com/watch?v=BJigJNkwqEo 〕 しかし、もしも、大学入試というものが、棒高跳びであったなら、一番で通ってやる! と考えるのは悪くはないかもしれないが、大学入試は、あくまでも、ハードルであって棒高跳びではないのだ。だから、そのハードルより少しでも高く飛べばいいのであって、大事なのは、ハードル(合格最低点)より少しだけでいいからそれよりも高く、より確実に、早く飛ぶことであって、より高く飛ぶことではないのだ。 野球でホームランとは、外野のフェンスを越えたらホームランなのだ。場外ホームランを打てば、ラッキーゾーンにぎりぎり入るホームランよりも多くの得点が得られるわけではないのだ。 むしろ、場外ホームランをねらって大振りすることで三振するかもしれない。 大学入試や資格試験の入試においても、合格最低点を上回る点数をねらうのか、合格者最高得点をねらうのかで学習法もかわってくる。薄い本を3回読んだら合格最低点を上回る点数はとれても合格者最高得点とか満点とかはとれない、それに対して、厚い本を3回よんだら合格者最高点をとれる可能性がある・・と思って、厚い本を5回読むぞおと意気込んで、試験日になったらその厚い本の前3分の1程度しか読めなかった・・・、薄い本を3回読んだ人間は合格して、厚い本を5回読んで最高得点とったる~う、アイアム ナンバーワ~ン! とか思っていたら、厚い本の前3分の1だけを1回読んだだけで試験日が来てしまって落ちてもうたあ~あ・・・、もしかして、俺はアホやったかいなあ、アホやったかいなあ~あ・・・と思ったが、やっぱり、アホやったんと違うやろか・・とか思うことになる・・可能性は十分にある。 私はこういったことを、実際に経験して、おのれの「骨と肉のきしみで」学んだのだ。 実際に、京大なり東大なりを受けて通ったり落ちたりした人間なら、多少の差はあっても、こういったことについての認識があると思うのだ。 ところが、YMCA予備校高槻校の「主事」というなんやらよくわからない名称の職種の藤井という男は、こう言ったのだ。「現役の時なら、模擬試験で『通った人 5人、落ちた人 5人』というくらいの成績で受けてもいいけれども、浪人したら、最低でも『通った人 8人、落ちた人 2人』というくらいの成績でなかったら受けてはいかん」と。 予備校の人間が言うのならそうだろうか・・・と聞いた時は思ったのだが、これはおかしい。 落ち着いて、考えてみ。 京大とか東大とかに合格しようとしている人間にとって、藤井が行ったような亜拓大東帝国みたいな大学を受けるなら、模擬試験で「通った人 8人、落ちた人 2人」という成績をとることはできるだろうけれども、京大とか東大とかいった大学を受けよう、そういう大学に行こうという人間が受ける模擬試験で、京大とか東大とかに「通った人 8人、落ちた人 2人」という成績・・・て、そんなもの、簡単にとれると思うか? とらなくていいよ、そんなも~ん! 藤田元司が、1989年に、二度目に巨人の監督に就任した時、「読売新聞」のスポーツ欄で、「『ボロ勝ち、せり負け』は弱いチームのやること」と述べていたが、その通り。「『通った人 8人、落ちた人 2人』でなかったら受けたらいかん」などという認識は、それは「ボロ勝ちでなかったら、すべて負けるべきだ」と言っているようなものだ。実際の入学試験で、もしも、その試験が本番の試験ではなく模擬試験だったとしたら、「通った人 8人、落ちた人 2人」というくらいの成績を取った人というのは、何人かいるのではないかと思うが、しかし、それは結果としてだと思う。 結果として、本番の試験でそういう点数を取ったという人は何人かいるだろうけれども、最初からその点数をとろうと思ってやったら、かえって、「体調くずす」と思うぞ。受ける前は、あくまでも、「ハードル」である試験については、「ハードルより少しだけでいいからそれより高く、より確実に、より早く飛ぶ」と考えてやるべきで、「外野のフェンスを越えたらホームラン。それ以上、いくら遠くまで飛ばしても、それがいったいナンボのもんや」と考えてやるべきで、そう考えてやってこそ、合格の可能性は高まるはずだ。 こういったことをいうと、ひねくれものの藤井はこう言うだろう。「そんなことない。通った人 8人、落ちた人 2人というくらいとって通った人間はいる」と。いるかいないかという話なら「いる」だろう。しかし、そんなことは受験生には何の関係もないことだ。野村克也は、一軍の捕手として出してもらっても、最初は2割5分くらいしか打てなかった。2割5分ならまた変えられるかもしれない。3割打てば一流打者と評価される。