『出エジプト記』再読。倫理的十誡と祭儀的十誡 ~ 及、中原 徹 は高校生として欠陥がある。

〔第111回〕
    高校から大学にかけての頃に、前田護郎 責任編集『世界の名著 聖書』(1978.9.20.中公バックス)所収の中原洽樹訳のものや、日本聖書協会口語訳、日本聖書協会文語訳のもので読んだ『旧約聖書 出エジプト記』を、関根正雄訳の『旧約聖書 出エジプト記』(1969.1.16.岩波文庫)で再読しました。
    関根正雄役の岩波文庫版は、解説が詳しく、解説をじっくりと読んでいると、なかなか前に進まないところがありますが、それだけに、じっくりと解説を読むと、内容がよく理解でき、原典について議論されている箇所も把握できて、誤解せずに理解できるという長所があると思います。

   『出エジプト記』は、「モーセの十誡(じゅっかい)(十戒)」が述べられている書ですが、前半は、モーセの誕生・モーセとイスラエル民族の出エジプト・シナイ山での十誡 が述べられ、後半は細かい祭儀的な規定が述べられており、正直なところ、後半部分は、読むのをわずらわしく感じてしまったりもします。

   「モーセの十誡(十戒)」は一種類だと思っている人が多く、私もそう思っていたのですが、関根正雄訳のものをじっくりと読んでみると、実は、よく知られている「倫理的十誡(十戒)」と、『出エジプト記』でも後の方に出てくる「祭儀的十誡(十戒)」の2つがあるようなのです。

   関根正雄訳の『旧約聖書 出エジプト記』(岩波文庫)をもとに、書き出してみますと、
「倫理的十誡(十戒)」は、第20章に述べられており、次のようになっています。
  神は次のような言葉をみな語って言われた、「わたしは君をエジプトの地、奴隷の家から導きだした君の神ヤハウェである。 (1‐2節) 
〔1〕   わたしのほかに君は他の神を持ってはならない。 (3節)
〔2〕   君は天にあるもの、また地の下の水の中にあるものの彫像、いかなる像(かたち)をも作ってはならない。 (4節)
     彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない。 何故なら君の神であるわれヤハウェは妬む神であり、わたしを憎む父たちの咎をその子らに罰して三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わが誡命を守る者のためには恵みを施して千代に及ぼすのである。 (5‐6節) 
〔3〕   君の神、ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない。 何故ならヤハウェはそのみ名をみだりに唱える者を罪なしとしないからである。 (7節)
〔4〕   安息日を憶えて、これを聖とせよ。 六日の間働いて、君のすべての業を終えるがよい。 七日目は君の神、ヤハウェのための安息であるから、なんの業もしてはならない。君も君の息子・息女も、君の奴隷・女奴隷も、君の家畜も、君の門の中にいる君の寄留者もそうである。 何故なら六日の間にヤハウェは天と地と海と、その中のすべてのものを造られ、七日目に休まれたからである。 それ故ヤハウェは安息日を祝して、これを聖別された。 (8‐11節)
〔5〕   君の父と母を敬え。 君の神、ヤハウェが君に与えられる地で君の日の長からんためである。 (12節)
〔6〕   殺してはならない。 (13節)
〔7〕   姦淫してはならない。 (14節)
〔8〕   盗んではならない。 (15節)
〔9〕   君の隣人に対し偽りの証しを立ててはならない。 (16節)
〔10〕  君の隣人の家を欲しがってはならない。君の隣人の妻、彼の奴隷と女奴隷、彼の牛、驢馬、君の隣人のすべての物を欲しがってはならない。 」。 (17節)

