橋下徹という男の人間性 ~ 殺人犯は死刑が 「当然」 か?

〔第56回〕 「弁護士」という肩書でテレビに出て、その結果として「弁護士兼芸能人」という肩書を取得して、そして、「200パーセント出ない」とか言っていたにもかかわらず大阪府知事の選挙に出て「大阪府知事」の肩書を取得した橋下 徹(はしもと とおる)が、今度は、大阪市長の選挙に出るとか言いだしているという。

  今回は、知事選や市長選のことの前に、殺人犯と死刑の問題について論じたいと思います。
  2001年(平成13年)6月8日に、大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校に、宅間守(たくま まもる)という当時37歳の男性が、包丁を持って入り込み、児童8人を殺害し、児童13人・教諭2人に傷害を負わせたという事件がありました。多くの方が今も覚えておられることと思います。この事件について、亡くなられた方に深くお悔やみ申し上げます。
  亡くなられた児童、及び、遺族の方が大変気の毒であるのは間違いありません。そして、このような事件は今後ないようにしたいものですが、一方で、この事件後、小学校や幼稚園などでも入口の扉がしっかりと閉められるようになったケースが多いことについては、本来、小学校であれ幼稚園であれ、学校というものの入口は、できるかぎり開放的でありたいもので、又、近隣の人たちとともに歩んでいきたいものであるのに、こういう事件があったために、入口が閉鎖されてしまうというのは残念に思います。

  それで、今回の課題です。 ある週刊誌(たしか、「週刊朝日」であったような気がするのですが、はっきりしません。)に、今、大阪府知事になっている、当時は「弁護士兼タレント」であった橋下徹が、「私は、このような宅間守のような人間は極刑にするのが当然だと思っているのだが、・・」と述べていたのです。この点です。

  「当然」ですか? どうして?  犯人・宅間守は、最終的に、死刑になりましたが、しかし、「当然」ですか?

1.「無罪」と「精神喪失につき無罪」は意味が違う。
  まず、一番の問題として、この人は、過去に「精神病院」の「入院」歴がある人であったわけです。 そして、この大阪教育大付属小学校の事件においても、「精神鑑定」がなされています。