3割打つ打者と2割5分の打者はどこが違うかと考えると、100回打席に立って30回ヒットを打つのが3割打者で、25回ヒットを打つのが2割5分の打者だ。 あと、5本多くヒットを打てば、3割打者になれる。「あと5本」ならなんとかなるのではないか・・と考えて、投手のくせを見たりや配給を研究したりして、3割打った・・・とあっちやらこっちやらに書いていたが、この思考は大学入試や資格試験の入試にも共通するのではないかと思う。「あと5本」なら工夫すればなんとかなるのではないか、どういう工夫をすればいいか・・と考えることができる。 「合格最低点より少し上まで上げるにはどうすればいいか」と考えれば、道も開けるものを、「通った人 8人、落ちた人 2人」の点数をとろうなんて思うと、どうすればいいかわからなくなってくる。 10割打ったろなんて考えたら、打てるものも打てなくなる。落合がプロ野球の試合の解説者に出ていた時、「『一流のピッチャーの会心の球』なんて、そんなもの、誰だって打てるわけないんだよ。そんなもの、打たなくたっていいんだよ。そうではなく、1試合に何球かは間違いなく失投があるのだから、それを逃さずに打てるかどうかが問題だ」と。大学入試において、合格者最高得点をとってやるとか、満点とったるとか考えるのは、それは、「一流のピッチャーの会心の球」を打とうとするようなもの、10割打ったろと考えるようなもので、そんなことを考えることで「体調崩す」と思う。「体調崩す」ことになって、いいことはない。大事なのは、「3割打つ」、入学試験・資格試験なら、合格最低点を少し上回る成績を・より確実に・より早くとる、ということだ。「通った人 8人、落ちた人 2人 というくらいの成績を模擬試験でとらなかったら受けてはいかん」などという主張は、いわば、一流投手が投げる会心の球をホームラン打てるようでなければ打席に立ってはいかん、完全試合ができるようでなければピッチャーは登坂してはいかん、と言っているようなものだ。そんな、まるで「星飛雄馬なやつ」は入試では落ちる運命にある、と考えるべきだろう。この考え方を自分自身の経験から、カラダで身につけた人間、カラダが覚えている人間と、亜拓大東帝国くらいしか行ってないくせして、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と一日最低3回は言わないと気がすまないという男では、差があって当たり前だ。 藤井は、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と何度も何度も繰り返し繰り返し言い続けたが、私は、最初にそれを聞いた時は、単なる自己紹介だと思ったのだが、何度も何度も日に日に三度も言われてうんざりして、「早稲田って、くだらない大学なんだなあ~あ」と思うようになったものだが、東京の大学に行って、東京圏で勤めて、実際に、早稲田大卒の人と会ったりした経験から考えると、あれは、まあ、99%以上の確率で、学歴詐称だわな。 いくらなんでも、あんな早稲田ないって。 何より、「早稲田の政経」というのは、学歴詐称の定番だし。(ついでに、建築業界では「早稲田の建築」てのが学歴詐称の定番。)

   YMCA予備校の「主事」というわけのわからん名称の職種の人間は高槻校の3人いた。藤井と隅はある程度の年齢になっていたが、もう1人の浜野は、見ただけでも、「三流以下大学を卒業したばかり」と顔に書いてあった。「主事」というのは事務員だと私は思っていたのだ。 高校でも大学でも教職員と事務職員がいるわけで、高校では、教職員は京大とか東大とか阪大とかを卒業して教員免許を取得した人がなっていたわけだが(なかには、底辺の大学卒の人もいたようだが)、事務職員はそうではなかった。YMCA予備校もそうなのだろうと思っていたのだ。 ところが、「京大東大文系クラス」の「主事」の藤井は事務職員のくせに、身の程知らずにも受験に口出すのだ。
