「野菊の墓文学碑」と矢切の渡【6/6】「矢切の渡」と江戸川。『春の潮』とともに読むべき『野菊の墓』。いいかげんな「解説」を書く文学部教授と権威主義。『野菊の墓』では押しつぶされた「自我」の主張をする『春の潮』

[第554回]
  「野菊の墓 文学碑」訪問の6回目ですが、伊藤左千夫『野菊の墓』には「矢切の渡し」についてもわずかに記述があります。
《 僕の家というは、松戸から二里ばかり下がって、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。矢切の斎藤といえば、この界隈の旧家で・・・ 》
というから、「野菊の墓 文学碑」やその道路を隔てた北側の「野菊苑」のあたりは、その条件に該当します。


《 茄子畑というは、椎森(しいもり)の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千菜畑(せんざいばたけ)。崖の上になっているので、利根川はもちろん中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺も見える。東京の上野の森だというのもそれらしく見える。水のように澄み切った秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕ら二人が立っている茄子畑を正面に照り返している。あたりいったいにシンとしてまたいかにもハッキリとした景色、われら二人は真に画中の人である。
「マアなんというよい景色でしょう」
民子もしばらく手をやめて立った。・・ 》
  ここで「利根川」というのは関宿から銚子と波崎の間に流れる利根川のことではなく、関宿から野田の西、流山の西を通り、松戸と三郷の間を通って市川市と江戸川区の間を通って東京湾に注ぐ「江戸川」のこと。
  「中川」は今現在、荒川放水路の東側に首都高速道路の足元の細長い土台みたいので区切られている「中川」のことではない。現在、単に「荒川」と呼ぶことが多い「荒川放水路」ができたのは、《コトバンク 荒川放水路》https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF-27698 の「日本大百科全書(ニッポニカ)「荒川放水路」の解説」によると、現在では単に「荒川」と呼ぶことが多い「荒川放水路」は、1911年(明治44年)に着手、1930年(昭和5年)年に完成したもの。
  現在、「中川」「新中川」「旧中川」という名称の川は地図を見ると4つの部分からなっており、
(1) 埼玉県吉川市の西側から南下して葛飾区の金町と亀有の間を南に流れ、京成「高砂」駅と「青砥」駅の間を流れて西にぐにゃぐにゃ蛇行して京成押上線「四ツ木」駅とJR総武本線「小岩」駅の中間あたりで荒川放水路の手前までの部分。
(2) そこから荒川放水路尾に合流はせずに細長い堤防だけの土地・・首都高速道路の足台のためにあるのか?・・みたいな土地で区切られて南下して江戸川区の東京メトロ東西線「西葛西」駅の南西のあたりでその「区切り」がなくなって荒川放水路の合流する部分。
(3) 京成「高砂」駅の南西、「青砥」駅の南東で中川と分岐して南に流れて妙見島の北あたりで旧江戸川に合流する「新中川」
(4) かつては、荒川放水路で遮断されることなく、JR総武線「平井」駅の西、東武亀戸線「東あずま」駅・「亀戸水神」駅の東を通って今は江東区東砂で荒川放水路に合流しているけれども、かつては単独で東京湾に注いでいたと思われる「旧中川」
  この4つに分かれているけれども、伊藤左千夫が『野菊の墓』を「ほととぎす」に発表したのは明治39年(1906年)1月ですから、まだ、荒川放水路は建設に着手されていなかった時期、荒川放水路の工事が着手されるより5年前なので、その時点での中川は(1)+(4) で、(2)は、なんで、あれはあるのだろうか? と最初、疑問に思ったのですが、もともとの中川を分断するような経路で荒川放水路が人工的に造られた為、鉄道なら立体交差するところでしょうけれども、川は立体交差できないので、そこで合流するか、ぶつかる手前で新しく人工的に別の流れを作るかで、中川の場合は荒川放水路とぶつかる手前の所から南下する新たな流れとして(2)を人工的に造り、そこからの元からの流れを「旧中川」と呼んで(4)になった、ということのようです。
  伊藤左千夫『野菊の墓』が書かれた時点では(2)はなく、作中で言う「中川」は(1)+(4)のことですが、松戸市下矢切のあたりから西を見て見えるかどうか・・という中川だと位置から考えて(1)の方でしょう。
  「中川」て、なんで、中川て言うのだろう・・と思ったのですが、かつては荒川放水路はなく、荒川の下流部分である隅田川と、かつては利根川だった江戸川の真ん中あたりを流れる川だから「中川」だったのではないでしょうか。

  『野菊の墓』の舞台である矢切の岡の上から西に行ったあたりの「矢切の渡(わたし)」は今も観光用として存在するので、そのあたりまで行ってみました。

  「野菊の墓 文学碑」と「野菊苑」との間の道は、西側で「野菊の墓 文学碑」と西蓮寺の西側に沿う道が坂を登るように南に進みます、この道を南に行って左折する(東に行く)と西蓮寺の入口の南側に行きます。
  この登る道と分かれて坂を下る道があり、こちらを行きます。
  途中、右に曲がる細目の道もありますが、クルマの場合は道なりに進みます。 道なりに進むと、南北のクルマが通れる道にぶつかりますが、ここを右折、北に曲がります。
  北に進むとすぐの四辻で左折、西に曲がって直進します。矢切橋という橋で川を渡りますが、この川は江戸川ではなく坂川という川です。さらに西に真っ直ぐ進むと、江戸川の堤防の手前で江戸川に沿って南北に走る道にぶつかります。
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↑ こんな堤防が続いています。
  堤防の上に、写真の左上、東屋(あずまや)とでもいった休憩所があります。