   ビッグローブニュースのコメント欄を見ていると、殺人犯など重い犯罪の犯人が、「精神喪失」を理由として「無罪」となった時、こんなことをやった奴が無罪とはけしからんと怒りのコメントを入れる方が続出するようなのですが、怒りのコメントを入れられる方というのは、ひとつ、勘違いをされているところがあると思います。
   刑事事件の判決・結果は、「有罪」と「無罪」の2種類のどちらかだと思っていませんか? そうではないのです。「有罪」と「無罪」と「精神喪失につき無罪」の3種類があるのです。「有罪」は懲役なり禁固なりであれば刑務所に入ることになります。単なる「無罪」なら釈放されます。「精神喪失」を理由として「無罪」の判決が出たケースに怒りのコメントを入れる方というのは、「精神喪失につき無罪」の判決が出た場合も釈放されると勘違いされているのではありませんか? 
  「精神喪失につき無罪」の判決が出た場合は、完全に冤罪であったとして釈放されるケースなどとは全く事情は違います。 「懲役」なり「禁固」なりの場合に刑務所に入るかわりに、「精神病院」に「措置入院」という手続きにより、強制的に「入院」させられることになるのです。釈放されるのではありません。
  「精神病院」というのは、「病院」と名前がついていても、身体病院とは性質が違います。本人に意識があるのに、身体病院に本人の意志を無視して入院させるということはあまりないと思いますが、「精神病院」の場合は、「家族の同意」による「同意入院」というものと、そして、犯罪を犯したが心神喪失状態であったというケースの「措置入院」という制度があり、この2つの制度により、本人の意志を無視して「入院」させる・させられることがあるのです。
  身体病院の場合、たとえば、糖尿病で入院したくせに、こっそり病棟を抜け出してイチゴ大福食って帰るオッサンとかいたりしますが、「精神病院」はそうはいきません。特に「措置入院」で入った場合は、たいてい、「病棟」に鍵がかかっていますし、抜け出してイチゴ大福を食って帰るようなことはできません。「病院」と名前がついているからといって、「精神病院」を身体病院と同様のものと考えない方が良いと思います。
  刑務所に入れられた場合と「精神病院」に入れられた場合とどちらが大変か、ということを考えてみるべきです。 身体病院に自分が希望して入院した場合と、「措置入院」という手続きで「精神病院」に「入院」させられたケースでは事情は違います。 刑務所では、「治療」と称して、薬を強制的に飲まされたり、その他、「治療」と称するあやしげな行為を「なんでもやってみようの精神」で次々とされるということはないはずです。(少なくとも「精神病院」のようには。)「精神病院」では「検査」についても、X線撮影だのCTスキャンだのといった放射線被曝をともなう「検査」も拒否できないでしょう。 「精神病院」では、必要のない「薬」(=化学物質、「必要のない薬」ということは、ほとんど「毒」と同じこと)を大量に飲まされて「肝炎」とか「糖尿病」とか「高血圧」とかにならされ、健康を害する可能性があります。 幸いにして、そこまでいかなくても、必要のない栄養注射で太らされるくらいのことはあるでしょう。刑務所には「刑期」がありますが、「精神病院」は「病気が治っていない」と「診断」さえすれば、はてしなく「入院」させておくこともできるのです。「病気が治癒した」としても、「措置入院」で入った人は、そう簡単には出れないでしょう。「作業療法」と称して、くだらない仕事を(おそらく無賃で)強制的にさせられるでしょう。 「病院」がやっていることが不当であると思って訴えても、「病気だから、妄想を見ているんだ」とか「被害妄想にかかっている」「病気が重くなった」とか「診断」されて受け入れられないでしょう。 刑務所の方がマシと違いますか?  死刑以外の刑罰の場合は、「精神喪失につき無罪」よりも「有罪」の方が当人にとって、まだ良いのと違いますか? 刑務所からでた人は、就職も不利になることが考えられますが、1か月か2カ月ならともかく、長期に「精神病院」にいた人も、それは同様でしょう。
  だから、「精神喪失につき無罪」は、冤罪で釈放される方と同じ扱いになるのではなく、死刑以外であれば「有罪」よりも重い刑罰であると考えられます。刑罰には、単なる「無罪」と≪「有罪」及び「精神喪失につき無罪」(=「精神病院」への「措置入院」)≫があり、死刑以外の刑罰ならば、「有罪」よりも「精神喪失につき無罪」(=「精神病院」への「措置入院」)の方が「罰」は重く、「無罪」になるとはケシカランと怒ることではないのです。
  そして、この宅間守という人も、大阪教育大学付属小学校での殺人事件で、「精神鑑定」をされていたのですが、この事件において、「精神喪失」等の鑑定は出ませんでしたが、たとえ、「精神喪失」と鑑定されて「無罪」になっても、決して、単なる「無罪」と同じように釈放されるわけではありません。
※このあたり、たとえば、
トマス=サズ『精神医学という狂気の思想』(日本語訳では『狂気の思想』1975.8.16.新泉社)他参照。
   橋下徹は「極刑が当然と思っている」などと言っていましたが、「精神喪失」の可能性を、なぜ、勝手に否定しているのでしょうか。 宅間守という人が教育大付属小でおこなったことは良いことではないというのは誰も否定しないでしょうけれども、「心神喪失」「心神耗弱」といった概念を適用すべきものであったのかなかったのか、という点について、なぜ、橋下は、そういう問題も考えずに、「こういう男は極刑が当然だと思っている」などと言うのでしょうか。

