心身医学・心療内科のたそがれ。「精神医学」(=ファシズム)の手下となる心身医学には明日はない。+「心理学」「精神医学」「心身医学」「精神分析学」の違いがわかりますか?

[第560回]
  「心理学」と「精神医学」と「心身医学」と「精神分析学」はどう違うか、わかりますか?  もうひとつ、「カウンセリング」というのはそのどれかの一部分なのか、別なのか?
  一般的には、「精神医学」と「心身医学」の違いとしては、「心身医学」というのは「心の状態からおこる体の不調についての医学」であるのに対して、「精神医学」は精神の異常、もしくは「異常」とまでいかないにしても「不調」を対象とするもの・・ということになります・・。「精神医学」は「病院」という所では「精神科」「神経科」という科名になりますが、「心身医学」の場合は「心療内科」とかいう科名になっているのではないでしょうか。
  で、そういうのは「きれいごと」といえばきれいごと。もっと大きな違いとして、「精神医学」は異常な人間だと「医者」と称する者が「認定」した人を対象とするので、本人の意志に反して「人間による人間の加工」をおこなう所です。 それに対して、「心身医学」「心療内科」というのはそうではなく、「心の悩みを原因として起こる体の不調」を改善しようとするものであり、「患者」は「異常者」と認定されているわけではないはずなので、「精神医学」とは違って「心身医学」「心療内科」の場合は本人の意志に反して治療するわけにはいかない・・というのがたてまえです。

  「精神分析学」というのは慶應大学医学部助教授で幼稚舎から慶應の小此木啓吾がおのれ勝手な世界観を「精神分析用語」「精神医学用語」と称する寝言・戯言でなんじゃかんじゃ言いまくり、自分が気に食わない相手に片っ端から「なんとか人間」「なんじゃかんじゃシンドローム」「なんたらかんたら症候群」「なんとか的性格」とかいった「病名」もしくは「準病名」を発明してレッテルとして貼り付ける・・というのが精神分析学・・ですよね。
  それに対して、反精神分析学としてシグモンド=フロイトとかヴィルヘルム=ライヒとか、エーリッヒ=フロムとか、あるいはユングとかそういった人がいた。・・あれ? シグモンド=フロイトが精神分析を始めた人じゃなかったっけ? ・・そうだったはずなのですが、今ではシグモンド=フロイトの精神分析学というのは小此木啓吾一派によってどこかに追いやられてしまったのです。
  森山公夫『現代精神医学解体の論理』(岩崎学術出版社)によると、もともと、「精神医学」というのは不都合だとされた人間を社会が抑圧する道具として開発されたものだったが、ヨーロッパにおいてそれを開放するもの、伝統的「精神医学」に対する反逆児としてフロイトの精神分析学が誕生したのだが、ところが、伝統的「精神医学」に対しての反逆児として生まれた精神分析学が大西洋を渡ってアメリカ合衆国に行くと、それが飼いならされて体制側・権力側・抑圧側の道具として人民を抑圧する道具としての伝統的「精神医学」の一部分に変化した・・というものらしい。 その体制に飼いならされたアメリカ型の方の「精神分析学」を日本に持ち込み、慶應内部進学の人の世界観をもとにできたのが「慶應タイプ」が大好きな小此木啓吾の「精神分析」です。そういうのを「独立自尊」とか言うのです。え、なんで? 逆と違うの? なんて思うのですが、「慶應タイプ」はそういった体制に飼い慣らされた方を「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか言うのです。
  小此木啓吾のビョーキ本シリーズが好きな人というのが慶應大の学生なんかにはけっこういたのですが、そういう人には特徴があって、小此木啓吾謹製の「精神医学的レッテル」というものの本を買って喜んで読んで、そしてそれらの読者の””善男善女””は思うのです。「これは、そうだ♪ あいつのことだ!」と・・。そうして、小此木啓吾謹製の「精神医学」的レッテルを片っ端から「自分以外の誰か」に貼りまくるのです。小此木本の読者が貼りまくる場合はまだいいのです。それを「精神科医」とか「心理学者」とか称する人間が貼ると、そこから「病人」「患者」が製造されます。そして、「人間による人間の加工」が開始されることになります。
現代精神医学解体の論理 (1975年)
現代精神医学解体の論理 (1975年)
  ・・小此木啓吾こそ、反社会的勢力と考えるべきではないでしょうか。小此木啓吾こそ、まさにファシストでしょう。ファシスト。もう、死んでしまいましたけどね。なんでも、慶應大学に私が在学した時、文学部の学生で小此木啓吾の講座に出て、ロナルド=レインについて話したところ、小此木啓吾から「レインはもう時代遅れです」と言われたと言ってショックを受けていたやつがいまして、それで私は彼に言ってやったことがあるのです。「小此木啓吾こそ、もっと時代遅れです」と。・・その後、小此木啓吾独善主義が2003年9月に野垂れ死にした後、何年か経った今、ロナルド=レインの著作はすべてに賛成するか否かはさておき、今も古典の1つとして存在していますが、小此木啓吾のビョーキ本シリーズなんて、もう「どうでもいい本」になりました。ほらね(^^♪ 小此木啓吾なんてそんなもんなんです。
  まあ、「☆☆は時代遅れだ」とかいう表現は昔からよくされてきたもので、「マルクスは時代遅れだ」とか「サルトルは時代遅れだ」とか書かれた本も出ていますが、サルトル『実存主義とは何か』(人文書院)で訳者は「『サルトルは時代遅れだ』と言う人に私は問いたい。『あなたはサルトルの本を読んだことがあるのか? 読まずに言っているのと違うのか』と」と述べているが、そんなものだ。マルクスが若かった頃、ドイツの青年の間では「ヘーゲルは死せる犬だ」とか言う者がいて、マルクスが「そうは思わないですね」と反論したという話もあるように、昔から「☆☆は時代遅れだ」とか「☆☆は死せる犬だ」とか言いたがる人はいて、その人の方がよっぽど時代遅れだという場合も珍しくない。

  インターネットで検索すると、小此木啓吾は慶應大学医学部を定年退職した後、慶應大よりも定年の年齢が高い私立大学に講師として勤務したらしいものの、「慶應大よりも学力レベルの低い私立大学の学生をいじめる」ということがあり、何よりも「何かと慶應に帰りたがる」・・ということで評判悪かったそうな。・・そうだろうなあ・・と思いますね。なにしろ、小此木啓吾という人は 筋金入りの ””揺り籠から墓場まで慶應シンドローム”” ですからね。小学校・・慶應幼稚舎、中学校・・慶應中等部、高校・・慶應義塾高校、大学・・慶應大医学部、勤務先・・慶應大学および慶應病院 と、まさに筋金入りの「揺り籠から墓場までシンドローム」の重症患者です。慶應的精神空間から外に出て生きておれるのは3分間まで。それを超えるとカラータイマーが点滅して、カラータイマーの色が緑から黄色に変わり、黄色の点滅が赤に変わると、もはや、小此木啓吾は生きていけなくなってしまうのだ! ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん・・・
⇒《YouTube-ウルトラマンvsゼットン》https://www.youtube.com/watch?v=HwicfkCJz2g
  小此木啓吾の体は慶應的精神空間から外に出ると、そのエネルギーは急激に消耗する。カラータイマーが黄色の点滅から赤に変わると、もはや、小此木啓吾は生きていけなくなるのだ。慶應的精神空間に帰らねば・・・。ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん・・
  思い知れ、小此木啓吾! 今までおまえに「なんたら症候群」「なんとかシンドローム」「なんじゃかんじゃ人間」「なんじゃもんじゃ的性格」とかレッテル貼られて怪獣扱いされて苛められてきた人間の恨み、思い知れえ!!!