  「野菊の墓 文学碑」の方から来た道と堤防に沿って南北に走る道とがぶつかった三差路を右折、北に曲がるとすぐに、京成バス「矢切の渡し」バス停 と 「野菊の蔵 やきり観光案内所」がありますが、↓
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↑ 京成バス「矢切(やぎり)の渡し」バス停
  「矢切」は「やぎり」なのか「やきり」なのか。 《ウィキペディアー矢切》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%88%87 によると、《 公称地名等はいずれも「やきり」と清音で読むが、駅名(矢切駅)、バス停留所名は「やぎり」と濁音になる。後述の歌謡曲『矢切の渡し』も「やぎりのわたし」と読ませているため、濁音で発音されることが多くなった。》ということです。この京成バス「矢切の渡し」バス停も「Yagiri-no-Watashi」と書かれているので、「やぎり」派のようです。
  又、「やぎりのわたし」は「矢切の渡」なのか「矢切の渡し」なのか。これも両方見かけるのですが、この京成バス「矢切の渡し」バス停は「渡し」派のようです。
  「野菊の墓 文学碑」の東側、県道1号(松戸街道)の京成バス「下矢切」バス停は市川と松戸の間を走っているバスらしいので、松戸駅からも市川駅からも行けるようですが、こちらの「矢切の渡し」バス停は松戸駅からで、この「矢切の渡し」バス停が終点らしく、松戸側からだけで市川側からのバスはここにはないようです。 又、「土・日・祝日のみ運行」で平日はないらしく、土・日・祝日は9時台から16時台まで毎時1本。 毎時、同じ分に出るわけではないようですが、「矢切の渡し」の舟の運行時刻に合わせてあるのかもしれませんね。
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「野菊の蔵 やきり観光案内所」
右のハリボテは『野菊の墓』の政夫と民子なのでしょう。
残念ながら、訪問時は閉まっていました。 「8月は閉店します」と書いた紙が貼ってあります。なにしろ、8月は暑いもんで、京成バス「下矢切」バス停からここまで、もしくは、北総鉄道「矢切」駅からここまで歩いてこようという気持になる人があんまりないのかもしれません。
  『野菊の墓』にも描かれているように、江戸川の堤防の東側は低地が続いて田圃になっており、途中から岡になって岡の上に人家が並んでいるようになっており、この京成バス「矢切の渡し」バス停付近は周囲は田圃ばっかり・・ですから、「矢切の渡し」に来る人がなければ店やっても客は来ないのかもしれません。
  「野菊の墓 文学碑」や「野菊苑」の方を見ると、こんな感じ ↓ ですから。
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↑ 京成バス「矢切の渡し」バス停の周囲というと西側は堤防で東側は「田畑ばっかり」ですから。

  この京成バス「矢切の渡し」バス停と「野菊の蔵 やぎり観光案内所」の少し北に「矢切の渡し専用駐車場」があります。↓
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  堤防に沿って南北に走る道を南に行くと、堤防を登る階段があります。
  階段の下には、「矢切の渡し 松戸市観光協会」と書かれたでっかい縦長の看板があり、「やきり観光案内所 野菊の蔵」と書かれた札が貼られた建物がありますが。「やきり観光案内書 野菊の蔵」はこの建物ではなく、これより少し北の ↑ で写真を掲載した建物で、この建物は何かというと・・→便所です。
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  このあたりから北に河川敷を利用したゴルフ場があります。↓
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↑ 地図を見ると、「江戸川ラインゴルフ 松戸コース」https://booking.gora.golf.rakuten.co.jp/guide/disp/c_id/520476/?scid=s_kw_y_sa_gc_kanto_chiba_0125358 というゴルフ場 らしく、一応、松戸市上矢切にクラブハウスはあるようです。クラブハウスには対岸の金町駅の方が松戸駅より近いようです。
  このゴルフ場の南側を川に向って河川敷を進む道があるので行くと、↓
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↑ 右手前に「矢切の渡し」と縦に書かれた札が立っており、奥に「矢切の渡し」と横書きになった石碑が見えます。
  ↓ ↓ ↓
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  ↓ ↓ ↓
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 よく見ると、右の横書きの石碑には「矢切の渡し」と書かれた右下に、それより少し小さい字で「細川たかし 」と書かれています。
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この手前で雑草を刈っているおじさんがいて、「舟に乗りますか」と言うので、今回は「野菊の墓 文学碑」を訪問しにきたのであって、「矢切の渡し」は『野菊の墓』にも登場するので、セットで見にきたので「いえ、乗りません。見にきただけです」と言ったのですが、「矢切の渡し」の舟って、東京の隅田川あたりを走っている観光船みたいのかと思っていたら、もしかして、↑ の写真のあれ?
あんな舟で江戸川なんて渡れるの?・・と思いそうだけれども、このあたりの江戸川は少なくとも訪問した日においては穏やかで、あの程度の舟でも十分渡れるだろうという感じでした。行徳橋・新行徳橋あたりの江戸川を思い浮かべていると、このあたりの江戸川はずいぶんとのどかで静かです。
※ 松戸市観光協会 矢切の渡し https://www.matsudo-kankou.jp/yakirinowatashi/
乗せてもらえば良かったかと帰ってから思ったが、まあ、しかたがない。


  「矢切の渡し」という歌は細川たかし が歌った歌だと思っていたのですが、《ウィキペディアー矢切の渡し(曲)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%88%87%E3%81%AE%E6%B8%A1%E3%81%97_(%E6%9B%B2) によると、
《 「矢切の渡し」(やぎりのわたし)は、石本美由起の作詞、船村徹の作曲による演歌。1976年にちあきなおみのシングル「酒場川」のB面曲として発表され、1982年にはちあきなおみのA面シングルとして発売された。翌1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが最高のセールスとなった。》
ということで、最初に歌ったのは ちあき なおみ らしい。
 ウィキペディアによると、↑ の写真の「矢切の渡し」と書いてその右下に「細川たかし ◇ ・・」と書かれているのは、
「細川たかし識(しるす)、昭和59年(1984年)3月吉日」とある》
らしい。
※ 《YouTuve-ちあきなおみ - 矢切の渡し》https://www.youtube.com/watch?v=ipu6GjHeJXk
※ 《YouTuve-細川たかし 矢切の渡し 【愉快にオンステージ】》https://www.youtube.com/watch?v=rzN2TsnVTLE

