成巽閣(せいそんかく)(金沢市)見学。特に「群青の間」「群青書見の間」「越中の間」はすごい!

[第265回] 「数寄屋建築」見学(5カ所目)
   「数寄屋造」と言われる建築の代表として、藤井正一・小原二郎監修『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)には、
1. 「ワビ」「サビ」を重視した地味で静寂な空間・・・・桂離宮、
2. 派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間、「キレイサビ」・・・・西本願寺飛雲閣、金沢城成巽閣。
と、この3箇所が出ており、
《ウィキペディア―数寄屋造り》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AF%84%E5%B1%8B%E9%80%A0%E3%82%8A では、
桂離宮の他に、伏見稲荷大社御茶屋、曼殊院書院、三渓園臨春閣(旧 紀州徳川家巌出御殿)、角屋があげられ、
中村昌生が「京数寄屋名邸十撰」としてあげているものに、野村碧雲荘、霞中庵、清流亭、對龍山荘、四君子苑、広誠院(旧広瀬家別邸)、虎山荘、山科山荘、嵯峨有心堂、土橋邸があり、
東京都杉並区の角川源義邸を「近代数寄屋造りの邸宅」として、あげている。
   一番、有名というのか、《「数寄屋とは?」→「桂離宮のような」》⇔《「桂離宮とは?」→「数寄屋造りの代表」》とされる桂離宮を見学した時には、な~るほど、これが数寄屋造りかあ~あ・・・・と思ったのだが、そして、その後、三渓園臨春閣(旧 紀州徳川家巌出御殿)を見た時も、桂離宮と共通するところがある数寄屋建築だわなあ・・とも思ったのだ。 しかし、「ワビ」「サビ」型と「キレイサビ」型があると言われると、「キレイサビ」型も見ないわけにはいかない。 おそれるのは、かつて、ミラノ大聖堂を見学した後、パリのシテ島のノートルダム大聖堂を見学した時、ミラノ大聖堂を見て、な~るほど、これがゴシックかあ~あ♪ と思ったものの、パリのシテ島のノートルダム大聖堂を見ると、こちらも「ゴシックの代表」と言われるものの、ミラノ大聖堂とはぜんぜん違うので、いったい、どっちがゴシックなんだ・・となんだかわからなくなった経験があったのだが、わからなくなるならなるで、なったらええがな、ということで、「キレイサビ」の方も見学しようと考えた。
   西本願寺飛雲閣は、通常は公開されていない。 西本願寺自体は普段から入らせてもらうことができ、西本願寺の一角に飛雲閣があるので、がんばって周りを歩けば、塀の向こうにある飛雲閣の建物の端っこがちょっぴり見えるのだが、それに対し、成巽閣は普段から公開されているようなので、金沢まで足を運んで見学させてもらってきた。
   藤井正一・小原二郎監修『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)には、「金沢城成巽閣(せいそんかく)」と書かれているのだが、『都市地図 金沢市 野々市・かほく市 津幡・内灘町』(2016年6版 昭文社)を見ると、「金沢城公園」の南東に「御濠通り(百軒堀)」を隔てて「兼六園」があり、「兼六園」の南の隅に「金沢神社」「成巽閣(せいそんかく)」「県立伝統産業工芸館」があることになっており、「金沢城公園」と「成巽閣」は「兼六園」を間にはさんで別だということになっている。 もっとも、かつてのお城というものは、いったい、どこまでがお城の範囲なのか、城下町までお城の範囲だとするとその範囲は相当広くとらえることになる。 とりあえず、お城の「門」の内側、堀と城壁の内側がお城だとすると、北は大手門と大手堀、南は石川門と百間堀の内側が金沢城だということになり、その南東側にある兼六園の南の隅に成巽閣は存在するので、金沢城とは別ということになるが、まあ、とりあえず、行ってみた。
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↑ 成巽閣(せいそんかく) 正門
   成巽閣には「正門」と「赤門」の2つの入口がある。 西ヶ谷恭弘 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13. PHP研究所 PHPムック)には、「成巽閣車寄せ」と「謁見の間」と「成巽閣に残る赤門の唐門」の写真が出ている。 「赤門の唐門」が入口なのかと思い、正門から入るつもりで、成巽閣より前に兼六園に7カ所ある出入口のうちの金沢城公園の石川門に近い「桂坂」の入口から入って、成巽閣に近い「小立野」から出るつもりで、その付近まで来たところ、成巽閣の「赤門」があって、兼六園から外に出ずに、直接、成巽閣に入ることができるようだった。 それで、赤門から入ったのだが、「赤門」が正門というわけではなく、南側の公道から入る門が「正門」↑だったのだ。

