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zoom RSS 「受験は頭でやるもんや」、及、「覚える型人間」か「考える型人間」か−受験生へのエール【3】

<<   作成日時 : 2017/03/29 21:10   >>

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[第275回]
   「野球はアタマでやるもんや」と、野村克也のじいさんはあっちこっちで言いまくり書きまくっていたが、「受験はアタマでやるもんや」とか「学問はアタマでやるもんや」とか言うと、当たり前やんけ! と思う人がいるかもしれないが、そうではない。
   野村のじいさんが言うには、プロ野球選手なんてものは、誰もが運動能力はあるもので、運動は苦手なんて人間は野球選手にはなっていない。 だから、野球選手になるまでは、運動能力の勝負かもしれないが、プロ野球選手になったら、そこから先は「野球はアタマでやるもんや」ということで、どれだけ、頭をつかって工夫をするかで勝負は決まる、ということらしい。 板東英二がラジオの野球解説で、「最近、『野球はアタマでやるもんや』とか、ちょっとそういうことを言いすぎですよお。 だいたい、そんなもん、野球みたいなもん、やってる人間がアタマ使うのん、得意なわけないでしょうが。 アタマ使うのん嫌やから、野球やっとんねんがな。アタマ使うのが得意な人間なら、野球みたいなもん、やってませんて。アタマ使うのが得意やったら、野球みたいなもん、やらんともっとほかのことやってるわ」と言っていたのだが、たしかに、頭を使うのが得意な人間か体を動かすのが得意な人間かというと、体を動かすのが得意な人間が運動選手になっているわけで、体を動かすのが得意でない人間は運動選手にはなっていないだろうけれども、いったん、運動選手になって運動選手同士の競争になったなら、どれだけ頭を使って工夫するかで勝負は決まってくる、ということのようだ。
    で、入学試験・資格試験のようなものにしても、試験があるわけではないとしても何かをマスターしようという場合にしても、同様のことはあると思うのだ。高校の入試においては、「ともかく、一生懸命やる」というのでも合格できたわけだが、大学入試においては、どこでもいいから行けそうなところに行くというのならそのやり方でも合格できるだろうけれども、そうではなく、東大とか京大とかいうような所に行こうとしたならば、まわりの受験生のレベルもある程度以上のものなのだから、そこからは「アタマでやるもんや」という面が出てくると思う。
    もし、「普通にやったら100点満点で60点くらいとれる人間」というのがいたとする。 この人間が、なんらかの事情で「普通にやる」ことができなかったとすると60点とれない。40点くらいになってしまうかもしれないし、20点くらい、悪くすると0点なんて可能性だってある。もしも、「普通にやったら60点とれる人間」が「普通にやる」ことができないために低い点数しかとれない状態になったらどうすればいいか。「普通にやる」ことができるようにすることだ。何らかの事情で「普通にやる」ことができていないのなら、「普通にやる」ことができなくなっている障害をとりのぞくことだ。 もし、「普通にやる」ことができたなら、「普通にやったら60点くらいとれる人間」は「60点くらい」とれることになるだろう。 さらに、「普通にやったら60点くらい取れる人間」が「普通に」ではなく「必死でやったら」70点くらいとれるのではないか。 さて、ここで問題は、「普通にやったら60点くらいとれる人間」が「必死でやったら70点くらいとれる」として、入学試験にしても資格試験にしてもそうだが、入学試験の場合、もしも、行きたいと思う大学学部の合格最低点が65点だったとすると、「普通にやったら60点とれる人間」は「普通にやる」のでは通らないが「必死でやったら70点とれる」わけだから、「必死でやったら」合格である。めでたしめでたし・・ということになるが、問題は、合格最低点が75点だった場合だ。 「普通にやったら60点とれる人間」が「必死でやったら70点とれた」わけだから、さらに「超人的に必死でやったら」どうか、さらに超人的に必死にやったら75点を上回る点数をとれるかというと、これは簡単ではない。なにしろ、もうすでに「必死で」やってるのだから。 さらに「必死で」といっても、もう、マックスの程度、「必死で」やってるわけだ。 そうなると、「必死でやって70点」の人間は合格最低点が75点の試験に通ることはあきらめるしかないということなのか。 あきらめることができるなら、あきらめればいいだろう。あきらめることができないなら・・・、「野球はアタマでやるもんや」と「野村から野球をとったらゼロ」と言ってるじいさんでも言うとるわけだから、「アタマ使うのん得意やったら野球みたいなもんやらんともっと他のことやってます」と板東英二が言うところの「ほかのもん」やろうという人間は頭を使うべきだ。 