   この藤井には、得意技というのか、「これを口にするとひとは言うことをきく」と信じているフレーズが2つあったのだが、そのひとつが「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」というもので、そのフレーズがYMCA予備校高槻校で「京大東大文系クラス」の生徒に言ってもあまり通じないというのが不満で、「大学の評価に地域によって差がある」などと口にしていた。 それは、「早稲田の人間は、自分の所は東大の次の大学だとか思っているようだが、関西の人間はそんなこと、ちっとも思っておらず、早稲田なんて、『関関同立と同じくらい』か、『もしかすると、関関同立よりほんのちょっとだけ上かもしれない』くらいにしか思っていない」というのが不満で、本来なら、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と一日最低3回は言う人間というのは、そのフレーズによってもっと評価されるはずだ! と思っていたようだ。しかし、東京圏において、藤井みたいに「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と日に日に三度も言いまくったなら、「はい、はい、はい。ま~た、学歴詐称のアホがでてきたか」と思われるだけではないか。むしろ、東京圏において、それやったら、「早稲田の政経」を学歴詐称する人間なんてゴマンといるわけだから、かえって通じない可能性が高いのではないか。むしろ、「あんな早稲田あるわけないだろうが(笑)」と思われるのではないか。実際、私がアルバイトで行った会社で、「早稲田卒」ということになっていたが、アルバイトの人間の間で、「あの人、早稲田でてるて話だけど、ほんとかなあ~あ」と言われていた人がいた。藤井も東京圏で「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」という得意技をやったなら、関西でなら「早稲田ってくだらん大学なんだなあ」と思われるところを、そうではなく「ほんとかあ~あ」「あんな早稲田ないだろうがあ~」と思われたのではないか。
   藤井のもうひとつの得意技というのか、得意のフレーズが「ぼくなんかは、クリスチャンとして、日曜ごとに教会に行ってるんだけど」というのがあった。「敬虔なクリスチャン」というのが「売り」だったのだ。 「クリスチャン」というのが、予備校に何か関係あるのか? 結論として、かえってよくないと思う。 どんな会社であれ、その会社のその業務に人を採用するなら、その仕事をやっていける人、その仕事にふさわしい人を採用するべきである。ところが、YMCA予備校の場合は、「クリスチャン」というのが採用条件らしいのだ。 その結果、予備校の職員としてふさわしい人でも「クリスチャン」でない人は不採用にされ、「クリスチャン」は採用されるらしいのだ。その仕事についての能力と関係のないもので採否が決められる、ということは、その会社にとっていいことか悪いことか・・・。 傾向経営の場合、自民党の党職員には自民党の党員がなるべきだとか、共産党の党の職員は共産党の党員がなるべきだとかいうのはわかる。 宗教団体の職員にはその宗教の信者がなるべきだというのもわかる。 しかし、予備校において、予備校の職員としての能力と関係のない部分で採否が決められるというのは、どうかというと、結論として、いいわけないのだった。有能な人でも「クリスチャン」でないから不採用にされ、無能で人間が卑しい人間でも「クリスチャン」だから、要するに、洗礼受けて・礼拝にでて・献金はらって・聖書は読まない人間だからとい理由で採用される、というのは、その業種にとってふさわしいかというと、いいとは言えないはずだ・・・からYMCA予備校はつぶれた。
   「ぼくなんかは、クリスチャンとして、洗礼を受けて、毎週、日曜日に教会に行って礼拝に出て、献金はらってるんだから」というのが、「早稲田の政経でてるんだけどな」とともに、「自慢」だったのだが、「クリスチャン」とは何なのかというと、藤井が言うには、
1. 洗礼を受ける。
2. 日曜ごとに教会に行って、牧師さんが、なんたらかんたらくんたら言っている間、我慢して座っている。
3. 献金を払う。
4. 聖書は絶対に読まない。
この4つが、「クリスチャン」の4大義務のようだった。
   特に、「聖書みたいなもん、あんなもん、読んでもいいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから。あんなもの、読むものと違う。聖書なんて、読んではいかん。 聖書なんて読まなくても、洗礼うけて、献金払って、日曜ごとに教会に行って礼拝に出ればそれでいいことなんや。 そんなもん、聖書なんて読むものと違うし、読んではいかん。ましてや、まかりまちがっても、そこに書いてあることを実行しようなんて、絶対に考えてはいかん。たとえ、読むにしても、相当歳いってから読んで、はあん、そうかいなあと思えばいいことであって、若い頃に読むようなことは絶対にしてはいかん。」と、藤井はそう何度も何度も大きな声で言いまくったのだった。 そういう人をのことを「敬虔なクリスチャン」と言うらしいのだ。 洗礼と献金と礼拝は、「敬虔なクリスチャン」にとっては、免罪符だったのだ。
