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zoom RSS 日本基督教団 東梅田教会(一粒社ヴォーリズ建築事務所)、人を招く素材でできた人を招き寄せる教会

<<   作成日時 : 2016/04/10 21:23   >>

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[第241回]日本の教会建築シリーズ(14)-1 日本基督教団東梅田教会と扇町教会(1)
   ウィリアム=メレル=ヴォーリズの設計の教会は、おどろおどろしいウルトラCのようなものはなくとも、和やかな雰囲気で教会らしい建物が多いように思います。 又、「建築家」と言われる人には、自分の個人的な意匠上の趣味(悪趣味)を押しつけて、実際の施設の利用者がどれだけ使いにくかろうがいっこうにおかまいなし、構造上の問題は「構造家」におまかせ、完成直後から問題点がでてきたって「建築家◇◇先生の設計」である以上「ほめにゃならん!」というのが多いように思いますが、ヴォーリズさんの設計した教会は「使える建物」が多いという印象を受けています。  ヴォーリズさんの設計の教会で、「福島教会」が大阪市福島区の「日本基督教団大阪福島教会(旧 日本メソジスト大阪福島教会)」(1926)と福島県福島市の「日本基督教団福島教会(旧福島日本基督教会)」(1909)の2つありましたが、東日本大震災で、福島県福島市の福島教会の建物が被災し解体されるに至ってしまったのは誠に残念です。
   一粒社ヴォーリズ建築事務所http://www.vories.co.jp/index2.html という建築事務所がありますが、 ウィリアム=メレル=ヴォーリズは1880年10月28日生まれで1964年5月7日に亡くなっており、ヴォーリズの他界後も一粒社ヴォーリズ建築事務所は仕事を続けており、一粒社ヴォーリズ建築事務所ができるより前にヴォーリズが設計した建物もありますから、ヴォーリズの設計の建物とヴォーリズ以外の人が担当した一粒社ヴォーリズ建築事務所の設計の建物があることになり、一粒社ヴォーリズ建築事務所のホームページでは、「建築作品」http://www.vories.co.jp/work/index.html というところと2つあるのは、「ヴォーリズ建築探訪」http://www.vories.co.jp/work/special.html とがあるのは、「建築作品」の方は一粒社ヴォーリズ建築事務所の作品で、「ヴォーリズ建築探訪」はヴォーリズの設計によるものということらしい。

   JRの「大阪」駅、阪急・阪神・地下鉄御堂筋線の「梅田」駅、地下鉄谷町線「東梅田」駅から東の方に進むと、太融寺があって、さらに東に進むと、日本基督教団 東梅田教会 があります。↓
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↑ 日本基督教団 東梅田教会 (一粒ヴォーリズ建築事務所。 2001年。) 南西側、西側道路の向こう側から撮影。
一粒社ヴォーリズ建築事務所のホームページの「建築作品」「宗教」http://www.vories.co.jp/work/religious/7.html のところを見ますと、鉄筋コンクリート造4階建て(一部、鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄骨造) と出ています。
   私は、日本基督教団東梅田教会への訪問は2回目です。 最初、ヴォーリズの建築を見たいと思い、山形政昭監修『ヴォーリズ建築の100年 恵みの居場所をつくる』(2008.2.10. 創元社)、《ウィキペディア―ウィリアム・メレル・ヴォーリズ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA 、一粒社ヴォーリズ建築事務所HPの「建築作品」http://www.vories.co.jp/work/index.html 、「ヴォーリズ建築探訪」http://www.vories.co.jp/work/special.html などを見て、何か所か見学に足を運んだ際、日本基督教団大阪教会(1922年 大正11年)を見学に行った際、大阪市内でもう1カ所行ってみようと足を運んだのが日本基督教団東梅田教会でした。 但し、日本基督教団東梅田教会の教会堂ができたのは2001年で、ヴォーリズは1964年に亡くなっていますから、一粒ヴォーリズ建築事務所の設計ではありますが、ヴォーリズの設計ではないことになります。


↑ 大阪市地下鉄谷町線「東梅田」駅が駅としては最も近いかと思ったのですが、地図を見ると、谷町線「中崎町」、堺筋線「扇町」からも同程度の距離のようです。
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↑ 西面。
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↑ 西側道路の北、神山町交差点の向こう側から、北西から見たもの。
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↑ 南西、至近距離から見たもの。
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↑ 南東側から見たもの。


