父の日に(19-2)-「やふいのん」「やふいのん」と自分が言いまくった記憶の欠落している父親の日

[第458回]
  「母の日」は5月の第2日曜というのは知られているが、「父の日」て6月だったような気がするが第2日曜だっけ? ・・実際は第3日曜らしいのだが、どうも、影が薄い。しかし、我が家では、「父の日」というと、うんざりする。「お父さん、ありがとうございますと言いなさい」とか言うおっさんの日、「お父さん、ありがとうございますと言いなさいの日」である。「わしは聖人やねんぞお、わしはあ。わしほどえらいえらいえらいえらい人間はおらんねんぞおの日」である。
  子供の頃、我が家は金持ちの方か貧乏な方かというと、「中くらい」かと私は思っていた。「思っていた」というのは、明確な論拠があったわけではないのだが、幼稚園や小学校の同級生の家に遊びに行っても、住んでいる家は我が家と同じくらいの大きさの家が多く、幼稚園の同級生でひとり、医者屋の息子がいて、そいつの家はかなり庭が広く敷地がかなり広かったのを覚えているが、他に自営業だったらしい人の家で我が家より少々広いくらいの家はあったが、我が家より少々狭いくらいの家もあったので、住んでいる家は中くらいかと思った。父の勤め先は特別の優良大企業でもなかったが、「わしは会社ではえらい人やねん」みたいなことをおっさんは言っていたが、じっさいにどうなのかわからなかった。私は両親が30代で産まれた子だったので、同年代でも20代で産まれた子の親と比較すると年功序列の会社では10歳くらい年齢が上の親の方が年収は多かったかもしれないが、年功序列であれば10歳若い者は10年後に同程度の年収になるという計算にもなる。 向かいの家は自営業で我が家より年収は多そうな感じがしたが、そのうち、転居して、跡地にマンションを建てたようで、うちの父親などはそういう才覚はない人間だったから、たぶん、向かいのおっさんの方が年収は多かったのではないかと思うが、近所にいかにも貧相なアパートがあって、そこの住人などはおそらく金持ちではなかっただろうと思っていた。近所でお父さんのない家庭の子がいたが、お父さんがなくて気の毒に・・みたいに思っていた時もあったのだが、女性でもやり手の人もいるので、年収がどうだったのかなんてことはわからない。
   「中くらい」だと思っていたのだが、子供の時、親から何かを買ってもらえるかどうかということになると、我が家は財布のひもが硬い家だった。
(1) 1960年代、近所にアイスクリームを売っている店があって、10円のアイスクリームと20円のアイスクリームが売られていたが、我が家は10円のアイスクリームは買ってもらえたが、20円のアイスクリームは絶対に買ってもらなかった。買ってもらえないと、逆に好奇心がわいてきて、倍の値段のするアイスクリームというのはどんな味なのだろうか? と思い、10円のアイスクリームがだめということではないが、一度でいいから20円のものを食べてみたいと思ったりしたが、一度でも買ってもらうことはできなかった。幼稚園の同級生も同様だろうと思って、同級生に、「あれ、一度でいいから、20円のを食べてみたいなあ」と言ったところ、「なんでえ? そんなん、ぼく、何度でも食べたでえ~え」と言われた。
(2) 百貨店の地下で「うに」を売っていた。今でも売っているのではないかと思うが、「練りウニ」「粒ウニ」のほか、「数の子ウニ」「くらげウニ」とか何種類か売っていたのを覚えている。「練りウニ」がその中では一番安かった。百貨店に行くと、母は、「あんた、ウニ好きやな」と言って「練りウニ」を買って帰ったのだが、何種類か並んでいるのを見て、他のも食べてみたいという気持ちになったが、「あっち欲しい」と言っても母は一番安い「練りウニ」以外は絶対に買ってくれなかった。これも、同級生も同じようなものだろうと思って、「あれ、一度でいいから、練りウニじゃないウニを食べてみたいなあ」と言ったところ、「なんでえ~え。ぼく、そんなん、何度でも食べたでえ~え」と言われた。
(3) 母と一緒に商店街に買い物に行くと、果物屋の店先に、黄緑色のマスカットが置かれていた。我が家は最近ではデラウエアと言われる「種無しブドウ」と巨砲は買ってもらえたが、天地がひっくり返っても黄緑色のマスカットは買ってもらえなかった。デラウエアは好きだったし巨砲がいかんわけではないが、あの黄緑色のマスカットというのが何とも魅力的で、一度でいいから食べてみたいと思ったが我が家では絶対に買ってもらえなかった。これも、同級生も同じようなものだろうと思って、「あの黄緑のブドウ、一度でいいから食べてみたいなあ」と言ったところ、「な~んでえ~え。ぼく、そんなん、何度でも食べたでえ~え」と言われた。
(4) シスコーンとかコーンフレーク 今は食事の1種として食べられることが多いようだが、私が子供の頃は「お菓子」の扱いだったが、大きい箱と小さい箱があって大きい箱には「おまけ」がついていた。お菓子としてのシスコーン・コーンフレークも嫌いではなかったが、子供にとっては大きい箱についている「おまけ」の方が魅力的だった。しかし、母と一緒に商店街に行ってお菓子屋に行って、「あれ、欲しい」と言っても、母は「はい、はい」と言って小さい方の箱を買い、「(おまけがついている)大きい方が欲しい」と言っても、母は「いけません」と言って絶対に大きい方の箱は買ってくれなかった。ところが、幼稚園の同級生の家に遊びに行った時、そこのお母さんが商店街に買い物に行くということで、同級生と一緒について行ったところ、同級生が「あれ、欲しい」と言うと、驚いたことに、そこのお母さんは「はい」と言っておまけのついている大きい方の箱を買い、私にも同じ物を買ってくれたのだった。びっくりした。
