21年 大谷本廟【1/4】清水五条駅から。円通橋。なぜ郊外に高層ビルを? なぜ大学をオフィスビル型に変えようとするか? 阪大箕面キャンパスはなぜだめなのか。大学に三四郎池・哲学の道・ポルトフィーノの岬は必要でないのか。

[第555回]
  京都市東山区の大谷本廟(西大谷)に参拝してきました。
  大谷本廟は西本願寺(浄土真宗本願寺派 本山 本願寺)の飛び地という扱いらしく、西本願寺と東本願寺は西にあるのが西本願寺、東にあるのが東本願寺で、大阪市の北御堂と南御堂も北側にあるのが北御堂で南側にあるのが南御堂ですが。「西大谷」は西本願寺の大谷が西大谷で、東本願寺の大谷が東大谷であり、西大谷(大谷本廟)と東大谷(大谷祖廟)は方角としては西と東の位置関係ではなく、西大谷(大谷本廟)から見ると北の方角に東大谷(大谷祖廟)があるようです。

  我が家はその浄土真宗本願寺派で、祖父母の遺骨を大谷本廟(西大谷)でお世話になっていますので、ここしばらくは年に1回くらいは訪ねて、多めにお賽銭を入れて、食堂で何か食べるか売店で何か買うかしてお寺の収入にいくらかは貢献して帰るようにしています。
  西本願寺と大谷本廟と両方に行くことができればいいのですが、隣接しているのは清水寺であって、西本願寺は少々離れており、西本願寺・大谷本廟で土日はバスを運行していたようで、今は京阪バスが大谷本廟の近くの「五条坂」バス停から「西本願寺」を経由して「京都駅」に行く便があるように掲示されていましたが、なかなか2か所を訪ねるというのは大変で両方には行けないで帰ることが多くなっています。

  私は小学校の途中まで大阪市東住吉区に住んでいましたので、大谷本廟に行く場合には、大阪メトロ 御堂筋線で「淀屋橋」まで行き、京阪本線に乗って、その頃は「五条」駅だった今の「清水五条(きよみずごじょう)」駅まで行って歩いたように思います。大人にとっては「清水五条」駅から東に真っ直ぐ行くと突き当りにある大谷本廟(西大谷)まではたいした距離ではなく、歩くには「ちょうどいい」くらいですが小学校低学年の子供にとってはけっこう歩いたという印象でした。
  私が小学校の低学年だった1960年代後半くらいにおいては、京阪本線は鴨川沿いの地上を走っていたのですが今は地下を走っており、京阪「清水五条」駅も地下にあります。↓
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  階段を登って地上に出るとすぐ西に鴨川が流れていて、そこの橋が五条大橋のはずですが、
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小学校の遠足だったか中学校の遠足だったかでバスで通った時にガイドさんが、「牛若丸と弁慶が戦った五条の橋」と説明してくれて、橋の欄干に牛若丸と弁慶がやりあう姿の像が見えたので、「そうかあ。ここで牛若丸と弁慶が出会ったのかあ」と感心した・・けれども、落ち着いて考えてみると、その頃にバスが走れるような橋がかかっていたわけはなく、今の橋でないだけではなく、場所も微妙に違うようでした。
  「清水五条」駅から東に伸びる「五条通り」を東に直進した突き当りに見えるのが「大谷本廟」(西大谷)です。↓
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( ↑ 「清水五条」駅を地上に出た所から東を見る。突き当りに見えるのが「大谷本廟」。 右側のホテルは「ホテル アベスト」。後に述べます。)

  小学校の高学年になって北摂地区の阪急沿線に引越したことから阪急で行くことが多くなり、その場合には阪急の「京都河原町」駅まで行って、「京都河原町」駅から歩いた記憶がありますが、阪急「京都河原町」駅から京阪「祇園四条(ぎおんしじょう)」駅は鴨川を橋で渡るだけなので、今なら阪急「京都河原町」駅・京阪「祇園四条」駅で乗り換えて京阪「清水五条」駅まで行って、そこから東に歩きます。
  阪急「京都河原町」駅から東に行くと、八坂神社や円山公園があり、歩くにはいい場所ですから、歩いても悪くはないのですが、歩くと少々あります。

