21年 大谷本廟【2/4】親鸞像。普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像が気に入らない「福沢精神」。総門・太鼓楼・仏殿・五葉松。

[第556回]
  大谷本廟(西大谷)参拝の後半です。 円通橋(えんつうきょう)を通り皓月池(こうげついけ)を渡ります。
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  左手(北側)に親鸞の像が立っておられます。↓
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  ブログでも何度かすでに述べたと思いますが、こういった「えらい人」の像というのは、たいていある程度の高さの台座の上に立っておられるのですが、しかし、親鸞という方が台座の上に載せられたいという方だったか・・というと違うようにも思うのです。
  『歎異抄』でも「弥陀の本願により念仏もうせしともがらの、我が弟子、ひとの弟子という争論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり」という文章があったと思いますが、念仏をおこなうことでホトケの心を得ることができたならば、それはあくまでも弥陀の本願によって救われたのであり、誰か「えらい人」のおかげといったものではないはずですから、誰であれ高い台座の上に載せられて奉られるというのは、それは親鸞の考え方には相容れないものではないのか。
   1980年頃、東京都港区三田の慶應義塾大学では、槙文彦 が設計したという三田新図書館のすぐ横(北側)に、普通の人と同じ大きさで・普通の人と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に、福沢諭吉の胸像が設けられていて、それは「天は人の上に人を作らずと言えり」と『学問のすすめ』で述べた福沢諭吉の像であるからだ・・ということでした。ところが、その後、横浜市港北区日吉 の教養課程である日吉キャンパスに日吉新図書館ができて、日吉新図書館の入口の前に、その前を通らないと図書館に入れないという場所に、普通の人よりも大きい・普通の人よりも高い場所で・前を二礼二拍手一礼して通らないと図書館に入れないという場所に福沢諭吉像が設けられ、そして、2000年代、三田キャンパスに行ったところ、かつては三田新図書館のすぐ脇の誰もがすぐそばまで行ける場所で、かつ、図書館に出入りする場所とは異なる側で、図書館に出入りする際にもそこに行きたければ行くことができるし、別に前に行かなくても図書館に入ることはできるという場所に設けられていた「普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる」福沢諭吉の胸像は、別の場所、そこよりも北の重要文化財に指定されていて慶應大学の入学募集要項の表紙には毎年掲載されているので誰もが存在を知っているけれども、大学生は中に入らせてもらうことはないので慶應大学を卒業した者でも中がどうなっているのかは誰も知らない、曾根中条建築事務所設計の慶應義塾三田旧図書館の入口の左手まえあたり、一般の学生が通行する通路よりも生垣の内側で、一般の学生が通る通路とは生垣で隔てられてすぐそばまで行くことはできないという場所、一般の学生が通行する通路よりも高い場所に移されてしまっていた。かつ、慶應義塾が無料で発行していた「慶應義塾」だったか「塾」だったかいう「新聞」形式の冊子には、日吉の新図書館の前に設けられた、普通の人間より中途半端にひとまわり大きい・普通の人間よりも少々高い・二礼二拍手一礼して前を通らないと図書館に入れない位置に設けられた福沢諭吉像のことを「この像に肘をついたり、足をかけると留年すると言われています」などというくだらない「お話」を捏造して記載されていたのでした。アホちゃうか! ・・と思ったのだが、慶應という学校では、特に内部進学の人は「塾風」とか「福沢精神」とか叫ぶのは好きで、福沢諭吉の墓参りはよく行くようですが、福沢諭吉の著作や伝記を読むということはしない人たちですから、かつ、《「自分がどう思うかではなく、ひとに強制するのが好き」という白痴右翼症候群》みたいな人がけっこう多いので、そういう人が「普通の人間よりもひとまわり大きい・普通の人間よりも高い・前を二礼二拍手一礼して通らないと図書館に入れないという位置の」福沢諭吉像を作るとともに、「この像に肘をついたり、足をかけたりすると留年する」などというくだらない「お話」を捏造したのでしょう。・・もし、あなたの銅像がどこかに設けられたとして、あなたの息子がそのあなたの銅像に肘をついたとか足をかけたということがあったなら、あなたはあなたの息子を留年させたいとか考えますか? 福沢諭吉と言う人が、もしも自分の像に肘をつく学生がいたとか、足をかける学生がいたとして、だからといって留年させてやろうなどとそんなことを考えるようなそんなちっぽけな人だと思いますか。そんなくだらない「お話」を捏造した者というのは「我々はおまえらとは違って福沢精神というものを身につけているんだあ!」と叫ぶのが好き♪ という「慶應タイプ」の人で、おそらく、福沢諭吉の著書も伝記も読んだことはないという人でしょう。