(5) 父や母と一緒に電車でどこかに出かけると、その頃、駅のホームには噴水のようにジュースが噴出しているのが見えるジュースの自動販売機があった。幼稚園や小学校の同級生、あるいは駅で親と一緒にいる子供はそれを買ってもらっていたが、我が家では父が「あんなん、ばっちいからいかん」と言って買ってもらえなかった。実際に「ばっちい」かどうかはともかく、父は「ばっちいから」と思って飲まさないようにしていたのだろうと思っていたのだが、今、考えると、そうではなく、その費用を出すのが惜しかったからそんなことを言っていたのではないかと思う。そういった話は無限にある。
   幼稚園や小学校の同級生の家に遊びに行った時など、よその子が持っていて私が持っていないというおもちゃ・ゲームなどはけっこうあり、私が持っていてよその子が持っていないというものは少なかった。
(6) その頃、「モノポリ」というゲームがあって、それがものすごく面白かったが、同級生の家に行くと、どこの家に行っても「モノポリ」があったのだが、我が家にだけなかった。
(7) 女の子の家にはなかったが男の子の家に行くと、どこの家に行っても「野球盤」があったのだが我が家にだけなかった。これも欲しかったが我が家は「欲しい」と言っても絶対に買ってもらえない家庭だった。インターネットで検索するとパソコンでひとりで遊べるゲームとして「モノポリ」のソフトが売られているようだが、今さら「モノポリ」を買ってひとりでやっても空しいだけである。
(8)   小学校の1年の時、父の会社の社員旅行で下の姉と私と一緒に小豆島に行ったことがある。一緒に行ったといっても、旅行費用は私や姉の分を会社が出してくれたわけではなく我が家で出して行ったのだ。母は父と姉と私のために水筒にお茶を入れて姉に持たせ、それと別に子供用として私にごく小さい鉄腕アトムの絵が描いた水筒を持たせた。ところが、小豆島の旅館を出る時、高校生だった姉が「それじゃ、旅館で水筒にお茶を入れてもらっていこう」と口に出したところ、会社の男性が「お茶なんて入れてもらわんでええ。お茶なんていらん」と言うのだった。我が家は会社の人達の給仕係として同行していたわけではなく、会社の人で水筒を持ってきていた人は誰もなく、我が家だけが持って行っていたので、行きの船の中で、姉は「お茶、どうぞ」などと言って会社の人達にお茶をわけていたため、それで、その男性は我が家は会社の人達のために水筒を持って行っていたと勘違いしたようだが、母は別に会社の人のために姉に水筒を持たせたつもりはなかった。あくまで、父と姉と私とのために水筒を持たせたのであり、それと別に、子供専用にということで私にごく小さい水筒を持たせたのだった。ところが、姉は会社の男性社員に「お茶なんて入れてもらわんでええ」と言われて、今、考えても、なんであの人は自分の水筒でもないのに、そんなことを言ったのか理解に苦しむのだが、姉は「いりませんかあ」などと言い、そして、「それじゃあ、〇〇ちゃんの小さい水筒にだけ入れてもらうことにしよう」と言って有言実行したのだった。今、考えても、なぜ、姉は有言実行しなければならないのか疑問に思う。会社の人の給仕係に姉と私は行ったのではないのであり、姉が持っていた水筒は、会社の人にも少しくらいなら分けてもいいとしても、会社の人に飲んでもらうために持って行ったものではないのであり、黙ってお茶を入れてもらえばいいこと、不言実行すればいいはずだったが、なぜか姉は有言実行しようとしたのだった。ところが、小豆島から大阪の弁天埠頭に向かうフェリーボートの中で、会社の若い女性社員が、私に「お茶、ちょうだい」と言った。小豆島にいた間、遊び相手になってもらった人であり、小学校の1年生の私は、むしろ、その人にお茶を分けてあげるのがうれしいくらいだったのだったが、しかし、自分が成人して会社勤めをしてみると、まがりなりにもハタチを過ぎて会社員やっている人間が小学校の1年生が持っているごく小さい水筒からお茶をくれと子供に要求するということは、それは社会人としてやってはいけないことのはずであり、父はその人の上司であったわけであるから、「◇◇さん、申し訳ないけれども、子供の持っている物はとりあげないでやってくれるかな」と注意するべきであったはずである。ところが、父はそれを見て、そして、私に言ったのだ。「ちょっと、それ、貸してんかあ」と。そして、子供が持っていたごく小さい水筒をとりあげて、そして、「配給、配給。お茶の配給♪」とふざけた調子で言って、欲しいと言っていない人にまでお茶を入れてまわったのだった。そして、私が「のどかわいた。お茶欲しい」と言うと、「ないねん。お茶、もうないねん」と父は言うのだった。「ないねん」てことないだろうが。母は、父と姉と私とのために姉に大人用の水筒を持たせたが、もしも、会社の人で水筒を持ってこなかった人があって「すいません。お茶を少し分けてもらえませんでしょうか」とお願いする人があったなら、そこから少しくらいは分けてあげてもいいと思ったのではないかと思うが、我が家は会社の人の給仕係として同行したわけではないのであり、本来、お茶が欲しいなら各自が持って行くべきもので、会社の人が誰も水筒を持って行かなかったというのは、のどが渇けば売店で飲み物を買って飲めばいいと思って持っていかなかったのだから、飲み物は売店で買ったり自動販売機で買って飲むものではないという「主義」だった我が家が、売店などで買って飲むつもりで水筒を持参しなかった人のために分けてあげないといけない理由はなかったのだ。ましてや、母は、子供の体調は大人とは違うからということで、それで私に子供専用にごく小さい水筒を別に持たせたのだった。ところが、父は「ちょっと、それ、貸してんかあ」と言ってその子供の水筒をとりあげて、「配給、配給。お茶の配給♪」とふざけて配ってまわり、そして、子供が「のどかわいた。お茶欲しい」と言うと、「ないねん。お茶はもうない」と言い、それでも、子供が「のどかわいた。苦しい」と言うと、「よっしゃ。