  それで、もともとは人間の意識というものを真摯に考え、人間が本来的な生き方をできるようにと、すべてが成功ではないとしても、すべてが正解ではないとしても、真摯に考えたシグモンド=フロイトやその正統的な継承者と考えて良いかと思われるヴィルヘルム=ライヒ・エーリッヒ=フロムといった人は、今日では小此木啓吾らの主要「精神分析学」に対しては「抵抗勢力」になったのです。

  もうひとつ、「精神分裂病」と言われていた「病気」を、精神が分裂した危険な人間だと思われ差別されるということから「統合失調症」という名称に最近、変更されたのですが、その「統合失調症」その他の解明法として、ロナルド=レインは人間関係に原因があるのではないか、特に家族というものに原因がある場合が多いと着目したのです。実際にどうかと言いますと、それはケースバイケース、それぞれ、事情は違うでしょう。 しかし、まず言えることとして、身体医学の場合とは違って、「精神科」の「患者」の場合は家族は必ずしも味方ではないということ。
  『すべての犯罪は革命的である』なんて題名の本の広告を、昔、どこかで見た記憶があるのですが、犯罪とは何か・・という問題を考えた時、社会の矛盾が個人を通して現れたもの・・と考えることもできるわけです。だから、「すべての犯罪」は社会に原因があるのだから、犯罪を犯した人はすべて無罪とすべきかというと、そういうものでもないでしょう。同じ境遇に置かれた人でも、すべての人が同じように犯罪を犯すわけでもない。厳しい境遇に置かれても、それでも犯罪を犯したりしないで努力して生きている人だってあるわけで、犯罪を犯していないからという理由で恵まれた贅沢な環境に置かれてきたんだろうなどと言われる筋合いもない。しかし、犯罪の背後に社会の矛盾があるという場合はある。
  同様に、「精神疾患」というものは「社会のひずみが個人を通して現れたもの」である場合は考えられ、人間関係の矛盾が比較的立場が弱い個人に現れたもの・・である場合というのはあるのではないか。それは職場における人間関係もあるでしょうけれども、特に大きな影響を及ぼすものとして「家族」というものがあるのではないか。
  ロナルド=レイン・デビッド=クーパーといった人は、その「家族」の矛盾、「結ぼれ」とでもいったものを、ひとつひとつ、解きほぐすことで「精神疾患」を快方に向かわせることができるのではないかといったことを考えた。又、家族の誰かに矛盾のしわよせを押しつけるようなそういう「家族」の状態は死滅するべきだ・・と考えた。
家族の政治学 - R.D. レイン, Laing,R.D., 良男, 阪本, 嘉, 笠原
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  その家族の「結ぼれ」を解きほぐしていこうというロナルド=レインらを内部進学小此木啓吾独善主義は「時代遅れです」とか言って得意がっていたのです。小此木啓吾の方こそ時代遅れなのに・・( 一一)
  慶應的精神空間から外に出ると3分以内に戻ってこないとカラータイマーが黄色の点滅から赤に変わって生きていけなくなる「小此木啓吾シンドローム」のくせしやがってからに・・( 一一) ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん、ぴこ~ん♪

  ビゼーのオペラ『カルメン』の話を知っていますか? メリメの小説『カルメン』とは違いますよ。 メリメの小説『カルメン』をもとにしてビゼーはオペラ『カルメン』を作ったというのですが、話の内容は全然違います。メリメの小説『カルメン』は名作ですが、ビゼーのオペラ『カルメン』は音楽的にどうかはともかく、話の筋としては・・くだらん!  要するに、アホな男2人とアホな女1人が出てきて、アホな男1人とアホな女1人が死ぬというそれだけのしょーもない話。
  この話は他の稿で過去に述べたこともあったと思うが、その話にはここでは深入りしないことにして、オペラ『カルメン』の方で、カルメンという男たらしを得意とする女と仲良くなっていたホセだが、カルメンはホセに「なんか、あんたには飽きてきたわあ」とか思い出して、代わりに闘牛士のエスカミリオという男に魅かれだす。ホセはカルメンに気持ちを戻してもらおうとするが、カルメンはきき入れず、ホセはカルメンを刺し殺す・・・て、そんなけの話。しょーもな・・というのがオペラ『カルメン』で小説『カルメン』はそんなしょーもない話ではない。 私が中学生だった時、1970年代前半、テレビに「オーケストラがやってきた」という山本直純が司会をしていた番組があって、山本直純が「エスカミリオというと闘牛士で、その時代の花形ですね。今で言うと、長嶋みたいなものですよ」なんて言っていたのですが、その「長嶋みたいなやつ」がエスカミリオです。・・「わしぁ、日陰の月見草」。
  そのエスカミリオが登場する「闘牛士の歌」というアリアを私は中学生くらいの頃まではかっこいいと思っていたのですが、歳を行くにしたがってそうは思わなくなったのです。むしろ、みっともない歌。ブサイクな歌。みじめな歌・・・。
  カルメンという蓮っ葉・移り気な女がいて、その女がかつて魅力を感じて仲良くなったホセという男を捨てて自分に魅力を感じ出した・・ということに気を良くして得意がって歌うのがこの「闘牛士の歌」ですよ。「ええおっさん」が歌うんですよ、オペラの場合は。だいたい、オペラというのはプッチーニのオペラ『トゥーランドット』でも「何人もの男を虜にした美女」トゥーランドットというから、いったいどんな美女が出てくるのかと期待していると、出てきたのは「航空母艦みたいなおばさん」「冷蔵庫みたいなおばさん」だった・・とか。カルメンもそんな感じ。 おばさんなんですよ、言っちゃなんだけど。ホセもエスカミリオもおっさんなんですよ。おっさん2人とおばさん1人とが、中学生みたいなことやってもめて、結局、おっさん1人がおばさん1人を刺し殺すという話。あんたら、もうちょっと、大人になんなさいよお、大人に~い( 一一) という話。
《YouTube-ビゼー歌劇「カルメン」闘牛士の歌》https://www.youtube.com/watch?v=nsMTka8s3S4
〔 ↑ ついでに、キッチンスペシャリストとして言わせてもらうと、↑ のカルメンのワイングラスの持ち方、おかしい。ワイングラスはボウルを持つのではなくステムの部分を持つものだ・・と思うぞ。〕
  なにより、馬鹿げているのがエスカミリオ。↑ かつて、「私、あんたが好きやね~ん」と言ってくっついたホセを「なんか、あんた、あんまり好きやなくなったわ」みたいな態度をとって、「エスカミリオさん、私、あんたこそ、タイプやわあ♪」と「長嶋みたいなやつ」に鞍替えする女が出た・・・となると、普通、大人の男ならば「この女ともしも仲良くなったとすると、何か月か後には俺があのホセというみじめな男みたいになるのじゃないか」と考えるのではないかと思うのだ・・・が、考えない、エスカミリオという男は。この「長嶋みたいなやつ」。
そいつの歌なんだよ、「闘牛士の歌」というのは。カッコつけて歌うもんだから、よけいにこっけいだ。この「長嶋みたいなやつ」・・・「わしぁ、日陰の月見草」・・。
《YouTube-ヤクルトスワローズ】東京音頭 くたばれ読売》https://www.youtube.com/watch?v=5pD6NjDEDXE
   ・・それで、その「長嶋みたいなやつ」というのか、「エスカミリオみたいなやつ」て、身近にいると思いませんか? 特に慶應の学生に多いと思ったのですが、小此木啓吾が「なんとか人間」「なんちゃらシンドローム」「なんだもんだ症候群」「なんともかんとも的性格」とか言うと、「そうだよなあ。そういう人間は困ったもんだよな」「そういうやつは治療してやらなきゃいかんよなあ」とか思って大喜びするのです。エスカミリオみたいに。あくまでも、カルメンという蓮っ葉女に袖にされるのはホセであって自分じゃないと勝手に思い込んでいる「長嶋みたいなやつ」。 私はそういうやつのことを「エスカミリオ症候群」と呼んでいるのですが、慶應の学生にはそういうのがわんさといた!  うんとこさいた( 一一) 「慶應タイプ」は心の底から思っとるのです、「なんとか人間」「なんちゃらシンドローム」「なんだもんだ症候群」「なんともかんとも的性格」とレッテル貼られて「治療」されるのは「自分以外の誰か」だと。・・アホがめでたいのお・・( 一一)
  特に心理学科とか行くやつにはそういうやつが多いのではないでしょうか。そんな根性・そんな性格してるから心理学科なんか行こうという気持になるのかもしれませんね。
復刻版 きけ 小人物よ! - ライヒ,ウィルヘルム, Reich,Wilhelm, ユズル, 片桐
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  ほら、あなたのまわりにもいませんか? エスカミリオ症候群が!