ともかく「必死でやる」のではなく、何をやって何をやらないか。 何はやる必要はないか。 「☆☆の勉強のしかた」とかいうものを見てそれを実行してみるというのも悪いとは言わないが、それよりも、実際に一度は試験を受けて落ちた者は、自分はどこで点をとれなかったか、どうすれば何点くらいアップするかということを自分自身で考えて、「ともかく必死でやる」のではなく、どういう練習をやれば点数はアップするかということを考えるべきだ。 それが「受験はアタマでやるもんや」ということだ。特に、私はこの思考が不足していたのだが、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』だったか『司法試験機械的合格法』だったかどちらかで書いていたのだが、《「何をやるか」以上に「何をやらないか」を考えることが大事》という思考を持つことが必要になってくると思う。すでに「必死で」やっている人間がさらにそれ以上に「必死で」やろうとしても限界がある。そこで、「何をやらないか」を考えることで、より成績アップにつながりやすいものをやる、ということで、「より成績アップにつながりやすいもの」をやる量を増やすことだ。そんなこと、当たり前じゃないかと思う人もいるかもしれないが、かつての私はその姿勢が不足していた。今現在の受験生でも不足している人はいるのではないか。
    この際、いいかげんな予備校に行ってしまって、いいかげんな人間の言うことが耳に入ってきた時には、そういうものは無視するに限る。 40年近く前、私が条件が悪かったのは、両親ともそのあたりを理解できていない人間で、私が「YMCA予備校のF井なんて何もわかっていない人間だから、どうか、あいつの言うことは聞かないでほしい」と何度言っても、母は「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」だの「あの人は、YMCAで主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当えらいクリスチャンのはずや」とか、「聖書みたいなも〜ん、あんなもん、ええことなんてひとつも書いてないんや、あんなも〜ん。聖書なんて読まんでもええんや、聖書みたいなも〜ん。 聖書なんて読まんでも、洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って献金はらっておけばそれでええんや、それで。聖書なんてあんなもん、ええことなんて何ひとつ書いてないし、読むもんと違うんや、特に若い頃に聖書なんて絶対に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。聖書なんて、あんなもん、たとえ、読むにしても、歳いってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若い頃に聖書なんて読むものと違う。聖書なんてあんなもん読んではいかん」と常に口にしている男のことを言っていた。 そんなこと思ってるなら、なんで洗礼うけるんだよおと思ったのだが、おそらく、キリスト教の教会で「洗礼」うけるとYMCAで雇ってもらえるから洗礼うけたのでしょう。そういうしょーもないおっさんのことを「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」だの「あの人は、YMCAで主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当えらいクリスチャンのはずや」だのと言っていた。父は父で「専門家の言うこと、専門家の言うこと。 せ〜んもお〜んくゎぁ〜あ!」とか言っていた。私が「あんなヤツ、『専門家』じゃないよ」と言ったが、「専門家、せんもんか、センモンクヮァア〜ア!」と言ってきかなかった。「あいつは東大とか京大とか実際に受けた経験がある人間でもないし」とも言ったが、「受けたことがなくても指導したことがあるでしょう」と母は言い、父は「指導する専門家、せんもんか、センモンクヮ。せ〜んも〜んくゎぁ〜あ!」と叫んできかなかった。 世の中には「学校はいい学校を出てなくても、会社ちゅうところでは人より実績を残す人間もいるんや。学校でやってることなんて、会社ちゅうところでは役に立たんのや」とか言うひともいるのだが、だから、私は「会社ちゅうところ」に勤めるのが嫌だったのだ。せっかく、小学校の1年からキリギリスが遊んでいる時もアリはひたすら努力して勉強してきたのに、なんで、「学校はいい学校を出てなくても、会社ちゅうところでは人より実績を残す人間もいるんや。