  なお、伊藤左千夫が『野菊の墓』で《僕の家というは、松戸から二里ばかり下がって、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。矢切の斎藤といえば、この界隈の旧家で・・・ 》と書いて「ほととぎす」に発表したのは 1906年(明治39年)、演歌「矢切の渡し」は1976年(昭和51年)に ちあき なおみ のB面、1982年(昭和57年)に ちあき なおみ のA面、1983年(昭和58年)、細川たかし 他で歌われ、「矢切の渡し 細川たかし識(しるす)」の石碑は1984年(昭和59年)。
並べてみると、
1964年(元治1年) 伊藤左千夫 生まれる。
( 1968年(明治1) 明治維新 )
( 1904~1905年 日露戦争 )
1906年(明治39年) 伊藤左千夫『野菊の墓』
1913年(大正2年) 伊藤左千夫 没
( 1914年~ 第一次世界大戦 )
( 1964年 東京オリンピック )
1965年(昭和40年) 「野菊の墓 文学碑」完成。
( 1970年(昭和45年) 大阪万国博覧会 )
1976年(昭和51年) 「矢切の渡し」ちあきなおみ のB面
1982年(昭和57年) 「矢切の渡し」ちあきなおみ のA面
1983年(昭和58年) 「矢切の渡し」細川たかし
1984年(昭和59年) 「矢切の渡し 細川たかし識」の石碑
( 1985年(昭和60年) 阪神タイガース優勝、にゃんこ 唯一の日本一♪ )
・・・ということで、伊藤左千夫『野菊の墓』が書かれた時点では、「矢切の渡し」の歌は細川たかし も ちあきなおみ もまだ歌っていなかった。

  北総鉄道「矢切」駅は地下にプラットホームがあって「矢切」駅付近では電車は地下を走っているのだが、これは江戸川を橋で超えるか地下をくぐるかで、地下をくぐってきたことから「矢切」駅も地下にプラットホームがあるのかと思ったら、地図を見るとそうではない。「矢切」駅の西、松戸市栗山 の栗山浄水場の北西のあたり、「野菊の墓 文学碑」や西蓮寺 の南のあたりで地上に出て江戸川は橋で超える。江戸川の西では「新柴又」駅から京成「高砂」駅まで地上、かつ大部分を高架で走っているようだ。
  なぜ、そうなったのかは、この「矢切の渡し」のあたりに来て、東側を見てわかった。ほら、↓
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  伊藤左千夫『野菊の墓』にも、
《 僕の家というは、松戸から二里ばかり下がって、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。・・》
と書かれているように、江戸川の東、田畑になっているあたりは低地で、その東に「小高い岡」になっている地域があって、そのあたりには人家が並んでおり、江戸川を橋で超えて田畑になっているあたりはそのままの高さで地上を走って東に進むと「小高い岡」にぶつかる所で地下に入るようになるようだ。だから、地面の高さに合わせるのではなく、江戸川を越える高さ、江戸川の西側では高架で走る高さでその高さの方に合わせて、線路にあまり高低差ができないように敷設すると「矢切」駅付近は地下になるということのようだ。

  江戸川の右岸(西側)には、JR「金町」駅の南側、京成金町線「柴又」駅の北東に、金町浄水場という大規模な浄水場があるのが知られているが、左岸(東側)にも、「矢切の渡し」より南、北総鉄道の線路のすぐ南、住居表示では松戸市下矢切に「矢切取水場」があり、その東に坂川を隔てて、住居表示では松戸市下矢切と松戸市栗山にまたがって「野菊の里 浄水場」がある。この付近では「野菊」が愛称につけられるらしいが、よくわからないのは、「野菊の里浄水場」の東側に少しだけ間隔を置いてもうひとつ、「栗山浄水場」が松戸市栗山 にあるのだが、「野菊の里 浄水場」と「栗山浄水場」とはどういう役割分担をしているのだろうか。

  第2回目https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_2.html で、市川の方から県道1号(松戸街道)を北に進んでくると、北総鉄道「矢切」駅の南で、東側にマルエツ 矢切駅前店、西側にサイゼリア 松戸矢切店 があることを述べたが、そのサイゼリア 松戸矢切店のすぐ南側の道を西に直進すると、↓
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↑ 「なんか、おしゃれ~♪」というのか、「なんだ、これは?」の方か。
建築探偵団としては、こういうのがあると、クルマを停めて何物か確認せざるをえない・・のだが、これが栗山浄水場
なかなか、おしゃれ~~て感じだけれども・・・、
見ようによっては・・太くて短い ち〇ぽ みたい・・なんてこと言ったら問題あるか・・・

( ↑ マーカーが「栗山浄水場」。その左にあるのが「野菊の里 浄水場」で、さらに左にあるのが「矢切取水場」。)

