問題ある高校だらけ【1】種無葡萄をむいてもらいスプーンで掬って食う男。「教育勅語のようなもの」を欲しがる「福沢精神」。「受験勉強の悪影響」「自我が確立されている」はどちらなのか。逆を言う「心理学者」。慶應の「英語(1)」のテキストはクズ。

[第508回]
【1】 慶應義塾高校・慶應女子高校など、系列大学のある私立高校、特に慶應系高校の特徴。
(1)  ひとの為に種無葡萄の皮を剥くのは大変。
  母が90代まで生きてくれたおかげで知ったことがいくつかあります。母は30代で私が産まれて迷惑だった、と言っていた(もちろん、父もまた、「おまえが産まれて迷惑なんじゃ、このチャンコロ。産まれなければ良かったのに生まれよってからに。産まれてきたことを反省しろ、チャンコロ、ロスケ、イタコ! プエルトリコ、浪商!」と毎日毎日言っていたのですが)、もしも、20代で産まれた息子なら、息子自身が、もう、70代ですし、20代で産んだ姉はもう70代になっていますから、30代で息子を産んだから、まだしも「世話をする側の息子」がいるとも言えます。
  昨年、夏から秋にかけて、母が本当に何も食べなくなってしまい、なんとか食べさせようとしても、なかなか食べず、苦労しました。種無葡萄を食べたいと10月頃、言うのでしたが、葡萄にも時期があって、他の葡萄ならスーパーにも置いていても、種無葡萄(デラウエア)は多くのスーパーにはもう置いておらず、5軒ほどまわって、やっとまだ置いていた店が見つかりました。 さらに「スイカはないか」と言うのでしたが、秋にはスイカなんて置いている店はありません。そういう時に役立つのがインターネットで、インターネットで検索すると、ハウスものだろうと思いますが、秋でもスイカを宅配する業者が見つかりました。
  種無葡萄(デラウエア)というのは実が小さいですから、自分で房からちぎって自分の口に入れるのなら何ら問題はないのですが、ひとに食べてもらうために皮を剥くというのは、これは相当大変です。 どうせ、私が皮を剥いて、それをスプーンで口に入れて食べさせるのならば、巨砲とか大きい実の葡萄にすれば、まだしも、その方が皮を剥きやすいのですが、食欲が衰えたおばあさんにとっては、実が大きいものは「威圧感」を感じるのか、食べようという気持になれないようで、実が小さいデラウエアなら食べられるか・・と思ったようでした。デラウエアの皮を苦労して剥いて、それで、スプーンですくって口に入れてあげて、なんとか、いくつか食べてもらうことができましたが、実が小さいデラウエアの皮をむくのは大変でした。

  今は「デラウエア」と言っている葡萄を、1960年代、私が子供の頃は「種無葡萄」と言っていたのですが、最近では実が大きい葡萄でも種のない葡萄が出てきていますが、かつては「種無葡萄」と言うと「デラウエア」のことでした。
  慶應義塾の内部進学の人というのは、私ら公立高校出身者からすると、理解に苦しむようなことを自慢にする人がいます。自慢でないとしても、誇りに思っているような態度を取る人がいます。 その例として、「幼稚舎から慶應」のT、慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應義塾大学経済学部 という「本物の慶應」の人、「独立自尊の精神を持っている」「福沢精神を身に着けている」「塾風をもっている」「思考が柔軟」「本物の慶大生」「企業はそういう人間を喜ぶ」「自我が確立されている」「受験勉強の悪影響を受けていない」「アイデンティティーを持っている」「ギャルにもてもて」・・・という(ことになっている)人ですが、私は彼から言われたのです。「種無葡萄なんて、おまえ、よく、そんなもの、食うなあ~あ!」と。 なんか、変なことしたか? ・・「よく、そんなもの」というのは「種無葡萄」「デラウエア」のことです。「福沢精神を身に着けている」人というのは、種無葡萄を自分でひとつひとつ、房からちぎって自分の口に入れるということはしないそうなのです。そのあたりが「独立自尊」です。そのあたりが「自我が確立されている」というもののようです。そのあたりが「受験勉強の悪影響を受けていない」というやつらしいのです。「そんなもん、種無葡萄なんて、ひとつひとつ、ちぎって口に入れるなんて、そんなめんどうくさいこと、できるかあ。おまえ、よく、そんなもの、食うなあ~あ! 俺なら、そんなもの、絶対にやらんわ! おまえ、よく、そんなことするなあ~あ!」と言うのです。私はそう言われたのです。「塾風を身につけている」という人、「本物の慶大生」と一緒に食事すると、なんと言いましょうか、「メシがまずくなる」。
  彼はこう言うのです。「ひとに皮を剥いてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うのなら、食わんこともないけれども、そ~んなもん、自分でひとつひとつ、ちぎって自分の口に入れるなんて、そんなめんどうくさい、そんな、おかしなこと、できるかあ~あ!」と。「独立自尊の精神を持っている」という人というのは、さすがに、デラウエア(種無葡萄)の食べ方も「独立自尊」のようです。公立の小学校・中学校・高校にいると、そんな食べ方する人とお目にかかることはまずありません。慶應義塾でこそ、そういうお方のお顔を拝ませていただけるのです。そういうのを「独立自尊」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「ギャルにもてもて♪」とか言うそうです。さすが、「塾風を持っている」人というのは違いますね。さすがですよ、さすが、さすが、さすが! すごいですよ、すごい、すごい、すごい、すごい!!! さ、す、が!!!
  もっとも、下級武士の次男だったかだった福沢諭吉が、誰やらに種無葡萄(デラウエア)の皮を剥いてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食ったか・・・というと、そんなことしてないと思うのですが、「福沢精神」というのは福沢諭吉が著作で述べたような内容のことでもなければ、福沢諭吉の生きざまに基づいたものでもなく、慶應の内部進学の人がやることが「福沢精神」ですから、ですから、福沢諭吉の主張や生きざまとは正反対のものでも内部進学の人がやれば慶應義塾においては「福沢精神」なのです。
   もっとも、辰巳はその「幼稚舎流種無葡萄の食べ方」というものを自慢のように言っていましたけれども、慶應と関係のない人にこの話をすると、聞いた人は誰もが「その人、かわいそうにねえ~え」と言いました。社長の息子のようですから、結婚するなら私なんかと結婚するより彼と結婚した方が女性にとっては絶対いいと思いますが(この点については絶対の自信がある)、種無葡萄をそんな食べ方しかできないというのは、「かわいそうにねえ~え」と思いますし、慶應幼稚舎なんて小学校ではなく公立の小学校に行っておけば、公立の小学校の1年・2年の担任の先生なら、なんとか自分で房からちぎって口に入れて食べられるようにしてあげようと考える人もいたのではないかと思うのですが、慶應幼稚舎の先生というのは、自分で房からちぎって口に入れるように教えてあげないのか・・・というと、公立の小学校の先生なら意識として「社長の息子であろうが貧乏たれの息子であろうが小学生であることに変わりはない」「すべての子供を平等に教育するのが公立の小学校の教諭の役目」というポリシーを持っている人が少なからずいるのに対して、慶應幼稚舎の先生というのは、相手は社長の息子だということがわかっているので、もしかすると、逆らうと怖いから指導できないのかもしれませんね・・・。
  『聖書』には「たとえ、全世界を手に入れたとしても、自分自身を失ってしまったなら何の価値があろうか」という文句があったと思いますが、ひとに種無葡萄の皮むかそうなんて思っても、むいてくれる人間なんて普通はなかなかないものをそれをむかせるというのは、考えようによってはものすごい贅沢なのかもしれませんが、私なら、そんな「贅沢」なんて味わいたくもない。たとえ、全世界を手に入れたとしても、種無葡萄(デラウエア)を自分で房からちぎって自分の口に自分で入れて食べることができないなんて、「かわいそうになあ~あ」と思います。かわいそうな教育うけてきとるなあ・・と思います。 私は慶應大学の卒業証書を一応いただきましたけれども、人間としてはあまり「慶應タイプ」ではありませんが、うちの父親は「わしは慶應やねんぞお~お。わしは慶應。わしはおまえとは違って慶應やねんぞお」と言っておりましたように、実際に行った大学は同志社であって慶應ではなく、小学校・中学校・高校・大学のいずれも慶應には行っていない人でしたが、「わしは慶應やぞお」と言いまくるだけあって、人間として「慶應タイプ」であり、それだけに、母が足を怪我した時、私が食事の準備をした時、「レタスとキャベツは、どっちがいいか」と私が尋ねると「キャベツ」と答えるおっさんで、「リンゴと蜜柑とどっちがいいか」と尋ねると「リンゴ」と答えるおっさんでした。キャベツで悪いことはないし、リンゴで悪いことはないのですが、その理由が問題で、「レタスは自分でちぎって食べないといけないけれどもキャベツはあらかじめ切ってある」「蜜柑は自分で皮をむかないといけないけれども、リンゴはあらかじめ切ってある」から、だから、キャベツ・リンゴの方がいいというのがおっさんの思考であったのです。なるほど・・と思いました。しかし、キャベツがあらかじめ切ってあるというのは、誰かが切っているから「切ってある」のであり、リンゴがあらかじめむいてあるというのは誰かがむいているから「むいてある」のです。それをうちの父親は「それは女の役目です。甘ったれなさんな」と言うのでしたが、姉2人が結婚して家にいなくなり、母が足を怪我して炊事場に立てなくなると、そうなると、その「女の役目」は誰がするのか・・というと、私に「むいてくれ」と言うのでした。それで、私は性別は男ですけれども、「それは女の役目じゃ。甘ったれるな」とされる役目を私がさせられることになるのでした。おっさんのために、キャベツを切り、リンゴをむくことになるのでした。むいてあげてもかまいませんけれどもね。しかし、レタスとキャベツならキャベツなら「あらかじめ切ってある」からキャベツの方がいい、蜜柑とリンゴならリンゴの方が「あらかじめむいてある」からリンゴの方がいいという判断をする「慶應タイプ」の判断については、やっぱり、このおっさんはこういう判断をするおっさんやったなあ・・て感じがしました。そして、おっさんは言うのでした、「これまで、あんたがわしに何かやってもらったことはいっぱいあるけれども、わしがあんたに何かやってもろうたことは何ひとつとしてないんやからな。何ひと~つ! 何ひと~つ!」と。あんた、今、俺がむいたリンゴ、食うたやろうが! あんた、今、俺が切ったキャベツ、食ったやろうが!・・・とも思いましたが、それでも、「わしは、今までからあんたに何かやってもろうたことは、何ひとつとしてないし、今後とも、あんたに何かやってもらうことは何ひとつとしてないんやからな。何ひとつ、何ひとつ、何ひと~つ!」とそう言いまくるのでした。「今後とも、わしがあんたの世話になることは何ひとつとして絶対にないんやからなあ」と言いまくったそんなおっさんの墓の掃除なんてやらない方がよさそうな感じもするのですが、私がやらなきゃ誰も掃除しませんから、やってますけれどもね。まあ、そういう人というのは世の中にはいます。母の弟にあたる叔父はラグビー選手でして、さすがにスポーツマンだけあって頭の中味はラグビーでできている人だったようで、父の葬式の時、その叔父は私に「うちの息子は男の兄弟は何人もおるからあんたに世話になることはないけれども、あんたは兄弟はおっても女の兄弟ばっかりやから、会社に勤めるのに保証人になってもらうにしても、頼めるのはうちしかないんやからなあ。そやから、これからは、うちは、今後、あんたに何か頼むことは何ひとつとしてないけれども、あんたはうちに頼むしかないんやから、これからは、あんたはうちには絶対に頭あがらんのやからなあ。そう覚えとけよお!」とひとの父親の葬式の日にそう言いやがった、そういう口をききやがった・・・のですが、それからたいして経たないうちに、長男(私からするとイトコ)の結婚式に出てくれ・・と当たり前みたいに言うてきよった。「今後、あんたがうちに頼むことはあっても、うちが、あんたに何か頼むことは、今後、何ひとつとしてないんやからなあ」とひとの親の葬式の日に言うたのはどの口や? ええ~え? この脳味噌がラグビーでできてる男、どの口が頼んどるのんじゃ~い?!? ・・・と思ったけれども、出てあげましたけれどもね。そのあたりの態度が「さわやかスポーツマンシップ」とかいうものなのかもしれません。そのおっさん、本人が言うには「ラグビー界」では「それなりの立場の人」らしいです。本人が言うには。名刺の肩書は「名誉教授」でしたし、私なんかと違っておえらいんみたいですね(笑) ラグビー界においてはおえらい人らしいのですが、別の見方をすると、あんなおっさんが「エライ人」ということは、日本のラグビー界て、どんなけ、アホやね~ん! て感じがせんでもないが・・。私なら、エライかえらくないかにかかわらず、ひとの親の葬式の日にそういう口はききませんけれどもね・・。 世の中、そういう人はけっこういます。特に、「頭がラグビー」の人の言うことにいちいち腹立てるのは大人げない・・と思いますが、それにしても、ひとの親の葬式の日によく言ったものだと思いますが、そういう人はいます。 母が言うところの「貧乏人のボンボン」だったうちの父親、「貧乏人のボンボン」というのは、「ボンボン」は金持ちとは限らないわけで、貧乏人の息子でも「ボンボン」はいるわけで、ちっともお金のない家だったのに、それにもかかわらず、「ボンボン」だったというのですが、たしかに、キャベツとレタスなら「キャベツならあらかじめ切ってあるからキャベツ」、蜜柑とリンゴなら「リンゴならあらかじめ切ってあるからリンゴ」という発想をみると、たしかに、「貧乏人のボンボン」て感じがしましたし、自分で「わしは慶應やぞお、わしはあ。わしは、おまえとは違って慶應やねんぞ、慶應」と言いまくるだけあって「慶應タイプ」だなあと思いましたが、その「民族が慶應」「民族の慶應」らしいおっさんにしても、さすがに「ほんまは慶應」ではあっても実際には慶應でないだけあって、種無葡萄(デラウエア)をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うという「幼稚舎流種無葡萄の食べ方」はしませんでした。自分で房からちぎって食っていました。そのあたりが「ほんまは慶應」と「ほんまに慶應」の違いだったのかもしれません。種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うという「慶應タイプ」の種無葡萄の食べ方というのをやると、もしかすると「ギャルにもてもて」とかになるのかもしれんが・・・・、そんな「ギャル」なんてのにもてたくないなあ、そんなのに・・・・と私なら思う・・。たとえ、全世界を手に入れたとしても、種無葡萄を自分で房からちぎって食うことができないようでは何の価値があろうか・・・・と、『聖書』にそのままではないが似た文句が載っていたが、そうだと思う。