2.「措置入院」「同意入院」の制度と「精神科医」「精神病院」「精神医学」の責任。
  そして、多くの人が、この宅間守という男性に対して怒っていますが、怒るべき相手は、本当にこの人なのでしょうか?
  そもそも、「精神病院」への本人の意思に反しての「同意入院」(家族の「同意」による「入院」)とか「措置入院」(法的措置による犯罪加害者の「入院」)というものが、なにゆえ、認められるのでしょうか。それは、その人を「入院」させないでおくと、その「病気」の為に、人を傷つけたり殺したり、自分を傷つけたりする危険があるので、それを防ぐ為の措置であるということで、本人の意思を無視しての「入院」が正当化されているわけです。それで、この宅間守という人は、過去に、「精神病院」に「入院」したことのある人ですよね。 「精神病院」に「入院」させないと、人を傷つけるおそれがあるということで「入院」させた人を「退院」させたということは、「退院」させても、人を傷つけたり殺したりする心配は、世間の平均的な人間並みに大丈夫という「診断」を「医師」「精神科医」と称する人間がおこなったから「退院」したわけですよね。それで、どうして、教育大付属小学校で人を殺すことになったのですか? 「精神科医」の「診断」て何なんですか? 絶対に人を傷つけるような行動をしないかどうかはわかるものではない、というのですか? それなら、「人を傷つけるおそれがある」ということでの「同意入院」とか「措置入院」て何なんですか?
  宅間守という人は、「精神病院」に「入院」歴のある人ですよね。 もしも、家族が「同意入院」させたという場合であればどうでしょうか。 家族にもいろいいろな家族がありますが、比較的良心的な家族の場合、本来は、本人の意思を無視して「精神病院」への「入院」など、できるだけ、させたくはないのです。それでも、「入院」させるのは、「入院」させずにおいて、人を傷つける・人を殺すというようなことになっては困ると思うから、それよりは「入院」させた方が良いであろうと考えて「入院」させるわけです。そういう思いで「入院」させた人を、「医師」が大丈夫だと「診断」して「退院」させたら、人を傷つけるようなことをしてしまった・・としたら、その「医師」の「診断」は、いったい、何なんだ? 「医師」が大丈夫だと「診断」するから「退院」させたのに、人を傷つけるようなことになってしまったなら、それなら、人を傷つけるようなことにならないようにということで「入院」させた、「入院」に何の価値があるんだ? そんな「入院」を正当化できるのか? ということになりませんか。

  編集:株式会社スパイスコミュニケーションズ・湯浅ひろゆき『凶悪犯罪ファイル9』(2008.5.11.竹書房)に掲載されている「宅間守と事件の歩み」を見ると、宅間守という人は
1963年生まれで、
1981年、18歳の時、工業高校を退学。「精神病院」へ「通院」し、「神経症」と「診断」され、
1984年、21歳の時に、≪裁判から逃れるために≫「精神病院」に「入院」し、
1986年、23歳の時に、婦女暴行罪で実刑判決を受け、その際、≪精神病は詐病とされた≫。
1999年、35歳の時、3月、≪小学校同僚に薬物を混入したお茶を飲ませるが≫≪精神病を理由に不起訴≫、
     5月、≪威力業務妨害罪で逮捕されるが、精神病により不起訴≫
     9月、≪住居不法侵入で逮捕されるが、精神病により不起訴。≫
2001年6月、36歳の時、大阪教育大付属小に侵入し、殺人を犯し、
2003年9月、38歳の時、死刑判決が確定、
2004年9月、死刑執行。
という履歴のようなのです。 本人は、「精神病」を詐称していたつもりであった時もあったようですが、しかし、本人は「詐病」のつもりでも、実際に、かなり「病的」ですよね。「精神医学」の「病気」と身体医学の病気とは概念が違い、身体医学では、ウイルスとか病原菌とかに冒されたといったことがなければ、体調が不良であっても、病気とは診断されないのに対して、「精神医学」では、社会的に困ったことをしてしまう人は、病原菌に侵されているとかいったことがなくても、「病気」と「診断」されるわけですから、「精神疾患」の範囲を広くとらえれば、「病気」であったということにすることはできたでしょう。このあたりが「精神医学」というものの胡散臭いところであるのですが、「病気」と「診断」すべきかどうかはともかく、この人が「病的」であったのは間違いなく、そして、何度も、「精神病院」「精神科医」とのかかわりを持ってきたわけです。それで、「精神病院」「精神科医」「精神医学」は、この人のために、何もできなかったというわけですか? そんな「病院」に価値があるのでしょうか?  そんな「医者」に価値があるのでしょうか? 何のために「入院」させたのですか? 人を殺す可能性があるのに「退院」させたわけですか? その「診断」をした「医者」は責任はないのですか???
※「精神医学」における「病気」の概念と身体医学における病気のとらえ方との違いについては、
トマス=サズ『精神医学という神話』(日本語訳では『精神医学の神話』岩崎学術出版社)参照
〔訳者は、英語の“of”を「~の」と訳して『精神医学の神話』という書名にしているが、本の内容から考えれば、同格の“of”で「~という」と訳し、『精神医学という神話』と訳すのが適しています。〕