  ところで、伊藤左千夫『隣の嫁』について、これは断っておきたいと思ったことがあるのだが、「ホームスクール版 日本の名作文学」の『野菊の墓』(偕成社)に所収の「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」に書かれている文章、
《 『隣の嫁』は、明治41年(1908年)1月、「ホトトギス」にのった。省作(しょうさく)という、百姓の不得手なむすこが、隣の嫁であるおとよさんに、少年らしい興味をおこす話である。おとよさんは「女としてはからだがたくましすぎるけれど、さりとてけっしてかどかどしいわけではない。白い女の持前で顔は紅(くれない)に色どってあるようだ。くちびるはいつでも『べに』をすすったかとおもわれる。たくさんな黒髪をゆたかにいちょう返しにして帯も半襟もきのうとはかわってはなやかだ」こんな書きぶりに、省作の、女にたいする憧憬のありたけがうかがわれる。「おとよさんがいくらえい女でも、ぬしある女、人の妻」などという表現に、世間ずれのしていない、あきらめのいい、善良な左千夫が感じられるのが面白い。》
などと書かれているが、この小説、そんな話じゃないからね。
  それから、「小学上級~中学生向」という「ホームスクール版 日本の名作文学」では、一続きの話を前編を「隣の嫁」、後編を「春の潮」として伊藤左千夫は同じ年の1月と4月、3か月の間をはさんで発表して、伊藤左千夫自身が『春の潮』に「隣の嫁続編」と記載したにもかかわらず、「ホームスクール版 日本の名作文学」シリーズでは前篇の『隣の嫁』だけ掲載して、より本体である後編の『春の潮』の方を掲載しなかったというのは、それは、隣の嫁を強奪したかのような話は「小学上級~中学生向」にはふさわしくないと思って掲載しなかったのだろうけれども、後編で本体の『春の潮』もそういう話じゃないからね。
  文庫本の「解説」を読んだ時、「え? これ、そういう意味か~あ?」と疑問を感じることはよくある。又、けっこう長い小説を一通り読み終えた後、巻末の「解説」を読んで、その「解説」を読まなきゃよかったかな・・と思う時もある。たとえ、適切な「解説」であっても、小説・文学はその文学をのものを読者が読んで読者が自分自身で考えたこと・思ったことを大事にするべきであって、他の誰かにこれはこうだと言われると、かえってよくないという場合もある。もしも、「解説」を読むのなら、その小説・文学を読み終えた直後に読むのではなく、その小説・文学を読み終えてから後、1か月以上経ってから「解説」を読むようにした方がいいのではないか・・と思ったりしている。
  「推理小説作家」の内田康夫は、内田康夫の小説の多くに山前譲(ゆずる)という人が「解説」を書いていて、内田康夫は山前譲氏のことを「私の小説に解説を書いてくださっている・・」と感謝の言葉を述べているのだけれども、実際のところ、山前譲氏の「解説」は内田康夫の小説には他にこんなものがありますよお・・という紹介だけでしかなく、解説というほどの内容ではない。だから、作者の内田康夫も、おそらく本音では物足らないようで、多くの小説に「作家というものは自分の小説に解説は書かないものらしいが」という断りを入れた上で「自作解説」とか「あとがき」を書いている。伊藤左千夫『隣の嫁』も、伊藤左千夫が生きていたら、「それ、違うよ」と言いたくなるのではないかと思う。山前譲氏の「解説」は他にこんな小説がありますよおという紹介でしかない人畜無害なものだから、違うも違わないもないのだが、「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」の『隣の嫁』についての文章は「明らかに違う」と思う。