   もっとも、「訪問した」とか「見学した」とか言いましても、外観を外から見せてもらっただけのことで、中に入らせてもらったわけではありません。 建物は外から見て、かっこよくても、外だけでなく、中も良くなければ建築として良いとは言えません。 建築としては、外と中のデザイン、実際に使用する人にとって使い勝手が良いこと、構造上問題がない建物であること、この3つがそろってこそ良い建築と言えます。
   ヨルン=ウッソンが設計のオーストラリアのシドニーオペラハウスは竣工後の年数が浅いにもかかわらず「世界遺産」に認定されましたが、私はひとつ疑問があるのです。 あれは、オペラハウスなのだろうか? と。 もしかして、シドニー湾に突き出た岬に設けられた巨大なモニュメントであって、内部がオペラハウスであろうが屋内スポーツ競技場であろうが国会議事堂であろうがパチンコ屋であろうがソープランドであろうが何だってよかったのじゃないのか? と。 デザインの点でも、外を決めてそれに合わせて中を作るのか、中に合わせて外を作るのか? シドニーオペラハウスは、見に行ってもいないのに決めつけない方がよいとは思うのですが、どう考えても外を先に決めていて、外が評価されているのではないか。 音楽ホールとしては、本来、音楽を演奏する際、客席で視聴した際に音響が良いかどうかといったことが大事なはずで、大阪のフェスティバルホールが取り壊されましたが、音響がよく評判がよかったのに残念だといったことが言われたわけで、建物の外観が良かったとか言われたのではないわけです。 ミラノのスカラ座、ローマのオペラ座、ナポリのサン=カルロ劇場の3つがイタリアの三大オペラ劇場と言われますが、スカラ座にしてもサン=カルロ劇場にしても、すごい!のは中であって外ではないわけです。 ところが、シドニー=オペラハウスはシドニー湾の岬に見える外観が高く評価されている。ヨルン=ウッソンは、オペラ劇場としての音響はどうでもいいと考えていたわけではなく、音響についてどうするかといったことも構想を持っていたらしいのですが、現実に完成した建物について、現実の建物がどうであるかにかかわらず、シドニー=オペラ劇場が高く評価されているのは、デザインで、しかも、デザインでも「外」が評価されている。 
   教会堂の場合、外も中も大事ではありますが、それ以上に、礼拝など教会の行事をおこなうにおいてふさわしいものかどうか、という点で、それを知るには実際に礼拝に一度は参加させていただくのが好ましいはずです。
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(↑ クリックすると大きくなります。)
↑ 「どなたでも、ご自由にお入りください。」と書かれています。 特に「敬虔なクリスチャン」でなくとも、礼拝などに参加したいと思えば、参加させていただけるはずです・・・・・が、どうも、私は、いつの頃からか、キリスト教の教会というものが苦手になってしまったのです。 
   小学校の3年から4年くらいの頃、父母が行っていた大阪市内の教会の教会学校に日曜日に通っていて、その頃は、特に教会が苦手ということはなかったのです。 今、考えると、教会学校の先生というのは、小学校や幼稚園の先生と違って給料をもらって仕事としてしているのではなく、教会員の方が「奉仕」としてされていたと思うのですが、小学校の頃の私はそんなことを知らず、遊び相手になってもらえるように思えて、今から考えると、ずいぶんと勝手なこともしたのではないかと思います。 その頃は、教会というものは嫌ではなかったのです。 小学校の1年2年の時に、YMCAの体育教室に通っていた時があって、それはあくまで体育教室ではあったのですが、YMCAはキリスト教の団体なので、キリスト教の雰囲気もあったように思いますし、幼稚園もカトリックの幼稚園に行っていたので、幼稚園はキリスト教の信者の子でなければ入れないわけではありませんでしたが、キリスト教系でない幼稚園でもクリスマスは行事としてやっていたと思いますが、キリスト教系の幼稚園だけにキリスト教としておかしくないクリスマスがおこなわれていたのではないかと思います。
   だから、キリスト教に抵抗はなかったのですが、抵抗を感じ出したのは、浪人した時くらいからでしょうか。 YMCA予備校の高槻校に「主事」というよくわからない職種のおっさんがおりまして、その「主事」のF井が「きみは、聖書なんか読むのか」と言うので、「読むことはありますよ」と言うと、「ぼくらはクリスチャンだから、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金を払うけれども、聖書なんてあんなもん、読んでいいことなんて書いてないんだ。 あんなもの、読むものと違うんだ。 あんなもの、読んだっていいことなんて何ひとつとして書いてないんだから。 あんなもの。 ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。 聖書なんてあんなもん、読んではいかん」と、そう言ったのです。 自称「敬虔なクリスチャン」が。
   『聖書』というものを読んで、こんなにすばらしい本があるだろうかと思う人もあれば、「いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだ」と思う人もいるかもしれませんし、それならそれでしかたがないことだとは思います。しかし、「聖書なんて、あんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんだから」とか、そんなこと思っている人が、なんで、洗礼受けるの? 受けなきゃいいのと違いますか? 自分自身で『聖書』を読んで、自分自身で考えて、その上で、神への信仰で生きていこうと決心して、それで洗礼を受けようと思ったなら受ければいいことであって、「聖書なんてあんなもん、いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから、あんなも〜ん!」とか思っている人が、なんで、洗礼受けるの???
   結論を言うと、キリスト教の教会で洗礼を受けると、YMCA予備校で雇ってもらえるからということと、私の母みたいな人間から「あの人は、クリスチャンだから決して悪い人じゃない」とか「あの人はYMCAで勤めているくらいだから、クリスチャンの中でも並みのクリスチャンじゃない。相当にえらいクリスチャンのはずだ。」とか言ってもらえるから。 それで、その為に洗礼受けたのでしょう。「聖書なんて、あんなもん、いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから」「聖書に書いてあることなんて、まかり間違っても絶対に実行しようなんて考えてはいかん」とかいう信念を持っている人が。
   で、そのF井さんは「聖書みたいなもん、読むことないんや。 聖書なんて、読まんでも、洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、献金はらっておけば、それでいいことなんや。聖書なんて読むものと違う。あんなもの、読んではいかん。」と言うのですが、キリスト教の教会って、免罪符なのか??? 人は何によって義とせらるるか? 「洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、献金はらえばそれでいいこと」なのか???  また、「たとえ、読むにしても、教会で牧師とかにどう考えるべきか教えてもらうもので、自分でよんで自分で考えるなんて絶対にしてはいかん」とか言うのですが、もしも、教会とはそういうものであるのならば、そんな教会なら行かない方がいいのではないのか? 私はFさんのそのあたりの発言を聞いて、教会というものに疑問を感じ出したのです。 そもそも、F井さんの態度というのは、キルケゴールが『死に至る病』において、「絶望」と呼んだ人間の3つの状態の1つではないのでしょうか。それぞれの人が、自ら『聖書』を読んで考え、キルケゴールのように「神の前の単独者」として生きるのであれば、それは民主主義の側の態度ですが、F井さんのような、「自分で聖書を読んで考えてはいかん。読むにしても、自分で読むのではなく牧師とかにどう考えるか教えてもらうようにせんといかん」というのは、それはファシズムの主張、民主主義を否定する主張です。
※免罪符(贖宥状 しょくゆうじょう)・・・・Indulgence 起源は十字軍期の、従軍(苦行)のかわりに教皇指定寺院(在ローマ)への参詣と寄進で、1393年以降地方に出張し、参詣者に証明書(符 ふ)を交付した。 教会の財源化し、国家的統一の弱いドイツが最大の市場とされた。1514年のドイツでの発売にはアウグスブルクの巨商フッガーが介入していた。
(全国歴史教育研究協議会編『新版改訂 世界史用語集』1978.新版改訂10刷 山川出版社)

