「野菊の墓 文学碑」と松戸市矢切と文学・哲学への思い【2/6】市川側から「野菊の墓 文学碑」への道。「永禄古戦場跡」。「精神保健研究所」て何やってるのか?

[第550回]
  「野菊の墓 文学碑」2回目です。 「野菊の墓 文学碑」は松戸市下矢切261 《千葉県観光物産協会 e千葉 野菊の墓文学碑》 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8532 には、《 野菊の墓文学碑は、松戸市下矢切にある西連寺の境内にあります。》と書かれているのですが、行ってみると、たしかにお寺の敷地の一部なのだろうと思われますが、寺の北西部に設けられていて、お寺の本堂などへの入口とは別に入口があって、「野菊の墓 文学碑」のすぐ南側はお寺の墓地ですが、墓地との間にははっきりと境界が設けられており、お寺の本堂の方から「野菊の墓 文学碑」へ行くことはできず、「野菊の墓 文学碑」からお寺の本堂の方に行くこともできないようになっていますので、「西蓮寺の境内」という感じは薄い。 「寺の境内にある」という感じなら、本堂に手を合わせて、それほど多額ではないとしても、賽銭箱にいくらかは入れてくるところでしたが、そんな感じではなく、そもそも、賽銭箱というものが見当たりませんでした。

  今回はクルマで行きましたが、鉄道で行くのならば最寄駅は北総鉄道「矢切」駅です。西に行くと京成「高砂」、東に行くと「新鎌ヶ谷」。「高砂」で京成本線・金町線と乗換、「新鎌ヶ谷」では新京成電鉄・東武野田線と乗換ができます。《千葉県観光物産協会 e千葉 野菊の墓文学碑》 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8532 には「矢切」駅から徒歩20分 と書かれています。今回の訪問は8月後半、矢鱈暑い日でしたので、屋外を20分歩くのは「もう若くなくなった」者にはきつい状況でしたが、9月以降、涼しくなった季節なら「矢切」駅から歩くのは、「歩ける道」ですし、「野菊の墓 文学碑」のあたりというのは、『野菊の墓』の舞台だった斎藤家はこんな所だったのか・・と思いながら歩いてみるのは決して悪くないのではないかと思います。
  JR常磐線の「松戸」駅からバスが出ているようで、《千葉県観光物産協会 e千葉 野菊の墓文学碑》 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8532 によると、松戸駅の東口ではなく西口から市川行のバスに乗り、「下矢切」バス停で下車するのが近いようですが、「下矢切」バス停から徒歩15分というので、「近い」というほどではありません。
《京成バス 下矢切 時刻表 松戸駅・松戸営業所行き》https://transfer.navitime.biz/keiseibus/pc/diagram/BusDiagramorvCode=00180273&course=0003900571&stopNo=16
《京成バス 下矢切 時刻表 市川駅行き》https://transfer.navitime.biz/keiseibus/pc/diagram/BusDiagram?orvCode=00180273&course=0003900293&stopNo=14
を見ると、下矢切バス停から松戸・市川行きのバスはけっこう本数は多いようなので、使えそうです。
  西に行くと「矢切の渡し」がありますが、「矢切の渡し」が出ている東側、堤防より陸側に「矢切の渡し」バス停があって、ここにも松戸駅からバスが出ているようなので、そちらから行く方法もありますが、「土曜・休日のみ運行」らしい。
  「矢切の渡し」の舟は観光用で大量に人が乗れるような舟ではありませんが、江戸川を渡った西側は柴又帝釈天の東のあたりのはずですから、京成「柴又」→柴又帝釈天→矢切の渡し→野菊の墓文学碑 というルートも考えられます。
※ YAHOO! ロコ 野菊の墓文学碑 https://loco.yahoo.co.jp/place/g-fVcH7Eqk7qE/?utm_source=dd_spot&sc_e=sydd_spt_slo_p_ttl&lsbe=1
ウィキペディアー野菊の墓 文学碑 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%8F%8A%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A2%91
松戸市観光協会 野菊の墓 文学碑 https://www.matsudo-kankou.jp/bungakuhi/
観るなび 野菊の墓 文学碑 https://www.nihon-kankou.or.jp/chiba/122076/detail/12207aj2200116039
松戸市 矢切の渡し・野菊の墓文学碑 https://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/sanpo-map/yakiri-nogiku.html
千葉県観光物産協会 e千葉 野菊の墓文学碑 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8532