   私は、YMCAの藤井の言うことを聞いて、「この人、なんで、洗礼 受けるんだろうなあ?」と疑問に思った・・・のだが、「なんで」かははっきりとしている。
1. 洗礼を受けることで、YMCA予備校で雇ってもらえるから。
2. 洗礼を受けて「敬虔なクリスチャン」を名のることで、私の母みたいな人間から、「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪い人ではない」、「あの人は、YMCAで主事になっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当にえらいクリスチャンのはずや」と言ってもらえる。
この2点で、(1)洗礼うけて、(2)日曜ごとに教会に行って「牧師先生の『けっこうなお話』」を聞いて、(3)献金はらって、(4)聖書は絶対に読まないようにするということによる御利益があるわけだ。 たいした御利益宗教だ。
   この男の卑怯なところは、予備校の「主事」というよくわからん職種で、その予備校生に話をするのならまだしも、知らない間に、家に電話をして親と話をしていたようで、そういうことをする男だったのだ。 私は、この男の言うことは、まともではないと判断して、両親に「藤井の言うことはきかないでほしい」と言ったのだが、アホな父親は「専門家の言うこと、専門家の言うこと。せ~んもお~んくゎぁあ~あ」と何度も何度も言っていた。母は「あの人はクリスチャンなんだから、絶対に悪い人であるわけがない」などと言っていた。免罪符買いのクリスチャン、洗礼と礼拝と献金を免罪符だと心得ている男のことを「あの人はクリスチャンなんだから、絶対に悪い人であるわけがない」だの「あの人はYMCAの主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。特別にえらいクリスチャンのはずだ」などと言いまくって、私の言うことをなんとしてもきこうとしなかった。 そして、母は藤井から言われたと言って、私から聖書をとりあげたのだ。 「こんなもの、絶対に読んではいかん」と。「敬虔なクリスチャン」というのは、そういうことをするのである。
   私は両親に言ったのだ。 「東大を受けたこともない人、京大を受けたこともない人に、東大や京大に行こうとする人間の指導なんて、できるわけがない」と。 すると、父と母はこう言った。「自分が受けたことがなくてもこれまでに、受ける人間の指導をしてきた経験がある」と。 それはまちがいだ。 もし、それが間違いでないなら・・・・、わし、巨人の監督やってみたいんやけど、やらせてくれへんかいなあ。 ゲームセンターの野球ゲームよりおもしろそうやけど。 雨、雨、菅野、雨、菅野・・・とか菅野ばっかり登坂させてぶっつぶしたろとか思うんやけど、やらせてくれへんかいなあ~あ・・・。あるいは、阿部にショート守らしたり、坂本にキャッチャーやらせたりすると、おもろいんやないかと思うんやけどなあ・・・。
   京大なり東大なりに行きたいと思う受験生の指導は、京大なり東大なりに合格して行った人間と、受けたけれども合格できなかった人間、行きたいと考えたが、受験直前に方向修正して阪大などに行った人間と、どちらがいいかというと、本人にとってはさっさと合格した方がいいに決まっているが、指導する段には、さっさと合格した人間の方がいいとは必ずしも言えない。 相撲の高砂親方(元大関朝潮)が、横綱の朝青龍を指導できないのは、大関止まりの親方だからではないかと言われた時に、「大関どまりの親方が、横綱にまでなった親方に劣るということはない。横綱にまでなった親方というのは、たいてい、自分は達成したという気持ちでいる。それに対して、大関にはなることができたが横綱にはなれなかったという親方は、引退した後も、なぜ、横綱になれなかったのだろう、どこがいけなかったのだろうか、どうすれば良かったのだろうか・・・といったことを、いつまでもいつまでも考え続ける。 弟子を持った時には、その気持ちで弟子を指導することができるから、だから、大関どまりの親方が横綱にまでなった親方に劣るということはない」ということを、どこかに書いていたようだが、これは大学入試においても、そういうことはあると思う。 実際問題として、京大なり東大なりに合格できたとしても、その後、何十年かすると、試験問題も変わってしまって、自分が受けた時にはこういう問題でこうして解いたがと思っても、それがそのままは通じなくなってしまう。 