21年 大谷本廟【3/4】明著堂・覚信尼公碑文・石窟・ノバホールそっくり無量寿堂。お骨は落すな。母親のお骨を粗末にするな。ルーバー手摺はストリップ階段と違う。

[第557回]
  大谷本廟の仏殿の左側にまわると、二天門があり、
DSC09973.JPG
二天門を通ると「白州」が開けていて、明著堂(めいちょどう)がある。↓
DSC09974.JPG
DSC09976.JPG
DSC09979.JPG
↑ 明著堂
《 1263(弘長2) 親鸞聖人ご往生、東山鳥辺野において荼毘に付される。
1272(文永9) 東山吉水の北の地に改葬され六角の廟堂を建立(現在の知恩院山門の北、崇泰院の裏庭)
1295(永仁3) 廟堂に親鸞聖人の木像(御真影)が安置され、「大谷影堂」と称する。
1603(慶長8) 第12代准如上人のとき、徳川幕府の命により、現在の地に廟堂が移転され、この地を「大谷」と称する
1694(元禄7) 第14代寂如上人、新たに廟堂を建立。
1709(宝永6) 第14代寂如上人、廟塔前に拝堂を建立
1716(享保元)年 第14代寂如上人、「明著堂」の額を書し拝堂正面に掲げ、以後「明著堂」と称する。 》
( 大谷本廟HP 沿革 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/history/ )
《 1709(宝永6)年、第14代寂如上人の時代に造営されました。
正面には、寂如上人のご染筆による「明著堂」の額が掲げられています。
慶応の火災(1867年)では境内の多くの堂舎が失われましたが、この建物は幸いにも類焼を免れ、当時の大谷本廟の面影をよく今に伝えています。また、祖壇の周囲には、歴代宗主やお裏方の廟墓、祖壇納骨所があります。・・》
( 大谷本廟HP 境内案内 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )
《 このお堂は「明著堂(めいちょどう)」と呼び、その正面の石段奥に見える檜皮葺の宝形造のお堂を「祖壇(そだん)」といいます。
 祖壇は、宗祖 親鸞聖人の御影並びにご遺骨が納められている場所で、1660(万治3)年に本願寺 第十三代宗主良如上人によって、今日の場所に造られました。祖壇の左右には歴代宗主並びにお裏方の墓所があります。・・・
  また、明著堂は祖壇の前に位置する拝堂で、1709(宝永6)年、本願寺 第14代宗主 寂如上人の時代に建築されました。・・・》
( 現地の説明書き。)
  徳川綱吉が死去した年が1709年(宝永6)年で、この年に明著堂が建築されたらしい。 又、綱吉晩年の宝永地震・富士山噴火があったのが1707(宝永4)年で明著堂の建築の2年前らしい。(《ウィキペディアー徳川綱吉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89 )

  大谷本廟の建物が建てられた年代を並べてみると、
1600年 関ケ原の戦い。
1603年(慶長8年) 現在の地に廟堂が移される。
1605年(慶長10年) 旧 仏殿 建立。
1614年・1615年 大坂冬の陣・大坂夏の陣
1689年「権利の色はく(1689)権利章典」権利章典 制定(イギリス)
1707年(宝永4年) 宝永地震・富士山噴火。
1709年(宝永6年) 明著堂 建築。徳川綱吉 死去。
1710年  総門 竣工。
1716年 徳川吉宗 将軍 宣下。
1789年「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」フランス革命(フランス)
1793年 松平定信 老中・将軍輔佐 御役御免。
1796年  総門、現在の四脚門に改築。
1856年(安政3年)12月 円通橋 竣工。
1858年「嫌でごわす(1856)とムラビヨフ」愛琿(アイグン)条約(ロシア・清)
1867(慶応3)年 二天門より出火、仏殿等延焼焼失。
1868年 明治維新
1870年 仏殿(現在の仏殿)落成。
1871年「藩と言わない(1871)、県と言う」廃藩置県
1872(明治5)年 二天門を再建
1873年「岩波(1873)ほど大きくない明六社」明六社設立
1964年(昭和39年) 東京オリンピック。東海道新幹線・名神高速道路開通。
1968年(昭和43年) 第一無量寿堂 造営。
1970年(昭和45年) 大阪万博
1985年(昭和60年) 阪神タイガース優勝 日本一。
1990年(平成2年) 第二無量寿堂 造営。
1990年10月 東西ドイツ統一。
1991年 ソビエト連邦崩壊。
・・ということになるようだ。

DSC09983.JPG
↑ 「覚信尼 公碑文」
《 宗祖親鸞聖人700回大遠忌の予修法要と世界仏教婦人会の結成を記念して1958(昭和33)年4月に建立
その後、1999(平成11)年11月、覚信尼公の永代の顕彰を希い、修復されました。》
( 大谷本廟HP 境内案内 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )
2か月で終わった石橋湛山内閣は1957年。「貧乏人は麦飯を食え」「日本はアメリカ(合衆国)の妾みたいなものだから旦那のごきげんをとるのは当たり前だ」などの発言で知られる池田隼人の内閣が1960年~1964年。
1958年というと、石橋湛山の後、池田隼人の前、1957年2月25日 -1960年7月19日岸信介内閣の時。(《ウィキペディアー岸信介》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B )

DSC09984.JPG
↑ 「石窟」
《 親鸞聖人が学門をされたと伝わる場所。 》( 谷本廟HP 境内案内 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )と書かれているが・・、わざわざ、こんな狭苦しい暗い穴の中で学習しなくても他にする場所があるのではないか・・・。だから、それは「お話」であって、ここでお勉強したわけではないのではないか。

DSC09981.JPG
↑ こちらが、世界的建築家の磯崎 新(いそざき あらた)先生が設計された「つくばセンタービル ノバホール」・・・ではなく、大谷本廟 第一無量寿堂(納骨所)。
「つくばセンタービル ノバホール」とそっくりでしょ。