  東京などから行く場合、新幹線で「京都」駅まで行くと、JR奈良線に1駅乗って「東福寺」駅まで行くと、JR「東福寺」駅は京阪「東福寺」駅とぺったんことくっついている乗換に便利な駅で、特に奈良線で奈良方面行きで降りて、京阪の出町柳行きに乗り換える場合は改札口を2つ通るだけで便利です。
ちなみに、JR奈良線は今は電化されています。↓
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( ↑ JR奈良線。「東福寺」駅にて。)
・・・が、YouTubeを見ていたところ、京阪「七条」駅からJR「京都」駅行きの京阪バスが走っていて、京阪で「七条」駅まで乗った客には割引があるとかいう話もあるようなので、次回はそれに乗ってみたいと思います。

  五条通りを東に歩きます。 少し前までは外国人の観光客をけっこう見たのですが、コロナウイルスの問題からか外国人の姿は少ない。
しばらく歩いて左側(北側)に、「若宮八幡宮」があります。 ↓
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「清水焼発祥之地 五條坂」と書かれた石碑が建っています。↓
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前回、来た時は、この道沿いに屋台の店が何軒も出ていましたが、今回は見かけません。
  この通りには「清水焼」か? ・・という感じの陶器を売る店もあって、もしも、外国人の知り合いを連れてきて、屋台の「清水焼」の店で買いたいと言われたなら買わせていいか? ・・というと、値段を見ると安くて、「由緒正しき名のある陶工の作品」・・てことではないだろうなあ・・とは思いましたが、特に高い値段でもないので、「ものすごい名作」とか思い込むとがっかりするかもしれないが、そうではなく自分が使うのに気に入ったものを購入するのなら悪くないのではないか・・と思ったのでしたが、それらの店は今回は見かけません。

  さらに東に進むと正面に大谷本廟(西大谷)の山門が見えてきます。↓
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※ 大谷本廟HP https://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/
 ウィキペディアー大谷本廟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E5%BB%9F

北側に東に伸びる道が2つありますが、大谷本廟に沿って東に伸びる細い方の道 ↓
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と、その北側の広い道 ↓
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この2つの道はいずれも東に進むと清水寺の正面に出るのですが、北側の広い方が「五條坂」で、これまで来た時はいずれも観光客がいっぱいで外国人の観光客も多く、前に来た時にはこの交差点付近でアメリカ合衆国人かと思われる男性から、英語で五條坂はどこかと尋ねられて、「This way.」と指さして教えてあげたことがありましたが、そういう外国人の観光客も今回は見かけません。

  大谷本廟に沿って東に登る細い道は「知る人ぞ知る」道・・というのか、大谷本廟に先祖の遺骨をお世話になっている者などは大谷本廟の帰りに清水寺に寄ってみようかと思い立った時に通るのですが、大部分の観光客は北側の広い五條坂の方を通るので、五條坂は混んでいても大谷本廟に沿って東に行く細い道はすいていて私は好きでした・・・が、2年ほど前でしたでしょうか、台風の被害にあって通行できなくなったとか出ていたことがありましたが、復旧したのでしょうか。
  ・・自然災害は復旧していただくしかないのですが、『本当にあった怖い話』だったかその類の雑誌にこの通りが登場していたのを見ることがあり・・・、最初はそういう「霊のお話」雑誌て面白がって見ていたのですが、うかつにそういうものを読むと、どこも行けなくなってしまうので、あんまり見ない方がいいかもしれないと思うようになりました。
  千葉県市川市八幡に「八幡の藪知らず」という竹藪があり、もしも、入ると出てこれなくなるという言い伝えがあり、『霊の怖いお話』みたいな本には「近づくだけでも霊障を受けて体調を崩す人があるので近づかない方がいい」とか書いてあったのですが、そんなこと言われても、市川市の「八幡の藪知らず」はJR総武線「本八幡(もとやわた)」駅・京成本線「八幡」駅・都営新宿線「本八幡」駅からすぐの場所で、市役所にも近く、市役所と駅の真ん中くらいの位置で、北側の道は国道14号(千葉街道)であり、「近づかないようにした方がいい」なんて言われたら市役所に行けないし、国道14号もクルマで走れない。もっとへんぴな場所ならば「できるだけ近づかない方がいい」というのもできるが、駅と市役所の間みたいな場所に無茶言うな・・・てものです。