しかし、通じなくなっても、かつて、その大学を受けて通った、あるいは、残念ながら行けなかったという者は、今、自分がこの問題を解いて受けるならこうする・・という構想を練ることができると思うのだ。 東大に行った人間が、もし、これから、東大ではなく京大に行こうとするなら、その場合はこうする、といったことを考えることができると思うのだ。 しかし、亜拓大東帝国あたりしか出てない人が、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」とか「ぼくは敬虔なクリスチャンとして」とか言いまくっても、京大や東大の入試についてなんてわかるわけないと思うのだ。 自動車の運転ができたら人間としてエライかというと、そういうものではないと思うが、自動車学校の指導員は、自動車の免許くらい取得した人にやってもらいたいと思いませんか? もちろん、人間は卒業した大学がどこかだけで評価されるべきではないかもしれないし、他の仕事なら、あまり評価の高くない大学しか出ていない人でも職場においては努力して実績を残したという人もあるかもしれない。しかし、「京大東大文系クラス」の指導をしようというなら、京大や東大に合格したか合格できなかったかという人でないとできない。「京大東大文系クラス」の「主事」として、単なる事務職員として事務だけやってるのならまだいいけれども、京大や東大に行こうとする受験生に口出すとなると、亜拓大東帝国くらいしか出てないくせして、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と日に日に三度も言いまくりさえすればひとは言うことをきく、「ぼくはクリスチャンだから」と言えば、「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」などと信仰してもらえると心得ているヤカラにできるか? というと、できない。 そういう男は受験生にとって迷惑千万である。

    私は、YMCA予備校の藤井から、「きみのような『逆らう人間』は会社員には向かないから、経済学部(及び、商学部・経営学部)には行ってはいかん」「きみは人間性に問題があるから、会社員としてはやっていけないから、経済学部(及び、商学部・経営学部)には行ってはいかん」と、こう言われたのだ。 それから、「文学的素養がないから文学部はだめだ」とも言われたのだ。 まあ、「黙って聞いてりぁ言いたい放題いいやがって」と遠山の金さんみたいに言いたくなるのだが、そういう人間のことを「敬虔なクリスチャン」と言う。キリスト教会は、献金もらえば、洗礼うけた人間を「敬虔なクリスチャン」「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪いひとではない」「あの人は敬虔なクリスチャンだから、悪い人であるわけがない」と「認定」するのである。 迷惑な話である。
    どうも、この藤井という男は、自分が気に食わないと思った人間のことを、「文学的素養がない」とか「人間性に問題がある」とか「逆らう人間」とか「認定」するようなのだ。そして、それを「去年の生徒の悪口を今年言う」「今年の生徒の悪口を来年、言う」「来年の生徒の悪口を再来年言う」ということを実行するのだ。そういう人間性の人間のことを、キリスト教会は「クリスチャンだから、人間性が優れている」とか「敬虔なクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」とか「認定」するわけだ。献金と洗礼と礼拝は免罪符である。
   藤井から「文学的素養がない」と言われたのは私が最初ではない。 私よりも上の年齢で、YMCA予備校の高槻校ができるより前に、YMCA予備校の土佐堀・天王寺・豊中・堺のいずれかに来ていた女性で、京大の文学部に行きたいと言っていた人で、YMCA予備校の模擬試験ではけっこういい成績をとっていたが、藤井が言うところによると、「文学的素養がない」ために落ちて、結局、2浪して、宮崎医大に行ったという人がいたというのだ。 藤井は、「京大あたりになると、文学部は、たとえ、模擬試験でできても、文学的素養がない人間は、本番の試験には通らないんだ」と、教室で何人もを前にして言うとともに、個人を相手にして1対1でも何度も何度も執拗に言いまくるのだった。 なんで、そんなこと言うかなあ~あと思った。「なんで」かというと、それは藤井という男の人間性の問題だろう。