  私は、T(慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應義塾大学経済学部)の言うことを聞いて、こんな程度の低いやつと一緒の学校になんて行かされたくないものだなあ・・・と思ったし、なんで、こんなやつが大学になんて行くのだろう、義務教育でもないのにこんなやつ、高校だの大学だのなんて行く必要ないのに、なんで、こんなやつ、大学に行くのか、とも思った。 私は幼稚園でも小学校でも、「葡萄は自分で房からちぎって自分で口に入れて食べるものです」と教えられてきたのです。小学校に行く前からそうやってきたのです。小学校に行く前からそういう教育を受けてきたのです。慶應の内部進学の人、特に「幼稚舎から慶應」の人というのは、その点で、私などとは受けてきた教育が正反対だったのです。なんか、こいつら、かわいそうな教育うけてきとるなあ~あ・・・と思ったのですが、Tらはそれを自慢にしており、そして、Tは私にこう言ったのです。「外部のやつを教育してやらんといかんからなあ」・・・と。・・・おまえが教育されんといかん人間だろうが、おまえが!!! 何をわけのわからんことを言うとるか、何をわけのわからんことを!!!
  さらに、彼は私に言ったのです。「こらあ、剥けえ~え!!!」と。 ・・・慶應の内部進学の人間は、大学だけ慶應大学に行った人間のことを「(慶應の)外部の者」「(慶應の)外部のやつら」と言います。そして、「外部のやつを教育してやらんといかんからなあ」・・と言うのです。種無葡萄(デラウエア)をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う人、いわゆる「独立自尊の精神を持っている」「自我が確立されている」「福沢精神を身に着けている」という人が。
  私は小学校の1年から、同級生が遊んでいる時も毎日毎日勉強してきたのは、こんな程度の低い人間の下男をさせられるためではありません。北野高校の音楽のN川先生が、私が浪人中に「1年までよ」と言われたことがあったのですが、この「1年まで」という意味は、浪人というのはあまり長くやらない方がいい、但し、一生懸命、勉強してきたのだから、この大学に行きたいと思うなら、もしも、現役で通るかどうかはわからないが1年浪人すれば通るということならそれも選択肢にあるが、しかし、あまり長くは浪人しない方がいい、という意味を言われたのだと思うのですが、音楽の先生というのは、N川先生にしても卒業されたのは東京芸大のピアノ科だったそうで、東大・京大・阪大といった大学を受けた経験のない人ですから、そのあたりについての認識は必ずしも、自分自身が東大・京大・阪大などに行こうとした人間の意識とは一致しないところがあったかと思います。私も「1年まで」という言葉を考えたことがありましたが、それは「1浪まで」という意味ではなく、「種無葡萄(デラウエア)をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男」の下男させられる大学なんて、そんな程度の低い、卑しい大学になんか行かされるくらいなら、「あと1年」余計に浪人すれば東大に行けるのなら、その「1年まで」ならその「1年」はかける値打ちはある、という意味です。1浪しても大学入学時は19歳、2浪しても20歳です。人生70年と考えても80年と考えても、それから後の方が長いのです。それを考えると、「種無葡萄(デラウエア)をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男」の下男にならされるための「大学」みたいなものに、カネ払って行かされるくらいなら、そこであと「1年まで」浪人すれば東大に行くことができるのなら、その1年はかけるべきであり、その1年はかける価値がある! と思いました。ふざけんな! 種無葡萄を皮むいてもらってお皿にもってもらってスプーンですくって食う男の下男にならされるために、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強してきたのではないわ!!!  日吉台学生ハイツで、同じ階に住んでいた男で、天王寺高校卒で、東大を受けたけれども2浪しても落ちたらしい男が、慶應大商学部には合格して入学はして、そのまま、受験勉強をして、結局、3浪で東大の文科1類だったかに合格して3浪で東大に行ったと聞きましたが、私も、もう1回受ければ通った・・・と思う。 「1年まで」というのは、「1浪まで」という意味ではなく、高校卒業時の成績からすると法政あたりでも合格できるかわからんという人間が、「1浪まで」して慶應の入試科目だけ学習して1浪で慶應大に入学した・・という「慶應タイプ」のような人のことを言うのではなく、小学校の1年から真面目に努力して学習してきたのに、「種無葡萄をひとに皮むいてお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男」の下男にならされる「大学」みたいなもんに行かされるくらいなら、「1年まで」なら余計にかけても東大なりに行くようにした方がいい、という意味である。N川先生は意味を間違えていた。その「1年」はかける価値はある。そうすれば、「種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男」から、「こらあ、剥けえ!」とか言われなくてもすんだ、そういう男から「外部のやつを教育してやらんといかんからなあ」などという戯言を聞かされなくてもすんだ。・・こういうことを言うと「受験勉強の悪影響だと思います」と「慶應心理学」から言われるのです。「心理学」というものはそういうものだったのです。「心理学」というのはそういうものなのです。・・こういうことを言うと、なんとかかんとか症候群にかかってるとか、なんじゃもんじゃシンドロームだとか小此木啓吾から「レッテル」貼られますけれどもね。怖い、こわい、怖い、こわい!!!
  そういう「種無葡萄をひとに皮むいてもらって、お皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男」のことを「塾風をもっている」「独立自尊の精神がある」「福沢精神を身に着けている」「自我が確立されている」「思考が柔軟」「アイデンティティを持っている」「受験勉強の悪影響を受けていない」「スマート」「企業はそういう人間を喜ぶ」「ギャルにもてもて」・・と慶應義塾では言いますし、「慶應心理学」はそう「診断」するのですが、最後の「ギャルにもてもて」というやつについては、そういう人というのは、私なんかとは違って、たいてい、社長の息子とかですから、「ギャルにもてもて」というのはわかります♪ 「でも、結婚するには、いいかもしれない♪ ぱっぱやっぱ、ぱっぱやっぱ、ぱっぱっぱ♪」てものでしょう。〔⇒《YouTube-シャインズ 「私の彼はサラリーマン」》https://www.youtube.com/watch?v=RykB69Hzn6I 〕 「労働者を搾取してオーナー経営者一族だけが私腹をこらして・・というカール=マルクスが描いた古典的資本主義のような会社」、「西欧では労使間の団体交渉などで資本の側が労働の側にいくらか譲歩することで資本制経済を維持するシステムが出来ていたのに対して、ロシアにおいてはそういったシステムはなく根底からひっくり返すしかなかったというロシア革命以前のロシア型資本主義の会社」のオーナーとして、種無葡萄を皮むく係の女中さんが家にいて、皮むいて差し上げるのでしょう。そういうのを「スマート」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか言うのですが、そういう男と結婚する方が、たしかに、私なんかと結婚するよりも、女性にとっては間違いなく幸せでしょう・・・、これだけは絶対に間違いないと思う。一緒に食事すると間違いなくメシがまずくなりますけれどもね・・・。

  母が90代まで生きてくれたおかげで、実際に、ひとに種無葡萄(デラウエア)の皮をむくという経験をした・・・が、大変なことだった。蜜柑の外皮を剥くとか、林檎を剥くとかいうのとは意味が違う。葡萄でも巨砲とかマスカットとか比較的実が大きい葡萄と違って、デラウエアのあの小さい実の皮を手で剥くのは大変だ。それを、ひとつ、ひとつ、剥いてお皿に盛るというのは大変だ。 しかし、病人とか90代のお婆さんにそれをやるのならわからないことはない。 10代・20代の体は元気な「慶應ボーイ」「ギャルにもてもて」とかいう男に、それをさせられる女中さんというのは、それは人間の仕事ではないと思う。相当、給料高いのかもしれないが、いくら、給料高くても、それは人間の仕事ではない。
  慶應幼稚舎というのはそういう教育をしている学校らしい。「普通じゃない」と思う。
  私が行った公立の小学校にも、中小企業のオーナー社長の息子らしい男が同級生にいた。 公立の小学校だから、オーナー社長の息子であろうが安月給のサラリーマンの息子であろうが関係なくつきあっていたのだが、1960年代後半、小学生が公園に遊びに行く時、我が家もそうだったがたいていの家では、20円持たせてもらって行った。我が家より北側に「自由公園」という名前がついていた広場があって、今はそこはマンションになってしまったが、その前に子供を相手にした店があり、今で言うUFOキャッチャーでお菓子がつかめそうでつかめないという機械が10円、それ以外に、カッパえびせん の小袋やチョコバーが10円。合わせて20円。我が家より南側に神社があって、その神社の前にも子供用の店があったが、そこにはUFOキャッチャーはなかったが、南側の神社の公園に行く時も20円もらって行ったものだったが、同級生はたいていそんなものだったのだが、そいつだけは、500円とか1000円とか持ってきていた。なんで、そんなお金を持ってくるのかと不思議だったが、彼は「慶應幼稚舎みたいな人間」だったのだろう。だから、今、思うと、そういうタイプの人は公立の小学校に行くのではなく慶應幼稚舎とかに行った方がいいのかもしれない。そうすれば、慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應大学経済学部と行って、大学だけ慶應大学に入った人間に向かって「こらあ、剥けえ!」とか言えば、「内部進学だけあって思考が柔軟」とか「福沢精神を身に着けている」とか「ギャルにもてもて」とか言って称賛されるようになったのではないか、と思う。
  1980年代でも、「関西慶應義塾高校を作ろうではないか」とかいう話が聞こえてきて、その度に関西人は「そんなもん、作って誰が行くねん!」と言っていたのだったが、高校だけ作ってもだめだと思う。そうではなく、関西慶應幼稚舎⇒関西慶應中等部⇒関西慶應義塾高校 と作れば、そうすれば、オーナー社長の息子とか、医者屋の息子とかパチンコ屋の息子とか清原の息子とか、そういうのが行って「ギャルにもてもて」になったのではないか・・と思う。もっとも、そういうのを作ると、関西地域の公立進学校の人間は、ますます、あほくそなって、慶應大学には行きたくなくなるかもしれんけどな・・・。
  公立の小学校の同級生で、公園とか神社とかに遊びに行く際に、同級生は20円を親からもらって行っていた時に500円とか1000円とか持ってきていた男の家に遊びに行った時、そいつの家は小さくはないが特別にものすごい豪邸というわけでもなかったのだが、女中さんが2人いて、そいつと私ともう1人と3人でそいつの家の庭で遊んでいると、子供同士で言い合いをしたりすると、離れた場所にいた女中さん2人が「◇◇ちゃんは悪くないでしょ。何、言ってるの」と言って大の大人2人が介入してこちらに文句を言ってくるので、なんだか、変わった家だな・・・と思った、ということがあった。 そいつの近所に住んでいた者が、風邪か何かで学校を休んだ時、給食のパンを近所の子供に届けてもらうように先生がそいつに頼んだということがあったらしいのだが、彼は、入口の戸が開いていたのを見ると、一言も口をきかずに、中めがけて、そのパンを投げつけていったそうで、「届けてもらった」生徒の親が怒っていたのだが、女中さん2人が、子供が遊んでいるのに、大人2人が「◇◇ちゃんは悪くないでしょうがあ」などと口出したのを見て、変な家だなあ・・と思った経験からすると、彼にはそんなところがあったのかもしれないと思う。もっとも、公立の小学校に行っていた人間だから、私なども、公立の小学校に同じように行っている以上、金持ちの息子であろうが貧乏たれの息子であろうが関係ないと思っていたし、先生も「誰とでも分け隔てなく遊びなさい」と教えたもので、そう思ってつきあっていたので、彼には、部分的にそんなところもあったかもしれないけれども、すべてにわたって変ということはなかったと私は思っていたが、女中さん2人が、子供が遊んでいるのに横から「◇◇ちゃんは悪くないでしょうが」などと口出してくるような家庭、おそらく、そうするようにその女中さんは雇い主から指示・命令されていたのだと思うが、そういう家庭の息子というのは公立の小学校に行くのではなく、慶應幼稚舎とかに行くようにした方が本人のため・・・かどうかわからんが、もしかすると世のためかもしれん・・・が、あいにく、大阪には慶應幼稚舎はなかった。もっとも、そいつは、慶應幼稚舎なんて行かずに公立の小学校に行っていたから、だから、軽症で、時々、「え?」ということがあっても、それでも「普通の家庭の子」とつきあっていた。
  大阪で、似たような環境の人が行く小学校として、「大阪教育大の付属」というのがあった。大阪教育大は国立大学だから、その「付属」も国立で、「国公立」か「私立」かという分類だと「国公立」に分類されるのだが、自治医大は国公立か私立かという分類だと私立に分類されるものの、設立母体は全国の都道府県であるから、実際は「国公立」みたいなところがあるのに対して、大阪教育大とか神戸大教育学部の「付属」の小学校というのは、どうも、体質として「私立」みたいなところがあるらしい。「らしい」というのは、親戚で大阪教育大の「付属」に行った人がいるので、聞いた話である。だから、嫌だという人もおれば、そういうのがいいと思う人もいるらしい。
  但し、慶應幼稚舎に行けば、慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應義塾大学経済学部と進学することができるが、大阪教育大の「付属」というのは、もともと、大阪教育大の先生が教育学の研究をするためのモルモットの生徒を確保するための学校であって、大阪教育大の付属の小学校から中学校へは内部進学で行けて、高校も内部進学で行けるらしいが、高校と大学の間は切れていて、高校から大学は内部進学で行けるという制度はないらしい。だから、逆に、丸川珠代とかいうおばさんみたいに大阪教育大の付属の高校から東大とかに行く人もあり、松島みどりさんみたいに、大阪教育大の付属の中学校から北野高校に行って東大に行ったというそういう人もいるようだ。大阪教育大の付属の小学校・神戸大教育学部の付属の小学校は、中学校・高校はつながっていても大学に内部進学で行けるわけではないが、「普通の公立の小学校」よりも学力水準が高いから、勉強のできる子になるだろう・・・と思って行かせたがる親もいるようだが、そう思って行かせたけれども、「勉強のできる子」にはちっともなりよれへんかったああ~あ・・・というケースもあるようだ。我が家は「公立族」の方だったと思い込んでいてのだが、実はそうではなく、うちの親戚では、大阪教育大の付属の小学校・神戸大教育学部の付属の小学校に行った人間が7人もいた・・のだが、そのうち、「国立大学もしくは早慶」に行った人間は何人いたかというと、母のイトコにあたる人が大阪教育大の付属から天王寺高校を経て東大に進学したというのが唯一の国立大学進学者で、ほかは、だ~れも、「国立大学もしくは早慶」には行っとれへん・・・となると、やっぱり、慶應幼稚舎の方が大阪教育大付属よりも、そういうタイプの人には価値はあるようだ。・・別の見方をすると、種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う慶應幼稚舎が小学校から大学までつながっていなければ日東駒専くらいにも行けたかどうかわからんような男に、「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などというのぼせあがった口をきかれなければならんようなそんな「大学」は害があるのではないか、と思えないこともない。

   1980年代前半のことだが、千葉大の教育学部を卒業して神奈川県で公立の小学校だったか中学校だったか先生をやっている人と話をする機会があって、その時、その人が「最近は、大学まで系列の大学に行ける私立の高校とかに行こうという人が増えてきたから」と言うので、「私立の高校って、慶應義塾高校とかそういうのですかあ?」と言うと、「いやあ、あそこは・・」と言い、私が「しかし、私が親なら、たとえ、慶應大学に内部進学で行けたとしても、慶應義塾高校なんてあんな学校、息子に行かせたくないけどなあ~あ」と言うと、「そうでしょ。たいてい、みんな、そう思うから」ということだった。その人も、公立高校から国立の千葉大の教育学部に行って公立の小学校だったか中学校だったかの先生になったという人であり、そういう人の感覚としては、「種無葡萄をひとに皮むいてもらって、お皿にもってもらって、スプーンですくって食う」というのが「独立自尊」で「自我が確立されている」で「福沢精神」で「ギャルにもてもて」という思想を持っている人、そういう思想を注入する「教育」をやっている学校などというものには、子供を行かせたいとはあんまり思わない・・・ということになるのだと思う。

   慶應という大学は「最低でも高校から行った人間が本物の慶大生」という「大学」だった。ということは、大学だけ行くのなら、何もそんなけったくその悪い「大学」になんか行くことないのではないか・・・とも思える「大学」だった。逆に言うと、公立進学校に行った人間は、何もそんなけったくその悪い「大学」になんか行くよりも、「1年まで」なら余計に大学に入るのにかかっても、東大なり京大なりに行った方がいいはずだ。そうでなければ、むしろ、「大学」なんか行かないといけないものでもないのだから、学校は高校までにした方がいいのではないかと思う。

  但し、内部進学の人もすべての人が一緒というわけでもないらしい。 私が慶應大学に在学中、ステューデントカウンセラーズというサークルに入っていた時、慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應義塾大学工学部⇒慶應義塾大学工学部大学院修士課程 と進んだO田という男性、いわば、「本物の慶應」という人がいた。私なんかはその時は慶應大学の学生証は持っていて、そして今は卒業証書をいただいたけれども、私みたいな大学だけ行ったという人間というのは学歴詐称しているわけではないのだけれども、「本物の慶大生」とは認められず、「筋がね入りのニセモノの慶應」であるのに対して、彼は「揺り籠から大学院まで慶應」であり、まさに「本物の慶應ボーイ」「サラブレッド的慶應」、別名「ほとんどビョーキ」・・という人だった。その””サラブレッド””のO田さんがこうおっしゃったのだ。「きのう、テレビ、見ていたら、小学生向けの学習塾の話が出ていたんだけど、小学生の時から『東大行くんだ』とか言ってるやつって、俺、気色悪くてしかたないよお」・・・・と・・( 一一)   ・・はあ?  はあ?  はあ~あ???
  それで、なにしろ、私は性格が正直なものですから、つい、言ってしまったのだ。「なに、言うてんねん、なにを!!! そんなこと、言うなら、小学校の時から慶應行ってるやつなんて、気色悪くてしかたがない!!!」と。実際のところ、公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校⇒国立大学 と進んだ人が「小学生の時から『東大行くんだ』とか言ってるやつって、俺、気色悪くてしかたないよお」と言うのならわからんことはない。しかし、「小学校の時から、慶應行ってるやつ」にそういう文句を言われたのでは、そっちの方がよっぽど気色悪いわ、そっちの方が!!! ・・・ということになる・・・と思うのだが、ところが、「小学校の時から慶應に行ってる人」には「小学校の時から『東大に行くんだ』とか言ってるやつって気色悪くてしかたないよお」といった文句を平気で口にする人間がいるのだ。 あんた、どこの小学校に行っとってん、あんたはあ??? どの口が言うとんねん、どの口があ~あ??? 
   但し、O田さんは本当にえらい! 「感動した!」・・・どこがエライかというと、普通、慶應の内部進学の人間に、「なに、言うてんねん、なにを!!! そんなこと、言うなら、小学校の時から慶應行ってるやつなんて、気色悪くてしかたがない!!!」なんてこと言おうものなら、激怒して襲いかかってくる。殴りかかってくる。それが普通である。それが彼ら内部進学の人の「愛塾」であり、それが内部進学の人の「スマートさ」「受験勉強の悪影響を受けていない」「自我が確立されている」「独立自尊の精神がある」「塾風をもっている」「福沢精神を身に着けている」というものであるのだ。「なに、言うてんねん、なにを!!! そんなこと、言うなら、小学校の時から慶應行ってるやつなんて、気色悪くてしかたがない!!!」などと内部進学の人間に向かって言おうものなら、激怒して殴りかかってくるのが普通である・・・にもかかわらず、O田さんは殴りかかってくるということはなく、「うん。それ、気色悪い。それが一番気色悪い」と言って怒らなかったのだ。すご~い(^^)/  えらいなあ~あ、ほんまにえらいなあ~あ。その寛容な心、すばらしいわあ、「感動した!」。 よっ、さすが! さすが、「慶應ボーイ」「ギャルにもてもて」、「思考が柔軟」「受験勉強の悪影響を受けていない」「自我が確立されている」「アイデンティティーをもっている」「カウンセリングマインドをもっている」、よっ、さすが内部進学、さすが「塾風を見につけている」、さすがさすがさすがっ!!! ・・・というものだったのだ。だから、「小学生の時から『東大行くんだ』とか言ってるやつって、俺、気色悪くてしかたないよお」というような文句は、公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校⇒国立大学 と進んだ人が言うならわからんこともないが、「小学校の時から、慶應行ってるやつ」に言われたのでは、はあ? はあ? はあ~あ??? ・・・と思うのは、それは、公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校 に行った人間の思考であって、慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校(もしくは慶應女子高校)⇒慶應義塾大学 という人生を送ってきた人からすると、それが「普通」というよりもそれが「正常」であり、慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校(もしくは慶應女子高校)⇒慶應義塾大学 の人からすると、そういう人が「小学生の時から『東大行くんだ』とか言ってるやつって、俺、気色悪くてしかたないよお」と言うのは「正常」なことであり、「どの口が言うとんねん、どの口があ~あ???」と思う人間の方が「間違った思考」であり「異常な思考」であり「思考が硬い」「受験勉強の悪影響」で「自我が確立されていない」「アイデンティティーをもっていない」等々であり、「揺り籠から墓場まで慶應」(from cradle to tomb )症候群の慶應大医学部助教授から「なんじゃかんじゃ症候群」「なんたらかんたらシンドローム」「なんとかかんとか人間」とか「診断」されるべき人間だということになるようだった。電気ショック療法とか「精神外科」療法とかで「治療」(撲殺)されそうで、怖い、こわい、怖い、こわい、怖い、こわい!!!!!!
  O田さんなんかは、「幼稚舎から慶應」であっても、「なに、言うてんねん、なにを!!! そんなこと、言うなら、小学校の時から慶應行ってるやつなんて、気色悪くてしかたがない!!!」と思ってもそういう文句は慶應義塾においては口にしてはならない、内部進学の人が「雪は黒い」とおっしゃれば「はいはい、雪はくろうございます」と言わないといけない、という慶應義塾のタブーを、つい、うっかりと犯してしまっても、殴りかかってこない・・・という「ものすごい寛容さ」をお持ちのえらいエライえらいエライえらいえら~い♪ という人でしたから、もしかすると、種無葡萄(デラウエア)も、ひとに皮をむかせてお皿に盛らせた上でスプーンですくって食うのではなく、自分で房からちぎって口に入れて、お食べになるかもしれませんから、「慶應幼稚舎流種無葡萄の食べ方」と命名していいかどうかは迷うところもあるのですが、しかし、普通、公立の小学校に行ってる人間で、種無葡萄(デラウエア)をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う人間なんて・・・、そんな人間、おらんで、ほんま・・・・。 というよりも、だいたい、種無葡萄(デラウエア)を皮むいてお皿に盛ってスプーンを添えてもらおうなんて、たとえ、考えても、誰がやってくれんねん、そんなもん、誰があ?!?! アホか、そんなもん、わたしら無産市民の家庭では、そんなもん、たとえ、やってもらおうと考えても、やってくれる人間なんておらんぞ、そんな人間なんて。そういうことを考えると、やっぱり、慶應の内部進学の学校なんて、慶應大学に内部進学で行ける、慶應大学に進学すると「外部のやつら」を下男・婢として扱うことができる、公立高校出身者を ”ドジン” 扱いできる♪・・・としても、それでも、そういう「ほとんどビョーキ」が移りそうなそんな学校には行かせたくないなあ~あ・・・・と私が親なら、今も思う。・・こういうことを言うと、内部進学小此木啓吾症候群から「なんじゃかんじゃ症候群」「なんたらかんたらシンドローム」「なんだかんだ人間」とか「診断」されるであろうけれども、やっぱり、そんな学校には行かせたくないなあ・・・と思う。