DSC09978.JPG
↑ 第二無量寿堂
《 1968(昭和43)年に第一無量寿堂、1990(平成2)年に第二無量寿堂という室内の納骨所が造営され、32000余りの納骨壇があります。》
( 大谷本廟HP 境内案内 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )
ということだが、うちの祖父のお骨を預かってもらっているようなのだが、第一無量寿堂ができた1968年よりも前のことなので、どこに行ったのだろうか・・とふと考える。明著堂の背後に墓地があり、右手に第一無量寿堂があるので、そこで預かってもらえているものなのだろうと思い込んでいたが、大谷本廟HPの第一無量寿堂・第二無量寿堂の稿を見ると、ロッカー方式でお参りできるみたいな写真がでているので、それとは違うみたいな感じだ。 祖母のお骨を預かってもらった時点では第一無量寿堂はできていたが・・実はうちの父親が「あれ、後ろの方に持って行ってゴミ箱に捨てとるのとちゃうか」とか言うておったのだが、まさか、それはないだろう・・と思うのだが・・まさか・・、ないだろうなあ・・。

※ 大谷本廟HP https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/
大谷本廟HP 境内案内 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/
大谷本廟HP 沿革 https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/history/

  仏殿の前から明著堂の方へ行く経路としては、二天門を通っていくもので、仏殿とその東側の建物との間は渡り廊下があって仏殿の東側の建物は大谷本廟HPの「境内案内」https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ を見ると、読経所 らしい。
仏殿と読経所を結ぶ渡り廊下の下も通れるようになっているけれども、それは関係者用通路かと思っていた。のだけれども、↓
DSC09986.JPG
↑ 仏殿の正面側(西側)から見た 仏殿と読経所の間の渡り廊下。

DSC09985.JPG
↑ 明著堂の側から見た 仏殿と読経所の間の渡り廊下。
  普通は二天門の方を通るだろうけれども、こちらの渡り廊下の下も別に「関係者専用」ということでもないらしい。

  子供の頃、この渡り廊下を一度、通ってみたい~なんて思ったものだった。・・で、一度だけ、通らせてもらうことがあった。祖母の遺骨をうちの父親と一緒に持っていった時のことだ。その後、普段の参拝では入れてもらえないエリアにお坊さんに連れていってもらったのだが、それがどこだったか、この敷地内のどこかなのだが、どうも記憶がはっきりしない。
  覚えているのは、子供の頃、一度、通ってみたい~と思っていた渡り廊下を通らせてもらったということと、もうひとつは、一度、靴を脱いで移動して別のお堂で、靴を脱いであがったということ。その際、お骨というのは小さい壺にはいったものと大きな箱にはいったものと2つに分かれていて、私が大きな箱の方を持ち、うちの父親が小さい壺の方を持っていたのだけれども、靴を履いたり脱いだりする際に、そのお骨を落としたりしてはいけないと思って細心の注意を払っていたところ、私の後ろで落とした人がいてカランカランと音がしたので、やっぱり落す人があるんだなあ、こういう所では落しやすいものだが、同時にお骨というものは落してはいけないものであり、こういう所では特に細心の注意をしなければならないのだが、それをわからない人がいたんだなあ・・と思い、又、3件ほど一緒に移動していたのでよその誰かだろうと思って、一緒にいる家族も恥ずかしいなあ・・・と思ってふりかえったら・・・うちのおっさんやった( 一一)
  「わしはいかなる場合にも沈着冷静で風が吹こうが嵐が来ようがび~くともしない、完全無欠な人間やねん」と叫びまくるおっさん・・というのはそういうおっさんやった。「他人のふり」しようかなあ・・とも思ったのだが、「ああ、お婆さん、びっくりしてはるわあ」とか照れ隠しに言いよったが、このおっさん、自分がやったら「ああ、お婆さん、びっくりしてはるわあ」などと照れ隠しみたいに言うとるけども、もしも、俺がそれをやったら怒りよるやろなあ~あ・・と思ったものだった。後にうちの母親にその話をすると、うちの母親も「私がそんなことしたら、えらい怒られるところやのに。自分がそういうことしはるんやねえ」・・と言うとったが、そういうおっさんやった。自称「いついかなる場合にも沈着冷静で気持ちの落ち着いた百戦錬磨の英雄で風が吹こうが嵐が来ようが地震が来ようが台風が来ようが怪獣が来ようが恐竜が来ようがび~くともしない気持ちの落ち着いた精神面の安定した人間、ドイツ人で慶應で聖徳太子でキリストでヒットラー総統やねん。あ~いらいらあ」というのは、そういうおっさんやった。「ほんまやったら、わしは失敗することは絶対にない人間やねん」と言うのだったが、あんた、「ほんまやった」ことあんまりないのとちゃうかあ・・て感じやった。「ほんまやったら絶対に失敗することはない人間」やのにからに、しょっちゅう失敗しよるもんやから、「ほんまやったら」失敗しないのに失敗したっ! ということは・・「おまえが悪いねんぞ、おまえが」と毎度毎度私が悪いことにされるのだった。「なんでやねん」「なんで、私やねん!」と言うと「外罰的性格」と「心理学」に「診断」されることになる。「診断」されると次には「治療」されるおそれもあるから怖い、こわい、怖い、こわい。「心理学」というのはそういうものだ。実に怖い。
  うちの父親は戸籍の上では4人兄弟の3番目で次男になっていたが、「長男」は死産ではなかったが産まれて1週間くらいで亡くなってしまったらしく、かつ、姉は結婚して子供ができないうちに30くらいで亡くなっていたので弟と2人だったのだが、その弟(私からすると叔父)には子供が私より1つ上の女と1つ下の男がいたのだ。叔父は30代の時に脳卒中になって体が不自由になってしまったようだったが、うちの父親よりは子供の相手をしようという姿勢がある人と思えた。葬式の時でも私と会うと「〇〇ちゃん、ずいぶん大きくなったなあ。おっちゃんより大きいのとちゃうかあ」とか向こうから話しかけてくれたりする人だった。だから、実質、兄弟は2人いたのだから、脳卒中をやって少々体に不自由なところがあっても1回くらいならタクシーででも京都まで往復してもいいことだし、叔父と一緒に行くか、そうでなければ、叔父に子供が2人いるのだから、息子(私からするとイトコ)を「◇◇ちゃん、納骨に一緒に行くかあ」とでも行ってやればよかったのではないのかと私は思ったのだが、「あんなん、連れていってもしかたがない」と言って私と二人で行くと言って叔父にも叔父の奥さんも子供も連れていかなかった。叔父にしてもイトコにしてもあれはいい気持ちはしなかったのではないか。兄弟は常に仲がいいわけではなく、うちの父親にも思うものはあったのかもしれないが、母親の納骨に弟も弟の子供も連れていかないというのは、それはいかがなものか・・と思ったのだが、「あんなふらふらしているやつ、連れていったらみっともない」とおっさんは言うのだった・・が、叔父は30代の時に脳卒中をやってしまったことから、「フラフラしている」というのだけれども私は会った時には特にそういう印象はなかったし、別に誰かに見られに行くのではないから「フラフラ」していてもしていなくてもかまわないのではないかと思ったのだが、おっさんはそんなことを言っていた。そして、そういうことを言ったおっさんこそ「みっともない」ことをお寺でやりよった・・( 一一)  うちの父親の葬式の時には叔母(叔父の奥さん)は来てくれたがイトコは来てくれなかった・・というのは、祖母の葬式の時のうちの父親の態度などはもしかするとイトコとしては面白くなかったのかもしれない。そのあたりの人の気持ちというものを考えることができないおっさんだった。
  お寺で靴を脱ぐ場所でお骨を落とされたのでは一緒に行った者としては嫌やった・・がこういうことを言うと「そんなことをいちいち気にするというのは、性格に問題があるからでしょう」とか「そんなことを気にするというのは病気だからでしょう」とか「心理学」に「診断」される危険があるから怖いぞお~お、「心理学」は。ほんま。怖いこわい怖いこわい。 お骨を落としたのはうちの父親であって私ではないのだが、「心理学」によると落としたやつが悪いのではなく、一緒に行って同行者に落された者の方が悪いことになるらしいのだ。「ほんまやったら失敗したりせえへんのにからに失敗したっということは、おまえが悪いねんぞ、おまえが。人のせいにすんなよ。人間、ひとのせいにする者は最低やぞ。おまえが悪いねんぞ、おまえが。おまえのせいやねんぞ、おまえのせい。わかっとんのか、チャンコロろすけっ! わかっとんのか浪商!」ということになる。「心理学」というのはそういうものである。「心理学」こそ「反社会的勢力」ではないかと私は思っている。
  叔父も亡くなってしまったが、もし、私が死去したなら、イトコやイトコの子供は大谷本廟に祖父・祖母のお参りに来てくれるのだろうか。納骨に行かなかった者は、納骨に行った者に比べて意識が薄いのではないか。