  小此木啓吾のビョーキ本シリーズを出した三笠書房なんて、けっこう儲けたのではないか・・・
( 一一) ( 一一) ( 一一)

  私は、もともと、文学部の心理学科・教育学部の教育心理学科か、医学部の心身医学科に行きたかった人間なのです。但し、高校生の頃、心理学・教育心理学・精神医学・心身医学・精神分析学というのがどう違うのかよくわからなかったので、自分が学びたいと思っているものがそのどこに行くのが最もふさわしいのかよくわかっていなかったのですが。

  「カウンセリング」というのは何かというと・・⇒要するに「言いくるめ」。あるいは「マインドコントロール(精神支配)」。
・・違うと言いたいなら勝手に言っときなさい。違うと思いたいなら思っておきなさい。しかし、違わんよ。

  大学の学部としては、「精神医学」と心身医学は医学部。 心理学・教育心理学になると、文学部か教育学部、大阪大には人間科学部なんてのがあるから大阪大だと人間科学部なのかもしれん。 他にも「何かようわからん名称の学部」がある大学ではそれの場合がありうる。

  坐禅とか、それから静座・・「正座」ではなく「静座」とかは気持ちを落ち着けて、心を整え、その結果として心が乱れた状態よりも良い成果を出せるようにする・・ということでいくらかなりとも効果はある、少なくともマイナスにはならないであろうと思います。
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こういうのは大学の学部だと何学部になるか。医学部でなくても、文学部心理学科でやっても別に医師法違反とかに問われることもないでしょう。坐禅はお寺の坊さんだってやってるんだし。お寺でやってるとなると、「仏教学部」とかいう学部か?

  フロイトは「自由連想法」なんてものを考えたりもしました。 次々と連想されるものをつないでいくと、ふと、自分を苦しめているものに気づくということがある。これは自分自身でやってみるならば、少なくともマイナスにはならないと思います。

  問題は「小此木啓吾型精神医学」「小此木啓吾型精神分析学」。これは問題がある。漫画家の小林よしのり が『異能戦士』という漫画を描いていたのですが、小此木啓吾のことです。↓
異能戦士 1~最新巻(トクマコミックス) [マーケットプレイス コミックセット] - 小林 よしのり
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  「私は深見知世。異能戦士よ。私は人の心が読めるのよ♪」と、それが小此木啓吾です。「あなたの心を読んであげるわ。あっ! あなたは、今、私に挨拶しようとしたわね。それは『ごきげんよう』ではなく『おはようございます』でもないわ。・・う~~ん、わかったわ、あなたは今、私に『こんにちわ』と言おうとしたのね♪」・・・すご~い、さすがは異能戦士!
  「私は深見知世、異能戦士よ。あなたの心を読めるのよ。ああ~あ、いやあ~あ。あなた、私にいやらしいことしようと考えてるのね。あんなことやこんなことや・・・。いやあ、この変態! 私にあんなことやこんなことややろうと考えてるのね」・・「いや、そんなこと考えてないけど」・・「嘘よ。私は異能戦士だからわかるのよ。嘘言ってもだめよ」・・「だから、考えてない言うとるやろうが」・・「いいえ。私は人の心が読めるのよ。だから、あなたが、あんなことやこんなことや、嫌らしいこといっぱいやろうとしているというのがわかるのよ。この変態! いやああ~あ!!!!」・・・「て、ええかげんにせえよ、こいつ」
・・というのが、小此木啓吾、別名「異能戦士」であり、それが「精神分析学」である。

  トマス=サズ『「精神医学」という神話』(岩崎学術研究社)では、トマス=サズは、これまで「精神医学の悪用」とか「精神医学の悪い治療」と言われてきたものは、実は「悪用」とか「悪い治療」とかいうものではなく、それこそが「精神医学の本質」だと指摘している。「悪用」とか「悪い治療」とかいうものではなく、それこそが「精神医学」の本質なのだ。
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫
( ↑ はソビエト連邦における「精神医学」の問題を述べたものだが、
〔1〕チェルノブイリ原発事故は決して「ソ連の問題」ではなく「原発の問題」であったのと同じく、これは決して「ソ連の問題」ではなく「『精神医学』の問題」である。かつ、
〔2〕トマス=サズが『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)↓で言うように、「精神医学の悪用」とか「精神医学の悪い治療」とかいうものではなく、それが「精神医学の本質」である。かつ、
〔3〕「精神医学」には問題があるが「心理学」はそうではないというものではなく同類である。 )
精神医学の神話 - 河合洋, トマス・スティーヴン・スザッツ
精神医学の神話 - 河合洋, トマス・スティーヴン・スザッツ
( ↑ ニューヨーク州立シラキュース大学「精神科」教授トマス=サズのこの著作は、岩崎学術研究社から発行されている翻訳では「精神医学」業界に忖度して、同格のof を意図的に「~の」と誤訳して訳名としているが、この本の内容から考えるならば、of は同格のof と考えて、「~の」ではなく「~という」と訳すべきであり、『精神医学の神話』ではなく『「精神医学」という神話』とするのが正しい。 )

  小此木啓吾(幼稚舎から慶應)と紺野美沙子(高校から慶應。中学校も私立)て似ていると思いませんか? ・・・
  1980年代初め、内部進学 紺野美沙子が、慶應義塾新聞だったかに書いていたのです。「内部進学の人はみんな、スマートですね。途中から入ってきた人も、内部進学の人に教育してもらってだんだんとスマートになるみたい」と。
  ・・こいつ、いったい何様?!? ・・と思いませんか。 私は思いましたね。 蹴っ飛ばしたろか・・なんて言うと「精神病質」とか「未成熟」とかなんとかかんとか「精神医学」的「病名」つけられますから、怖い・こわい・怖い・こわい! 内部進学に逆らうといったいどんな「病名」つけられて「治療」されるやらわからん。怖いわ・こわいわ・怖いわ・こわいわ!!!
  紺野美沙子というのは大学だけ慶應に行った人間のことを「途中から入ってきた人」と言うのです。「途中から入ってきた人」と。おまえはいったい何様じゃあ?!? ・・・内部進学が正統であり、大学だけ慶應に行った人間というのは「途中から入ってきた人」であり、内部進学の人間が「途中から入ってきた人」を「教育」してあげるのだとそう言うのです。このフトモモ丸出し女は! おまえはいったい何様だ、何様?!? このフトモモ丸出しのモロダシ女・・NHKの朝のテレビドラマのなんとかで、紺野美沙子はフトモモ丸出しで出とった・・のだが、そのフトモモ丸出しテレビ出演女が「『お嬢さん』やねん、この子」ということでテレビに出ていたのだが、なんで、フトモモ丸出しでテレビに出る女が「お嬢さん」なのか・・どうも、ようわからんかった。
  慶應の内部進学の人間というのは「『お嬢さん』信仰」というものを持っていて、しかも、「お嬢さん」というのはどういう女を言うのかというと、「お嬢さん」と認定される学校というのがいくつかあって、そういう学校に行った女が「お嬢さん」らしいのだ。決して、こういう生活態度の人間がとか、こういった物の考え方の人間がというものではなく、いくつかの「お嬢さん」と決められた学校に行っている女が慶應の内部進学の人間にとっては「お嬢さん」なのだ。なんか、変な考え方しとるのお・・と私なんかは思ったのだが、それを口に出して言うと、「慶應心理学」から「受験勉強の悪影響ですね」とか「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らっているということですね」とか「独立自尊の精神があればそういうことは言わないはずです」とか「診断」されることになり、次に「治療」されるおそれがあるから、もう怖いこわい怖いこわい!!!
  「途中から入ってきた人」だと、なんや、えらい悪かったなあ、ほんま・・・、「途中から入って」きてからに。
  そういう紺野美沙子みたいののことを「慶應心理学」では「スマート」とか「思考が柔軟」とか「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか言うらしいのですが、フトモモ丸出しでテレビに出るのが「お嬢さん」だと疑わずに信じるという精神態度のことを「スマート」で「思考が柔軟」で「独立自尊」で「自我が確立されている」と「慶應心理学」では言うらしいのです・・・が、なんでや?・・なんて私なんかは思ってしまうのだが、そういうことを口にすると「自我が確立されていないからそういうことを言うということです」とか「独立自尊の精神がないからそういうことを言うのです」とか「モラトリアム人間ですね」とか「未成熟だと思います」とか「受験勉強の悪影響だと思います」とか「慶應心理学」から「診断」されます。・・だから、慶應という大学では内部進学はお殿様であり、慶應で内部進学と戦っても勝ち目はないということです。慶應はそんな学校であり、要するに慶應の内部進学の人間が言う「独立自尊」というのは内部進学の人間のことで、他にも「自我が確立されている」も「思考が柔軟」も「スマート」もなんたらかんたらも内部進学の人間のことを言うのであり、それに対して「なんでやねん?」と言うと「病名」つけられます。