   だから、今回の訪問は、実際には「赤門」から入ってしまったのだが、「正門」の方から入ることを考えてここでは述べたい。 「赤門」は”裏口”というわけでもないかもしれないが、やっぱり、なんら恥ずべきことをしていない以上、正門から入るのが王道、本来ではないか。 私は、世の中何が嫌いというて、裏口入学ほど嫌いなものはない!  裏口入学は人間のすることやおまへん!  今となっては40年近く前になったが、高校を卒業してローニン中のことだが、父の親友で医者屋をやっていたおっさんがいて、「患者」を薬漬け検査漬け毒盛り療法付けにしてため込んだカネで、ドバカ息子を関西医大に金権裏口入学させたというのを自慢にしていたのだ。「自慢に」だ。「なにしろ、思考が柔軟なもんやからな」と言うておったのだ。 私なんぞは、大学というものは、真面目に努力をして合格最低点を上回る点数を入学試験でとって入学するものだと思っていた。 北野高校のある教諭が「入学試験というのは厳しいのが当然で、点数のいい者が合格するのが当たり前」と話されたが、そういうものだと思っていた。 なにより、裏口入学というものは、たとえ、するにしても、恥ずかしそうにするものであって、「思考が柔軟じゃから、裏口入学なんじゃ」とか言って自慢するものとは違うと思っていたのだ。 ところが、父は「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りして稼いだカネでドバカ息子を関西医大に金権裏口入学させたことを自慢にしているおっさんに感化されてしまって、「M先生の息子さんは、関西医大に裏口入学やねんぞお。おまえとは違うねんぞ、わかっとんのんか、チャンコロ! 裏口入学っちゅうことは、思考が柔軟やっちゅうことやねんぞお。ちゃんころ、わかっとんのんか。おまえとは違って裏口入学やぞお~お!  おまえとは違うねんぞ、チャンコロ、おまえとは違って裏口やねんぞお、わかっとんのんか、チャンコロ、ちゃんころ、わかっとんのんか、このチャンコロめが!」と私に何度も何度も言っていたのだ。 それで、「なんで、裏口入学する人がえらいのお?」と尋ねたのだが、「わからんか?  裏口入学っちゅうことは、おまえとは違って、思考が柔軟やっちゅうことや。わからんのか、チャンコロ、わからんのんか、チャンコロ!」と何度も何度も私に言ったのだ。 そんなに「思考が柔軟」なら、「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りにして稼いだカネで関西医大なんてものに裏口入学するのではなく、その「柔軟な思考力」を生かして、狂大医学部でも犯大医学部でも実力で入ればいいのと違うのか。そう言ってやったのだ。「そんなに思考が柔軟なら、その柔軟な思考を生かして、京大医学部でも東大医学部でも阪大医学部でも実力で現役で入ればよかったのと違うんですか?」と、そうすると、父は「何を言うとるんじゃ。 M先生がおっしゃっとるのじゃ。思考が柔軟やから関西医大裏口入学やと。 思考が柔軟やから裏口入学されたんやないか! わからんのんか、チャンコロ。 チャンコロとは違って裏口入学やねんぞ、M先生の息子さんはあ! わかっとんのか、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロめが。ちゃんちゃんコロコロちゃんコロコロ。 ちゃ~んころ、ちゃ~んころ、ちゃ~んころ! わかっとんのんか、おまえとは違うんやぞ、チャンコロとはちごうて、M先生の息子さんは思考が柔軟やねんぞ。おまえなんかと違うねんぞ、わかっとんのんか、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロ!」と何度も何度も叫んでいたのだ。 それから40年近くたち、ついに、その時の父の年齢に達してしまった、その「M先生」のその時の年齢より上になったのだが、今も、なぜ、裏口入学するドバカ息子が「思考が柔軟」で「えらい」のか、よくわからない。 そんなに「思考が柔軟」なら、裏口で入学せずにその「柔軟な思考」を生かして、京大でも阪大でも東大でも実力で正門から入ればいいと思うのだが、なんで、「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りして稼いだカネで裏口入学するドバカ息子がそんなにエライのか、私は「思考が柔軟」じゃないからなのかさっぱりわからん。 まあ、父が言うには、父とか父の親友のその息子を関西医大に「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りしたカネで金権裏口入学させた医者屋のM先生とかは「ドイツ人」「ドイツ人でアメリカ人」だそうで、私は「ロスケでイタコでチャンコロ」だそうなので、その「ロスケでイタコでチャンコロ」といたしましては、「ドイツ人でアメリカ人」のなさるようなことはいたしかねますので、大学に限らず、正門から入ることを原則とさせていただきたいと思います。 (東大の本郷の場合は、正門も悪くないけれども、赤門の方が魅力的だから、赤門から入ってもいいけどね・・・♪)
