合併して箕面市になって何十年経った今、なぜ、萱野北・萱野東・萱野南・萱野中央・豊川北・豊川南なのか?

[第312回] 大阪府箕面市は、箕面町・萱野村・豊川村・止々呂美村が合併して箕面市になって、すでに何十年も経つのに、なぜ、今になって、「萱野北」「萱野東」「萱野南」「萱野中央」「豊川北」「豊川南」などと言い出すのでしょうか?
   今回、大阪府箕面市粟生間谷西 のあたりに行くことがあり、道を歩いていると、そこに日本キリスト教団箕面東教会があるのを発見した。 そこで、箕面東教会について、写真と文をこのブログで公開しようと考えた・・・が、その前に、最近の箕面市の小学校やバス停・図書館の名称のつけ方について疑問に感じたものがあるので、それを先に【A】として述べる。 その次に【B】として、箕面東教会について述べるので、それも見ていただけるなら幸いである。

【A】 なぜ、今になって、「萱野北」「萱野東」「萱野南」「豊川北」「豊川南」なのか? 坊島と西宿と萱野の境目付近の西宿、萱野の北東の隅の外側が、なぜ、「萱野中央」なのか?
   東京もん は知らんだろうけれども、大阪では、「みのお」というのはけっこう有名な地名だった。 「みのお」は「箕面」と書く。 東京もんは「それでは、『みのも』でしょうよ。『みのお』と読んでほしいなら、『箕尾』とでも書くべきでしょう。だいたい、大阪の人間というのは、『すいた』を『吹田』なんて書くし、どうかしてますよね。『すいた』と読んでほしいなら、『吸田』と書くべきでしょう。なんで、『ふいた』を『すいた』と読ませたいのか、大阪の人間の考えることはわけがわかりませんね」とか言うが、別に「読んでほしい」とか「読ませたい」とかいうことはないので、「箕面」を「みのお」と読みたくなければ読まなくていいし、「吹田」を「ふいた」と読みたければ「ふいた」と好きに言っておけばいいので、「誠に申し訳ございませんが、『吹田』を『すいた』と読んでいただけませんでしょうか」と頭下げてお願いする必要もないと思うのだが・・・。  大阪ではけっこう有名な「箕面(みのお)」は何で有名だったかというと、箕面大滝は日本で最も滝らしい滝だと私は思うのだが、その箕面大滝と箕面駅から箕面大滝に至る滝道、それに、昔は天然自然の猿がいるとして親しまれ、そのうち、「箕面の猿は狂暴」と言われ、子供がお菓子持ってると奪いに来る、女性がハンドバック持ってると奪いに来る、男なら大丈夫かというとちっともそんなことない・・・という猿だったが、最近は猿にエサをやると罰金という条例ができて山の奥の方に移動したらしくあまり見かけなくなったがその猿、かつては駅から箕面大滝まで馬車が走っていたが今はなくなった、知らない人は知らないが修験道系の人には知ってる人もいるのではないかと思うが、役行者が箕面大滝で修行をして弁財天の助けを得て悟りを開いたというお話があり、その際に開かれたという「日本4弁天のひとつ」と言っているが「東京もん」は他3つは知っていてもここは知らない箕面山滝安寺、滝道の途中にある昆虫科学館、、紅葉がきれいで関西では「京都の高雄、大阪の箕面が紅葉の名所と言われる」・・・とうちの父親が言うとった、「明治の森箕面国定公園」「東海遊歩道」の西の起点、滝道の土産物屋で売っている大阪の人間には昔から人気のお菓子だが東京もんは醤油をかける「もみじの天ぷら」・・・・といったもので有名だが、しかし、これらは、すべて、箕面市でも西部のものだ。 箕面市は、今は昔、箕面町と萱野村と豊川村と止々呂美村の1町3村が合併して箕面市になったのだが、中部(旧 萱野村)・東部(旧 豊川村)と山を隔てた北部(旧 止々呂美村)は、箕面大滝と滝道からはけっこう離れていた。 もっとも、離れていたというなら、旧箕面町の地域にしても、そこの住人は、「紅葉の天ぷら」を主食にしていたわけではないし、箕面1丁目・2丁目・8丁目あたりでは、昼でも夜でも猿が出没したりもしたが、阪急「石橋」駅に近い瀬川・半町などの地域では無縁だったしするので、旧箕面町の地域でも、観光地としての箕面と同じというわけでもなかったが。
