知恩院(京都市)参拝[4/10]正面の御影堂・西の空を背にした阿弥陀堂・東山を背にした経蔵。多宝塔・池と橋と樹木と調和した納骨堂。

[第599回]
  京都市東山区の浄土宗総本山 知恩院 参拝の4回目です。
男坂を登りきると、もしくは女坂を登りきると広場のようになっていて、北側正面に御影堂があり、↓
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《 元祖法然上人の御影(みえい)を祀ることから、「御影堂(みえいどう)」と呼ばれ、俗に「大殿」とも呼ばれます。》
《 現在の御影堂は寛永16年(1639)に徳川3代将軍家光公によって建てられ》(知恩院HP 「建造物 御影堂」https://www.chion-in.or.jp/highlight/building/mieido.php ) たもので、国宝に指定されている。
《俗に「大殿」とも呼ばれ》るだけに大きい。

  そして、御影堂の左手前に阿弥陀堂があり、↓
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《 阿弥陀堂は知恩院第二世勢観房 源智 上人によって勢至堂の前に建立されましたが、宝永7年(1710)に現在の位置に移築。明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910)に再建され、現在にいたります。》
《 本尊は阿弥陀如来座像で高さ2.7メートルある大きなものです。堂正面には「大谷寺」という勅額が掲げられています。これは、後奈良天皇の宸筆であり、知恩院の寺号をあらわしています。
西から東へ面して座す阿弥陀如来を礼拝する人は、遥かなる西方極楽浄土へ心を通わせてきました。》(知恩院HP 「知恩院の建造物 阿弥陀堂」https://www.chion-in.or.jp/highlight/building/amidado.php )
  現在の位置に移築された1710年というと、徳川吉宗が将軍になった1916年の6年前。(《ウィキペディアー徳川吉宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 )、《ウィキペディアー1910年代》https://ja.wikipedia.org/wiki/1710%E5%B9%B4%E4%BB%A3 を見ると、1710年はロンドンでセント ポール大聖堂が完成した年らしい。
  阿弥陀堂が再建された1910年というと、第一次世界大戦開始の1914年の4年前、日露戦争(1904~1905年)のポーツマス条約の1905年の5年後。日露戦争と第一次世界大戦の真ん中頃。

  御影堂の右側には経蔵があります。↓
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( ↑ 西側から見たもの。左の縁は御影堂。)
《 御影堂の東側に建っている経蔵は、三門と同じ元和7年(1621)に建てられました。》(知恩院HP 「知恩院の建造物 経蔵」https://www.chion-in.or.jp/highlight/building/kyozo.php ) 重要文化財に指定されている。
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( ↑ 北西側から見たもの。)
※ 知恩院 境内地図⇒知恩院HP 拝観情報 https://www.chion-in.or.jp/guide/

  中央の広場の北側正面に大きな御影堂があり、左(西)に阿弥陀堂、右(東)に東山を背にして経蔵があって広場を囲んでいるという配置です。 こういった中央の広場を囲んだ配置の建物群というのは寺でなくても他でも見ることがあります。私がとりあえず思い浮かぶものとしては、横浜市港北区の東急東横線「日吉」駅の東側、慶應大学日吉キャンパスで、日吉駅の東口を出て東横線と垂直に伸びる銀杏並木の通路を直進すると日吉記念会堂、その手前の広場を左右に取り囲むように左側(北側)に第二校舎(自然科学系の教室)、右側(南側)に第一校舎(慶應義塾高校の建物)と白の外壁の建物が広場の三方を囲んで建っているという構成になっているのを思い浮かべます。
※ 慶應義塾 日吉キャンパス https://www.keio.ac.jp/ja/maps/hiyoshi.html
  しかし、知恩院の場合は、正面に一番大きな建物である御影堂があって左手に阿弥陀堂、右手に経蔵と三方の建物が広場を囲む配置になっているというだけではありません。左手(西側)の阿弥陀堂と右手(東側)の経蔵はどちらがどちらの配置でもいいというものではなく、御影堂の左手前に阿弥陀堂が広場の方を向いて立っているということから、阿弥陀堂で阿弥陀如来像を拝むと西方極楽浄土の方に向って拝むことができるように配置されているのです。東側の経蔵は東山を背景として建っていますが、西側の阿弥陀堂の後ろは京都市の盆地が広がり、阿弥陀堂より西側が低くなっていますが、それゆえに西方の空が阿弥陀堂の後ろにあるようになっています。阿弥陀堂の西側の後ろは山が後ろにあるよりも、むしろ空の方がいいようです。よく考えられた配置になっています。

  一般に、お寺のお堂というのは山を背にして平地の方を向いて建っていることが多く、鎌倉の建長寺とか円覚寺とかも西側の街道の東側の立地であることから、西から東に登りながら、お堂は低い側の西を向いていて人は西から東に向かって拝むのですが、知恩院では東側が高くなっている立地であるけれども阿弥陀堂が西側にあって東を向いているというのは、阿弥陀堂の後ろは空で西方極楽浄土が阿弥陀堂の向こうにあるという想定なので、この配置がいいようです。