   藤井は、私にも、1対1の場で、何の脈絡もないところで、そのYMCA予備校の模擬試験ではけっこういい成績をとっていたが、京大の文学部の試験には落ちたという女性のことを、「文学的素養がないから落ちたんだ。文学的素養がない人間とか人間性に問題がある人間は、模擬試験でいい成績をとっても落ちることになってるんだ。」と何度も言うので、それで、私は言ったのだ。「京大の場合、文学部でも法学部でも経済学部でも教育学部でも、出題される問題は一緒ですから、法学部や経済学部なら通るけれども文学部なら落ちるとかいうことはないのと違いますか」と。又、「もしも、京大の本番の試験とYMCA予備校の模擬試験とに相関性が相当にあって、本番の試験では、文学的素養がないのなら落ちるということなら、文学的素養がない人は、YMCA予備校の模擬試験でもいい成績はとれないのと違いますか。  YMCA予備校の模擬試験では相当にいい成績をとれていたが、京大の文学部の本番の試験では文学的素養がないといい成績がとれないということなら、YMCA予備校の模擬試験と京大の本番の試験との間に相関性がそれほどないということになるのと違いますか」と。又、「模擬試験で相当いい成績をとっていても、それでも、本番の試験で落ちるということは、『あること』であって、1回や2回落ちたとしても、文学的素養がどうこうというものとは違うのと違いますか」と。すると、YMCA予備校の藤井は「そんなことはない。法学部や経済学部なら文学的素養がない人間でも通るけれども、文学部は文学的素養がない人間は落ちるんだ」「YMCA予備校の模擬試験は京大の試験と相関性が強い試験で、YMCA予備校の模擬試験でいい成績を取った人間は誰でも通るが、文学的素養がなくて人間性に問題がある人間は模擬試験でいい成績をとっても本番の試験では落ちることになっているんだ」と言うのです。 そもそも、模擬試験というものは、あくまでも、模擬試験であって、模擬試験でいい成績をとれた方がいいか良くない成績の方がいいかというと、いい成績をとれた方がいいのですが、たとえ、いい成績をとれたとしても、それでも、本番の成績で落ちることは「あること」です。 私にしても、「A」判定をもらって、しかも、「A」の中でも上の方だったのに落ちたという経験が実はあるのです。そういう経験を踏まえて私は言ったのです。ところが、藤井は絶対にきかないのです。 「人間性に問題がある人間とか文学的素養がないようなヤツは落ちることになっているんだ」と、そう言って譲らないのです。こいつは、言ってもあかんわ! と思いました・・・が、藤井は、私が藤井の言う暴論を認めないのが腹が立ったらしく、「きみも人間性に問題があるから会社員としてはやっていけないから、経済学部(および商学部・経営学部)は行ってはいかん」、「きみも文学的素養に問題があるから文学部は受けても落ちるから受けてはいかん」などと言い出したのです。要するに、「敬虔なクリスチャン」「クリスチャンでも並みのクリスチャンではない特別にえらいクリスチャン」だというこの男は、自分の主張する暴論の矛盾を指摘されると、指摘した相手に対して、「人間性に問題がある」だの「文学的素養がない」だのと悪口雑言罵詈讒謗を浴びせる習性があったようです。 そして、それを相手に直接に言うだけでなく、去年の生徒の悪口を今年言い、今年の生徒の悪口を来年言い、来年の生徒の悪口を再来年言い・・・ということをやるのです。 そうすれば、悪いのはその悪口を言われた人間であってYMCA予備校は悪くないと受験生とその親は思って、YMCA予備校の評判は上がると考えていたようです・・・・が、それをされて、この野郎! と思う人間もいたようで、自分自身がされる対象にならなかった人間には、自分はそういったことを言われない人間だから、人間性が良くて文学的素養があるしっかりした人間なんだと勝手に思いこむヤカラもいたようですが、そうではなくて、自分はたまたまその時は言われていないけれども、どこでどう転ぶかすると自分も同様に言われる可能性があるということだな・・と思う人もいたようです。そして、めぐりめぐって、「YMCAの高槻の主事というのは、嫌なヤツらしいなあ」という評判が立つことになったのです。「敬虔なクリスチャン」というのは、そういう人のことなのです。そいつがYMCA予備校をつぶしたのです。
