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zoom RSS パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」―YMCA予備校の間違い≪2≫ 

<<   作成日時 : 2015/11/22 19:37   >>

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[第224回]私のドラゴン桜(2)
【2】  気分転換には、近所のプールで泳いでくるのはだめでパチンコをするべきか?
  YMCA予備校高槻の「主事」だという藤井は、「前に、夏に泳ぎに行って溺れた者がいたが、海水浴に限らず、近くのプールでも泳ぎになんか行かないように。 気分転換はパチンコとかにするように」と発言したのです。 それはおかしい、と思ったが、「それはおかしいと思う」と言うと、藤井は「きみは人間性に問題がある」とか言い出すのです。 「きみのように上役に逆らう者は会社員は無理だから経済学部は行ってはいかん」と言うのです。「上役」とは誰のことかというと、藤井のことらしいのです。おまえ、いつから俺の「上役」になったんだ?!? YMCAの職員には、予備校生の側がカネを払って行っているのであって、YMCAの職員は予備校生の「上役」ではないはずで、いったい、何さまのつもりなんだ!?! と思いましたが、そういう男でした。
    私は、「大学生」になった時に、東京で民間の紹介会社の紹介で高校3年生の家庭教師をやったことがありますが、高校3年の夏休みに友達と伊豆七島のどの島だったかに海水浴に泊りがけで行くというので、「ある程度以上の大学に行きたいという高校生で3年の夏休みに海水浴に泊りがけで行くというような人間、今まで、聞いたことないよ。 それはやめた方がいいのと思うよ」と言いましたが、彼は私の忠告を聞かず、泊りがけで海水浴に遊びに行きました。 そもそも、家庭教師に来てもらうということで約束した日の約束した時間に行っても、遊びに行っていないということがしばしばある男でしたから・・・、まあ、そんなもんか・・とも思い、「替わってやろうか」と何度も思いました。やる気のないやつに勉強させるよりは、自分がやる方がよっぽどやりやすい。 友だちと一緒に海水浴に泊りがけで行くというのは、やめた方がいいと思います。 しかし、高校の時には3年の時に体育の授業だったあったわけです。 高校までスポーツもそれなりにやってきて、体の調子はスポーツもある程度はやるというペースでできているのです。 だから、夏には、2回や3回、近くに市民プールに行きたければ行ったっていいと思うのです。 私は。行きたくなければ無理に行かなくてもいいし、「近くの市民プール」に行くと、高校まで同じ学年で大学に通ったやつに会うから気分が悪いというなら、「多少、遠くの市民プール」でもいいけれども。
   それに対して、パチンコというのは、18歳未満はパチンコ屋には入場禁止だったはずなんです。 高校生でパチンコをやっている人間というのは「不良」というように見られていたはずです。 もっとも、今、考えてみると、パチンコをやる高校生は「不良」だと言われても、パチンコて、どんだけ悪いことしているかというと、実際のところ、「単に、玉を穴に入れるだけ」であって、別に人を殺すわけでも傷つけるわけでも何でもないので、そこまで「不良」というものかいな・・という気もしないでもありませんが、世間では18歳未満は入場禁止になっているものを、浪人生は18歳になっているとしても、世間で18歳未満禁止とされていて同じ受験生である高校3年生は「入場禁止」の対象であるパチンコを、あえて勧める必要があるとは思えません。
   それまで、体育の授業だってあって、運動部に属していた者でもそうでない者でも、多少はスポーツをするのが生活リズムになっている人間としては、夏、1回や2回、遠くないプールに泳ぎに行ったとしても、むしろ、それで体調がよくなって勉強もはかどるのなら、1回や2回、行けばいいと思うのです。 それに対し、今までやったこともない「不良」の遊びと認定されているパチンコなどに手をつけると「体調を崩す」「ペースを崩す」と思います。
   なぜ、YMCA予備校の藤井がパチンコを勧めるか。 これは、はっきりしています。 文化的・創造的な娯楽を否定したいのです。 経済史の学者である大塚久雄が『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房)の中で、学問というものは、特に革命理論というようなものでなくても、どんなに保守的な学問でも真面目に精進して取り組めば、その学問から出てくる認識と現実の社会とが相いれないというもの、「緊張関係」とでもいうものが必ず出てくるものだ、といったことが述べられていましたが、私もそう思います。 そういった「緊張関係」を生かしてこそ、民主主義の社会が構築されるのであり、そういった「緊張関係」を否定し、学問を現実の社会に合わせようとするならば、それは学問の自由と民主主義を否定するもので、ファシズムの主張と言うべきものです。 YMCAの藤井がパチンコを奨励したのは、スポーツでも芸術でも文化的な娯楽をしたならば、必ず、その娯楽自体が文化的・思想的意味を持ち、現実の社会と「緊張関係」とでもいうものを持ってくるのに対し、パチンコなどの退廃的なものをやる限りは、「社会との緊張関係」は生まれてこない。だから、パチンコなどの退廃的な娯楽をさせるようにするべきだ、という考え方です。 「受験」にかこつけて、YMCAはそういうことをするのです。 民主主義の敵です。
〔 ≪ (スパルタ人は)ヘイロータイには、卑しい歌や踊りだけを命じ、自由人の歌や踊りはこれを禁止したという。・・・≫太田秀通『スパルタとアテネ‐古典古代のポリス社会』(1970.8.20.岩波新書)「4 スパルタ‐その国制の特徴」  YMCAは「受験」を理由にして、受験生から文化的・創造的な思考をはく奪しようとしていたのである。 〕
〔≪ アリストテレスは『政治学』においてプラトンを批判し、・・・・ 奴隷はそれぞれ種族を異にし、気概のないものどもがよい、というのがアリストテレスの考え方であった。奴隷のそのような性質がよいとされた理由は、仕事の点からは有用であり、革命をおこさないという点からは安全であるから、というのであった。≫(太田秀通『スパルタとアテネ』1970.岩波新書)〕
   但し、「文化的な娯楽」にはまってしまいますと、深入りしてしまって、受験勉強よりもそちらに熱心になってしまう危険もないわけではありません。 早稲田なんとかセミナーが発行していた司法試験(今はなくなった旧型司法試験)の受験案内書に、「今年、司法試験に合格した人、100人にききました。答えは7つ。 司法試験に合格しない人のタイプというと、どういうものだ?」というような記事があり、私が、なるほどと思ったものに、「あまりにもストイックな人」というのと、「あまりにもアカデミックな人」というものがありました。 この2つは、旧型司法試験だけでなく、大学受験にもあてはまるのではないかと思います。 「あまりにもアカデミックな人」には、学習している内容を掘り下げて行って、相当に勉強して相当のものを身につけておきながら、受験においてはあまり良い点数をとれない、という人もいるのではないかと思います。 というより、私自身、そういうところもありましたし。 だから、「あまりにもアカデミック」という方向に進むと、大学受験にはかえってよくない場合もありますよ、ということを教えてあげるのであれば、良心的だと思いますが、YMCAの場合はそうではないのです。 文化的・創造的なものを否定し、パチンコの類を奨励するのです。 「あまりにもアカデミックな人」は旧型司法試験に対してだけでなく大学受験にもかえって良くないところがあるかもしれませんが、あくまで、「あまりにも」です。 YMCAの藤井の言うことを聞いていると、少しでも内容のあるもの学問的に価値があるものは削り捨てようとするのですが、それをやると大学受験にプラスになるかというと、なりません。 現代国語・古文・漢文や世界史・日本史、あるいは政治経済・倫理社会といった科目で、学問的文化的に価値があるものを捨てて、受験技術のようなものだけで勝負しようとしても、できるかというと・・・、できるわけないでしょうが。 そういうアホなことをやらそうとするのです。YMCAは。 なぜ、そういうことをさせようとするのか、というと、アホだからです。