学校でやってることなんて、会社ちゅうところでは役に立たんのや」などと言われるようなそんな仕事につかなきゃならんのだ!?! そうではなく、小学校から高校まで努力して学んできたものを生かせる仕事につきたいと思ったし、そういう方面に進ませてもらっている同級生はいくらでもいるのに、なんで、私だけ、「とってちってたあ〜あ」とか言われて、「学校はいい学校を出てなくても、会社ちゅうところでは人より実績を残す人間もいるんや。学校でやってることなんて、会社ちゅうところでは役に立たんのや」とかいう所に行かされなきゃならんのだ!?!と思ったのだが、もしも、そういうことがあったとしても、だ。 それは大学入試と関係ない仕事の場合のことだ。 東大を受けようというのなら東大を受けて通った人、もしくは、東大に行きたいと思って努力したが残念ながら合格できなかった人、京大を受けようというのなら京大を受けて通った人、もしくは、京大に行きたいと思って努力したが残念ながら合格できずに早慶あたりに行った人、もしくは、最後、断念して阪大くらいを受験して合格して行った人か、そういう人が指導するべきであって、箸にも棒にもかからんような底辺の「大学」に行ったような人間が、「ぼくらは社会人経験というものがあるんやから」とかえらそうな口をきいて「指導」しようなどとはあつかましい。 自動車学校で自動車の運転免許をもっていないクルマの運転をしたことがないというようなそんな指導員に指導してもらおうなんて誰か思うか?  柴田孝之がどこかで述べていたが、実は旧型司法試験(今はなくなってしまった旧型司法試験)の模擬試験の採点というのは誰がやっているかというと、「単なる司法試験受験生でしかない者」が採点やっているらしい。大学の法学部の助手かそれとも若手の弁護士かそういう人間が採点やってるかと思っている人がいるようだが、そうではないのだ、と書いていた。但し、「単なる司法試験受験生でしかない者」とはいっても、何年も司法試験浪人を重ねている「実力派」の受験生であり、司法試験の受験については「ベテラン」である者が採点しているというのだ。 さらには、司法試験に合格できていないにもかかわらず、司法試験受験の「塾」まで開設して指導している「ツワモノ」までいると書いていたように思う。 しかし、そういう人というのは、すべての科目を合格はできていないかもしれないが、その試験の受験については相当わかっている人で、その人の知識は役に立つことはあるのではないかと思う。 それに対して、東大だの京大だの合格なんてとてもできない人で、ずっと底辺の「大学」に行って卒業したかというような人間が「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と毎日毎日、アホのひとつ覚えみたいに言いまくっているような男の「指導」なんて、受けたいか?  万一、彼が本当に「早稲田の政経」出てたとしても、そんなことは重要ではない。あいつの言うことはことごとくおかしいから、だから、私は「F井の言うことなんて、どうか、お願いだからきかないでほしい」と懇願し哀願したのだが、「クリスチャン」に対する信仰を持っている母と「専門家」に対する信仰を持っている父、かつ、息子の言うことはきいてはならんという信念を持っている父は、私が懇願しても哀願してもきいてくれなかった。私は、父親なり母親なりが、東大とか京大とか出ている人、もしくは、東大なり京大なりに行きたかったけれども行けなかったというような親の息子・娘というのは、つくづくうらやましいと思った。そうすると、「専門家、せんもんか、センモンクヮ」とか言っていたおっさんが「わしほどエライ親はないんやぞお。わしほどえらいえらいえらいえらい親はないんや。 わかっとるか、チャンコロ。わかっとるか、チャンコロ」と叫んでいた。「世の中にはやなあ。カス親もおればダメ父もおるわけや。わしいみたいなえらいえらいエライエライ聖人のお父さん、キリストのお父さんばっかしやないんや。ダメなダメな父、カスのカスの親というのもおるわけや」とか言っていた。「わしは英雄やねん、英雄。わしはヒットラー総統のような英雄やねん。エーユー。au」とか言うておった。〔⇒《YouTube-交響曲 第3番 変ホ長調「英雄」作品55 ベートーヴェン》https://www.youtube.com/watch?v=jRxx_PYJaDY 〕 「あんた、えらい、あんた、えらい。えらいえらいえらいえらい。あんた、天皇へーか、あんた、天皇へーか」とでも言ってやると喜んだのだろう。 実際、やけくそで、「そうですねえ。えらいですねえ」と皮肉というのかの調子で言ってやったところ、「そうやねん。わしはえらいねん。わかったあ?」と言うので、そういうおっさんなんだなあと思った。「わしいみたいなエライえらいエライえらい、キリストか聖徳太子かヒットラー総統かのようにえらい人間の言うことは、誰でもみんながみんなが誰でも、何でも何でも何でも何でも従がわんといかんのや。