   これが一般に「モーセの十誡(十戒)」として知られている「倫理的十誡」ですが、もうひとつ「祭儀的十誡」があったのです。 第34章に述べられています。
  ・・・・今日わたしが君に命ずることを守りなさい。・・・(11節)
〔1〕   君は他の神を拝してはならない〔からだ〕。 〔ヤハウェはその名を妬みと呼び、彼は妬みの神なのだから。〕 (14節)
〔2〕   君は自分のために鋳たる神々を作ってはならない。 (17節)
〔3〕   七日の間種入れぬパンの祭りを守れ。 〔アビブの月の定められた期にわたしが君に命じたように種入れぬパンを食べなければならない。 アビブの月に君はエジプトから出たからである。〕 (18節)
〔4〕   六日の間働き、七日目には君は休まなければならない。 耕し時、獲り入れ時にも休まなければならない。 (21節)
〔5〕   君は七週の祭りを行わなければならない。 これは小麦の収穫の初穂の祭り。 (22節前半)
〔6〕   さらに年の変わり目の取り入れの祭り。 (22節後半)
〔7〕   君は種を入れたパンとともにわたしへの犠牲の血を屠って(ほふって)はならない。 (25節前半)
〔8〕   過越〔の祭り〕の犠牲を翌朝まで残しておいてはならない。 (25節後半)
〔9〕   君の土地の初物の一番よいものを君は君の神ヤハウェの家にもたらさなければならない。 (26節前半)
〔10〕  君は子山羊をその母の乳で煮てはならない」。 (26節後半)

   キリスト教と仏教の違いとしては、仏教においては、キリスト教やユダヤ教・イスラム教に存在する「偶像崇拝の禁止」という考え方はないようで、仏教のお寺では仏像が設置されていて、仏像を拝むということをしますが、キリスト教の教会に、キリストやマリアの像があったり、教会の入り口の扉絵に聖者が描かれていても、それは、「字の読めない人にも理解できるように」とかそういった趣旨でのものであって、本来、絵や像を拝むものではないはずです。

   キリスト教徒は仏教について学ぶべきか、仏教徒はキリスト教について学ぶべきかというと、学ぶべきだと思います。 もっとも、倉田百三の『出家とその弟子』などでは、どうも、仏教とキリスト教がごっちゃになってしまっているのではないかという指摘もあるようですし、また、お寺に行って、お寺で書かれているものを見ても、どういう人が書かれたのかわかりませんが、仏教の「ホトケ」をキリスト教の「神さま」と混同して、キリスト教のような解釈をしているものを見ることがあり、ごっちゃにしてしまうのはどんなものかとも思いますが、それは、理解が不十分であることからくるものであり、十分に理解するためには、他の宗教について理解しないようにするべきではなく、他の宗教についても、ある程度以上、理解するように努める方が望ましいと思います。

   キリスト教の聖典である『聖書』は、ひとつの文学作品でもあり、又、歴史そのものではないが、歴史を考える史料のひとつでもあります。    
   私が北野高校の2年生の時、倫理社会を担当された教諭は、よく、「夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、プラトンの『ソクラテスの弁明』、三木清の『人生論ノート』、・・・・。 こういったものも読んだことのない高校生は、高校生として欠陥があるんじゃないかと僕は思いますねえ。 こういうものを高校生の時に読んで考えるということは、大学の入試に通ることよりも、よっぽど大事だと思うねえ。 『人間失格』というのは、これは、僕は『人間合格』だと思う。 こういうものを読みもしない考えもしない人間こそ人間失格だと思う。 こういったものを読みもしない、考えたこともないという者は人間として欠陥があると思うわ。」とよく言われました。
   「大学に通るよりも、よっぽど大事」かというと、こういった本ばっかり大量に読んで理解して、一方で受験対策を取らないで大学を落ちたとしたら、それでよかったか? というと、そんなことあるか! 無茶苦茶言うな! ということになりますし、「このくらいのものは読んでおかないと」というのを次から次へと増やしていくときりがなくなって、「人間として欠陥がある」となっては大変だと思って、数学や英語の勉強をそっちのけにして、こういった本を次から次へと読んで、それで大学の試験に落ちたとして、その倫理社会の先生が責任とってくれるかというと、とってくれるわけでもないので、ほどほどにしておかないとしかたがないのですが、しかし、こういった本を大量に読んで大学の試験に落ちたのではよくないとは思いますが、一方で、それなら、もし、試験対策として必要なければ、『ソクラテスの弁明』とか『人間失格』とかは読まなくてもいいのか、というと、そういうものではないと思うのです。 物の性質としては、やはり、高校までに読むべきものだと思うのです。  それに、高校の時は大学受験で忙しいから大学に通ってから読むわ・・・などと思っていたならば、おそらく、大学に入れば入ったで、大学生もけっこう忙しくて、たぶん、読まないと思います。 それで、一生、太宰治の『人間失格』とも夏目漱石の『こころ』とも、プラトンの『ソクラテスの弁明』とも縁のない人生を送ることになったとしたら、たしかに、たとえ、大学の入試に通ったとしても、それがいったい何の価値があるのか・・・ということになってくるとも思います。