  今回はクルマで行ったので、クルマでのルートを説明します。
[1]-1  鉄道・バスの場合と違って、船橋市在住の私が行く場合のルートですから、南側・市川市側から行く場合のルートです。
  国道14号(千葉街道)を西に進み、JR総武線「市川」駅の北側を通り過ぎると、京成本線「国府台(こうのだい)」駅の南側で、「市川広小路」という交差点で南北に走る県道1号(松戸街道)と交わりますから、この県道1号(松戸街道)を北に行きます。
  もしくは、東京歯科大市川総合病院の南側の道を西に進み、京成本線「市川真間」駅の西のあたりで京成本線の踏切を横断して、真間本通りを横切り、「市川真間通り」を西に進むと県道1号(松戸街道)にぶつかるので、それを右折して北に進みます。
  京成本線「国府台(こうのだい)」駅の西で京成本線をくぐります。
  そのまま、道なりに北に進みますと、右(東)に千葉商科大学・左(西)に和洋女子大学があります。さらに進むと、左側に国府台高校があり、東京医科歯科大があります。東京医科歯科大と市川市菅野5丁目にある東京歯科大市川総合病院の東京歯科大は違うのか?・・というと、違うみたいです。東京医科歯科大というと、遠藤周作『松葉杖の男』(遠藤周作『月光のドミナ』新潮文庫 所収)にも登場する「御茶ノ水」駅の北側、御茶ノ水橋で神田川を渡ってすぐの北側にあるやつ ↓ と違うのか?