  『隣の嫁』と『春の潮』は伊藤左千夫がはっきりと『春の潮』は「隣の嫁続篇」と記載した小説で、それも、何年も間をおいて続篇を書いたというものではなく、間は3か月でしかないもので、しかし、同じ題名ではなく別の題名にしているので、一体としてのものではあるけれども、個々の独立性もあるという小説と考えてよいと思うのだ。場所は千葉県の成東から東金のあたりにかけてで、雄蛇が池も登場する。『野菊の墓』は舞台は同じ千葉県といえども西の方、松戸市と市川市の境目あたりの松戸市で場所は異なるが、『野菊の墓』の話が元から矢切のあたりでの話なのか、伊藤左千夫が生まれ育った成東あたりの話を、一時期、伊藤左千夫が過ごしたことがある矢切に舞台を変えて書いたものなのかもよくわからないが、『野菊の墓』と《『隣の嫁』『春の潮』》は、いずれも明治の終わり頃、日露戦争頃の千葉県の農家の結婚事情を背景にして書かれたもので、『隣の嫁』は部分的に『野菊の墓』の続編みたいな性格もあり、『春の潮』は『野菊の墓』で失敗してしまった男が、今度は失敗してなるものかと「春の潮」のごとく奮起する話でもあるのだ。
  『野菊の墓』では男は数えで15歳、女は数えで17歳。満年齢だと「13歳ないし14歳」と「15歳ないし16歳」で二人とも10代で若い。 女の方が2つ年上だが、二人とも思い合うのだが、家族はそれほどとまでは思っていなかったようで、政夫の母親はまだ10代で学校に行かないといけない息子を千葉市の中学校にやるとともに、2つ年上の民子には、政夫と結婚させるつもりはないと断言して実家に帰し、いきさつを知らない民子の実家では民子を別の農家の嫁にやり、民子は断りきれずに嫁に行ったものの政夫のことを忘れることができず、結婚先で妊娠するものの6か月で流産して、その後、肥立ちが悪く他界してしまう。 『隣の嫁』の おとよさん と省作もまた、いずれも10代で、省作は19歳、「隣の嫁」の おとよさんも19歳、省作の家に働きに来ている おはま は14歳。数え年か満年齢かは記載されていないが、『野菊の墓』が数え年で書かれていることを考えて、これも数え年だとすると、省作と おとよさん は満年齢だと「17歳ないし18歳」、おはま は「12歳ないし13歳」ということになる。 「隣の嫁」の「おとよさん」は決して「熟女」ではなく、「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」が書くような《隣の嫁であるおとよさんに、少年らしい興味をおこす話》ではないし、《省作の、女に対する憧憬(しょうけい)のありたけ》の話ではない。
  又、《省作という、百姓が不得手な息子が、》と「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」は書いているが、省作は「百姓はやアだなあ・・・・。ああばかばかしい、腰が痛くて起きられやしない。あアあア」と百姓の息子でありながら言うが、百姓の仕事をしないわけではなく、《省作はからだは大きいけれど、この春 中学を終えて今年からの百姓だから、何をしても手回しがのろい、昨日の稲刈りなどは随分みじめなものであった。だれにもかなわない。十四のおはま にも危うく負けるところであった。実は負けたのだ。・・》というように、百姓の仕事をやらないわけではなく、学校に行っていたから、だから、百姓の仕事は初心者であり、「百姓はやアだなあ」というのは、他の仕事に就きたいという気持がありながら百姓しないで何をやるという親の言い分に逆らうこともできずに百姓を手伝っているが、兄がいて百姓である家は兄が継ぐことになっているという男である。伊藤左千夫は最初、明治法律学校(現 明治大学)に進学したらしいが、東京の大学に進んだ伊藤左千夫自身の経験から、百姓の息子に生まれながらも百姓以外の道に進みたいという気持がある男を省作に描いていたのではないか。
  おとよさん と省作は同年齢だけれども、百姓の仕事は女でもおとよさん の方ができるが、『春の潮』で
《父は依然として朝飯夕飯のたびに、あんなやつを家へ置いては、世間へ外聞が悪い、早くどこかへ奉公にでもやってしまえという。母は気の弱い人だから、心におとよをかわいそうと思いながら、夫のいうことばに表立って逆らうことはできない。
「おとよを奉公にやれといったって、おとよの替わりなら並みの女二人頼まねじゃ間にあわない」
 いさくさなしの兄はただそういったなり、そりぁいけないとも、そうしようともいわない。・・・ 》
と出ているように、おとよさん の方が百姓仕事が人よりできるのだ。
  おとよさん が嫁に行った先の家は秋葉という家で夫は清六という名前だが、
《 清(せい)さんと清さんのお袋といっしょにおとよさんは少しあとになってくる。おとよさんは決して清さんといっしょになって歩くようなことはないのだ。・・・》
《 清さんはチンチンと手鼻をかんでちょこちょこ歩きをする。おとよさんは不興な顔をして横目に見るのである。》
《 おはまは省作と並んで刈りたかったは山々であったけれど、思いやりのない満蔵に妨げられ、仏頂面をして姉と満蔵との間にはいった。おとよさんは絶対に自分の夫と並ぶをきらって、省作と並ぶ。・・・》
と『隣の嫁』で書かれているように、省作がどうこう以前に、おとよさん は夫の秋葉清六との間の関係が話の最初からあまり好ましくないようなのだ。
  なぜ、「隣の嫁」の おとよさん が秋葉清六と仲が良くないのか。
《 おとよさんが隣の嫁に嫁入ったについては例の媒酌(なこうど)の虚偽に誤られた。おとよさんの里は中農以上の家であるに隣はほとんど小作人同様である。それに清六があまり怜悧(りこう)でなく丹精でもない。おとよさんも来て間もなくすべての様子を知っていったん里へかえったのだが、おとよさんの父なる人は腕一本から丹精して相当な財産を作った人だけに、財産のないのをそれほどに苦にしない。働けば財産はできるものだ、いったん縁あって嫁いったものを、ただ財産がないという一か条だけで離縁はできない、そういう不人情な了簡(りょうけん)ではならぬといわれて、おとよさんはいやいやかえってきた。父の言うとおり財産のないだけで、清六が今少し男子(おとこ)らしければ、おとよさんも気をもむのではない。・・・》
《 話はまたおとよさんの事になる。政さんは真顔になって、
「おとよさんは本当にかわいそうだよ。一体おとよさんがあの清六の所にいるのが不思議でならないよ。あんまり悪口いうようだけど、清六はちとのろ過ぎるさ。親父だってお袋だってざま見なさい。あれで清六が博奕(ばくち)も打つからさ。おとよさんもかわいそうだ。身上(しんしょう)もおとよさんの里から見ると半分しかないそうだし、なにおとよさんはとても隣にいやしまい」 》
というように、省作がどうという前に、おとよさんは夫とあまり関係が良くなかった。そのあたりだが、『野菊の墓』の戸村民子が斎藤政夫の家から実家に帰された後に気が進まないままに嫁にやられた話と、心情的にかぶさってくるところがある。
  おとよさんは『春の潮』では、はっきりと言う。
《「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよくいやな思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで・・・なんのために夫を持ちます、わたしは省作という人がないにしても、心のわからない人などの所へは二度とゆく気はありません。この上わたしが料簡を換えて外へ縁づくなら、わたしのした事は淫奔(いたづら)になります。わたしのためわたしのためと心配してくださる両親の意にそむいては、まことに済まない事と思いますけれど、こればかりは神様の計らいに任せていただきたい、姉さんどうぞ堪忍してください、わたしのわがままには相違ないでしょうが、わたしはとうから覚悟をきめています。今さらどのような事があろうとわき目を振る気はないんですから」 ・・》
  「隣の嫁」の おとよさん は、農家の娘として、他の農家の嫁に行ったのだが、最初から夫となる男性がどんな男性かも理解しないままに結婚して、それで後悔していた女性だったらしく、年齢としては満年齢だと「17歳ないし18歳」という年齢の女性だ。
  省作は「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」とは違って、おとよさん が自分に親切にしてくれるけれども、それはうれしく思っても、人の嫁であり、自分がおとよさんと男女の関係になることは考えていなかったが、そのうち、おとよさん の方が自分に気があるようだと気づく。
  このあたりについてだが、明治末期の農家の結婚事情が背景にあるようだ。『春の潮』で おとよさんの父親が言う場面がある。
《「・・・えいか、親の考えだから必ずえいとは限らんが、親は年をとっていろいろ経験がある、お前は賢くても若い。それでわが子の思うようにばかりさせないのは、これも親として一つの義務だ。省作だって悪い男ではあんめい、悪い男ではあんめいけど、向こうも出る人おまえも出る人、事が始めから無理だ。許すに許されない二人のないしょ事だ。いわば親の許さぬ淫奔(いたづら)というものでないか、えいか」》
  結婚してやっていくには、農家の跡取り息子に嫁が欲しいという家に娘をやるか、もしくは、娘はいても息子がいないという家に兄が後を継ぐ家の次男が婿養子に行くか、そのどちらかなら話がまとまるしやっていけるが、省作は兄が後を継ぐ家の次男で、おとよさん も兄があって兄が家を継ぎ、おとよさんは婿養子を取る立場ではなく、嫁に行く立場である。もしも、省作が家の後を継ぐ立場か、おとよさんが婿養子を取る立場であったなら、「省作だって悪い男ではあんめい」ということで話を進めることができるが、「向こうも出る人、おまえも出る人」では話はまとまらない・・というのだ。
  おとよさん は、自分は嫁に行く立場だということから、秋葉清六の所へ嫁に行ったが、「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよくいやな思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで」という結果になった。しかし、いったん、嫁に行ったものを簡単に帰ってしまうわけにもいかない。
  おとよさんが自分のことを思っていると省作は気づくが、そうはいっても、やっぱり、おとよさんは人の妻であり、そこに省作に婿養子の口がきた。省作は 自分とおとよさんに好意的なおはまに一緒に来てもらって3人で会った上で、深田という家の養子に行くことをおとよさんに話す。
  『春の潮』では、
《 おとよは省作と自分と二人の境遇を、つくづく考えた上に所詮余儀ないものとあきらめ、省作を手放して深田に養子にやり、いよいよ別れという時には、省作の手に涙をふりそそいで、
「こうしてあきらめて別れた以上は、わたしのことは思い捨て、どうぞおつねさんと夫婦仲良く末長く添いとげてください。わたしは清六の家を去ってから、どういう分別になるか、それはその時に申し上げましょう。ああそうでない、それを申し上げる必要はないでしょう、別れてしまった以上は」
  ことばには立派に言って別れたものの、それは神ならぬ人間の本音ではない。余儀ない事情に迫られ、無理に言わせられた表面の口の端に過ぎないのだ。 》
と書かれているように、省作はおとよさんのことは諦めて深田家へ婿養子に行くことにしたのだ。
  しかし、片方で農家の跡取り息子に嫁に来た「隣の嫁」の おとよさんと、婿養子に行けば食べていけるが自分は跡取りになる立場ではない省作は、『隣の嫁』の結末部で
《 この事があった翌々日、おとよさんは里へ帰ってしもうた。そうしてついに隣へ帰って来なかった。省作もいったん養家へいったけれど、おとよさんとのうわさが立ったためかついに破縁になった。 》
となる。
   『春の潮』では、養家を出てきた省作に兄は言う、
《 兄は省作の顔を見つめていたが、突然、
「省作、お前はな、おとよさんと一緒になると決心してしまえ」
省作も兄の口からこの意外な言を聞いて、ちょっと返答に窮した。兄は話を進めて、
「こう言いだすからにゃおれも骨を折るつもりだど、ウン世間がやかましい・・・そんな事かまうもんか。おッ母さんもおきつも大反対だがな、隣の前が悪いとか、深田に対してはずかしいとかいうが、おれが思うにゃそれは足もとの遠慮というものだ。な、お前がこれから深田よりさらに財産のある所へ養子にいったところで、それだけでお前の仕合せを保証することはできないだろう。よせよせ、婿にゆくなんどいうばかな考えはよせ。はま公、今一本持ってこ」
  おはまは笑いながら、徳利を持って出た帰りしなに、そっと省作の肩をつねった。
「まあよく考えてみろ、おとよさんは少しぐらいの財産に替えられる女ではないど。そうだ、無論おとよさんの料簡を聞いて見てからの事だ。今夜はこれでやめておく。とくと考えておけ」 》
  《『隣の嫁』+『春の潮』》の後半にして本体の『春の潮』では、すでに秋葉家を出て実家に戻り、秋葉清六の嫁という立場ではなくなった おとよさんだが、省作も おとよさんも「向こうも出る人、こちらも出る人」であっても、そんなことは何の関係もない、又、おとよさんが嫁に行っていた家の隣家の次男だというようなことも、それもそんなこと何の関係もない、結婚したい相手と一緒になるのだと男の方も女の方も決心する。まさに「春の潮」として。
  だから、『春の潮』は『隣の嫁』の続編とは伊藤左千夫自身がはっきりと書いていて、登場人物の名前も場所も完全に共通しているのだが、登場人物の名前と場所は異なっても『春の潮』は『野菊の墓』の続編のような性質も持っている。
  『野菊の墓』では仲が良くなったものの、女の方が2つ年上だったということもあり、男はまだこれから学校に行かないといけない立場だったということもあり、千葉市の学校に男が行くと、女は実家に帰され、さらに気が進まない嫁入りをさせられ、その結果として、妊娠したものの流産をして肥立ちが悪く他界するに至る。その失敗をもう繰り返さないぞという決心が『春の潮』の男と女はどちらもが主張し、周囲の者もそれに協力しようとする。
 「世間がやかましい・・・そんな事かまうもんか。」「隣の前が悪いとか、深田に対してはずかしいとかいうが、おれが思うにゃそれは足もとの遠慮というものだ。」「お前がこれから深田よりさらに財産のある所へ養子にいったところで、それだけでお前の仕合せを保証することはできないだろう。」 
 「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよくいやな思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで・・・なんのために夫を持ちます、わたしは省作という人がないにしても、心のわからない人などの所へは二度とゆく気はありません。」