   ロシア民謡に「ドビヌーシカ」〔《YouTube―SHALYAPIN Folk Song 1910 & 1924 Дубинушка(ドゥビヌーシカ) ШАЛЯПИН(シャリアピン) 》https://www.youtube.com/watch?v=xeLxsBpzYDg&index=3&list=PL6BD5C1249C6F676B 〕という歌があり、「ドビヌーシカ」は日本語に訳すと「棍棒」という意味らしく、ヴォルガ川の船曳人夫が船を曳くとき、樫の木の棍棒に縄をくくりつけて曳いたらしく、その棍棒のことを指し、樫の木の棍棒は船を曳くときの道具であるが、労働争議がもしも実力行使に至った時には、それが労働者の武器にもなったらしい。 「日本語訳」として歌われる「仕事のうた」は、本来のロシアで歌われてきた「ドビヌーシカ」とは歌詞の内容が別のものになってしまっているのだが、津川主一訳という歌詞〔《YouTube―仕事のうた》https://www.youtube.com/watch?v=6GRUhyhiKjY 〕では、「悲しい歌、うれしい歌、たくさん聴いた中で、忘れられぬひとつの歌、それは仕事の歌。」「死んだ親が後に残す宝物は何ぞ。 力強く男らしい、それは仕事の歌」の後、「イギリス人は利巧だから水や火などを使う、ロシア人は歌を歌い、自ら慰める」という歌詞が続く。 なるほど、《「ドイツ人でアメリカ人」は利巧だから、裏口入学で大学に入る。 「ロシア人」は自ら努力して実力で大学に入る》と、そういうことか。 「ドイツ人でアメリカ人」は「利巧」だから、「思考の柔軟さ」を発揮して「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りして稼いだカネで裏口入学して私立高校から関西医大に入る、「ロスケでイタコでチャンコロ」は「利巧」じゃないから、人を薬漬け検査漬け毒盛りしたカネで裏口入学する「思考の柔軟さ」は持ち合わせていないものだから、だから、実力で合格最低点を上回る点数をとって公立高校から国立大学に入る、と。 なるほど、そう考えれば、「思考の柔軟さ」という意味も理解できないことはないか・・・・。おのれの努力で大学の入学試験に合格しようとする者は、「思考の柔軟さ」によって裏口入学する者と違って、裏口入学する者の百倍の努力をしても千倍の努力をしても、それでも行きたいと思う大学学部に落ちてしまうことだってある。父は「世の中には、人に命令する人間と人に命令される人間の2種類の人間が必要で、神さまは大変賢明なお方であって、生まれる時点で人間を2つに分けてお造りになっている。わしいとかM先生とかは『人を支配するための民族』『人に命令するための民族』である。即ち『ドイツ人』である。あんたあは『人に命令されるための民族』『人に支配されるための民族』であ~る。即ち『チャンコロ』である。これは神さまがお決めになったことであって、どんなにあがいても決して変えることはできないものである。それで、神さまは大変あわれみ深いお方であって、チャンコロにもまたチャンコロとしての人生を用意してくださっておるのや。即ち、『支配されるための人生』『服従するための人生』を神さまはチャンコロには用意してくださっているのであ~る。神さまに感謝しろ!チャンコロ。心の底から感謝しろよ、チャンコロ。 民族の違いを決して決して忘れてはならぬぞ、チャンコロ。 ロスケでイタコでチャンコロの分際でドイツ人と一緒であるなどと思ってはならぬぞ、チャンコロ。民族の違いを忘れるな!」 」と私の鼻の頭を指さして毎日毎日言っていた。(「民族の違いを忘れるな」とか言われると、「不忘民族恨(民族の恨みを忘れるな)」と言いたくなってくるし、「造反有理(反逆には理由がある)」「革命無罪(革命は無罪だ)」とも言いたくなってくる。「人を2つに分けてお造りになる神さま」などというものは「支配されるための民族」からすると、十字架につけるなりしてやった方がよいのではないかとも思えてくるが。)2浪もしてしまった東大の入試で、試験の後、京王帝都電鉄の駒場東大前駅の入口の階段の下で泣いていた女子受験生がいたのを見たが、女は泣けていいよな・・と思ったものだ。泣くわけにはいかないとしても、泣いても泣ききれない思いをした者にとっては、「利巧だから」「思考が柔軟じゃから」裏口入学する「ドイツ人」は、裏口入学を自慢する「ドイツ人でアメリカ人」は、たしかに私などとは「民族が違う」とでも理解するしかない。
( 今、関西医大のホームページhttp://www.kmu.ac.jp/ を開くと、「躍進する関西医大」などという文句が出て来るのだが、「患者」を薬漬け検査漬け毒盛りして稼いだカネで裏口入学するドバカ息子の親が払ったカネで「躍進」されても困るんだがな。 関西医大が「躍進」するために、いったい、何人の「患者」が薬漬け検査漬け毒盛りされたことか!!! それ、考えると、関大医大なんて反社会的勢力は「躍進」しないでもらいたいものだ。 関西医大が「躍進」すればするほど、「患者」は薬漬け検査漬け毒盛りされるということだ。 自慢たらしく「躍進する」などとホームページに入れるのは無神経にもほどがある。)