   そして、もう1つ、教会というところに行きたくないと思うようになった原因があります。 自分の家や親戚が檀家になっているお寺ではなく、有名寺院や神社に行った場合、そこでは誰に会うか、誰と話をするか。 神社では、神職が常駐している神社とそうでない神社があります。 授与所でお守りを「いただく」(「いただく」と言ってもかすめとってくるのではなく、お金を払って購入するのですが、「いただく」と言います)とか御朱印を「いただく」際に、宮司さんや巫女さんと話をすることもあるかもしれませんが、基本的には会う相手は誰かというと、「神さま」と会うのです。 本殿におられる(ことになっている)神さま、もしくは、大神神社(おおみわじんじゃ)などは背後の三輪山がご神体だということですから、背後の山に神さまがおられるということでしょうけれども、ともかく、「神さま」と対話をするのです。 お寺では、「秘仏」と言って、見せてもらえない仏像もありますが、そうではなく、仏像と好きなだけ顔を合わせて対話をすることができるお寺もあります。 有名観光寺院の場合、「順路」といったものができていて、前に進まないと後ろの人が困るような状態のお寺もありますが、拝観料を支払って入るお寺でも、そこで好きなだけ時間を過ごすことができるお寺もあります。 キリスト教やイスラム教では「偶像崇拝の禁止」という考え方がありますが、仏教では「偶像崇拝の禁止」という考え方はなく、懐奘(えじょう)編『正法眼蔵隋聞記』(和辻哲郎校訂 1982改版 岩波文庫)には、≪ 或禅師の会下(えか)に一僧あり。 金像(こんぞう)の仏(ぶつ)と亦仏舎利とをあがめ用ひて、衆寮(しゅれう)にありても常に焼香礼拝(せうかうらいはい)し恭敬供養(くぎょうくやう)しき。 有時(あるとき)禅師の云く、汝ぢが崇る(あがむる)処の仏像舎利は、後には汝がために不是(ふぜ)あらんと。・・・・仏像舎利は如来の遺蔵遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏に(ひとへに)是をう仰(うやま)ひて得悟(とくご)すべしと思はば還って邪見なり。 天魔毒蛇の所領なる因縁なり。・・・≫と書かれており、あまりにも仏像を重視しすぎるようではかえってマイナスになることもあるという認識もあるようですが、仏像を拝むことを通してホトケの道に入るという考え方があるようです。 大阪府池田市の久安寺http://kyuanji.jp/ に行った時、久安寺は楼門が重要文化財に指定された古くからの建物ですが、その他は比較的新しい建物が多いのですが、どのお堂でしたか、椅子が用意され、そこで時間を過ごし仏さまと向き合って対話ができるように設定されていたのを覚えています。 神社で会う相手は「神さま」であり、お寺で会う相手は、授与所でお坊さんと会うこともあれば、お寺なのに「巫女さん」みたいな格好しておねえさんが授与所にいたりすることもありますが、基本的には、ホトケと対話をする場であって、そこに坊さんがいたり参拝者がいたりしても、人と会いに行く場ではないわけです。
   ところが、キリスト教の教会では、キリスト教の神が教会にいるというわけではなく、誰と会いに行くかというと、人と会うわけです。 父は同志社に行ったことが縁なのか、キリスト教の教会で洗礼を受けたらしいものの、あまり、教会には行かず、母は父の影響でキリスト教の洗礼を受けて、教会に通うようになったらしく、私が生まれてからは、母のみが日曜に教会に行っていたのをよく見ました。 ひとつには、母は専業主婦でしたから、日曜くらい、教会にでもでかけて人と会いたかったのではないかと思えるのに対し、平日、働きに行っている父としては、日曜は休みたかったということもあるのではないかとは思います。 で、結局、教会というのは、「母の交友範囲」となったわけです。 だから、もしも、私が教会に行くとどうなるかというと、「説教」されるのです。 「母の交友範囲」のおばさんたちから。  それで、こちらがお金をもらう立場の時に人の「説教」を我慢して聞いてあげるのは多少はしかたがないということもあるでしょうけれども、休みの日に、なんで、カネ払って人の「説教」聞かされなきゃならんのだ?!? アホくさい、と思うようになったのです。 「神」とか「キリスト」の名のもとに人に「説教」して言いたい放題言ってやるのは気持ちいい♪ という人もいるでしょうけれども、それを聞かされる者の気持ちにも、たまにはなってみい〜い! て気がします。 そもそも、『聖書』には、6日間、働いて7日目には安息をとれと書いてあるのに、6日間働いた人間が、なにゆえ、7日目に、6日間、家庭の主婦やってた人に「説教」されるために「教会」に行かにゃならんのか・・・?