わかっとんのんか、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロ」と私に毎日毎日言っていた。「わしのようなドイツ人の言うことは、誰でもみんながみんなが誰でも何でも何でも何でも何でも言うことをきかんといかんねん。何でも何でも何でも何でもやぞお」とか言うておった〔⇒《YouTube―楽劇「ワルキューレ」第3幕より「ワルキューレの騎行」 ゲルギエフ》https://www.youtube.com/watch?v=ONfSjfTWJJU 〕。 その「ドイツ人」で「英雄」で「ヒットラー総統のような聖人」とかいうおっさんよりも、私としては「普通のお父さん」の方がよかった。特に、受験においては「ヒットラー総統のようなお父さん」は迷惑だった。受験においては、実際問題として、いない方がよかった・・・・が、いた。《「ヒットラー総統のような聖人」で「英雄」で「ドイツ人でアメリカ人」というお父さん》が。

   父は何度も何度も言っていた。 「子供ちゅうもんは女が産んだのと違うんやぞ」と。え? それなら、誰が産んだんや? もしかして、おっさんがち○ぽの先端の穴から出したんか? そりぁ、大変やなあ、女性が出産するのでも大変のようだが、男がち○ぽの先端の穴から子供を出すとなると、これは相当大変やぞ、と。 父が言うには、「ナスビでもキュウリでもそうやろ。 畑に種を植えてくださってやっていただいてもらってあげてやってやってもらってあげていただいてくださったお方がいるおかげで畑から芽を出すことができたんや。 女は畑じゃ。畑が芽をだしたのとは違うんや。 畑に種を植えてくださってあげてやってもらってあげてくださっていただいてもらってもらってあげていただいてくださってあげてもらってやってくださっていただいたお方のおかげで種は芽を出したわけや。 芽を出したなら、そこから育てるのは畑の役目じゃ。 そんでやなあ。その芽が大きくなって実を結ぶようになったらやなあ、その実に対しては種を植えた人間に権利があるわけや。 畑に権利があるのとは違うんや。ましてや、ナスビやキュウリに権利があるわけがない。 あたりまえやろ。」と、そう言うわけだ。 「だからやなあ、息子ちゅうもんは、育てるのは畑の役目であってやなあ、実がなるようになったら、それは、わしの権利じゃ、わしの権利じゃ、わしの権利じゃ、わしの権利じゃ」と叫んでいた。 「甘ったれるなよ。おまえに権利があるのとは違うんやぞ。種を植えてくださっていただいてあげてやってもらってくださってあげてもらってもらっていただいていただいてくださったお方、即ち、このわしに権利があるんやぞ。わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ。ちゃんころ、わかっとんのんか、チャンコロ!」と、毎日毎日言っていて。今でも、その文句が耳鳴りのように聞こえる。


【A】 「覚える型」と「考える型」
    人間には、「覚える型」の人間「考える型」の人間がある。 これは、生まれつきの部分もいくらかあるかもしれないが、高校生くらいになるまでにどこかで身に着けたというものもあると思う。 但し、これは、「デジタル」にどちらかに分かれるというものではなく、「アナログ」というのか、程度の違いであり、「覚える型」の程度が大きい人、「考える型」の程度が大きいひともあれば、「どちらかというと覚える型」「どちらかというと考える型」という人とかもいる。
    中学校から高校に行くくらいの段階では、「覚える型」でも「考える」科目もある程度できて、「考える型」でも「覚える」科目もそれなりにできたりするかもしれないし、「覚える型」「考える型」の程度がそれほど大きくない人は、自分はどちらかといったことを考えることなく年齢をいく場合もあるかもしれない。 しかし、その程度が大きい人間で、その地域の一番の高校に行って東大とか京大とかに進学したいと考えると、それがわかってきたりする。
    私は「考える型」だったのだ。 だから、「覚える」のが苦手だったのだ。 この「考える」型の人間は、一般に数学は好きであることが多い。 それに対して、英語とか語学は苦手であることが多い。 「英語なんて、覚えるだけ」なんて言われると、ますますドツボにはまる。 「覚えるだけ」なんて言われても、その「覚える」のがどうやれば覚えられるのかわからんのだ。 佐伯 胖(ゆたか)『「学び」の構造』(東洋館出版社)・遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)・森 毅『元気がでる教育の話』(中公新書)の3つに、「覚えたものは忘れるが、『わかった』ものは忘れることがない」というようなことが書いてあった。 なるほど、と思ったのだが、しかし、それから何十年か経った今、「わかった」ものでも忘れることはあるということが「わかった」。 なにしろ、あれだけ、苦労してなんとか「わかる」ようになりできるようになった数列とか、それが今、完全に「わすれた」のだから。 嘘、言うたらいかん。 「わかった」ものでも、何十年か経つと「忘れる」。 しかし、そういうことはあるとしても、数学とか物理とか、「公式」を「覚える」よりも、なぜ、そうなるのか「わかる」ようにすれば、その方が「忘れる」ことになりにくいし、その方が数学とか物理とかは学習しやすいと思う。 ちなみに、この3人のうち、遠山啓と森 毅の2人は数学者で、佐伯 胖(ゆたか)と森 毅は北野高校出身である。 数学者というのは、こういう考え方をする人が多いのではないかと思う。