   かつては、箕面市から大阪市内へ通勤する人が住んでいるのは、阪急箕面線の両側、旧箕面町の地域であって、中部・東部から大阪市内に通勤する人はあまりなく、中部東部は昔からの地元の人の住むところ・・・・という印象だったが、いつから変わったのか、北大阪急行電鉄の「千里中央」駅ができて、東部・中部から「千里中央」駅までバスで行って、「千里中央」で北大阪急行に乗り換えると地下鉄御堂筋線に乗り入れて、梅田から淀屋橋・本町・難波・・・と大阪の街中まで直通するわけで、梅田から乗って石橋で乗り換えてという箕面線より便利なくらいになり、中部は新御堂筋という道路が通り、東部は東名高速道路の茨木インターチェンジから近く、さらには、箕面市の東部と茨木市との境目を大阪モノレール彩都線なんてのが走るようになって、今や、箕面の東部・中部は「いなか」ではなくなった・・・・のだが、西部の住人には今でも「こっちの方が上」みたいな意識の住人がいるのかいないのかというと、「世の中いろいろ、人間いろいろ」なので、いることはいるのではないかと思うのだが、なんでも、北大阪急行電鉄が「千里中央」から北に延伸して、「箕面船場」「新箕面」と2つの駅ができる予定で、今、工事をしており、開通すると、中部の方が電車でもよっぽど便利になる・・・・が、西部の住人にとっても便利になるので、中部が便利になるから気に入らないとか思う人間はあんまりないと思う。
   しかし、最近、ふと気づいたのだが、人口が増えて、新しい小学校がいくつかできたのだが、その命名のしかたである。昔から、箕面市の小学校と中学校の名称というのは、中学校の場合、箕面市立第一中学校・第二中学校と山をへだてた北側の止々呂美中学校、小学校は箕面小学校はわかるが、西小学校・南小学校・北小学校・東小学校と萱野小学校、それに山を隔てた北側の止々呂美小学校と、一とか二とか三とかと、東西南北とか、もっと味わい深い土地の名称をつけられんもんか・・・・なんて思ったのだ・・・・が、今、考えると、あれは、もしかすると、旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村にしても、それぞれが、もともと、いくつかの村が合併してできた町村なので、合併前の特定の村の名称をつけると、なんで、そっちの村の名前なんだ・・という話が出るかどうかわからんが、そういう話が出てはうるさい・・なんて思って、それで、第一・第二・第三とか東西南北とかいう愛想のない校名つけるようになったのではないだろうか。 そのうち、東西南北では足らなくなって、南西小学校なんて名称ができて、それでも足らなくなって、はて、どうしようかと、中小学校なんて名称を作り出したのではないか。 箕面小学校と中小学校はどっちが中なんだ・・・てつっこみたくなるが。
   で、萱野小学校は箕面市萱野にあったので、東西南北の他に箕面小学校より東、東小学校よりも西にあった小学校の名称として箕面市萱野にあるから萱野小学校というのは悪くないと思ったのだが、最近、箕面市如意谷にできた小学校の名前が萱野北小学校、石丸にできた小学校の名前が萱野東小学校、小野原にできた小学校の名前が豊川南小学校、粟生間谷西にできた小学校の名前が豊川北小学校、新船場南にできた図書館の名前が萱野南図書館・・・・と、なぜか、旧萱野村・旧豊川村の名称が復活している。