( なお、ドイツには私はまだ行ったことがないのだが、ヨーロッパの国に旅行すると、ドイツ人の旅行者を見かけることもあり、話をすることもある〔話すいうても、「えらい混んでまんなあ」とかその程度の話やけど。そのくらい話す程度しか語学力がないんだから、しゃあない。〕。 父なんかは、「ドイツ人」というと「英雄ヒットラー総統」というのが「ドイツ人」らしいのだが、ヴェルサイユ宮殿に入るところで、入口の行列の所で一緒になったドイツ人のおっさんなんかは、あんまり、そんな感じではなかった。 実際のドイツ人を知らずに、勝手なステレオタイプを創造しない方がいいかとも思うのだが、自分を「ドイツ人でアメリカ人」とか思っているおっさんに言ってもきかないと思うので、黙ってよ。)

   成巽閣に、正門から入ると、↓
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↑ 「車寄」の部分。

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↑ 屋根の瓦には、梅の紋が入っている。 天神さんの梅・・ではなく、前田家は菅原道真の子孫だ・・ということになっているらしく、前田家の家紋だそうだ。 屋根の下にも梅の紋が。↓
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   東大の本郷の赤門は、正門の横の位置にあるので、正門ではなく赤門から入っても、「裏口から入った」という感じではない。成巽閣の赤門は、建物の正門と逆の位置にあるので、正門からすると「裏」の位置にあり、「裏口」と言えば裏口であるが、裏側に何があるかというと、兼六園がある。 「裏口」とすると、けっこういい裏口である。↓
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    成巽閣(せいそんかく)というのは何なのか。 金沢城と兼六園と成巽閣とはどういう関係なのか。
    今現在は、金沢城は、金沢城公園として、誰でも無料で入ることができる。石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫の3つが重要文化財に指定され、昔からの建物が残っているが、河北門・橋爪門などは復原である。橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓は、入場料を払って内部に入ることができる。 金沢城の「入口休憩所」で無料でもらえる「金沢城・兼六園ガイドマップ」などには北側に「大手門」と表記された入口があり、かつて、大手門であった場所であるが、現在は大手門としての建物はない。 金沢城公園は、文化財保護法における「国指定史跡」に指定されているらしい。 太平洋側で北側に山がある地域では、最も主要な入口は北以外の方角に設けられることが多いかと思いますが、北陸の金沢では南側に山、北側に海がある地形であるということもあるのでしょうか。大手門は金沢城の北側にあります。 私は、今回、金沢城公園の大手門から入って、石川門から出て兼六園を経て成巽閣に入りましたが、今現在は、石川門を入ってすぐの場所に「入口休憩所」があります。
    ≪金沢城の成り立ちは、大坂城と同じ軌跡をたどっている。 豊臣秀吉が築いた大坂城は、石山本願寺の跡地だが、前田利家が本格的に構築した金沢城も、金沢御堂(尾山御坊ともいう)の跡地なのである。いずれも一向一揆(浄土真宗)の寺院を襲ってつくられており、寺院から城郭への変貌であった。≫(武田鏡村「名城物語 利家、右近、利常が築いた百万石の城」 ) 金沢御堂(尾山御坊)は浄土真宗の御堂であったとしても、その頃の加賀は一向一揆が支配している国であり、宗教的施設でもあるとしても、政治的軍事的拠点でもあったわけです。 その後、織田信長の武将である柴田勝家の甥にあたる佐久間信盛がここを城としたものの、賤ケ岳の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、佐久間信盛も斬首された後、前田利家が加賀の領主となり、利家の息子の利長・利長が後を継ぎ、関ケ原の戦いでも徳川方につき、江戸時代にも百万石の城として金沢城は続いた。 城として整備される過程では、特に、秀吉の棄教令を拒んで流浪していた高山右近を客将として招き、右近が築城に尽力したらしい。
    金沢城と兼六園の間にある「お堀通(百間堀)」という道は、金沢城からかなり低い位置、金沢城はこの道よりかなり高い位置にあり、その石垣は相当の高さである。 金沢城は北側の大手門の北側とは高低差はたいしてないが、南側の石川門とその前の道路との間の高低差は大きい。 兼六園は南側・西側とは高低差はほとんどないが、東側の市街地よりも高く、もともと、丘になった場所に作られたらしい。 この金沢城と兼六園の間の道は何だったのかというと、西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)には、
