三渓園 臨春閣(旧紀州徳川家巌出御殿)訪問3―臨春閣 第三屋、床刺しを避けた棹縁天井。亭しゃ 他

[第254回]三渓園訪問4部作の3、「数寄屋」建築訪問3ー3
【4】-2 臨春閣(旧・紀州徳川家 巌出御殿)(2) 第三屋、ほか
  三渓園 臨春閣(旧 紀州徳川家 巌出御殿)見学の続きです。
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↑ 臨春閣。 第三屋。
屋根は、もともとは瓦だったらしいが、今は軽くするために、杉板の上に檜皮葺にしてあるらしい。
第二屋と第三屋を結ぶ渡り廊下は、三渓園において作られた比較的新しいものらしい。


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↑ 第三屋 内部。 
第二屋、第三屋の南東側に池があります。 第三屋の南西寄り(池の側から見て左側)の部屋。
≪ 部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。≫と三渓園HP の「古建築案内 臨春閣」http://www.sankeien.or.jp/kokenchiku/rinshunkaku.html に書かれています。 ↑の写真の右の部屋との間の欄間には、本物の楽器が配置されているのが見えます。
   天井を見ると、「床刺し」を避けて、棹縁天井の「棹」は床の間と平行に配置されています。 藤井正一・小原二郎 編『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.1.10. インテリア産業協会)に、
≪  この時期は、また天井棹縁の床刺しが凶の意匠として嫌われ、棹縁を床と平行面にする仕様が一般化しはじめたころであり、吉凶の考え方が建築意匠に影響を与えたことは否めないだろう。 ・・・・ ≫と出ていますが、↑の写真を見ると、臨春閣の第三屋の南西側の部屋(池の側から見て左側の部屋)では、棹縁天井の「棹」が「床刺し」を避けて床の間と平行に設置されているのが見えます。
   しかし、ここで、え? と思ったのは、↓
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↑ 臨春閣 第三屋の北東側(池の側から見て右側)の部屋。
   隣の部屋が「床刺し」を避けて、棹縁天井の「棹」が床の間と平行になるように配置されているのなら、欄間をはさんだ2間続きのもう一部屋も隣の部屋と同じ方向に棹縁天井の「棹」を入れるのが一般的かと思っていたら、ここでは、隣の部屋と「棹」の方向が違っています。 なんでだろ・・・・と思ったのですが、ボランティアのおじさん、知ってるかな、きいてみようかなと思っているうちに、ききそびれてしまった・・・・。
↑の写真の左寄り、欄間のあたり、見てください。 2つの部屋で棹縁天井の「棹」の方向が違いますでしょ。
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↑ 臨春閣 第三屋 南西側から見たもの。 こちらから見た方が、欄間の楽器がよく見えます。
   天井の板が、ずいぶんと白っぽいですね。 前回、[第253回] で写真を公開した第二屋の座敷の天井と比べてもずいぶんと白っぽいのがわかると思います。 ボランティアのおじさんの説明によると、これは、天井板を川砂で磨いた上に胡粉(ごふん)を塗って白くしたものだそうで、屋内の色を白っぽくすることで屋内を少しでも明るくしようという工夫だそうです。
※ 《ウィキペディア―胡粉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E7%B2%89
≪胡粉(ごふん)は顔料のひとつ。現在では貝殻から作られる、炭酸カルシウムを主成分とする顔料を指す。かつて中国の西方を意味する胡から伝えられたことから、胡粉と呼ばれる。・・・≫ ≪ 白色度の高いものにはハマグリが用いられるが、加工のし易さからカキ、ホタテの貝殻も用いられる。それぞれの貝は食用になるものと同様だが、各地からより白色度の高い貝が探し求められている。 ≫