  大谷本廟に入る西寄に池があって石橋がかかっています。↓
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↑ 「円通橋(えんつうきょう)」という名前の橋で、池は「 皓月池(こうげついけ)」と言うと現地の説明書きに出ています。
《 長さ約40m、幅約6m、橋桁、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いています。・・・
  安政3年(1856年)12月に竣工し、当時は「奇巧を尽くした石橋」として珍重され・・・》
と書かれています。
  1856年(安政3年)というと、「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」アイグン(愛琿)条約で、ロシアがアムール川以北を清からぶんどり、沿海州を「両国民雑居の地」として2年後の北京条約で沿海州もロシア領としたという1858年の2年前。 明治維新の1868年の12年前。
 石橋というものについては内田康夫『黄金の石橋』(内田康夫『黄金の石橋 新装版』2017.10.30.実業之日本社 ジョイノベルズ )に著述がある。
《 ・・石橋の歴史は確かに興味深いものがある。熊本県矢部町にある「通潤橋(つうじゅんきょう)」――よく観光写真などに出ていたり、季節のテレビニュースで紹介される、橋の真ん中から滝のような放水をするあの橋も、代表的な石橋であることをあらためて知った。
 もっとも、何の知識も持ち合わせていなければ、石橋といったって、ただの「石で出来た橋」ぐらいにしか思わないだろう。木で出来た橋、鉄とコンクリートで出来た橋と大した違いはなさそうだ。
  ところが、石橋はこれといった構造材を使っていないというのだから、「へえーっ」と驚くし、興味も湧く。だいたい、石組みだけでどうやって、あの巨大な橋を支えているのか不思議に思えてくる。それを科学的な知識も計算式もなかったような江戸時代に造ったのだから、いよいよ驚きだ。
  一般的によく知られている石橋というと、通潤橋もそうだが、何といっても長崎の「眼鏡(めがね)橋」だろう。眼鏡橋は1634年に如定(にょじょう)という唐僧によって建造された。350年以上も昔のことだ。いまでも驚くほどだから、橋脚も橋桁もない石の橋に、当時の長崎の人々はさぞかし驚いたにちがいない。ぼくもその原理を考えてみたが、どうやって造ったのか、すぐには理解できなかった。
・・・
「小さな眼鏡橋でも驚くのだから、通潤橋や鹿児島の五石橋みたいな巨大な橋にはなおさら感心させられるよ。・・・」
・・・
「東京に架けられた石橋といえば、まず何といっても皇居の二重橋がそうだろう。それから現在も名前だけは残っているのが万世橋、浅草橋、蓬莱橋、江戸橋、京橋、鍜治橋、呉服橋なんかがそうだ」
・・・ 》
黄金の石橋 新装版 (ジョイ・ノベルス) - 内田 康夫
黄金の石橋 新装版 (ジョイ・ノベルス) - 内田 康夫
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  「石橋」というと、阪急 宝塚線・箕面線「石橋」駅が、最近、「石橋 阪大前」駅に名称変更しましたが、長く、「石橋」と思ってその駅を利用してきた者としては、どうも、違和感があります。石橋駅付近というのは阪大ができて栄えたという場所ではなく、先に石橋駅とその付近の街ができて、阪大は「待兼山芋畑」と言われ、マチカネワニと言われる化石が出土したとか言われる、石橋駅からぞろぞろと歩いて行った先に後から作られた・・というのか、もともとは大阪市内にあったのが、豊中市・池田市・箕面市の境目付近の豊中市で、最寄駅は石橋駅は豊中市・池田市・箕面市の境目付近の池田市の石橋駅という「豊中キャンパス」と、吹田市北部の最寄駅は阪急千里線「北千里」駅の「吹田キャンパス」の2か所に学部により引越して、やはり、大阪市内から箕面市の粟生地区に引越した大阪外大が大阪大と合併して大阪大学外国語学部となった「箕面キャンパス」の3か所になったうちの1か所であり、阪急「石橋」駅付近というのは阪大の「豊中キャンパス」ができたことで開けた街でもなければ阪大の「豊中キャンパス」のために作られた駅でもないのであり、それから考えると「石橋阪大前」駅というのは違和感がある。
  北大阪急行が「千里中央」から北に2駅、延伸して、途中駅の名称を「箕面船場」ではなく、箕面市の粟生地区にある元大阪外大の外国語学部を新しくできる「箕面船場 阪大前」駅の前に高層ビルを作って移転させようという計画があるそうで、それで「箕面船場阪大前」という名称の駅ができたなら、阪大は「箕面船場」にあるものと思われてしまうおそれがあるので、それで「石橋」も「石橋阪大前」にしようということなのか?  さらに、大阪モノレールに阪大豊中キャンパスの南東の隅に「柴原」という駅が出来たと思ったら、最近、それが「柴原阪大前」駅と駅名を変更したらしく、このままでは阪大豊中キャンパスの「最寄駅」の座は阪急宝塚線・箕面線「石橋」ではなく大阪モノレール「柴原阪大前」という印象が定着してしまうのではないか、阪大豊中キャンパスに行く者は、これまでは「石橋」駅から歩いていたのが、阪急「蛍池」駅で大阪モノレールに乗り換えて「柴原阪大前」駅まで行きよるようになるんやないやろか・・と心配したか。