   人間とはどういうものを言うのだろうか。 どうあってこそ、人間と言えるのだろうか。 こういったことを考えた時、自分は、人間だと言えるのだろうか。 もしかして、人間として失格ではないのだろうか・・・・・といったことを最低でも一度は考えたことのある者こそ、「人間合格」であり、そういったことを一度も考えずに、勝手に自分は人間だと思い込んでいるような者は、「人間失格」ではないのか。 そういう者に限って、自分は人間としてエライと勝手に思いこんでいたりすることが少なくないが、はたして、そいつは人間と言えるのか?・・・・・。そういう人間こそ「人間失格」ではないのか・・・・。
   かつて、アテネの街を、ソクラテスは左右を見回しながら歩いていたという。 弟子が「先生。 何をお探しですか。」と尋ねると、ソクラテスは「人間を捜しておる。」と言う。 「人間なんか、そこらにいっぱいいるじゃないですか。」と言うと、ソクラテスは「あんなものは人間ではない。」と言ったという話があります。

   もっとも、「高校生として欠陥があると思うわ。」とか「人間として欠陥があると思うわ。」という言い方は、あくまで、その地域で一番の高校の生徒に対して言われた文句であり、底辺の学校の生徒に言うと、「ああ、自分のようなできの悪い生徒は、人間として欠陥があるんだあ・・」としょぼんとしてしまう・・・ということになりかねませんから、この表現は、その地域で一番の高校の生徒に言うのは良いけれども、逆の場合には別の表現にした方が良いと思います。 しかし、その本を読んだかどうかということではなく、その本に書かれているような問題を考えたことがあるかどうか、といった点でいえば、やはり、高校生くらいまでに、これらの本が取り上げているようなことを考えるのが、人間であり、まったく考えたことがないというのは、「人間として欠陥がある」かどうかはともかく、本来的ではないと思います。

   そして、宗教というもの、信教の自由というものを考えるにおいて、この「モーセの十誡(十戒)」は、やはり、基本的には、十代のうちに読んでおくべきもの、読んでおくのが好ましいもので、キリスト教徒に限らず、仏教徒であれ、無神論者であれ、読んで考えるべきものであると考えます。
   
   
    「わたしのほかに君は他の神を持ってはならない。」 「彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない。」・・この認識は、キリスト教徒に限らず、宗教を真面目に考えよう、真面目に取り組もうとする者にとっては、基本であり、決して、他の者に、他の宗教的存在への礼拝を強制するようなことはあってはならないのです。 このくらいのことがわかっていない人間は、「ぼくは人間として欠陥があると思うねえ。」「ぼくは高校生として欠陥があると思いますねえ。」ということになるはずなのです。

    「君が代」というのは、どういう文句かというと、
「  君が代は 
  千代に八千代に さざれ石の巌となりて
  苔のむすまで 」
という文句で、 「天皇陛下が支配される世の中が、永遠に続きますように」という内容であり、これは、当然のことながら、日本国憲法でも述べられている「国民主権」に反する文言ですが、
それとともに、 「天皇陛下が支配される」というのは、政治的に支配するという意味合いだけでなく、宗教的に支配するという意味もこめられており、この文言自体が、信教の自由を侵害する文言なのです。
  そして、 「君が代」を礼拝させよう、歌わせようとする人達が、「君が代」という「歌」自体をも偶像のように扱おうとしています。その点でも、宗教上、問題があります。