   前回に掲載した 第二屋・第一屋の屋内の写真で見ても、↑の第三屋の屋内の写真で見ても、あれは、「長押(なげし)」なのか、「落とし掛け」なのか。 長押にしては細いような・・・・と思ったのです。 そう思いませんか?
   そう思って、斎藤英俊・穂積和夫『日本人はどのように建造物をつくってきたか10 桂離宮 日本建築の美しさの秘密』(1993.8.31. 草思社)所収の 斎藤英俊「解説―桂離宮の御殿の意匠と技法」を見ると、
≪ ・・・この両者(桂離宮と二条城の大広間)にはいろいろな点でちがいがあり、それらが積み重なって二つの建物の印象をたいへん異なったものにしています。 その主要な相違点を二条城の大広間にたいする桂離宮の御殿の特徴としてまとめると、つぎのようになります。
ア. 規模が小さく、つくりが瀟洒である
イ. 主要な部材にマツやスギなどが用いられ、ヒノキは使われない。 また、竹が積極的に使用される
ウ. 木部に色付けをほどこす
エ. 丸太材や面皮材が化粧材として用いられる
オ. 長押を省略することがある
カ. 色土壁が用いられる
キ. 起り(むくり)屋根とする
  二条城大広間の特色はこの逆を考えればよいわけです。 若干の規模の大小はあるとしても、二条城の黒書院や白書院、西本願寺書院をはじめ、現在は失われていますが、江戸城や大坂城の御殿、各地の大名屋敷の御殿、公家や寺院の邸宅など、当時の上流階級の住宅の建物の多くは二条城大広間にみられるような特色をもっていました。
   これにたいして、先にあげたア~キのような特色をもった建物も建てられていました。 そのような建物はおもに桂離宮のような別荘につくられたのですが、武家や公家の本邸でも休息や遊興を目的として、屋敷の奥向きにつくられることもありました。≫
と出ているのです。 長押がないわけではないとしても、あまり太いものではなく、細目のものを意図的に使っているということ、それが、「数寄屋」なのか「草庵風書院」なのかの特色、趣向なのかもしれません。

   こういうのを読むと、
「ワビ」「サビ」(桂離宮・修学院離宮)⇔「キレイサビ」(飛雲閣・成巽閣)
「周りの風景を抱き込んで、開放的な演出」修学院離宮⇔「緻密な演出」桂離宮
という対比だけではなく、今度は、
桂離宮⇔二条城
という対比が出てきたわけで、なんだか、二条城にも行かなければならないことになってきそうです。

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↑ 臨春閣 第三屋の前から見た 旧 燈明寺 三重塔。

【5】 「亭榭(ていしゃ)」と「源公堂跡」からの階段。 高台寺(京都 東山)との縁。
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↑ 「亭榭(ていしゃ)」と臨春閣 第三屋。
この「亭榭(ていしゃ)」ですが、案内していただいた「ボランティア」のおじさんの話では「歴史的建造物を移築したのではなく、三渓園で新たに作ったものですが、京都の“こうだいじ” のものを参考にして作られた」ということでした。 「三渓さんは秀吉が好きだったようで」という話なのですが、「こうだいじ」て、「方広寺(ほうこうじ)」じゃないわな。方広寺にこんなのなかったわな・・・・と思い、そうそう、「こうだいじ」は東山の清水寺の北側、知恩院・円山公園・八坂神社の南側、建仁寺の東側にある「高台寺」だった。 あったわ。 高台寺にありましたよね。 「風情がある」と言えばあるけれども、なんか、すぐ壊れそうな感じのが。↓
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↑ クリックして大きくして見て下さい。京都の東山の高台寺。 向こうの建物が開山堂。 手前の池が偃月池(えんげつち)。 この写真の右の橋とその中間の何と言うのか、とどまって風景を楽しむための場所だったのでしょうけれども、今は人を通すと落下すると危ないので見るだけ、見せるだけで通さない。 三渓園の「内苑」の「亭榭(ていしゃ)」は、これを参考にして作られたようですが、三渓園のものの方が頑丈で安心して通れます。 実用的です。