  うちの姉に話しても、「大谷本廟てどこにあるのよ」などと言う。「清水寺の南隣でしょうが」と言うと、「清水寺てどこにあるの」と言う。・・・清水寺を知らんとは・・・。
  2000年前後、(株)一条工務店 の栃木県佐野市の展示場にいた時だが、同社では廻り縁・巾木にマトアという木を使っていて、マトアのことを「ソロモンマホガニー」などと言っていたのだが、この言い方は家具屋のカリモク家具 が言いだしたもので(株)一条工務店が言いだしたということでもないらしかったが、「ソロモンマホガニー」などと言うと、ソロモン諸島で採れるマホガニー・・みたいな感じがしてしまうが、マトアとマホガニーはまったく種類が違う木であり、マトアは決して建築材として悪い木ではないので、マトアはマトアと言うべきで、マトアのことを「ソロモンマホガニー」などと言うのは良くないと私は思うのだが、そのマトアのことを「ニューギニア島とかソロモン諸島とかで採れる木のようですが」と説明すると、「ソロモン諸島てどこにあるの?」と、あるおっさんからきかれて「ソロモン諸島はパプアニューギニアの北東のあたりにあるいくつかの島からなる国で、首都のホニアラは太平洋戦争の時に日本軍が餓死したと言われるガダルカナル島にあります」と言うと、「わからない。パプアニューギニアてどこにあるの」と言うので、「パプアニューギニアはニューギニア島の東半分とその北東部の島です」と言うと、「ニューギニア島てどこにあるの」と言うので、「ニューギニア島はインドネシアの一番東の方にあります」と言うと「インドネシアてどこにあるの」と言うので、インドネシアまでわからんおっさんにどう説明せえいうねん・・と思いながらも「インドネシアはマレー半島の南、マレーシアとかシンガポールとかの南、フィリピンの南の方にあります」と言うと、「ああ、フィリピンの南の方か。そう言ってもらえばすぐにわかったのに」と言われた・・ということがありました。このおっさん、フィリピンしか知らんのか? なんや、(株)一条工務店の経営者みたいなおっさんやなあ・・と思ったものだった・・が、「清水寺てどこにあんの」と言われたら・・「自分で調べろ」と言いたくなる。・・というよりも、うちの母親は祖父にはかわいがってもらったと言っていて、京都の近くに行く用事があった時には小さかった頃の私を連れて大谷本廟に一緒に行ったりしたものだったが、祖父にかわいがってもらっていたという姉は行かなかったのだろうか。
  