   この程度のこともわかっていないような人間というのは、「僕は人間として欠陥があると思うねえ。」「僕は高校生として欠陥があるのじゃないかと思うねえ」ということになると思います。


   「君が代」と「日の丸」は、まったく意味が同じというわけではありません。 「日の丸」が国旗としてふさわしいか、他のデザインのものを国旗とする方が望ましいか、本来は、国旗を制定する際に、こういったことを、きっちりと議論して、どのようなものを国旗とするのがふさわしいでしょうかということが国会で論じられるべきであったはずですが、「日の丸」が国旗と制定された時は、あくまで「日の丸」を国旗と制定するのを認めるか否かという議論であって、その議論のしかたが根本的におかしかった と思われます。
   ドイツは第二次世界大戦後、ハーケンクロイツの国旗を改めましたし、イタリアは三色旗から王家の紋章を取り除きました。 日本も、「日の丸」以外のデザインのものを国旗として悪くないのです。
   しかし、理想的とはいえないものを国旗としている国は、日本以外にもあります。 たとえば、ソ連が崩壊した後、ロシア連邦の国旗は、ロマノフ朝のロシア帝国の国旗が復活したわけです。 ソビエト連邦を否定するというのはわかりましたが、だからといって、それ以前のロシア帝国の国旗を復活させるのが好ましいのでしょうか。ソビエト連邦よりも前進した国としようというのであれば、それより過去の体制の国旗を復活させるというのは、どんなものか・・・とも私などは思うのですが。 しかし、現実に、ロシア帝国の国旗が復活して使用されています。 「日の丸」も、理想的でないとしても、理想的なものが決められるまで、仮に「国旗」として使用されるというのであれば、絶対に否定しなくてもよいと私は思っているのです。 しかし、 「日の丸」を「国旗」だと言って礼拝させようとしている人たちというのは、明らかに、「日の丸」に「国旗」以外の意味、「国旗」以上の意味合いを持たせようとしていますよね。 
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
YOMIURI ONLINE 読売新聞
 議場では国旗に敬礼、大阪市長が幹部らに指示
「席に着く時」「答弁に立つ時」「休憩後も」 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120122-OYO1T00187.htm
  大阪市の橋下徹市長は、市議会本会議場で壇上に並ぶ局長級の幹部らに対し、議場での着席時や答弁に立つ際に、国旗への敬礼を徹底するよう指示した。2月議会には、市立施設への国旗の常時掲揚や、市立校の教職員に国歌斉唱時の起立などを義務づける「国歌起立条例案」を提案する予定で、まずは幹部に範を示させる狙いがあるとみられる。
  橋下市長は今月中旬、「議場における国旗への礼」というタイトルで幹部らにメールを送信。「議場の席に着く時には国旗に礼をしてください」「答弁に立つときだけではなく、席につくときに1段あがるときにも」「休憩後も」などと、細かく指示を出した。
  また、市議会本会議での質疑応答が、3月から一問一答方式に変更されるのを念頭に、「一問一答の際、毎回礼をやっていたら議論にならない。最初と最後だけの礼にしようと思う」と、橋下流の作法も示した。
  橋下市長は同条例案で、教職員に対し学校行事での国歌斉唱時の起立を義務づけるほか、市の施設では執務時間中、利用者に見やすい場所に国旗を掲げることも明記する意向を示している。大阪府議会では、橋下市長が知事時代の昨年6月に同様の条例が成立している。
(2012年1月22日 読売新聞)
ー・ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 ↑ この橋下の態度などはその例で、明らかに、橋下は「日の丸」を偶像として礼拝させようとしていますよね。 「日の丸」を「国旗」とすることに賛成した人でも、このような扱いをする、このような扱いをさせられるということに賛成したわけではないという人は少なくないはずですよ。