  又、週刊誌だったかに紺野美沙子のことを「常識人」なんて書かれていたのを見ましたが、なんで「常識人」なの? 大学だけ慶應に行った人間のことを「途中から入ってきた人」だの「外部の人」だのといった口をきくような身勝手・独善的な女がなんで「常識人」なの? フトモモ丸出しでテレビに出る女が「常識人」なの? フトモモ丸出しでテレビに出るモロダシ女を「お嬢さん」だと言うのが「常識人」なの?・・・なんて私は思ったし、そういう女を「お嬢さん」で「常識人」だと認定するのが「独立自尊」「自我が確立されている」というのは、それは逆と違うんかい? ・・と思ったのだが、こういうことを言うと「病気」か「未成熟」か「自我が確立されていない」か「なんとか症候群」か「なんたら的性格」かと「診断」されて「治療」されるおそれがあって、もう怖い怖い怖いこわい・・・
  だいたい、「高校から慶應で中学校も私立」て、そういう狭い世間で生きてきて、そういった世界の内側からしか世の中を見たことがない人間が、なんで「常識人」なの? そういう人が「常識」だと思っているものが常識で、それとは異なった認識は非常識だと言いたいの?
   それが紺野美沙子の場合は、まだしも職業が大根でも「女優」ですからまだいいのですが、小此木啓吾の場合は「医者」ですから、内部進学小此木啓吾独善主義が気に食わないと思ったならば「病気」に「診断」されることになり、「治療」されることになる可能性が小さくありません。

  ついでに、この際、ここで一言、言っておく。
「 私は紺野美沙子が嫌いだ!
や~い、紺野美沙子のモロダシ女!
 や~いやい!!!」

  1970年代後半、私が高校生の頃、「受験の英語」(聖文社)という月刊誌があって、私は高校3年の時、毎号、購入して、そこにある問題をすべてやっていたかというと・・やりきれずにいくらかやってやり残していたのでしたが、毎号、表紙に英語による有名人の言葉が掲載されていて、8月号には、オーデンの言葉で、
Look if you like, but you will have to leave.
というのが掲載されていた。直訳すると「もし、見るのが好きならば見ればいい。しかし、あなたは必ず飛ばなければならなくなるだろう」といったところで、「見る前に跳べ」ということになるということだった。第二次世界大戦中、ナチスの勢力が強まる中で、オーデンが苦渋の決断として述べた文句ということだった。
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《 ● 道はたしかにけわしいが――「見る前に跳べ」
  表紙の言葉はW.H.Auden(1907―73)の詩 ” LEAP BEFORE YOU LOOK" の4行目に当たるものです。読者の中には、大江健三郎の小説『見る前に跳べ』や、岡林信康のLPレコード「見る前に跳べ」を思い出す人もいるでしょう。 「見つめるのもいい。だがあなたは跳ばなければなりません」――ファシズムと戦争の迫る1930年代において、「見者」オーデンが ” 行動への苦い決意 ” を示した詩句ですが、もちろん「行動こそすべてだ!」という楽天性とは異なるのです。最後に、この詩の初めの4行を挙げておきましょう。
The sense of danger must not disappear;
危機の感覚は失せてはならない
The way is certainly both short and steep,
道はたしかに短くけわしい
However gradual it looks from here;
ここからはゆるやかに見えるけど、
Look if you like,but you will have to leap.
( 見つめるのもいい。だがあなたは跳ばなければなりません。)》
( 「受験の英語1977.8月号」聖文社 より。)
〔 《ウィキペディアー聖文社新社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%96%87%E6%96%B0%E7%A4%BE によると、「受験の英語」の他、「受験の日本史」「受験の世界史」「物理と化学」「受験の数学」を出版していた聖文社の後身かと思われる聖文新社 が《2020年5月21日に後継者不在および社員の高齢化を理由に7月末をもって廃業することを発表した。》らしい。 《ウィキペディアー学燈社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%87%88%E7%A4%BE によると、「受験の国語 学燈」や学燈文庫 を出版していた学燈社も《2009年『國文學』を休刊とし解散した。》らしい。なんだか寂しい気持ちがする・・が、慶應の内部進学の人間は高校生の時代にそういった本を読むのではなく「週刊プレイボーイ」とか読んで過ごしてきた人間で、夏目漱石『こころ』とか太宰治『人間失格』とかアンドレ=ジッド『狭き門』とかを読むのが高校生ではなく高校生というのは「週刊プレイボーイ」を読むというのか見るものでそういうのが「思考が柔軟」「スマート」だと思っている人たちだ。””アタマが「週刊プレイボーイ」””が「思考が柔軟」で「自我が確立されている」で「受験勉強の悪影響を受けていない」だと思っている人からすれば「受験の国語 学燈」や「受験の英語」「受験の世界史」が廃刊になっただけでなく発行していた出版社もなくなってしまった・・ということに寂しさを感じたりすることもないようだ。彼らにうかつにこういうことを言うと、「なんだ、それは」と土足で踏みつけにされるので彼らには話さない方がいい。「真珠をブタに投げてやるな。彼らはそれを足で踏みつけにし、向き直ってあなたがたにかみついてくるであろうから」と『聖書』には書かれているが、まさにその通りである。
  「受験の英語」「受験の日本史」「受験の世界史」「物理と化学」「受験の数学」と発行していた出版社の聖文社の後身らしい聖文新社はなくなり、遠藤周作『口笛を吹く時』にも登場する「受験の国語 学燈」も発行していた学燈社もなくなってしまったようだが、《ウィキペディアー大学への数学》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%A6 によると「大学への数学」(東京出版)は「大学への数学」も東京出版も今も存在して、「高校への数学」「中学校への算数」という姉妹雑誌も出ているらしい。〕
※ W.H.オーデン ⇒《ウィキペディアーW・H・オーデン(ウェスタン・ヒュー・オーデン)》https://ja.wikipedia.org/wiki/W%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3
  『新英和中辞典 第三版』(研究社)には、小此木啓吾の「モラトリアム人間」論と逆の文句が掲載されています。
《  Look before you leap. 《諺》転ばぬ先の杖 》
『現代英和辞典』(研究社)では、
《 Look before you leap. 《諺》飛ぶ前に見よ、「転ばぬ先のつえ」 》
と出ている。「飛ぶ前に見よ」と「転ばぬ先のつえ」は少々違うようにも思う。又、Look before you leap. は「転ばぬ先のつえ」よりも「飛ぶ前に見よ」の方がふさわしいように思うのだが、辞書の編纂者は『新英和中辞典 三版』は岩崎民平・小稲義男監修、『現代英和辞典』は岩崎民平監修 となっているが・・。
〔慶應の教授(内部進学)というのは、こういったW.H.オーデンの詩句とかこういったものは「受験勉強だ。害があるんだ」と言うのですが、なんか、この人たち、かわいそうな教育うけてきてるなあ・・と思いました・・し、又、そういう変な人と関わって悪影響うけたら嫌だな・・と思ったものでした。
  慶應の教授(内部進学)は「我々内部進学の人間はおまえら””(慶應義塾の)外部の者””〔彼等内部進学の人は大学だけ慶應に行った人間のことを「(慶應義塾の)学部の者」「(慶應義塾の)外部の人間」と言います〕と違って、受験勉強の悪影響を受けていないんだ」とおっしゃりのたまいあそばすのですが、それって「受験勉強の悪影響を受けていない」のではなく「小学校から高校までの勉強をしていない」の間違いではないのか・・・と思うのですが、言うと怒りますから、逆らうとうるさい( 一一)・・ので逆らわない方がよさそうです。たしかに、この詩も掲載されていた本は『受験の英語』という名前の本ですが、『受験の英語』に掲載されていたものであっても、この詩は別にどこの入学試験の問題に出ませんでしたし、受験と関係なく学んでも悪くないと私は思ったし、受験の過程で学んだものだから「悪影響」だと決めつけなくても、受験の過程で学んだものでもいい影響があるかもしれませんでしょ・・というと慶應の教授(内部進学)は激怒します。心理学系の人なら「そのあたりの思考が受験勉強の悪影響ですね」とか「診断」するという心理学攻撃を加えてくる可能性が考えられますし、「モラトリアム人間病だからそういうことを言うということですね」とか「診断」される可能性もあります。そういうやつには、秘技””「心理学」返し”” で対応してやるべきかもしれませんが・・その前に、そういうやつには「関わらないのが一番」かもしれません。慶應の先生でも他大学卒で慶應の先生になっている方と話をすると、「ここの学校の先生はねえ~え・・」といったことを言われる方もあります。わかってる人はわかってるみたいです。
  どうも慶應の内部進学の学校というのは、「逆らうとうるさそう」て人間になるように観念的に「教育」しているみたいで、そういう人のことを「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか言うそうなのです。なんで、それが「独立自尊」なんだ? なんで、そんなものが「自我が確立されている」なんだ? むしろ、逆と違うのか?・・とか思いそうになるのですが・・逆らうとうるさいので「慶應心理学」には逆らわん方が良さそうです。怖いですから・・。〕
・・小此木啓吾の『モラトリアム人間』論というのは、この「見る前に跳べ」、要するにファシズムの思想である。
  本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)みたいに、すべての「冒険」を応援したいという思想とは逆だ。小此木啓吾は体制に従順に生きることが「成熟」であり「常識人」であり「正常」であり、それに疑いを持つ若い人を「モラトリアム人間」と罵る。
  若い人に限らない。二代目貴乃花なんて、何もしないでおとなしくしておれば、血筋からいっても現役時代の成績からいっても、いずれは理事にもならせてもらえて、いずれは理事長にもならせてもらえる可能性は十分あったのに、そうはできない男。「冒険」をすることで相撲界から追い出されてしまった。田中真紀子にしても、《「角栄の娘」であってそれ以外の何でもない》という女として生きたならば、自民党を追い出されることもなく議席を失うこともなかっただろう・・けれども、「角栄の娘」ではなく「真紀子」なんだとして主張したことから「田中真紀子の支持者」を得た片方で「角栄の支持者」で失った支持層もいただろう。野村克也が他界してもう1年以上経った。野村は阪神の監督になってチームの成果が出ず、阪神OB会会長の安藤が「私が野村がけしからんと思うのはチームの成績が最下位だからではなく、成績があがらないことを選手のせいにしたり、これまでの監督のせいにしたりしているところです」と言っていたように、「これまでの監督は何しとったんじゃ」とかそういった発言が目立ち、試合後の「ぼやき」にしてもヤクルトの監督だった時の「ぼやき」は意図的におこなっていたのに対して阪神の監督になってからは本当にぼやいていたのを見て、ヤクルトの時にはあんなにいい監督だったのにと南海時代からのファンとしては悲しかった・・が、野村はヤクルトの監督を9年間やった後、そのままあと3年、ヤクルトの監督をやっておれば、あともう1回以上優勝できて「名監督」と言ってもらえて残りの人生を生きることができたであろうところを、それでもあえて優勝できるチームの監督を辞めて最下位のチームを強くしようと最下位のチームの監督を引き受けたことを評価したい。優勝を狙えるチームの監督を辞めて最下位のチームの監督を引き受けるなんてそんな「愚かなこと」をしなければ「名監督」と言ってもらえて残りの人生を生きることができたのに、それでも最下位のチームの監督を引き受けた・・・愚かな「冒険」だったかもしれないが、その「冒険」をおこなったという点を評価したい。本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)の冒頭には
「本書を
ほとんど憎んだ二人の師
高校時代の鹿間時夫先生
大学時代の今西錦司先生
および
無謀な冒険を決行することによって
日本的社会でのエスタブリッシュメント(体制)から指弾された
すべての分野での青年たちに
捧げる 」