※ 《ウィキペディア−佐伯 胖(ゆたか)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E8%83%96
   「日本史」とか「世界史」を「覚える科目」と思っているらしい人がけっこういるようだが、私はそうではないと思っている。 そもそも、歴史がどのように移行したかなんて、一方向的に覚えさせられてたまるもんか! このような状況があり、そこにどういう影響が加えられてこうなった・・・と「わかる」「理解する」のが日本史や世界史の学習であるはずだ。 「覚える科目」というのは、「覚える型」の人間で「覚える」のは得意だが「わかる」「考える」のが必ずしも得意でない人が、「覚える」型の学習法でもある程度の点数をとれたということから日本史・世界史を「覚える」科目だと勝手に思ったのではないか。 もしくは、京大・阪大の工学部あたりを目指す人で、数学・英語と物理などに力を集中して、日本史・世界史などはあまり力を入れず、結果として「適当の覚えておけばいいだろ」くらいに教科書に目を通しただけくらいで「致命傷は防ぐ」くらいしかやらないですませた、という人が「日本史・世界史は覚えるだけ」とか口にしたか。
   それで、だ。 数学者が「覚えたものは忘れるが、わかったものは忘れない」とか言うとる本を読んで、な〜るほど・・・・なんて思って、その方法で英語とか語学を学習しようとすると、これが、なかなか覚えられないんだわ。 なにしろ、数学や物理のように理論的にこうなってこうなるからこうなんだというのが、あんまりない。 雁屋哲がどこかで、フランス人は「英語はできそこないのフランス語だ」と言うとか書いていたが、特に英語は、理屈で考えると、なんでやねん! てのが多い。 講談社現代新書の『ロシア語の学び方』に書いてあったのだが、「ドイツ語は男と話すのによく、フランス語は女と話すのによく、スペイン語は神に語りかけるのによい。だが、ロシア語はそのすべてに良い」というのがロシア人のお国自慢だというのだが、たしかに、ロシア語は普通に話す言葉でも韻を踏んでいて語学の学習自体がおもしろい。 イタリア語には男性名詞・女性名詞というのがあり、treno(汽車、列車)は男性名詞だが、macchina(自動車)になると女性名詞になる。 giorno(日、昼間)は男性名詞だが、sera(夕、晩)は男か女かというと、やっぱり、夜は女だろうな・・・なんて思って辞書を調べると、女なんだわ、sera(夕、晩)てのは、なんとなく、女て感じだよなあ・・・とか、amore(愛)なんてのは女だろうなと思うと残念ながら男性名詞なんだわ。こんなこと考えると、イタリア語の場合、辞書ひいてるだけで楽しい。 イタリア語は普通に話していても歌を歌っているような言葉であり、モーツァルトのオペラ『魔笛』はドイツ語でできているが〔⇒《YouTube―モーツァルト 《魔笛》 「夜の女王のアリア」 ルチア・ポップ》https://www.youtube.com/watch?v=lItCcJzwx7E 〕、『フィガロの結婚』はもともとフランス語で作られた戯曲でモーツァルトはオーストリアの人間でドイツ語を使う人間なのにイタリア語でできている。〔《YouTube―モーツァルト 《フィガロの結婚》「恋とはどんなものかしら」シュヴァルツコップ》https://www.youtube.com/watch?v=mYLSIe-scrE 〕 なんで、オーストリア人がもともとフランス語でできた戯曲をオペラにするのにイタリア語で作曲するのかというと、オペラはもともとイタリアでできたものということもあるかもしれないが、どうも、ドイツ人には「ドイツ語は卑近な言葉であり、日常のことを表現するにはいいが、音楽には向かない言語である」という考え方があったようで、それなら音楽に向く言語とは何かというと、イタリア語らしいのだ。実際、イタリアに行ってイタリア人が話しているのを耳にすると、普通に話していても、何か歌を歌っているような感じ。 ローマだったかナポリだったか忘れたが、バイクに2人乗りしていたにーちゃんが、「オーソレ、オー ソレミ〜オ〜♪」なんて歌いながら運転してるのを見たことがあったが、そんな感じ。 