   藤井の話すことを聞いていて、この男、つくづくアホだな、この男、本当に勉強してないなと思いました。 そして、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と何度も何度も繰り返し繰り返し言うので、早稲田大学というのはまったくつくづくレベルの低いくだらないなってない大学なんだなとこの男を見て思ったのです。そんな大学には行きたくないもんだなあとも思いました。 そして、何の因果か、慶應大学に行って周囲の人を見て、もしかして、藤井は早稲田大学でも内部進学だから、だから、高校までの勉強をしてないし大学受験の経験もないからあんなだったのかなとも思い、もしかすると、スポーツ入学だったのかなとも思いましたが、さらに年月を経て、東京圏で実際に早稲田大学を卒業した人と会う機会があったりした上で考えると・・・・・、「あんな早稲田ないわ!」(笑)というのが結論でした。 学歴詐称でしょう。まず。 あんな早稲田ないわ、いくらなんでも。 慶應の共済部で、家庭教師のアルバイトの募集で、慶應義塾高校に行っている高校生で慶應の医学部に進学したいという人で、内部進学の人、できれば、内部進学で医学部に進学した人にお願いしたいという募集を見たことがあります。 そういうケースで内部進学の人に頼みたいというのはわかります。 私などは、大学生の時、英語や数学を見てくれと言われれば内部の高校生でも見ることはできたでしょうけれども、どうすれば内部進学で慶應の医学部に行けるか、なんてわからんもの。 だから、経験のある人にお願いしたいというのはわかります。 逆に、一般入試で大学に入ることは内部進学で進んだ人にはわからないでしょう。 YMCAの藤井もそれかなと思った時もあったのですが、そういうもんでもないと思います。 そうではなく、いくらなんでも、あんな早稲田ないわ! まず、学歴詐称でしょう。 そもそも、本当に出ておれば、自己紹介で1回、言うのは言って良いが、毎日最低3回は言わないとおれない、というような言い方はしないと思います。
   YMCAの藤井は「予備校生なんてもん、高校卒業したなんて言っても子供なんだから。 ぼくらは社会人の経験があるんだから。 社会人の経験のない子供がいい高校出てきたなんて言ったって、何もわかってないんだから」と言っていたのですが、浪人中の者が社会人の経験がないのはわかりますが、大学受験は社会人の経験が問われる試験ではなく、大学入試の科目で合格最低点を上回る点数をとれるかどうかの試験です。 社会人の経験がない大学生でも大学院生でも大学受験の経験のある者は自分の経験を話すことはできますが、「社会人経験」があっても東大や京大を受けたこともない受けたいと思うくらい勉強したこともない者には指導はできません。
   しかし、「社会人経験」というのは意味はないわけではないと今は私は思っています。私にしましても、「社会人経験」のおかげで、学歴といったものは、無警戒に誰にでも彼にでもべらべら話したりはしないという姿勢を身につけました。 彼が「社会人経験」を「売り」というのか「自慢」というのかしながら、「ぼくは早稲田の政経を出てるんだけどな」と誰にでも彼にでも一日に最低3度は言わないと気がすまない、というのは、もしも、本当に早稲田大を出てるなら、あんまり、「社会人経験」のある人間のやることという感じがしない。 何度も何度も「早稲田の政経でてる」と口にしたり、建築業界では「早稲田の建築でてます」とか言うヤツというのは、学歴詐称である場合が多い、というのは「社会人経験」で私が学んだものです。