  元大阪外大の大阪大外国語学部である箕面キャンパスは、前はバス便しかない場所だったが、最近、大阪モノレール「彩都西」駅が至近の位置にできたことでもあり、せっかく、大阪市内から箕面市に土地を確保して作ったのに、なんで、高層ビルを作って引越すのか、どうもよくわからん。「彩都西」駅までの大阪モノレールも、「万博中央公園」から分岐で、大阪市内から行くには北大阪急行「千里中央」か阪急千里線「山田」で乗り換えないと行けないわけで、それなら、モノレールではなく阪急千里線を延伸させたらどうなのだろうか・・とか思ったが。 北大阪急行にできる「箕面船場阪大前」駅の前に阪大外国語学部として高層ビルを建てるというのだが、なぜ、大学の建物をオフィスビルみたいな高層ビルにしないといけないのか。 広い敷地の中に建物がいくつか建つという「キャンパス」方式ではいけないのか?
  東京の御茶ノ水の明治大学は、かつては広い敷地の中に建物が建つという「キャンパス」方式のものだったが、今では高層ビルに変わり、入口には「××▽▽、 ◇◇☆☆ の〇名は立入を禁止します」とか書いた札が掛かっていたが、なんだかなあ・・・。かつては、旧帝大系国立大学とか早稲田大・慶應大・明治大みたいな総合大学は誰でも平気で構内に入ることができて、私なんかも面白がって大学巡りをしたものだったが、入られたくないのだろうか。かつて、40年近く前だが、御茶ノ水のあたりに行った時、明治大学の構内で、ひもをまわして「ぴっぴっ、ぴっぴっ」とか笛ふきながら電車ごっこみたいのをやっていたお兄さんがいたが、あれは何をやっているのだろうか・・と思ったのだが、もしかすると、デモの練習かな・・と思ったが、なんかあんまり意味のないことをやっているような感じがしたけれども、それでも、別にやりたい人がやるならいいのじゃないか・・〔少なくとも、「原理研と浄霊ばっかりの慶應」よりもいいのとちゃうかあ~あ・・〕とか思ったのだったが、大学の建物をオフィスビルみたいな高層ビルに変えたがる人というのは、ああいうのをやられたくないのだろうか?  別にやったっていいのじゃないか。私は特にやりたいと思わなかったけれども、しかし、「電車ごっこ」やる人があったら誰か迷惑するかあ? 別にやりたい人はやったっていいのじゃないのかあ? ・・なんて言うと、「ラディカル」とか、「慶應タイプ」あるいは「右翼系慶應学生」「右翼系慶應」から言われるおそれがあるから怖いのだが・・ほんと、怖いんだよ・・右翼学生というのは空手とか使いよったりするし・・怖いで、ほんま・・、こういうことを言うと「ラディカル」なのか? むしろ、私がここで言ったように、大学というものは高層ビル形式のものではなく、広い敷地の中でベンチに腰掛けて談笑したり議論したりできるような、そんな「キャンパス方式」の方がいいのではないのか、オフィスビルみたいな建物というのは、早稲田大とか明治大御茶ノ水地区とか、それまでから都心にあった大学が校舎が不足した場合に周囲の土地建物を購入するか借りるかして付録の校舎として使用する場合はいいが、積極的にオフィスビル形式にすべきものではないのではないか・・と言うと、それだけのことで「ラディカル」とか言って攻撃しようとするようなそういうやつ、そういう「慶應タイプの右翼」の方こそ「病的」ではないか!?! まず、こちらはせいぜい「リベラル」くらいのつもりでいると、それは「慶應タイプの右翼」からすると「ラディカル」になるらしく、「慶應リベラル」というのは「慶應右翼」を彼らは「リベラル」と称しているようだったのだが、だから私は「慶應リベラル」などという言葉はまったく信用していないのだが、自分が気に食わない相手はともかく「ラディカル」とか罵るという教養水準の低い「慶應タイプ」のテアイの手法というのは感心せんなあ・・・。「慶應タイプ」にはそういう「病的」な人間が多いが、自分が気に食わない相手には「ラディカル」とか何とかレッテルを貼って攻撃しようとする人間、「モラトリアム人間病」とか「病名」レッテルを貼って否定しようとする””小此木啓吾症候群”” というのは、こういう連中こそ、民主主義に敵対する者どもではないかと思うのだ。