  90代のおばあさんのために剥くのならいいとは思うが、10代や20代の体は人一倍元気な男のために、種無葡萄(デラウエア)を皮むいてお皿に盛る女中さんて・・・、それは人間ではないと思うし、そういうことを女中さんにさせる親というのは「慶應ボーイ」で「思考が柔軟」「福沢精神を身に着けている」という人なのだろうけれども、そういう親もまた、人間ではない、と思う。 内部進学の人にこういうことを言うと、殴りかかってくるから、怖いけれどもね・・・。「なんとかかんとかシンドローム」と「診断」されるかもしれんし。本当に怖い。
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(2) 学校をスゴロクとしか考えない人。「受験勉強」とは何かについての認識の違い。
  私は、高校を卒業した頃、心理学に関心があった。但し、「心理学」「精神医学」「精神分析学」「心身医学」といったものがどう違うのか、又、「病院」という所には、「精神科」「神経科」「心療内科」「神経内科」「脳外科」といった「科」があるが、それがどう違うのかもよくわかっていなかった。 「心理学」だと、京都大学の文学部の心理学科・教育学部の教育心理学科とか、東大なら文科三類で入って文学部か教育学部の心理学科・教育心理学科といった学部学科になるのだろうけれども、「精神医学」「心身医学」ということになると医学部になるのか。そうなると、せっかく、京大なり東大なりの心理学科・教育心理学科まで行っても、文学部心理学科卒・教育学部教育心理学科卒では医師の国家試験は受けることができないので、私立金権医学部裏口入学の医者屋で内科の「医者」になったがものにならんから、だから、3日前に「精神科医」に転職した・・という男の下働きにならされる・・ということか? それでは、あほくさい。それなら、文学部心理学科とか教育学部教育心理学科に行くのではなく医学部に行った方がいいのではないか・・・とか考えたりもした。
  江本孟紀は『プロ野球 勝てる監督・使える選手』(1998.4.10.三笠書房)に書いている。
《 王さんが巨人の監督をしていた頃こんなことがあった。
  王さんの投手起用について、かなりシビアな批判をしたときのことだ。そのことを知った王さん「大して勝てなかった投手にそんなことをいわれる筋合いはない」と激怒したという。
「大して勝てないといったって、投手としてはあんたよりましやろ。あんたは投手失格で打者に転向したんじゃないの」なんていう次元の低い話をしようというのではない。
  現役時代の数字でしか、人を判断できないのは、監督としていかがかといいたいのだ。・・・ 》
さすがは江本というのか、《「・・投手としてはあんたよりましやろ。あんたは投手失格で打者に転向したんじゃないの」なんていう次元の低い話をしようというのではない》・・と言いつつ、もうすでにきっちり言うとるやんけ(^^♪ ・・・。
  それで、京大とか東大とかの文学部心理学科とか教育学部教育心理学科とかを卒業すると、文学部の場合は心理学科卒と英文科卒・社会学科卒は扱いが違うが、医学部の場合は歯科医と獣医だけが別で他は内科も外科も整形外科も皮膚科も眼科も資格は医師の資格であり、心理学科・教育心理学科なんて出たあかつきには、結局、小学校から高校までちっとも勉強せんといてからに「医者屋民族の息子」は「患者」を薬漬けにして貯め込んだカネで私立金権裏口医学部に裏口入学させてもらって医者屋になる当然の権利があると考えている医者屋の息子で、内科医になったがものにならんものだから、「精神科医」に3日前に内科医から転職した・・なんて「精神科医」の下働きにならされてしまう・・のではないのか・・・と思うと、心理学科なんて行ったらあほくさいなあ、それなら、東大の理科三類・京大の医学部に行ければいいが、行けなかったとしても地方国立大学の医学部でも、ともかく、医学部に行った方がいいということはないか・・・とかいうことを考えた。(実際、東大とか京大とかの心理学科・教育心理学科を卒業して、《私立金権医学部裏口入学で内科医になったが内科医でものにならんから「精神科医」に3日前に転職した》なんてヤツの下働きにならされるのでは情けないしあほくさい! と思いますでしょ。)
  「高校卒業時の成績なら法政でも通ったかどうかわからんかったが、1浪して慶應の入試科目だけ学習して1浪で慶應には行った」とかいった慶應の学生に多い「スマートな慶大生」の場合は、慶應の入試の科目しか学習してきていませんから、経済学部・文学部なら数学と英語、商学部なら数学・英語と日本史か世界史、法学部なら数学・英語・国語と日本史か世界史 しか学習してきていませんから、物理や化学はできませんが、私は、旧帝大系国立大学受験者だったので、数学・英語・国語・社会科と理科も学習してきた人間で、医学部に行った方がいいということはないか・・とか考えたこともある人間でしたので、「そんじょそこらの工学部・理学部生」よりも高校までの数学・物理・化学については学習してきた人間です。だから、大学の一般教養課程の物理・化学といったものもけっこう好きでしたし、実験も嫌いではありませんでした・・・・が、慶應大学の一般教養課程の問題点として、「向かいの人と2人1組になって、実験をやってください」というのがあった、という点がありました。 その「向かいの人」というのがどういう人か、という問題があります。
  そんなの、「人間には相性がある」なんてこと言うなら、それはお互い様でしょうが・・と言う人もあるかもしれませんが、そういう「お互い様」とは別の問題があるのです。 「物理」の実験の際、ある時、「向かいの人」は内部進学、慶應義塾高校卒の人で、私は2浪もして入学しましたから私よりも歳は下でしたが、こちらが1年だったのに対して彼は2年で、そして、自分は内部進学であるから「外部の者を教育しないといけない」という立場の人間であり、学年も自分の方が上だから「教育」してやらんといかんと考えたようで、それで、私が「それじゃ、やりましょう」と言うと、「いいよ。やらなくても」と言うのでした。
  「いいよ、やらなくても」て、どういうことなんだよ!  「物理」の先生が、2人1組で実験をやってレポートを書いて提出してくださいと言われたのでしょうが・・・と思ったのですが、その人は「やらなくていいよ。そんなの」と言うのです。「やらなくても、適当に書いて出しておけば、それでいいから」と言うのです。よくないよ、そんなもの。 「しかし、実験をしてくださいと先生も言われたのですから」と言っても、「いいって言ってるだろお!」と言うのです。ここの「大学」でやっていくのはきついなあ・・・と思いました。慶應は内部進学の人の「大学」であり、内部進学の人からそう「命令」されれば、それに従わないといけないらしい。それに従うのは嫌だとか言うと、「なんとかかんとかシンドローム」「なんじゃもんじゃ症候群」とか小此木啓吾一派から「診断」されて「レッテル」貼られますし、「慶應心理学」からは「未成熟」だとか「適応障害」だとか「自我が確立されていないからそういうことを言うのだ」とかなんとかかんとか「診断」されることになります。怖いですねえ、「慶應心理学」というのは。百害あって一利なしです、「慶應心理学」は。
  私は、2010年に、愛知産業大学の造形学部建築学科の通信課程に「3年次編入」で入れてもらいましたが、仕事を持ちながら通信課程の学習をするのは大変で、卒業できませんでしたが、その際、スクーリングに行くと、何人かでディスカッションしてくださいとか、隣の人と互いの作品について述べてくださいとか、そういうことがあると、誰もが真面目に述べるのです。通信課程の場合は、一度、どこかの大学を卒業した人が来ていることが多いので、先に卒業した大学は「けっこういい大学」の人も少なくないのではないかと思いますが、そうであってもなくても、誰もが、特に優秀かどうかはともかく、真面目に意見を述べて、先生が指示されたことをともかくやろうとするのです。それに対して、慶應の内部進学の人は「やらなくていいよ。そんなの」と言って、自分がやらないのなら、勝手にすればいいのですが、そうではなく、「2人で組みになってやってください」という指示を受けると、その相手にまでさせないようにするのです。しかも、自分たちは内部進学だから、自分たちの命令に「外部の者」は従うのが「塾風」で「福沢精神」で「自我が確立されている」だと思っているのです。
  彼ら、内部進学の人には、「学問は、まず、学問そのものとして価値がある」という考え方がありません。彼らは大学とは、「就職のためのスゴロク」という意識しかなく、だから、一般教養の「物理学」の実験なんて、「やらなくていいよ。そんなの」と言い、「しかし、先生が実験やるように言われたわけですし」と私などが言っても、「やらなくっていいって言ってるだろ」と「命令」してきかないのです。そういう人と一緒に学ぶというのは苦しい。 それを考えると、そんな「大学」に嫌な思いをして4年間行くよりも、そこから「1年まで」なら余計にかけても、東大なりに行くようにした方が絶対にいい・・・と思いましたし、今も思います。
  小学校から高校まで勉強してきてない人に「やらなくていいよ」と「命令」されなきゃならない一般教養課程なんてまっぴらです。そんな「大学」に行かされるのなら、「(合計で)1年まで」ではなく「(そこから)1年まで」なら余計にかけても東大なりに行った方が絶対にいい。3浪しようが4浪しようが関係あるかあ!!! と思いましたし、普通はそう考えると思います。


(3) 何かと「まとまる」「まとめられる」のが好きな「独立自尊」
  1980年代、東京都港区の慶應大学の三田キャンパスの西あたりに慶應女子高というのがあって、慶應女子高の生徒がJR「田町」駅、もしくは、都営浅草線・三田線「三田」駅まで行く際には、慶應大学三田キャンパスの前を通っていた。私が、慶應大学の三田キャンパスからJR「田町」駅――田町駅というと、皆さん、ご存じの「怪人21面相」のお友達の森永の本社、安倍晋三の嫁の実家の森永の本社が駅前にある所ですが――に向かおうとしていた時、横のあたりに慶應女子高の生徒3人連れが歩いておったのだが、そいつらが、「私たちの学年って、よくまとまってるよねえ」などと話していたのが聞こえた。
  何気なしに話していたもので、特別、考えて口にした文句ではないだろうが、そういう文句が、しばしば、口にでてくるというあたりが、慶應女子高の特徴である。慶應の内部進学の高校、慶應義塾高校(男子校)・慶應女子高(女子校)・慶應志木高校(男子校だか共学だか忘れた)の生徒および出身の慶應大学生というのは「なにかと、まとまったり、まとめられたりするのが好き」なのである。彼らにはそういう特徴がある。
  しかも、そういう特徴のことを、彼らは「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか言うのだが、それって、逆と違うのか??? と思うのだが、彼らはそういう「何かとまとまったり、まとめられたりするのが好き」という性質のことを「独立自尊」だとか「自我が確立されている」のだとか、そのように注入教育を受けてきている、観念的にそう教えられてきているようである。
  そういうのを見ると、私など公立進学校出身者は、「なんか、気色悪~う!」と感じるのだが、ところが、慶應の内部進学の高校の生徒、および、内部進学の慶應大学生というのは、そういうものを自慢にしとるし、それは良くないのではないか・・・などとうかつに言おうものなら、(それこそ、猿が眼を睨みつけられたかのように)飛びかかってくる。だから、怖いから、思っても彼らには言わないようにした方がいい。
  「世の中いろいろ、会社もいろいろ、人間いろいろ」であり、そんな学校が好きだという人もあるらしいが、私は、そういうのはあんまりいいとは思わないし、思えない・・・。
彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動 - ミルトン・マイヤー, 田中 浩, 金井 和子
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  「何かとまとまったり、まとめられたりするのが好き」という慶應女子高女 と、似た人たちを見たことがあります。1990年代、最初にヨーロッパに旅行に行った時、パリのシャルルドゴール空港の待合室で、「日本人」の団体が、傍若無人にわあわあ騒いでいて、「また、このメンバーで旅行に行きましょうね」とおばさんが叫んでいたのでしたが、この人たちって、別に行先はパリでなくてもヨーロッパでなくても、どこでもいいのではないか、旅行でなくても、何人もで群れることができればそれでいい人たちではないのか、という印象を受けたのです。その時、私は1人で旅行していましたが、「慶應タイプ」はそういう1人で自分が見学したい所を訪ねてまわる人間がいると、「友人を持てない人間だろう」とか「人と付き合えない人間なのだろう」とか言いたがるのですが、それは逆だと思います。海外に旅行すると、1人で旅行している日本人の旅行者と出会う時がありますが、そういう人と、電車のある区間、一緒に移動することがあったり、ホテルで一緒になったりして話すことがあり、そこで情報交換できることもあります。でも、団体でわあわあ言いながら移動している人たちとは、そういうつき合いはできないのです。又、最初にイタリアに行った時、ローマからナポリまで鉄道で移動した後、お金もないので、ツアーに参加するようなことはせずに、自分の足で歩きだしたものの、さっぱりわからずにいると、ナポリの人たちは本当に親切にしてくれてうれしかったのですが、その時、日本人向けなのかどうかわからないが、ツアーのバスがカステルデツローヴォ(卵城)に来たのを見て、なんだか、そのバスが装甲車のように見えたのです。普通に自分の足で歩けば、思ったように移動できてもできないこともあっても、現地の人たちと接して過ごせるのに、なんで、この人たちって、せっかく外国に行って、装甲車みたいなバスの中に入って日本人ばっかりで固まってるのだろう・・と思ったのです。野村のじいさんの話を描いた『ノムさんと25人の仲間たち』という漫画で、オールスター戦の時に、巨人の桑田が野村に話しかけて投球についての意見をきいたのを、解説者の鈴木啓示が横で見て「このおっさんと話したら、丸裸にされるぞ」と言うが、野村は「オールスター戦とかに出たら、監督でもコーチでも選手でもええから、ともかく、あんたのように、他のチームの人間と話をするようにするべきや。自分のチームの人間ばっかりで固まっておってはいかん」と言う場面がありましたが、それとも似たところがあるように思います。なんで、外国に行って、日本人ばっかりで固まっているのだろう・・という気持になる人を見ることがあります。内部進学ばっかりで固まっててまとまったりまとめられたりしている慶應女子高女と似てますでしょ。《「揺り籠から墓場まで」慶應的精神空間から外に出れない小此木啓吾シンドローム 》と似てますでしょ。〔インターネットで検索して出てきたものを見ると、小此木啓吾は、慶應大学医学部を定年退職した後、慶應よりも定年の年齢が高い私立大学の講師になったものの、慶應より世間の評価が低い私立大学の生徒をバカにしていじめたとか、何より評判が悪かったのは「何かと慶應に帰りたがる」という点と出ていましたが、そうだろうなあ、と思います。もともと、慶應的精神空間でのみ生きることができる生物ですから、慶應的精神空間から長く外に出て生きるというのは、いわば、人間が水中にもぐっているようなもので長くはそこにおれないのではないでしょうか。慶應においても、「外部の者」「外部の連中」(大学から慶應大学に入った人間のことを内部進学の人は「(慶應義塾の)外部の者」「(慶應義塾の)外部の連中」「(慶應義塾の)外部のやつら」と言います。失礼な言い方だと思いますが、彼らはそれが当たり前だと思ってその用語を使っています。)という外敵が慶應に入ってきているというのは彼らにとっては不愉快なことで、「最低でも高校から慶應に入った者が本物の慶大生」とか言ってきた人たちで、慶應大学でも「外部の者」は「本物の慶大生」ではないという認識で、通信課程の人はさらにその外側という意識の人たちですから、そういう「内」と「外」という意識が強烈な人が、自分ひとりだけ「外部」に行って生きるというのは、それも、定年になる年齢を超えた年齢で「外」に行って生きるというのは、ものすごいプレッシャーだったのではないでしょうか。気に食わない相手に「☆☆人間」「△△シンドローム」「◇◇症候群」と自分が発明した「レッテル」を貼りつけて罵るという得意技も、まわりに慶應内部進学の仲間がいてこそ万全に使えるのであり、総スカンを食うようになれば、いわば、「水に落ちたイヌ」みたいなもの、「溺れかけたイヌに手を差し伸べてはならない。むしろ、ぶん殴って沈めてしまう必要がある」ということになる可能性が出てきます。念のため、解説しておきますと、「溺れかけたイヌに手を差し伸べてはならない」という場合の「イヌ」は動物の「犬」のことではありません。飼っている愛犬が溺れかけたら助けてあげてよろしい。そうではなく、人間のイヌ、権力・体制にこびる「レッテル」を発明してひとにぺったんこペンタンコと貼り付けて儲けてきた小此木啓吾症候群のことを言っています。〕大学から慶應大学に入った人間にも、そういうのが好きで慶應大学に入ったという人がいて、そういう人は、思考が「準内部進学」みたいなところがある。内部進学の人みたいに群れる、内部進学の人みたいに「何かとまとまったりまとめられたりするのが好き」である場合がある。フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で、そういう人を「友を持つことができない人間」と言っているが、そういう「小人」は逆に自分たちのその姿を自慢にしている。『ツァラトゥストラはこう語った』では、1人でいることができる人間で、2人でいることもできる人間が友を持つことができるのであり、1人でいることができない人間は友を持つことはできない、といったことを述べているが、まさにそうだと私も思います。「まとまったり、まとめられたりするのが好き」という人間というのは、「1人でいることができる人間で、2人でいることもできる人間」ではなく、「1人でいることができない人間」であり、そういう「1人でいることができない人間」が2人でいるから一緒にいる相手を友だと思っていても、そんな「友」は幻覚のようなもので、少なくとも、「1人でいることができる人間で、2人でいることもできる人間」が持つ友とは別物です。私と同じ北野高校から私より先に慶應大学に入学したS本という男も、「1人でいることができない人間」の方のタイプでしたが、彼はそのあたりについての自覚がなかった。おそらく、彼は、一生、自覚することはないでしょう。それが彼にとっての「幸せ」なのかもしれませんが、「慶應タイプ」にはそういう人間が多い。アテネの街をソクラテスがまわりを見回しながら歩いているので、弟子が「先生、何か、お捜しでしょうか」と言うと、ソクラテスは「人間を捜しておる」と言い、「人間なんてそのへんにいくらでもいるではありませんか」と言うと、ソクラテスは「あんなものは、人間ではない」と語ったという話が高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)に出ていましたが、「1人でいることができない人間」、「何かと群れたがる」「何かとまとまったり、まとめられたりするのが好き」というタイプの人間というのは、それは厳密な意味で人間ではないのではないか、とも思えるのです。
ツァラトゥストラ (中公文庫プレミアム) - ニーチェ, 手塚 富雄
ツァラトゥストラ (中公文庫プレミアム) - ニーチェ, 手塚 富雄
※ 《YouTube-♪R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 Op. 30, TrV 176 / ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団》https://www.youtube.com/watch?v=kX1XuPMPTd4