  多くの人が、宅間という男はけしからんと言いましたが、しかし、この人は、「精神病院に入院させないと人を殺したり傷つけたりする危険がある人である」という「診断」を「医師」から受けて「精神病院」に「入院」していた人ですよね。そういう人を「退院」させても大丈夫だという「診断」をして「退院」させた「医師」に責任はないのですか? 子供が人に怪我をさせれば、親にも責任はありますよね。人が飼っている動物が人に怪我をさせれば飼い主に責任はありますよね。世間一般の人間と同じだけの判断力はない・責任は取れないという「診断」を受けて「入院」した人を「退院」させた「医師」に責任はないのですか?
  もちろん、その場合の責任をあまりにも強く「医師」に負わせるならば、いったん「入院」させたが最後、「退院」させないでおいた方が「医師」にとって安全だということになってしまうおそれもあるでしょう。 そういうことはあるでしょうけれども、しかし、「精神病院」に「入院」していた人が「退院」後に、人を殺したという事に、「医師」や「病院」には何の責任もないというのはおかしくないですか?
  「退院」後に、人を殺すのなら、そこでやっていた「治療」て何なんですか? 「化学療法」⇒薬漬け、「作業療法」⇒労働搾取、要するに、「患者」「病人」だということにして、「何でもやってみようの精神」で人の体と心をもてあそんだだけということですか。
  宅間守という人は、死刑の判決後、異例の早さで、死刑が実行されてしまいました。「されてしまいました」というのは、当然、こういった議論がされなければおかしい、と思っていたら、その議論を消してしまうため(?)かのごとく、この世から、宅間守という人が消されてしまった。本人が早期の死刑執行を希望したと言われていましたが、通常、本人の希望をきくわけではないですよね。遅い執行を希望すれば、執行は遅くなりますか? 通常、そういう希望が通るわけではないですよな。 その頃、何の週刊誌であったか、その時、総理大臣であった小泉純一郎に、精神病院の団体が寄付していたという記事を見ました。もしかして・・、「精神医療」「精神医学」「精神病院」の問題が表に出るのを妨げる為に、宅間という人に通常よりも早く死刑を執行して、この世から消してしまった・・・などということはないのか・・といったことを私は考えました。そうであるのかどうかはわかりいません。 しかし、何か、そういうことでもあるのかな・・・というような死刑の執行のしかたであったように思いました。
  悪いのは、宅間守という男だということにして、逃げた奴がいませんか?
 橋下はそういうことも考えずに、宅間守という人だけを、「こういう男は極刑が当然だと考えている」などと言うのは、橋下がまともでない「精神病院」「精神科医」とつながりがあるからなのか、そうではなく、単に軽薄男であるだけなのか、どちらでしょうか?


3.「死刑」という法的手続きをとれば、人は人を殺すことを正当化できるのか?
  ある週刊誌、「週刊朝日」だったように思うのですが、団藤重光という方が書かれていた文章を読みました。団藤重光という方は、刑法学者で、旧型司法試験の「基本書」の著者として、司法試験受験を考えたことがある人は名前をしらない人はないという有名人ですが、東大法学部の教授を務めたとともに、判事の経験もされたようです。
※団藤重光 については、
「ウィキペディア―団藤重光」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89 他参照。
  団藤先生は、裁判官を勤めた時に、1回だけ、死刑の判決を出したことがあるそうです。 死刑の判決文を読みあげた、まさに、その時、傍聴人席から「人殺し!」というひと言を言われた。 これには本当にこたえた。それ以来、冤罪といわれるようなケースについてとか、情状酌量のあるケースとかについてではなく、事実関係に疑いの余地がなく、情状酌量の余地がまったくないというケースにおいても、たとえ、裁判という手続きを経ても、法律上合法であっても、人に人を殺すというようなことは許されることではない、人を殺すというようなことは、たとえ、法的手続きを踏んだものであっても許されるものではない、と思うようになり、その後、死刑の判決は一度も出さなかった、と書かれていました。団藤先生はさすがだと思います。 橋下徹はこういうことを考えたことがあるでしょうか。ないのと違いますか?
  オウム真理教に殺された坂本堤弁護士は、死刑に反対していたといいます。横浜の同じ弁護士事務所の弁護士が、もしも、坂本弁護士と、もう一度、話をできるならば、「坂本くん、きみは、こんな目にあわされても、それでも、死刑に反対するかい?」ときいてみたい、と語ったという話を何かで読みました。
  さて、死刑というものをどう考えるべきでしょうか。 橋下徹は、宅間守という人について、「こういう男は死刑が当然だと思っている」などと述べていたのですが、少なくとも「当然」ではないでしょう。こういったことを考えた上で、死刑というものをすべて否定するわけにはいかないというならともかく、少なくとも「当然」ではないでしょう。 軽々しく「当然」などという橋下という男は、頭の構造があんまり重層的ではないような印象を受けますね。