(↑ 「旗」マークが、箕面市如意谷 にできた「箕面市立萱野北小学校」 )
いったん、全体を箕面市としてやっていきましょうと決めて「箕面市」が成立して、それからすでに何十年も経っているのに、新しく小学校を作るなら、今では、旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村に合併する以前の村同士の競争・対立なんてもうないと思われるので、如意谷に作る小学校は如意谷小学校、石丸に作る小学校は石丸小学校、小野原に作る小学校は小野原小学校、粟生西に作る小学校は粟生小学校でいいのではないかと思うし、今さら、如意谷を「萱野北」なんて言われても、ええ~え? て感じがするし、そもそも、如意谷あたりまでは旧箕面町だったのかと思ってたら旧萱野村だったんだあ・・・・てそこで知ったし、たしか、もともと、「箕面市稲」だった所の一部分を大阪市内の船場から繊維団地が引っ越してきたということで「新船場西」に名称変更した場所に作った図書館を、「新船場図書館」とするか前の地名の「箕面稲図書館」とするかならわかるが、なにゆえに、「萱野南図書館」にするのか? 今は「箕面市新船場西」であって「箕面市萱野」じゃないのに。

( ↑ 「旗」マークが、箕面市新船場西 にできた「箕面市立萱野南図書館」 )
 なんで、今さら、「萱野北」「萱野東」「萱野南」「豊川北」「豊川南」なんて言い出すのか、もう何十年も前に、全体を「箕面」としてやっていきましょうと決めて、それから何十年とそれでやってきたのに、今さら、また、分割したいのか? と疑問を感じた。
   「新箕面」駅ができるという場所にできた「キューズモール」の所に新しくできた南向きだけのバス停の名称も、場所は箕面市坊島と西宿と萱野の境目の西宿なのに、なぜか「萱野中央」だし。 「箕面市萱野」からすれば北東の隅の外側なのに、なんで「中央」なのか?

( ↑ 「旗」マークが、箕面市西宿・箕面市坊島・箕面市萱野の境目付近の西宿、箕面市萱野の北東の外側に設置された、阪急バス「萱野中央」バス停。 )
なんか、旧萱野村の人たちで、合併後に、旧箕面町に対して、旧萱野村は冷遇されてきたという意識の人がいたのだろうか? ・・・にしても、その人たちというのは、すでに引退したか亡くなったかの年代で、今の現役世代の人間というのは、すでに「旧萱野村も旧豊川村も旧箕面町とともに全体が箕面市」として生きてきた世代のはずなのだが、それでも、「旧萱野村」を復活させたいのだろうか?
   また、旧箕面町・旧萱野村・旧豊川村・旧止々呂美村の4つが合併して箕面市になったとはいえ、合併前の1町3村にしても、いくつかの村が合併してその町村になったものであるから、すでに箕面市になって何十年も経つのに、最初の村の名称を尊重するというならわかるが、中途の町村の名称を復活させるということに疑問を感じる。 旧豊川村の場合、理由はよくわからないが、いったん、旧箕面町・旧萱野村・旧止々呂美村と合併して箕面市の一部になってから後に、一部分が箕面市から離脱して茨木市の方に合併して今は茨木市の一部になった。だから、今、茨木市に茨木市豊川 という地名があり、大阪モノレール彩都線の「豊川」駅は茨木市豊川にある。

( ↑ 「旗」マークが、茨木市豊川 にある 大阪モノレール彩都線「豊川」駅。 )
豊川北小学校ができた箕面市粟生西、豊川南小学校ができた箕面市小野原は、かつては豊川村であった場所らしいが、さらに以前は別の村名、おそらく、「粟生村」「小野原村」だったのではないか。 豊川北小学校がある粟生西3丁目 にある天満宮五字(ごあざ)神社には由緒書きの石碑がり、五字神社には石碑と別に木の板での由緒書きもあるが、そこには「粟生(あお)」という地域は、旧石器が発見されて、古くから人が住んできた場所であることと、「粟生(あお)」という地名は粟がよく生育した所ということでつけられた地名らしいということが書かれている。↓
画像

(↑ 箕面市粟生西 の「天満宮」内に設置されている石碑 )
「粟生(あお)」という地名はそれだけ、古くからある由緒ある地名らしいのであるから、もともと、今現在は茨木市に属する茨木市豊川に由来する豊川村の北のあたりということでの「豊川北」という地名を小学校名につけなくても、「粟生小学校」でいいのではないのか、と思うのだが、どうだろうか。

( ↑ 「旗」マークが、箕面市粟生間谷西 にできた 「箕面市立豊川北小学校」 )
   (2017.9.26.) 


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