≪ 金沢城のシンボル石川門は、城の背面である搦手口(からめてぐち)を守る門だ。 今日みられる建築は、天明八年(1788)3月に竣工したもの。 石垣は明和2年(1765)頃に修築した折のものだという。
   門前に蓮池濠(はすいけぼり)(百間濠〔ひゃっけんぼり〕)と呼ぶ水堀(現、道路と公園)を穿ち、丘続きの兼六園側と分断している。 ・・・・≫
≪ 百間濠は今日埋め立てられる。≫
と出ており、どうやら、金沢城と兼六園は一続きの丘だったものを人工的に掘って分断し、そこに堀を作ったが、今ではその堀を埋め立てて、道路と公園にしているらしく、かつ、石川門の前と兼六園との間に石川橋という橋をかけて行き来できるようにしている。 橋の兼六園側から下の道路に降りる階段があり、橋のすぐ下あたりに「兼六園下・金沢城」というバス停がある。 大手門の方がJR金沢駅に近いが、兼六園の側の門であり、重要文化財に指定されている昔からのものが残っている石川門の側の方が、金沢城を見学に行く人にとっては主要な門に今はなっているらしい。
   金沢城との間に堀が作られて分断された兼六園は、今は文化財保護法で「特別名勝」と指定され、「日本三名園」の1つとされていますが、もともとは、どういう存在だったのかというと、≪ 兼六園は十二代斉広、十三代斉泰によって造園された林泉回遊式庭園で、造園以前は金沢城の出城として、また城主の茶湯の場として利用された。瓢池(ひさごいけ)周辺のみが茶庭であった。≫と西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)には書かれている。 兼六園でもらったリーフレットの「沿革」には≪もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。≫とあり、最初から今の兼六園全域が庭園であったわけではなく、最初は金沢城に近い付近が≪城に属した庭≫で、≪東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があった、1822(文政5)年には12代藩主・斉広(なりなが)の豪壮な隠居所「竹沢御殿」が完成している。≫ その2年後、12代斉広は他界し、13代斉泰(なりやす)は、竹沢御殿を取り壊し、兼六園を作庭して、今のような回遊式庭園の基本的な構図ができたというものらしい。
   成巽閣でもらったリーフレットによると、成巽閣は、1863年(文久3年)に、前田家13代の齋泰(なりやす)(斉泰)が、母で12代齋廣(なりひろ)(斉広)の奥方であった眞龍院(鷹司隆子)のために造営した奥方御殿だったらしい。 鷹司家が「辰巳殿」と呼ばれていたこと、「辰巳用水」が庭園を流れ、「辰巳長屋」が配されたこと、金沢城の巽の方角にあることから、「巽御殿」と名づけられたということらしい。
   眞龍院(鷹司隆子)は1870年(明治3年)に他界し、1874年(明治7年)に齋泰(なりやす)(斉泰)は「成巽閣」という名に改めた・・・・というものらしい。
   「ワビ」「サビ」の桂離宮に対し、「キレイサビ」の数寄屋造建築として西本願寺飛雲閣とともに成巽閣は、『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)には書かれているのですが、建築された年代は、桂離宮や飛雲閣よりずっと後、江戸時代でも終わりころに竣工し、住人であった眞龍院(鷹司隆子)は「明治」に入るまでそこで居住した建物だったわけで、桂離宮や修学院離宮は皇族の離宮でしたが、成巽閣は、貧乏人の家ではないのですが、奥方御殿であって、成巽閣としては桂離宮・修学院離宮のような大規模なものではないわけです。それらの事情は桂離宮とはずいぶん違いますし、飛雲閣とも違います。 『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)には「金沢城成巽閣」という書き方がされていますが、成巽閣は、金沢城のお殿様の庭園が兼六園で、成巽閣はお殿様のお母さんの住居として庭園の兼六園の一角に作られたものなので、金沢城に属するものではないが、金沢城と兼六園と成巽閣は一続きのようなものとも言えますが、「金沢城成巽閣」という表現をしてしまうと、金沢城の一部分のような印象を受けるので、この表記はよいとは言えないのではないかと思います。
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↑  赤門から入った所から見た成巽閣。
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↑  2階にところどころに窓があいてその間に桟があるのは、意匠としてそのように作られたのではなく、2階の窓は雨戸が半ば閉められた状態で、雨戸の間の手すりは、今現在の見学者がそこから落ちないように設けられたもので、成巽閣にもとからあるものではありません。2階のこの部分には手すりはあることはあるのですが、大変低い位置に設けられている為、安全対策としてそれより高い位置に落下防止のために設置されたようです。