   学校の「懇談」というのが嫌だった。 担任の先生は「あなたたちのことを、お父さんお母さんに言わなきゃいけませんので」とか言うのですが、親の方は親の方で「あんたのことを、先生に言わなきゃいかんから」とか言うのです。 そして、「懇談」で息子の悪口を一緒に言いあうわけです。それで、多少は「すっとする」みたいです。 それくらいなら、まだ、いいのです。 「懇談」には私の親だけが行っているわけではなく、出席番号の近い生徒の親がそこに行って順番を待っているのですが、そこで、私の母は息子の悪口をせっせと言うわけです。 すると、母から話を聞いたよそのお母さんがその話を自分の息子に話して、翌日になると、それを聞いた息子がクラス中にその話をぶぅうわあ〜あ〜っと広めるわけです。 で、私よりよっぽど成績の悪いやつから、「おまえ、・・・・だってな」とか言われるのです。 嫌でした。 教会というのは、私にとっては、それを毎週やっている場ですから、なんで、カネ払って、もしくは、献金はわずかでも入れてもらえるので、カネ払ったうちに入らない額しか献金しなかったとしても、なんで、仕事でもないのにそんなことされに行かなきゃならんのか、と思うようになり、あほくさいから、もう、教会なんか行くことないと思うようになりました。 考えてみると、牧師さんというのは、人からカネもらって「説教」できるのですから、「いい仕事」かもしれませんね・・・。
そういうので、私は、教会とか礼拝とかいうのが、嫌いになったのです。