と書かれている。
冒険と日本人 (集英社文庫) - 本多 勝一
冒険と日本人 (集英社文庫) - 本多 勝一
  『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカル映画があったが、「伝統(tradition)さえ守っておれば何の危険もない。それなのに、なぜ伝統を守らずに生きようとするのか。愚かなことこのうえない。なんてバカな。なんて愚かな。それはあの屋根の上でバイオリンを弾くあの男のようだ。足を滑らせて落ちたなら死んでしまうではないか。愚かな。なぜ、そんなことをする? 伝統を守らずに生きるなんて、屋根から足を踏み外したら死んでしまうではないか。なぜ、そのような愚かなことをしなければならないんだ」という、それが小此木啓吾の『モラトリアム人間』論である。
※ 《YouTube-John Williams 映画「屋根の上のバイオリン弾き」 Fiddler on the Roof , Main Tittle》https://www.youtube.com/watch?v=zJGhfw_6nzQ
《YouTube-John Williams 映画「屋根の上のバイオリン弾き」 Sunrise Sunset》https://www.youtube.com/watch?v=zOsou7XiGFM
《YouTube-The Impossible Dream-Man of La Mancha(『ラマンチャの男』)》 https://www.youtube.com/watch?v=RfHnzYEHAow

  かつて、北野高校の卒業生で熱田神宮に草薙剣を盗みに行った「豪傑」がいたそうだ。1970年代なかば、私が高校の1年の時の「体育」の剣道の授業の時に体育の先生から聞いた。「北野高校の卒業生には連合赤軍もおれば大泥棒もおる」と。何をやるにしても、大きなことを思いっきりやるべきで、たとえ泥棒をするにしても、そのへんでしょーもないものを万引きなんかするのではなく、「熱田神宮にある草薙の剣ちゅうやつを盗み出して検分してこましたろか」という方が好ましい・・・と思ったし、元旧制中学校の公立進学校の伝統的な思想であるはずだった・・が、慶應の人間はそれと正反対の思想を持っていた。もっとも、草薙剣にしても窃盗は犯罪なので奨励するものではない・・と思っていたら、1980年代、新聞によると、慶應義塾高校の生徒が東京の女子高に女子高生のブルマーを盗もうと忍び込んで捕まりよった( 一一) ・・・別に熱田神宮に草薙剣を盗みにいかなくてもいいけれども、「女子高にブルマー盗みに行くやつ」と「熱田神宮にある草薙の剣ちゅうやつを盗み出して、いっちょ、検分してこましたろか」なら「熱田神宮に草薙剣」の方がいいのではないか・・・そもそも、ルパン三世が「女子高にブルマー」なんて盗みに行くかあ? ・・そんなもの、ルパン三世が盗みに行ったが最後、その回で番組終わってしまうわ・・・と思うのだったが、あるいは、もしも女性の物を盗むのならば、ブルマーなんて盗もうとするのではなく「女の心を盗め」・・・てキザかもしれんが、その方がいいと思わないか? ・・と思ったものだった。『ルパン三世 カリオストロの城』て感じで・・・。
※ 《YouTube- 炎のたからもの ルパン三世 カリオストロの城》https://www.youtube.com/watch?v=L_nNmPlwepE
 《YouTube-炎のたからもの ルパン三世 カリオストロの城 ボビー 歌詞付》https://www.youtube.com/watch?v=wGfdoI3xNgQ
ところが、「慶應タイプ」、慶應の内部進学の人間というのは、「熱田神宮に草薙の剣」の方を「おかしなやつがいるんだなあ」と言い、「女子高にブルマー」の方にラポールを感じるらしいのだった。
  そして、その「女子高にブルマー」の思考のことを「自我が確立されている」とか「独立自尊」とか「福沢精神」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「スマート」とか「アイデンティティーを持っている」とか「思考が柔軟」とか、あるいは「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか「慶應心理学」は「診断」するのである。なんで? ・・と思うのだが、「なんで?」と口に出すと「受験勉強の悪影響ですね」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「精神病質」とか「独立自尊の精神がない」とか「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らっている」とか、あるいは「そんなことでは勤め先なくなるぞお」とか「診断」されることになる。そうなのか?
「慶應タイプのブタ人間」が「自我が確立されている」なのか? 「慶應タイプのブタ人間」が「アイデンティティーを持っている」なのか?
「慶應タイプのブタ人間」が「思考が柔軟」なのか? 日本の企業というのはそんな人間を喜ぶのか???
それが「常識」で「正常」なのか???