売店に行ってジュースこうたろ」と言って船の売店に行ったのだが、売店は閉まっていた。「弁天埠頭についたらこうたろ」と父は言うので弁天埠頭まで我慢することにしたが、ところが、弁天埠頭につくと、父は「バス来てる、バス来てる。弁天町の駅についたらこうたろ」と言い、そして、弁天町の駅に着くと、「駅のプラットホームの売店でこうたる」と言い、大阪環状線の「弁天町」駅のプラットホームに行くと、「電車来た、電車来た。天王寺の駅に着いたらこうたる」と言い出した。大阪環状線というのは、その頃の用語で言う「国電」であり、「電車来た」と言っても、3分おきくらいに電車は来る路線であり、電車はしょっちゅう来る。そして、「来た」のだった。天王寺の駅に着くと今度は、「電車来てる、電車来てる。南田辺の駅に着いたらこうたる」と言い出した。「電車来てる」と言っても、今はJR阪和線は特急は京都駅か新大阪駅、快速は京橋駅か大阪駅始発で大阪環状線の西側をまわって天王寺駅から阪和線に入るが、その頃はすべての電車・気動車が天王寺駅始発で、天王寺駅というのは阪和線のターミナル駅だったので、「電車来てる」と言ってもいつでも電車は「来てる」のだった。その阪和線の普通電車に乗ってもなかなか出発しない。当たり前だ。「電車来てる」と言っても、阪和線で南から来て天王寺駅に着いた電車は、逆方向に発車するまで時間がある。「まだ出ないから、のどかわいた。ジュースほしい」と訴えたが、小学校1年の私はジュースを欲しかったのではなく、水道の水で良かったのであり、父が「ジュースこうたる」と言ったから「ジュース」と言っただけである。ところが、父は「もうでる、もうでる」と言って断固として水道の水もジュースも飲ませてくれなかった。そして、やっと発車して南田辺の駅につくと、今度こそ、「バス来てる」も「電車きてる」もないからジュースを飲ませてもらえるだろうと思うと、父は「もうすぐ家です。もうすぐ家」と言うのだった。「のどかわいた。苦しい。のどかわいた。苦しい」と訴えたが、「もうすぐ家ですと言ってますでしょ。もうすぐ家です、もうすぐ家。わからんのんか!」と言うのだった。そして、結局、小豆島から弁天埠頭に向かう船の中で自分が持っていた水筒をとりあげられて以来、「ジュースこうたろ」と言われながら家まで騙されてジュースも水道の水も飲ませてもらえずに渇きに苦しみながら移動したのだった。その頃は、「夏場は水分をとるとばてる」と言われ、水分はできるだけとらない方がいいと言われていた時代だったが、最近では「夏場は脱水症状に注意して、水分はこまめにとるようにしましょう」などと「専門家」が言うようになったが、なんだか、「専門家」っていいかげんなもんだなあという気がしないでもないが、今の基準で言うと、その「脱水症状」になりかけであったわけであるが、普通、父親というものは自分がついていたならば、子供の健康をもうちょっと配慮するものではないのか、そうでなかったら父親と言えないのではないのかと思うのだが、うちの父親はそういうおっさんだったのだ。あんなことする人、あんまりないと思うがなあ~あ・・・とその時思ったし、今も思うが、そういうおっさんだった。同様のことはいくらでもある。

(9)  私は小学校の3年の時の視力検査では両眼とも1.5見えていた。もっとも、学校の視力検査というのは検査の方法にもよるし、それほど正確なものではないと思えるし、小学校の1年・2年の時は1.2か1.0だったと思うが、ともかく、小学校の1年から3年までの視力検査では1.0~1.5見えていたのだ。小学校の3年の時まではそれほど悪くはなかった。ところが、小学校の5年の時から近視になり眼鏡をかけるようになってしまった。眼科医は「近視は治るものと違います」と言い、悲しかった・・が、どうも、日本の「医者」というものは一般に自分が治す方法を知らない場合、「私は治すことはできません」とか「私は治す方法を知りません」と言えば良さそうなものだが、そうは言わず、「この病気は治りません」とか「治るものではありません」という言い方をするようだ。権威主義的言い方をすることで「患者」を信じさせるのが医者屋の方便みたいに思っているようだが、その医者屋が治す方法を知らない、もしくは、悪化を防ぐ方法を知らないというのと、治る可能性は絶対にないというのは別のことのはずだが、その点をわきまえていない医者屋が多いようだ。リゼット=ショール『眼鏡よ さようなら』(篠崎由美子訳 1987.7.10.立風書房)では、近視についての「検眼医」の取り組み方が、最初から治そうとしう姿勢ではないことが指摘されています。日本でも、近視だと言って眼科に行くとどうなるかというと、視力検査をして、こういう「度」の眼鏡もしくはコンタクトレンズを作ってください・・となるはずで、視力を回復させようという姿勢ははなからない。しかし、書店に行くと、このリゼット=ショール『眼鏡よ さようなら』(篠崎由美子訳 1987.7.10.立風書房)の他、ツボの療法家の著書では『近視が治る』といった題名の本が出ている。眼科の取り組みはあくまで視力を計測して、眼鏡やコンタクトレンズで1.0くらい見えるようにするというものですが、むしろ、心身医学やツボ療法の取り組み方によれば、相当重度のものを完全に回復させるのは簡単ではないかもしれないけれども、少なくとも、比較的軽度のものを回復させる可能性、ある程度以上の強度のものでも、いくらかなりとも良い方向に戻す、あるいは悪化を防ぐということはできるのではないかと私は思います。私は高校3年くらいの時、そういったった方面に関心があったのですが、我が家は「撃ちてしやまん、一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「会社のために死ぬまで働く、とってちってたあ!」の家庭でしたので、行きたい方向に進むことはできませんでした。