  せっかく、「普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる」福沢諭吉像が三田キャンパスに設けられていたのに、それを生垣で隔てられた普通の人間が通る場所よりも高い場所に移した人たち・・というのは、””「我々は福沢精神を身に着けているんだあ! わかったか~あ!」と叫ぶのが大好きシンドローム”” の人たちでしょうけれども、福沢諭吉という人はそんな扱いを喜ぶ人ではなかったのではないのかな・・と思います。
  それで、最初に慶應義塾の三田キャンパスの福沢諭吉像が「普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設けられた」像であると読んだ時には、それが特別のこととも思わなかったのですが、比較的最近、2010年代ですが、京都大学に行ってみたところ、正門を入った正面の時計台記念館の前に、普通の人間の身長よりも高い台座の上に鎮座する誰やらわからん人の胸像が何体も並んでいて、首を見あげて、「これ、誰なんやあ?」と思って見ても誰なのかよくわからん人で、必死のパッチで頑張って首を上向けて見ないと見えないので、そのうち首が疲れてきて、「もう、別に誰でもいいよ」て気になった・・ということがあったのですが、誰の像だったかというと、京都大学の歴代総長様の像だったようです。京都大学という大学は「アカデミックな伝統」とか「反骨の学風」とか言う大学だったと思ったのですが、そのわりに、首が痛くなるくらいに上を見あげないと見えないような高さに歴代総長様の像が造られて並んでいたのでした。・・・で、それを見て2つのことを思ったのです。こういう像というのは「首が痛くなるくらいに上向かないと見えない位置に設けられた人の像」と「普通の人間と同じ高さで・普通の人間と同じ大きさで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設けられた人の像」とでは、後者の人の方が値打ちがある人である場合が多いのではないか・・という点。もうひとつは、首が痛くなるくらいに上向かないと見えないくらい高い台座の上に載せられた人の像というのは、いわゆる「祭り上げの大技」というやつで、「邪魔だから上の方に上げている」というやつではないのか・・という点。 神棚というのはどの高さがいいのかという問題で、普通の人間の眼の高さより少し高いくらいの高さがいいという説があり、そうではなく長押の上の位置に設けるべきだという説があるのですが、前者がいいという説では「上の方にあげるというのは『邪魔だから上の方にあげている』のだ」という理由をあげる人がいるのです。もっとも、後者の説をとる場合には「邪魔だから上の方にあげている」のではなく、キリスト教でも「みだりに神の名を唱えてはならない」という教えがあるように、神さまにはみだりにすがるべきものではなく、普段は上の方から見守っていただき、いざという時に神様に柏手を打って拝むという姿勢でいいのだという考えがあるようですが、京大の歴代総長の像というのは、あれは「邪魔だから上の方に上げている」というやつ、「祭り上げの大技」てやつではないのか・・て感じがした。
  「普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設けられた」像というのは、考えてみると、あまり多くない。私がこれまでに見たことがあるものでは、1980年代の慶應義塾の三田キャンパスの福沢諭吉の胸像、それに栃木県佐野市の郷土博物館前の田中正造翁の立像、2000年にロシア連邦イルクーツク州イルクーツク市の公園で見たカール=マルクスの胸像。この3つ以外には記憶がない。
  台座には像を安定させるためという効能もあるかもしれないので、胸像の場合は普通の人間と同じ高さにできても立像の場合は像を安定させるために台座を設けるとどうしても普通の人間よりも高くなるのかもしれません。又、誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設けると、中には「なんかしょーもないこと」やる人も出てくるかもしれません。たとえ、自分の像に「なんかしょーもないこと」やる人が出たとしても、親鸞という人は、だからといってその人を不幸にしてやろうとか考える人ではない・・とは思いますが、それでも、やっぱり、「なんかしょーもないこと」はされたくない・・と考えると、通路から少々離れた位置に設けた方がいいのか・・と考える人がいたとしても、必ずしも責められないのかもしれません・・・が、そうはいっても、どうなのだろうなあ・・と思う像です。