(4) 「教育勅語のようなもの」を欲しがる「塾風」主義者
  福沢諭吉は『学問の独立』(『日本の名著 福沢諭吉』中公バックス 所収)で、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきだ、ということを述べている。学問は、その時の「国」「国家」「政府」から命令されたり・指導されたり・指示されたりするものではなく、「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきものだということを述べており、又、それゆえ、私学としての慶應義塾を「官学」とは異なるものとして設立した、ようだが、遠山茂樹『福沢諭吉』(東大出版会 UP選書)によると、しかし、その後、経営に苦しみ、福沢諭吉のポリシーに反するかもしれないが、国からの援助を求める動きもしたらしい。
  学校というものが、国公立の方がいいのか、私立の方がいいのか、というと、私などは、国公立は「みんなのもの」「公共のもの」という印象があるのに対して、私立は「特定の誰かのもの」「特定の誰か個人の意志によって運営されているもの」という印象があったし、「私立の学校」というと「多かれ少なかれ、裏口入学で入る人もいる学校」という印象もあったし、「勉強せえへんかったから、国公立の学校に行かれへんやつの行く学校」という印象もあった。
  「私立の学校に行く子」よりも「さらに勉強せえへんかった子」は裏口入学で行くわけで、国公立⇒私立⇒私立裏口入学 という順序があった。もっとも、父の親友の医者屋のM川という男は、「患者」を薬漬けにしたカネでドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢していたので、「世の中いろいろ、人間いろいろ」で、私なんかは、裏口入学なんてものは、たとえ、やるにしても、「恥ずかしそうに」「こそっと」やるものではないのかと思うのだが、医者屋民族にとってはそうではないらしく、「思考が柔軟なもんやから裏口入学なんじゃ」と自慢しておった。そんなに「思考が柔軟」なのなら、その「柔軟な思考力」を生かして狂徒大学医学部でも頭狂大学理科三類でもさっさと現役で実力で通って行けばよさそうなものなのに、なんで、私立金権裏口関西医大なんてどこの馬の骨かわからん汚らわしい「大学」に行くのかと私などは思うのだが、M川によると「そ~のあたりが、きみの思考が硬いところなんじゃ。わしなんかは思考が柔軟じゃから、うちの息子は関西医大裏口入学なんじゃ」と言い、うちの父親はそれを聞いて、「そうや。その通りや♪ 裏口入学した人の爪の垢を飲みなさい!」と私に言ったものだった。なんで、裏口入学した人間・裏口入学させた人間に自慢されて、爪の垢を飲まされなきゃならんのか、さっぱりわからんし、我が家は裏口入学なんてそんなものさせてもらおうと、たとえ、考えたとしても、そんなカネもなければコネもなかったし、薬漬けにすることでカネを生み出す「カネのなる木」とでもいった「患者」もM川のように所有していなかった・・・が、それでも、私は裏口入学した人の爪の垢を飲まなければならない「民族」だったそうだ。「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」とうちの父親は、毎日、毎日、私の眼を指で突きさすように指さして叫んだものだった・・・が、毎日毎日、そう言われてきて、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と思うようになった。「医者屋民族」というのは私などとは「民族が違う」らしかった。だから、私などは、父の親友のM川とその同僚のK田は「高校は義務教育とは違うのやから、あんたなんか、高校には行くべきではない人間のはずや。ましてや、あんたなんか、大学に行ってはいかんはずや」と言い、うちの父親はそう言われて大喜びして、「そうや! ええ~こと言いはる。ほんま、その通りや。おまえなんか、高校は義務教育ではないんやから高校行くべきではないんや。それをおまえが北野高校に行ったというのは、おまえが甘ったれとるからなんじゃ、このチャンコロ、ロスケ、イタコ! この浪商! 高校には行くべきでない人間やのにからにおまえは高校に行ったというのは、おまえが甘ったれとるからなんじゃ、おめは、このロスケ! イタコ! チャンコロ! 浪商! おまえは産まれる時点で『天の神さま』が『この人間は、浪商!』とお決めになってこの世に産まれてきた人間やねんぞ、この浪商!!! 浪商のくせして北野高校に行くなちゅうんじゃ、この浪商めがあ! 浪商のくせに北野高校に行くな、この浪商、なみしょう、ナミショウ、浪商! 自分は浪商でRと自覚しろ、浪商! 高校行くな、浪商! ましてや、おまえは大学なんか行ってはいかんねんぞ、この浪商めが、チャンコロ浪商!!! わかっとんのか、M川先生の息子さんが関西医大裏口入学やねんぞ、裏口入学! おまえとは違うねんぞ、おまえとは! おまえとは民族が違うねんぞ、民族が。おまえとは階級が違うねんぞ、階級が。わかっとんのか、浪商! わかっとんのか、チャンコロ! K田先生の息子さんはバカ大学2つも行っておられるんやぞ。おまえとは違うねんぞ、おまえとは! 浪商とは違うねんぞ、浪商とは! わかっとんのか、この浪商チャンコロ、浪商ちゃんころ、浪商、なみしょう、ナミショウ、浪商! 浪商のくせしやがってからに北野高校に行くなちゅうんじゃ、この浪商めが、高校行くな、浪商!! ましてや、おまえは大学なんか行ってはいかんねんぞ、この浪商めが、よくも産まれやがってからに、この浪商めがチャンコロ浪商!!! おまえはたとえ北野高校に行ってもそれでもおまえは浪商なんじゃ、この浪商めが、このチャンコロっ! 裏口入学した人の爪の垢を飲めええ!!!」と、毎日毎日、私の眼を指で突きさすように指さして叫び続けたものだった。
  私などは、国公立は「みんなのもの」「公共のもの」という印象があるのに対して、私立は「特定の誰かのもの」「特定の誰か個人の意志によって運営されているもの」という印象があったのだが、ところが、別の考え方をする人もあるようで、国公立というのは「国家が作ったもの」で私立は「民間のもの」ととらえる人もいるらしかった。国公立を「国家が作ったもの」ととらえるのか「公共のもの」「みんなのもの」ととらえるのかで、ずいぶんと印象は違う。又、私立を「誰か特定の個人の所有物」「特定の個人の意志によって運営されるもの」ととらえるのか、そうではなく「国家・政府から独立したもの」ととらえるのかで、かなり印象は違う。
  福沢諭吉は、『学問の独立』という文章を書いて、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきで、そうであるから、学校も私立であるべきだと言った・・・・というのを今も主張する人が慶應の教授先生などにはいらっしゃったのだけれども、しかし、そういうことを言う人というのは、「福沢諭吉の限界」というものを分析できていない人と言わざるをえない。福沢諭吉という人は、江戸時代に半分・明治に半分生きた人であり、その時代の人としては相当進歩的な人であり、今現在においても魅力的な人ではあるのだけれども、しかし、そうはいっても、江戸時代に半分・明治に半分生きた人であり、その時代の人としては進歩的な人であったとしても、今現在から見ると、問題点もないわけではない、という点を分析できていない、というあたりが、「やっぱり、慶應の教授だなあ」て感じの人がけっこういらっしゃった。福沢諭吉に対する批判として、資本主義についての批判が不足している・・といったことが言われるようなのだが、しかし、戦後の人間ならともかく、江戸時代に半分・明治に半分生きた人間、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』が発表されたのは「労働者、一番弱(1848)いぞ、団結せよ」で1848年、福沢諭吉が生まれたのは、1835年で、福沢諭吉が生まれた年よりも『共産党宣言』が発表された年は13年後である。明治維新は1968年。ロシア革命は「ひどくいい名(1917)のロシア革命」「人、悔い無し(1917)、ロシア革命」の1917年で、福沢諭吉は1901年、明治34年に他界しており、福沢諭吉が他界した時、ロシア革命はまだ起こっていなかった。そういう時代に生きた人であるから、だから、封建制・封建制の時代の社会に対しての批判はあっても、「資本主義に対する批判が十分にない」としても、その時代の人としてはやむをえない、と考えるべきであろう。しかし、今現在の人間が「資本主義に対する批判が十分にない」というのは、それではいけないのではないか。福沢諭吉の今でも通じる進歩的な部分は尊重していいとして、今現在では通じない部分についてはきっちりと批判がされなければならないのではないか。 その1つとして、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきではあるが、一方で、私立の学校の場合には、設立者・運営者・出資者によって支配されることになるおそれもまた考えられるのであり、だから、国公立と私立は、いったい、どちらが、「学問の自由」を確保できるかは、これはいちがいに言えないはずである。ところが、それを、江戸時代に半分・明治時代に半分生きた人の言ったことを引っ張り出して、「私学だってことは、『いい』ってことじゃないか。こんな常識もわからんのか」とおっしゃる教授先生(内部進学)がけっこうおられるのですが、江戸時代に半分・明治に半分生きた人間である福沢諭吉が、江戸幕府および明治維新政府を念頭において、「国家」「政府」の指導・指示・命令のもとに作られて運営される学校よりも、「民間」で「国」「国家」「政府」とは離れて運営される学校の方がいいと考えた、その時の主張を字面だけを今現在に持ってきて、その後、私立のものは、設立者・運営者・出資者によって支配されてしまう傾向があるのに対し、「公共立」のものは「みんなのもの」「おおやけのもの」「公共のもの」として運営される可能性があるという面もあるということを理解できずに「私学だってことは、『いい』ってことじゃないか。こんな常識もわからんのか」などと寝言いってるノ―タリンが慶應の先生にはけっこういらっしゃったが、そういうのは、どうかと思う。そういう人というのは内部進学なので、自分たちの卒業した学校を「いいってことじゃないか」と言いたいというだけの人であったのですが、たとえ、自分が卒業した学校であっても、それでも、きっちりと分析して批判するということのできない人で、一生、理由もなく「私学だってことはいいってことじゃないか。そんな常識もわからんのか」と言いまくるしか能のない人であったのです。
※ 《ウィキペディア―福沢諭吉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
  慶應の先生など、東京もんのおっさんには「大阪は商人の街なんだから、もっと、『民間』のものを大事にするべきで、高校も大学も私学をもっと大事にするべきなのに、大阪の人間は高校も大学も国公立の方がいいみたいに思ってからに。何を考えてるのか」とおっしゃる人がおられるのだが、それは「東京もん」の考えることであり、大阪の人間は「商人の街」だから、「私学を大事にするべきだ」ではなく、「商人の街」だから、「一生懸命、勉強したもんが、カネのかからん国公立の学校に行かせてもらえるのは当たり前やろうが。勉強せえへんかったもんがカネのかかる私立の学校に行くのは、それは勉強せえへんかったんやから、しかたがない。もっと、勉強せえへんかったやつが、裏口入学するのに、もっと、ようけ、カネ払うのも、自業自得や。なんで、一生懸命、勉強したもんが、カネのかかる私立の学校に行かされにゃならんのだ」と考えるのだ。だから、慶應の教授先生とか「東京もんのおっさん」は関西人の思考を理解できてないのだ。 ・・・しかし、「商人の街」だけあって、「一生懸命、勉強したもんが、なんで、カネのかかる私立に行かにゃならんのや」という発想はあるのだが、同時に、「商人の街」だけあって、「コストと利益を比較考量して」という思考もあるわけで、もしも、国公立よりもいくらか学費が高かったとしても、「コストと利益を比較考量して」、余計にかかるコストを上回る利益があると思われる私立の学校があるならば、少々、コストがかかったとしても、そういう私立の学校になら行く・行かせるということも選択肢としては考えられる。

  それで・・・、「学問の独立」を確保できるかどうかという点について、江戸時代に半分・明治に半分生きた福沢諭吉は、私学の方が「学問の独立」を確保できると考えたようだが、今現在においては、実際に、国公立と私立では、どちらが、「学問の独立」を確保できるかは、それは、いちがいにどちらと言えないと私は思う。
  しかし、「学問の独立」という意識は国民は常に持つべきであるはずであり、そして、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきであり、同じ理由で、倫理・道徳といったものもまた、「国」「国家」「政府」から、あるいは「天皇」から決められるものではなく、指示されるものではないはずである。「教育勅語」などというものを「国」「国家」「政府」が決めて、「親に孝行せえよお」「夫婦は喧嘩すんなよ」「兄弟は仲ようせえよお」などと命令されるというのはおかしいのだ。それは福沢諭吉の認識・主張とは正反対のものである。
  ところが、1980年代、慶應義塾の塾長の内部進学の石川忠雄は、「日本列島を米軍のための不沈空母にする」と発言した中曽根売国奴内閣の臨教審の委員になって、「戦前の『教育勅語のようなもの』を設けるべきである」などと主張。 そういう主張をして、なおかつ、「福沢精神」とか言っていたのであり、そんなおかしな福沢精神があるか!!! ・・と思われる発言をしたのであった。 実際、そんなおかしな福沢精神はないはずである・・・・が、ないはずのおかしなエセ「福沢精神」を主張したがる人が慶應の内部進学の人には大変多い。

  うちの父親は、毎日、私の眼を指で突きさすように指さして、「朕思うに、我が皇祖こ~そ~はあ、親に孝に、親に孝に、親に孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに、わしに、わしに、わしにわしにわしにわしに、わしわしわしわしわしわしわしわし、んが、んが、んがあ~あ!!!」と言っておったが、自分の親が生きている間はそんなこと、ちっとも言わないで、自分の親は両方とも他界した、息子はいる・・と思うと、「朕思うに我が皇祖こうそ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに、わしにいい~い! んが、んが、んがあ~あ!」と言い出すというのは、あれはどう考えても「ずっこい」と姉が言っていたのだが、私もそう思う。あれは、どう考えても、絶対に「ずっこい」。