  小学校5年の時、初めて眼鏡を作った時は母と一緒に大丸の眼鏡売場に行って作ったのですが、「レンズはどれにされますか」と言って店員が何種類かのレンズを提示した時、母は「フレームは特に上等でなくてもいいから、レンズは、できるだけ眼が悪くならないようにいいものにしてください」と言った、5つほどあった中で上から2番目のものを選びました。母の言うことはわかります。ところが、翌年、父と一緒に大丸の眼鏡売場に行った時には、父は「やふいのんがええ、一番やふいのんが。眼えみたいなもん、どうせ、すぐ悪なるねん! やふいのん、やっふ~いのん!」と言って、5種類ほどあった中で一番安いものに決めたのでした。嫌でした。「眼えみたいなもん、どうせ、すぐに悪なるねん!」という父の認識も嫌でしたが、「やふいのん、やふいのん。やっふ~いのん!」という言い方もまた嫌でした。そういうおっさんでした。母にこのことを話すと、「あの人、自分は会社の女の子と一緒に百貨店に行って、鼈甲のフレームの高い眼鏡作ったくせして、息子にはそんなこと言うの?」などと言うのですが、おっさんは、自分の眼鏡を作るのに、会社の若い女性社員と一緒に百貨店に行って鼈甲のフレームの眼鏡を作ったそうで、またそれをひとに見られているわけで、なんと言いましょうか、「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、ここまでアホとは思わんかった」てことをやるおっさんでしたが、父としては自分が高いフレームの眼鏡を作っても、自分が稼いだ給料から払うのだから当たり前であり、それに対して、私の眼鏡を作るのは、「こいつが産まれなければ良かったのに産まれてからに、しかも、眼鏡なんて作らなければならないことになって、わしは迷惑じゃ」と思っていて、だから、一番安いレンズでもそれでも、「レンズ代がかかってわしは迷惑なんじゃ」と思っていたのだろうと思います。おそらく、そういうことです。
(10) 小学校の5年の時に初めて眼鏡を作ってから、高校1年までは毎年、度が進んで眼鏡を作り替えることになってしまいました。中学校の3年の時だったでしょうか、近所の眼鏡屋で眼鏡を作った時、眼鏡屋の店主が「電気スタンドは、できれば、蛍光灯よりも白熱灯の方がちらつかないので眼にはいいんです」と話したのを聞いて、母は「白熱灯のスタンドを買って使うようにした方がいいみたい」と言い、そして、私は父と一緒に近くの電気量販店に白熱灯の電気スタンドを買いに行きました。しかし、父はここでも口に出して叫んだのです。「やふいのんがええ、やふいのん。やっふ~いのお~ん! 一番やふいのんがええ、一番やふいのんが」と。 そして、父は白熱灯のスタンドで「一番やふいのん」を買いました。家に帰ってその「一番やふいのん」を机の上に置いて照らしてみましたが、光が強くてまぶしくて、とてもじゃないが、それで読書をしたり学習したりなんてできるものではありません。しかたなく、それまでと同じ蛍光灯の電気スタンドを使用するように戻しました。父が「やふいのんがええ。一番やふいのんが」と言って買ったのは「ピアノライト」というもので、アップライトピアノの上に置いて下の譜面や鍵盤を照らすためのもので、アップライトピアノの上から照らす場合はよくても、机の上に置いて机の上の本やノートを照らす場合にはライトから照らす面までの距離が近く、まぶしくて使えるシロモノではなかったのです。「やふいのんがええ。一番やふいのんが」と言う父の得意技がここでは「安物買いの銭失い」になりました。
(11) 近視の度は高校1年までは毎年進みましたが、その後はそれほど変わりませんでしたが、21歳の時、また、悪くなってしまいました。父は今度は「安売り眼鏡の店てあるやろ。おまえの眼鏡はそういう店で作るようにせえ。もったいない。おまえの眼鏡代のおかげでカネかかって迷惑や」とそう言ったのです。「安売り眼鏡の店に行って、そこで一番安い眼鏡にせえ」と。それで、店名は忘れてしまいましたが慶應生協が紹介していた安売り眼鏡の店で眼鏡を作りました。しかし、新調したにもかかわらず、よく見えないのです。それで、夏休みに大阪府の近所の眼科に行って見てもらったところ、「その店、東京の店やから言うけど、今後、絶対に行かない方がいいと思うわ」と言われたのでした。その眼科が提携している眼鏡屋(↑で、卓上スタンドは蛍光灯よりも白熱灯の方がいいと言ったおっさんの店)を教えてもらってその眼鏡を見てもらったところ、その眼鏡屋の店主が言うには、眼鏡の作り方が極めて雑だというのです。眼鏡のレンズは、もともと、円形の状態であるものを、その眼鏡のフレームの枠の形に合わせて切ってはめるのですが、その際、もともとの円形のもののどの部分を切って入れてもいいというものではなく、もとのレンズの中心の位置を眼球の中心と合わせて入れるようにするべきなのに、私が「安売り眼鏡の店」で作った眼鏡はそうではなく、レンズの中心が眼鏡のフレームの枠の端っこにあったというのです。「やふいのんがええ、やふいのんが」と言い、「あんたの眼鏡は安売り眼鏡・・・♪」(「とんぼの眼鏡は・・」の歌の節で)と父が言って買わせた眼鏡は、ここでも「安物買いの銭失い」になりました。

  ↑のように、我が家は、子供の頃から「あれ、欲しい~」と言った時、まったく買ってもらえないということはなかったのですが、よその家と比べて買ってもらえないことが多く、買ってもらえた場合もよその家の子よりも安い物であったというケースが多かった。 しかし、おもちゃなどは、何でも高いものを子供が欲しいと言えば即座に買うというのがいいとは限りません。親がこれは買わない方がいい物だと判断して買わないということがあってもいいと思いますし、子供に買うには高過ぎると判断して、たとえ、同級生が買ってもらっていたとしても、「よそはよそ、うちはうちです」ということで買わないというのなら、それはそれでひとつの判断であり、それが悪いことはないと思います。私は、最初、うちの親がよその子は買ってもらっている物を買ってくれないのを、そういったものを節約して、本当に必要な時にそのお金を使えるようにと考えていたのだろうと思ったのです。しかし、違った。