   「会社っちゅうところ」にある程度以上勤めた経験のある者として言わせていただきますと、「早稲田の政経」てやつは、「学歴詐称の定番」ですからね・・・・( ^)o(^ )

   私にとっては、YMCA予備校による思想調査と学問的に価値があるものは削り捨てさせようという姿勢は、大学受験において大きくマイナスになりました。 かつ、私はそれをはっきりと口に出しては言っていないはずなのですが、言われていると思っていたのか、「そういう態度の人間は会社員は無理だから経済学部にはきみは絶対に行ってはいかん」などと言ったりする男、そういう男が「主事」だとしている予備校でした。 卑怯だと思ったのは、私が知らないうちに親に電話をして話をしたりしている時があったようなのです。 そうすると、私がひっかからなくても、親の方がひっかかってしまう時があったようなのです。 特に卑怯だと思ったのは、私が親に「あんなやつ、専門家なんてものではないし、東大とか京大を受けた経験もない人間だし、英語とか数学とか国語とかを教える教師でもなく教員の資格も持ってない人間なんだから、あんなヤツのいう事をきかないで」と言っても、「あの人はクリスチャンだから悪い人ではない」とかいうように信じ込まされてしまっていたようで、 「聖書なんて、あんなもん、価値のあることなんて、何ひとつとして書いてないんだから、あんなも〜ん!」と何度も大きな声で言う男が、「洗礼受けてるから」「献金はらってるから」ということで「敬虔なクリスチャン」と認定されてしまって、評価されてしまっているという点でした。 日本のキリスト教会はそういう洗礼の授け方、献金の受け取り方というものが良いかどうか、もう一度、考えてみてもらいたいようにも思います。