  ロンドンのハイドパークには「スピーカーズコーナー」と言って、そこでは「女王の悪口以外は何を言ってもいい」という場所で、「何を言ってもいい」からにはそれに対する反論もまた「何を言ってもいい」のであるが、あくまで言論の自由を守るという場所であって殴り合いとかはやってはいけない場所であるが、大学という所から「スピーカーズコーナー」をなくしたいと思う人が大学をオフィスビルみたいな高層ビルに変えようとしているのだろうか・・・。「慶應タイプの右翼学生」からすると「スピーカーズコーナー」のような場所は失くさないようにすべきだ・・なんて言うと、それだけでも「ラディカル」ということになるらしい。こちらとしてはせいせい「リベラル」くらいのつもりでいても。要するに自分たちの主張と異なるものはすべて「ラディカル」であり、自分たちの主張とは異なる者の言論もまた言論の自由として認めるべきだ・・と言うと、それだけで彼ら「慶應タイプ」にとっては「ラディカル」なのだ。そういう彼らの態度を彼らは「思考が柔軟」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神」とか言うのだ。なんでやねん!?!・・と思うが、「なんでやねん」と思う者は「ラディカル」だとレッテル貼られる危険があるから、もしくは「モラトリアム人間病」等々と「診断」されるおそれがあるから怖いこわい怖いこわい!!!
  大学から「スピーカーズコーナー」を取り除きたいと考える者というのは、それだけ、ファッショ的傾向のある精神構造の人間だと考えていいだろう。 夏目漱石『三四郎』では小宮豊隆がモデルらしい三四郎が東大の本郷キャンパス内の三四郎池のあたりを歩く描写があり、京都には京大の哲学科の教授の西田幾多郎が思索にふけりながら歩いたと言われる「哲学の道」がある。中公バックスの『世界の名著 ニーチェ』では前から書名が書かれた頁をめくるとイタリアのポルトフィーノの岬の写真が掲載されているが、そこはニーチェが思索にふけり『ツァラトゥストラはこう語った』を考えた場所だそうだ。大学というものは、そういった場所の中に建物が建つというのが本来ではないかと思うのだ。大阪大学外国語学部(元 大阪外大)は箕面市の粟生地区にせっかくいいキャンパスを設けていて、少々便利は悪いとは思われたが、大阪モノレール彩都線「彩都西」駅が至近の位置にできて、大阪モノレールで、箕面キャンパス「彩都西」~吹田キャンパス「阪大病院前」~豊中キャンパス「柴原阪大前」 と阪大の3キャンパスは大阪モノレールで結ばれるようになった・・と思ったら、せっかくの箕面キャンパスをオフィスビルみたいな高層ビルに変えてしまおうとは・・なぜ、そんなことをしたがるのだろうか。 箕面市でも「箕面萱野」「箕面船場」駅から徒歩圏で土地を確保して高層ビルではなく広い敷地の中に建物がいくつか建つという「キャンパス形式」の大学用地を確保することは可能ではないか・とも思えるのに、高層ビルにしたがる・・というのは何の目的なのか
※ 《YouTube-リヒャルト・シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30》https://www.youtube.com/watch?v=hfi4Xtsf2tk
西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書) - 藤田 正勝
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  だいたい、箕面市みたいな所になんで高層ビルを作らなきゃならんのか。船場繊維団地というのは、箕面市の稲だったか西宿だったかそういう場所まで引越せば広い土地を確保できるということで、大阪市内の「船場」と言われる地域から引越したはずなのに、高層ビルを建てるのなら箕面市に引越さなくても大阪市内の「船場」でいいことではないのかと思われる。東京に住んで思ったのは「東京には山がない」という点だった。高村幸太郎の嫁さんの智恵子さんは「東京には空がない」と言ったというが、たしかに福島県のきれいな空を見ると東京の空は空じゃないと思う気持はわかる・・が、大阪に住んでいた者からすると、大阪平野はそれほど広くなくて、北西部に六甲山地・北部に老坂山地・東部に生駒山地・金剛山地・南部に和泉山脈と西の大阪湾以外は山で囲まれているので、大阪平野のどこにいても、少し移動すると山が見えるのが、東京ではなかなか山が見えない。平野が広いのは良さそうでそうでもない。「山が見える」のはいいと東京に住んで思った。そして、北側の「山が見える」場所が箕面だったはずなのに、なぜ、そこに高層ビルなんか作りたがるのか。
  大阪外大にしても、自然豊かな広い敷地を確保しようということで箕面市の粟生地区に引越したはずなのに、なんでまた、高層ビルになんか転居しようというのか、やってることに一貫性がない、やってることが支離滅裂ではないか。
  目的がよくわからない高層ビルが全国各地に作られているが、もしかして、各都市に、最低1つ以上、高層ビルを作らなければならない・・という「闇のお達し」でも出されたというようなことでもあるのか?
  ・・で、「石橋阪大前」駅という名称には違和感を覚える。「石橋(阪大豊中キャンパス前)」ならまだわからんこともないが。