  話がそれるが、(株)一条工務店では似た話がもうひとつあって、同社では大壁和室の壁は「塗り壁風のクロス」を貼っていたが、真壁和室の壁は左官工事で仕上げる「ぬりかべ」にしていたのだが、カタログには「京壁」と書いたり「じゅらく壁」と書いたりしていた。従業員の間でも「京壁とじゅらく壁は違うのかな」とか話が出ていたが、お客さんでも思う人がいたようで「京壁とじゅらく壁は違うのですか」とか「京壁てどういうもののことですか」「じゅらく壁てどういうものを言うのですか」とかきかれる人があった。
  それに対して、私は「京都の二条城があるあたりをかつて『じゅらく』と言ったらしく、豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくだい)がそのあたりにあったらしいのですが、その付近で採れる土を使って塗ったぬりかべのことを京都では『じゅらく壁』と言い、大阪では『京壁』と言ったそうなのです。その京都の『じゅらく』というあたりの土を『京土』、大阪市の天王寺のあたりで採れた土を京都では『大阪土』と言ったそうで、京土を使って塗った壁と大阪土を使って塗った壁は少々色が違ったそうなのです。それは昔のことで、今は京都の二条城のあたりも大阪の天王寺のあたりも街中も街中で土なんか取れませんし、道路工事などの時に採れたとしても茶室専門の工務店の所に行きますから、一般の戸建住宅を建てる時に京都の『じゅらく』とか大阪の天王寺のあたりの土を使うということはできませんので、ハウスメーカーが施工している『京壁』とか『じゅらく壁』というのは、あくまでも『京壁風のぬりかべ』『じゅらく壁風のぬりかべ』という意味です。実際に『京土』『大阪土』を使っているわけではありませんから、色合いも何色もあります。最近は珪藻土を使うぬりかべもでてきて『珪藻じゅらく』なんて商品もでてきていますけれども、珪藻土というのはプランクトンの死骸が海だか川だか池だかで堆積してできた土らしく、珪藻土を使った壁で施工すると住宅内のホルムアルデヒドを吸着するので室内環境が良くなると言われているのですが、珪藻土と京都の『じゅらく』の土は別物ですから、本来なら『珪藻じゅらく』なんて言葉はおかしいのですが、それは『珪藻土を使った京壁風・じゅらく壁風のぬりかべ』という意味でしょう。珪藻土を使った壁はホルムアルデヒドを吸着するという点で健康にいいと言われるようですが、(株)一条工務店の工事担当者が言うには珪藻土の壁材でないものの方が仕上がりがいい場合が多いそうなので、どちらがいいとはいちがいにいえないようです」・・・とこう説明しました・・が、こう話すと「はあ、そうなんですかあ。よく知ってられますねえ」と感心していただいた・・のだけれども、たとえば、1990年代に福島県いわき市の展示場にいた””(株)一条工務店の「がばいじいちゃん」”” 「佐藤のじいさん」(男。当時、40代前半)はお客さんから「京壁てどういうものを言うのですか」「じゅらく壁てどういうもののことなんですか」と質問されると、「京壁つたら、塗り壁のこと、塗り壁」て、それだけで「ああ、塗り壁のことお」・・て、それでも契約してくれる人は契約してくれるんだから・・、なんかあほくさいなあ・・・て感じがしないでもなかった。
  なお、「京壁」「京土」「じゅらく壁」「大阪土」については、↓ に書いてある。
京の大工棟梁と七人の職人衆 - 一子, 笠井
京の大工棟梁と七人の職人衆 - 一子, 笠井

  さらに言うと、1990年代、福島県いわき市の展示場にいた「がばじいちゃん」「佐藤のじいさん」(男。当時、40代)は、来場客に(株)一条工務店の階段のルーバー手すりを指さして「ストリップ階段、ストリップ階段」と言うので、無茶苦茶言うなあ、それは「ストリップ階段」とちゃうやろうが、それは「ルーバー手摺」であって、「ストリップ階段」というのは階段の蹴込板がない向こう側がスケスケに見える階段のことを言うのであって、(株)一条工務店が展示場に設置していた階段は蹴込板はあって、手摺が下の方の何段かのところで、デザイン上から棒を建ててその上に手摺を設けるようにしていた「ルーバー手摺」であって「ストリップ階段」とは全く別物だった・・・はずだが、「類は友を呼ぶ」のかなんかわからんが、「佐藤のじいさん」が担当したお客さんというのは「ルーバー手摺」のことを「ストリップ階段」と言われて「ああ、ストリップ階段ねえ」と同意していた・・・ので、あれでも話は進むんだなあ・・と思い、なんか、あほくさいなあ・・て感じがしないでもなかった・・・( 一一)  「佐藤さん、それはルーバー手摺であってストリップ階段ではないですよ」と親切で教えてあげても、「いいんだ、いいんだ」と言ってきかないし。 いいのか? それでも契約してくれる人はしてくれるようだったが、しかし、それでも「ルーバー手摺」を「ストリップ階段」と言うのではなく、「ルーバー手摺」は「ルーバー手摺」と言った方がいいのではないか・・と今も思う。


  ・・で、やっぱり、関西人なら清水寺がどこにあるかくらいは知っておくべきだ・・と思うな。インドネシアがどこにあるかくらいは知っておくべきだと思うし、住宅建築業の会社に勤めているのなら「ルーバー手摺」と「ストリップ階段」の違いくらいは知っておくべきだというのと同じく・・・。「いいんだ、いいんだ」てことはないと思うぞ。