   それとともに、神から祝福された人間とそうでない人間というのもあります。 私は3人兄弟だったのですが、3人兄弟というのは、どうも、「良い子」「悪い子」「普通の子」というのができてしまうようなのです。〔⇒《YouTube―イモ欽トリオ ハイスクールララバイ (1981) 2》 https://www.youtube.com/watch?v=ig8pVko-rT0&list=RDig8pVko-rT0&nohtml5=False#t=25 〕  我が家では、上の姉が「良い子」で、下の姉が「普通の子」で、私が「悪い子」でした。 父はいつも毎日毎日何度も言っていたのです。 「人間には、人に命令する人間と人から命令されて服従する人間の2つの種類の人間がいてこそ、世の中は成り立つわけで、神さまというのは大変賢明な人であって、すべての人間を、人を支配する人間と人に支配されるための人間に分けてお作りになったわけや。 民族でもそうやろ。 ドイツ人とかアメリカ人というのは、人を支配するための民族や。 それに対して、チャンコロ! とか、ロスケ! とか、イタコ! とかは人から支配されるための民族なんや。 神さまはそうお作りになったわけや。 あんたはロスケでイタコでチャンコロや。 わかっとんねんな。 あんたは支配される民族、服従するための民族なんや。 これは、生まれる時点で神さまがそうお決めになったことであって、どんなにあがいても絶対に変えることはできないもんなんや。 わかっとるな、チャンコロ! おまえはチャンコロやねんぞ。 おまえは神さまがチャンコロとしてお造りになった民族やねんぞ。 その点、わしとかT子さん(上の姉)はドイツ人や。 おまえとは民族が違うんやぞ。 心得違いをおこすなよ、チャンコロ。 おまえはチャンコロやぞ、チャンコロ」と毎日毎日言われてきた。
   父と上の姉のほかには、誰が「ドイツ人」かというと、父の勤め先で父の部下で何でも父の言うことをきくらしいMさんと、それから父の親友の「医者」のM川。 それに、聖徳太子とヒットラー総統。 この6人が「キリスト教の6大聖人」で「ドイツ人」(⇒《YouTube−楽劇「ワルキューレ」第3幕より「ワルキューレの騎行」 ゲルギエフ》https://www.youtube.com/watch?v=ONfSjfTWJJU )らしい。 だから、「ロスケでイタコでチャンコロ」で「服従するための民族として生まれる時点で神さまから作られた人間」の私は、この「キリスト教の六大聖人」の言うことは「なんでもなんでも従わないといけない」そうだった。 但し、そういう「支配するための民族」とかいう人たちは、ひとつ、忘れていることがあるのだが、「支配するための民族」にとっては、「世の中の人間は、人を支配するための民族と支配されるための民族の両方が必要」かもしれないが、「人に支配されるための民族」の側からすると、「人を支配するための民族」などという連中なんか必要ない、ということを。
   で、父と上の姉と父の部下のMさんと父の親友の「医者」のM川とヒットラー総統と聖徳太子という、この6人が「キリスト教の六大聖人」で「ドイツ人」だったそうなのだが、聖徳太子って、日本人かと思っていたら、ドイツ人だったらしい。 もっとも、最近では、石渡信一郎『完本 聖徳太子はいなかった』(2009.9.20.河出文庫)なども出版されているが。