   「YMCA予備校に来るのに、サンダル・スリッパ・つっかけ履きはやめてもらいたい」とYMCA予備校では言っていた。 予備校とはいえ、学校であると考えるならば、通風とか水虫とかでない限り、サンダル・スリッパ・つっかけで来る所ではないと思うが、サンダル・スリッパ・つっかけ履きで来るのはやめてもらいたいという理由づけが何通りかあった。 高槻校の「主事」だった藤井は「前に、つっかけ履きで来た人が階段で後ろを歩いていた者に踏まれて転んで怪我をしたことがあったから」と言ったのだが、別の「主事」はそうではなく、「サンダルとかスリッパだと、廊下を歩く時に、パッカパッカと音がしてうるさいですから」と理由づけをしたのだ。 いいかげんなものだ。 今は昔、選挙の時に、民社党の春日一幸だったと思うが、「理屈は後から貨車で来る」と言ったという話が新聞に載っていたのを読んだが、YMCA予備校のサンダル・スリッパ履き禁止も「理屈は後から貨車で来る」ようだ。 私はサンダルだのスリッパだので行きたいと思ったことはないが、一生懸命理屈を考え出そうという態度というのは、あんまり感じが良いものではない。 「前に、夏に泳ぎに行って溺れた者がいたが、・・・」という藤井が言った話も、おそらく、嘘だろう。 海水浴で遭難する人は日本全国の海で過去にさかのぼれば、どこかにいたはずだが、「海で溺れた人があるから」と言い出せば、海水浴なんぞ、金輪際行けないことになる。 そうではなく、 「受験で頭がいっぱいの時には、気分転換に何かやるとしても、普段、やりなれないことをすると、失敗して思わぬ怪我をしたりすることもあるから、気分転換をするとしても、今までにやったことがあることで気分転換をはかる方がいいと私は思います」と言うならわかる。 私もそう思う。 その基準から考えると、18歳未満入場禁止のパチンコなんぞやるものではない。 パチンコをやるにしても、大学に入ってからにした方がよいと思う。
   又、「浪人すると体力が落ちる」という人がある。 慶應義塾大学新聞だったかに、慶應の体育会野球部の監督(誰だったか忘れた)が書いていたのだが、慶應野球部から社会人野球に行って西武ライオンズに入った鈴木哲という投手がいたが、彼は福島高校を卒業する時点でプロから誘われていたらしいが、慶應大学に行きたいと、その頃は実質、スポーツ入学である推薦入学の制度がなく、どんなにスポーツの能力が優れていても(江川でも)一般の入試で合格最低点を上回る点数をとれなければ入学を拒否していた時代の慶應に、2浪して入ったそうだ。 で、2浪して大学に入って卒業したならば、高卒でプロに入ろうという選手より、すでに6年遅れているわけだから、プロ野球に進もうと思ったならば、さっさとプロに行くべきだと思うのだが、さらに社会人野球を経てプロ入りしたものだから、西武ライオンズに入った時点で高卒で入る選手より8年も遅れた26歳だった。神奈川県の桐蔭学園高校の投手で甲子園では桑田・清原の時代のPL学園に準決勝だかで敗れた志村が推薦入学で慶應大学に入り、志村と鈴木哲がいた時代の慶應野球部は東京六大学リーグにおいて相当強かった・・・・が、鈴木哲は、もういい歳なんだから、プロに入りたいならさっさと入りゃいいのに、アホやな・・・て感じもせんでもなかったが、話が遠回りになったが、その鈴木哲が2浪して慶應に入った時、慶應の野球部の監督が書いていたのだが、「高校野球で活躍した投手が大学に入る時に1浪するともとに戻るのに1年かかる、2浪するともとに戻るのに2年かかる」と大学野球の世界では言うらしい。 だから、鈴木哲も1年の時は活躍は期待できない。期待できるのは3年からだろうと書いていたが、2年くらいから活躍しだしたように思う。 で、プロ野球の選手になるような人間でもそうだが、「普通の人間」「普通の受験生」でも、どうも、浪人すると体力が低下する場合が少なくないようだ。 だから、「浪人中は体力が落ちることがあるから、あまり過激なスポーツをして体を壊したりしないよう、あまりにも過激なスポーツは控えるようにした方がいいかもしれない」と、ひとこと言う、というのなら良心的かもしれないが、「近くのプールでも泳ぎに行くのはやめるように。 気分転換なら、パチンコとかにするように」というのはおかしい。 前年まで、高校生としてパチンコをやる人間は「不良」ということになっていたのに、やり慣れないことをやると、「体調崩す」可能性がある。 変なことを言うヤツだと思ったものです。