        
    「わたしのほかに君は他の神を持ってはならない。」 「彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない。」・・この認識は、どの宗教の信者であれ、無神論者であれ、理解しているのが当然のことであり、橋下が大阪府第1学区の一番手校である北野高校の出身であるというので、遠慮なく言わせていただこうと思うのだが、
「僕は、この程度のことも理解できていない 橋下 徹 という男は、あの男は、人間として欠陥があると思いますねえ。」
ということになると思う。

    さらに、卒業式で、教員が「君が代」を歌っているかどうか「口元チェック」まで実施した・させたという府立和泉高校の「民間人校長」 中原 徹 という男についても、
「僕は、この中原 徹 という男。 この男は、高校生として欠陥があると思うねえ。」 
ということになるはずである。

   中原 徹 は、和泉高校の生徒にTOEIFL(トイフル)の学習を勧めているというが、TOEIFL(トイフル)の学習をやって絶対に悪いとまで言うつもりはないけれども、その前に、『ソクラテスの弁明』、太宰治の『人間失格』、『出エジプト記』、このくらいのものは読んでおいてもらわないといけませんねえ。 英語ができても、人間として欠陥があるような人間は「校長」にならなくてよろしい。 
   受験対策・受験戦術として考えても、適切とはいえないと考えられることを、 〔第93回〕《なぜ「高校英語」「受験英語」でなくTOEFL?~中原徹は大学受験の経験ないの? 特高と学ぶTOEFL 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201203/article_7.html で述べたが、マア、実際のところ、早稲田の内部進学で、一般入試を知らない人に、受験の英語を教えてもらおうとしても、どだい、無理な話だと思いますよ。 自分が経験のないことを教えられるわけないでしょうが。
   私が慶應義塾大学に在学した時、慶應の内部進学の教授を見て、なんだか、この人たちは、日本の小学校から高校まででやっていることは、何でも「受験勉強」にしてしまう人達だなあ、とあきれたことがありました。 「そんなものは受験勉強だ。 何の価値もあるもんか! この僕は内部進学なんだぞ。 君たち外部の者とは違うんだ。 この僕は塾風というものを身につけているんだ。わかってるのかああ!」とおっしゃるのです。 「塾風」とは何かというと、要するに、「内部進学の人が持っている何か」のことをいい、まあ、「大和魂(やまとだましい)」みたいなものでしょうか。 慶應の内部進学の教授からすれば、『ソクラテスの弁明』も太宰治の『人間失格』も、「そんなものは受験勉強だ。何の価値もあるものか!」ということになるのですが、慶應の内部進学の人と早稲田の内部進学の人は似ているところがあります。早稲田の内部進学の中原徹も、「『ソクラテスの弁明』だの『人間失格』だの『出エジプト記』だのなんぞは受験勉強だ。何の価値もあるものか!」とでも思っているのじゃないですか。 どうせ。
   内部進学が絶対に悪いということでもありません。 ある慶應の法学部の先生から、慶應義塾高校から慶應義塾大学の法学部に進学して、大学の4年の時に、司法試験(今はなくなった旧型・司法試験)に現役で通った人があったという話を聞いたことがあります。 私と小学校・中学校・高校と同じであった男で、大学の4年を2回やって2回目の4年の時に司法試験(旧型・司法試験)に合格した男がおり、その男のお母さんが「現役で通りました」と近所に話して回っていたと聞きましたが、お母さんが自分の息子のことをいいように言ってまわりたいというのはわかりますが、4年を2回やって2回目の4年の時に通ったというのは、一般的には「現役で通った」とは言いません。(それでも、私より出世だろうけれども。) それに対して、慶應義塾高校から慶應義塾大学の法学部に行って、「現役で通った」人というのは、4年は1回しかやっておらず、高校も大学も留年等まったくやらずに4年の時に合格であり、正真正銘の「現役合格」であり、たいしたものといえますが、司法試験合格については、「戦略の勝利」と見ることができます。 