月光のドミナ - 遠藤周作
月光のドミナ - 遠藤周作
  東京医科歯科大学なのに、なんで千葉県市川市にあんねん? 千葉県にあるのに東京ディズニーランド・千葉県にあるのに東京ドイツ村みたいなもんか?
  東京医科歯科大学ホームページの「キャンパスマップ」https://www.tmd.ac.jp/outline/campus-map/ を見ると、東京医科歯科大学には「湯島キャンパス」の「湯島地区」「駿河台地区」と「国府台キャンパス」「国府台地区」があるらしい。 菅野5丁目にある東京歯科大学市川総合病院というのは、東京医科歯科大学から落丁で「歯科」が欠落したのか?・・というとそうではなく、東京歯科大学という私立大学があって、東京歯科大学ホームページの「アクセス」https://www.tdc.ac.jp/college/access/tabid/200/Default.aspx を見ると、JR中央線「水道橋」駅の南のあたりにあるらしい。水道橋駅付近には何度も行ったことがあるが、そんなもん、あったかなあ・・・と思うが、あるらしい。なんか、東京医科歯科大学のパチモンみたいな名前やなあ・・。1993年、東京都江東区亀戸の住宅展示場で、(株)一条工務店が商品名に「セゾン」なんてつけていたので、入りかけた来場客が「おい、ここは西武じゃねえぞ。一条工務店なんて書いてあるぞ。こんな所、入っちゃだめだ。出ろ出ろ出ろ! 入っちゃだめだ。早く出ろ!」と言って出て行かれた・・なんてことがあったみたいだが・・かつ、西武セゾングループというものがそのへんにない浜松の人間、(株)一条工務店の遠州人は東京圏の営業が「西武のぱちもん」視されてもそんなことまったく無頓着、平気の平左、「浜松良ければすべて良し」という認識だったが、市川市菅野5丁目の東京歯科大学市川総合病院は「なんか、東京医科歯科大のパチモンみたいな名前」と思う人は思うのではないかと思うが・・というか、私が最初にこの病院を知った時、そう思ったのだが・・別に入りかけて出て行く人というのは別にないみたい・・だけれども、歯科大の附属病院のわりに歯科以外の科も診療している。東京歯科大学市川総合病院というからには歯科については東京歯科大学卒の歯医者が診療しているのだろうけれども、他の科はどないしてんねん・・というと、市川市の住人から慶應大医学部卒の医者が多いらしい・・と聞いたので慶應大医学部と関係が深い病院なのか?・・と思っていたら、慶應大学は共立薬科大学と合併して共立薬科大学が慶應大学薬学部になったのに続いて、東京歯科大学とも合併して東京歯科大学が慶應大学歯学部になるという記事が新聞に出ていた。ほほお~お、なるほど。「東京歯科大学」では「東京医科歯科大学のぱちもん」みたいな印象だが「慶應大学歯学部」だと「慶應大学医学部」の兄弟みたいだし「東京医科歯科大学歯学部」とも同格みたいな感じになる。なるほど・・・。
  何年か前、ヤフーニュースだかに出ていたのだが、大学全体を合併とか身売りとかするのではなく、特定の学部・学科のみを他の大学に売却するという方法が出てきた・・ということらしいのだが、それならば・・だ。慶應大学の理工学部は私が高校を卒業する頃は「理工学部」ではなく「工学部」で、その前は藤原工業大学と言ったらしく、慶應義塾出身の藤原銀次郎さんという方が創設した藤原工業大学が慶應大学と合併して慶應大学工学部になったというものらしいが・・・ついでに私が在学中、慶應大学理工学部の某は東大の理科一類だったか理科二類だったかを受けて落ちて慶應大理工学部に入学したらしく、「ぼく、慶應みたいなもん、落ちるなんて思わなかったも~ん」とか言うておったようなので、それで、「ちょっと知ってたあ。◇◇、アホやでえ~え」「え~え? アホやった~ん。なんでえ~え?」「東大落ちたやんか」・・と言ってやったことがあったのだが、それが1980年代、私が在学中に「工学部」から「理工学部」に変わったのだが、ところが、慶應大学の工学部⇒理工学部というのは学科ごとではなく工学部⇒理工学部として募集して入学後に学科に分かれるようになっていたのだが、昔からある大学だし、当然、建築学科くらいあるだろう・・・と思いこんで受験して入学して、入学してから「え? 建築学科はない???」「ええ~え!!!」なんて学生がいた(笑)という大学だったのだが、それに対して、天下の日大・・何が「天下の」かというと学生数が日本一♪・・の日大てのは、建築学科が3つもある(^^♪  福島県郡山市の工学部・千葉県の理工学部・千葉県の生産工学部と建築学科が3つもある大学ですから、福島県郡山市のものは場所が離れているからあってもいいとして、千葉県に建築学科が2つなくてもいいのではないか、だから、千葉県にある理工学部建築学科と生産工学部建築学科のどっちか片方を慶應大学理工学部に売却しちゃったらどうだろうか? そうすると、それまで「御主人さん、わたしい、日大ですけど、一応、建築学科でてますんでえ」とか「一応」付きで言うておった工務店のおっさんが、ある日、突然、ふんぞり返って「り~くの~お、お~おじゃあ、け~いお~お♪」とか叫びよる・・とか、ありそうな感じが・・。なんで、慶應は建築学科を作らんのだろうね・・。
  さらには、東京圏には私立金権裏口ドバカ医学部なんてのがゴマンとあるわけで、片方で「医学部創設が悲願」という早稲田大学があるわけだから、私立金権裏口医学部を早稲田大学に売却しちゃえば、「あんな所にかかったら殺される 」と言われていた私立医学部が、ある年から「早稲田大学医学部」となり、入試の難易度もあっと言う間に上昇して「慶應大学医学部」に匹敵する「早稲田大学医学部」になる・・・て、そりぁ、私立金権ドバカ医大と言ってるよりも「早稲田大学医学部」と言った方がありがたみがある・・と思いませんか?

  それで・・だ。左側(西側)に国府台高校
があって、その北に東京医科歯科大学「国府台」キャンパスがあるあたりの右側(東側)に国立国際医療研究センター国府台病院「精神保健研究所」があるのだ
  こわそお~お・・、こわそお~お、こわそお~お!!!