  1980年代前半、小此木啓吾『モラトリアム人間』論はもてはやされた・・が、そのうち、1980年代終わり頃になるとそれほど言われなくなった。1980年代終わり頃になると「フリーター」なんて言って、大学を卒業しても正社員として勤めないでアルバイト生活をする者が出現し、1980年代前半においては「モラトリアム人間」病と「病気」扱いされたそれらの人のことを「フリーター」と肯定的に表現されるようになった。 なぜだと思いますか?
  「財界の要望」か?  大学は留年なんかしないでさっさと卒業して会社勤めをして、会社の命じるままにせっせと働け! それに疑問を感じる人間は『モラトリアム人間』病という「病気」であり「治療」してやらなければならないという主張が小此木啓吾の『モラトリアム人間』論だったのだが、ところが、1980年代も終わりころになると、財界の事情として、大学を卒業しても正社員として勤めないでアルバイト生活を送っているような「フリーター」という人間がある程度いた方が便利だと財界は考えるようになった・・ということではないか。だから、《「モラトリアム人間」病》論はそれほど言わないことにしたのだろう。・・小此木啓吾が「精神分析学」とか「精神医学」とか称しているものというのは、そのように極めて政治的な性格を持つものなのだ。
  小此木啓吾の「精神分析学」「精神医学」というものは、そういう極めて政治的性質を持つものであり、そういった文句と理論によって人間を操作しようとするもの、結論としてファシズムの道具である。
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
( トマス=サズ『「精神医学」という狂気の思想』新泉社
この本も、もともとの原書の題名は『「精神医学」という狂気の思想』であるにもかかわらず、「精神医学」業界に忖度して、訳書の題名では《「精神医学」という》という部分を除き、「精神医学」こそ「狂気の思想」だというトマス=サズの指摘をごまかし、まるで「精神病患者」の「狂気の思想」について述べた本みたいな題名にしてしまっているが、原書の題名も本の内容も『「精神医学」という狂気の思想』である。 )

  私は高校生の時に、池見酉次郎『自己分析』(講談社現代新書)・宮城音弥『精神分析入門』(岩波新書)を読み、そういった研究を専門としてやりたいと思うようになったのだが、池見酉次郎氏は九州大学医学部の心身医学の教授だったのだが、この本の内容についてすべて賛成できるわけでもないのだが、「自己分析」をおこない、より本来的な生き方をできるようにとする「心身医学」については賛成できた。
  それで、その「心身医学」と「精神医学」と「心理学」と「カウンセリング」と「精神分析学」とがどう違うのか・・というのもよくわからなかった。今から考えてみると、高校の先生というのも不親切だったと思う。
  北野高校は行きたいと思って行った高校だったので合格した時はうれしかったのだが、卒業して10年以上経って考えてみると、そんなにいい学校ではなかったのではないかと思うようになった。それなら、どこに行けば良かったかはよくわからないし、もともと、学校というものはどこに行っても絶対的にいいという所はないのかもしれないが、それにしても、あんまりいいことなかったな・・と思うようになった。
又、高校の教師ていない方がいいのではないかとも思ってみたりもする。北野高校の教諭というのは、この際、言ってしまうと「あいつら、バカのくせしてなんであんなにえらそうにしているのか」と思う。 「あいつら、いない方がいいのではないか」とも思うのだ。
  もしも、私が高校の教諭になっていたならば、少なくともあいつらよりはまともなことをできたと思う・・・が、我が家の場合は、うちの父親は「うちは学校の先生みたいなもんにならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とか言っていた。私が小学生の頃、うちの母親が「戦前は、師範学校は学費が無料だったから、勉強はできるけれども家は金持ちではないという人がよく学校の先生になったもんや」と話していて、又、母の家系は学校の先生が多い家系で、母の兄は府立高校の教諭になっていたし、母の弟は私立大学の体育の先生になっていたし、母の叔母のつれあいは大阪市立の小学校の教諭になっていたし、それらの「家」は我が家と比べて特別に金持ちとも見えなかったし、私が小学校高学年から住んでいた家の近所に私より1つ年上と1つ年下の兄弟がいて、そのお父さんは府立高校の数学の先生だったけれども、家が金持ちなのか貧乏なのかよその家の懐事情なんか知らないしわからなかったが、住んでいる家は我が家より一回り小さい家だったから、無茶苦茶貧乏て感じでもなかったが特別に金持ちという感じでもなかったので、私が学校の先生になったとしても悪いことはないだろうと思っていたのだったが、「うちは学校の先生みたいなもんにならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。とってちってたあ~あ!」と言われてきた。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に。わしにわしにわしにわしに! すべてをすべてをわしのために、わしのために。ささげ尽くす、ささげ尽くす。すべてをすべてをわしのために捧げ尽くす。いらいらしてきた、あ~いらいら。とってちってたあ~あ♪」と毎日毎日言われ続けてきた。
  ある職場で一緒だった人で親が学校の先生だったもので、それを見て勤めるのなら学校の先生以外がいいなあと思うようになったという人がいたのだが、私の場合はうちの父親を見て、小学校の1年から「会社ちゅうところ」以外がいいなあと思うようになったのだが、ところが、うちの父親が
「会社という所に勤めるのを嫌がる人間というのは『モラトリアム人間病』という『病気』です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロろすけっ! 会社という所に勤めるのを嫌がる人間は『モラトリアム人間病』という『病気』です。治療せいてやらんといかん、治療してやらんと。電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪」
と言うようになった。それならば、「会社ちゅうところ」に勤めるのを嫌がって「大学」という所と「病院」という所に勤めている小此木啓吾こそ、「会社ちゅうところ」に勤めるのを嫌がる「モラトリアム人間病」という「病気」の「重病人」であり、電気ショック療法で治療してやらんといかん人間ではないのか? ・・と思ったのだが、なぜか小此木啓吾の場合は違うそうだった。
スタンガン
スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」 )
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↑ 「奴らは、捕まえた兵士を電流や水責め、殴打などで拷問し・・・
軍事裁判にもかけず千名以上も死刑にした。」
 ↑ 「電気ショック療法」 )
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( さいとう たかを『ゴルゴ13』「ラスト グレート ゲーム」(「ビッグコミック」2003年24号、2004年1、2号に掲載。)
『ゴルゴ13 [DARK HISTORY~黒歴史~]』2021.8.11. 小学館 My First BIG 所収。 )
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  「箱庭療法」その他、「精神医学」の「療法」は、「患者」の「病気」を改善するために使用することもできるが、逆に「病気」にならせるために使用することもできるという話が内田康夫『箱庭』にもとりあげられている。↓
箱庭 (講談社文庫) - 内田康夫
箱庭 (講談社文庫) - 内田康夫


  さて・・・、私は池見酉次郎『自己分析』(講談社現代新書)や宮城音弥『精神分析入門』(岩波新書)を読んだ限りでは、「心理学」「精神医学」「精神分析学」「心身医学」はそれぞれ微妙に違うとしても、それら全体が価値があるものではないか・・と思ったのだったが、それは誤解だった。そんないいものではなかった。そうではなく、「精神医学」はファシズムの道具だった。それは「精神医学の悪用」ではなく、「精神医学の悪い治療」でもなく「精神医学の本質」だった。そのあたりに気づかずに、””体制「精神医学」の宣伝文書””とも言える「けっこうなお話の本」なんか読んで本気にしてしまったのは愚かだった。(池見裕次郎『自己分析』・宮城音弥『精神分析入門』は悪い本ではないし、まともな本も中にはあるのだけれども。)
精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー (講談社現代新書) - 小俣 和一郎
精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー (講談社現代新書) - 小俣 和一郎