  ともかく、そういうことで、神から呪われている人間が何もそんな神さんを賛美する人たちの集会に行ってもしかたがないわけで、それで、キリスト教の教会というものが、もう、嫌になったのだ。 何しろ、キリスト教の神さんというのは、私を生まれる時点で「支配されるための民族」「服従の民族」としてお造りになったらしいので。 
ともかく、そういうことで、私は、キリスト教の教会もキリスト教も、そして、ドイツも嫌いになってしまったのだ。母は、ウィーンの楽友協会のニューイヤーコンサートに行ったのが、ものすごく感動したそうで、「一生に一度は行ってみるべきだ」と私に言うのだが、ドイツ・オーストリアには、仕事で行かなきゃならないなら行くが、おのれでカネ払ってまで行きたいとは思わない。なにしろ、「服従するための民族」「チャンコロでイタコでロスケ」ですから、「支配するための民族」の音楽なんぞ、聴きたくもない。 ロシア民謡の「ヴォルガの舟唄」の方がはるかにここちよい。〔⇒《YouTube―ЭЙ, УХНЕМ!(エイ、ウーニェン!)(ヴォルガの舟唄) 》https://www.youtube.com/watch?v=AfqO1HmLTT8&nohtml5=False 、《YouTube―Дубинушка России. Фёдор Шаляпин.wmv (ドビヌーシカ)》https://www.youtube.com/watch?v=__uAO0-PlsQ&ebc=ANyPxKo_z9kFwpca3cQhM2ywFBsfOjtH6-EAeDLqjeEXI0CvYF6kcYyru6Z6szNT-8utZXZUo5IkNvJE7-TyA5iDbDVNQl8O-g&nohtml5=False 〕

    それと、教会の牧師というのも、好きじゃないのだ。 母が行っていた教会の牧師Sが「家が貧乏やったから、大阪経大しか行けなかった。慶應なんか行かせてもらえなかった」と言っていたというのだ。 そうか? 貧乏だったから慶應に行けなかったというのか? 「大阪経大が一番学費が安い大学だったから」と言うのだ。 しかし、だ。「そんなに家が貧乏なら、大阪経大みたいな私立大学に行かずに、東大でも行けばいいじゃないか」と言うと、「東大なんて行ったら、下宿代や交通費がかかるでしょうがあ」と言うのだ。 「それなら、阪大(大阪大学)に行けばよかったのと違うの?」と言うと、「家が貧乏だから、阪大に行けるだけの勉強させてもらえなかったんでしょうがあ」と言うのだ。 要するに、成績が悪かったということだ。 それを、「家が貧乏やったから、慶應なんて行かせてもらえなかった」とか言うのだ。 父は、それを聞いて、「S先生は、大阪経大やぞお。 おまえとは違うんやぞ、チャンコロ。 おまえみたいに慶應なんか、行かせてもらえてないんやぞ。おまえとは違って大阪経大やぞ、わかっとんのんか、チャンコロ! ちゃんころ! チャンコロ!」とか何度も何度も言っていたのだが、慶應は国立大学よりは学費は高いが、私立大学の中では学費は安い方の大学で、私は大阪経大なんか行きたいなんて思ったことはないし、たとえ、思っても、大阪経大に行きたいなんぞ、とても、口に出して言うなどとは考えられなかったのだが、実際のところ、慶應は大学は早稲田大よりは昔から学費が安いのだが、大阪経大と比較してどうかというのは、「考えたことがなかった」のだが、S牧師さんだって、実際に慶應と大阪経大のどちらが学費が安いか考えたことはないと思う。 というよりも、そんなに貧乏だったのなら、日本育英会の奨学金をもらえば、日本育英会から「学費分」を出してもらえるのだから、寄付金の必要な金権裏口私立医大などは別として、どこの私立大学でも一緒のはずなのだ。 それを、何の恨みがあるのか知らんが、「家が貧乏やったから、大阪経大しか行かせてもらえなかった。貧乏やから慶應なんか行かせてもらえなかったんや」とか何度も何度も言いやがって、あの牧師野郎、十字架につけた上で火あぶりにでもしてやりたい! そもそも、大阪経大が私立大学の中で学費が安い方の大学であったとしても、大阪経大とトーシンダイ(東京神学大学)と私立大学を2つも行ったら、余計にカネかかるはずなのだ。 私が私立大学2つ行きたいなどと言ったら、うちの親は絶対にそんなもの行かせてくれなかったはずだが、「家が貧乏やった」人はそこが違うんだな。 そういう人の「説教」をありがたがって聞きに行きたいと思う人もいるようだが、私はなにしろ、「ロスケでイタコでチャンコロ」ですから、「大阪経大に行ったエライ人」のお話なんか、もったいなくて聞けませんわ。
    だいたい、「大学は小学校から高校まで勉強した人の行く所であって、小学校から高校まで勉強しなかった人間の行く所と違う」と私は小学校から高校まで父母からずう〜っと言われてきたのだが、その仮定からするなら、大阪経大なんぞに行く者が大学に行くというのが間違っていることになるはずだが。私が高校を卒業した時に東大の入試に落ちたところ、私の親は「高校は義務教育と違うのだから、あんたなんか、高校に行ったのは余計や」と何度も何度も耳鳴りがするくらいに言いまくったが、「親というものは、自分の息子のことは、よその息子よりもいいようにいいように考えるものだ」とか言いながら、実際には、私には「高校は義務教育と違うのに、あんたが高校に行ったのは余計や」とか言いながら、大阪経大なんぞに行ったヤツには、私に言うこととずいぶんと違う。 そんな男が調子にのって「牧師説教」とかで、「家が貧乏だったから大阪経大しか行かせてもらえなかったんや」だの「債権者に追われて苦労した。こういう苦労を経験した人間は、どんなことだってできる」とか(要するに、払うべきカネはらわずに逃げた人間はエライと言いたいんだな)そういう話を毎度毎度するのを聞かされに教会に足を運ぶ必要があるか、というと、それで給料もらえるならしかたなしに行くかもしれないが、なんで、休みの日にカネ払ってそんな話を聞いてあげなきゃならんのか。