  遠山啓(ひらく)『競争原理を越えて』(太郎次郎社)では、学校での教育は「教え育む」ものであるはずで、小学校では「術」的なものを学び、その「術」を使って中学校から高校にかけて「学」を学び、その結果として「観」を身につけるという教育・学校であるべきだが、ここで絶対にあってはならないこととして、「観」の注入教育というものは、これだけは絶対になされてはならない、と遠山啓は述べる。
  末川博『法律』(岩波新書)では、大学の一般教養課程において「すべてについて何か」を学び、専門課程において「何かについてすべて」を学ぶ、といったことが述べられている。 一般教養課程の「すべてについて何か」のもうひとつ前に、中学校から高校にかけて「すべてについて一通り」を学ぶというものがあると私は思う。中学校から高校にかけての「すべてについて一通り」と大学の教養課程においての「すべてについて何か」を学んだ上に、それらの一般的全般的教養の上に大学の専門課程の「何かについてすべて」が打ち立てられる。そうであってこそ、確固とした学問を学んだと言えるのであり、「すべてについて一通り」「すべてについて何か」なしに「何かについてすべて」だけを学んだ人間というのは、それは「専門バカ」と言われるような人間ではないか・・・と私は思っていた。
  ところが・・・・。 多くの大学に「学生相談室」というものがあるが、私は、最初、「学生相談室」というものの意味を勘違いしていた。まず、そこにいる人間はどういう肩書の人間か、ということを考えてみる必要がある。18歳で入学した大学生は、まだ、未成年であり、たとえ、2浪して入っても20歳、20歳から成人だといっても、19歳までは子供で20歳の誕生日から急に「大人」になるわけでもない。まだ、社会生活の経験が浅い大学生が、何か困った問題があった時に相談に乗って解決に協力する部署であろうと勘違いしていた。そうではないのだ。まず、そこにいる人間というのは、「カウンセラー」などとナマ言った肩書を名のっているが、「心理学者」というのが本来の立場である。弁護士の法律相談であれば、実際にはなってない弁護士だらけなのだけれども、本来は、相談者は、自分はこうだと考えているのだが、相手はそれを認めないが、自分の主張は間違っていないはずなので、それを法に基づいて通したい・・という話をして、相手方と闘う方法を考えようというのが弁護士の法律相談・・であるはずだ。中には「相手方の回し者」弁護士とか、着手金を何日までに振り込めと言うからないカネを無理して大急ぎで振り込むと、振り込まれたと思うと働かないという「振込め詐欺」弁護士とか、「着手金泥棒」弁護士とかそういうのが多いようだけれども、ともかく、本来の法律相談というものは、相談者がかかえている問題について相手方と闘う方法を相談するもののはずである。それに対して、「学生相談室」というものは、そこにいるのは弁護士などの法律家ではなく、「心理学者」なのだ。ということは、どういうことかというと、相談者が抱えている問題を、どうすれば解決できるか考えて相手方や社会を変えようとする人間ではなく、その相談者をどのように「加工」して社会に・大学に・内部進学者に「適応」させるかと考える存在が「心理学者」であり「カウンセラー」である。 各大学は、大学生に「精神適応」させるために、「学生相談室」という、一見、けっこうな名称の部署を設けているのである。 ジャン=ポール=サルトルは『(鼎談)反逆は正しい』(人文書院)において、「自己飼育に基づく社会ではなく、自主権に基づく社会」といったことを述べており、ジョレス=メドヴェージェフ・ロイ=メドヴェージェフ『告発する! 狂人は誰か』(三一書房)では、「精神適応よりも民主主義だ」と語られているが、大学生をいかにして「自己飼育」させるか、いかにして「精神適応」させるか、ということをおこなっているのが「学生相談室」という所である。私はそのあたりを勘違いしていた。
告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
   学生相談室および「心理学」というものは、人間が、より本来的な姿で生きて、より本来的な学生生活を送れるように助力する所であろうと私が甚だしい勘違いをしていたのはなんとも愚かであった。そうではなく、「人間による人間の加工」をおこなうのが「心理学」「精神医学」であり、大学生を「精神適応」させるのが「学生相談室」と「心理学者」「カウンセラー」であった。 国民とその国民が生きる社会との間に矛盾が存在するのなら、それぞれの国民が本来的な生き方ができるような社会に変えていくべきだ、と考えるのか、そうではなく、国民が抑圧的な社会に「精神適応」するように「人間による人間の加工」をするべきだと考えるのか、「心理学者」が考えるのは後者である。 たいていの大学の「学生相談室」の問題はそこまでだが、慶應大学の場合にはそれだけではなく、「やっている人間」、そこにいる「心理学者」は内部進学の人が多く、「アタマが内部進学」でできている、という問題もある。慶應の学生相談室の人間、「カウンセラー」「心理学者」は内部進学の人の世界観で人間を見て社会を見ているのである。内部進学の人の「常識」が「正常」であり、内部進学の人の世界観に合わない人間は「不適応」であり「適応障害」「未成熟」であることになる。「未成熟」を脱して「成熟」した状態になるとはどういうことを意味するかというと、内部進学の人間に気にいるような、内部進学の人間に都合がいいような人間に自主的に自分を加工したいと欲するようになることを意味している。
  私は、慶應大学の「学生相談室」の「カウンセラー」と称する女が口にする「受験勉強の悪影響」という言葉の意味を誤解していた。何を「受験勉強」と考えるのか。そして、何を「プラスの影響」で何を「悪影響」と考えるのか、そのあたりについて、話しているうちに、どうも、話がかみ合っていないと感じだしたのだ。 遠山啓は『競争原理を越えて』(太郎次郎社)で、試験というものは、結局のところ、どこかの誰かが作成した試験問題でいい点数を取れるかとうかということであるが、本当に優秀な人というのは、どこかの誰かが設定した基準なんか無視して、ともかく、自分が価値があると考えるものに向かって突き進む人ではないのか、と述べるが、どんなに良くできた入学試験の問題であっても、それはしょせんは「どこかの誰か」が作成した基準であり、あまりにも入学試験にこだわると、ひとが作成した基準を満たすような努力はできても、自分自身でやりたいと思うものに向かって努力することができなくなる、といったことがあるかもしれない。実際、私立6年制受験校の人を見ると、そういう人がいるように私は思っている。又、旧型司法試験や公認会計士試験など難関試験に合格するための能力と、研究者としての能力は性質が違うのではないか、あまりにも、「試験に合格するための能力」というものに努力をすると、逆に、何かを研究するという能力は得られなくなってしまうということはないか。 又、『美味しんぼ(おいしんぼ)』では、北大路魯山人について、北大路魯山人は陶芸もやっていたが、もとからの陶芸家ではなく、そういった文化を調べ研究する人であったのが、自分でも陶器を焼くようになった人であることから、さまざまな知識があることから、逆に、知識などおかまいなしに、陶器を作成することに邁進した人と比べると、むしろ、その知識が邪魔をしてしまっているとも思えるところがある、といったことを登場人物の海原雄山が指摘しているのだが、知識を蓄えるのは悪いことではないとしても、知識を蓄えることに力を入れすぎると、知識などおかまいなしに突き進んだ人に比べて、独創性がなくなってしまうということもないとは言えない。受験勉強の課程で学んだもので価値のあるものもあるはずで、又、野村のじいさんも「『失敗』と書いて『成長』と読む」とか言うておるように、慶應大学の空手のサークルに少しだけいたことがあるのだが、そこにいたT永という男のようにあ、最初から「1浪で慶應になんて行けたら恩の字」みたいなやつ、そういう人は慶應大学にはけっこういたのだが、そういう人が1浪してもそれは「失敗」ではなく、「1浪で慶應」というのはその人にとっては大成功であるのだが、私のように、慶應に行かされるのなら高校卒業時に通ったのではないかという人間が、東大などに行こうとして浪人してしまって、結果として、そんな所に行かされるのなら浪人なんてする必要なかった、という経験をした人間にとっては、「『失敗』と書いて『成長』と読む」というように、そこで、「世の中」や「人間」が見えたりすることだって、ないわけではないし、英語などは、2浪でもしたならば、もしも、模擬試験や入学試験で取れる点数は横ばいであったとしても、英語のような「覚える科目」が点数が横ばいであったなら、それは、それだけ頭に固着したということであって、浪人したのに点数は同じような点数しか取れなかったとしても、英語力としてはそれだけ頭に固着したのであるから、大学入学後に英語検定とかTOEIFL・TOEICなどの試験を受けるなら、それはプラスになることが考えられる・・と思うが、それでも、あまり浪人を長くすると、人生をそこで浪費することになってしまう可能性もないとは言えないのであり、そういったことから、「浪人の功・罰」「受験生活の功・罰」といったことを考えてみてもいいのかもしれない・・・と思うが、普通自動車第一種免許を取得するために自動車学校で学んだものは「害がある」のか、宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士の試験に合格するためにその受験で学んだものは「害があるのか」というと、そうではないはずだと私は思ったのだが、ところが、慶應大学の学生相談室の「カウンセラー」「心理学者」が言う「受験勉強の悪影響」というのは、どうも、そういったことについて、何らかの分析をして、何らかの理論のもとに言っているのではないようだった。結論として、あの女は「慶應女子高女」であり、たとえば、慶應大学の商学部の助教授だった黒川行治さん(その後、教授におなりになり、今は名誉教授になられたらしい)が「会計学総論」という講義の最中に、「このぼくは中等部から慶應に行ってるんだぞお。我々内部進学の人間はおまえら外部の者とは違うんんだ。こんなこともわからんのかあ! 内部進学のこのぼくがおまえら外部の者に話をしてやってるんだぞお。もっと、かしこまって聞きなさい。わかってんのかあ~あ。このぼくは中等部から慶應なんだぞお~お!」とマイクに向かってのたまわれた、ということがあったのだが、慶應大学の学生相談室の「カウンセラー」「心理学者」と称するあの「慶應女子高女」もそれと同類で、ともかく、高校まででやっているものは「受験勉強だ」「害があるんだ」と断定していた、ということだったようである。私は、いくらなんでも、「大学の先生」がそんな無茶苦茶な決めつけをするなんてことないだろう・・などとアホなことを思い込んでいたのだが、そうではなかった。慶應女子高女にとっては、高校まででやっているものは、価値があるものもないものも、受験に関係あるものもないものの、すべてが「受験勉強だ」で「害があるんだ」だったのだ。 慶應大学の場合には、そういう思考の内部進学の人がけっこういるので、この人はそういう人ではないのか? という点について注意して人を見て、そういう人だとわかったら、そういう人なのだという前提で関わるようにしないといけない。かつての私はそのあたりについてわかっていなかった。

  まず、慶應大学に大学から入った人間の多くは「受験はあった方がいいなあ」と口にする。もしも、大学から入る人間しかいない国立大学に行っておれば、そういった文句は口にしないであろうところを、そういう文句を口にするのは、それは内部進学の人を見て、それで、ああいうのを見ると、大学入試はあった方がいいなあ・・・と思うようになるのだった。ところが、内部進学の人はそういう認識を絶対に認めない。特に、「カウンセラー」「心理学者」というのは、第一に「内部進学は常に正しい」という戒律を持っており、それが第一前提としての思考をするのである。
  「受験勉強」として、受験の課程で学んだものというのは、慶應の内部進学の教授・助教授は「害があるんだ」と決めつけるのだが、「害」があるのかあ?  ・・・普通自動車第一種免許を取得するために自動車学校で学んだことというのは、自動車の運転をするにおいて「害がある」か???  宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士 の試験に合格するために学んだものというのは、宅地建物取引業の業務をおこなうにおいて「害がある」のか???  旧型でも新型でも司法試験に合格するために学ぶ必要があるものというのは、司法試験に合格して裁判官なり検事なり弁護士なりになった際に「害がある」のかあ???  ・・・慶應大学の「カウンセラー」「心理学者」て変なことを言うと思いませんか? 慶應大学の内部進学の教授・助教授というのは、要するに、自分が知らないこと・自分ができないことは、大学入試と何の関係もないものでも「そんなものは、受験勉強だ」と決めつけ、さらに「害があるんだ」と断定するのだが、要するに、慶應の内部進学の教授・助教授というのは《自分が知らないもの・わからないもの・できないものは、何でも「受験勉強だ」にして「害がある」と決めつける人間シンドローム》という「ほとんどビョーキ」なのである。

  《福沢諭吉の著作や生き様とは何の関係もないもの、むしろ、福沢諭吉の主張とは逆であるようなものを「福沢精神」と言いまくらないとおれない症候群》みたいな人が、慶應の内部進学の人には大変多い。そういうのは、良くないのではないか・・・などと言おうものなら「受験勉強の悪影響だ」と言われる。なんでやねん! そもそも、私などからすると、「高校の勉強」と「学問そのもの」と「受験の際の勉強」とはまったく別のものではないので、「高校の勉強」は大学入試のためにだけあるのではないはずであるし、大学入試には合格して成功した方がいいけれども、たとえ、思うように合格できなかったとしても、だからといって「高校の勉強」が何の価値もなくなるわけではないはずであるし、受験に際して学んだものでも、受験以外においても役立つものはあるはずである・・・と考えていたし、今もそう考えている。ところが、慶應の内部進学の人はそうは考えない。ともかく、自分が知らないもの・自分ができないもの・自分がわからないものは「受験勉強だ」になり、そして、「害があるんだ」になるのである。そういう思考を「注入教育」されてきた人たちなのである。

  高校までにおいて「すべてにおいて一通り」を学び、大学の教養課程において「すべてにおいて何か」を学び、それらの一般教養を基礎として、専門課程において「何かにおいてすべて」を学ぶ・・・というのが、京都大学の法学部教授だった末川博などの考え方であったのだが、ところが、慶應の内部進学の人はそうは考えない。そうではなく、高校までで学ぶ「すべてにおいて一通り」のことを「受験勉強だ。害があるんだ」と断定する。そして、公立進学校出身者ならば、「すべてにおいて一通り」と「すべてにおいて何か」という一般的教養の上に「何かについてすべて」の専門を打ち立てようとするところを、内部進学の人はそうではなく、「塾風」の上に「何かについてすべて」を載せようとするのである。「我々内部進学の者は受験勉強の能力はない。しかし、そのかわりに塾風というものを持っている」とおっしゃるのだ。「塾風」て何なんだ? ・・・というと、「慶應の内部進学の人が持っている何か」のことである。「ヤマトダマシー」みたいなものであろう。なんだか、慶應という学校は、「一木一草に塾風が宿る」みたいな学校であるのだが、その「塾風」というのを内部進学の人は保菌しているらしいのだ。
  遠山啓は、「観」というのは、「術」を身に着けて、その「術」を使って「学」を学び、その「学」を身に着けた結果として「観」が得られるものであって、「術」⇒「学」と関係なく、「観」を観念的に注入するようなことは、決してあってはならない、と述べており、私もそう思ってきたのです。「観」の注入教育は「害がある」と思ってきたのです。ところが、慶應の内部進学の人というのは、「塾風」という「観」の注入教育を受けてきた人たちなのです。 そして、そういう「塾風」という「観」を「常識」だと思っているのです。そういう「常識」を基に、「慶應心理学」は人を「診断」するのです。
  ですから、どちらを「害がある」と考えるか、というのが、「慶應心理学」や「慶應学生相談室」と私とは認識が正反対なのです。

  私は、「観」の注入教育というのは間違っていると思います。こういうことを言うと、「受験勉強の悪影響だ」と「慶應心理学」や慶応学生相談室から言われるでしょうけれどもね。
  「観」の注入教育は間違っているし、「すべてについて一通り」「すべてについて何か」という一般教養の上に「何かについてすべて」という専門は打ち立てられるべきであり、「塾風」という「『観』の注入教育」の上に打ち立てられるべきものではない、と思います。こういうことを言うと、「自我が確立されていない」「独立自尊の精神がない」「未成熟」「外罰的性格である」「モラトリアム人間病にかかっている」その他、なんたらかんたらくんたらこんたら言われるでしょうけれども。
  その《「観」の注入教育》を受けてきた人たちが、「(慶應義塾の)外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」と言うのです。

  「作家で精神科医」の なだ いなだ が、抑圧的な社会においては、自我が確立されている人の方が生きていくのに苦労することがある・・ということを書いていた。『権威と権力』(岩波新書)・『お医者さん』『教育問答』(中公新書)のいずれかだったと思うのですが、どこだったか見つかったら、補填したいと思いますが、どこかで述べていたのは確かで、もしも、述べていなかった、ということがあれば、その時は私が言うだけのことです。 抑圧的な社会においては、自我が確立された人の方がそこで生きていくのに苦労する、ということがある。ですから、学生相談室の「カウンセラー」「心理学者」と称する慶應女子高女のような「塾風主義者」にとっては、抑圧的な空間の方がここちよく、内部進学独善主義が支配する抑圧的な社会・抑圧的な空間で生きやすい人間のことを「自我が確立されている」とか称するのですが、実際は逆であった、と考えておかしくないと思うに至りました。
教育問答 (1977年) (中公新書) - なだ いなだ
教育問答 (1977年) (中公新書) - なだ いなだ
  《「塾風」という「観」の注入教育》をおこなっている慶應内部進学の学校の出身の人にとっては、その「塾風」が支配する空間がここちいいようですが、それは、逆に、「自我が確立された人」にとっては生きにくい空間なのです。 ところが、「慶應心理学」や「慶應学生相談室」は逆を言うのです。 どういう状態を「自我が確立された」状態と考えるのかを、逆を言うのです。そもそも、「自我」て何なんだ? という問題もあります。 そういった「心理学用語」「精神医学用語」というものを使うから、だから、「心理学者」「精神医学者」と称する人たちが言うことが正しく、そうでない者は正しくない、「医者」「心理学者」は「正常」で「患者」「クライアント」は「異常」「病気」だと断定されてしまうことになる。  本人訴訟をやると、法律用語の「ジャルゴンの森」に引っ張り込んで困らせてやろうとする裁判官が出てきますが、その類の裁判官とともに、「心理学用語」「精神医学用語」「精神分析学用語」を使用することで、結果として、「心理学者」「精神医学者」「精神科医」は間違っていても正しい、という結論に持って行く、というその手口を取る者、そういうことをやっている連中というのは、民主主義に逆行する行為をおこなっている人たちです。 そういう「精神医学」「心理学」はファシズムです。彼らはそれを認める謙虚さに欠けますが、どう考えても、彼らはファシストです。
   ニューヨーク州立シラキュース大学の「精神科」教授 トマス=サズが『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)で、「何でも専門用語で表現すると一般用語で表現するよりも、内容までも優れたものになるわけではない」と述べていますが、私もそう思います。「自我」だとか「アイデンティティー」だとか「なんじゃもんじゃ症候群」「なんたらかんたらシンドローム」「なんとかかんとか人間」「なんたら性格」とかいった「用語」を発明して、それらの「レッテル」をひとに貼ることでおのれはよっぽどエライ人になったような態度を取りまくってきた男、小此木啓吾は、何年か前に他界しましたが、なんともはた迷惑な男でした。哲学者・文学者は何を言っても、言われた側もまた言った人間に対して言い返すことができます。言った者もまた批判されるのです。だから、哲学・文学は価値があるのです。それに対して、「心理学者」「精神医学者」と称する者(「精神科医」のうち何人かは「内科医やっていたが、内科医でものにならんから3日前に精神科医に転職した人」です)が「専門用語」と称する寝言・戯言を駆使することで、「けむに巻く」ということをやっている。 専門用語を使用することで、「自我が確立されている」という表現を実際とは逆のものについて言っているのです。そもそも、《「自我が確立されている」のならこうするはずですよお》と言われて、簡単に「心理学者」とか「精神科医」とか称するような連中の誘導に乗ってしまう人間、「自我が確立されている」人間と認めてもらうためにはこうしないといけませんでしょ、そうしなければ「自我が確立されていない」と「診断」されますよおと脅されて、そのまんま信じて「心理学者」「精神科医」の誘導に乗る人間というのは、そういう人間を「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか言うのですか? 逆でしょ、普通は逆だと考えるものでしょ、普通は。違いますか? 
精神医学の神話 (1975年) - 河合 洋, T.S.サズ
精神医学の神話 (1975年) - 河合 洋, T.S.サズ
( "The Myth of Mental Illness."  トマス=サズ『「精神医学」という神話』 岩崎学術出版社 ↑ 
 ”of” は、この本の内容から考えて、「~という」と「同格のof」として訳すのが正しいと思われます。 )
  塾風というものは、「術」⇒「学」⇒「観」という順番でそれぞれの人間が身に着けていくべきもので、それぞれの人間によって獲得された「観」は異なるものであり、自分とは異なる「観」の存在もまた認めることができる者こそ「自我が確立されている」人間・「独立自尊の精神」を持っている人間であるはずだ・・・という姿勢が「塾風」なら悪くないと思いますが、慶應義塾においてはそうではない。そうではなく、「内部進学の人が持っている何か」を「塾風」と称し、その「塾風」には「外部の者」は従うのが義務だと内部進学の人は思っているのです。そういうものが義務だという文章は慶應義塾の規約にはありませんけれどもね。