 ↑ 大谷本廟(西大谷)。


 ↑ 清水寺。


  お骨についてはもうひとつ、思い出がある。1995年、阪神淡路大震災のすぐ後のことだ。母方の祖母の葬式の時の後のことだが、母は5人兄弟で一番上と一番下が男で、祖父の葬式の時は上の伯父が喪主をやったが、10年後の祖母の葬式の時には伯父はキリスト教の洗礼を受けていたことから、先祖の墓と仏壇は弟になる叔父とその息子のイトコが引き継ぐということから、叔父が喪主をやったのだが、そうすると叔父はラグビー選手だったことから、まんだかまるで「ラグビー葬」みたいな葬式をやりよった。来場したラグビー関係者はあれは遺族に対して失礼だと思う。あくまでも、祖母の葬式であり、ラグビー関係者さえ良ければそれでよしみたいな態度というのは、それが「体育会系の礼儀作法」なのかもしれないが、「体育会の常識は世間の非常識」というものであろう。あれが「スポーツマンシップ」とか思っていたのかもしれないが、違うと思うな。
  その叔父がお骨あげの後、親戚の者を自分の所のクルマに乗せて移動して焼き場の近所の喫茶店に「ちょっと、ここ入ろうや」と言ったのだが、その際、祖母のお骨の箱をクルマの助手席にぽいと載せて、「さあ、行こ」と言うので、このおっさん、えらいことしよるなあ~あ・・と思い、この人とはあんまり深く関わりたくないなあ・・と思った。叔父は祖母は自分の母親だと思っていたかもしれないが、うちの母の母でもあるし、私の祖母でもあるのだ。私は子供の頃、祖母にかわいがってもらったから、だから、祖母の遺骨をクルマの助手席にポイと置いて「ここ、入ろうや」と喫茶店に入る男・・・というのは好きになれん・・し、この人とはあまり深く関わりたくないなあ・・とそれを見て思った。
  そう思ったところ、うちの父親の葬式の時には、このおっさんはどう言ったかというと、「うちは息子も男が二人おるしするから、どこかに勤めるにしても保証人にしてもあんたに頼む必要はまったくないけれども、あんたは頼むとするとうちしかないんやから、そやから、これからはあんたはうちには絶対に頭は上がらんのやからなあ。うちはあんたに何か頼むということは、今後、絶対に何ひとつとしてないんやから覚えておけよお!」と人の親の葬式の日にそう言いよった。・・そして、それからたいして経たないうちに「息子の結婚式に出てくれ」と頼んできよった( 一一)  あれえ、「今後、うちはあんたに何か頼むということは絶対にないんやからなあ」と言うたのはどこの誰でしたっけ? どの口がおっしゃったんでしたっけ? そのイトコは子供の頃から一緒に遊んだりもした男であり、イトコの結婚式に出てくれと言われれば出ない理由はないはずなのだけれども、しかし、「うちは今後はあんたに何かを頼むということは絶対にないんやからなあ。覚えとけよお」とおっしゃったはずであり、「覚えておけよお」と言われたからには忘れてはいかんと思って覚えているのですが、「何かを頼むということは絶対にない」というからに結婚式に出てくれと言われても出るべきではないのではないのか、それとも「覚えておけよお」と言われても忘れてほしいのでしょうか、どっちなのだろうか。ぼく、頭わるいからなんか、どっちなのかようわからんねんけど、どう考えたもんなんやろうねえ・・・。
  祖母の葬式の時には、この叔父は私に「俺はあんたがどこに住んでるのかも知らんねんけどな」という口をきいたのだが、その時、私は福島県いわき市に住んでいて、福島県いわき市の住所を記載してこの叔父宛に年賀状など何回も出していたけれども、このおっさんは自分はえらいと思うからか、伯父の方は私が年賀状など出すと律儀に返してきていたが、この叔父は私から年賀状などもらっても絶対に自分は私には出さない男だったのだが、それでも私から私の住所を明記した年賀状を受け取っていたからには私がどこに住んでいるかは知っているはずだったが、それにもかかわらず、「俺はあんたがどこに住んでるかも知らんねんけどな」などと口にした。それを聞いてから、このおっさんには年賀状など出さない方がいいと判断して出すのをやめた。
  又、この叔父は私に「俺はあんたがどこに勤めてるかもしらんねんけどな」と、直前に「(株)一条工務店」と明記した名刺を私から受け取っていながら言うのだった。アタマがラグビーでできている人というのは、こういう口をきくということのようだ。こういう態度のことを「さわやかスポーツマンシップ」とか言うらしい。「体育会の人間は学力はないが根性がある」とか慶應の体育会の教授は「体育理論」という必修科目の講義でお話になったのだが、こういう態度のことを「根性がある」と言うのかもしれない。「ええ根性しとる」わ、ほんま。
  1985年の祖父の葬式の時には、この叔父は親戚の人間がお寺の広間に集まっている場所に入ってきて「香典、中味はいってないのん、2件、あったらしいでえ。そのうち、1件は◇◇さんらしいでえ~え」と大きな声で、まさにその◇◇さんがその場にいる所で叫んだということがあり、この人、いったい何? ・・とびっくりしたということがあった。 香典の中味を入れ忘れて渡してしまうということは「あること」のようで、その際、どうしたものか困るのだが、何も何人もがいる所で「香典、中味はいってないのん、2件、あったらしいでえ。そのうち、1件は◇◇さんらしいでえ~え」と大きな声で、まさにその◇◇さんがその場にいる所で大きな声で叫ぶことないのではないか。この人、いったい何? ・・・私は今までからこの人のことを「特別に賢い」とかいうように思っていたわけでもないけれども・・、何、この人? 
  さらに、祖父のお通夜の後、祖母もけっこう歳だったので我が家で祖母を1晩預かることになったのだが、葬式の朝になると祖母は疲れて、もう葬式には行かなくていいと言いだしたのだが、母は祖母がそう言うならと思ったらしいが、祖父の葬式に最重要人物の祖母が来ないというのでは喪主も困るのではないかと思い、「それならそれで、喪主のKさんに連絡しておいた方がいいでしょう」と私が言うと母はお寺に電話を入れて伯父に話、伯父は「来てもらわないと困る」と言って、伯父から祖母に来てもらうように話して、それからタクシーでお寺まで行った。ところが、そういういきさつがあったことから少々到着が遅くなったところ、それよりも前に「親戚の集合写真」を撮ってしまった後だというので、うちだけが遅れたのならともかく、お婆さんを連れていくのにお婆さんを入れずに先に写真を撮るというそんな馬鹿な話はないだろうとうちの母親に言ったのだった・・が、母は「そんなものだ」と言うのでそれ以上は私は言わなかった・・が、伯父はそういうことはきっちりとやる人だったが、その頃から、お墓と仏壇を伯父ではなく叔父の方が引き継ぐということで叔父の力が強くなってきていたようで、おそらく、それも、あのラグビー屋の叔父が「写真だけでも先に撮っておいたらええがな。お婆さんが入ってなくてもかまへんがな」とか言いよったのではないか。おそらく、そうではないかと私は今は思っている。祖父の葬式の親戚の集合写真に本人の都合で遅れた者が入れてもらえなかったということならやむをえないが、祖父と長年のつれあいだった祖母を入れずに集合写真を撮るバカはないだろうが! その祖母と同行している者が写真に入れてもらえないというのもおかしい。お墓と仏壇を引き継ぐはずのイトコも、その時点ですでに20を過ぎていたはずだが、親父が「集合写真だけでも先に撮っておこうや」と言い出したなら、「お婆さんを入れずに写真を撮るわけにはいかんでしょう」と父親に言ったらどうかと思うのだが、言えない・言う能力がないのがラグビー屋の特徴だったのではないか。アタマがラグビーでできていると、そういう行動をとるようだ。この叔父は私が嫌いで、私はこの叔父に恨まれることをした覚えはないはずだったが、恨まれることをした覚えはなくても恨まれることはあるし、こんなおっさんに好かれたくもないと思っていたが、このおっさんの葬式には親戚として行かないわけにもいかないだろうと思っていたら、知らないうちに死んでいたらしい。行かなくてすんで良かったかもしれないが、私にならまだしも、姉である私の母親にも知らさないとは、ラグビー一家とはそういうものだったのか。
  クルマの助手席に自分の母親の遺骨をポイと置いて「ここ、入ろうや」と言って喫茶店に入る男・・というのは、「うちは今後はあんたに何か世話になることは絶対にないんやからなあ。覚えておけよお」と人の親の葬式の日に言って、たいして経たないうちに息子の結婚式に出てくれと頼むような、そういう男やった( 一一)  ラグビーやるとそういう人間になるということなのかな・・、ラグビーは関係ないか・・。