    実際のところ、牧師を見ると「大阪経大のエライ人」を思い出して不快指数が上昇するので見たくないし、キリスト教の神からは「支配されるための民族」と指定された人間なので、そんな神を賛美しに「教会」なんぞ行ってもしかたがない。
    何度も何度も、「おまえは神さまから『支配されるための民族』と決められた人間やねんぞ」と言われ続けてきて、その言葉が耳鳴りのように聞こえるのだが、ある時、思い出した。 「キリスト教の六大聖人」の1人であるヒットラー総統と同じドイツ人のひとり(ニーチェ)が述べていたことを。 即ち、「神は死んだ」と。 神が死んだかどうかはさておき、≪「常に人から支配されなければならない民族」「服従するための民族」と「常に人を支配しなければならない民族」「人を服従させるための民族」に人間を2つに分けてお造りになる神≫とかいうものは死んだのだ。 だから、そんなみみっちい「神」の呪縛を気にすることもない。 たとえ、生きていても、≪「人を支配するための民族」と「人に支配されるための民族」に生まれる時点で人間を2つに分けてお造りになる神さま≫などというものを、休みの日にわざわざ時間とられて讃美させられる理由もないので、教会なんぞ、行く理由はないことになった。

    日本基督教団東梅田教会 がいいと思ったのは、
1. 「使える教会」だと思ったこと。
   東京都文京区の「世界の丹下健三」が設計したという東京カテドラル聖マリア大聖堂は、けっこう広い敷地があるのに、無駄な作り方。 それと対照的に、敷地を有効利用している。
   東京カテドラル聖マリア大聖堂は、せっかく、ある程度以上の広い敷地があるのに、暗い! そもそも、「教会堂は暗いのが基本」ではないと思うのだ。 東梅田教会は、普通に採光が採れているのではないかと思えるところもあるが、窓が少ないようにも見えて、実際にどうなのかは、この点は、中に入らせてもらわないとわからない。

2.  そして、「人を引き寄せる素材」を使用していること。 「人を引き寄せる建物」であること。 東京カテドラル聖マリア大聖堂は、ステンレス鋼を使用して、素材からして、「はね返す素材」であり、そして、威圧感があり、「世界の丹下」とかそういう「エライ人」でないと入ってはいけませんよ! と言っているような外観である。 実際に行ってみると、「中を見せていただいてもよろしいでしょうか」と言うと、「どうぞ、どうぞ」と言ってもらったのですが、どうも、外観が威圧的で「人をはね返す」印象がある。 それに対し、東梅田教会は、人を招く、人を吸い寄せる外観デザインであり、その点は、教会としてふさわしいと思った。

3.  東京カテドラル聖マリア大聖堂は、竣工時から雨漏れがしたというが、「建築家」がそういうものを設計すると「さすがに世界の丹下」とか言ってほめてもらえるようだが、「建築屋」がそんなことしたら、ぶっ壊して立て直せ! と言われるところである。 東梅田教会は一粒社ヴォーリズ建築事務所という「設計事務所」の設計らしいが、「竣工時から雨漏れ」しそうて感じではない。