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↑ 大谷本廟 総門
《 第14第寂如上人の時代、1710(宝永7)年宗祖親鸞聖人450回忌法要を修するにあたり、同年3月に建立されました。
その後、第18代文如上人の時代、1796(寛政8)に現在の四脚門に改築されました。・・》
( 大谷本廟HP 「境内案内」https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )
1689年「権利の色吐く(1689)、権利章典」権利章典(イギリス) と
1789年「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」フランス革命(フランス)
の間の頃。
徳川吉宗の生誕が1684年、1705年 紀州藩5代藩主、1716年 征夷大将軍宣下。1751年死去。
田沼意次の生誕が1734年、1767年 側用人、1772年 老中、1786年 老中 御役御免、1788年死去。
松平定信の生誕が1759年、1787年 老中 上座、1788年将軍輔佐、1793年 老中・将軍輔佐 御役御免、1829年死去。
( ウィキペディアー徳川吉宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97  、ウィキペディアー田沼意次 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1  、ウィキペディアー松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1   )
総門は、徳川吉宗が8代将軍に就任する1716年の6年前の1710年に建立され、松平定信が老中・将軍輔佐を退任する1793年の3年後に四脚門に改築された。
田沼意次の生誕の1734年の24年前に建立され、田沼意次の死去の1788年の8年後に四脚門に改築された・・と、そんな頃の建物らしい。

  大谷本廟HP の「境内案内」https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ を見ると「総門」と書かれています。
  中に入ります。総門は中側から見ると、↓
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  総門を入ってすぐ左にあるのが、少々変わった建物ですが「太鼓楼」らしい。↓
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↑ 大谷本廟 仏殿
《 1605(慶長10)年 仏殿建立
1867(慶応3)年 二天門より出火、仏殿等延焼焼失
1870(明治3)年 仏殿落成(現在の仏殿)
( 大谷本廟HP 「沿革」https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/history/ )
《 第13代良如上人の時代、1661(寛文元)年に創建され、1867(慶応3)年に隣接する二天門からの出火で焼失しました。
現在の建物は、1870(明治3)年に再建されたもので、内陣には第14代寂如上人御作の阿弥陀如来像を中心に、歴代宗主、左余間には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼公のご絵像が奉懸されています。・・》
( 大谷本廟HP 「境内案内」https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/about/guide/ )
1871年「藩と言わない(1871)、県と言う」廃藩置県の前年に現在の仏殿が落成したらしい。