  1980年代、慶應義塾の塾長の石川忠雄が、中曽根臨教審の委員として、「教育勅語のようなもの」を設置したがった理由はわかりますか? 要するに、慶應、特に内部進学の人の慶應におけるところの《「塾風」のようなもの》を、《もはや、我、生くるにあらず、「塾風」我が内にて生くるあり》の人、《「塾風」なければ何もなし》の男が欲しがったのです。 おのれの心の中には「『塾風』なければ何もなし」の男にとっては、「塾風のようなもの」もしくは「教育勅語のようなもの」がないと「何もなし」になってしまうので、そういうタイプの人は、そういうものを欲しがるのです。
  公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校⇒・・と進んだ者には、不十分な場合もあるけれども、「術」⇒「学」⇒「観」という学問観ができています。 「すべてについて一通り」「すべてについて何か」があってその上に「何かについてすべて」を確立しようという姿勢ができています。それに対して、内部進学の人というのは「もはや、我、生くるにあらず。塾風、我が内にて生くるあり」みたいになっている。「塾風」によって自分というものが否定されて、自分というものを失っている。 別の表現をすると《「自我」というものが確立されていない状態になっている》、しかも、「自我を失った状態」のことを「自我が確立されている」状態だと注入教育されている。 「独立自尊の精神」がない状態のことを「独立自尊」だと注入教育されてきている。 そういう人にとっては、「国」「国家」「政府」もしくは「天皇」から与えられる「教育勅語のようなもの」もしくは注入される「塾風」が欲しいのです。「術」⇒「学」から「観」を身に着けてきた者にとっては「教育勅語のようなもの」は邪魔であり、そのようなものを設けられるのは迷惑ですし、「塾風」もまたそれは「自我が確立された状態」の者には不要のもので、「独立自尊の精神」と「塾風」は並存しないもののはずですが、「自我を失った状態」が「自我が確立されているという状態」であると注入教育されてきた人たち、「独立自尊の精神が欠落した状態」が「独立自尊の精神」であると注入教育されてきた人たちにとっては、「国」「国家」「政府」もしくは「天皇」から与えられる「教育勅語のようなもの」が欲しくなるのです。はっきり言って、「ちっぽけな野郎」です。
  「教育勅語のようなもの」を元慶應義塾塾長の内部進学石川忠雄さんが欲しがった理由がわかりましたか? 今も、その同類の人たちが慶應義塾では「(慶應の)外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」とか叫んでいらっしゃることでしょう。種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うような「ギャルにもてもての慶應ボーイ」が。

  だいたい、「何かと、まとまったり、まとめられたりするのが好きな人間」て、気色悪いと思いませんか? ところが、慶應女子高の生徒というのは、そういう状態が「ここちいい」らしいのです。 そういうのを慶應内部進学の人、および、「慶應心理学」は「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神をもっている」とか「診断」するのですが、それって、逆と違うのか? ・・・なんて私などは思ってしまうのですが、うかつに彼らにそれを言ってはいけません。 『新約聖書』にはイエスの言葉が載っています。「聖なるものをイヌにやるな。又、真珠をブタに投げてやるな。おそらく、彼らはそれらを足で踏みつけにし、向き直って、あなたがたに噛みついてくるであろうから」と。
  そんなこと言いながら、私はそれをここで述べているのですが、ふと、気づくと私もそれなりの年齢になってしまったから、そうなると、近いうちにこの世とおさらばすることになるという可能性だったないとは言えませんから、だから、ここに述べておこうか・・とか思ったりもするのですが、フリードリヒ=ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』の冒頭にニーチェが書いている文句があったと思います。
「万人に与える書。 何人にも与えぬ書。」と。 ・・そんなものです・・。

(5) 山本七平の類のテキストを使用する慶應大学の「英語(1)」
  大学では教養課程で、外国語を英語ともう1か国語を学習することになっている。私は、何学部でも、何語でも選択できるのだろうと思っていたら、そうではなく、慶應大学の場合は、文学部は英語ともう1か国語は何か国語もの中から選択できたが、経済学部・商学部・法学部法律学科・法学部政治学科の場合は、英語の他のもう1か国語はドイツ語かフランス語のどちらかとされていた。 フランス語というと、「フランスに丁寧語の『お』をつけて呼ぶアホな女の学ぶもの」という印象があったし、まず、「フランス文学科・お茶・お花・着付け」の4つは「女性版 俗物4種の神器」であるし、ドイツ語というとヒットラーとナチスの国の言語という印象があり、どちらもあんまりいい印象はなかったが、その2つからどちらかを選択だった。高校で英語だけ学ぶだけでも大変なのに、もう1か国語なんて学べるのか・・という感じもしたが、英語をある程度学んだ者にとっては、ヨーロッパ系の言語の2か国語めというのは、けっこう学習しやすいという面もあったが、イタリア語とかロシア語とかデンマーク語とか、そういった言語を学びたいと考えると、ヨーロッパ系の言語の2か国語目は学習しやすいという面があったとしても、3か国語となると、「ID野球」「弱者の戦術」としての「戦力の集中」から考えて、力が分散されることになり、又、経済学部とか商学部とかいう学部というのは「遊んどる」とかうちの父親は言いまくるのだったが、ちっとも遊んでないし、慶應の商学部はそんなに暇じゃないし、いったい、どこからそんな話を仕入れてくるのかと思うのだが、東京外大とか旧大阪外大、現・大阪大学外国語学部とかの外国語学部に言っておけば、ほとんど、外国語だけ学習することができるのに対して、慶應の経済学部・商学部といった所に行くと、外国語以外に学習しなければならないものが相当あるので、やはり、「戦力の集中」ということを考えると、外国語を相当学びたいと思うのなら、東京外大とか大阪大学外国語学部(旧大阪外大)とかに行った方が学習しやすいか・・・とも思えた。
  それはそれとして、英語については、1年で「英語(1)」「英語(2)」、2年で「英語(1)」「英語(2)」が必修科目で、いずれも、「英語(1)」は高校のサイドリーダーみたいなもの、英語の小説か評論のテキストを読んでいくというものだったのだが、なんで、慶應の「英語(1)」というのは、こんなにくだらない文章ばかり読ませたがるのか、と何度も思った。 北野高校の1年の時、クリストファー=イシャウッドの『さらば、ベルリン』という本をサイドリーダーにして授業がされたが、その際、英語の先生が、「北野高校の生徒に、幼稚園児が読むような本を読ませるわけにはいかんから、だから、『さらば、ベルリン』とかそれなりの内容の本にしないといけない。そうなると、文章もそれなりに難しい文章が出てくる」と言われたものだったが、慶應の「英語(1)」で使用されるテキストは、英語の文章はそう難しい文章のものではなかったが、述べられている内容の程度があまりにも低くて、読んでも面白くないし、実際のところ、「なんで、こんなもの、読まされなければならないんだよお」という感じの本が多かった。「多かった」というのは、普通は「英語(1)」は1年と2年の2回なのだが、3回以上経験しているので、それで「多かった」と論評することができるわけだ・・・。
  その中でも、成瀬という助教授が担当したものは、ナンシー=坂本 という正体不明の作者による「日本文化論」というのか「日本人論」というのかで、これは内容がおかしい! と思った。 「日本人は・・・」とかいう言い回しで述べられているが、実際の日本人はそんなものではないのに、そういう「日本人論」を広めることで、自分たちの主張、その多くは右派の主張、もっと言えば反動の主張を通そうとする人というのが昔からいた。 
にせユダヤ人と日本人 (朝日文庫) - 浅見 定雄
にせユダヤ人と日本人 (朝日文庫) - 浅見 定雄
  うちの母親は、「教会」という所に行って、牧師屋の先生から推薦された本を購入して読んだりしていたが、イザヤ=ベンダサンという怪しい男、結論として山本七平という日本人のイカサマがユダヤ人だと名のった偽名らしいが、その『日本人とユダヤ人』とかを「キリスト教の本」だと思い込んで読んでいたが、、山本七平の名前での『日本資本主義の精神』とかもそうだが、最初、山本七平は無教会派キリスト教徒だというから、それなりの本かと思って読んでいくと、うんざりさせられるだけで、得るものなんて何もない、そういう本だった。
  山本七平は怪しい・・・と感じたのだが、その頃、浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社)が出版され、本多勝一『殺す側の論理』でもイザヤベンダサン=山本七平は、本多勝一との議論に完全に敗れている。山本七平=イザヤベンダサンという男は、まったく、よくも、こういうくだらない本を書いて国民の意識を混乱させるものだと思ったのだが、慶應大学の「英語(1)」のテキストに成瀬という助教授(男。当時、30代後半くらい?)が選んだ、ナンシー=坂本というイカサマくさいペンネームの著者の評論も、イザヤベンダサン=山本七平と似たような内容のもので、なんで、この成瀬さんという助教授は、わざわざ、こんな変な本を「英語(1)」のテキストに選ぶんだ?・・・と思った。
  それで、私は、成瀬助教授に親切心からお伝えしたのだ。「イザヤベンダサン=山本七平の日本人論はおかしいということが浅見定男『にせユダヤ人と日本人』などで指摘されていますが、このナンシー=坂本という人もその同類ではないか、と私は思ったのですが」と。私は、成瀬さんの立場を配慮して、学生みんながいる前で話して、そういうアホな本をテキストに選定した助教授を笑いものにするようなことはしない方がいいと考えて、それで、成瀬さんに恥をかかせないようにと思って、「英語(1)」の授業が終わった後、個人的に成瀬さんの所に行って話すようにしたのだった。
  ところが・・・だ。 助教授の成瀬さんは、私が、せっかく、親切で教えてあげたのに、それも、みんなの前で話して成瀬さんに恥をかかせないようにと配慮して、授業の後で個人的に行って教えてあげたのに・・・、「そんなもん、日本人論なんて、いくらでもあるよ」などと言って不服そうにしてふくれっ面したのだった。なんだ、こいつは! と思ったが、その時、彼の顔を見てわかった。こいつは内部進学だ、と。慶應義塾高校卒だ、この男は、とわかった。慶應義塾高校卒の男・慶應女子高卒の女にそんなこと言ってもだめだ。こちらとしては、親切で教えてあげたつもりでも、「ブタに真珠」である。それにしても、慶應大学の「英語(1)」のテキストとして使用されるものは、実に内容が低い。 内容が低いものというのは、英語の文章として易しいか難しいかと別に、読んでも面白くもないし、そんな本を読まされるのは苦痛だった。英語のサブリーダーのテキストなんて世の中にはいくらでも出ているのに、な~んで、わざわざ、こんなイカサマの本を選び出してくるのか・・と思ったが、慶應の内部進学の助教授の知能程度で選ぶとそういうものを選ぶことになるようだった。
殺す側の論理 (朝日文庫) - 本多 勝一
殺す側の論理 (朝日文庫) - 本多 勝一

  慶應の内部進学の某男子学生は、英語の agriculture を、agriculture と発音せず、agriculture と発音するようだ。 いくらなんでも・・・と思ったのだが、こういうことを言うと、「慶應心理学」から「そういうことを言うというのは、受験勉強の悪影響だと思います」 と「診断」されることになります。
  英語の名詞で、語尾が -ure であれば、アクセントは頭にある・・・というくらいは、まがりなりにも、大学に進学しようという者ならば常識であろう・・・と思ったのですが、ところが、「慶應心理学」によると、agriculture を、agriculture と発音すると「受験勉強の悪影響です」とか「自我が確立されていないから、そういうことを言うのです」とか「独立自尊の精神がないからそういうことを言うということですね」とか「モラトリアム人間の特徴ですね」とか「未成熟だからそういうことを言うのです」とか「外罰的性格」とかなんとかかんとか「診断」されることになり、agriculture  と発音すると、「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか「福沢精神を身に着けている」とか「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とかなんとかかんとか、「慶應心理学」は「診断」することになります。「心理学」というのは、そういうものです。 毛沢東は、どこでだったか、「敵によって反対されるなら、それは大変けっこうだ、と考えるべきである。なぜなら、敵によって称賛されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵によってありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、我々の行動が敵とは一線を画していることを意味しているからである」と述べていたが、「心理学」からありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、むしろ、それは「大変けっこうだ」と喜ぶべきものであり、「心理学」から称賛されたなら、むしろ、それは、我々の行動が腐敗していることを意味している、と考えてよいであろう。又、『新約聖書』「福音書」には、「あなたがたが、私ゆえに、ひとびとから悪口雑言を浴びせられるなら、あなたがたは喜びなさい。あなたがたよりも前の預言者もまたそういう扱いを受けたのである。天にて受ける報いは大きい。喜び喜べ」と述べている。まさに、「心理学」からありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、むしろ、喜び喜べ、天にて受ける報いは大きいのである、と考えるべきであろう。
  だ~いたい、agriculture を、agriculture と発音すると「受験勉強の悪影響」で、agriculture  と発音すると、「慶大生らしい思考の柔軟さ」なのか、ぼく、頭わるいのんか、さっぱりわからへん。・・・・内部進学で、agriculture  と発音する人というのは、大企業の役員の息子らしいので、大企業の役員の息子の場合は、何やろうがやるまいが「思考が柔軟」「自我が確立されている」「アイデンティティーをもっている」という「診断」をされることになるのかもしれないし、私なんか、何やろうがやるまいが、なんとかかんとか症候群・なんじゃもんじゃシンドロームとか「診断」されて、電気ショック! とか、ロボトミー! とか・・される危険があるから、そうでなくても、「入院療法」(=拉致・逮捕監禁)・「薬物療法」(=薬漬け・毒盛り)・「作業療法」(=強制労働・労働搾取)・「心理療法」(=言いくるめ・マインドコントロール)など、「なんじゃかんじゃ療法」と「何でもやってみようの精神」で「療法」と名のつくものがいっぱいあるから、もう、怖い、こわい、怖い、こわい・・・・・、もう、ほんとに怖い、こわい、怖い、こわい!!! 「心理学」には近よらん方がええで。特に「慶應心理学」は内部進学独善主義の世界観で「診断」されることになる。彼らにとっては「内部進学は間違っていても正しい」というのがそれが第一の大前提である。 何言い出しよるやらわからんし、何しよるやらわからんからなあ。ほ~んまに、怖い、こわい、怖い、こわい!!! もし、近よってきよったら、一定距離離れるように、距離を置いて遠巻きにするようにした方がええ。 近づくと危ないぞ。ほんま、近よらん方が絶対にええ!!!