   ちなみに、1970年代後半、北野高校があった(今もあるが)大阪市淀川区の十三地区には、昼サロというものがあった。 十三駅から北野高校に行く道の途中にもあったのだ。 別にその前を通らなくても、昼サロとかはない道路を通って行くことはできたし、人畜無害なものしかない道路を通って通学するのが高校としては一応お勧めとされていたのだが・・・、高校生の時、おもしろがってその前を通っていた。 店のおねえちゃんだって、高校生を誘っても、カネもってないし、カネもってないヤツを誘っても仕事にならないから、いくらおもしろがって前を通っていても、誘わないし、おもしろがって前を通っているといっても、あんな店あるわとおもしろがっているだけで何かするわけでもないから、店の人間の方でも、わざわざ前を通る高校生をおもしろがって見ていたかもしれないのだが。 で、高校生の時、前を通っても誘われることなど絶対にないものだから、浪人中も同じ気持ちで、高校に行く用事があった時、その店の前を通った時、ミニスカートのおねえさんから、「おにいちゃん」と言ってお誘いの声をかけていただいたのだ。 今なら、別にどうってことないのだが、18歳から19歳にかけての時、浪人したために人間として堕落してしまい、そういう店に入る人間に見えるようになってしまったのだろうか・・と相当ショックだった・・・・・。 おねえさんの方はせっかく誘ってくれたのに、ね。〔実際は、堕落した人間に見えたかどうかというような問題ではなく、高校生の時は制服を着てるから、制服を着てる高校生を誘ったりはしないのに対し、浪人中は私服だから、だから誘ってくれたのだと思います。〕 今なら、入るかどうかはともかく、誘ってもらったことに、別に嫌がらないのだけれども、ね・・・・・(^◇^)  で、まあ、いずれにせよ、あまり、やり慣れないことはやらない方がいいのではないか、ということはあるとは思う。 「ビッグコミック」(小学館)に掲載されている『そばもん』というそば屋を扱った漫画で、プロの将棋差しのベテランの男が、将棋の試合の時には、食事はいつも同じそば屋に出前を頼むので、「そばがお好きなんですか」と質問すると、「いや、別にそばが好きということではないのだが、試合の時に、あれこれ、悩むのが嫌なので、これにしようと決めているのです」と答えたところ、「なんだ、あのそば屋もかわいそうに。 いつも、頼んでもらえるから、評価してもらえていると思えば、どうでもいいということだったんだ」「どうでもいい店だったということか」と話していると、そのベテランの将棋指しが、「あの店はそんないいかげんな店じゃない」と怒るという話があった。 将棋に神経を集中したい時、昼食に変なものを食べると、それが気になって将棋に集中できなくなってしまうことがある。 その点、そのそば屋は、いつ、頼んでも間違いのないそばを持ってきてくれる、ということで、そばが好きとかではないが、毎度、頼んでいたのであって、どうでもいいということで頼んでいたのではない、ということだった。 大学受験に集中したいという時に、今まで経験のないパチンコなどというものに手をだして、気持ちが乱れるというのは、受験にはマイナスだと思う。 泊りがけで遠くに何日も海水浴に行くというのはいいと思わないが、高校まで、体育の授業もあれば、授業以外にもスポーツはやってきているのだから、夏、1回や2回、市民プールに行って泳いでくるというくらいは、気分転換にもなれば、体力低下をいくらかなりとも防ぐという効果もあるかもしれないから、別に悪くないと私は思う。 逆に、やりなれないパチンコなど、やらない方がいいと思う。 昼サロのおねえさんに誘われたからといって、もしも大金持ちの息子であっても、浪人生がそんなところに行かない方がいいというのと同じく。 (おねえさん、ごめんね、せっかく誘ってくれたのに) 3年ほど前、北野高校のあたりに行ってみたのだが、その昼サロはもうなくなって、駐車場になっていた・・・・。

   それから、パチンコて、けっこう疲れると思いますよ。 水泳は、使うのは体で、頭の方は特に疲れないから、受験生には特別に過激で長時間でなければ特に悪くないと思いますけれども。 さらに・・、その頃はそうでもなかったかもしれないが、今日においては、きょうびのパチンコは「ゴルフより高い」から、カネのない浪人生にできるかどうかという問題もある・・・。