イタリア語は語学自体が音楽であり歌であり、そして、愛!・・・なんちゃって、とそういう言語なんだわ。〔⇒《YouTube―Sinno'me Moro :Alide Chelli / 死ぬほど愛して :アリダ・ケッリ 》https://www.youtube.com/watch?v=ElOeKTY4JCE 〕 ところが、英語てのは、おもしろくない。 本多勝一が『言語帝国主義としてのイギリス語』という文章を書いていたが、イギリス帝国主義・アメリカ帝国主義が自分のところの言語を広めたおかげで、「日本はアメリカ(合衆国)のメカケみたいなものだから、メカケが旦那の機嫌をとるのはあたりまえだ」ということで、その「できそこないのフランス語」という言語を一生懸命学ばさせられている? のかどうかはともかく、英語というのはあんまり学習しておもしろいという言語ではないのだ・・・・が、なんだかんだ言っても、日本では英語ができるというのとできないというのとでは評価が変わるし、大学入試に英語のない大学はあんまりないので、やらなきゃしかたがない。
   結論として、英語とか語学は「わかる」「理解する」方法で学ぼうというのは間違いだと思うようになった。 やっぱり、今も発行されているのかどうか知らんが、「赤尾の豆単」と言われる本にしおりが入っていて、そこには、「人間は忘れる動物である。忘れることを恐れる必要はない。忘れたら、また、覚えればいいのである」と赤尾好夫先生のお言葉が書かれていたのだが、やっぱり、語学はこれだ。 「人間は忘れる動物である。忘れることを恐れる必要はない。忘れたら、また、覚えればよいのである」と、まさに名言である・・・・と思うのだが、ところが、困ったことに、「わかる」「考える」型の人間というのは、いったん、わかっても、ふと気づくとまた、「わかる」「覚える」型で英語の勉強をしようとしていたりしてしまうのだ。 だから、そのたびに、赤尾の豆単の文句を思い出すことだと思う。 「人間は忘れる動物である。忘れることを恐れる必要はない。忘れたら、また、覚えればいいのである」と。
    これで、理屈はわかったとしても、私のような「わかる」「考える」型の人間というのは、実際問題として、どうも、本来的には英語なんか得意じゃないわけだ。 大学入試の試験科目に英語がない大学はあんまりないので、「得意じゃない」なんて言ってられないので、それで、私はどうしたかというと、「作った」のだ。 これは感覚的な表現なので、同じような経験をした人はわかると思うが、わかりにくい人もいるかと思う。 プロ野球の選手でスイッチヒッターているでしょ。 もともと、右打者なのに、左でも打てるように練習して、右投手なら左打者として、左投手なら右打者として打つという。 あるいは、「右投げ左打ち」として、もともとは右利きで、右投げ右打ちだったのを、打つ方は左打ちに変えたという選手。 ああいう感じで「覚える」型を「作った」のだ。 語学を学習できるように。 これは感覚的なものなので、言ってもわかりにくい人もいるかもしれないが、もともと、右投げ右打ちだった人間が、左打ちを「作った」みたいに、英語など語学を学習できるように「覚える」学習法を「作った」わけだ。 だから、後から「作った」ものは、最初からある「わかる」「考える」型の学習法のものにくらべると脆弱な面もあるが、それはしかたがない、と考えることにした。 なにしろ、「作った」ものだから。
    それで、だ。 旧姓S野は、私の成績を見て、「理科の成績と社会科の成績を見比べると社会科の方がいいですから、文系ですね」とか勝手に決めつけたのだが、そういう思考はおかしい。 まず、社会科でも、「倫理社会」なんてのは、高校の科目名ではなく学問の名称としては、哲学・宗教学・人類学・社会学・心理学といったものになると思うが、哲学なんてものは、これは「覚える」ものではなく「考える」もののはずである。
《問題》  左の人名と右の著書を結びつけよ。
ニーチェ     ・      ・ 『存在と時間』
サルトル     ・      ・ 『共産党宣言』
キルケゴール  ・      ・ 『方法序説』
マルクス     ・      ・ 『嘔吐』
ハイデガー   ・      ・ 『ツァラトゥストラはこう語った』
デカルト     ・      ・ 『死に至る病』
なんて問題が、もしかすると、共通一次試験→共通試験→センター試験 なんてのの「倫理社会」にはでたかもしれんけれども、こんなの、「哲学」かあ?  そうではあるまい。 哲学とは、そもそも、自ら考えるところが哲学であって覚えてたら哲学ではないだろうが・・・・というあたりなんか考えると、「社会科は覚える科目」ではないはずなのだ。
〔 このしょーもない「問題」の解答を書いておくと、