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↑ 五葉松(ごようまつ)
  「五葉松」とはどういう木かというと、「松は松でも『山に生えてる松』ではなく『お寺に生えてる松』」・・という説明では違うわけではないとしても適切な説明とも言えない。 松の分類として「山に生えてる松」と「お寺に生えてる松」で分けるという分け方はあるが、「お寺に生えてる松」にも種類があるし、「山に生えてる松」も1種類ではない。
  今里 隆『これだけは知っておきたい建築用木材の知識』(1985.5.6.鹿島出版会)によると、
《 姫小松(ひめこまつ)・五葉松
 産地:姫小松と変種五葉松は同属種とされ、姫小松は北五葉ともよばれ北方型であり、五葉松は姫小松の南方系といわれる。本州中部山地がその分岐点とされる。
  姫小松は北海道十勝・日高・渡島地方、本州では岐阜以東の北中部山地に自生する。
  五葉松は本州中部から九州までの山地に自生し、姫小松とともに尾根筋または岩石堆積地などに多く散在し、樹形が美しい。
  姫小松と這松(はいまつ)の雑種である八甲田五葉松は、北海道日高、本州の八甲田山、蔵王山、立山などに生育する。
  性状:辺材は黄白色、心材は淡横赤色または淡紅色で心辺板の区別はやや明りょうである。
  木理は通直で年輪幅は狭く整い、肌目は黒松、赤松より緻密で軽軟である。生節の現れることが多いが樹脂細胞はない。耐朽、保存性は中くらい、乾燥よく加工容易であるが割れや狂いがやや多い。
  用途:建築の造作材、建具材、家具材、彫刻、漆器木地など。 》
「松」というと、「赤松」「黒松」に「唐松」・・それに「おそまつ」「ジュウシマツ」・・以外にも五葉松・姫小松があるわけだ・・。
建築用木材の知識 (これだけは知っておきたい) - 今里 隆
建築用木材の知識 (これだけは知っておきたい) - 今里 隆
  赤松・黒松は日本の在来木造住宅で梁桁材として使用されることがあり、2000年にロシア連邦イルクーツク州のイルクーツク市とバイカル湖畔の中間付近にある木造住宅博物館に行って際に見た「木造住宅」は日本で言うところの「組積造のログハウス」だったのだが、使用されている木材は唐松だということで、外部に露出して使われていたがロシア人のガイドさんが言うには「唐松だから腐らない」ということだった。そのように、赤松・黒松や唐松は建築用に使われているのは知っていたし、(株)一条工務店では大壁和室の造作材には「標準仕様」では紅松(べにまつ)を使用していて、私が担当させていただいたお宅で紅松(べにまつ)ではなく桧にしてほしいと言われたお宅があって差額を出していただいて桧に変更したことがあったが、紅松(べにまつ)は竣工時においては見た目は桧と似ているのだったが、ところが、入居後1年でも経って訪ねてみると、紅松の部分というのは竣工時にくらべて黒ずんだり汚れたりしてしまうのに対して、差額を出していただいて桧にしていただいたお宅では、1年経っても桧の部分というのは竣工時とそれほどかわらずにきれいな状態だったので、やっぱり、桧というのはいいんだなあと思ったということがあった・・が、そんなもので、紅松(べにまつ)も建築用の造作材に使われるのは知っていたが、五葉松・姫小松というと和風の家の庭に植えられる造園用の木という印象があり、この大谷本廟でも造園用に五葉松が植えられているのだけれども、今里 隆『これだけは知っておきたい建築用木材の知識』(1985.5.6.鹿島出版会)には《 用途:建築の造作材、建具材、家具材、彫刻、漆器木地など 》と書かれているように、建築用の造作材・建具材、彫刻・漆器木地にも使われるらしい。