4.『トゥーランドット』と『シエラザード』、及び、『狼男』の話。
  昔、中国の都・北京において、トゥーランドットという姿は美しいが氷のような心の王女がいた。トゥーランドットの出す3つの謎に答えることができた男はトゥーランドットを妻とすることができるが、答えることができなければ殺される。その謎に答えようとして、毎年、何人もの男が命を落としてきた。カラフという男が謎解きに挑戦し、3つの謎を解くが、トゥーランドットはカラフの妻になることを拒む。民衆は、命をかけて謎を解いた男との約束は守られるべきだと言い、トゥーランドットの父である王は誓いは神聖であると言うが、カラフは「私は、嫌がるトゥーランドットではなく、喜びにふるえるトゥーランドットを妻にしたい」と言い、「今度は私が謎をだしましょう。明日の朝までに、私の名前をあててください。もしも、答えることができたならば、その時は私の命を差し出しましょう。答えることができなければ、私の妻となってもらいましょう。」と語る。北京の街には、カラフの名前を調べるようにふれが出され、名前を調べることができなければ北京の民衆は皆殺しとされると言われる。 カラフは「誰も寝てはならぬ」というアリアを歌い、勝利を確信する。夜明け前、カラフはトゥーランドットに「私の名はカラフ」と自ら、自分の名前を語る。夜が明けると、トゥーランドットは勝ち誇ったように語る。「私はこの人の名前がわかった」と。 「この人の名は愛。私は、この人の愛によって救われた」と。そして、二人の結婚を祝い、今後、トゥーランドットの為に命を落とす男は誰もなく、北京の民衆も死ぬ者はないことを喜ぶ、民衆の大合唱が起こり幕となる・・というのがプッチーニのオペラ『トゥーランドット』のお話です。
  この『トゥーランドット』の話の男性と女性が入れ替わったような話が、リムスキー=コルサコフの交響詩『シエラザード』です。 昔、心のすさんだ残酷な王がいた。王は、その国の年頃の娘を差し出させ、一晩、夜の相手をさせると翌朝には殺してしまい、翌日には、又、別の娘に同じことをした。そして、何人もの娘が殺された。ある晩、シエラザードにその順番がきた。シエラザードは、王にさまざまな話を聞かせた。その話は興味深く、王は、翌晩も聞きたいと思い、朝になっても、シエラザードを殺さなかった。そして、次の朝もまた、さらに次の朝もまた。そして、千とひとつの夜が過ぎた時、王の心はなごみ、もはや、誰をも殺そうという気持ちにはならなかった・・という、そういうお話を題材として、管弦楽の曲にしたのがリムスキー=コルサコフの交響詩『シエラザード』でした。
  殺人という行為を犯してしまう人の中には、トゥーランドットや『シエラザード』の話の王のように、何かの理由で心がすさんでしまった人、それまでの人との出会いが良くなかった人がいるのではないかとも思います。もしも、比較的早くに、トゥーランドットにおけるカラフ、『シエラザード』の王におけるシエラザードのような相手とめぐり会うことができていれば、殺人といった行為に至らずにすんだという人もいるのではないのか、という気がするのです。