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   臨春閣の第三屋の少し上に、石の階段の途中の踊り場のような場所があります。↑ この写真の右よりの平らな所に、かつては、「源公堂(げんこうどう)」というお堂が建っていて、源頼朝の像が祀ってあったそうです。 そこから階段で上に登ると、「天授院(てんじゅいん)」( ≪建築年:江戸時代 慶安4(1651)年/移築年:大正5(1916)年 鎌倉・建長寺近くの心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂の建物。 重要文化財。≫ 三渓園 リーフレット)にたどりつきますが、かつては、その間の石の階段の上に木造で屋根がついていて、臨春閣から源公堂を経て屋根のある階段を通って天授院までつながっていたというのです。 戦中、建物がつながっていたのでは、爆撃を受けた時に火災が燃え広がるので分けた方が良いという判断で階段の上の屋根は解体されたというのですが、これは、ボランティアのおじさんは言わなかったのですが、これも、高台寺の龍が伏しているようなという意味で名づけられたという「臥龍廊」↓を参考にして作られたのではなかったでしょうか。
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↑ 京都 東山 高台寺。 開山堂から見た 霊屋(おたまや)と臥龍廊(がりょうろう)。

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↑ 「亭榭(ていしゃ)」から見た 臨春閣 第二屋。 「亭榭(ていしゃ)」の屋根・柱・欄干を額縁のようにして撮影してみました。

【6】    1990年頃まで、小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→ヤマダエスバイエルホーム(株)http://www.sxl.co.jp/ 〕では、「新 桂」「和のかたち」という「瀟洒な和風」というのか、「数寄屋建築風の風情を現在の住居に取り入れた」というのか、そういうイメージの建物を建てていました。 それは、けっこう評判は高く、そして、住宅建築業の同業他社でも、それを建てることができる会社は他にあまりありませんでした。 住友林業(株)は「住友林業の家」というコピーで和風の家のポスターを作成して駅などにもしばしば貼られていましたが、小堀住研(株)の松戸営業課長のUさんなどに言わせれば、「『住友林業の家』というの、けっこう評判いいのだけれども、住林はああいう田舎臭い和風しかできないんだ。 その点、小堀はああいう和風だってできるけれども、もっと、あか抜けた、独創的な和風ができるんだ」と言っていましたし、実際、そうだったと思います。そして、小堀住研(株)のそういったところを評価して、全国の小堀住研(株)の展示場を見て回っているような見込客もおられました。
   1980年代後半、東京圏で小堀住研(株)の和風と競合になるのは、住友林業・菊地建設・佐藤秀・杉坂建築事務所、松戸展示場の場合は松戸の総合住宅展示場に出展していた中央住宅(ポラスグループ)の展示場が和風のものでしたので、中央住宅。 そういったところでしたが、小堀の建物が最もあか抜けていたと思えます・・・・・が、1990年代に入って、社長の中島昭午が「最低価格帯のカテゴリーキラーを目指す」とかアホなこと言いまくって、そういった良いところを積極的にぶっつぶしてしまいました。 「店の暖簾というものは、その格を上げるのは大変やけれども、下げるのは簡単に下がりまっせ」と花登筐(はなと こばこ)の『銭の花』(テレビでは『細腕繁盛記』)〔⇒《YouTube-銭の花 細うで繁盛記 旅館山水館》https://www.youtube.com/watch?v=jlipoy1IH4U 〕で、加代さんの祖母で南地楼の女将であった ゆう が語っている場面があったと思うのですが、小堀住研(株)の社長の中島昭午は、自ら必死になって自分の会社の暖簾の価値を下げて、会社をぶっつぶした。 アホです。 そのアホが本まで書いて出しているらしいのですが、お笑いです。やめた会社なんてどうでもいいといえばどうでもいいのですが、その会社に滅私奉公した者として、なんとも情けない思いがします。
   「数寄屋建築」と言われる建物を見ると、小堀住研(株)の「桂離宮のようなすばらしいデザインを現代に」という趣旨で「新 桂」「和のかたち」と命名した商品名は、そういった洗練された「数寄屋建築」と一般に言われるような建物の趣を現代の住宅に調和させようと努力した人が、かつて、その会社にいた、そして、それをぶっつぶしたアホ社長がいた、ということを感じます。 せっかく、いい家、作ってたのになあ。そこで滅私奉公して会社に尽くした者がいたのになあ。そういう人間をもっと大事にすれば、まず、私をもっと大事にしてくれれば、それはよくないのではないか、といったことだって言ってあげることもできたと思うのだが、アホはどうしようもないのかもしれませんね。