  結婚式に出てくれというのは「来てもらった」という面と「呼んでもらった」という面の両方の面があると思うし、本来、呼んでもらって悪いことはちっともないし、イトコが結婚式に来てくれと言ってくれたなら行くのは当然だと思っていたし、そんなことでもったいつける理由はないと思っていたが、しかし、ひとの親の葬式の日に「うちは今後はあんたに何か頼むことは絶対に何一つとしてないんやから覚えておけよお」と父親が言いよったからには事情は少々違う。インターネットで見ると、愛知県のある私立大学のラグビー部の監督としてそのイトコの氏名と顔写真が出ており、小学生の時だったか中学生の時だったか、母が叔父の家に行ったところ、そのイトコの机には私が持っていた『自由自在』(受験研究社)とまったく同じ本が、私が持っていたものは端から端まで読んだ跡があったのに対して、イトコの机の上に載っていた『自由自在』は新品のものを買ってきた状態そのまんまでまったく読んだ形跡が見当たらなかったらしく、母はそれを見て「ああ、これではこの子は勉強できんわ」と思ったそうだったが、父親と同じく勉強はできんがラグビーはできたようで、そのイトコは今では私なんかよりもよっぽど出世して「えらい人」になっておられるようだ・・・が、自分が結婚式に呼んだイトコに対しておのれの父親がそのイトコの父親の葬式の日に「うちは今後はあんたに何か頼むようなことは絶対に何一つとしてないんだからなあ。覚えておけよお」とそこまで言いよった・・ということを認識しているだろうか。「えらい人」なら認識しておいてほしいようにも思うのだが。法隆寺宮大工棟梁の西岡常一さんの本に、大工の棟梁というのは技術だけ良ければいいというものではなく、技術も一流、人間としても一流でないといけない・・と語られていたが、運動選手には運動選手なんてアホなんだから・・と言う人がいるが、そうではなく運動選手というのは、その競技の職人だと考えるならば、技術も一流、人間としても一流を目指すべきものではないのか・・と考えるなら、ひとの親の葬式の日に「うちは今後はあんたに何か頼むようなことは絶対に何一つとしてないんだからなあ。覚えておけよお」という口をきいた上で、それからたいして経たないうちに息子の結婚式に出てくれと平気で言う大学教授(専攻:ラグビーの「大学教授」だったらしい)・・てどう思うか?
  祖母の葬式の後、祖母の遺骨の入った箱を、イトコの父親(叔父)がクルマの助手席にポイと置いて「そこ、入っていこうや」と喫茶店に入ろうとした時、「えらいことしよるなあ」と思ったのは私だけではなかったであろうし、「この人とはあんまり関わりになりたくないなあ」とそれを見て思ったのも私だけではなかったと思うのだが、「えらい人」になったイトコはそのあたりを理解しているだろうか・・・。私は子供の頃、祖母にかわいがってもらったから祖母の遺骨をそんな扱いにされるのはうれしくない。私は祖母からすると孫になるが、愛知県のなんとか大学のラグビー部の監督様のイトコもまた祖母の孫のはずだが、祖母の遺骨をクルマの助手席にポイと置いて「そこ、入ろうや」と叔父が言った時、イトコもその場にいたはずだが、祖母の遺骨を父親が粗末な扱いにしているということに抵抗を感じたか、感じなかったか・・・。ラグビー部監督というのは、単なる「体だけの人間」ではなく「指導者」であるのなら、少しくらい、そのあたりについて感じてもいいはずだと思うのだが・・・。
  (2021.10.21.)