   藤井の特徴なのか、YMCA予備校の特徴なのか、両方なのか、「受験生にウソを言う」という点があります。藤井は、「和歌山県立医大は、和歌山県以外の都道府県の人間が受けても通らないから受けてはだめだ。奈良県立医大ならいいけれども、和歌山県立医大は他県の受験生は合格させないようにしているから」と言うのでしたが、しかし、大阪府の北野高校の卒業生で和歌山県立医大に合格していた人は何人かいたのです。話が矛盾していますよね。 「そうなんですかあ~あ?」と言うと、それだけで、藤井は気に入らないようなのです。「きみのように、逆らう人間は、会社員としては絶対にやっていけないから、きみは会社員にはならない方がいい。きみは代書屋にでもなればいい」とか言うのです。なんで、「代書屋」がそんなところで出てくるのか、マカ不思議ですが、「敬虔なクリスチャン」というのはマカ不思議な人種です。 その後、駿台予備校で聞いた話では、この和歌山県立医大と奈良県立医大の話は、話が逆のようです。都道府県が設立した医大の場合、その都道府県で医者をやる人を養成するための大学なので、自治医大のように卒業後に出身地の都道府県のへき地に勤務することがはっきりと条件とされているとかではないのですが、できるだけ、地元で医者をやってくれる人をとりたいという面があるのですが、一方で、試験をする以上、試験の成績の悪い人間を合格にして試験の成績のいい人間を不合格にしていいのかという問題もあるわけです。奈良県立医大の場合、受験生は奈良県の高校卒の人間と他県の高校卒の人間では他県の高校卒の人間の方が多いにもかかわらず、合格者は奈良県の高校卒の人間の方が多いらしく、奈良県の高校卒の人間に「ゲタをはかせる」ということをしているのではないのか・・といったことが言われていたようなのです。それで、奈良県立医大は奈良県以外の都道府県の高校出身者は奈良県の高校出身者に対して不利だから模擬試験の成績で通りそうと思っても落ちることがあるという話でした。 それに対して、和歌山県立医大の場合は、奈良県か和歌山県かの違いで、似たような条件の大学のようですが、他県の出身の受験生でも通っているようで、和歌山県以外の府県の出身の人間が不利ということはないらしい、ということでした。藤井は間違った情報を仕入れこんでいたらしく、そして、北野高校の模擬試験で過去の受験生がどこの大学を受けて通った・落ちたという情報を見て、大阪府の高校の卒業生が和歌山県立医大に合格していた人が現実にいるということを知っていた私が、それを口にすると、「きみのような上役に逆らう人間は会社員は無理だから、経済学部には行ってはいかん」などと言い出し、勝手に私の「上役」になってしまったのでした。 予備校というのは受講生の方がカネ払っているのであって、YMCAの職員は受講生の「上役」ではないはずですが、YMCAの藤井は「YMCAはきみらの親からカネもらっているけれども、きみらからは1円もカネはもらってない」などと言うのです。こういうことを言う人間というのは、予備校とはいえ、教育に関係する仕事につくべきではないのではないか。藤井は勝手に私の「上役」になってしまい、そして、「上役の言うことに逆らうようなやつは会社員は無理だから、きみは経済学部に行ってはいかん」だの、「きみは人間性に問題があるから、会社員は無理だ」だの、「文学的素養に問題があるから文学部は受けてもきみは絶対に落ちる」だのと、あれやらこれやら言いたい放題、呪いの文句を浴びせたのでした。「敬虔なクリスチャン」というのは、「聖書は絶対に読んではいけない」という戒律ともにそういった呪いの文句をひとに浴びせかけることが信徒の勤めなのでしょうか? さらに、藤井という男は偏執的な性格で、翌年には、「去年、・・・・という生徒がいたのだが・・・」ということを翌年の受験生に話すのです。それを、永遠に繰り返すと、悪いのは受験生でYMCA予備校は神のみ旨にそった大変けっこうな予備校だとその後の受験生から思われるだろうと考えたようなのです・・・・が、そうは考えてもらえず、逆に、「YMCA予備校の高槻の主事というのは、なんか、嫌なヤツらしいなあ」という評判の方が広まったようです。

    私は、「洗礼を受ける」「日曜ごとに教会に行って『牧師先生のけっこうなお話』を座って聞く」「献金を払う」「聖書は絶対に読まない」という「クリスチャンの四大義務」を守る人間なんて、そんなもの、藤井は「敬虔なクリスチャン」と思っていたかもしれないが、実際は、そんなもの、キリスト教の教えに反するものであり、そもそも、キリスト教とは何かというと、ルターが言ったという「聖書に帰れ」という、『聖書』こそ、キリスト教の基本であり、「『聖書』なんて、あんなもの、絶対に読んではいかん」とか言いまくる男というのは、その時点で、洗礼を受けていようが献金をいくら払おうが、すでに「クリスチャン」ではないと考えるべきだ、と考えたのです・・・・・が、そう考えない人もいるようで、藤井さんみたいに、「洗礼をうける」「日曜ごとに教会に行って、牧師先生のけっこうなお話をきく」「献金を払う」「聖書は自分では絶対に読まない」、そして、「ぼくはクリスチャンだから」という文句を「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」という文句とともに、さかんに言う、というこの条件を満たすような人のことを「クリスチャン」とか「敬虔なクリスチャン」と言うべきだ、と思っている人も世の中にはいるようなのです。