  (株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ は、1990年代始め、「百年」と名づけた「和風」の家を建ててはいたのですが、小堀住研(株)のような瀟洒・現代的・都会的な和風ではなく、言うと一条工務店の経営者は怒るのですが、「田舎臭い」「いかにも、イナカて感じ」「やっぱり、浜松ねえ、て感じ」の和風しかできませんでした。 しかし、「地方」に行くと、その都会で見ると「田舎臭い」和風が「ちょうどいい」ものだったりもしたのです。 「地方」に行って、「大工さま」の建てる「和風」と比較してみると、一条工務店の「都会で見ると田舎臭い和風」が、「大工さま」の建てる「和風」よりはよっぽどあか抜けていたりしたのです。
   結論を言うと、「和風」とひとつにしてしまうから問題があるのであって、一条工務店の「和風」というのは、「農家風」で、小堀の「和風」というのは、「数寄屋」「草庵風書院」「茶室」などを参考にして、それを現代に取り入れようと企てた現代的・都会的な「和風」であり、「和風」でも別物だったと思えます。 だから、その頃までの小堀住研(株)の「和風」というのは、都市部のある程度以上の資産・年収があり教養水準も低くない人向けのもので、一条工務店の和風というのは、「地方」の兼業農家、もしくは、今は農業をやっていなくても、農家とつながりがある人向けの建物だったと思われます。 これは、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではなく、「和風」といっても別のものなのです。 「民家」と言っても、民家にも、農家と武家と商店(町屋)があるわけです。一条工務店の「百年」という名称の「和風」は、武家ではなく商店(町屋)でもない。 たとえば、私が見に行ったことがあるものでは、岐阜県高山市の伝統的建造物群保存地区の「民家」などは商店(町屋)、宇都宮市の旧 篠原家住宅http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/bunka/geijyutsu/002266.html も商店(町屋)です。 群馬県館林市の田山花袋の旧居〔⇒《群馬の魅力紹介 田山花袋旧居》http://www.webgunma.com/1048/ 〕は、下級氏族の家です。 もっと、上級紙族の家としては、熊本城の中の細川さんの家〔《熊本城公式ホームページ 旧 細川刑部邸 》http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=436 〕 などありますが、上級士族の家となると、お城に近づいていきます。 一条工務店の「和風」というのは、武家なのか、商店(町屋)なのか、農家なのかというと、間違いなく「農家」です。 「農家」建築をひと回り現代風にした、「地方」の農家そのものよりもひと回り都会的にした、という建物だったのです。 だから、それまでの農家建築そのものよりは現代風・都会的な感じのものが欲しいが、だからといって、完全に都会型の生活をするわけにはいかないという「地方」の人には受けたのです。
    (株)一条工務店は1990年代はじめ、「間取り・デザインはどうにでもなりますから」と言って、契約させてから、プランを決めていくというようにしていましたが、しかし、「どうにでもなる」かというと、なっていなかったのです。私より前からいた某さんの表現によると、「ぶうっさいくな家ばっかり作ってる会社が、『デザインはどうにでもなりますから』て、よく言うよな」という状況でした。特に、「和風」は「『地方』の農家の建物を幾分現代風にした」という「地方」の人には評判よく受け入れられるというものはできても、数寄屋風・茶室風のものを取り入れた現代風・都会風の和風とかそういったものを作る力はその当時の(株)一条工務店の設計担当者にはなかったのです。「どうにでもなる」と言っていたのは、結論としてウソです。 従業員でもわかっている人はわかっていて、一条の建物のデザインは、「いなかのヨーフー」(浜松あたりで見ると「ちょうどいい」外観かもしれないが、東京圏・関西圏では「なに、このイナカくさいの」という印象を受ける、「洋」の要素を意識して作った洋風ではなく、「和風ではない」とという程度の「ヨーフー」)、「タイルを張ったヨーフー」、「寄棟の和風」と「切妻の和風」の4種類しかできない、と言われていたのです。 会社から言われることだけを聞いて、自分自身で学習しない人には、それに気づかない人がいて、「間取りやデザインはどうにでもなりますから」と心から信じて客に話していた人がいたようで(これは、実際にどうかという問題ではなく、もはや信仰の世界です。「雪は黒い」と会社使用者から言われると「雪は黒い」と信じる人がいますが、その類です)、同社の経営者は、そういう人間が好きだったようですが、私は、従業員をバカに社員教育することが会社の為だという同社の経営者のそういう認識はあまり良い認識ではないように思いましたし、今も思っています。