   私ら、今でも、夏でも冬でも温水プールで泳いでるよ♪ 仕事がうまくいってようがいってまいが。 それで体調管理してるんだから、時々は泳がないと体調が悪くなるもの・・・・。



【3】 「聖書みたいなもん、読むものと違うんだ。教会に行って献金はらっておけばそれでいい」というのは正しいか?  「敬虔なクリスチャン」は人から聖書をとりあげてよいか?
   「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて、何ひとつ、書いてないんだから、あんなもん、読むものと違うんだ。 あんなもん、読んでいいことなんて何ひとつないし、ましてや実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。 聖書なんて読まなくたって、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て献金はらっておけばそれでいいことなんだ」と、YMCA予備校高槻校の「主事」藤井から、何度も何度も執拗に言われるというのは、不快指数の上昇につながるものであったし、精神衛生上もよくなかった。 YMCAはキリスト教の団体を名のりながら、実際には、そういった発言を執拗に繰り返すことでキリスト教を弾圧していたのだ。
   「聖書みたいなもん、読むことないんだ、あんなもん。 聖書なんて読まなくても、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金払っておけばそれでいいことだ」とYMCAの「主事」という藤井は何度も言っていたのだが、慶應義塾大学に行ってそれと似たことを言う男に遭遇した。 慶應義塾という学校は福沢諭吉が創立した学校ということになっているが、江戸時代の終わりに福沢諭吉が創立した慶應義塾がどうであったかはさておき、現在の慶應義塾は福沢諭吉の思想・生きざまとは相当にかけはなれたものになっている。 かつ、福沢諭吉の思想・生きざまと相当にかけはなれた言動をとっている者が平気で「福沢精神」などと口にしたりしている。
    たとえば、三浦綾子『氷点 (下)』(朝日文庫)には次のような話が出ている。
≪ 「天は人の上に人を作らずか。 福沢諭吉ってのはやっぱりえらい男だな」
「福沢諭吉といえば、福沢の恋人がいたのを知っているかね」
「知らんな」
「旭川にその恋人の息子や、孫がいるんだがね」
「へえ。本当か」
「ああ、本当らしい。息子といっても、もう七十だ。 立派な人でね。 孫も慶応出の、できた人間だよ」
「ふうん。これは初耳だ」
「何でも、その恋人は福沢の血縁でね。 福沢は結婚を申しこんだが、身分がちがうとかで親に断られたそうだ」
「なるほど。天は人の上に人を作らずともいいたくなるわけだ」
「いや、福沢の思想とかかわりがあるか、どうかはわからんがね。 そんな話を人から聞いたことがある。 その恋人の孫などは、長いことわたしの知っている人間だが、福沢の身内だなんて一度もいったことはないがね」
・・・・・ ≫
慶應内部進学の女たらしに読ませてやりたいような気持にもなるが、まず読まない。慶應の内部進学どもは。「プレイボーイ」なら読むだろうが、三浦綾子の本など、慶應の内部進学の者はまず読まない。
   『氷点』に出てくる福沢諭吉の話と、慶應タイプの女たらしと見比べて見ると良い。 慶應タイプの女たらしのいったいどこが「福沢精神」なんだ? 「慶應ボーイ」とかいうハナの下の長いチューリップみたいなにやけた野郎のどこが福沢諭吉の生きざま・思想と両立するんだ?〔もしかすると、意味をわかってもらえないかなと思ったので解説します。 チューリップを横から見た状態を思い浮かべてください。「花」の下、長いでしょ。〕 正反対の態度に福沢の名前を使うのはやめるべきではないか?  『聖書』にも、「みだりに神の名をとなえてはならない」と書かれているが、福沢諭吉の思想・生きざまと関係のないものにみだりに福沢諭吉の名を使用するのはやめるべきではないか? ・・・・といったことを私などは考えるし、そう思って、慶應という学校は、その点で困った学校だなと不快に思っていたところ、同じ中学校・高校から慶應に行った某が私に言ったのだ。 「『福沢精神』なんて、別に福沢諭吉の本に書いてあるようなことと関係ないで。 『福沢精神』なんて言っていても、福沢諭吉の思想と何の関係もない。福沢諭吉の思想なんて別に実行しなくったってちっともかまわんのやで」と。 私が不快に思ったことに対し、その男はそうではなく、「福沢諭吉の思想なんて実行しなくったって福沢精神と言っておけばそれでいいんだ」と、むしろ、それを喜んでいたのだ。 まるで、YMCAの藤井みたいやヤツだ! と思った。
   YMCA予備校は良くなかった、けしからん予備校だったと言うと、「そんなこと言ったって、YMCA予備校に行っていて、京大に通った人間だっていたでしょう」といったことを言う者がいる。 いるだろう、たしかに。 それは、前回、述べたように、もともと、受験はマイナスになる要因がひとつでもあったら必ず落ちるというものでもない、プラスになる要因がひとつでもあったら必ず合格するというものでもなし、YMCA予備校がマイナスになっても、あるいは、YMCA予備校が別の予備校に行っておけばプラスになった箇所がプラスにならなかったとしても、それでも合格する場合はあるのだから、YMCA予備校がけしからん予備校であっても、それでも合格する人間が出てもおかしなことではない、ということもある、又、YMCA予備校高槻校は「京大東大文系クラス」と称したクラスを設置したので、当然のことながら、そういう名称のクラスを設置するからには東大の「文科」の試験問題に対する対策をおこなうであろうと期待して入った者がいるわけだが、実際には東大の「文科」の試験対策など何もしなかった・・が、もともと、大阪にある予備校だったから、過去の経緯から京大・阪大・神戸大に対してはそれまでからある程度は相関があったから、東大に入りたいという人間は期待外れだったが、京大・阪大・神戸大を目指す者には東大に行きたいと考える者に比べると期待外れではなかった点もあったはずだ。 しかし、それだけではない。