  1156年「いい頃(1156)、起こった保元の乱」保元の乱 というのは、皇室・藤原家・源氏・平氏 が2つに分かれて戦った戦いだったと言われる。
(鳥羽法皇)・後白河天皇 × 崇徳上皇
藤原忠通 × 藤原頼長
源義朝 × 源為義・源為朝
平清盛・平重盛 × 平忠正
 私は小学生の頃、考証・解説:和歌森太郎、画:カゴ直利・宮坂栄一『学習漫画 日本の歴史』全18巻(集英社)というのを喜んで読んでいた・・が、大人になってから考えてみると、これは、いわゆる「戦前型 人物中心の国史」ではないか・・という感じがするし、「人物中心」であるとともに、南北朝の争乱などは南朝方についた書き方がされているし、俗説を集めただけに歴史として正しい分析と言い難いものも中にある。
  明智憲三郎 原案・藤堂裕 漫画『信長を殺した男 日輪のデマルカシオン 第1巻』(2021.11.1.秋田書店)では、賤ケ岳の戦い で羽柴秀吉が柴田勝家 に勝ったのは、世間では、越前 北の庄 から南下してきた柴田勝家 や 佐久間 盛政 に羽柴秀吉が対峙していた時に、岐阜で信長の三男 織田信孝が挙兵、柴田勝家と織田信孝の両方と戦わないといけない状況になった羽柴秀吉は、織田信孝を攻めに岐阜に向ったと見せかけて大垣から「大返し」で引き返してきた意外性とか、柴田勝家の甥にあたる佐久間盛政が猪武者で緒戦の勝利に気を良くして油断して深く攻め込んだのが失敗だったとか、「賤ケ岳七本槍」の活躍があったとか言われるが・・・、実はそれらは主要な原因ではないと指摘している。「賤ケ岳七本槍」なんて話は、その7人て誰やねん・・というと大坂の陣の直前に梅毒で死んだとも言われ『あずみ』では「あずみ」に暗殺されたことになっている加藤清正、桶屋の息子でノミで人を刺し殺して尾張におれなくなって親戚の秀吉を頼って出奔して大名にならせてもらったと言われ、司馬遼太郎『関ケ原』では激しやすくすぐに感動したり頭に血が昇ったりするのせられやすい「体育会系の運動バカ」の典型みたいに言われる福島正則・それに何の漫画だったか忘れたが子孫が変態・偏執狂になったと描かれていた加藤嘉明あたりまでは思い浮かぶが、後は、石田三成や真田幸村(信繁)とは逆で大坂の陣の前に徳川方にまわった腰抜けの代表みたいに言われる片桐且元・関ケ原の戦いの時に西軍から東軍に寝返って大谷吉継隊に襲い掛かった寝返り男の脇坂康治とか、これで5人で、あと2人誰だっけ? て感じで「賤ケ岳七本槍」と言っても7人とも覚えている人は少ないし、後から創作された話、もしくは逆に最初からこの7人をデビューさせようとして作られた話とか言われるが、少なくとも賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉が勝った主原因ではなく、岐阜まで行ったように見せかけて大垣から「大返し」で急遽引き返してきたとか、そういったことも柴田勝家はまったく予想していなかったわけでもなく、主原因は何かというと、実は前田利家・金森長親らの裏切りだったのではないかと同書は指摘する。柴田勝家の側の寄騎だった前田利家・金森長親らは実は賤ケ岳の戦いの前に羽柴秀吉の側に凋落されていて、賤ケ岳の戦いの真っ最中に敵方に寝返ったことから、戦局は大きく変った・・といい、それがあまり知られていないのは、前田利家の息子の前田利常がスポンサーとなって書かせた『太閤記』に「美濃大返し」「七本槍の活躍」「佐久間盛政の猪武者」といった記述が踊り、そこから「前田利家の裏切り」の記述が完全に削除されていることによるという。前田利家は柴田勝家を「おやじさま」と呼んで「尊敬していた」といい、片方で羽柴秀吉とは若き頃から織田家の武将として仲の良い友人だった・・とか言われるが、「仲の良い友人」なんてもので秀吉についたのではあるまい。明智光秀とか小早川秀昭とかは「裏切者」の評価を受けてきたのに対して前田利家はそう言われてこなかった・・が実は・・というのだ。多くの者は「勝つ側」につきたいと思うのだが、山崎の戦の時にも賤ケ岳の戦いの時にも羽柴秀吉は「勝つ側」だった・・が、関ケ原・大坂の陣においては「負ける側」になった。・・考証・解説:和歌森太郎、画:カゴ直利・宮坂栄一『学習漫画 日本の歴史』全18巻(集英社)では、まさに「あほくさい俗説」たる「七本槍の活躍」「佐久間盛政の猪武者的猪突猛進による失敗」といったことが書かれており、「前田利家の裏切り」なんてどこにも出ていないのだ。だから、小学生の時には考証・解説:和歌森太郎、画:カゴ直利・宮坂栄一『学習漫画 日本の歴史』全18巻(集英社)は喜んで読んだけれども、ある程度以上、歴史を学んでから読むと、なんだかなあ・・て感じもする本だ。
  その和歌森太郎・カゴ直利『学習漫画 日本の歴史 4 源氏と平家の戦い 鎌倉時代』(集英社)に、後白河天皇の父親の鳥羽法皇が「息子」の崇徳上皇を「おじご」と呼んで嫌っていたという話がでていて、「おじご」てどういう意味なのか・・と思ったのだが、結論として、息子ということになっているけれども母親は鳥羽天皇の側室であるけれども、父親は実際は鳥羽天皇の祖父の白河天皇であり、血族の関係としては崇徳上皇は鳥羽法皇の側室の子という意味で「子」だが父親は鳥羽法皇ではなく鳥羽法皇の祖父の白河天皇の子なので鳥羽法皇の「叔父」にあたるという意味らしい。だから、実際に白河天皇の子だったのかどうかの真偽は不明らしいが、鳥羽天皇(→法皇)は「おじご」=「実際は叔父である子」「名目上「子」ということになっているが実際は叔父の関係である子」と呼んで嫌ったといい、保元の乱で敗北後に讃岐に流された後、崇徳上皇は菅原道真・平将門とならぶ「三大怨霊」となった・・とされる。
  この保元の乱では、「勝った側」に源 義朝(源頼朝・源義経のお父ちゃん)がまわったものの、「負けた側」に源為義(義朝の父)・源為朝(義朝の弟)が回り、平家では「勝った側」に平清盛・平重盛の親子、「負けた側」には平清盛の叔父の平忠正がまわった。この保元の乱で源氏は力を失い、平家は勢力を増し、続く平治の乱でさらに平清盛は力を握る・・というのだが・・。
  保元の乱の後、源義朝は父親と弟を助けたかったが助けることはできず、平清盛は叔父を「もともと、わたしはあのおじは大きらいだった」と言う場面が考証・解説:和歌森太郎、画:カゴ直利・宮坂栄一『学習漫画 日本の歴史』全18巻(集英社)に出ている。↓
DSC00003.JPG
平清盛が実際に「もともと、わたしはあのおじは大きらいだった」と思ったのかどうか、そのあたりはよくわからんが、この和歌森太郎・カゴ直利『学習漫画 日本の歴史 4 源氏と平家の戦い 鎌倉時代』(集英社)にはそう描かれていた・・が、はたして、「もともと、わたしはあのおじが大きらいだった」とか、そういったことを、まがりなりにも親戚なのに思うということがあるのだろうか・・と私は小学生の時にこの本を読んだ時からずっと思ってきたのだった・・が、↑ のうちの母方の叔父のラグビー屋のおっさん、頭がラグビーでできてるおっさん、1980年代、プロ野球のオールスター戦のラジオの野球中継でゲストの前川清が「しかし、それにしても、プロ野球の投手というのは、よくあれだけ速い球を投げますね。また、プロのバッターというのは、よくそれを打ちますね」と言ったところ、解説者の江本孟紀が「ええ。そりぁもう、なにしろ、それしか知らんのですから」と言った(^^♪ ことがあったが、まさにそんな感じ、「ラグビーしか知らん」””大学教授””の おっさん、
【A】自分の父親の葬式の時(1980年代なかば)には
《1》「香典、中味はいってないのん、2件あったらしいでえ。そのうち1件は◇◇さんらしいでえ~え」と親戚中が集まっている場でまさにその◇◇さんが目の前にいる所で大声で叫ぶおっさん、
《2》父親の葬式の時に母親とその母親を連れてくる姉(うちの母親)と甥(私)を抜きにして葬式の集合写真を撮ろうと主張したと思われるおっさん、
【B】自分の母親の葬式の時(1990年代なかば)には、
《1》自分の母親の遺骨をクルマの助手席の座席の上にポイと置いて「そこ、入ろうや」と喫茶店に入るおっさん、
《2》私から何度も住所を明記した年賀状をもらっておきながら自分の方は出さずに「俺はあんたがどこに住んでるのかまったく知らんねんけどな」という口を平気できくおっさん、
《3》私から勤め先の会社名を明記した名刺をもらった直後に「俺はあんたがどこに勤めてるかもまったく知らんねんけどな」と大きな顔して言うおっさん、
《4》親戚の人間が何人も来てくれているのに母親の葬式を「ラグビー関係者の集会」みたいにしてしまうラグビー関係者には気を使っても親戚には気を使わないラグビー関係者以外に対して極めて無礼な「葬式もどき」を平気でやるおっさん、
【C】うちの父親の葬式の日(1990年代初め)に
《1》「うちは今後はあんたに何か世話になることは何ひとつとして絶対にないんやからなあ。覚えておけよ」と人の親の葬式の日に言っておいて、「覚えておけよお」と言われたからには忘れてはいかんわなあと思っていたら、それからたいして経たないうちに「息子の結婚式に出てくれ」と「どの口が頼んどんのんじゃい!」てことを平気で言うおっさん
うちの父親が危篤の時には病院まで来てくれたのは大いに感謝すべきことで、この人はそういう時に「来てくれる人」だという点は評価したいとは思うものの、
《2》消毒した上で家族・親戚以外は立入禁止の無菌室の病室に無思慮に土足でドカドカと入り込むおっさん、普通、そこが病院、病室である以上、靴のまま、あがっていいものか、靴を脱ぐべきかとか考えるものやろうが・・と思うのだが、50代前半にまでなって「大学教授の先生様」のくせしてからに、そういう思慮がまったくないおっさん、
《3》私が目の前にいて、私が「どうも、わざわざ来ていただきましてありがとうございます」と言っているのにそれをわざわざ避けるようによけて、兄弟の中で一番最後に来た上の姉を捜して「T子ちゃん、T子ちゃん」と言う・・て、「何、このおっさん( 一一)」て態度を取った、
《4》さらに、うちの父親は最後は口をきけなくなってしまったが、意識がないわけではなく手を持つと握ってきたり、口中にたまったものを出してほしい時には手で指示したりしていて、又、まったく口をきけないわけではなく断片的な文句を口にすることもあり、意識はあったはずなのに、かつ、本人は治って家に戻るつもりでいたにもかかわらず、その本人がいる病室で本人のすぐそばで「もう、こうなったら、あかんもんやと思って考えんといかん」などと大きな声で言う・・( 一一)  「来てくれる人」というのはありがたい、感謝すべきかと思うものの、そうは言っても、病人のすぐそばでそういう口をきくのなら、むしろ、来てもらわない方がいいのかもしれない、と思えるおっさん、
・・という葬式や人が危篤ということがあると毎回、何かやるおっさん、ラグビーでタックルされて頭を地面に叩きつけられておかしくなったのか、最初からそうなのかどちらかわからんが、その「さすがは大学教授の先生様だけあって、なさることが違いまんなあ」ておっさんのおかげで、「もともと、わたしはあのおじは大きらいだった」と思う人の気持ちがわかるようになった。その気持ちがわかるようにしてくれたというその点ではラグビー屋のおっさんに感謝すべきなのかもしれない。
  (2021.10.25.)