   私が子供の頃、「金曜洋画劇場」であったか「木曜洋画劇場」であったかというテレビ番組がありました。そこで、『狼男』という映画を見ました。 生まれてきた子供は、両親の愛によって、心身共に健全な人間に育つ。しかし、世の中には、不幸にして、生まれて間もないうちに、片方の親が他界してしまう場合もあり、親が離婚してしまう場合もある。その場合は、残った方の親が、人並み以上に愛を注げば、十分、立派な大人に育つことができる。 世の中には、不幸にして、生まれてすぐに両親ともに亡くなってしまう場合もあるけれども、そういう子供も心配はいらない。そういう子供は、神様が必ず守ってくださる。しかし、恐ろしいのは、キリストが十字架につけられて復活するまでの間の3日間は神様も力が及ばない。その3日の間に生まれた子供でも、大きくなった時に、男性なら女性、女性なら男性と恋をするだろう。その恋愛が実るなら、その相手の愛によって救われるが、もしも、それが妨げられるようなことがあれば、その時には、恐ろしいことが起こる・・という話です。 犯罪者の男と同じ牢に入れられて、その中で、犯罪者の男から強姦された娘が子供を産み、男は処刑され、産んだ娘は出産がうまくいかずに他界してしまった。生まれた男の子の、誕生日は、キリストが十字架につけられてから復活するまでの間であった。大きくなって、恋をするが、相手の娘は貴族の娘で、娘の親から引き離された。その頃から、彼は、満月の晩になると、自分の体に変調が起こるのに気づくようになる。両親の愛も受けることができず、異性の愛も受けられず、神様の力も及ばなくなった彼は、満月の晩になると、狼男に変身してしまうのであった。 狼男に変身した彼には、通常の鉄砲の弾もきかない。 ついに、毎日祈りをこめてきた銀の十字架をつぶして作った弾をこめて彼を撃つと、彼は倒れ息絶える・・・。「しかし、妖怪の話といっても、『ドラキュラ』とか『フランケンシュタイン』と違って、『狼男』の話というのは、なんだか、かわいそうなお話ですねえ~え・・・・。 いや~あ・・・・映画って・・・、いいですねえ~え。」というお話でした。
   「衣食足りて礼節を知る」という言葉があって、犯罪と経済学とは切っても切れない関係にあります。 経済的に恵まれていない為に犯罪が起こるという場合もあります。 しかし、経済的な問題とは関係ない場合、経済的な問題と関係もなく、犯罪を習癖のようにおこなってしまう人、特に、殺人などをおこなってしまう人というのは、更生の余地がないから、死刑にして当然だというようなことを言う人がいますが、そうでしょうか? 殺人・傷害などを習癖のようにおこなってしまう人がいたとして、そういう人というのは、もしかすると、映画の狼男のような人だったのではないのか、神の愛を受けることができず、そして、地上において、異性の愛も実ることがなく、愛に見放されてしまった結果だとすれば・・。 神の愛を受けることができて、殺人・傷害などの犯罪を繰り返すような人生を送らず生きることができた人間は、神の愛を受けることができなかった人を殺すことが許されるのでしょうか。そうではなく、神の愛を受けることができたことを喜び、神の愛を受けられなかった人が立ち直る為に協力するべきではないのでしょうか。 
   「狼男」は死刑にされて当然でしょうか。 少なくとも「当然」ではないと思いますよ。
※「いや~あ、映画って、いいですねえ~え。」がわからない方は、
「ウィキペディア―水野晴郎」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%99%B4%E9%83%8E  参照。