  大阪府豊中市と池田市と箕面市との境目付近の豊中市の「石橋」駅(現「石橋阪大前」駅)付近には、由緒ある石橋があるのか? ・・とけっこう何十年も前から考えてきたのだが、今に至るまでそれらしいものを見つけることはできない。

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  入口右手には「大谷本廟」と彫られて石碑が建っている。
    (2021.10.21.)

  次回は、 親鸞像。普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像が気に入らない「福沢精神」。総門・太鼓楼・仏殿・五葉松。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_3.html 


☆ 2021年 大谷本廟(西大谷)参拝
1.清水五条駅から。円通橋。なぜ郊外に高層ビルを? なぜ大学をオフィスビル型に変えようとするか? 阪大箕面キャンパスはなぜだめなのか。大学に三四郎池・哲学の道・ポルトフィーノの岬は必要でないのか。〔今回〕
2.親鸞像。普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像が気に入らない「福沢精神」。総門・太鼓楼・仏殿・五葉松。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_3.html 
3.明著堂・覚信尼公碑文・石窟・ノバホールそっくり無量寿堂。お骨は落すな。母親のお骨を粗末にするな。ルーバー手摺はストリップ階段と違う。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_4.html 
4.花噴水。木調縦格子。「着倒れ」京都に行ったら大阪に帰っても食べ物屋がなかった話。事実に反することでも電気ショック療法で認めさせることはできるか。父親はあると常に得するとは限らないという事実がわからないバカ女症候群。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202110/article_5.html

☆ 2018年 大谷本廟参拝
1.西本願寺・大谷本廟(西大谷)・北御堂が本願寺派。江戸時代の石橋、円通橋 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_1.html
2.総門・守衛所・仏殿・読経所。自宅に植木がなくても寺社に見にいけばという考え方 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_2.html
3.玄関だけ前に出た建物は変か? 会社の電話に私用の電話を他人の女に毎日かけさせる男 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_3.html 
4.納骨の際、お骨を落とすな。普通に電車に乗るのも恩着せようとする父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_4.html
5.自分が空腹でなければ子供にも食べさせない父親。子供に脂の塊を食わす父親 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201810/article_5.html

☆ 2012年 西本願寺 飛雲閣(ちょっとだけ)
(西本願寺)飛雲閣、ちょっとだけ~「数寄屋造」の建物(2)、及、金閣・銀閣について検討、少々、など https://tetsukenrumba.at.webry.info/201208/article_3.html

「慎腹風呂愚」
☆ 2015年 大谷本廟(西大谷)参拝
[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html

☆2016年 大谷本廟参拝
[第443回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【上】、 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_5.html
[第441回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【下】、 御荼毘所。 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.html

☆2017年 大谷本廟参拝
[第570回]《大谷本廟(京都市東山区)参拝。円通橋は江戸時代の石造アーチ橋》https://shinkahousinght.at.webry.info/201708/article_5.html

☆ 2011年 浄土真宗本願寺派築地別院(築地本願寺)
[第54回]《築地本願寺 訪問記~なぜ、浄土真宗の寺には「御朱印」がないか。~千葉・東京の建築(3) 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201108/article_3.html 

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