  「自我の主張」という表現をすると、この「自我」という言葉は3通りの相反する意味合いで使われるので要注意なのだが、「自我」という言葉は、
(1) お寺さん・坊さんが使う「自我」という言葉は「自我を捨てよお!」と坊さんは言うのだが、この場合は「執着を捨てよ」というような意味で、執着を捨てて泰然と生きよ・・とでもいうような意味。
(2) 「文学者」「哲学者」が「自我」という場合には、これは自分自身の物事の考え方、自分自身が主張するべきものは何があっても主張するのだという意志、「独立自尊」とでもいった姿勢、「精神の独立」、「人間はいかにして長く保存されるか」ではなく「いかにして克服されるか」という生きざま、あるいは「太ったブタになるよりは痩せたソクラテスであれ」といった思想のようなもので、
(3) 「心理学者」「精神医学者」が主張する「自我」は(2)とは正反対で、「ブタ人間のすすめ」のようなもの、消費に関心をひくことで気概をそぎ、節操を踏みつぶす。「心理学者」「精神医学者」が誘導しようとする方向の行動をとることが「自我が確立された」人間であり、「心理学者」「精神医学者」が何を言っても自分は自分の考えにのっとって行動するんだと主張する者というのは、それは「未成熟」であり「外罰的性格」であり「精神病質」であり「ノイローゼ」であり、『モラトリアム人間』病であり『ウェンディジレンマ』『青い鳥症候群』『ピーターパンシンドローム』といった「ほとんどビョーキ」症候群・シンドロームであり、あるいは『「甘え」の構造』であり「過保護」であり、あるいは「性格異常」であり「不適応」「社会性欠如」であり、あるいは「受験勉強の悪影響」であり、あるいは「新人類」であり『異星人(エイリアン)がやってきた』であり、「心理学者」「精神医学者」が誘導しようとする方向に屈従するのがそれが「自我の確立」というもの、それが「自我が確立されている」という人間の状態で「アイデンティティーを持っている」という状態であり、それが「独立自尊」だと主張するもので、それって逆と違うのか?・・と思うのだが、「それって逆と違うのですか?」などと言うと「未成熟」だの「モラトリアム人間病」だの「自我が確立されていないからそういうことを言うのですね」だの何だのかんだのと「診断」される、「診断」の次に「治療」と称して「人間による人間の加工」をされる可能性がある・・それが「心理学者」「精神医学者」と称する人・「専門家」と称する人の主張する「自我」である。
特に(2)と(3)は正反対の意味である。但し、南 博『日本人の心理』(岩波新書)では南 博は「心理学者」という肩書だが(2)の方の意味で「自我」という言葉を使っている。
日本人の心理 (岩波新書) - 南 博
日本人の心理 (岩波新書) - 南 博
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
( ↑ トマス=サズ『「精神医学」という狂気の思想』新泉社 )
  伊藤左千夫『野菊の墓』で《 民子は余儀なき結婚をしてついに世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さず持っていよう。幽明はるけく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。》という結果になった男と女の生まれ変わりのように、『春の潮』では省作と おとよさんは、もう失敗しないぞ、もう間違えないぞと、「世間がやかましい・・・そんな事かまうもんか。」「向こうも出る人、こちらも出る人」であっても、それがどうした! ・・と誓い、そして「春の潮」のように歩みだす。
  《『隣の嫁』+『春の潮』》は「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」が言うような《 百姓の不得手なむすこが、隣の嫁であるおとよさんに、少年らしい興味をおこす話 》というようなものではなく、《 省作の、女にたいする憧憬のありたけがうかがわれる。》というようなそんな話ではなく、「立教大学教授 塩田良平」はあまりにも読みが浅い。「ホームスクール版 日本の名作文学」シリーズの伊藤左千夫『野菊の墓』が『隣の嫁』は掲載しても『春の潮』は掲載は掲載しなかったのは、「小学上級および中学向」ということから、『春の潮』を「隣の嫁を寝取った男の話」とでも理解して掲載を「自粛」したようだが、『春の潮』は「隣の嫁を寝取った男の話」などという下卑た話ではない。
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫

  いくらか似た話として、花登 筺(こばこ)『鮎のうた』(NHK出版)で、大阪船場の糸問屋 糸原商店の三代目 原田三之介に、勢いがある八田商事の娘を嫁にもらって失敗した「ごりょんさん」、三之介の母が言う言葉、「糸原商店は今、苦しい状態にあるから、だから、三之介には糸原商店のおひいさん(太陽)になってくれるお嫁さんをもらってやろうと考えたんや。そやけど、それは間違ってた。糸原商店のおひいさん(太陽)になってくれるお嫁さんなんか要らんかったんや。糸原商店のおひいさんやのうて、原田三之介のおひいさん(太陽)になってくれるお嫁さんをもらってやるべきやったんや。そうしたら、どんなに困難なことがあっても、あの子は自分で切り開いていけるはずや」と話す。
  『春の潮』で省作とおとよさんが決心する場面はイプセン『人形の家』の結末にも似たところがあるように思う。『人形の家』で、最後、ノラはこう言ったはずだ。「私は仕合せにしてもらう必要はないの。私は自分で仕合せになるの」と。
人形の家(新潮文庫) - イプセン, 源九郎, 矢崎
人形の家(新潮文庫) - イプセン, 源九郎, 矢崎

   「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」はおかしい。たとえ、大学の文学の先生でも、すべての文学者のすべての作品をことごとく精読することは難しいだろうけれども、それにしても「解説」を書くならば、その作品を一通り読んでから書くべきだ。『隣の嫁』を一通り読めば、省作は19歳でおとよさんも19歳と伊藤左千夫ははっきりと書いており、それが数え年なのか満年齢なのかは記載されていないが、どちらにしても、「少年」を10代前半くらいを言うとすると省作は「少年」というような年齢ではないし、逆に おとよさん は「隣の嫁」とはいえ、まだ10代であって、「少年」が「隣の嫁」に「女」を感じるというような「熟女」ではないのもわかるはずだ。一通り読みもしないで「解説」書くのはやめてほしいと思うのだが、案外、文学作品の「解説」を書いている人にはそういう人がいるかもしれない。
  森 鴎外『青年』(新潮文庫)には、夏目漱石がモデルらしい附石という人物が青年たちに語る場面で、
《 大分話が進んで来てから、こんな事を言った。「イプセンは初め諾威(ノオルウエイ)の小さいイプセンであって、それが社会劇に手を着けてから、大きな欧羅巴(ヨオロッパ)のイプセンになったというが、それが日本に伝わって来て、又ずっと小さいイプセンになりました。なんでも日本へ持って来ると小さくなる。ニイチェも小さくなる。トルストイも小さくなる。ニイチェの詞を思い出す。地球はその時小さくなった。そしてその上に何物をも小さくする、最後の人類がひょこひょこ跳(おど)っているのである。我等は幸福を発見したと、最後の人類は云って、目をしばたくのである。日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいている。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛(こわ)がるには当たらない。何も山鹿素行や四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなったイプセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」まあ、こんな調子である。》
というものがあるが、日本人の文学者の作品もまた、小さくする人がいるのだろう。
青年 (新潮文庫) - 森 鴎外
青年 (新潮文庫) - 森 鴎外