(12)  私が北野高校の3年の時、父は「もし、東大なり京大なりに受けて、現役の時には通るかどうかわからんが、浪人したら通るやろうというのなら、1年くらいの浪人はするべきやで。浪人は嫌やなんて言うて甘ったれておってはいかん」と言ったのです。実際には、もしも、浪人する・させる経済的余裕があった場合でも、両方の考え方があると思います。もし、京大なら通るかどうかわからないが阪大なら通りそうだということなら、さっさと阪大に進学して、浪人して払う努力・労力は大学入学後に他の方向に注いだ方がいいという考え方もあります。1年浪人して大学に進学した人間には「2浪すると人間が曲がるが1浪は人生経験を積んで苦労と世間を知ることができる。現役で通った人間は甘ったれてる」とか何とかかんとか勝手なことを言う者がいますが。1年の浪人なんてしたところで、そんなことで、「人生経験」だの「世間」だの「苦労」だのなんてわかってたまりますかいな。頑張って現役で通った人間が「甘ったれてる」で浪人なんてさせてもらった人間が「苦労を知っている」て勝手なこと言うなちゅうんじゃい! しかし、まあ、浪人したことでそこで知ることだってまったくないことはないでしょう。そんなことよりも、小学校の1年から高校3年まで努力して勉強してきた者には、どうしても東大に行きたいとか、どうしても京大に行きたいとか思っているのなら、「阪大だって悪い大学じゃないんだから」と言われても、なかなかそう考えられないところもあると思います。かつ、阪大にしたら通るというものでもありませんし。ともかく、父は「東大なり京大なりに行こうとするなら、安全策とって下の方の大学受けるなんてするのではなく、1年の浪人くらいはするべきや」と言ったのです。ところが、実際に浪人してしまうと、父は、「電卓、電卓、電卓、電卓。でんたっくう~う。でんたっくう~う」と言って電卓を持ち出し、「東大を受ける時に東京まで行った飛行機代が◇◇円、ホテル代が☆☆円、願書を取り寄せる時の封筒代が◇◇円、切手代が☆☆円、・・代が▽▽円、あんたが浪人したおかげで、こんだけわしは損させられた」といったことを毎日毎日やったのでした。さらに、私が「受けたくない」と言ったのに、父が「練習のために」と言って無理矢理受けさせた早稲田大の試験についてまで、「早稲田を受ける時の受験料が◇◇円、願書送る時の封筒代が☆☆円、切手代が▽▽円にホテル代が◇◇円、その時に食ったメシ代が☆☆円に・・・」とやったのでした。私が嫌だ、受けたくないと言っているものを無理矢理受けさせておいて、そう言ったのでした。 「やーれん、そーらん、ほっかいど~お♪ あーめん、そーめん、ほっかいどお~お♪ あれだけ、出すのにどれだけきついか、きついか、きついくぁあ~あ♪」という歌はその時点ではまだなく、それから9年後くらいに流行った歌だったはずですが、そんな感じのことを毎日言っていました。〔⇒《YouTube-ヤーレンソーラン北海道 》https://www.youtube.com/watch?v=uVxPg9Q6rHU 〕

(13)  「浪人に小遣いは要らんはずや」と言って、それまで月何千円か「小遣い」として私に渡していたものを渡さないことにした。しかし、「小遣い」と言っても、医者屋の息子が親から小遣いもらってピンサロに行っとるのとは性質が違うのです。「浪人は小遣いいらんだろ」と言われて「小遣い」はゼロ円にされた結果、浪人中の私は鉛筆やノート・消しゴムを買うお金もなくなったのでした。

  19~20歳になる年、結局、2浪してしまったのだが、その時、父はこう言ったのだ。「あんたには、小さい頃から、欲しいというものはどんなもんでも、いつでも何でも、ええもんばっかり、こうてきてやってやってやってやってやってやったったから」と。 びっくりした。よく、そういうことを口にすると驚いた。嘘をつくにしても、もうちょっとマシな嘘をつけばどうかと思った。「絶対にそんなことない!」と私は言ったのだが、すると、父はこう言ったのだ。「はあ? こいつ、こんなこと言いよるわ。難儀やなあ。かなんなあ~あ。困ったやつやなあ~あ。これは、こいつは絶対にビョーキやわ。間違いなく、こいつはビョーキですわ。これはビョーキがこいつにこういうことを言わせてるんやわ。間違いないわ。こりぁ、クスリ飲ませたらんといかんわ、クスリ、クスリ、クスリ! それも相当大量に飲ませたらんと、このビョーキは簡単には治らんわ。かなんな、ほんまあ。わしのような優秀で謙虚でキリストのような聖徳太子のようなヒットラー総統のようなえらいえらいエライエライ人格者の息子に、こういうこと言うやつができるやなんて、これは生物学上の突然変異学説でんなあ。間違いないわ。こいつは、わしとは民族が違うんや、こいつはあ。 こいつには、小さい頃から、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってしてきたのにからに、こういうことをぬかしよるわ、このどくそチャンコロめが、このチャンコロがああ!」と言うのであった。しかし、たとえ、首をもがれても、たとえ、ロボトミーで人格を破壊され廃人化されることがあろうとも、↑のように、私は子供の頃から、よその子が買ってもらっていた物でも買ってもらえないということは多かった。神にでも紙にでも髪にでもかけて言うが、聖書に誓ってでも性書に誓ってでも言うが、「よそとちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた」などということは天地が5、6回ひっくり返っても絶対にない!