福沢諭吉の思想・生きざまと関係のないこと、逆行する態度に「福沢精神」などと言う言葉を使用するのはやめるべきだ、福澤諭吉の著作・伝記を1冊も読まずに「福澤」「福澤」と口にする態度は福沢諭吉の思想・生きざまに逆行するもので慎むべきだ、と自然と考える人間、『聖書』を自ら読み、自分自身でその意味を考え、『聖書』を通じて神と対峙してこそ真のキリスト者ではないのか、と考える人間と、「聖書みたいなもん、読むことないんだ、あんなもん。 聖書なんて読まなくても、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金払っておけばそれでいいことだ」と何度も何度もそれが正しいと絶対の自信のもとに口にする人間、「『福沢精神』なんて、別に福沢諭吉の本に書いてあるようなことと関係ないで。 『福沢精神』なんて言っていても、福沢諭吉の思想と何の関係もない。福沢諭吉の思想なんて別に実行しなくったってちっともかまわんのやで」とそういう態度・風潮を喜ぶ人間、福沢諭吉の墓参りはしても福沢諭吉の著作・伝記を自ら読んで、その意味を自ら考えるということはしない人間とでは、後者の人間はYMCA予備校からにらまれることはなく、前者の人間はYMCA予備校からにらまれ敵視され、前者の人間はYMCA予備校が受験においても負担になり、マイナスになりやすく、後者の人間はひっかかりにくい。
   私は前者の人間だった、前者の人間になろうとしたのではなく、それが当たり前だと思っていたのだ。 「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて何ひとつ書いてないんだから、あんなもん、読むもんと違うんだ。聖書なんて読まなくていいんだ。聖書なんて読まなくたって、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金はらっておけばそれでいいことだ。 聖書なんて読むことないし、ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」などと思っている人間が、何も洗礼受けなくたっていいじゃないか。 そんなこと思っている人間が何もYMCA(ヤングメンズ クリスチャンズ アソシエーション)という団体の運営する会社に勤めることないじゃないか、と考えるのが普通、当たり前と思っていたのだ。 福沢諭吉の思想・生きざまと逆行するようなことをしたいなら、そこに福沢諭吉の名前をわざわざ出さなくてもいいじゃないかと考えるのは普通、当たり前と思っていたのだ。 特別のことを主張しているとは思っていなかった。 ところが、先の「『福沢精神』なんて、別に福沢諭吉の本に書いてあるようなことと関係ないで。 『福沢精神』なんて言っていても、福沢諭吉の思想と何の関係もない。福沢諭吉の思想なんて別に実行しなくったってちっともかまわんのやで」と言った男から、そういう認識の人間というのは、「アタマかたいなあ。 そんな態度では社会人としてやっていけないぞ。 福沢諭吉の思想と関係のないものに福沢諭吉の名前を使うべきじゃないとかそんな甘ったれたこと言ってるようでは、会社という所では生きていけないぞ」と言われた。 福沢諭吉の著作・伝記を1冊も読まず、福沢諭吉の思想・生きざまと逆行する態度を「福沢精神」だの「独立自尊」だのと言いまくるのが「会社員として生きて行くための大人の態度」で、福沢諭吉の思想・生きざまと逆行するようなものに福沢の名前を使うのは慎むべきではないかと認識する者が「甘ったれてる」というのはどういうことなのか?!? 逆と違うのか。 慶應タイプの女たらしが、何ゆえ、「福沢精神」なのか?!? と思うのだが、そういう認識の人間は「アタマが堅い」らしいのだ。で、福沢諭吉の思想・生きざまに逆行するものに平気で福沢の名前を使うような人間のことを「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか言うそうで、福澤諭吉の思想・生きざまに逆行する態度を平気でとってそれを「福沢精神」とかぬかすヤカラに逆らうと「協調性がない」とか「僭越」とか言い、そんなヤカラに同調しそんなヤカラを賞賛する人間を「慶大生らしく協調性がある」とか言うらしいのだ。 そういう人間はYMCA予備校の藤井などから「あくまで、受験という視点から見て、しっかりしている」とか言ってもらえるのだ。 毛沢東は「敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない。なぜなら、敵によって反対されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していないことを意味しており、敵によって反対されないなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味しているからだ」と、どこかで述べていたはずだ。(「どこかで」というのは調べれば見つかるはずだが、どこでだかはここではたいした問題ではない。) 「作家で精神科医」の なだ いなだ は、『娘の学校』(中公文庫)でだったと思うが、「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。 どのような人が受賞しているかで人の値打ちが決まるのだ」と述べていたが、同感である。 YMCA予備校や「慶應ボーイ」から賞賛されるなら、それはYMCA予備校や慶應ボーイと同様に腐敗していることを意味し、YMCA予備校や慶應ボーイから攻撃されるなら、それはYMCA予備校や慶應ボーイと同様に腐敗していないことを意味しているのであるから、それは大いに結構だ、たいへんすばらしい、と考えるべきことだ・・・・・、ということになるかもしれないが、その結果、YMCA予備校からは攻撃され、大学受験には障害になった。 「聖書みたいなもん、あんなもん、読むもんと違うんだ。 読んだらいかん。聖書なんて読まなくても、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て献金はらっておけばそれでいいんだ」とはっきりと発言し、そうすることで「敬虔なクリスチャン」と教会から認定を受けてYMCA予備校で仕事にありつき給料をもらえる、よかったよかった、と考える人間は、YMCA予備校と肌が合い、YMCA予備校は受験に特別にプラスにはならないが、マイナスになる度合いもそれほどは大きくなかった、というケースはあったはずだ。 