  そして、《「精神医学」およびその下働きとも言える「心理学」および「カウンセリング」》と「心身医学」との違いとして、《「精神医学」およびその下働きとも言える「心理学」および「カウンセリング」》は基本的には本人の意志に反しておこなわれるものであり、職場や家庭において、この人間が悪いんだ、こいつのせいにしてちょうだいと指定された人間を加工するための技術であるというのと異なり、「心身医学」の場合は本人の意志によりおこなわれるものであり、本人が望まない場合には「心身医学」は内科や外科・耳鼻科・眼科・歯科の治療と同じくおこなわれないものであり、その点で「精神医学」と「心身医学」は正反対のものであり、「精神医学」がファシズムの側のものであるのに対して「心身医学」は民主主義の側のものになりやすい・・と考えていいだろうと思い、今から20歳前に戻ることはできないとしても、もしも戻るようなことができるならば、「精神医学」ではなく「心身医学」の方の道に行きたいものだと思ったのだった・・が、ところが、先日、東京駅からJR総武線快速に乗車して窓から外を見ていたところ・・・↓
DSC09998.JPG
↑ その正反対であるはずの「精神科」と「心療内科」が同じ看板に書かれていて、同じ「クリニック」で扱っていますよおとアピールされていたのだ。
( ↑ の写真はJR総武線快速の窓から撮影したものです。但し、今回、JR「東京」駅から「船橋」駅まで快速に座って乗りたいと思い、グリーン券を購入の上でグリーン車の2階建ての上側の席に座って撮影したものが ↑ の写真なので、普通車からはこの写真とは見え方が少々異なるかもしれません。)
  ああ、「心身医学」「心療内科」はファシズムのテカに成り下がったか・・・。やんぬるかな・・・。

  「精神科」の「クリニック」が、なぜ「心療内科」とも表記するのか?
  これははっきりしている。「精神科」と表記すると「受診」するのを嫌がる人がいるので、それで「心療内科」にかかりましょうと騙して「受診」させて「精神科」の「診察」をおこなった上で、「精神科」の「病院」に逮捕監禁するのが目的である。
   身体医学の場合は、内科でも外科でも耳鼻科でも眼科でも整形外科でも、本人の承諾なく入院させるならば、逮捕監禁罪と評価されて犯罪になる。だから、医者は本人の承諾なしに入院させるようなことはできない。本人に意識がないが緊急に入院させて治療を受けさせないと命にかかわるというような場合に限って家族の承諾などで入院させることはあっても、基本的には本人が希望しないのに入院させることはできない。
   身体医学の場合とは異なり、「精神医学」の場合は本人の意志に反して「入院」と称して逮捕監禁することが可能であり、これを逮捕監禁罪で立件するのは難しい。かつ、いったん「入院」させたならやりたい放題である。本人が扱いが不当であると訴えても「きちがいの戯言(たわごと)」という扱いになる。「病気が言わせているんだ」と「医者」が言えば「先生のおっしゃることだから絶対に間違いない」ということになる。それが「精神医学」である。
   しかし、一般市民がいる場所で特に反社会的な行動をしているわけでもない人間を逮捕監禁するにはやりにくいところもある。そこで出てくるのが「心療内科」とか「カウンセリング」とかいったものである。「心療内科」だと騙して「受診」させた上で「精神科」の「診断」をおこなって、そこから逮捕監禁(「入院」療法)に持っていく、というその「とっかかり」として、「精神科」の出先機関として「心療内科」の名称を併記した「クリニック」が街中に存在しているということである。信じたくなければ信じなくてもいいけれども、嘘じゃないからな。

  そういう「クリニック」で名前を使われるようになるならば、としては、それは滅亡への道である。 《ファシズムの側の「精神医学」のテカとしての小道具としての「心身医学」「心療内科」》によって《民主主義の側の存在としての「心身医学」「心療内科」》は価値を大きく低下させることになる。
  「心身医学」「心療内科」が《「精神医学」の婢(はしため)》となるならば、その時には「心身医学」「心療内科」は「精神医学」の小道具としての意味しかない二束三文の「科」になることだろう。

  「本人の意志に反して『人間による人間の加工』をおこなうのが『精神医学』『精神科』」で、「本人の意志に基づいて、より本来的なあり方で生きることができるようにするのが『心身医学』『心療内科』」だとするならば、「精神医学」「精神科」と「心身医学」「心療内科」は正反対のものであり、正反対のものを合わせやっていますという看板を出しているということからして、本来おかしい。
  私が「心身医学」医・「心療内科」医であったならば、こういうことはしない。但し、実際問題として、坐禅であったり、自律訓練法であったり、その他、リラックス訓練といったものは価値があるとは思うが、それを「医者」「医院」に行って受けようとする人というのはそんなに多くないと思われるので、「心身医学」医・「心療内科」医専業で医院の経営を成り立たせるのは易しくないかもしれないが、それならば、「心身医学」「心療内科」と本来なら正反対の立場である「精神医学」「精神科」と合わせるのではなく、「心身医学」「心療内科」と合わせても矛盾しない内科と合わせるべきだと思う。「精神科・心療内科」と看板を出すのなら、結論としてそれは「精神科」であり、「精神科に行きましょう」と言ったら嫌がる人を「心療内科に行きましょう」と言って騙して連れて行くための道具であって、それでしかないものであり、そんな「心療内科」はニセモノであるが、「内科・心療内科」と看板を出すのならば、「心のあり方・精神面による体の不調への影響といったものも考えて内科の治療をおこないます」という意味であり「心身医学」「心療内科」の本来の精神・趣旨と矛盾しないものであると思われます。平気で「精神科・心療内科」という看板を出す人というのは、それは「心療内科に受診しましょう」と騙して連れてきて「精神科」に受診させるという手口に使えますよお~お・・とアピールしているわけであり、「精神科・心療内科」と看板を出していても、実質、そこは本来の心療内科ではない。

  だいたい、「精神医学」と「心身医学」「心療内科」の違いをその「医者」「医師」は私と同程度に理解・認識できているか・・というと、認識しようという意志すらない・・であろう。「医者」というのはそういう人間が大変多い。 そもそも、「精神医学」が扱っている対象というのは、文学・哲学・社会学といったものであって医学ではないのに「医学」と言っていることからして怪しい・・ということを理解すべきである・・・が、「理解しない方がもうかる」と思っているやつがいる。そうやってもうけたカネでドバカ息子を私立金権医大に裏口入学させているやつもいる。内田康夫『鏡の女』にも出てくるが、「精神科医」は身体医よりも「もうかる」らしい・・・・・。
鏡の女 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫
鏡の女 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫

  (2021.11.4.)