    藤沢の所長だったT葉さんは、(株)一条工務店の所長には珍しくそのあたりを理解できている人で、茅ヶ崎の展示場を作る時に、「浜松ではこのデザインでもいいかもしれないけれども、神奈川県ではこんなイナカくさい建物ではだめだ」と言ってやったらしいが、言っても「一条工務店はこういう建物で伸びてきたんだから、神奈川県でもこれでやってくれ」と室長に言われて当時の茅ヶ崎の展示場は浜松型の建物になったらしいが、T葉さんは自分が二級建築士で設計の仕事をしていたこともあったそうで自分で設計をして「神奈川県でも通じるもの」の図面を作成した上で、「こういうようにやってくれ」と一条工務店の本社にいる設計(静岡県西部から愛知県にかけてで生きてきた設計)に指示してさせていたようで、実際、たしかに、T葉さんが担当した建物は「浜松型」ではなく「都会型」の外観デザインでできていたが、「そうすればできるんだ。できないのは、そうやらない営業が悪い」という認識だったようで、私も在籍後半は、この会社の設計はその程度のレベルと認識して、営業としてかなり指示するようになりましたが、営業の仕事についている人間は、もともと、設計をやっていた人と同じだけのことができる営業ばかりではなく、T葉さんと同じだけのことはできない営業の方が多かったと思います。そして、(株)一条工務店の営業本部長のA野さんはT葉さんがこうやればいいんだと教えてくれたことをやると怒るのです。「営業は設計のやることに口出すな」とか言って。営業が自分の担当客の仕事に口出さないでいてはいけません。設計が顧客の要望を無視したことをしているなら、指摘しないといけないし、未熟な設計なら助けなければいけません。怒るなら、それならどうしろと言うのだ? 口出さないと契約はとれないし、取れても解約されてしまうではないか。 実際のところ、在籍終わり頃、営業本部長のA野T夫の言うことを聞いて「この人がいる限り、この会社はだめだ」と思うようになりました。たとえ、営業本部長でも、創業者社長の義理の弟でも、人間、言ってよいことと悪いことがある。
   (株)一条工務店の静岡県・愛知県あたりにいた営業所長には、「なんでも太い方がいいに決まってるんだ」とか言う人がいたのですが、↑に掲載した臨春閣の室内の写真を見ても、長押は細目です。紀州徳川家は太い長押を入れるカネがなかったのか? というと、そうではないはずです。わざと細目のものにしているのです。これは「草庵風書院」「数寄屋造り」の建物として、意図的に細いものを使用したというもののはずです。 太いものの方がいい場合はもちろんあるのですが、デザイン上、細いものの方を選択するということもありうることであり、そのあたりを理解しない頭の堅い「浜松アタマ」の人間にはつくづく往生しました。


  次回http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_4.html 、聴秋閣、三渓記念館、三渓園天満宮、ほかについて述べます。
  (2016.6.11.)

☆ 三渓園 訪問4部作
1.「数寄屋」とは何ぞや http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_1.html
2.臨春閣 第一屋・第二屋 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_2.html
3.臨春閣 第三屋 〔今回〕
4.聴秋閣・三渓記念館・三渓園天満宮他、「デザイナーズ住宅」とは? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_4.html

☆「数寄屋建築」を考える
[第11回]やっぱり桂離宮はすばらしい!~私の好きな建築家〔1〕ブルーノ=タウト 〔引越掲載〕 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201101/article_13.html
[第113回](西本願寺)飛雲閣、ちょっとだけ~「数寄屋造」の建物(2)、及、金閣・銀閣について検討、少々、など http://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html
[第252回] 三渓園 臨春閣(旧・紀州藩 巌出御殿)1 数寄屋とは? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_1.html
[第253回] 三渓園 臨春閣(旧・紀州藩 巌出御殿)2 第一屋・第二屋 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201606/article_2.html
[第254回] 三渓園 臨春閣(旧・紀州藩 巌出御殿)3 第三屋 他 〔今回〕 






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