慶應義塾高校から慶應義塾大学に進学する場合でも、まったく何もしなくても進学できるわけではないはずですが、内部進学でない一般の高校から一般入試を受けて入学する場合に比べれば、「大学に入るための勉強」に求められる負担がはるかに軽いのは間違いないのです。 しかも、内部進学で大学に入る場合、成績により希望の学部に行けるらしいのですが、慶應の場合、医学部は内部進学でも難関らしく、法学部法律学科・法学部政治学科・経済学部・商学部の中では希望が多いのは経済学部で、法・政・商はそう難しくないらしいのです。 だから、北野高校から京大なり阪大なりの法学部に行って司法試験をめざそうという人間は、高校の時は、大学入試にある科目を中心に学んで、大学に合格してから本格的に法律の勉強を始めるのに対して、慶應義塾高校から慶應義塾大学法学部法律学科に進んで大学の4年で正真正銘の現役合格した人は、高校の1年から法律の勉強を始めたそうで、かつての旧型・司法試験は、「短答式」の試験が5月にあることを考えると、大学が4年間といっても、正真正銘の現役合格をしようと思ったら京大なり阪大なりに行った人間は3年間で合格ラインに達するようにしなければならないのですが、高校の1年から法律の勉強を始めることができれば、3年間ではなく「6年間で」ということになり、一般入試の人間が3年で通ろうとするものを6年で合格しようというのであれば、これは明らかに有利です。 このあたりの作戦を考えつくあたりを見ると、もしかすると、その方の親も慶應出身の弁護士か何かだったのかもしれません。  
   それで、確かに、内部進学の高校の1年から法律の勉強を始めて大学の4年で正真正銘の現役合格というのは「戦略の勝利」ではあり、ひとつの選択ではあると思うのですが、しかし、それがいいのだろうか・・・と疑問に思う部分もあったのです。 慶應の内部進学の教授・助教授でそれを手放しで称賛する人というのは、「高校までの勉強は受験勉強だ。 そんなものは害があるんだ。何の価値もあるものか!」と思っておられるのです。 でも、そうですか? 夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読むのは「害がある」のですか? だいたい、たいして受験に出ないと思うのですが、受験にでないものでも、自分が知らないものできないものは「受験勉強だ。害があるんだ。」ということにして否定してしまわれる方が内部進学の方には大変多いのですが、試験にでようがでまいが、そして、司法試験合格に有利であろが不利であろうが、やはり、夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、プラトンの『ソクラテスの弁明』、そして、『出エジプト記』というものを読むのは無駄ではないと思うのです。
   早稲田の内部進学で、司法試験にもわりとすんなり通ったらしい中原徹さんも、もしかすると、比較的早くから法律の勉強を始めた方かもしれませんが、司法試験の勉強とかTOEIFLの勉強よりも、もっと学ぶべきものがあったのではないのか、という印象を受けます。
   
   実際のところ、中原 徹 という男、私は、この男の顔を指差して言ってやりたい気持ちになる。
「きみは、高校生として欠陥があるねえ。」 と。

   橋下は中原 徹のことを「むっちゃ、優秀なやつ」とか言っていたというのですが、どこが優秀ですか?  ほめられているかどうかではなく、誰がほめているかを見るべきでしょう。 橋下になら、むしろ、けなされた方がいいくらいかもしれません。
実際にやるかどうかはともかく、「きみは、高校生として欠陥があるねえ。」と中原徹に顔を指差して言ってやりたい人は、けっこういるのじゃないかと思います。

   大阪府立和泉高校は、「高校生として欠陥がある」ような男を、「民間人校長」とはいえ、なぜ、「校長」にならさないといけないのか、なぜ、そんな人間に「校長」になられてしまうのか、つくづく、不思議です。
     (2012.8.2.) 


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