この奥に「群青の間」があり、日焼け防止のためでもあるかもしれません。

    赤門は、今現在は正門に対して裏側の入口ではあるのですが、赤門からどこに出入りするかというと兼六園の内部であり、もともと、成巽閣と兼六園は同じではないとしてもまったく別のものではなかったわけで、いわば、自分の家の庭に出る出入口みたいなものだったようです。
   西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)には、≪赤門でありかつ唐破風やねの門は、高貴な女性を現す型だ≫と書かれていますが、言われてみると、女性的とも感じられます。 成巽閣でもらったリーフレットには≪大名家奥方という女性のための建造物として貴重な事例でもあります。≫と書かれていますが、言われてみると、女性の住居という雰囲気はあるようにも思えてきます。

    西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)にも、成巽閣の外観で掲載されている写真は正門側の「車寄」の部分と赤門のみですが、実際、行ってみると、外観の写真は撮りにくい、というのか、塀の内側で全体の写真を撮るのが難しい。 それもありますが、成巽閣の特徴は、外よりも中だと思うのです。
    但し、内部についても、「数寄屋造り」のうちの「キレイサビ」のタイプと言われると、はて・・・・と考えてしまうようなところがあります。 現地では、1階は「武家書院造り」、2階は「数寄屋風書院造り」と書かれていますが、たしかに、1階と2階では雰囲気はかなり違います。
    建物内部は写真撮影禁止ですので、ここで内部の写真を公開することはできません。西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)では、内部の写真は、「謁見の間」のみ掲載されています。 桂離宮は、庭園内を廻り、建物を至近で見ることはできますが、御殿群については内部は見ることはできません。修学院離宮は、庭園内を廻るとともに、建物の内部も外から見ることができ、霞棚も建物の外から見ることができますが、建物の中に入ることはできません。 それに対し、成巽閣は、非公開の部屋もありますが、建物の中に入って見学することができます。 「謁見の間」は、上段の間と下段の間の間にアクリル板が入れられ、上段の間にあがることはできませんが、下段の間から上段の間を見ることはできます。 私は建築・住宅の仕事に携わってきた者として、成巽閣については理解しておくべきだと思って、成巽閣についての書物をけっこう捜したのですが、なんとか見つけた西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ) 監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)でも、内部について、掲載されている写真は「謁見の間」のみです。 「謁見の間」の写真のみを見てしまうと、どうも、誤解してしまうおそれがあるのではないかと思うのです。
    成巽閣は、1階と2階でも印象は違いますが、1階でも、「謁見の間」とそれ以外でも印象は違います。特に、「謁見の間」は、エライ人が臣下と会う場所だということもあり、『新版 名城を歩く3 金沢城』に掲載の写真でもそうですが、数寄屋にはほど遠い、むしろ、日光東照宮のような絢爛豪華、格式ばったものであり、たとえ、「キレイサビ」といっても、これが数寄屋かあ? という感じがします。

    しかし、それは「謁見の間」のみを見るからそう感じるのであって、1階にしても、それ以外の部屋や成巽閣の庭園(兼六園の一角にあり、庭園である兼六園とも続きなのですが、成巽閣に付随する庭園があります)を見ると、もしも、それが私が住んでいる家ならものすごい豪邸ですが、お殿様のお母さんの住む家だとして見ると、特別に豪勢なわけでもなく、質素とまでいかないとしても簡素で、それでいて、その簡素ななかに意匠上の工夫を凝らしたところがある、というものなのです。
   そもそも、「数寄屋」とは何なのか、という問題で、藤井正一・小原二郎監修『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)には、
≪ 茶礼専一の空間ができた後も、台子などを使う書院形式の広間や、くだけた形の囲(かこい)、鎖の間あるいは草庵風の数寄屋(茶室)と洋とによって使い分けられてきた。
   このように天主、広間、数寄屋の諸建築の意匠を多様に求めながらこれらをつくった感性を総合して新たに形成されたのが、桂離宮に代表される数寄屋造である。 ≫