  「立教大学教授 塩田良平」による「作者と作品について(解説)」は何から何までだめだとまで言うつもりはない。まず、この「作者と作品について(解説)」で九十九里浜の海岸に伊藤左千夫の歌碑があることを知った。 
  「立教大学教授 塩田良平」は《ウィキペディアー塩田良平》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0%E8%89%AF%E5%B9%B3 によると、東大文学部国文科卒で、元 二松学舎大学 学長で、《近代文学が専門で、代表的な著書に「近代日本文学論」「山田美妙研究」「樋口一葉研究」「明治女流作家論」「明治文学論考」「日本文学論考」、随筆集「妻の記」「おゆき」「夜開花」などがある。また、多くの文庫本に解説を書いている。》という人らしいが、この人の書いたものをすべて読んだわけでもないので、この方をまったくだめだとか断定までするつもりはないが、しかし、「ホームスクール版 日本の文学」シリーズの『野菊の墓』(偕成社)の「作者と作品について(解説)」での『隣の嫁』についての文章は「読みが浅すぎる」だけでなく、本当に一通り読んだのか疑問に思える内容である。
  その程度の「解説」でも「東大文学部国文科卒」「立教大学教授」「二松学舎大学学長」の肩書の元に書かれると、それをありがたがる人も出てきてしまうのだろう。・・・幸福の科学の大川隆法の長男がYouTuve で幸福の科学と父親である大川隆法を批判しているが、大川隆法の言っていることなんてたいしたこと言ってないにもかかわらず、東大卒だということから、何か深い意味があるのじゃないかと勝手に深読みする信者がいて、それでありがたがっている人がいる・・というようなことを述べていたが、これは大川隆法だけではなく、その人の肩書・経歴から勝手に深読みしてたいしたこと言ってないのにいいこと言っているのだろうと思い込んでありがたがる人というのが実際に存在している・・・と思う。そういう度合いが大きい人間というのは、それはT=W=アドルノらが『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)で、
「権威主義的パーソナリティー」≒サドマゾ人格≒ファシズム的傾向
の強い人間と考えてよいのではないか・・。
現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ - T.W.アドルノ, 田中 義久, 矢沢 修次郎
現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ - T.W.アドルノ, 田中 義久, 矢沢 修次郎
権威主義的人間―現代人の心にひそむファシズム (有斐閣選書 (697)) - 曽良中 清司
権威主義的人間―現代人の心にひそむファシズム (有斐閣選書 (697)) - 曽良中 清司
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
 
  伊藤左千夫『春の潮』には、
《 某(なにがし)の家では親が婿を追い出したら、娘は婿について家を出てしまった。人が仲裁して親はかえすというに今度は婿の方で帰らぬというとか、某の娘は他国から稼ぎに来てる男と馴れ合って逃げ出す所を村界(むらざかい)で兄に押さえられたとか、小さな村に話の種が二つもできたので、もとより浮気ならぬ省作おとよの恋話も、新しい話に入りかわってしまった。》
という文章がある。 明治の末、日露戦争の頃の農家では、農家のなりわいと結婚は結びついているので、「出る人」と「迎える人」の組みあわせができればいいが、「出る人」と「出る人」、「迎える人」と「迎える人」の組み合わせは生活を成り立たせるのが難しく、男と女が好きあった者同士が結婚できるかという問題と相容れないことがあり、そこに難しいところがあったようだ。
結婚 (1954年) (岩波新書)
結婚 (1954年) (岩波新書)


  伊藤左千夫『春の潮』にある、
《 わが命はわが心一つで殺そうと思えば、たしかに殺すことができる。わが恋はわが心一つで決して殺すことはできない。わが心で殺し得られない恋を殺そうとかかってついに殺し得られなかった三月である。
  しかしながら・・・ 》
という文章など、このあたりも伊藤左千夫が「小説専業」ではなく「歌人 兼 文学者」であるだけに「詩的な文章」「詩的な散文」である。

  『野菊の墓』は「自然主義」的というのか淡々とした調子で書かれ、「田園叙事詩」のような美しさと悲しさを感じる小説であるが、《『隣の嫁』+『春の潮』》の男と女は、『野菊の墓』の男と女が失敗したものを、今度こそ失敗してなるものかと「春の潮」のように奮起して敢闘する。《『隣の嫁』+『春の潮』》は『野菊の墓』と合わせ読むべきもので、『野菊の墓』は《『隣の嫁』+『春の潮』》と合わせ読むべきものだと思う。 伊藤左千夫は「単作作家」と評価すべきではないと思う。

  『春の潮』には、省作と おとよさん と省作の嫂であるお千代が「雄蛇が池」に行く場面がある。
《 御蛇が池にはまだ鴨がいる。高部(たかべ)や小鴨や大鴨も見える。・・・・》
又、省作が東京に出ていく時、おとよさん と おはま が千葉まで見送る場面では、
《 汽車が日向(ひゅうが)駅を過ぎて、八街(やちまた)に着かんとするころから、おはまは泣き出し、自分でも自分が抑えられないさまに、あたりはばからず泣くのである。・・・・》
と日向(ひゅうが)駅・八街駅の名前が出てくる。

( ↑ 「日向(ひゅうが)」駅。 )

  おとよさん の実家の名字は「土屋」さんという。千葉県出身の土屋さんというと、銚子商業高校卒で中日ドラゴンズに入った土屋投手がいた。1980年代後半、小堀住研(株)の千葉支店にも「土屋さん」はいたし、私は小堀住研(株)・(株)一条工務店の両方で千葉県の営業所に勤務して、外房のあたりの道もけっこう歩いたが、「土屋」という表札が出ている家は外房のあたりではよく見たことがあり、千葉県の外房あたりに多い苗字のようだ。

  (2021.9.12.)

☆ 「野菊の墓 文学碑」「野菊苑」「永禄古戦場跡」「矢切の渡し」
1.文学・哲学は毒薬か? 牛乳屋兼歌人・文学者の伊藤左千夫は何か悪いか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_1.html
2.市川側から「野菊の墓 文学碑」への道。「永禄古戦場跡」。「精神保健研究所」て何やってるのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_2.html
3.西蓮寺(真言宗)。『春の潮』に見られる「自我」の主張。結婚式乱入を美化する映画『卒業』は称賛できない。「自我」を持たないことを「自我の確立」と騙す「心理学」「精神医学」ファシズム。小学生用文学全集の是非。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_3.html
4.野菊苑から見た西方の絶景。『野菊の墓』と「文学碑」「野菊苑」の一致する立地。詩的な小説『野菊の墓』。「文学的表現」は文学・哲学ならいいが法律家には誉め言葉にならない。矢鱈と多い「法律家以上でない法律家」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_4.html
5.野菊庵・伊藤左千夫の短歌の木札。伊藤左千夫は単作作家ではない。「性格あつかましい」は自慢することではない。本は貸すと返ってこない。「女性版俗物4種の神器」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_5.html
6.「矢切の渡」と江戸川。『春の潮』とともに読むべき『野菊の墓』。いいかげんな「解説」を書く文学部教授と権威主義。『野菊の墓』で押しつぶされた「自我」の主張をする『春の潮』 〔今回〕 

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