    そういう人にとっては、そんなものはキリスト者ではない! と考える私のような人間というのは、これは、悪魔の使いかなにかだということになるでしょうし、「代書屋でもやれ」とか言われるでしょうから(そういう言い草は、まず、「代書屋」=行政書士 に失礼じゃないかと思うのですけどね・・・)、そう思うと、「クリスチャン」とか「教会」とか「牧師」とかは相手にしない方がいいのかもしれない・・とか思ったりもするようになったのです。

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( ↑ 早稲田奉仕園 奉仕園会館。 3階に「友愛学舎」 。)
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(↑ 「信愛学舎」 )

   キリスト教系の学生寮というものについて、高校生くらいの頃は、悪くないのじゃないかと思っていたのです。でも、今は、なんだか、そういう所に入ると、「洗礼を受ける」「日曜ごとに教会に行って、『牧師先生のけっこうなお話』を座って聞く」「献金を払う」「聖書は自分では絶対に読まない」という「クリスチャン」の四大義務とか「説教」されそうで、なんだか・・・・あんまり・・・と思うようになりました。自分の息子なりが入ろうかと思うなら、あんまり、勧めたい気持ちにはならないですね。 『聖書』は、まず、自分自身で読んで、自分自身でその意味を考えてこそ、価値があると私は思いますので。
   (2018.1.16.)

  次回、 「敬虔なクリスチャン」に取り上げられた聖書。入試で白紙で出して望みをかなえられた人と踏みにじられた者。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_8.html


☆ 早稲田奉仕園 スコットホール・友愛学舎、信愛学舎 訪問。
1.スコットホール・奉仕園会館・友愛学舎・ベニンホフ像 他 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_5.html
2.信愛学舎。「・・・のために」なしで生きられない人。いかさまの慈善。慶應の不良サークル。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_6.html
3.聖書を否定する「敬虔なクリスチャン」。「クリスチャンの4大義務」。YMCA予備校はなぜだめか。〔今回〕
4.「敬虔なクリスチャン」に取り上げられた聖書。入試で白紙で出して望みをかなえられた人と踏みにじられた者。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_8.html
5.国立大学の哲学科・宗教学科に行かせてもらえなかった私、大阪経大とトーシンダイ(東京神学大学)に行った牧師。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_9.html
6.私の親が私には出してくれなかったカネを「特別献金」で払ったカネで 私大出の男がトーシンダイに行った。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_10.html

☆ 早稲田界隈
穴八幡宮
1. 鳥居から社殿へ。亀の石に乗る鳥居。流鏑馬射手の像。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_2.html
2. 行きたくない大学を騙されて受けさせられた経験 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_3.html
3. 家賃滞納の借主を家主はどう対処。混雑時、高齢者の急階段は危険 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201801/article_4.html

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