  子供の頃から、何も買ってもらえないということではないが、よその子が買ってもらっているものでも買ってもらえないということは多かった。それは贅沢なことはせず、そのあたりは節約するかわりに、大学に進学するような場合には行きたい大学の行きたい学部に行かせ、やりたい勉強をさせてやろうという考えであったのだろう・・・と小学生や中学生くらいの頃の私は勝手に勘違いしていた。しかし、徹底的な勘違いだった。父は「うちは工学部になんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部になんか行かすような金持と違います。4年で卒業できる学部にしなさい。甘ったれなさんな」「うちは司法試験なんて受けさせるような金持と違います」「うちは文学部になんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」「うちは学校の先生になんてならせるような金持とは違います。甘ったれなさんな」「うちは大学院になんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」・・・と言い、結局、私にとっては首をもがれても行かされたくないと思っていた経済学部・商学部・経営学部しか行かせてもらえる可能性のある学部はないということになった。「京大はアカやから行ってはいか~ん!」と言うし、「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」と言う。「マスコミに勤めるなら、産経新聞にしなさい。朝日はアカやから勤めてはいかん。毎日もアカやから勤めてはいかん。産経がええ、産経が」と言い、私が「産経新聞なんて、殺されても嫌です」と言うと、「甘ったれるな、このチャンコロっ! このわしが産経新聞がええと言うておるんやで。このチャンコロめが、このチャンコロろすけイタコ! この謙虚で人格者のこのわしがチャンコロのおまえに産経新聞がええと言うとるんやで。わかっとんのんか、このチャンコロ、ロスケ! イタコ!」と言うのであった。子供の頃から、よその子が買ってもらっている物でも買ってもらえないことは多く我慢してきたが、大学に行く時は行きたい大学に行かせてもらえるのだろうと思い込んでいた。大学院に行きたいと思えば行かせてもらえるのだろうと思っていたし、医学部など6年行く必要のある学部でもそこは行かせてもらえるだろう、その為に節約していると思い込んでいた・・・が違った。父は言うのだった。「おまえが産まれてきたおかげでわしは迷惑しとるんじゃ、このチャンコロめが、よくも産まれおってからに、このチャンコロっ! 産まれたことを反省しろ、チャンコロ! 産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに!」と。「産まれなければよかったのにおまえが産まれたおかげで、おまえを育てるのにカネかかって迷惑なんじゃ。反省しろ。産まれてきたことを心の底から反省しろ、チャンコロッ! これから、それをおまえにまどてもらわんといかんのじゃ」と言うのだった。「産まなければ良かったのと違うのですか」と言ったのだが、「何を言うとるんじゃあ! 産まれなければよかったのに、おまえが産まれたんだろうが、ええかげんにせんか!」と言うのだった。 

(14)  日本で一番嫌いな大学だった慶應の首をもがれても行かされたくない学部だった経済学部・商学部・経営学部のひとつである商学部に無理矢理行かされてしまった。父が「贅沢してはならんぞ、チャンコロ! 贅沢すんなよチャンコロ!」と言うのだが、知っている人間で下宿して大学に行っている人間に仕送りの金額を聞いても、私より少ない人間は誰もなかった。「よく、そんな額で1ヶ月生活できるなあ」と言われたこともあった。父はそれでも「もったいない」と思ったようだった。日吉台学生ハイツには共同浴室があったが、銭湯などの浴室に比べて衛生管理が悪いのか、「いかがわしいお店」なんてのに行ったわけでもないのに、タムシを浴室で移されてしまい、又、理由はよくわからないが、腕のあたりにも皮膚がかぶれた。最初、どういう病気なのかわからず、日吉にあった慶應の健康管理センターに行くと、そこの女医さんは慶應大学医学部卒の人なのか、自分が卒業した大学の後輩のめんどうをみてあげたいという気持ちがあったのか、その症状どうこうよりも、「あんた、下宿して大学に行ってるの? 食べるものきっちりと食べてる?」と言い、「きょうは何を食べたの?」と言うので、「朝は、メロンパンと牛乳です。昼は生協食堂の140円のカレーライスを食べました」と言うと、「きのうは?」ときき、私が「きのうは、朝はアンパンと牛乳です。昼はやっぱり生協食堂の140円のカレーライスで、夜は日吉台学生ハイツの300円のカレーライスです」と言うと、「なんで、カレーばっかり食べてるの?」ときかれたので、「カレーが一番安いんです」と答えたのだが、「だめよ。あんた、そんなことしていては。もっと、きっちりした物を食べなさい。そんな生活してるから病気になるのよ」と言い、そして、日吉の皮膚科を紹介してくれて、その皮膚科に通ってその症状は治ったのだが、その女医さんから言われたことを話すと、父はこう言ったのだった。「もっと節約する方法を考えなさい。140円のカレーライスやなんて、おまえ、そんな贅沢なもん、食うてええのか、おまえが。もっと安いもんにしなさい!」と。 しかし、生協食堂の140円のカレーライスより「安いもん」をいくら捜しても、どこにもなかった。朝と昼だけ食べて夜はなしにしようかと思ったが、1日くらいは夕食なしにできても、次の日には耐えられずに食べてしまった。