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』、 サルトル『嘔吐』、 キルケゴール『死に至る病』、 マルクス『共産党宣言』、 ハイデガー『存在と時間』、 デカルト『方法序説』 となる。 〕
   「日本史」「世界史」という歴史は「覚える科目」だと思っている人がいるが、私はそれは違うと思う。少なくとも、「本来は違う」と思う。 「覚える科目」だというのは、「覚える型」の人で英語が得意な人が、日本史・世界史も「覚える」型で学習して大学入試を乗り切った人がいたということ、あるいは、工学部あたりを受けようという人が、数学と物理・化学と英語に力を入れて学習して、国語と社会科は手を抜いて、「社会科は3年の夏休み終わってからでいいわな」とか言ってるうちに3年の2学期が過ぎて行って「社会科は3年の冬休みすんでからでもいいわな」とか言っていると、ふと気づくと試験日になっていた・・・・なんてケースがあるみたいだが、そんな感じの人にとっては、「適当に教科書に書いてあることを覚えておけば、致命傷は防げる」という勉強法だと思う。  「本来は」日本史・世界史は「覚える科目」ではないし、  “文系”で相当の高得点を稼ごうとなると、「覚える」式ではだめで「わかる」「理解する」型の学習法でないとだめだと私は思うし、「英語はあんまり得意じゃないが、日本史・世界史などの社会科は好き」というタイプの人は、たいてい、「わかる」「理解する」型で学習していると思う。
    「現代国語なんて日本語だから、勉強してもしなくても同じ」とか荒っぽいことを言う人がいたが、それは正しくないし、私は2浪目の時に学燈社から出ていた『現代国語 難問の解き方』だったかいう問題集を煮詰めるように最初から最後まで学習し、後半は模擬試験を毎週受けて、書いたものが返ってくると解答と比べて吟味するという作業を繰り返した結果、飛躍的に点数が上がった。国語に関しては、特に「現代国語」に関しては、東大の2次試験においても東大受験生の中でもいい方の成績をとれていたと思う。 「現代国語なんて勉強してもしなくても同じ」なんてことは絶対にない。又、北野高校の国語の教諭であった旧姓S野が「現代国語は問題集なんてやっても意味はない」と言ったことがあって、そうかと思って、私は、最初、現代国語の問題集はやらなかったのだが、「現代国語は問題集なんてやっても意味はない」なんてそんなことはない。私は学燈社から出ていた『現代国語 難問の解き方』だったかいう問題集を煮詰めるように学習したことと模擬試験の問題をことごとくなめるように解答と見比べたことから飛躍的に成績があがった。いいかげんなこと言うもんじゃないよ。で、国語は「覚える型」か「わかる」「理解する」型かというと、漢字を覚えるとか古文の文法を覚えるとかは「覚える」型だろうけれども、全体としては「わかる」「理解する」型だと思うのだ。 国語は「文系の科目」と分類する人が多いが、「考える型」「わかる型」か「覚える型」かというと、「覚える型」ではないように私は思う。
    旧姓S野は、私を「理科の成績と社会科の成績を比べるとどちらかというと社会科の成績の方がいい」という理由からと、「小学生の頃から文学作品なども読んできた人間である」ということから、「あなたは文系よ」と強引に決めつけたのだが、「文系」か「理系」かというような思考ではなく、もっと、「考えるのが好きなタイプ」か「覚えるのが好きなタイプ」かという視点で見るべきではないかと思う。 その視点で見たならば、「文系」か「理系」かではなく、もっと、この方面でというものが見えてくるように思う。
    さらに、3年に進級する際、「文系」では理科をどの科目を選択するか、「物理と化学」「化学と生物」「物理と生物」「化学のみ」「生物のみ」から選べたのだが、「あなたは文系だから物理じゃない方がいいわよ」と決めてしまい、なんとも、うかつなことに、「高校の担任の先生がそう言う以上はそうなのだろうか」と思ってしまって、高校の2年の1学期の中間考査ではなんと0点とってしまったものの、2学期以降は継続して高得点をとってきた、学年で1番の成績をとったこともあった得意科目の物理をはずしてしまった。 物理は、2年の1学期の中間考査の時に、あ、あ、あ、あ、あと思っているうちに試験日が来てしまって0点とってしまったというもの以外は、化学・生物・地学のどの科目と比べても良い成績をとっていたのに、「理科」の科目の中で最も良い成績をとっていた科目で最も学習法がわかっていた科目をなぜ試験科目からはずすのか、今から考えると愚かな選択であるが、「高校の先生」というものを高く評価しすぎていたのが失敗のもとだった。