と書かれているのですが、読んでも、だから何なのかよくわからない。 それならと、さらに、実際に「数寄屋」と言われる建物を見に行くと、ますます、何が数寄屋なのかわからなくなってくるという、なんとも困ったものですが、
まず、「城郭建築」と「広間」と「茶室」と「草庵」の要素が「書院造」に加わったもの、ととらえると、なんか、そうかいなあ~あ・・・・という気がしてきます。
   これから考えると、「謁見の間」は≪派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間≫かもしれないけれども、あんまり、「数寄屋」じゃないような気がします。
   現地での説明書きでも、2階が「数寄屋風書院造り」で、1階は「武家書院造り」と表記しています。 「謁見の間」以外の1階については、水飲み百姓の家ではなく、お殿様のお母さんの住居であるけれども、簡素な印象があり、それでいながら、意匠上、工夫があっておしゃれなところがある・・というのは、「数寄屋」の精神があるようにも思えてきます・・・・・が、もう一度、ふり返って、「数寄屋の精神」て何なんだと言われると、また、困ってしまうのですが、「謁見の間」は≪派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間≫であって、あんまり「数寄屋」って感じではないが、「謁見の間」以外の1階は、お殿様のお母さんの家にしては簡素で、かつ、簡素でありながら、意匠上の工夫が凝らされているところがある、という事は言えます。

   2階ですが、特に、すごいと思ったのは「群青の間」とその隣の「群青書見の間」です。 「群青の間」は、壁はエンジ色、天井は群青色で群青色の天井に杉板を部分貼りにしています。 「群青書見の間」では壁は紫、天井はやはり群青色で杉板を部分貼り。 畳敷きの和室でそれをやって、かつ、違和感なく、そして、「和」の雰囲気として調和している。
   成巽閣の2階の説明書きによると、
群青色は≪ウルトラマリンブルー。 天然ウルトラマリンブルーはラピスラズリ(青金石)、青色顔料として非常に高価で貴重なものであった。 組成はナトリウム、硫黄を含むナトリウム、アルミニウムの珪酸塩。 青色顔料の合成が切望されていた1828年フランスで6000フランの懸賞募集の中、ギメーにより発明された。 成巽閣で使用されている者は日本に輸入されたウルトラマリンブルーの最初かごく初期のものと考えられる。≫
朱色は≪ A.辰砂(しんしゃ)(硫化水銀)。 B.ベンガラ(赤鉄鉱・・インド、ベンガル地方より産出した事が名の由来。) 古来より染料、顔料として使用された。≫
紫色は≪ 辰砂とウルトラマリンブルーの混合≫
ラビスラズリ(Laxurite)とは≪アフガニスタンが産地として有名。 バーミヤン洞窟の壁画、ペルシャの細密画、インド壁画、支那画、聖母マリヤのマントの青い部分の一部に用いられた。 今日、ペルシャ、チリ、バイカル湖東岸などが産地。≫
と出ていました。 成巽閣が作られた時代において、群青の間の天井に使われた群青色は、日本に輸入されたウルトラマリンブルーの初期のものだったということのようです。
    『タビッテ 北陸 金沢』(2016,7. 昭文社)では、「オススメ度」を、金沢城公園・兼六園などを☆3つとしているのに対し、成巽閣は☆2つにしていますが、私は、建築・住宅・インテリア関係の仕事に携わる人には、成巽閣の2階の「群青の間」「群青書見の間」とこの南側の「網代の間」「越中の間」は、「オススメ度」は☆3つとして見学を勧めたいですね。

    一般に、部屋も庭も南に面した部屋と北に面した部屋では、南に面した部屋の方が優先的な存在である場合が多いように思いますが、成巽閣においてはそうでもありません。 「群青の間」「群青書見の間」は北に面した部屋です。 又、「網代の間」「越中の間」は南側は塞がれています。
    「網代の間」は網代天井であることからで、「越中の間」は、越中産の杉板が天井に使われていることからつけられた名称のようですが、こんなやり方があるのかと感動したのは、「越中の間」で、棹縁天井にして杉板を貼っているのですが、その棹縁の棹が床の間の方を向いているのを、「床刺し」を防ぐために、床の間の側の天井を三角形に区分けして、床の間側の三角形の部分は棹縁天井ではなく網代天井になっているのです。 こんなやり方があるのかと思いました。 建築・住宅・インテリア関係の仕事についている型には、「☆3つ」で見学に行かれることをお勧めしたいと思います。
    
    「謁見の間」は≪ 派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間 ≫とも言えますが、数寄屋とはちょっと違うように思えます。 2階の「群青の間」「群青書見の間」は斬新ですし、桂離宮などとは違ったタイプの数寄屋と言われればそうかなと思えないことはありませんが、≪ 派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間 ≫という表現とは少し違うように思います。 「越中の間」の天井の造りは独創的でまた斬新とも言えるかもしれませんが、やはり、≪ 派手でにぎにぎしく、ときには目がさめるような華美な空間 ≫というのとは違うように思います。 「越中の間」の天井はすごいと思いましたが、しかし、それが「数寄屋」なのかと言われると、どうかなと考えてしまいます。