  いつごろからか、大学に「学生相談室」というものができた。特定の大学にではなく、多くの大学に存在しているが、大学生というのは浪人とかしないで入学したなら入学時に18歳、留年・休学をしないで卒業するなら法学部・経済学部・文学部など4年で卒業することになる学部の場合なら22歳で卒業することになり、20歳から成人ということになっているとはいえ、実際にはハタチくらいの人間というのは百パーセント大人というわけでもないと思う。そういう人間が学生生活を送るにおいて、困ったことがあった際に解決の方向に協力しようとして設けられた機関・・・かと私は、最初、誤解していた。
  違うんですよ。そうではなく、「学生相談室」というのは、大学生が学生生活を営むにおいて困った問題があった際にその解決に協力する機関ではないのです。そうではなく、ファッショ的に大学を運営して学生を「人間による人間の加工」しようとする者が、その加工がうまくいかない学生、「人間による人間の加工」をされることに抵抗を示し「自己飼育」に励むのではなく「自主権」に基づいて学問的努力をしようとするものを弾圧して「人間による人間の加工」をしようとする機関・部署なんですよ。誤解してはいけません。
  又、私は一時期、「心理学」は「精神医学」よりも良心的ではないのか? と期待した時もあったのですが、それも誤解です。「心理学」は「精神医学」の手下(テカ)です。
  「学生相談室」という所にいる人というのは「心理学者」「カウンセラー」という肩書を掲げている人ですが、「人間による人間の加工」をおこなおうとしている者であり、「自主権」に基づく社会ではなく「自己飼育」に基づく社会に人間を「精神適応」させようとするのが自分たちの任務だと認識している連中であり、そして、「学生相談室」の「心理学者」「カウンセラー」は「精神医学」(=ファシズム)のテカ・テシタ(手下)でテサキ(手先)であり、手先機関(てさききかん)であり、出先機関(でさききかん)です。
  まず、普通に考えてみてください。慶應大学に入学したら内部進学に強姦されそうになった・・と「相談」したとします。その「相談室」にいるのが弁護士であるならば、さて、それを法的に訴えて相手に反省をうながすために慰謝料を請求することができるでしょうか・・といった話になります。しかし、その「相談室」にいるのは法律家ではなく「心理学者」なのです。「心理学者」は何をするかというと、訴えてきた人間の方を「適用」させようとするのです。ジャン=ポール=サルトルは「自己飼育に基づく社会ではなく自主権に基づく社会」といったことを、たしか、『反逆は正しい(上・下)』(人文書院)でだったと思うのですが述べていました。ジョレス=メドヴェージェフ・ロイ=メドヴェージェフ『告発する! 狂人は誰か』(三一書房)では「精神適応よりも民主主義だ」と述べられています・・・が、「相談室」にいるのが弁護士ならば、自分が悪いのじゃない、相手に非があるんだと訴える者の話を聞いて(弁護士なんてろくでもないのが多いとは思うけれども)、さて、その主張を法律論理としてまとめて訴えてこちらの主張を通すことが可能かどうか・・といったことを検討することになるところが、「心理学者」「カウンセラー」はそうではなく「クライアント」の方の「精神」を加工しようとする、「クライアント」に「精神適応」させようとするのです。それに抵抗するものは「適応障害」とか「未成熟」とか「モラトリアム人間」とか「診断」されることになります。
  慶應大の「学生相談室」の場合は、同大学は内部進学の人が多いだけでなく、「学生相談室」といった所も内部進学の人(および「頭が内部進学」の人)が支配していますから、彼らの思想・観念・世界観によって支配されているという傾向もあります。慶應大の場合は、内部進学の強姦魔に屈従して彼らの下男・婢になるのを嫌がる人間は「適応障害」で「未成熟」で「モラトリアム人間」で「自我が確立されていないからそういうことを言う」であり「思考の硬さが気にかかります」であり、「アイデンティティーがないからそういういことを言う」であり、「受験勉強の悪影響ですね」であり、「独立自尊の精神がないからそういうことを言うということですね」という「診断」になります。慶應という大学においては内部進学の人に都合がいいように「(慶應義塾の)外部の者」を加工するというのが、「心理学」の役目ですから、「学生相談室」「カウンセラー」もまたそういう役割で業務についています。
  「精神医学」は本人の意志に反して「人間による人間の加工」をおこなう技術でありファシズムの側のものであるとしても、さすがに「心身医学」は別だろうと私は思ってきたのです。「心身医学」の場合は「患者」は「異常」「きちがい」とは認定されていない人間であり、「心身医学」により、カール=ロジャーズなどが言うところのその人としての「完全なる機能」に近づけるように協力するものだと思ってきたのでした。しかし、「精神科・心療内科」として看板を掲げて、「精神科」にかかるのを嫌がる人を騙して「受診」させるための道具として「心療内科」が利用されるようになるならば、「心身医学」「心療内科」がそのようにして「精神科」「精神医学」の婢(はしため)となるならば、そのような「心身医学」「心療内科」は、もはや「精神医学」(=ファシズム)のテカ(手下)であり、「人間による人間の加工」をおこない、「自主権」に基づく社会を否定して、「自己飼育」による社会の実現に尽力するファシズムの手下であり、ファシズムの出先機関であると考えざるをえないでしょう。
  (2021.11.14.)

  ☆ 「心理学」「精神医学」「精神分析学」「心身医学」「カウンセリング」については、ほかに、
[第550回]《「野菊の墓 文学碑」と松戸市矢切と文学・哲学への思い【2/6】市川側から「野菊の墓 文学碑」への道。「永禄古戦場跡」。「精神保健研究所」て何やってるのか?》https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_2.html
でも述べた。 

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
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  2013年に、
[第192回]《「マルチ商法」と「良い商品」について。原理研そっくり、○○ウェイの勧誘。職場を悪用してのマルチ勧誘。》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201308/article_2.html
で、千葉市中央区鵜の森町 にあった新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕(いずれも、2013年11月に正式に倒産。)で、職場内や車中の相手が逃げられない場所で、アムウェイの勧誘を断っても断っても執拗に続ける男の話を掲載したが、傍若無人なアムウェイの勧誘に困る人は他にもいるようで、インターネット上の産経新聞2021.11.11.に掲載されていました。
《 (ヤフーニュース) アムウェイに違法勧誘 容疑で京都府教育庁職員ら逮捕 11/11(木) 22:01配信
産経新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/0f2ef89fd81ec1d8a600b02b5f6960508e41666e
  日本アムウェイ(東京)に入会させる目的を告げずに、マッチングアプリで知り合った女性(23)をエステに連れ出し、入会を勧誘したとして、京都府警は11日、特定商取引法違反の疑いで、京都府教育庁の主事、森口卓也(26)=京都市中京区=と自称自営業の岡田真理(38)=同市山科区=の両容疑者を逮捕した。2人は「勧誘することは事前に伝えていた」などと容疑を否認している。
  逮捕容疑は共謀して3月27日、マッチングアプリで知り合った京都市の女性に対し、アムウェイ入会への勧誘であることを隠して誘い出し、「この化粧水がおすすめ。会員になったら安く買える」などと入会を勧誘したとしている。
  府警によると、女性はその場で入会し、化粧水の購入を契約したが、翌日に府警に相談した。
  府警は森口容疑者がほかにもマッチングアプリで知り合った女性20人以上を勧誘したとみて調べている。
  府教育庁は「容疑が事実であるならば、公務員としてはあってはならない行為。事実を確認の上、厳正に対処する」とのコメントを発表した。》
と出ていた。その人間こそ、教育される必要がある人間であるにもかかわらず、「教育してやらんといかんからなあ」とかウルトラのぼせあがった口をききたがる人間というのは慶應の内部進学に多いのですが、それ以外にもいるようで、京都府教育庁にも教育される必要がある人間でありながら「教育庁」に勤めていた人がいたようだが、毎度、アムウェイと倫理研究所(=倫理研究会)の押しつけには閉口させられる( 一一)
  ・・それから、2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県佐野市の営業所にいた「高木のおっさん」(創価学会員。2001年当時、50代。)は「聖教新聞を購読しろお」と叫んでストーカーとなって執拗に追いかけてきて困ったが、かつ(株)一条工務店という会社は「保護義務違反の(株)一条工務店」で通常ならそういうことをする人には「職場でそういったことはやめてください」と注意するものだが、(株)一条工務店は「あの人にちょっと言ってください」なんて頼んでも絶対に対処しない会社だった。
   アムウェイ・倫理研究所(=倫理法人会)・聖教新聞 、この ””職場の三大押売り”” は勘弁してほしい( 一一)
ー・ー・ー・ー・ー
  「子供」のある家庭にだけ給付金を渡そうという公明党の主張によるものらしい自公政権の対応は、あれはどう考えてもおかしい。
「そこのけ、そこのけ『子持ち』が通る」
「『子供』作れば天下無敵!」

みたいな態度は、どうかしている。
  (2011.11.12.)

  又、男であれ女であれ、すでに結婚できて子供もできた者に、
まだ、ふさわしい相手と巡り合うことができず、結婚できていない男女、結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる男女から奪ったカネを渡せば、それが「少子高齢化対策」になるとか主張する者がいるようだが、
それは、どう考えても逆であろう。

  又、「将来、日本の社会に貢献する子供を育てているのだから」とかのぼせ上った口をきく者がいるが、笑止である。そういう口をきくのは実際に「日本の社会に貢献」というものをやってからにしてもらいたいものである。 実際問題として、その子供が、将来、「日本の社会に貢献」する人間になるか、日本の社会に迷惑かける人間になるかなんて、わからないじゃないですか。もしも、「日本の社会に貢献」しなかったなら、その時には「倍返し」で返してくれるんですか?  実際に貢献していないのに「将来、日本の社会に貢献する子供」などというのぼせ上った口をきくのはやめてもらいたいものです。
  (2021.11.15.) 

 ともかく、性交やって子供つくれば、まだ結婚できていない人間・結婚はできたが子供ができない人間を自分たちの召使のように扱う権利がある、まだ結婚できていない人間・結婚はできたが子供はできない人間が払った税金からカネをもらう権利がある・・みたいに心得違いを起こす バカママ症候群・あほパパシンドローム を拡大再生産されても迷惑である。
バカ女は死ね!! - バカ女駆除協会
バカ女は死ね!! - バカ女駆除協会
  (2021.11.15.)  

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