   内容のある本は、3回くらい読んで十分に内容がわかるという説があるが、建築もそうではないかと思う。東梅田教会は、今回、2回目の訪問だが、1回目に気づかなかった点で2回目に気づくものがあった。↓
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前川國男は、上野公園内の東京都美術館でも、熊本県立美術館でも、壁面に「穴あきタイル」を使用している。 「穴あきタイル」が好きなんだなと思って、東大本郷の山上会館を見に行くと、山上会館でも、やはり、「穴あきタイル」が使用されていた。 さすがに、ここはないのじゃないかと思って、新宿の紀伊国屋書店本店に行って見ると、紀伊国屋書店本店でも「穴あきタイル」が使用されていた。(但し、紀伊国屋は、その「穴」を掲示物をとめるのに使ったりもしていたのだが。)  最初に東京都美術館で見た時は、これは、施工上のものなのかデザイン上つけられているものなのか、どちらだろうと思ったのだが、デザインの上でつけられているもののようだ。 その「穴あきタイル」が、一粒社ヴォーリズ設計事務所の設計の東梅田教会の壁面にもあったのだ。 しかも、東梅田教会の壁面のタイルでは、出っ張ったところだけでなく、へっこんだところ(「目地」状の部分)にもあるのだ。 
   ↑の壁面の写真はクリックすると大きくなるので、ぜひ大きくして見ていただきたいと思うが、タイル貼りでも、その素材によって印象はずいぶんと変わると思う。 教会堂というものは、人を招き寄せる存在であるべきだと思うのだが、東梅田教会では壁面のタイルも「人を招き寄せる」素材のタイルが使用されていると思う。 また、この「穴あき」も「人を招き寄せる」要素となるものだと思う。 この点で、「ヴォーリズの設計」ではなく、「一粒社ヴォーリズ設計事務所」の設計であるが、この東梅田教会の建物を私は評価したいと思う。

[参考]  《日本同盟基督教団 「教会と国家」委員会 君が代強制反対キリスト者の集い報告 委員 柴田智悦(横浜上野町教会 牧師)》http://domei.biz/x/modules/b_committee/?page=article&storyid=76
≪・・・「日の丸・君が代」強制は人間の本質に関わる問題を包含しています。強制は個人の尊厳を踏みにじり、国家が個人の上に立つことであり、国家権力に対する個人の自由を保証している現憲法を覆そうとするものです。 ・・・≫

   東梅田教会の南東の野崎公園では、桜がきれい。↓
画像


   ところで、東側の、この「×」だらけの建物↓、なんだろ・・・?
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↑ と思うと、北税務署https://www.nta.go.jp/osaka/guide/zeimusho/osaka/kita/ )・・・でした。
耐震補強なのでしょうけれども、ここまで、「×」だらけというのも、なんだか・・・・。

※ 日本基督教団 東梅田教会HP http://www1.odn.ne.jp/higashiumeda/

    (2016.4.10.)

★  次回http://tetsukenrumba.at.webry.info/201604/article_2.html 、日本基督教団扇町教会 などについて述べます。 日本基督教壇東梅田教会と扇町教会は、いずれも、日本基督教団に所属するといっても別の教会ですが、近くにあり、今回、同日に訪問(といっても前まで行っただけですが)しましたので、2部作として公開いたします。


☆ 日本の教会建築シリーズ
東京都
日本キリスト教団 本郷中央教会[東京都文京区](ヴォーゲル)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201412/article_1.html
日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂(ニコライ堂)(ミハイル=シチュールポフ + ジョサイヤ=コンドル) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_2.html

神奈川県
慶應義塾大学 YMCAチャペル[横浜市港北区](ヴォーリズ)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201206/article_3.html
日本キリスト教団 清水が丘教会[横浜市南区]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201309/article_1.html

大阪府
日本キリスト教団 南大阪教会[阿倍野区](村野藤吾)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201206/article_2.html
カトリック大阪梅田教会[北区]《1》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201405/article_1.html
同 《2》
高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)[高槻市] http://tetsukenrumba.at.webry.info/201510/article_2.html
日本キリスト教会高槻教会[高槻市]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201510/article_4.html
日本基督教団東梅田教会(一粒社ヴォーリズ建築事務所) 〔今回〕
日本基督教団扇町教会 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201604/article_2.html

兵庫県
神戸文学館(旧・関学 ブランチメモリアルチャペル)[神戸市灘区](ウィグノ―ル)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201311/article_1.html 
日本基督改革派神港教会・カトリック六甲教会[神戸市灘区]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201312/article_1.html
関西学院教会 と 関学 ランバス記念礼拝堂(一粒社ヴォーリズ建築事務所)、関学神学部棟(ヴォーリズ) 他[西宮市]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201405/article_2.html
カトリック夙川教会[西宮市] http://tetsukenrumba.at.webry.info/201406/article_1.html

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