  次回は、花噴水。木調縦格子。「着倒れ」京都に行ったら大阪に帰っても食べ物屋がなかった話。事実に反することでも電気ショック療法で認めさせることはできるか。父親はあると常に得するとは限らないという事実がわからないバカ女症候群。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_5.html

☆ 2021年 大谷本廟(西大谷)参拝
1.清水五条駅から。円通橋。なぜ郊外に高層ビルを? なぜ大学をオフィスビル型に変えようとするか? 阪大箕面キャンパスはなぜだめなのか。大学に三四郎池・哲学の道・ポルトフィーノの岬は必要でないのか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_1.html
2.親鸞像。普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像が気に入らない「福沢精神」。総門・太鼓楼・仏殿・五葉松。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_3.html
3.明著堂・覚信尼公碑文・石窟・ノバホールそっくり無量寿堂。お骨は落すな。母親のお骨を粗末にするな。ルーバー手摺はストリップ階段と違う。〔今回〕
4.花噴水。木調縦格子。「着倒れ」京都に行ったら大阪に帰っても食べ物屋がなかった話。事実に反することでも電気ショック療法で認めさせることはできるか。父親はあると常に得するとは限らないという事実がわからないバカ女症候群。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_5.html

☆ 2018年 大谷本廟参拝
1.西本願寺・大谷本廟(西大谷)・北御堂が本願寺派。江戸時代の石橋、円通橋 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_1.html
2.総門・守衛所・仏殿・読経所。自宅に植木がなくても寺社に見にいけばという考え方 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_2.html
3.玄関だけ前に出た建物は変か? 会社の電話に私用の電話を他人の女に毎日かけさせる男 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_3.html 
4.納骨の際、お骨を落とすな。普通に電車に乗るのも恩着せようとする父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_4.html
5.自分が空腹でなければ子供にも食べさせない父親。子供に脂の塊を食わす父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_5.html

☆ 2012年 西本願寺 飛雲閣(ちょっとだけ)
(西本願寺)飛雲閣、ちょっとだけ~「数寄屋造」の建物(2)、及、金閣・銀閣について検討、少々、など https://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html

「慎腹風呂愚」
☆ 2015年 大谷本廟(西大谷)参拝
[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html

☆2016年 大谷本廟参拝
[第443回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【上】、 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_5.html
[第441回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【下】、 御荼毘所。 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.html

☆2017年 大谷本廟参拝
[第570回]《大谷本廟(京都市東山区)参拝。円通橋は江戸時代の石造アーチ橋》https://shinkahousinght.at.webry.info/201708/article_5.html

☆ 2011年 浄土真宗本願寺派築地別院(築地本願寺)
[第54回]《築地本願寺 訪問記~なぜ、浄土真宗の寺には「御朱印」がないか。~千葉・東京の建築(3) 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201108/article_3.html
親鸞 (岩波新書 青版 853) - 野間 宏
親鸞 (岩波新書 青版 853) - 野間 宏
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
歎異抄 (岩波文庫 青318-2) - 金子 大栄
歎異抄 (岩波文庫 青318-2) - 金子 大栄 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック