「野菊の墓 文学碑」(下矢切)と文学・哲学への思い【4/6】野菊苑から見た西方の絶景。『野菊の墓』と「文学碑」「野菊苑」の一致する立地。詩的な小説『野菊の墓』。「文学的表現」は文学・哲学ならいいが法律家には誉め言葉にならない。矢鱈と多い「法律家以上でない法律家」

[第552回]
  松戸市下矢切の「野菊の墓 文学碑」訪問の4回目です。
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  ↑ 「野菊の墓 文学碑」は、《まるごとeちば》https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8532 には《 昭和40年(1965年)に地元有志の発案と門弟土屋文明氏の書により建てられました。》、《ウィキペディアー野菊の墓文学碑》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%8F%8A%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A2%91 には《1965年(昭和40年)と出ている。1964年の東京オリンピックの翌年。1963年5月の狭山事件発生の2年後である。
  《 この文学碑は、左千夫の門人である土屋文明の筆になるものであり、小説「野菊の墓」の一節が刻まれている。》と書かれているが、↑ の写真でも、文末に、
《 昭和三十九年十月
  土屋文明 識 》
と書かれている。
  土屋文明 て誰なんだ? ・・というと、《ウィキペディアー土屋文明》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%96%87%E6%98%8E によると、
土屋 文明つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日)は、日本の歌人・国文学者。》だそうだ。1894年の日清戦争の4年前の生まれ。1990年、100歳まで生きた人らしい。
《 旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。
  卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。更に左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現・東京大学)に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)に文学部哲学科(心理学専攻)卒業。》
《 1917年(大正6集『ふゆくさ』を出版。1930年(昭和5年)には斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。・・
戦後は1952年(昭和27年)に明治大学文学部教授。
・・》
という人らしい。

《じゃらん 野菊の墓 文学碑》https://www.jalan.net/kankou/spt_12207aj2200116039/ には、
《 境内には作中で待ち合わせに使ったとされるイチョウの木の切り株なども存在する。》
と書かれている。 『野菊の墓』の舞台は矢切であり、《 僕の家というは、松戸から二里ばかり下がって、矢切の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。》と『野菊の墓』に書かれているので、この付近であろうと思われるけれども、《 村はずれの坂の降り口の大きな銀杏(いちょう)の木の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃(たんぼ)がある。・・・》と書かれている「村はずれの小高い岡の上」というのがこの西蓮寺の北西の「野菊の墓 文学碑」がある場所なのかどうかは、可能性のひとつとしてはありえても、そうなのかどうか。 その「坂の降り口の大きな銀杏(いちょう)の木の根」というのが、はたして、西蓮寺にある「イチョウの木の切り株」なのか?

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↑ 「野菊の墓 文学碑」には『野菊の墓』のこの付近の情景についての記述が書かれているけれども、そのまま抜粋したものではなく、3か所の文章をつなぎあわせたものだ。
〔 ↑ 写真はクリックすると大きくなります。〕
《 僕の家というは、松戸から二里ばかり下がって、矢切の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。矢切の斎藤といえば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二、三人ここへ落ちて百姓になったうちの一人が斎藤と言ったのだと祖父(じじい)から聞いている。屋敷の西側に一丈五、六尺も回るような椎の木が四、五本重なりあって立っている。村一番の忌森(いもり)で村じゅうからうらやましがられている。昔から何ほど暴風(あらし)が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。・・・ 》

《 茄子畑というは、椎森(しいもり)の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千菜畑(せんざいばたけ)。崖の上になっているので、利根川はもちろん中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺(たかね)も見える。東京の上野の森だというのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕ら二人が立っている茄子畑を正面に照り返している。あたりいったいにシンとしてまたいかにもハッキリとした景色、われら二人は真に画中の人である。
 「マアなんというよい景色でしょう」
民子もしばらく手をやめて立った。・・・》

《 村のものらもかれこれいうと聞いているので、二人そろうてゆくも人前恥ずかしく、急いで村を通り抜けようとの考えから、僕は一足先になって出かける。村はずれの坂の降り口の大きな銀杏(いちょう)の木の根で民子がくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃(たんぼ)がある。色よく黄ばんだ晩稲(おしね)に露をおんで、シットリと打ち伏した光景は、気のせいかことに清々(すがすが)しく、胸のすくようなながめである。 民子はいつのまにか来ていて、昨日(きのう)の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉銀杏の葉の落ちるのを拾っている。
「民さん、もうきたかい。この天気のよいことどうです。ほんとに心持ちのよい朝だね」》

↑ この3か所の太字にした部分が「野菊の墓 文学碑」に刻まれている。

  この3番目の文章の後に、
《「まア政夫さんは何をしていたの。わたしびッくりして・・・まアきれいな野菊、政夫さん、わたしに半分おくれッたら、わたしほんとうに野菊が好き
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・
・・」
「わたしなんでも野菊の生まれ返りよ。野菊の花を見ると身ぶるいのでるほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思うくらい」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ
・・・ 》
が続く。
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫

  この「野菊の墓 文学碑」の北側、「野菊苑」との間の道は、これより西側は下り坂になっており、一番目の文章の《 小高い岡の上でやはり矢切村と言っている所。》という文章の「小高い岡の上」にこのあたりは当てはまる。
  又、碑に刻まれている文章でも、3つはそれぞれ別の場所なのだが、三番目の文章の《村はずれの坂の降り口の大きな銀杏(いちょう)の木の根で》という「坂の降り口」もこの付近かという感じだ。

  「野菊の里 文学碑」がある所の道路を隔てた北側に「野菊苑」という広場がある。道路から階段で上がることもできるが、「野菊の里 文学碑」の側から陸橋 ↓ で渡ることもできる。
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「のぎくえんほどうきょう」と書かれている。

  この「のぎくえんほどうきょう」を渡ると、↓
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「野菊苑」
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↑ 「野菊苑」から「野菊の里 文学碑」の方へ行く「のぎくえんほどうきょう」の方を見る。
誰か、えらい人らしい人の胸像がある。

  「野菊苑」の西よりの場所からは、『野菊の墓』の「野菊の墓 文学碑」に刻まれている文章の2番目の文章の記述のように、矢切の渡(わたし)から江戸川の方面が開けて見える。↓
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《 茄子畑というは、椎森(しいもり)の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千菜畑(せんざいばたけ)。崖の上になっているので、利根川はもちろん中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺(たかね)も見える。東京の上野の森だというのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕ら二人が立っている茄子畑を正面に照り返している。あたりいったいにシンとしてまたいかにもハッキリとした景色、われら二人は真に画中の人である。
 「マアなんというよい景色でしょう」
民子もしばらく手をやめて立った。・・・》
  ここで、伊藤左千夫が「利根川」と書いているのは、現在の地図では「江戸川」と表記されている川のことで、江戸時代の途中までは利根川は関宿から銚子の方に流れていく利根川ではなく、関宿から分岐して松戸と三郷の間を流れて、市川市と東京都江戸川区の間を流れて東京湾に注ぐ現在の江戸川が利根川の本流だったわけで、伊藤左千夫が『野菊の墓』を書いた1906年(明治39年)〔日露戦争開始の2年後、ポーツマス条約の1年後。〕の頃においては、すでに関宿から銚子の方に流れる川の方が利根川の本流になっていたはずですが、その頃でも、江戸川を「利根川」と呼ぶ人がいたのでしょうか。
 『野菊の里』に出てくる「茄子畑」がこの場所なのかどうかはわからないが、このような所だったのでしょう。
  たしかに、「よい景色」です・・・・が、正面の高圧電線の鉄塔が少々無粋・・かな・・。

  「野菊苑」は『野菊の墓』の小説の舞台のあたりに設けられたということで「野菊苑」と名付けられているが、野菊が生えているというわけではない。

  「野菊の里 文学碑」の左手前に「野菊」についての説明書きがある。↓
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↑ 「野菊」というのは、「野菊」という名称の草があるわけではなく、いくつかの草をまとめて「野菊」と呼んでいるらしい。

  ジャン=ポール=サルトルは「哲学者」と言われていますが、ノーベル文学賞に選ばれて辞退した・・ということがあり、『嘔吐』『水いらず』『自由への道』『言葉』などの小説を書いています。小説を書いていても「文学者」ではなく「哲学者」なのか? 卒業した大学が哲学科だから「哲学者」ということになっているということでしょうか。 しかし、医師は医師国家試験に合格して医師の国家資格を取得しないと診療できませんが、医師国家試験を受ける為には大学の医学部を卒業しないと受けられないけれども、「文学者」というのは別に文学部を卒業しなくても、執筆した小説が世間に認められれば「文学者」として認められるわけですから、サルトルにしても「文学者」になっても良さそうにも思いますが、本人の自分についての認識が「哲学者」だったということでしょうか。たしかに、サルトルの小説は『自由への道』にしても『言葉』にしても、小説であり文学であるとはいえ、「哲学っぽい文学」と言えるかもしれません。
  伊藤左千夫は、私は『野菊の墓』の作者で「文学者」だと思っていたのですが、《ウィキペディアー伊藤左千夫》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%B7%A6%E5%8D%83%E5%A4%AB では、
《 伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。》
と、「歌人」にして「小説家」とされています。
「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」
など、短歌を相当詠んでいて、
《子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、「写生」の教えを継承した。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成した。》
というように、「小説家」「文学者」であるとともに、「歌人」でもあったようです。
  そう思って『野菊の墓』を読み返してみると、ジャン=ポール=サルトルの小説は小説で文学であるとはいえ「哲学っぽい文学」みたいなところがあるのと同じく、伊藤左千夫の小説というのは小説・文学であるとはいえ「詩的な文学・小説」と思えるところがあります。
『野菊の墓』でも、
《 「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・・」
「わたしなんでも野菊の生まれ返りよ。野菊の花を見ると身ぶるいの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思うくらい」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあててうれしがった。二人は歩きだす。
「政夫さん・・・わたし野菊のようだってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊のような風(ふう)dからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって・・・」
「僕大好きさ」
・・・  》
という会話の展開とか、
《 「民さん、なんです。そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうのような人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆(りんどう)のような風(ふう)だからさ」
民子は言い終わって顔をかくして笑った。
「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討ち(あだうち)というわけですか。口まねなんか恐れ入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とはおもしろい対ですね。僕は喜んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなおうれしい」
二人はこんならちもなき事をいうてよろこんでいた。秋の日足の短き、日はようやく傾きそめる。さアとの掛け声で綿もぎにかかる。・・》
このあたりの表現や展開も、詩的なものがある。
  『あしたのジョー』では、矢吹丈との対戦を控えたウルフ金串 の秘密練習を探りにいった丹下ボクシングジムの近所のガキどもをウルフ金串がなぶりものにして送り返したが、それを丹下段平は医者と一緒に傷のつきかげんを丹念に調べ、そこからウルフ金串がどういう戦法で来るかを読み取った。ウルフ金串は、ガキどもをなぶるのに、矢吹丈対策としてやっていた作戦を使ったつもりはなかったが、「人間というものは、やっていないつもりでも普段やっていることの癖が出るもんなんだ」と矢吹は試合後に言う。なるほど・・・
  (株)一条工務店にいた時だが、ある大工から「俺はどんなに仕事がなくて苦しい時でも建売の仕事はやらないようにしている」という話を聞いた。その人が言うには「俺なんかは、ボルトひとつでも一度締めたらそれで終わりじゃない。しばらくして、木が乾燥してきてボルトが緩むということがあるから、『増し締め』と言って最低もう一度は締める。建売やっている人なんかは絶対そんなことはしない。そのかわりに無茶苦茶速い。それがな。もし、一度でも建売の仕事をやってしまったら、その時は『これは建売の仕事だから』と思ってやって、その後、請負の仕事をやる時に『これは請負の仕事だから』と思っても、前にやった仕事のやり方が体にしみついてしまうんだ。だから、一度でも建売の仕事をやってしまったら、次、請負の仕事をやる時に建売の仕事のくせが出てしまうんだ。だから、俺はどんなに仕事がなくて苦しい時でも建売の仕事はやらないようにしているんだ」ということだった・・が、それとも似ているように思う。
  「小説家」専業の人間と違い、「詩人兼小説家」は、小説を書く時も詩人の癖というのか、詩人のスタイルがその小説に出るのだろう。

  なにより、
《 僕の様子を見え、後ろに三人がどんな泣いたか僕もわれ一人でない気がついてようやく立ちあがった。三人の中のだれがいうのか、
「なんだって民子は、政夫さんということを一言も言わなかったのだろう・・・」
「それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを」
「うすうすは知れていたのだに、この人の胸も聞いて見ず、民子もあれほどいやがったものを・・・いくら若いからとてあんまりであった・・・かわいそうに・・・・」
三人も香花(こうげ)を手向け(たむけ)水を注いだ。お祖母(ばあ)さんがまた、
「政夫さん、あなた力紙を結んでください。沢山結んでください。民子はあなたが情けの力をたよりにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
  僕は懐(ふところ)にあった紙のありたけを力杖(ちからづえ)に結ぶ。この時ふっと気がついた。民さんは野菊がたいへん好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いやすぐ掘ってきて植えよう。こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が茂っている。弔いの人に踏まれたらしいがなお茎立って青々としている。民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落ち着いて人々と共に墓場を辞した。
・・・ 》
というこのあたりの表現と展開、文章のテンポ。詩的なものが感じられるように思います。

  なお、「野菊の墓 文学碑」はお寺の境内地に石碑が設置されているけれども、これが民子さんのお墓というわけではなく、あくまでも「文学碑」です。「野菊の墓 碑」とか単に「野菊の墓」と彫った石にすると、ここが「野菊のようだ」という民子の墓かと誤解されるおそれもあるから、それで「野菊の墓 文学碑」という名称にしたのかもしれませんね。

   伊藤左千夫は「詩人 兼 小説家」で、ジャン=ポール=サルトルは「哲学者 兼 文学者(小説家)」というのは悪くない。それが特色になっています。「詩的な小説」は伊藤左千夫の特色であり、「哲学的な小説」こそサルトルです。
  建築の仕事では、かつては女性で建築の仕事につく人がそれほどなかったので「女性的な発想」はプラスに評価されたのですが、ところが最近では女性で建築の仕事をする人は珍しくもなくなったのですが、そうなると、むしろ、「女性的な発想」というものが「はなにつく」というのか、プラスの評価を受けなくなってきました。「女性的な発想」が絶対的に悪いということではないのですが、男性で「男性的な発想」とか「男性ならでは」というものを「売り」にする人はあまりないのに対して、女性で「女性的な発想」とか「女性ならでは」というのを「売り」にしたがる人は少なくないのです。ところが、それを「売り」にする人が少数派ならまだいいのですが、いっぱいいるとどうなるかというと、「売り」にならないようなものを「売り」にしたがったり、もしくは、むしろ控えた方がいい・抑えた方がいいものを前面に出す・・ということになってしまいます。そのあたりをわかってない人というのがけっこう多いのではないかと思います。

  フリードリヒ=ニーチェは「哲学者」ということになっていますが詩も書いています。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
  わたしの無情さ
わたしはいく百もの階段を踏み越えて進まなくてはならない、
わたしは登らなくてはならないが、おまえたちの叫ぶのが聞こえる、
《あなたは無情だ! わたしたちが石でできていると思うのか?》と――
わたしはいく百もの階段を踏み越えて進まなくてはならない、
ところが、だれも階段にはなりたがらない。

  わが門扉の上に
 わたしは自分自身の家に住んでいる、
いまだかつてなにひとつ、いかなる人のまねもしたことはなく、
しかも――自分自身を笑いのためにしたことのない
あらゆる大家(たいか)を笑いのたねにするのだ。
( 『ニーチェ詩集』浅井 真男 訳。1967.3.30. 彌生書房 世界の詩シリーズ 所収)
ニーチェ詩集 (1967年) (世界の詩〈41〉) - 浅井 真男
ニーチェ詩集 (1967年) (世界の詩〈41〉) - 浅井 真男
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
  ニーチェが詩を書いていても、それで悪いことはない・・というよりも、『ツァラトゥストラはこう語った』なんて、全体が詩みたいなものだ。

  しかし、いいのかわるいのかわからないケースというのもあります。カール=マルクスは、もともと、大学は法学部卒で弁護士だったが詩も書いていた人間が経済学の研究をおこない、『資本論』その他の経済学関係の書物を書いた。だから、表現も「文学がかっている」し「詩的なものもある」のです。これがいいのか悪いのか、よくわからないところがあります。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
  医者たちに
呪われろ、医者の俗物の下司ども、
全世界は、おまえらには骨入れ袋だ。
水素で血を冷やしたり、
それから動悸する脈に触ったりしただけで、
おまえらは信じ込む、出来るだけのことはした、
人はほんとうに気持よく生きられる、
主なる紙は才知の持主だった、
それで、解剖学なんて裏の裏まで分かっていた、
どんな花でも煎じて汁にすれば、
よく効く薬になるんだ、と。

  医者の形而上学
霊なんかあるわけはない――
牛だって生きていられるんだ。
魂なんていうのは、馬鹿らしい想像だ――
 胃袋の中に魂なんぞありぁしない、
 そんなものがどこかに見つかれば、
丸薬(がんやく)が必ず引っ張り出す、
そうやってすべての血管から、
霊どもが体の外に出される。

  医者の倫理学
旅行には沢山のシャツを持って行きなさい、
汗が身体に内攻しないように。
 胃や腸に激痛を起こすような
 情熱は避けなければならぬ。
炎(ひ)が生命を危うくするような
場面には目を向けないように。
 酒には適当に水を混ぜ、
 コーヒーにはミルクを入れなさい。
あの世に出かける用意がしたいなら、
われわれを呼ぶことを忘れぬように。
( 『マルクス詩集』井上正蔵 訳。 1979.6.15. 彌生書房 世界の詩シリーズ 所収)
マルクス詩集 (1979年) (世界の詩〈71〉)
マルクス詩集 (1979年) (世界の詩〈71〉)
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
  カール=マルクスは、もともとは法学部卒の弁護士で、詩も書く人間だったのが経済学者になった。だから、経済学の著作も「文学がかっている」文章、「詩的」な文章がある。絶対的に悪いということではないのだが、又、過去の経済学者に対しての文学的な表現による皮肉もある。それがわかりやすい結果になることもあるとは思うのだが、片方で、その「文学がかった表現」「詩的な表現」が障害になる場合もあったのではないかと思うのだ。
  蔵原惟人『宗教、その起源と役割』(新日本新書)によると、「宗教はアヘン」という表現はカール=マルクスが初めて使った表現ではないようで、最初に使ったのが誰なのかはわからないが、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現らしく、マルクスの他にも詩人のハイネ・哲学者のヘーゲル他が使っているらしい。カール=マルクスはこの表現を使ったことがあるかというと、『ヘーゲル法哲学批判序説』という本の中で1回だけ使っている。何度も何度も使ったわけではないが1回だけ使っている。その意味だが、「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味があり、宗教と言われるものの中には毒薬のような宗教もあるけれども、カール=マルクスはそういった毒薬のような宗教を批判する時にはこの「宗教はアヘン」という言葉は使っておらず、キリスト教やユダヤ教のような宗教について「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で、この「宗教はアヘン」という言葉を使っている。
  そもそも、マルクスは詩を書いたりしている人間であり、↑ の「医者の形而上学」など見ても、文学・哲学や宗教的なものをすべて否定するような人間というものを、むしろ、マルクスは批判した詩を書いている。
  だから、カール=マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』で「宗教はアヘン」という表現を1回だけ使ったというのは、その時代のドイツでよく使われていた表現で、「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で使ったものだが、普通に「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」と表現しておけばいいものを、「宗教はアヘン」というその時代のドイツでよく使われていたらしい詩的な表現を使って表現したために、後世、カール=マルクスが「宗教は毒薬だ」と言って弾圧するべきだと言ったかのように誤解する人や意図的に曲解する人が出現するに至ってしまった。

  「文学的な表現」とか「詩的な表現」というのは常に悪いわけではなく、伊藤左千夫が『野菊の墓』を書くにおいて「詩的な小説」となり、詩的な展開になっているというのはまったく悪いことはない。しかし、マルクスさんの場合は「宗教はアヘン」というマルクスが生きた時代のドイツでよく使われていたらしい「詩的な表現」を『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で1回だけ使ってしまったことから、後世にマルクスの意図を誤解する人や意図的に曲解する人が出てきてしまった。
ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫 白 124-1) - カール・マルクス, 城塚 登
ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫 白 124-1) - カール・マルクス, 城塚 登

  他の分野は別として、法学・法律学の分野においては、東大・京大、そうでなければ早稲田大の先生に比べて慶應大の先生というのは有名人が少ない。 我妻栄とか川島武宜とか、団藤重光とか、宮沢俊義とかそういった人はどこの大学卒の人でどこの大学の先生か・・というと東大法学部なのだ。末川博はというと京都大学だし、法学・法律学の分野においては慶應大学の先生というのは、東大・京大・早稲田大の先生に比べて有名人が少ない・・というのは事実・・だと思う・・のだけれども、「有名人の本」ではないのだけれども、慶應義塾大学 法学教育研究会 『法学新講』(1967.10.20. 慶應通信)という16人の共著、15人は慶應大学の教授・助教授で、栂 善夫 先生だけが駒沢大法学部講師と記載されているが、この方も慶應大学法学部卒で、《ウィキペディアー栂 善夫》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%82%E5%96%84%E5%A4%AB によると、現在は早稲田大法学学術院教授らしい。 16人のうち、私が慶應大学に在学中、その先生の講義を履修して講義を聞いたことがあるのは、阿久沢亀夫 教授の「労働法」のみだが、この『法学新講』の「序」を「慶應義塾大学法学教育研究会 代表 伊東 乾 宮沢 浩一」として書かれている伊藤 乾 教授の「お弟子さん」の立場になるらしい助教授の「民法1(総則・物権法)」の講義を履修した。慶應大学の先生は、申し訳ないけれども、法学分野については、実際問題として東大・京大あたりの先生に比べて歴代「有名人が少ない」というのは事実だが、この本は「法学」のテキストとして、読みやすく、まとめられていて、私はこの本はなかなかいいと思っており、インターネットで検索すると今は絶版になったいるらしいが私は今も重宝している。
法学新講 (1967年) - 慶応義塾大学法学教育研究会
法学新講 (1967年) - 慶応義塾大学法学教育研究会
しか~し。「慶應義塾大学法学教育研究会 代表」として、1980年代においては司法試験の「刑事政策」の司法試験委員になっていた宮沢浩一教授とともに「序」を書いている伊東 乾 教授だが、乾燥機の「乾」・乾パンの「乾」と書いて何と読むのかというと「すすむ」と読むそうで、北勝海じゃあろまいし、なんで、これを「すすむ」と読むんだ・・なんてことに文句を言うつもりはございません。北勝海 の他にも「なんで、そんな読み方できんねん?」て人はいっぱいおられます。
佐野 利器・・て建築家の先生、「りき」かと思ったら「としかた」て、どうやって読めんねん?
森田 正馬・・て「森田療法」の人、「せいま」か「まさうま」かと思ったら「まさたけ」て、はあ? いったい、どんな頭してたら「まさたけ」て読めんの? もしかして、頭おかしいの? 
・・てもので、「なんで、そんな読み方できますのん?」て人はいっぱいいます。それをいいだ悪いだなんて言うつもりは毛頭ありません。私なんか、私が浪人中、うちの父親が会社の部下の人から拝み屋さんを紹介されたと言って金沢まで拝み屋さんを訪ねていったあげく、「お父さんはいいお名前です。お父さんは最高の名前です」とおだてられて、「御家族の名前を変えてください」と言って、家族の名前を片っ端から変えるように命令されて戻ってきて、そして私には「あんたの名前は、きょうから『天津丼』や。わかったなあ。あんたの名前は、て~んし~んどお~ん♪」・・て、「ようやるわ( 一一)」、ほんま、ようやるわ!・・・「あんた、これから、あんたの知ってる人の家を一軒一軒訪ねてまわって『これから私のことを《てんしんどん》と呼んでください』と言ってまわりなさい」とか言いだしよった。私は自分の名前というものがそんなに好きではなかったけれども、それでも、ともかく自分の親がこれがいいだろうと思ってつけた名前なのだから、だから大事にしようと思っていたら、そのつけたおっさんが「あんたの名前は、てん、しん、ど~ん♪」と言いだしよった( 一一) ・・まあ、そんなものだから、たとえ、名前が乾燥機の「乾」・乾パンの「乾」で「すすむ」・・て、なんで、そない読めますの? ・・と思われても、それをいいだ悪いだなんて言うつもりは毛頭ございません。「天津丼(てんしんどん)」に比べたら、よっぽどええやんけ! 「あんたの名前は、て~んし~んど~おん♪」てやられた人間の気持ち、考えてみなはれ。「天津丼」に比べたら乾パンの「乾」と書いて「すすむ」の方がよっぽどええがな、ほんま・・・。しかし、「あんたの名前は、て~んし~んどお~おん♪」・・て、ようやるわ、ほんま・・・( 一一)
※ 《ウィキペディアー伊東 乾》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E4%B9%BE_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E8%80%85)
  それで、御名前に文句を言うつもりはないのですが、慶應義塾大学法学教育研究会『法学新講』(1967. 慶應通信)の「1 法と法学・序論」という最初の稿をこの伊藤 乾(すすむ)先生が書いておられるのですが、私は最初、この本を読んだ時には、執筆者については、申し訳ないけれども、美濃部達吉とか滝川幸辰とか末川博とかいった「日本史」の教科書に名前が登場する人か、我妻栄・川島武宜(たけよし)とか岩波新書あたりで本を出している人とか、黒田了一みたいに憲法学者としてよりも大阪府知事として知られている人とか、そういう人と違って、「知ってる人、いねえ」て思いながらも読んで、内容は悪くないと思ったのでした・・・・が。
  「雉も鳴かずば撃たれまい」なんて言葉ありますが、言わなきゃいいことを言うことで、かえって評価を下げたり、「胡散臭い」印象を持たれたりするケースてありますでしょ。
  1980年代のことです。「民法1(総則・物権法)」という講義を慶應大学の三田キャンパスで受講しました時のことですが、講義がおこなわれている最中、教室のすぐ横で、慶應大学応援指導部の人間・・なのか慶早戦支援委員会の人間なのかが「今週の早慶戦はあ~あ・・」と大声あげて叫び、太鼓をドンドコ鳴らすので、「こいつら、アホか!」と私は思った・・のだが、もしかして、これが慶應なのか? ・・と疑問も持った。
「ぱ~んぱ~か、ぱ~んぱ~か、パンパンぱんぱん、パンパンぱん♪
あ~ほ~き血~に~、吠え~る者、ビョーキ持てるわれら~あ♪」とか言って歌いよるのです。なんだ、こいつらは!・・と思ったし、そういうのを見てきたので、それで、私は特に慶早戦だか早慶戦だかいうのは見に行きたくないと思うようになったのだ。
私が助教授なら言ってやったところだが。
「おい、おまえら。すぐ横で私が講義やってるということがわからんのか?
おまえらも、まがりなりにも慶應義塾の学生ならば、講義の時間が何時から何時までというくらいはわかっているだろ!
昼休みか、講義と講義の間の時間なら、太鼓たたいたり、大声で叫んだり、大声で歌を歌ったりしてもいいだろうけれども、
講義がされている時間は、すぐ前を通る者には聞こえるというくらいの声で話すのはいいとして、講義の声がその講義を受講している学生に聞こえなくなるような大声張り上げたり、大声で歌を歌ったり、太鼓をドンドコどんどこドンドコ鳴らしたりするのはやめろ!
そのくらいは大学生なら常識だろ! おまえらは慶應義塾の学生でありながら、この程度の常識も理解できんのか!?!」

と言ってやるところだが・・・、
又、
「おまえら、学問をやる時は学問をやる、早慶戦をやる時は早慶戦をやると、
それぞれ、切り替えることができないのなら、早慶戦なんかやめろや。
やめたくないなら、すぐ隣の教室で民法の講義をやっている最中に横で太鼓叩いたり大声張り上げたりするのは控えるというそのくらいのことはわきまえろ。どっちかにしろ。
そのくらいのことも理解できないようなら大学生やめろ。」

とこう言ってやりたいし、大学の教員なら言うべきだ・・と思う。
この先生、何も言わないのか、何も言えないのか・・?
と思ったことがあった。
かつて、築地鉄砲洲という所に、まだ、大学ではなく「塾」だった慶應義塾があった時、上野の寛永寺に彰義隊がたてこもり、「官軍」との間で戦っていた時、慶應義塾の塾生がそれを気になってしかたがないということがあった際に、福沢諭吉は塾生を屋根の上に登らせてしばらく見物させた上で、「さあ、我々は何があっても関係なく学問をしようではないか」と言って学問に戻らせた・・という話があるが、慶應大学応援指導部のやっていることはその逆である。早慶戦だか慶早戦だかの為に、それよりずっと前から講義を妨害する。
なんだ、こいつらは!・・と私は思ったのだった・・が、応援指導部の人間・・なのか慶早戦支援委員会の人間なのかは逆のことを思っていたのではないか・・と気づいた。
そうではなく、彼らはこう考えていたのではないか。
「こらあ! 我々が慶早戦の為に尽くしているのに、その横で講義やるとは何事だあ!
おまえらは、それでも慶大生かあ~あ!」と。
軍隊の発想だ。慶應大学の応援指導部と慶早戦支援委員会の人間というのは、まさに戦中の軍隊の思考だ。

おそらく慶應の応援指導部・慶早戦支援委員会の人間の発想というものはそういうものだったであろう( 一一)
それが慶應なのだ、それが。福沢諭吉と逆の思想・福沢諭吉と逆の考え方が、それが慶應で、それが応援指導部もしくは慶早戦支援委員会の連中の思想なのだ。
  だいたい、「応援指導部」という名称からしておかしい。自分たちが慶應大の体育会野球部の試合を「応援」したいのならしてもいい。しかし、慶應大学応援指導部というのは「応援」する「部」ではなく「応援」を「指導」する「部」だと言うのだ。一般学生に「こらあ、応援しろお」と「指導」するのだという名称だ。この傲慢な名前はいったい何? 今は昔、「朝日新聞」の「声」欄に書いていた人の文章だが、隣の家の息子が自衛隊に入っているので「自衛隊に入られたりして、もし、戦争になったら危険な立場になるとか心配されませんか」と尋ねたら、その自衛隊に息子が入っているお母さんがこう言われた。「何を言ってるんですか。もし、戦争になったら実際に命をかけて戦うのはお宅の息子とか一般の人間ですよ。うちの息子のような自衛隊の人間は一般の人間に命をかけて戦うように指導したり命令したりするんですから、危険なんてちっともありませんよ」・・とそうおっしゃったそうだが、一般の人間に戦わせて自分たちはそれを「指導」したり命令したりするという発想・思考は慶應大学の「応援””指導””部」の名称と共通するもの、慶應大学の「応援””指導””部」の思考と共通するものだ。高校にも「応援部」というものがあったが、高校の「応援部」の人間は自分たちが「応援」していたのだ。だから、似ているように見えても、「応援部」と「応援指導部」は明らかに性質が違うのだ。

・・・で、その助教授は応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのかの連中のおかげで、正規の「民法1(総則・物権法)」の講義が助教授が話をしているのに、ほとんど聞こえないという状況に置かれても、講義の妨害をしている者どもに苦情のひとつ言えない人だった。
  ・・が、それはここでの本題ではない。ここで言おうとしたのはそれではなく、その助教授先生が伊藤乾(すすむ)教授の文章をわけのわからんヨイショしたことだ。どの文章かというと、「1 法と法学・序論」の文章なのだが、特に、
《 ・・昔から、「よき法律家は悪しき隣人」とか、「法律家、それは悪しきクリスチャン」とかの俗諺があって、法律家は、とかく、胡散臭い眼でみられることになっているし、「もし私に息子があったら」と述懐した大詩人バイロンは、「何か散文的なもの、法律家か海賊に、なってほしい」といって、法律家を海賊と一緒にした。おだやかに詠嘆したルッタアにとってさえ、「法律家以上でない法律家は困りもの」にほかならなかった。そして、法学は、こうしたつまらない法律家のための、同類相寄る集会所にすぎない、というのが、恐らくは、一般にも有力な受け取り方といえよう。・・・》
という特にこのあたりを絶賛して、「すばらしいですねえ。なかなか、書けませんよ。こんな文章は。文学的表現で、すばらしい文章ですよ。伊東先生以外の他の人にはおよそ書けない文章ですねえ・・」とおっしゃるのでした。
それまでは、私はこの伊藤乾「1 法と法学・序論」の文章について、別に悪いとは思っていなかったのですが、そこまで言うようなものかあ? ・・と思い、そのあほくさいヨイショ、ヨイショにあきれてしまい、むしろ、その言葉から、この伊東乾「法と法学・序論」について嫌悪感を覚えてしまったのでした・・・が。
  その話をここで持ち出したのはなぜかと言いますと、その「文学的表現で、なかなか書けませんよ、こんな文章は」とその助教授先生が言われたその文句。一生懸命、ヨイショしているつもりだったようですが、一生懸命、ほめているつもりだったようですが・・・、それはほめていることになってないと思うのです。
  なぜなら、「文学的表現で・・」というのは文学者とか詩人とかなら誉め言葉だと思いますし、哲学者でも悪いことはないと思います。音楽家とかでも悪くないでしょう。音楽と詩は共通するものがあります。誰だったか忘れたが、岡村喬生(たかお)のCDに文章を書いてくれと依頼されて、自分は文章は苦手だからという文章を書いていた「音楽家」がいたが、それなどはおかしいと思うのだ。音楽家なら同時に詩人であるべきなのだ。「法律家以上でない法律家は困りもの」だが「詩人でない音楽家」というのも「困りもの」ではないか?
だから、音楽家は詩人であるべきで、「文学的表現で」書けた方がいいと思う。
  ニーチェが巨大な詩のような戯曲形式で『ツァラトゥストラはこう語った』を書いたのは悪くない。マルクスはもとからの「経済学者」ではなく、法学部卒とはいえ、もとから詩を書いたりしていた人間だから詩的な表現とか文学的な表現があっても不思議はないし、多くの人に理解してもらおうという気持があるからこそ「文学的な表現」をしたのだろう・・・と思うが、「宗教はアヘン」という表現はマルクスのオリジナルではなく「マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現」だったようだが、この表現を使ったことからマルクスの考えが誤解されたり意図的に曲解されたりしてしまった。
  法律家はどうか? 法律家の文章というのは「文学的な表現で」というのは誉め言葉ではないと思うのだ。片方で法律家であって、同時に文学・詩が好きな人がいて悪いということはない。私の本棚にも、中村稔 編著『中也のうた』(1970.9.30.社会思想社 現代教養文庫)があるが、巻末の「編著者略歴」によると、中村 稔 氏は「詩人・弁護士」だそうだ。そういう人もいていいと思う。 しかし、法律家の文章というのは、わかりやすい、読みやすい文章で、論理的な文章で、揚げ足を取られにくい文章であるべきだ。そうでしょ。「文学的な文章」である必要はないのです。
  柴田孝之『司法試験機械的合格法』で、柴田孝之は「文章が文学がかっている人」はそれを直す工夫をした方がいい・・と述べていた。
<法科大学院&新司法試験対応>司法試験機械的合格法 - 柴田 孝之
<法科大学院&新司法試験対応>司法試験機械的合格法 - 柴田 孝之
司法試験の論述試験の答案に書く文章について、普通に書いたら「文学的な表現」になる人というのは、努力してそうならないようにした方がいいというのだ。司法試験の論述試験においてもそうでしょうけれども、裁判における訴状や準備書面に書く文章もまた、「文学的表現」で書くというのは弁護士の場合はプラスかマイナスかというとマイナスではないか。「準備書面」ではなく「陳述書」に弁護士ではない人間が書くのなら、書いている人間は「しろうと」「法律家ではない人」だということで許容されるのではないかと思いますが、弁護士が「訴状」「準備書面」に書く文章は「文学的表現」というのはプラスかマイナスかというとマイナスではないか。裁判官が判決文に書く文章においても、「文学的表現」というのは、プラスに評価されるものではないでしょう。
  大学の法学部の先生が法律についての本を書く場合においては、部分的に「文学的表現」が入ってもいいのかもしれないけれども、「文学的表現」は特にプラスに評価されるものではないでしょう。なんだか、一生懸命、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ~しておられたようでしたが、かえって「ひいてしまった」。
  伊東乾という先生については、『法学新講』の16人の執筆者の1人として、特にいいとも悪いとも思っていなかったのだが、そして、人間的にいい人かろくでもない人かなんて、直接会ったこともない人だからわからなかったのだが、わけのわからんヨイショ、それも「文学的表現で」と誉め言葉になってないほめ方を助教授からされたことで、「なんか、感じ悪いなあ」とか「この人は、そうやってヨイショしないといけないいわゆる『ボス教授』みたいな人だったのお?」というような印象を持つようになってしまった。実際に伊東乾という方がどんな方だったのかは直接会ったこともないのでわからない・・・・が、実はこれまで知らなかったのだが、今回、インターネットで検索したら《ウィキペディアー伊東 乾》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E4%B9%BE_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E8%80%85) にこう書いてあったのだ。
《 伊東 乾(いとう すすむ、1922年5月24日 - 2016年?)は、日本の法学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は民事訴訟法。
幼稚舎から大学まで慶應義塾に学ぶ。1960年「民事訴訟法研究」で慶大法学博士。1948年4月慶應義塾大学法学部助教授、1953年4月教授、1986年定年、名誉教授。日本民事訴訟法学会の設立メンバー。》と。
・・・内部進学か。それも「揺り籠から墓場まで慶應シンドローム」(from cradle to tomb)、いわゆる「小此木啓吾みたいなやつ」か・・( 一一) 
 小学校:慶應、中学校:慶應、高校:慶應、大学:慶應、大学院:慶應 で、勤め先:慶應・・たぶん息子も慶應・・親も祖父もおそらく慶應・・でしょう。慶應的精神空間から外に出れない小此木啓吾シンドローム( 一一)  小此木啓吾は慶應的精神空間から外に出ると3分以内に戻らないことにはカラータイマーが点滅を始め、カラータイマーが緑から黄色、黄色から赤に変わってしまうと、もはや立ち上がれなくなってしまうのだ〔⇒《YouTuve-ウルトラマンvsゼットン》https://www.youtube.com/watch?v=HwicfkCJz2g 〕。 このタイプの人というのは公立高校出身者というものは”ドジン”か怪獣か何かだと思っている。もしくは「異星人(エイリアン)」か「新人類」かと思っている。・・いったいどっちが「新人類」か、いったいどっちが「異星人(エイリアン)」か? 間違いなく「自分たちではない方」だと彼らは信仰している。そういう世界観を観念的に植えつけられて育った人なのだ。だから、”怪獣”を見ると片っ端から「モラトリアム人間病」「青い鳥症候群病」「ウェンディジレンマ病」と「病名」つけてまわらないとおれないシンドロームなのだ( 一一)  ””ほとんどビョーキ””なのだ。彼らは、公立高校出身者というのはドジンであり、慶應内部進学というのは植民地の白人支配者みたいなものだと思っているのです。だから、植民地の白人支配者がドジンを強姦して何が悪いか・・みたいに思っているのです。それを実行しているのです。それが「正常」で「常識」で「自我が確立されている」だと彼らは心の底から思っているのです。ドジンが文句言うな・・みたいな認識です。慶應の学生や卒業生で強姦して捕まるやつが時々ありますでしょ。あれは内部進学がやっていることを三流高校卒で高校卒業時は法政あたりも通らんかったやつが1浪して慶應に入ったという「1浪で慶應の経済」とか「1浪で慶應の文学部」とかいったタイプのやつが見て、自分たちも同じようなことをやってもいいのだろうと勘違いしてやるやつがいるのです。慶應義塾カーストの立場が違うということを理解しないで同じように通じると勘違いしてやるやつというのがいて、それが表に出たのではないか・・と思います。そういう人間のことを「独立自尊の精神がある」「思考が柔軟」とか「自我が確立されている」とか「心理学」では「診断」するみたいです。
公立高校卒で大学だけ慶應に行ったような、いわゆる「(慶應義塾の)外部の人間」と違って「本物の慶應」「サラブレッド的慶應」・・というのか「ほとんどビョーキ」症候群・・・、なんか気色悪いような・・と心の中で思ってもうかつに口に出してしまうと、一瞬のうちに頭に血が昇って殴りかかってくるから怖いこわい怖いこわいから言うたらあかん・・のだが、私なんかはなにしろ根が正直なもんやから、言うたらいかん、言うたらいかん・・と思いつつ口のまわりがもぞもぞしてきて、つい・・とかなりそうなのだが「まあなんかそういう経歴の人」みたいだ。「王様の耳はロバの耳」とか「王様は裸だ」みたいなもので、言うたらいかん・・のだが、正直者はつい・・・。
ということは、あの助教授も内部進学だったのか? ””内部進学師弟コンビ””だったのか・・・(ロビンマスクとウォーズマンみたいなもの? 斎藤祐樹と清宮幸太郎みたいなもの?)、だから、私なら、たとえ、自分が世話になった先生を少々ほめたいと思った場合でも、その先生のいい所というと・・と考えて、いい所を述べるし、良くない所をヨイショヨイショするようなことはしない。それはほめていることにならないからでもある。
  それを、「文学的表現で、すばらしいですね」て、ほめるにしても、法律の学者なら「文学的表現」を「すばらしい」と言うのではなく、法律についての学説をほめるべきではないのか? 「文学的表現」がすばらしくて、法律についての学説はたいしたことないのか? 今は昔、千代大海が大関に昇進した頃、千代大海の得意技は「親孝行」だった。千代大海のお母さんがテレビに出て「うちの息子は親孝行なんですわあ」と叫びまくっていた。こいつ、相撲取りなら「親孝行」なんてそんな変なものを得意技にするのではなく、相撲取りなら相撲の技を得意技にしたらどうかと思うのだが、なんか、けったいなやっちゃな・・と思っていたら、そのうち、力士として晩年になると、「親孝行」ではなく別のものを得意技にするようになった。人間の身体というものは上半身と下半身とで逆の動きをやるというのは難しいのだが、ところが、千代大海は上半身は突っ張りをやって前に出る動きをしながら、相手の肩のあたりを派手にぱんぱん叩きながら、腰から下は自分から後ろに下がって土俵を割るという極めて難易度が高い技を見事にやってのけるということで「千代大海のムーンウォーク」と呼んで「誰もが尊敬している」ようになったらしい(^^)/ 「親孝行」を得意技にするよりは「ムーンウォーク」を得意技にする方がまだしも相撲取りらしいのではないか。千代大海も進化したではないか・・と思ったものだが、それと同様に・・かどうかわからんが、まがりなりにも法律学者ならば、まがりなりにも法学部教授であるのなら、「文学的表現がすばらしいですね」なんてそんなものをヨイショするのではなく法律学についての学説をヨイショしたらどうなのか? ・・と思うようになった。思いませんか? それまで、この「法と法学・序論」について悪いとは思ってなかったのだけれども、その誉め言葉になってないヨイショを聞かされて、「いや~な気持」にならされたのだった。

  《 「もし私に息子があったら」と述懐した大詩人バイロンは、「何か散文的なもの、法律家か海賊に、なってほしい」といって、法律家を海賊と一緒にした。》という部分は、もしかすると意味を間違えているかもしれませんしね。 なぜ、「法律家か海賊」なのか? それは「散文的なもの」のうちでの両極端だからではないのか? バイロンは「詩人」であったわけで、「もし私に息子があったら」詩人ではなく、むしろ、詩人とは対極にあるようなもの、「散文的なもの」になってもらいたいと言い、その「散文的なもの」で法を守って生きる人間の代表が「法律家」で、逆に法を破って生きる者の代表が「海賊」という意味ではないのか? だから、バイロンは《法律家を海賊と一緒にした》のではなく、いずれも詩人とは正反対のものだが、詩人とは逆のものの中では正反対のものとしてあげていたのではないか。
  《 おだやかに詠嘆したルッタアにとってさえ、「法律家以上でない法律家は困りもの」にほかならなかった。》というのも、これも、法律家に限ったことではなく、「◇◇家以上でない◇◇家は困りもの」といったところはある、「専門バカ」の否定と考えることはできる。「法律家以上でない法律家は困りもの」という言葉は、たとえば職人とかなら、職人としての仕事は誰にも負けないようにできるが、他のことは何も知らない・・という人でも評価されるかもしれないが、法律家の場合は「法律家以上でない法律家」というのは、それはいけない・・という意味ではないか。
  実際問題として、私は弁護士とか裁判官やっている人間て「アホちゃうか」と思ったことが何度もあるのだ。「物は使うと減る。しかし、頭だけは使えば使うほど増える」・・なんてことを、たしか、小学校の低学年の時に小学校の先生から言われたような気がするのだ・・が、言ったのが誰だったかどうも記憶がはっきりしないのだが、小学生の時に学校の先生からだったか親からだったか言われたのは間違いない。しかし、弁護士という民族だけは「頭は使えば使うほど増える」なんてことはなくて、司法試験という難しい試験に合格するために頭の大部分を使ってしまって、残りはほとんどない。頭を司法試験合格の為に使ってしまって、社会人として学んでおくべきものが学べていないという人が多い。司法試験で勉強したこと以外は世間一般の人間の平均よりもはるかに劣る・・という人が多いと思う。しかも、それについて自覚がない。「病識がない」。すべての人がそうだとまでは言わないが、そういう人が多いというのは間違いないはずだ。
  だいたい、弁護士て、依頼者との打ち合わせに自分が希望して決めた日時に、なんで毎回遅刻するの?  かつ、普通、約束の時刻に遅刻したならば、遅刻した側の人間が「すいません」の一言くらい言うものと違うの? ところが、弁護士という民族は「弁護士の辞書には『すいません』という言葉はない」と認識しているのか、六法全書は持っていても国語辞典は持っていないから「すいません」等の言葉を知らないのか、遅刻してきた場合には「すいません」と言わずに「弁護士は忙しいですから」と言う。おまえ、言う文句が違うだろうが! このアホンダラ! この着手金泥棒! 「〇日までに◇十万円振り込んでください」と言うからないカネを無理して大急ぎで振り込んだら、振り込まれたと思うと働かない、この振り込め詐欺! やっぱり、人と約束して約束した時刻に遅刻したならば、「すいません」と言うのは遅刻した側だということくらいは認識しておいてもらいたい。
  それから、「弁護士は忙しいですから」と言うのだが、法廷に遅刻してくる弁護士て、いったい何に忙しいの?
  「弁護士は忙しいですから」と言って、毎回遅刻してきて、高いカネ払って依頼した人間を毎回待たせるのだが、そうやって毎回待たされて我慢してきた人間というのは暇人だと言いたいのか? 依頼者というのはろくに働かない役立たずに暇人呼ばわりされる為に大金払ってるのじゃないんだぞ・・と言っても絶対に理解しないのが「法律家」であり、そういう「法律家以上でない法律家」は「困りもの」である。

  又、依頼者はカネが余っているから弁護士に何十万円、あるいは百万円を超す金額を振り込んでいるのではなく、ないカネを無理して振込んでいるのだ、なんとかしてもらいたい、なんとかしてもらわないと困るんだということで振り込んでいるということくらい理解してもらわないと困るのだが、司法試験という試験に合格する能力はあったとしても、依頼者が何十万円振り込んだとすると、それは弁護士が「もらった」ものだと思ってるやつ、弁護士というのは司法試験に通ることで依頼者から働かない人間でもカネをもらう資格を取得したのだと思ってるやつ、そうじゃないんだよ、依頼者はそのカネをどれだけ大変な思いをして振込んでいるのか・・ということを絶対に理解できない弁護士。そういう「法律家」は法律家ではあっても、困りものであり、「法律家以上でない法律家」というのは間違いなく「困りもの」であるはずだ。「法律家以上でない法律家は困りもの」というのは、法律家を低く評価した言葉ではない。法律家ではあっても、人間として程度が低い法律家が多すぎることに問題がある。そのあたりを理解できていない内部進学の伊東乾先生もまた「法律家以上でない法律家」だったのかもしれない。
  私だって、もしも、法学部に行って法学部の大学院に進んで大学の教員になっていたならば、このあたりの認識は見につけなかったかもしれない・・が、「法律家」はそうでない人間なら身に着けるであろうものを、法律家になることで身に着ける機会を失うことがあるもし、警察に「逮捕」されたなら、あるいは「逮捕」ではなく「確保」された場合でも、警察は職業や保有資格をききたがる。その際に「弁護士」と答えた場合、当然のことながらそうではない一般市民と扱いが変わるはずだ。ところが、それを理解できない弁護士が矢鱈と多い。弁護士ならそのくらい理解しろよ・・と言いたいところだが、ところが弁護士だから理解できない。そういう「法律家」は困りものだというのは、一度、裁判をやって弁護士に依頼してみると、おのれの骨と肉のきしみで理解できる、実感として思い知らされる。

  ・・アトム法律事務所の弁護士芸人のおっさんは、大学に行かずに司法試験1次試験から受験とか、そういった経験をしてきただけあって、YouTuve の動画を見ると、「無能のくせにえらそうにしている」という弁護士の職業病は動画では見られない・・というところは評価できるが、「弁護士は自分自身が当事者として裁判やる場合、弁護士でも弁護士を依頼するのですか」という質問に、「弁護士が自分が当事者として裁判をやる場合でも、客観的に裁判を見て判断してもらうために弁護士を依頼する」などと答えていたが、そのあたりについては、「弁護士を依頼される経験はあっても依頼したことがない人間」の特徴が出ている。そもそも、弁護士みたいなもんに「客観的に見る」ことなんて、できるわけないだろうが! 
  さらに「本人訴訟より役立つ弁護士」というのがいったいどれだけいるか? たいしていないのではないか・・ということがわかっていない。弁護士を依頼すると、着手金だけ盗って、依頼者(当事者)に準備書面も作らせて、それを見て「もっと、法点を絞って要領よくまとめてえ!!!」などと言う・・が、それはおまえがやる仕事だろうが、「法点を絞って、要領よくまとめてえ」てそういう能力がないから、そういう練習をしてきてそういう能力があるはずの人間である弁護士に高いカネ払って依頼しているのだろうが!・・と依頼者(当事者)は思うのだが、ところが裁判が始まってしまうと、そういうことを自分が依頼した弁護士と言い合っている余裕はないので、結局、役立たずにカネだけ盗られたという結果になる、そういう火事場泥棒弁護士が矢鱈と多い・・というか、少なくとも過半数はそういう人間ではないか。「法律家」はそれがまかり通ると思っている弁護士、同類の裁判官。検察官の場合は、司法試験に通っていないのに検察官になっているいわば””裏口入学検察官””である「副検事」なんてやつまでいる。「副検事」と「カンパン」というのは、あそこまでいったら、もとより司法試験に通っていない裏口なのだから「法律家以上でない法律家」でないのみならず、もとより「法律家」の試験に通っていないのだから「法律家」ですらない・・か・・。
  「法律家以上でない法律家」はいっぱいいるのだが、ルッタアがどういうつもりでその言葉を言ったのかわからないが、「法律家以上でない法律家は困りもの」と多くの国民は思っていると思うが、それは真面目に努力する裁判官・検察官・弁護士や大学の法学部の先生を程度の低い人間だと言っているのとは意味は違う。そのあたりを理解できない大学の法学部の先生というのは「法律家以上でない法律家」のひとりか? ・・と見られる可能性がある。内部進学の教授に面と向かってそう言ったなら、おそらく「この私に向ってええ」とか言って殴りかかってくるのではないか・・・。そういう内部進学は困りもの・・・( 一一)
モンダイの弁護士―弁護士って、ほんとうに「人権を守る正義の人」なのか!? (別冊宝島Real (028))
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「困った」裁判官―独占公開!日弁連「問題裁判」実例アンケート (別冊宝島Real 6)
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暴走する「検察」 (宝島SUGOI文庫) - 別冊宝島編集部
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  慶應という大学は、「あれ、この人?」「なんで?」と思う人、発言に「?」を感じる人が時々いるのだが、そういう人は、後から聞いたら内部進学だった・・ということがけっこうある大学である。慶應という学校では内部進学と喧嘩しても勝ち目はない。だから、そういう人がいたら、「・・ああ、そはかの人か」・・「ああ、そは内部進学か・・」と思っておくしかない〔《YouTuve-ヴェルディ 《椿姫》 「そは彼の人か~花から花へ」 マリア・カラス》https://www.youtube.com/watch?v=gr4nOtLN0kA 〕・・のではないか・・と思うようになった。何年か前、週刊誌で慶應幼稚舎の特集をやっていて、そこで、幼稚舎から大学まで慶應に行ったという人が「慶應という学校は大学だけ行けばいい学校だ。小学校から高校までは行く必要はない学校だと思う」と話されていたのだった・・が、この人は内部進学なのにそんなこと言うのか、内部進学でもそういうことを言う人がいるのか、内部進学の人というのは、そんなことうかつに言ったら即座に殴りかかってくるもので、そういう態度を「愛塾」とか「思考が柔軟」とか「独立自尊」とか「スマート」とか「自我が確立されている」とか思っている人たちだと思っていたのだが、そうではない人もいるのか・・と思ったのだが、私が思うに至ったこととは逆のことをその人は言っていたのだ。私はそうではなく「慶應という学校は最低でも高校から行くのでなかったら行く必要はない学校だ。大学から行くのなら行ってもしかたがない学校だ」と私は思うようになったのだ。だから、人それぞれ。思うことは人によって違うのだろう・・。

  
  次回、その伊藤左千夫の詩と「蔵のギャラリー」などについて・・・。

  (2021.9.8.)

☆ 「野菊の墓 文学碑」「野菊苑」「永禄古戦場跡」「矢切の渡し」
1.文学・哲学は毒薬か? 牛乳屋兼歌人・文学者の伊藤左千夫は何か悪いか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_1.html
2.市川側から「野菊の墓 文学碑」への道。「永禄古戦場跡」。「精神保健研究所」て何やってるのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_2.html
3.西蓮寺(真言宗)。『春の潮』に見られる「自我」の主張。結婚式乱入を美化する映画『卒業』は称賛できない。「自我」を持たないことを「自我の確立」と騙す「心理学」「精神医学」ファシズム。小学生用文学全集の是非。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_3.html
4.野菊苑から見た西方の絶景。『野菊の墓』と「文学碑」「野菊苑」の一致する立地。詩的な小説『野菊の墓』。「文学的表現」は文学・哲学ならいいが法律家には誉め言葉にならない。矢鱈と多い「法律家以上でない法律家」 〔今回〕
5.野菊庵・伊藤左千夫の短歌の木札。伊藤左千夫は単作作家ではない。「性格あつかましい」は自慢することではない。本は貸すと返ってこない。「女性版俗物4種の神器」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_5.html
6.「矢切の渡」と江戸川。『春の潮』とともに読むべき『野菊の墓』。いいかげんな「解説」を書く文学部教授と権威主義。『野菊の墓』で押しつぶされた「自我」の主張をする『春の潮』https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_6.htm

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