5.『死にいたる病』
  デンマークの哲学者・セーレン=キルケゴールに『死にいたる病』(『世界の名著・キルケゴール』中公バックス 他)という作品があります。 『新約聖書』の「福音書」の話に、ラザロの復活という話があり、マルタとマリアの姉妹の兄であるラザロが病に伏し、イエスが着いた時には、すでに死亡していた。 だが、イエスが「ラザロよ、起きなさい」と言うと、ラザロは復活して歩き出した、という話から、身体的な病気について、「この病は死に至らず」と認識し、それに対して、精神面の「絶望」という病は、「この病は死にいたる」として、『死にいたる病』という標題がつけられたといいます。 宅間守という人は、キルケゴールが言うところの「絶望」という「死にいたる病」にかかってしまったような状態であったのか、とも思います。「絶望」という「死にいたる病」にかかることなく人生を生きることができたならば、その「死にいたる病」にかかってしまって、殺人を犯すことになってしまった人に対して、死刑が「当然」というような言い方をするのはやめたるべきだと思います。

   「こういう人間は死刑にされて当然だと私は思う」などと軽々しく言う男・橋下徹は、知事選にしても、市長選にしても、投票は見合わされて当然だと私は思う。落選して良いと思う。
   
   私が高校に進学した1970年代は、東京と違って、大阪では私立よりも公立高校の方が進学校であった。その後、公立高校の進学成績の地盤沈下が続いたが、『東京大学機械的合格法』の著者・柴田孝之が、<名門校であっても、進学成績が落ち目の学校には、落ち目になる理由がある場合がある>と述べていたが、私が卒業した大阪府立北野高校にしても、卒業して何十年か経って、高校時代を振り返ってみると、そうかもしれないなあと思うところもある。しかし、その一方で、最近の中学・高校6年一貫の「受験校」、たとえば、開成高校などの出身者を見ると、東大に行けたか落ちたか他の大学に行くことになったかは別として、入学試験の成績としては、ある程度の成績を取ったのかもしれないけれども、その割には、高校までに身につけておくべきものが身についていない、入学試験ではある程度の成績を取った割に、人間としての中身がないという人を見かけることが少なくない。その点、北野高校にしても、その他の昔からの公立「名門校」にしても、「入学試験である程度の成績を取ったにしては中身のない人間」というのは少ないように思う。 これは、あくまで、私の感想であり、感覚的なものであり、統計を取ったとかではないので、開成高校など「私立新興6年一貫受験校」出身の人で怒る人があっても、「ごめん」と言うしかないし、もちろん、人によっても違いはあると思うが、私はそう感じている。
   橋下徹は、私よりも10年ほど後で、北野高校を卒業したらしいが、「進学成績が落ち目の名門校」出身の良さというものが、橋下には感じられない。 卒業した学校が同じであっても、それで支持したりしなかったりということはないが、卒業した学校が同じである場合は、何かの縁だということで、そうでない場合よりも、1パーセントか2パーセントは親しみを感じるということはあるし、あって不自然ではないが、橋下については、こんな奴、北野の恥だという印象を持たされる。 

   冤罪の可能性があるケースとか、情状酌量の余地があるケースについてではなく、事実関係に疑いがなく、情状酌量の余地などないケースであっても、誰であれ、死刑にされて「当然」などという人間は存在しない。
   「当然」などと平気で言う男こそ、知事選であれ市長選であれ、落選して当然だと私は思う。


  地下鉄などの交通のあり方、伊丹・関空・神戸と不自然に3つの空港ができてしまったことへの対応などは、大阪府と大阪市が分かれているよりも、東京都のように、一体となった方が対応しやすくて良いのではないか、という点については一理あると思うし、そういう問題提起はあって良いと思うが、そうであっても、学校での君が代の強制へ賛成する態度とともに(橋下徹の君が代 強制発言については、〔第40回〕《橋下 徹 こそ退陣せよ! 橋下 徹こそ処分されるべきである! 橋下 徹を冷温停止させろ!》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201106/article_1.html、及び、〔第41回〕《橋下徹をどげんかせんといかん!~君が代問題。 内村鑑三の嘆き・ミルトン=マイヤーの憂い》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201106/article_2.html で述べました。御参照ください。)たとえ、どんな悪人に対してであっても、死刑にされて「当然」などと軽々しく言うような男は落ちてくれ!

   北野高校の「先輩」として言う。 橋下徹よ、大阪のために落ちてくれ! 日本のために落ちてくれ!
                              (2011.11.5.)
            ブログネーム:モンテ=クリスト伯+中原中也+ヴォーリズ

  本日、コンビニの本棚で、「週刊ポスト」(小学館)の表紙に≪橋下徹「抹殺キャンペーン」の暗黒≫というタイトルが書かれているのを見ましたが、私のブログのこの稿は、私が、こいつ(橋下徹)は本当に軽薄なヤツだと思って嫌な気持ちになり、特に出身高校が同じであったことから、この恥さらし男に母校に泥をかけられたような気持にもなり、思った通りを述べたものです。 そのような「キャンペーン」とはまったく縁はありません。 念のため。(2011.11.9.) 


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