   なぜ、私は、ある時だけ限定で見るのではなく全般として見ると、「化学」「生物」「地学」よりも「物理」の方が良い成績を残すことができたかというと、ひとつには、「考える型」「理解する型」「わかる型」の思考が中心の人間だったからということがあると思う。 「社会科の成績がいい」→「覚える型」、「文系」よという考え方は、無茶苦茶である。 「哲学すること」とは、これこそ、最高の「わかる」「理解する」行為であり、「覚える型」とは正反対のものである。 今さら、人生をやりなおすことはできないが、無茶苦茶言いやがってからに、あの女のおかげで、とひとのせいにするなと言われるかもしれんが、あの女につまづかされなければ、道を間違えなかったかもしれないというのは事実である。

   高校生、浪人生で、このブログを読んでくださっている方があったなら、自分は、
相当強い「わかる型」「考える型」か
どちらかというと「わかる型」「考える型」か、
どちらとも言えないタイプか、
どちらかというと「覚える型」か、
相当強い「覚える型」か。

この5つのどれになるだろうかと、一度、考えてみることをお勧めする。 その上で、自分はどれだと自分自身で考えるか。 そして、どういう学部学科、どういう学問分野はどのタイプが適応しやすいか、どういう職業はどのタイプが適用しやすいだろうか、といったことを考えてみることをお勧めする。 少なくとも、「理科の成績と社会科の成績を比べるとどちらかというと社会科の方がいいから文系よ」などという無茶苦茶な決め方をするより、こういったことを考えてみる方がずっと有益であると私は思う。 すでに、大学を卒業して仕事についている人の場合、今さら・・・ということもあるかもしれないが、まったく考えたことがないという人は、一度、考えてみるのも悪くないかと思う。 受験にはどのタイプが強いかというと、いちがいに言えないと思うが、真ん中の3つの場合、特定の科目を勉強しにくいということはそれほどないかもしれないが、私は相当強い「考える型」「わかる型」だったので、英語の学習には相当苦痛を感じた。かつ、だからといって、英語を学習しないわけにはいかない、というところから、↑で述べたように、野球のスイッチヒッター、もしくは右投げ左打ちの選手のように、本体は「考える型」で、「覚える」型を「作った」のだ。 私のように相当強い「考える」型の人は同じようなことを考える時があるかと思うのだが、「考える型」「わかる型」でも程度がそれほど強くない人は、それほど自覚することもなく過ごすかもしれない。 一度、考えてみて損はないと思う。

 次回http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_4.html  【B】「燃える人間」と「燃えない人間」、【C】「現状妥協型」か「論理型」か について述べる。
 (2017.3.29.)

☆ 受験生へのエール
1.受ける大学学部を「理科と社会科はどちらの成績がいいか」などで決めてはならない http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_1.html
2.文系か理系かどちらと言い難い学問分野があり、複数学部にある学科がある http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_2.html
3.「受験は頭でやるもんや」、及、「覚える型人間」か「考える型人間」か 〔今回〕
4.「燃える人間」か「燃えない人間」か、「科学論理型」か「現状妥協型」かhttp://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_4.html
5.「アカデミック型」か「実用型」か、ブタ人間はお好き? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_5.html
6.両親が離婚した人間より離婚しない人間は「家族の政治学」で苦労しないか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_6.html
7.「会社員型」か「非会社員型」か。親には息子に「所有権」があるのか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_7.html
8.文学的素養があるから経済学部に行けと言う女とないから行ってはだめだという男 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_8.html

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「受験は頭でやるもんや」、及、「覚える型人間」か「考える型人間」か−受験生へのエール【3】 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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