    そもそも、桂離宮とどちらがいいかと言われても、別のものであって、どちらが上か下かと一直線上に並ぶ性質のものでもない。 桂離宮のようなものを数寄屋だとするならば、成巽閣はそれとは別だと思います。 「××造り」と無理矢理分類しない方がいいのかもしれません。

    蛇足かもしれませんが、最初の方で述べた、ドバカ息子を金権裏口関西医大に「患者」を薬漬検査漬毒盛して儲けたカネで裏口入学させたことを「思考が柔軟じゃから裏口入学なんじゃ」と自慢していたおっさんですが、「金沢大医学部卒」と称していたのですが、それを聞いた頃は私も高校を卒業したばかりで、今から考えると世間知らずだったと思いますが、自分自身が会社という所に何年も勤めてみますと、世の中、学歴を詐称する人、資格を詐称する人、職歴を詐称する人、通りもしない試験に通ったと言う人・・・そういう人というのは、世の中、ゴマンといるわけで、あれも、たぶん、学歴詐称の類だったのではないかと思います。 あの「金沢の薬売り」、その後、どうしたでしょうね。 「患者」を薬漬検査漬毒盛したカネで関西医大に裏口入学したドバカ息子も私より年上ですから、一般の会社なら定年になってもおかしくない年齢にさしかかってきているはずですが、たぶん、裏口入学したドバカ息子の息子もまた、同じようなもので、またもや、「患者」を薬漬検査漬毒盛したカネで関西医大に裏口入学したとかしてるのではないでしょうか。 カエルの子はカエル、裏口入学の息子は裏口入学てところではないでしょうか。 たぶん、それで、私なんかよりよっぽど高い給料を盗って、それこそ、両腕いっぱいにカネと女をだかまえて生きるような人生を送ってきたことでしょう・・・。 ドバカ息子のドバカ息子もまたそういう人生を送るのではないでしょうか・・・・。 「思考が柔軟」か柔軟でないか、どうであるかにかかわらず、私は、大学というものは、努力して苦労して行きたいと思う大学学部に行ったり行けなかったりした方が、裏口入学してそれを自慢するよりもいいと思います。たとえ、行きたいと思う所に行くことができなくて、悔しい思いをすることがあっても情けない思いをすることがあっても。 又、裏口入学というものは、たとえ、するにしても、恥ずかしそうにするものであって、自慢するものではないと今も思います。こういうことを言うと、Mは「思考が堅いな」とか言うと思いますが、なんで、裏口入学する人間が「思考が柔軟」で正規の試験に合格して入る人間がなにゆえに「思考が堅い」だの何だのと言われなければならないのか、なんで裏口入学した人間させた人間に、正規の入試を経て入学しようとする人間、入学した人間が威張られなければならないのか、なんで、正規の試験を経て入学しようとする者、入学した者が裏口入学の者から文句言われなきゃならんのか、今もわからんし今後も未来永劫にわたって、そんなもの、わかってたまるか! と思います。
   (2016.10.13.)   

☆ 《 「数寄屋造」と言われる建物 》について
桂離宮(京都市) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201101/article_13.html
修学院離宮(京都市)
1.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_1.html
2.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_2.html
3.http://tetsukenrumba.at.webry.info/201608/article_3.html
西本願寺飛雲閣(京都市)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html
三渓園 臨春閣(旧 紀州徳川家巌出御殿)(横浜市。 現在、存在する場所は。)
1 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_1.html
2 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_2.html
3 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_3.html
4 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_4.html
成巽閣(金沢市) 〔 今回 〕

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