  西本願寺・東本願寺では御影堂と阿弥陀堂は左右(南北)に並んで、どちらも東を向いていますが、考えてみると、西本願寺・東本願寺でも阿弥陀堂で阿弥陀如来像を拝むと西の方、西方極楽浄土の方に向って拝むことになる配置になっています
  御影堂と阿弥陀堂では、御影堂の方が中心にあり、御影堂の方が大きい。 これは西本願寺・東本願寺とも共通するものですが、御影堂で祀られているのは知恩院では法然、西本願寺・東本願寺では親鸞ですが、法然や親鸞の方が阿弥陀如来よりもエライとかそういうことではなく、親鸞の場合、『歎異抄』に「僧にもあらず俗にもあらず、禿をもって姓とす」という文章があるように親鸞や浄土真宗の僧は他の宗派の僧よりも一般人に近い存在で、本多彰良『歎異抄入門』(カッパブックス)によると親鸞は寺を作ってはいけないとまでは言わないけれども、あくまで、門徒・信徒が集会を持つ場というものとして設けるのは良いとしているようで、この考え方は浄土真宗だけでなく浄土宗にも共通するものではないのでしょうか。御影堂が阿弥陀堂よりも大きいというのは、法然や親鸞が阿弥陀如来よりもエライとかいうようなことではなく、御影堂は法然や親鸞とともに門徒・信徒が集まる場所だという考え方で、阿弥陀堂は阿弥陀如来を祀るお堂としてのもので、門徒・信徒があるまる場所であるから御影堂の方が広く大きい・・ということではないのでしょうか。
歎異抄入門―この乱世を生き抜くための知恵 (カッパ・ブックス) - 本多 顕彰
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  御影堂の左手前、阿弥陀堂の左手前でもある位置に 手水舎があります。↓
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総本山だけあって、手水舎もなかなかのものです。
後ろの建物は阿弥陀堂です。

  男坂の上の方の段で左(北側)に多宝塔が見えましたが、↓
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多宝塔も広場の方を向いており、広場の側から見ると、↓
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↑ こちらが多宝塔の正面です。
《ウィキペディアー知恩院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2 には、
《 多宝塔「七百五十万霊塔」 - 1958年(昭和33年)建立。》
と出ています。
阿弥陀堂の左、南側にあります。

  多宝塔の前(東)のあたりに朱印所があり、そこで御朱印はいただけます。

  経蔵の手前(南側)に、池と背後の山と樹木にきれいに調和した建物があります。↓
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  池と橋と樹木と調和した姿がきれいですが、これは何の建物かというと、納骨堂らしい。
《ウィキペディアー知恩院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2 によると、
《 納骨堂 - 1930年(昭和5年)建立。》
らしい。 1930年(昭和5年)というと、
「ひどく憎い(1929)、世界大恐慌」の1929年の1年後。
「人、苦しみ苛む(1931) 満洲事変」柳条湖事件、満州事変の年の1931年の前年。
「ひどく醜い(1932)、5.15事件」の2年前。



( ↑ 知恩院。 マーカーは御影堂。)

  次回、宝仏殿・泰平邸など、もう少し、この広場のまわりを見てまわります。

※ 知恩院HP https://www.chion-in.or.jp/
ウィキペディアー知恩院 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2

  (2022.9.27.)

☆ 知恩院(京都市東山区)参拝
1.京都駅~京都河原町駅~知恩院新門。関西人を侮辱する東京もん・ぶぶづけ食って帰ろうとする東京もんは無神経。「サービス向上」していないJR。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_4.html
2.新門から三門へ。知恩院のムクロジ。知恩院への経路。鎮西派と西山派。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_6.html
3.「男坂」から御影堂・阿弥陀堂前まで。知恩院の場合、新門⇒三門⇒男坂⇒・・ルートは必ずしも正規ルートではないのではないか。裏口入学て自慢するものではないと思うぞ。ガチンコは裏口八百長野郎のゴルフバッグをかつがされる義務があるのか。「家族の政治学」を理解できない女は高校教諭にならないでもらった方がいい。御影堂と阿弥陀堂の配置、知恩院と西本願寺・東本願寺の違い。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_7.html
4.正面の御影堂・西の空を背にした阿弥陀堂・東山を背にした経蔵。多宝塔・池と橋と樹木と調和した納骨堂。〔今回〕
5.宝仏殿・泰平亭。御影堂の前の広場越しに見る御影堂・経蔵・宝仏殿。「ほうじ茶」は「焙じた茶」か「法事の茶」か。「これからは俺がやるんやから」と言って何も法事をしない「さわやかラガーマン」。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_9.html
6.大方丈・唐門・集会堂。その他の堂宇の配置。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_10.html
7.女坂から南門へ。知恩院の場合は「男坂」「女坂」という名称は適切ではないのではないか。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺(静岡県浜松市)は宗教の敵である。「心理学」と「坐禅研修」を従業員に強制する権利は企業経営者・使用者や深奥山方広寺には存在しない。坐禅を理解できていない臨済宗の僧はけっこういるのではないか。イカサマ「心理学」は少なくない。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_11.html
8.知恩院南門から円山公園。よその息子に合わさせようとする親。親に苦労する生徒を苛める高校教諭。あほくさい新聞配達姿の「働く少年の像」。自分の息子になら出さないカネをよその息子に特別献金する親。さきに言ってほしかった「 大学の学費と生活費をシブチンやりたがる親」。自己不一致の親の息子は生贄にされ「外罰的性格」にされる https://tetsukenrumba.at.webry.info/202209/article_12.html
9.祇園交番・花見小路通・京都色すき家・高瀬川。交番とは市民を守るものか警察が市民を監視する出張所か。交番は独創的なデザインで街の景観に溶け込むものではなく、全国一律のデザインで目立つものであるべきではないか https://tetsukenrumba.at.webry.info/202210/article_1.html
10.めやみ地蔵 仲源寺(京都市・浄土宗)参拝。息子の眼鏡は「やふいのん、やふいのん」という父親、「眼えなんか、つぶれてもええ」と言う母親。生徒の力にならない・なれない・なる意思がない高校教諭。「子供手当」はホトケの敵。「子供」独善主義者に食い殺された我が子の無念を晴らしてもらうよう水子地蔵尊に参拝 https://tetsukenrumba.at.webry.info/202210/article_2.html 

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