(15) 東京―大阪間を行き来するには何種類かの交通手段があった。父は「安く行ける方法を考えなさい」と言うのだった。それで、調べた。1980年代前半、
〔1〕 飛行機のエコノミークラスよりも新幹線の普通車の方が安い。
〔2〕 新幹線の普通車の指定席より自由席の方が少しだけ安い。
〔3〕 新幹線普通車と在来線の夜行急行「銀河」号B寝台は同じくらい。(「銀河」号は2回、乗ったが、今はなくなってしまった。)
〔4〕 在来線(東海道本線)の、東京駅を夜11時半くらいに出る大垣行き普通に乗り、大垣で西明石行きに乗りかえて大阪駅まで行く方法だと、普通運賃だけで乗れるので、新幹線よりも安い。(この東京発大垣行き夜行には何度も乗ったが、そのうち、「ムーンライト長良」という愛称がついて快速なので特急料金・急行料金はいらないが指定席のみになって指定料金が要るようになり、座席もリクライニング式の快適なものになったが、そのうち、この快速「ムーンライト長良」もなくなってしまった。)
〔5〕 東京駅八重洲口から出ている夜行バス「ドリーム号」は東海道本線の普通より安い。
〔6〕 東京―大阪の間のバスは夜行だけでなく昼のバスもあるが、昼は東京―大阪間はなく、東京―名古屋間と名古屋―大阪間の2つを名古屋で乗り継ぐことになる。料金は昼も夜も特に変わらない。昼のバスは箱根から東で相当渋滞して遅れることがある。
〔7〕 名古屋―大阪間なら近鉄特急というのもあるが、名古屋で乗り換えないといけないのなら、東京―大阪の移動なら東京―大阪間の夜行バス「ドリーム号」の方が便利。
  それで、考えられる一番安い移動手段である東京―大阪間の夜行バス「ドリーム号」で東京から大阪に帰ったのだが(今は、東京―大阪間の夜行バスはその頃の国鉄バス〔今はJRバス〕だけでなく、民間バス会社のバスが何種類も運行しているが、その頃は国鉄バスしかなかった。)、父はこう言ったのだ。「おまえ、夜行バスやなんて、そんな贅沢なもん、乗ってええのか、おまえが。もうちょっと安く行ける方法を考えなさい。甘ったれるな!」と。 しかし、↑のように、夜行バスよりも安い交通手段はいくら捜してもなかったのだ。それでも、安くする方法というと、東京から大阪行きに乗って、大阪の梅田から阪急に乗って帰宅したのだが、そうではなく、東京から京都行に乗って京都から家まで歩くか、日吉から東京駅まで、日吉から東急で渋谷まで行って、渋谷から山手線で東京駅まで行ったのだが、そうではなく、日吉から東京駅まで歩くか。 もしくは、帰る日は昼はチキンライスを日吉の食堂で食べて夜と大阪に着いた日の朝食は抜いたのだが、東京を出る日の昼食も抜くか。
(16)  国共内戦の頃、「毛沢東は冬でも綿の服を着ていた」という話を本で読んだ。その本が何だったか忘れてしまったが、それで、私も冬でも綿の服を着ていたのだが、父は言うのだった。「おまえ、そんな贅沢な服を着てええのか、おまえ。贅沢すんな、チャンコロ! 贅沢すんな、チャンコロ!」と。 それで、もっと安物の服をどこかで売ってないかと捜したが、もともと、そんなに高い服を着ていたのではないので、それより安い物はなかなかなかった。川崎駅の近所にいるルンペンのおっさんが着ていたような服でも着ればいいのかもしれない・・と思ったのだが、しかし、ああいうおっさんの来ているああいう服って、いったいどこで売ってるのだろうか? スーパーでもユニクロみたいな店でも売ってないのだ。あれは「あつらえ」なのだろうか? ともかく、父は、私が毛沢東のごとく「冬でも綿の服を着る」ということをしていても、それでも、「贅沢すんな、チャンコロ! 贅沢な服を着るな、チャンコロ!」と言うのであったが、何を着たらいいのかわからなかった。
  父は言うのだった。「世の中にはな、自分ではやらずにひとに号令かけるのが向いている人種・民族と、常にひとから命令されひとから号令かけられるのがふさわしい人種・民族とがおるわけや。どっちか片方では世の中は成り立たんのや。天の神さまは大変賢明なお方であってやなあ、そやから、産まれる時点で人間をそのどちらかに分けてお造りになっておるわけや。わしいなんかは自分ではやらずにひとに号令かけるのが得意やねん。あんたあは常にひとから号令かけられるのが向いている民族なんや。適材適所や。あんたはひとから号令かけられるのがうれしいねん。あなたは号令かけられると喜ぶねん。あんたは号令かけられることに快感を感じるねん」と。「私は喜びませんけど」「私は号令かけられるのに快感なんて感じませんけど」と言ったのだが、父は「何を言うとるんじゃ、チャンコロ! おまえは号令かけられるのが向いとるんじゃ、チャンコロ! おまえは号令かけられると喜ぶんじゃ、チャンコロ!」と言うのだった。「喜べ、喜べ、チャンコロ、ちゃんころ。喜べ喜べ、チャンコロ、ちゃんころ! とってちってたあ~あ!」と言うのだった。「撃ちてしやまん! い~ちおく、火の玉~あ! とってちってたあ~あ! 欲しがりません、勝つまでは! 木口小平はちんでもラッパをはなちまちぇんでちたあ~あ! それ、ど~んが~ん、どんがらがった、ちゃちゃちゃちゃちゃあ~ん!♪!♪」と言うのだった。〔⇒《YouTube-<軍歌>軍艦行進曲(軍艦マーチ) 》https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0 〕 なんだか、パチンコ屋みたいな音楽を口にしとった。「ロスケどもをやっつけてや~る!」とか丸山穂高みたいなこと言うとった。だから、丸山穂高みたいなああいうやつ、私は嫌いだ。父は戦中世代だから、「戦中世代はかわそうになあ」とも思い、「戦後民主主義教育」の時代に育つことができてまだ良かったなあと思ったものだが、丸山穂高という男は私よりも若いのに、「戦中世代」みたいな意識でいるというのはどんな育ち方したのか、「親の顔が見たい」ような気もする。