   慶應大学の「英語(1)」のテキストというのは、なんで、わざわざ、こんな変なものを探し出してくるのか・・と思うものが多かった。三田の専門課程での「専門外書購読」のテキストも、なんだ、これが「専門外書購読」なのかあ? というようなテキストを使用する教授・助教授もいらっしゃった。
   教学社から出版されていた『大学別入試問題シリーズ 東大文科』(教学社)で、「各科目学習法」の「英語」で、「バートランド=ラッセルなどの文章を読んでおくようにする」と書かれていたので、それで、私は、サイドリーダー用に出版されている本や原書でバートランド=ラッセルの文章を探し出して何冊も購入した・・・けれども、英語の文章なので日本語を読むような速さでは読めないので、それで、購入したものの、その半分も・・・というより、3分の1も読めないうちに入学試験の試験日が来てしまった。 高校の2年の時、龍口直太郎『英文解釈読本 応用編』というのが使われたが、龍口直太郎という人は『月と6ペンス』などの著者のサマセット=モームの翻訳者として知られる人で、この『英文解釈読本 応用編』にも、サマセット=モームの文章が使われていることが多かった。 ・・バートランド=ラッセルというと、平和主義者というのか、「リベラル」な人とされていて、今では企業の面接において「尊敬する人物は?」という質問は面接でおこなうべきではない質問と厚生労働省は指摘しているらしいが、私が大学生だった頃、1980年代においては、「尊敬する人物は?」ときかれたら、誰と答えられるようにしておかないといけない・・と言われたもので、その話をうちの父親にすると、「尊敬する人物っちゅうたら、それはなんちゅうても、わしや、わし、わし、わしい~い♪!♪!♪!♪」と言うので、このおっさん、絶対、アホや( 一一)!( 一一)!( 一一)!( 一一)!・・・と思ったものだったが、もし、面接の場で、たとえば、「レーニン」とか答えるとどうなるのだろうか・・・とか考えたものだが、「レーニン」ならいかんのなら誰ならいいのだろうか? 「ナザレのイエス」はどうか? 「道元」とかはどうか? 宗教に関係する人物はいかんのか? それなら、サルトルはどうか? サルトルは、アルジェリアに対するフランスの対応、ベトナムに対するアメリカ合衆国の対応などに反対の立場をはっきりととって、ノーベル文学賞を拒否するなどもした人間であり、哲学者で文学者といえども、政治に関わった人物であるから避けるとすると、森鴎外とか夏目漱石とかだといいのか? しかし、夏目漱石なんてのは、「実業家」というのを「胡散臭い存在」と見ていて、具体的に、岩崎弥太郎なんてのはその「胡散臭い存在」の「実業家」とはっきりとわかるように述べているから三菱系の会社では夏目漱石の名前は出さない方がいいか?  サルトルが「たいした人間じゃない」と言っているロマン=ロランなんてのは人畜無害でいいか? ・・・とこう考えると、結局、「尊敬する人物」ではなく、「『尊敬する人物は?』と訊かれて、この人なら無難とあなたが考える人物は?」という質問になってしまうのではないのか・・・・と思ったのだ。そう思いませんか? そうなりませんか? 「そやからやなあ、そやから、『尊敬する人物』いうたら、何と言うても、わしやがな、わし、わし、わしい~い。尊敬する人物はこのわしい~い!」とうちの父親が言いまくるので、このおっさん、どう考えても絶対にアホや!!! と思ったものだった。このおっさんだけは「尊敬する人物」でないのは確かや、とも思った。・・そういう際に、「『尊敬する人物』として答えて問題なさそうな人物」として、バートランド=ラッセル なんてのは、妥当なところか・・・とか、考えたのだが、なんか、「しょーもない質問」してるような気がする・・・。「『この人物の名前を出すと比較的問題なさそうな人物』とあなたが考える人物を答えてください」なんて、そんな質問して何になるか? ・・と思ったものだったが、その「この人物の名前を出すと比較的問題なさそうな人物」として、ロマン=ロランとか、バートランド=ラッセルとか、そのあたりに出てくる名前ではないか、と思う。 「わしやがな、わし。尊敬する人物は、わしやて、言うとるがな。わし、わし、わし、わしい~い」と言うおっさんではないのは、それだけは確かだけれども・・・( 一一)
   それで。 教学社の大学別入試過去問シリーズの『東大 文科』の「各科目学習法 英語」で、「バートランド=ラッセルなどの英文を読んでおく」というのがあって、高校2年の時に使用した龍口直太郎編『英文解釈読本 応用編』の編者の龍口直太郎さんはサマセット=モームの翻訳者で、『英文解釈読本 応用編』にもモームの文章を多く取り入れていたのだったが、そういう「高校の英語」や「大学入試の英語」で題材に使用されたバートランド=ラッセルやサマセット=モームの英文だと「受験勉強だ」「害があるんだ」とか慶應の教授は言いそうですし、慶應の学生相談室は「受験勉強の悪影響ですね」とか「自我が確立されていない」とか「未成熟」とかなんとかかんとか症候群とか「診断」するでしょうけれども、それなら、ナンシー=坂本とかいう、「アメリカ合衆国生まれで日本人と結婚して日本に居住している女性」ということにして英文を書いているけれども、実際はイザヤベンダサン=山本七平と同様に、日本人のおっさんが「アメリカ合衆国生まれの白人の女性で日本人の男性と結婚して日本に住んでいる人」だということにして書いた本と違うんかい・・・なんて感じの変な本だと、「が~くもん!」ということになる、というのは、それは変だと思うのだ。 どう考えても、成瀬助教授がテキストに選んだナンシー=坂本とかいう胡散臭い著者とバートランド=ラッセルやサマセット=モームなら、ラッセルやモームの方がまともであり、ラッセルやモームの英文を読んだ方が「ためになる」はずである・・・・と思うのだが、こういうことを言うと、慶應大学の学生相談室とか「慶應心理学」から「受験勉強の悪影響ですね」とか「自我が確立されていないから、そういうことを言うということですね」とか「独立自尊の精神をもてば、そういうことは言わないはずです」とか「思考の硬さが気にかかります」とか、なんとかかんとか、なんたらかんたら、「診断」されることになる。怖い、こわい、怖い、こわい! お~、こわあ~あ!!! ということになる・・・・が、なんで、わざわざ、そんな、イザヤベンダサン=山本七平の同類みたいな著者の本を探し出してきて、そんな英文を必修科目のテキストにしなきゃならんのだあ? ・・・と思いませんか? 少なくとも、ラッセルとかモームとかの方が、ナンシー=坂本よりは、よっぽどまともと思いませんか???  そうでなければ、社会科学系学部での「英語(1)」の授業のテキストだからということならば、私がこれまで書店の棚で見たサイドリーダー用テキストでは、ガルブレイズ『不確実性の時代』とか、そういうものもあるわけで、なんで、わざわざ、よりによって、イザヤベンダサン(「さあ(イザヤ)、う〇こ(便)、しよう(出さん)♪」という意味だ、と遠藤周作は『狐狸庵閑話』だったかで述べていたが。案外、実際にそういうところからの命名かもしれん。)=山本七平の同類みたいなナンシーー坂本なんて胡散臭いやつの英文を選ばなきゃならんのだあ??? ・・・なおかつ、私は、まがりなりにも大学の先生ならば、そのナンシー=坂本なる著者のうさん臭さに気付かなかったからテキストに選んだのであろうと思い込んで、それで、親切にそれを指摘してあげたのだったが、なおかつ、他の学生もいる場所で指摘して助教授に恥をかかせないようにと配慮して、授業が終わった後で、他の学生がいない場所で指摘してげたのに、それなのに、「そんなもん、日本人論なんていくらでもあるよお!」などと言ってふくれっつらした、「なんだ、こいつ!」という感じやった、というあたりは、やっぱり、慶應義塾高校卒の助教授だなあ・・・という印象、こいつ、あんまり賢くないなあという印象だった。それまで気づいていなかったのだが、その時の彼の顔を見て、「慶應義塾高校顔」だなと、その時、気づいた。世の中、不思議なことに、「警察顔」とか「不動産屋顔」とかいう顔があり、わかる時があるのだが、同じく「慶應義塾高顔」「慶應女子高顔」というのがあってわかる時があるのだが、それまで私は気づいていなかったが、その時の成瀬さんの顔を見て、明らかにまるまる「塾高顔」だとわかった。それまで、気づかなかったのはうかつだった。慶應義塾高校卒なら教えてあげるだけ無駄な人間と判断して、言わなかったところであった。 慶應の内部進学の人間というのは、中学校や高校の時から、こんな感じの人に英語の授業をされてきた、ということなのだろうか? ・・とすると、かわいそうな授業を受け取るなあ~あ・・・と思ったものだった。

  慶應の教授(内部進学)というのは、高校までの学校でやっているものは何でも「そんなものは受験勉強だ」「害があるんだ」と決めつけるのだが、そうすると・・・、高梨健吉『基礎からの英語』(美誠社)とか高梨健吉『総解英文法』(美誠社)とかいうのも、あれもまた、「受験勉強だ」「害があるんだ」ということになる・・・はずだが、高梨健吉さんというのはどういう肩書の人かというと、「慶應大学文学部教授」という肩書の人だったはずだが、もしも、「害がある」のなら、慶應大学文学部教授の先生は、そんな「害がある」ような本を書かないでもらいたいものだ・・と思うのだが、そう思いませんか?  私は、高梨健吉著『基礎からの英語』・『総解英文法』(美誠社)が「害がある」とは別に思いませんけれども・・・、「慶應心理学」によると「害がある」ことになるらしいのです・・・。

  慶應大学の1年の時の必修科目の「英語(1)」で、M教授は「売春というものは、そういった仕事についていない女性を守るために必要なものだと思います」と発言し、その時、私は、大学の先生ともあろうものが、なんてことを言うのだ! と驚いた。
  井上清『現代日本女性史』(1962.5.21.三一新書)には、
《 「良家の子女」をまもるためには、売春も「必要悪」とせざるをえないなどと、もっともらしく説かれるが、それはとんでもないうそである。売春婦のむらがる基地は、右のように〔 呉市では、1952年4月28日から7月6日までに、114件の米兵の強姦事件があった。東京芝では、わずか3年9ヵ月の幼女が、1952年10月9日米兵に暴行され、下半身を血だらけにされた。警察へうったえても、全然とりあげてもくれなかった。北海道の米軍基地は、パンパンの都として、海軍の横須賀とならぶ有名な基地であるが、そこでは、3千人の女性のうち、米兵に暴行をうけなかったものはわずか9%しかないという。(五島勉「続日本の貞操」)〕暴行も多かった。のみならず、売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる。青少年犯罪、とくに性的犯罪が、50年以後多くなるが、それは、売春の盛行と関係がある。・・・》
と書かれているが、私も井上清氏と同様に思う。 慶應の内部進学の教授は、慶應の内部進学の男のために、風俗営業を職業にする女性を生産する必要がある、と考えたのではないか。 なおかつ、慶應の内部進学の男のために風俗営業させられる女性は、慶應の内部進学の女以外の女性から供給するのが「常識」で「正常」だと考えていたのであろう。
現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清
現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清
  但し、実際には、《 売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる。》という面が間違いなくあるけれども、それとともに、風俗営業の女性がいることで、そうでない女性を相手にしないで、それを仕事にしている女性を相手にする、というケースもないことはない、とも今は私は思っている。だから、実際には両方の面はあると思う。
〔 但し、2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県佐野市の営業所(展示場)にいた時、愛称「高木のおっさん」(男。当時、50代。最終学歴:高卒。元クルマ屋。創価学会員。)が「俺は、会社の女の尻をさわりてえんだあ~あ!!!」と展示場の事務所で叫んでおりまして、「高木のおっさん」の場合は、たとえ風俗営業の店があっても、そういう店に行ってそういう店の女性にやるのではなく「会社の女の尻をさわりてえんだあ」ということだそうです。そういうおっさんに対しては、たとえ、風俗営業の店があったとしても、そういう店があることで、そういった職業についていない女性が被害に合うのを防ぐという効果はあまり期待できないでしょう。 そういうおっさんに対しては「保安処分」として断種措置でもするしかないのか? 
保安処分 (1984年) (三一新書) - 青木 薫久
保安処分 (1984年) (三一新書) - 青木 薫久
・・とりあえず、「聖教新聞を購読しろお!」とストーカーとなって追いかけてくるのを、あれを何とかしてほしいものだ・・と思う。会社は従業員が、職場内において聖教新聞の押売りをやるのを防止するのは保護義務として対処しないといけないはずですが、(株)一条工務店は「保護義務違反の(株)一条工務店」でした。〕
  しかし、両方の面があるとは思うものの、実際に両方の面があるから、だから、M教授は「性風俗の店というものは、そういった仕事についていない女性を守るために必要なものだと思います」と言ったのかというと、それは違うはずだ。そうではなく、《売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる。》という面を認めたくないから、だから、言ったのであろう。 そのあたりが、慶應という学校の特徴である。
  今から考えると、やっぱり、20代の頃というのは今よりも純真だったかと思います。それでも、おまえはそんなにご立派な人間なのか、とか言われると、あんまりそうは思いません。しかし、私がご立派な人間かどうかはあまり関係ないと思うのです。全体として見ると《売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる。》という面は間違いなくありますが、しかし、部分部分で見ると、風俗営業に従事している女性がいるから、だから、そういう女性を相手にするようにして、そうでない女性にはしないという結果になっている場合もあると思うのです。しかし、そうであったとしても、やはり、「売春というものは、そういった仕事についていない女性を守るために必要なものだと思います」という考え方は、やっぱり認めがたい。『新約聖書』「福音書」には「九十九の羊」の話がありました。主が牧場に100匹の羊を飼っておられたが、そのうちの1匹が牧場から迷いでてどこかに行ってしまった。「主よ、99匹いるのですからよいではありませんか」と言うと、主は言われた。「いや、その1匹も私のものだ」と。100人のうち99人が幸福な人生を送っておれば、1人くらいなら不幸になっても良いなどということはない。100人のうちの1人でも主は不幸になることを決してお許しにはならない、主は牧場にいる99匹の羊を置いて、迷い出た1匹の羊をどこまでも捜しに行かれる・・・、主は99人が幸せな人生を送っておれば、あなた1人が不幸になってもかまわないなどとは決して認められることはない、と。その考え方からすれば、たとえ、そういう職業についていない女性を守るという効果があったとしても、「売春というものは、そういった仕事についていない女性を守るために必要なものだと思います」という「慶應タイプ」の考え方はやっぱり認めがたいのではないか。
  そもそも、「売春というものは、そういった仕事についていない女性を守るために必要なものだと思います」といったことを慶應内部進学の人が言い出す時、慶應女子高女とかはどっちの側なのか? 守られる側だという前提で考えていますでしょ。そういう人を守るために風俗営業させられるのは誰かというと、慶應女子高女とか慶應内部進学の人間の娘・姉妹ではなく、公立校出身者がそういう役をやるものだ・・と慶應内部進学の人は考えていますでしょ。かつて、私が通った小学校か中学校の教室で隣の席にいたような人間がその役をやればいい、と内部進学の人は考えていますでしょ。そのあたりの思考・思想・世界観というものが、どうも、好感を持てません。慶應内部進学の人は、私などに対しても、大学だけ慶應に行った人間だから、大学だけ慶應に行った人間というのは自分たち内部進学の子分・手下として、内部進学の人間より下でも公立高校出身者より自分たちに近い立場として扱ってやろうと考える人もいるようなのですが、私などからすると、やっぱり、自分はどっちの側かというと、公立高校出身者の側なのです。強姦する側か強姦される側か、強制猥褻する側か強制猥褻される側かというと、慶應女子高女というのは女性であっても強姦する側・強制猥褻する側の人間であり、私などは男性であっても、強姦される側・強制猥褻される側なのです。女性は女性であるというだけのことで被害者ヅラできる権利があるわけではありません。慶應女子高女というのは、「慶應タイプの女たらし」「慶應タイプの強制猥褻男」の仲間であり、私は「慶應タイプの女たらし」「慶應タイプの強制猥褻男」の被害者の方の仲間なのです。慶應女子高でなくても「慶應タイプの女たらし」「慶應タイプの強制猥褻男」の仲間の女というのはいますね。そういう人の立場に立つと、私などの方が「危険人物」かもしれないし、「異常」かもしれないし「病気」かもしれないし「症候群」「シンドローム」の扱いになるかもしれません。マルコム=Xは「なぜ、あなたは白人を憎むのかという質問は、羊に対して、なぜ、あなたは狼を憎むのか、という質問と同じである。強姦の被害者に対して、なぜ、あなたは強姦魔を憎むのかというのと同じである」と語ったというのですが、私からすると、慶應の内部進学の人というのは、羊にとっての狼、強姦の被害者にとっての強姦魔みたいなものです。但し、内部進学の人もすべての人がそういう人ということではないとは思います。百人に1人か千人に1人はそうではない人もおられるとは思いますが、自分たちを守るためなら、公立の学校出身の人間で犠牲になる人間が出るのは必要だと思います・・みたいな意識の人が多い、というのは事実であり、こう言うと怒る人もいるかもしれないが、怒ったって事実だろうが、違うのか? 本当のこと言われて、何を怒るんだ? 怒る方がおかしいだろうが・・と思いますね・・。

   慶應という学校には、そういう傾向が強い。一般教養の「化学」で、N教授が「川の水質汚濁の測定をする場合、汚濁の原因となる物質の塊が川を流れていて、その塊を含む部分の水を採取した場合、それをどうやって数値を出すかというと、ビーカーに入れてガラス棒でかき混ぜて、汚濁物質の塊を採取した水に溶かした上で測定するのです。ですから、たとえ、『水質汚濁が進んだ』と数値を見ると思えたとしても、実際には、たまたま、汚濁物質が浮いている部分の水を採取したというだけということがあるのです。このことを頭に入れておいて、皆さんでマスコミに勤める人は、水質汚濁が進んだという数値が出ていても、その数値を見て、環境が悪化されたという記事は書かないように気をつけてください」・・・と、こうおっしゃったのです。 あれ? 変なことをおっしゃる方だな・・・と思いましたし、やっぱり、慶應だなあ・・とも思いました。そう思いませんか?
   その先生が言われたことは間違いというわけではありません。朝日新聞編集委員だった本多勝一も、公害問題を追及しようと思ったならば、たとえ、なってない企業であっても、事実に反するようなことを述べてはいけないし、誤解を招くような記述は慎むべきで、もし、事実に反するような記述、実際よりも大げさな記述というものをしてしまうと、それは、むしろ、利敵行為になるものだといったことをどこでだったか述べていたと思う。 その先生が言われたように、川の水質についての測定は、流れている川の水を採取して、その中に塊があると、それをガラス棒でかき混ぜて溶かした上で測定するので、測定数値だけを見ると、水質汚濁が相当進んだように見えたとしても、たまたま、汚染物質の塊が浮いている部分の水を採取したから汚濁が進んだかのように見えただけ、という場合もある、ということは頭に入れて、新聞社などに勤めた人は、そういうこともあるという前提で述べるようにしてもらいたい、というのは間違いではありません。
  しかし・・・、それを言うのであれば、もしも、測定値を見ると、水質汚濁が進んだように見えても、実際には、たまたま、汚染物質の塊が浮いている部分の水を採取したから、測定値では汚濁が進んだように見えただけということがある・・・ということだけを述べるのではなく、同時に、もしも、測定値を見ると、水質は汚濁されていない、汚濁は進んでいないというように見えたとしても、実際には、たまたま、汚染物質の塊がない部分の水を採取したから、だから、測定値は悪くなかったというだけ、という場合もある・・という、そちらも言わないといけないのではないか。 片方だけ、言ったのでは、片手落ちではないのか? ・・・と思えたのですが、違いますでしょうか。
  その先生は、実験の際など親切な方で、悪気ではなかったかとも思うのですが、そうであったとしても、やっぱり、片方だけ言うのは良くないのではないか。やっぱり、「たとえ、『水質汚濁が進んだ』と数値を見ると思えたとしても、実際には、たまたま、汚濁物質が浮いている部分の水を採取したというだけということがある」と言うならば、同時に「たとえ、水質汚濁は進んでいないと数値を見ると思えたとしても、実際には、たまたま、汚濁物質が浮いていない部分の水を採取したというだけということもある」という、そちらの方も言わないといけないのではないか。 それを、「たとえ、『水質汚濁が進んだ』と数値を見ると思えたとしても、実際には、たまたま、汚濁物質が浮いている部分の水を採取したというだけということがある」という方だけ言って、「マスコミに勤める人は、こういうことを頭に入れて、数値を見て水質汚濁が進んだように見えたとしても、環境が悪化したというように記事に書かないように気をつけてください」とそっちだけ言うというのは、「やっぱり、慶應だなあ」という印象を受けた。・・・受けませんか? 受けますでしょ。 ところが、こういうことを言うと、「慶應心理学」から「自我が確立されていないから、そういうことを言うのです」とか「アイデンティティーを持っていないということですね」とか「未成熟だから、そういうことを言うのだと思います」とか、なんとかかんとか症候群とかなんじゃもんじゃシンドロームとか「診断」されることになります。お~こわ! こわい、怖い、こわい、怖い、「慶應心理学」は本当に怖い!