  ちなみに、『おそまつくん』の6松はというと、《ピクシブ百科事典 六つ子(おそまつくん)》https://dic.pixiv.net/a/%E5%85%AD%E3%81%A4%E5%AD%90%28%E3%81%8A%E3%81%9D%E6%9D%BE%E3%81%8F%E3%82%93%29 によると、おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松 らしい。
唐松(からまつ)は木、ジュウシマツは鳥、おそまつ は形容詞、市松(いちまつ)は模様〔《ウィキペディアー市松模様》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%BE%E6%A8%A1%E6%A7%98 〕で、椴松(とどまつ)も木で《ウィキペディアートドマツ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%84 によると、マツ科だがモミ属 に属するらしい。
チョロ松は《ピクシブ百科事典 チョロ松》https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%AD%E6%9D%BE によると《名前の由来は"チョロチョロとすばしっこい"、また大衆演劇でよく出る"丁稚"の名前から。》だそうで、木でも鳥でもないようだ。
『おそまつくん』の6人は「おそまつ」と「じゅうしまつ」以外は木みたいに思っていたが、木は「唐松(からまつ)」「椴松(とどまつ)」の2本だけだったようで、「黒松(くろまつ)」「赤松(あかまつ)」「紅松(べにまつ)」、それに「五葉松」「姫小松」は『おそまつくん』の6人の中にはいないようだ。


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↑ 二天門 。 右側の建物は仏殿。
《 1867(慶応3)年 二天門より出火、仏殿等延焼焼失
1872(明治5)年 第21代明如上人、二天門を再建
1871年「藩と言わない(1871)、県と言う」廃藩置県の翌年
1873年「岩波(1873)ほど大きくない明六社」明六社設立の前年
に現在の二天門が再建されたらしい。

  (2021.10.21.)

  次回は、明著堂・覚信尼公碑文・石窟・ノバホールそっくり無量寿堂。お骨は落すな。母親のお骨を粗末にするな。ルーバー手摺はストリップ階段と違う。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_4.html 

☆ 2021年 大谷本廟(西大谷)参拝
1.清水五条駅から。円通橋。なぜ郊外に高層ビルを? なぜ大学をオフィスビル型に変えようとするか? 阪大箕面キャンパスはなぜだめなのか。大学に三四郎池・哲学の道・ポルトフィーノの岬は必要でないのか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_1.html
2.親鸞像。普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像が気に入らない「福沢精神」。総門・太鼓楼・仏殿・五葉松。〔今回〕
3.明著堂・覚信尼公碑文・石窟・ノバホールそっくり無量寿堂。お骨は落すな。母親のお骨を粗末にするな。ルーバー手摺はストリップ階段と違う。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_4.html 
4.花噴水。木調縦格子。「着倒れ」京都に行ったら大阪に帰っても食べ物屋がなかった話。事実に反することでも電気ショック療法で認めさせることはできるか。父親はあると常に得するとは限らないという事実がわからないバカ女症候群。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_5.html

☆ 2018年 大谷本廟参拝
1.西本願寺・大谷本廟(西大谷)・北御堂が本願寺派。江戸時代の石橋、円通橋 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_1.html
2.総門・守衛所・仏殿・読経所。自宅に植木がなくても寺社に見にいけばという考え方 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_2.html
3.玄関だけ前に出た建物は変か? 会社の電話に私用の電話を他人の女に毎日かけさせる男 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_3.html 
4.納骨の際、お骨を落とすな。普通に電車に乗るのも恩着せようとする父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_4.html
5.自分が空腹でなければ子供にも食べさせない父親。子供に脂の塊を食わす父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_5.html

☆ 2012年 西本願寺 飛雲閣(ちょっとだけ)
(西本願寺)飛雲閣、ちょっとだけ~「数寄屋造」の建物(2)、及、金閣・銀閣について検討、少々、など https://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html

「慎腹風呂愚」
☆ 2015年 大谷本廟(西大谷)参拝
[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html

☆2016年 大谷本廟参拝
[第443回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【上】、 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_5.html
[第441回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【下】、 御荼毘所。 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.html

☆2017年 大谷本廟参拝
[第570回]《大谷本廟(京都市東山区)参拝。円通橋は江戸時代の石造アーチ橋》https://shinkahousinght.at.webry.info/201708/article_5.html

☆ 2011年 浄土真宗本願寺派築地別院(築地本願寺)
[第54回]《築地本願寺 訪問記~なぜ、浄土真宗の寺には「御朱印」がないか。~千葉・東京の建築(3) 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201108/article_3.html 

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