(17)  夏休みに父の勤め先の会社の工場にアルバイトに行かされた。父は「決めてきた」と私に無断で決めてくるのだった。そこで、父の部下だった工場部門の課長だったMさんが「あんたなんか、東京でいくらくらいの所に住んでるの?」ときくので、その時、川崎市幸区の月1万2千円のアパートに住んでいたので、「今、住んでいるのは月1万2千円の所です」と正直に言ったところ、Mさんは「嘘つくな!」と言うのだった。「嘘なんて言ってませんよ」と言ったのだが、Mさんは「ええかげんにせえ。うちの息子、京都の同志社に下宿して行っとるんやけど、京都でも、うちの息子が住んどるのは月6万5千円するで。『風呂付の所でないと嫌じゃ~い』と言いよるから、風呂付の所に住んどるんやけど、京都でも月6万5千円やで。ましてや、あんたなんか、東京で住んどるんやから、最低でも月10万円以上の所に住んどるんやろ。何部屋あんねん?」などと言う。それで、「1部屋に決まってるでしょ」と言ったのだが、Mさんは「嘘つけ! 風呂はもちろんあるんやろ」と言うので、「あるわけないでしょ。近所の銭湯に行ってますよ。風呂なんて部屋になくても、銭湯いいですよ。トイレはアパートに共用のがありますけど」と言ったのだが、Mさんは「ええかげんにせえよ。わかっとるんやからな」と言うのだ。いったい、何を「わかっとる」んだよ、何を?!?!?  勝手にわかるなよ。Mさんは「うちの息子が住んどる京都でも月6万5千円やのにからに、東京で月1万2千円やなんて、そんな所、あるわけないだろ!」と言うのだが、あるんだよ。東京都ではなく神奈川県川崎市幸区だけれども。 だいたい、「京都でも・・・」とか言うけれども、そもそも、「京都」というのはブランド地名、舞妓さんがこっぽり履いて「おこしやすう」とか言うておる土地であり、川崎市幸区の屋上にレーダーがのっかってる東芝小向工場の近所のアパート、昔は川崎ぜんそくなんてのがあったような所が「舞妓さんがこっぽり」より高いという発想の方がおかしいだろうが。
  その時は、この人、なんで、こんなこと言うのだろうか・・と思ったのだが、それから何十年か経った今、考えると、もしかして、うちの父親が会社で、よっぽど高い所に住ませてよっぽど贅沢な暮らしをさせてるみたいに話していたのかもしれない、あのおっさんならやりかねない・・と思うようになった。そうであるのかどうかはわからないが、私が高校3年の時には父は「下宿して大学に行くのなら、京都で下宿するのも東京で下宿するもの一緒や」と言っていたはずだったが、ところが、実際に私が東京圏、実際には横浜市港北区だったり川崎市幸区だったりしたのだがで住むと、今度は、「ほんまやったら、たとえ、下宿するにしても、東京やのうて京都ででも下宿してもろうた方が下宿代もやすうて助かったのにからに、おまえが甘ったれとるから、家賃の高い東京で下宿させることになってしもうてんで」と何度も言っていた。しかし、Mさんの息子は東京圏ではなく京都で下宿していたがそれでも月6万5千円の所、私が川崎市幸区で住んでいたアパートの何倍もの所に住んでいたのだ。会社でも同じようなことを言っていたのではないか。それを聞いて「うちの息子でも、京都で住むのに月6万5千円の所に住んどるのやから、最低でも月10万円以上の所に住んどるんやろ」と思い込む人もいたという可能性はないとは言えない。

  6月16日は「父の日」、↑のようなおっさんの日。父は「あんたあがわしに世話になったことはいっぱいあるけれども、わしがあんたに世話になったことは、今までもひとつもないし、今後も永遠に絶対に何ひとつとしてないんやからな。わかっとんねんな」と言うのだった。しかし、私が小学校に行くより前、私が削った鰹節をおっさんは食ったはずなのだ。私が拭き掃除をした廊下を通っておっさんはトイレに行ったはずなのだ。そんなこと言うならう〇こすんなよ! と思った。父は、朝、雨戸を開けて朝食を食べて会社に行くが、会社から帰ってきた時には雨戸は閉まっていたはずだが、誰が閉めたかというと私が閉めた。冬、父が会社から帰ると、石油ストーブには灯油が入れられて点火され部屋は暖まっていたが、私が灯油を入れたし私が石油ストーブに点火して部屋を暖めたのだ。それでも、「わしは今まであんたに何か世話になったことは何ひとつとしてないんやからな。わかっとるか」と言うのだった。
  1970年代後半、北野高校の2年担任だった旧姓S野礼子(女。当時、20代)は「私は両親が離婚したから」というのが自慢だったが、しかし、父親があった方が常にいいとは限らない。あのおっさんの給料で食べさせてもらって成人したのは事実でその点は感謝もするべきだろうが、いいことばっかりでもなかったのだが、それがわからんバカ女が高校教諭になっていた。
  (16日の父の日に先立ち、2019.6.13.公開)

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