  慶應という学校は、性風俗を扱う店というものは、国民全体の性道徳を退廃化させるという面があるが、部分的に見ると、そういう店があることで、そういう店がなければ一般女性にやることを性を職業にする女性を相手にするようになって、一般女性を守ることになるという場合もある、としても、その両方を言うのではなく、《性風俗の店があることで、そういう店がなければ一般女性にやることを性を職業にする女性を相手にするようになって、一般女性を守ることになる》というそっちだけ言う、水質検査をすると、測定値だけ見ると水質汚濁が進んだように見えても、実際には汚濁物質が浮いている部分の水を採取して測定したから測定値が悪くなっただけである場合があるが、逆に、測定値だけ見ると水質汚濁は進んでいないように見えても、実際には汚濁物質が浮いていない部分の水を採取して測定したから測定値は悪くなかったというだけという場合もある、という問題で、《水質検査をすると、測定値だけ見ると水質汚濁が進んだように見えても、実際には汚濁物質が浮いている部分の水を採取して測定したから測定値が悪くなっただけである場合がある》という方だけ言って、「だから、マスコミに勤める人は、たとえ、測定値を見て汚濁が進んだと思えても、環境悪化が進んだという記事は書かないでください」とそっちだけ言うという、この2つ、姿勢が共通しているように思えました。この2人の先生は、個人的には親切な方ではないかと思います。そんなに悪気ではなかったのかもしれません。しかし、そうは言っても、やっぱり、慶應の先生というのは、どっちを言うのか、両方言うのか・・・というと、「かめへんやんけえ」という方になってしまう・・・ような、そういうものを感じました。

(6) 「揺り籠から墓場まで」シンドローム
  「週刊朝日」だったか「サンデー毎日」だったかに、鳩山由紀夫が自分が進学する時のことを述べていたが、鳩山由紀夫は小学校は学習院の初等部に行ったが、父親の鳩山威一郎だったか祖父の鳩山一郎だったかどっちかが「小学校・中学校・高校・大学と学校を4つ行くのなら、内部進学の学校で4つとも同じ学校に行くよりも、最低でも1つは別の学校に行くようにした方が、いろいろな人と出会えて良いと思う」と言われて、それで、中学校・高校は筑波大付属駒場高校に行って、大学は東大に行った、と話していたが、その学校がいい学校かどうかにかかわらず、たとえ、どんなにいい学校であっても「小学校・中学校・高校・大学と学校を4つ行くのなら、内部進学の学校で4つとも同じ学校に行くよりも、最低でも1つは別の学校に行くようにした方が、いろいろな人と出会えて良いと思う」と考える人と、そうではなく、「揺り籠から墓場まで慶應」というのが「正常」で「福沢精神」だと考える小此木啓吾症候群みたいな人とが世の中にはいるようなのである。私は、「小学校・中学校・高校・大学と学校を4つ行くのなら、内部進学の学校で4つとも同じ学校に行くよりも、最低でも1つは別の学校に行くようにした方が、いろいろな人と出会えて良いと思う」という考え方の方がまともだと思うのだが、《「揺り籠から墓場まで慶應」症候群の小此木啓吾》およびその同類はそうは考えないようで「揺り籠から墓場まで」を「正常」と考え、それに反するのは「異常」「病気」もしくは「未成熟」とか「なんとかシンドローム」「なんとか的性格」とか考えるようである。
  鳩山由紀夫のように「小学校・中学校・高校・大学と学校を4つ行くのなら、すべて系列の学校に4つとも行くよりも、最低1つは別の学校に行くようにした方が、さまざまな人と出会えて良い」と考える人もおれば、「揺り籠から墓場まで慶應」という””小此木啓吾シンドローム””(慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應大学医学部⇒勤務先:慶應大学医学部付属病院。まさに「揺り籠から墓場まで慶應」)が「正常」だと考える人とでは、その点については、私は、ポッポマウンテンさんの方が「まとも」だと思うのですが、小此木啓吾症候群はそうではなく「揺り籠から墓場まで慶應」(慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應大学医学部⇒勤務先:慶應大学医学部付属病院)が「正常」だと考えるらしい。「それって、違うのじゃないですか」なんて言うと、怖い! 「モラトリアム人病にかかってるから、そういうことを言うのだ」とか「診断」されて「治療」されるおそれがある。怖いぞおお~お!!!

  「たとえ、世界中を手に入れたとしても、自分自身を失ってしまったなら、それに何の価値があるでしょうか」という『聖書』の中の文句は、公立小学校⇒公立中学校⇒公立高校⇒ と学んだ者には実感として認識できますが、慶應の内部進学の人にとっては、「自分自身を失った状態」こそ「自我が確立されている」「独立自尊の精神を持っている」状態であると注入教育されてきて、そういう「観」を持っていますから、むしろ、そういった『聖書』の文句こそ、「そんなものに何の価値があるんだ」と、彼らは考えます。

  ふと、気づくと、私もそれなりの年齢になってしまいました。 私と同年代でもう亡くなった人もいます。個人的な知り合いでも、有名人でも、私と同年代の人間で亡くなった人がいます。 母は、30代の時に私が産まれたおかげで迷惑だった、と言っていましたが、30代で産んだ息子がいるおかげで、90代になっても、まだ、「世話をする側の息子」がいるのです。 その年代になりましたから、だから、事実を事実に即して述べます。 「おまえ、そんなこと言ってたら、就職先なくなるぞお」とか脅されたことは何度もありますが・・・、そんなこと言われなくても、ろくな扱い受けてきていませんから。
  私が高校3年の時、母は「こいつ、現役で東大に通ったら、思いあがった人間になって、女を泣かせよる。こいつ、絶対に現役で大学に合格させてなるものか、こいつう。こいつ、絶対に落したるう、こいつう~う!」と言って、夜、私が家で学習していると、後ろから、箒でボコボコ殴ったり、後ろから服をつかんで背後にひっくり返したり、私が使用している部屋の電気のブレーカーを落として照明を消して学習できないようにしたり、さらに、学校から家に帰ると、門灯を消し、インタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして、雨戸はすべて閉めて入れないようにした上で、そうやって家に入れないようにした上で、高校に電話をかけて「息子が帰ってきませんねん」と言ったりといったことを繰り返したものだったが、そうやって落したからには、浪人すれば、それで気が済んだかというとそうでもなくて、浪人してもその姿勢は変わらなかったが、ところが、結局、2年も浪人して、そこなら浪人なんかしなくても高校卒業の年に合格できたのではないかと思われる慶應大学の商学部に入学すると、日吉台学生ハイツの食堂で、桃山学院高校卒で慶應大商学部に入った井上という男が、その連れの男2人と計3人で、「慶應の学校の名前さえ出せば、女なんか、いくらでも手にはいる」「今度、電車に乗って、女子大生がいたら、慶應の学生証を水戸黄門の印籠みたいに出して、『これが眼に入らぬかあ』とやってやろうか」などと話していた。なんて、思いあがったやつらだ、と思った。母は、「東大に行くと思いあがった人間になって女を泣かせる」、特に「現役で東大に行くと思いあがった人間になって女を泣かせる」と言い、だから、「こいつ、絶対に東大には行かすもんかあ。こいつ、現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよるから、こいつ、絶対に浪人させてやるう、こいつ、絶対に現役で合格させてなるものかあ~あ、こいつう~う!」と何度も言うのだったが、しかし、私が実際に接した男子学生および男子卒業生を見ると、東大の学生および東大の出身者と話をすると、「男性を大学の名前だけで見るような女性は嫌ですから」という人が多く、「慶應の学校の名前さえ出せば女はいくらでも手に入る」だの「電車に乗って女子大生がいたら、慶應の学生証を見せて、これが眼に入らぬかあと水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」だのと思いあがった文句、まるで、大学の名前以外には取り柄はないみたいな文句を口にしたがる人間というのは、それは慶應と早稲田の学生に大変多かった。そういうのを「塾風」とか「福沢精神」とか「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか言うらしいのだが、私は「慶應の学校の名前さえ出せば女はいくらでも手に入る」だの「電車に乗って女子大生がいたら、慶應の学生証を見せて、これが眼に入らぬかあと水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」だのというそういう男、「慶應タイプ」は嫌いだ。但し、慶應の学生でもそういうのはいいとは思わないという人もまったくいないということではないらしいが、どう考えても、東大の学生と慶應の学生では、「大学の名前以外、おまえら、取り柄ないのか?!?」という人間は慶應の学生に圧倒的に多かった。それを母に話したところ、母は「わたし、そういう人、好き、そういう人、だ~い好き~い♪ べ~ろべ~ろべえ~え!♪!♪!」と私に言うのだったが、母はそういう男が大好きらしく、「おまえら、学校の名前以外に取り柄ないのか」というような男を「自我が確立されている」とか「思考が柔軟」とか「スマート」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「診断」する「心理学」も好きらしかったが、私はそういう男もそういう男がいいと思う女も嫌いなのだ。1980年代、ネパールだったかの政治団体で麻薬を資金源としていた団体が「毛沢東派」を名のっていたのに対して、中国共産党は「麻薬を扱う団体が、毛沢東の名前を名のるのはやめてもらいたい」と抗議した、という記事を新聞で見たことがある。そもそも、福沢諭吉と関係のないもの・福沢諭吉の主張や生き様と逆行するような行為に福沢諭吉の名前を使わないでもらいたいものである。三浦綾子『氷点』『続氷点』(朝日文庫)に、北海道の旭川に「福沢諭吉の恋人の孫」と言われる人が住んでいるという話が出ている。あくまでも、「福沢諭吉の恋人の孫」であって、福沢諭吉の孫ではない。福沢諭吉と仲が良かった女性がいたが、福沢諭吉は下級武士の息子であり、結婚できなかったらしい。「『天は人の上に人を作らず』と言いたくなるものだなあ」と登場人物が語る場面があるが、福沢諭吉という人はそういう人だったはずなのに、「慶應の学校の名前さえ出せば女はいくらでも手に入る」だの「電車に乗って女子大生がいたら、慶應の学生証を見せて、これが眼に入らぬかあと水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」だのと、そういうのぼせあがった態度をとっている男が「福沢精神」だのという文句を口にしないでもらいたいものだ、と思うのだ。母はそういう男が大好きらしかったが、私はそういうやつは嫌いであるのだが、しかし、それでも、そいつらの方が私なんかよりもよっぽどいい会社に勤めて私なんかよりも出世して私なんかよりもよっぽど高い給料を取ってきたであろうから、女性にとっては、結婚するのなら、私なんかと結婚するよりは、そいつらと結婚した方が、よっぽど女性として幸せであったであろう。これだけは、絶対に間違いないと思う。これだけは絶対の自信がある・・・が、それでも、そんなやつ、私は嫌いである・・・し、そういうのを「自我が確立されている」とか「思考が柔軟」とか「慶應心理学」は「診断」するらしいのだが、それって、逆と違うのか? と私は思うし、こういうことを言うと「慶應心理学」から「自我が確立されていないからそういうことを言うのですね」とか「アイデンティティーがないということです」とか「未成熟だからそういうことを言うということです」とか「受験勉強の悪影響だと思います」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「モラトリアム人間病ですね」とか「診断」されることになるでしょうけれども、何でも好きに言うとれ!!! フィデル=カストロはバチスタ政権から死刑を宣告されようとした時、「私に死刑を宣告せよ。そんなことは問題ではない。歴史が私に正義を宣告する」と語った(『わがキューバ革命』)。 「慶應心理学」からありとあらゆる悪口雑言を浴びされるなら、「喜び喜べ。天にて受ける報いは大きいであろう。」ということである。

※ 「ろくでもない高校」シリーズ。最初、【1】~【3】を1回で述べるつもりで、基本的には、私立6年制受験校の問題点を公立伝統校との比較で述べるつもりで、その前段として、慶應系内部進学高校についても「少々触れる」くらい述べるつもりで述べだしたが、その最初の前段の部分について、すでに字数も相当多くなってしまったので(それでも、まだまだ、述べられていない部分はいっぱいあるのだが)、【1】私立大の系列内部進学高校について、今回は公開し、【2】で、安楽死医者屋高校やプロレスラーの豊田よりも狂暴」女子育成所高校などについて述べて、公立伝統校については、もともとは、私立6年制受験校との比較で述べるつもりだったが、それを【3】で述べることにする。なにしろ、夏は暑い・・・し、我が家は安普請であり、冷房も故障しているようで、「あっつい、あっつい、あっつい、あっつい~い♪」て状態で、他の話題についても述べたいものはあるので、【2】【3】については、公開できるのがいつになるかわからないが、
【1】 大学のある系列高校、特に慶應系高校 〔今回〕
【2】 医者屋民族を特権階級と考える民族の高校・「プロレスラーの豊田よりも狂暴」女子育成高校? ほか、私立6年制受験校。
【3】 親方日の丸・・だけでなく、最近では「国営資本主義」化・スターリズム的公立高校出現の大阪府立高校。
として、いつかは公開したいと思う。

   今回、とりあえず、最後に一言。
 種無葡萄(デラウエア)は、90代のおばあさんになら、皮をむいてスプーンですくって食べさせてあげてもいいけれども、
 10代・20代の元気な男が、ひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うなどという行為は、
 それは、「慶應心理学」は「自我が確立されている」とか「スマート」とか「思考が柔軟」とか「診断」するであろうけれども、
 はっきりと言うが、10代・20代の元気な男で、ひとのそんなことをさせる男・10代・20代の元気な男に皮むいてお皿に盛る女だか男だか、そんな人間は、人間じゃない!
 こういうことを言うと、「塾風ボーイ」はおそらく殴りかかってくるであろうけれども、
 「本当のことじゃないか。本当のこと、言われて、なんか、文句あるのか!!!」

  「自我」とかなんとかかんとか、「心理学用語」「精神医学用語」「精神分析用語」を使うことで、「それって、逆と違うのかあ?」というような主張を押し通すのが「心理学者」のいつもの手口であるが、まあ~あ、なんだかんだ言っても、「種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う民族」と「種無葡萄は自分で房からちぎって自分の口に入れて食う民族」とは住みよい空間は別のようで、「種無葡萄をひとに皮むいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う民族」を「自我が確立されている」とか「診断」する「慶應タイプの心理学」は、私が高校時代に、価値があるのではないかと考えた心理学とは、心理学は心理学でも別物のようである。

  「学生相談室」=「慶CIA」 には、十分に警戒して、うかつに関わらないように気をつけた方が良い。 私が20代に時に失敗したことの1つは、「学生相談室」というけっこうな名称をつけたイカサマ機関に不用意に関わってしまった、という点がある。

  ( 2020.8.17.)

【1】 大学のある系列高校、特に慶應系高校 〔今回〕
【1】-2 「外部の者」を「教育」したがる中等部から慶應。「殴る」の大好き人間の慶應体育会。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_3.html
【2】 医者屋民族を特権階級と考える民族の高校・「プロレスラーの豊田よりも狂暴」女子育成高校? ほか、私立6年制受験校。
【3】 親方日の丸・・だけでなく、最近では「国営資本主義」化・スターリズム的公立高校出現の大阪府立高校。

日本の名著 (33) 福沢諭吉 (中公バックス) - 福沢 諭吉, 永井 道雄
日本の名著 (33) 福沢諭吉 (中公バックス) - 福沢 諭吉, 永井 道雄

"問題ある高校だらけ【1】種無葡萄をむいてもらいスプーンで掬って食う男。「教育勅語のようなもの」を欲しがる「福沢精神」。「受験勉強の悪影響」「自我が確立されている」はどちらなのか。逆を言う「心理学者」。慶應の「英語(1)」のテキストはクズ。" へのコメントを書く

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