   YMCA予備校がとっていた 文化的・創造的な行動はわずかなものでもやめさせようとする行為と、「聖書」を自ら読んでその意味を考えるという態度を否定し、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金箱に賽銭いれてくるという行為でそれにかえさせようという動きは、いずれも、国民が自ら考えて判断して行動するという姿勢を否定する民主主義に敵対するもの、ファシズムの動きです。
   (2015.11.22.)


【4】 「過去をふりかえってはならない」か?

【5】 浪人すれば、「『通った人8人、落ちた人2人』というくらいの成績を模擬試験でとらないと受けてはだめ」か? 京大とか東大とかに「通った人8人、落ちた人2人」などというような成績をとれるか?

を次回 述べます。

☆ YMCA予備校の間違い
1.「特高右翼」YMCA高槻による思想調査 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_7.html
2.パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」 〔今回〕
3.「通った人8人、落ちた人2人の成績」を取らないと受けてはならないか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_9.html
4.1つの模擬試験はどこにも通じるか、「弱者の戦術」たる「戦力の集中」か? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_10.html
5.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(上) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_11.html
6.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_12.html
7.「地方の受験生は根性がある」か? 受験生に嘘情報を吹き込む予備校 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_13.html
8.英文はいちいち日本語に訳して書くべきか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_1.html 


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パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」―YMCA予備校の間違い≪2≫  哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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