〔 ↑ マーカーが「精神保健研究所」。 その北側が国立国際医療研究センター国府台病院。
道路を隔てた向かい、「こうのだいキャンパス」と書かれているのが東京医科歯科大学国府台(こうのだい)キャンパス。〕
※ 「精神保健研究所」HP 「精神保健研究所沿革」https://www.ncnp.go.jp/mental-health/about/souritsu02.html

  国立国際医療研究センター国府台病院HP の「診療科」http://www.ncgmkohnodai.go.jp/clinical_department.html を見ると、一応、外科・皮膚科・整形外科といった診療科もあるらしいけれども、どうも、ここの「病院」は「精神科」「脳神経外科」「心療内科」「児童精神科」というあたりが中心の「病院」みたい・・・。なんか、あんまり近寄らん方が良さそうやな・・・・
  特に、「精神科」については悪名高い保安処分推進派の中田修 の東京医科歯科大学の向かいにある「精神科」中心の「病院」・・・て、善良な市民はできるだけ近寄らん方が良さそうやな・・・
くわばら、くわばら・・・・。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
▼「熊谷連続放火」デッチ上げ事件裁判
  反対尋問の例としては典型的とはいえないが、東京高裁二部で行われた熊谷連続放火事件(被告・水谷和弘)控訴審では、御用鑑定人である中田修を、法廷での尋問を通じ全面的に粉砕した。本事件の一審(浦和地裁)で、水谷和弘の有罪(懲役6年)を決定的にしたのは精神鑑定であった。水谷本人は否認していながら、公判技術上の判断から弁護側が心神耗弱論をとる情状裁判を進めた結果、精神鑑定というワナに足をすくわれたのである。 東京医科歯科大 犯罪精神医学教室・中田修による鑑定書は、被告とされた者は犯罪を犯しているという予断を前提に、検事側主張を追認することに専心し、水谷を「非行少年」「精神病質」とまったく一方的かつ無根拠に認定、「家庭が面白くないから火をつけて快をむさぼろうとした」と判断した。その問診は、検事のやり方とほとんど同じであった。
  こうして控訴審では、一審での鑑定をくつがえす弁護側の主眼の一つとなった。そのために弁護側は、ただちに別の専門医(西村 詮)に働きかけ、中田鑑定書の分析を求めた。西山との打ち合わせをふまえ、中田鑑定が精神医学の通常のやり方を越えているものであることなどを学問的に確認した上で、78年6月6日中田の証人尋問を行い、弁護側は圧倒的な勝利を得たのである。そして、78年7月20日、中田尋問のあとに西山を証人として法廷に呼び、ダメ押しをしたのである。
 ( 反弾圧・反権力連絡会議 編『権力と闘うための法律知識』1979.1.31. 三一新書 )
権力と闘うための法律知識―必携・反弾圧! (三一新書 890) - 反弾圧反権力連絡会議
権力と闘うための法律知識―必携・反弾圧! (三一新書 890) - 反弾圧反権力連絡会議
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
頭脳支配 (1971年) (三一新書) - 高杉 晋吾
頭脳支配 (1971年) (三一新書) - 高杉 晋吾
《 これに対応して1961年4月、日本精神神経学会の一部分子は「刑法改正問題研究委員会」を組織し、1965年10月「刑法改正に関する意見書草案」(第一次案)を発表した。この第一次案なるものが、実に準備草案さえも顔負けするナチス刑法そのものずばりといったシロモノで、政府案さえもその反動性がかすんでしまう類のものであった。
  すなわち、準備草案にさえ、人権侵害のおそれがあるとして採用されなかった「労働嫌忌者に対する労作処分(強制労働)」、「危険な常習犯人に対する保安監置」、「去勢処分」を積極的にうち出したのである。この意見書を定期した「委員会」のメンバーは、中田 修 委員長(犯罪学会)、吉益 修夫(よします しゅうふ)(犯罪学会)、野口晋二(犯罪学会、ロボトミーをやっている桜が丘保養院長)、樋口幸吉(犯罪学会、法務省)、新井尚賢(犯罪学会、東邦医大教授)、林 暲(犯罪学会、神経研究所)等の錚々たるメンバーであった。われわれは、これらのメンバーが精神神経学会をいつのまにか「代表」して策動を始めた背景を、よく銘記すべきだろう。このあまりといえばあまりの意見に、さすがに精神神経学会内で反対の意見が嗷々(ごうごう)となり始めた。
・・・ 》
( 高杉晋吾『頭脳支配ーおそるべき精神医療の実態』1971.6.15. 三一新書  「4.精神医療と治安立法」より )
《 さて、日本においてはどうだろうか?
  その思想的立脚点を知るために、日本犯罪学の確立者と言われ、元東大教授、前 東京医科歯科大学教授、現 科学警察研究所顧問の吉益 修夫(よします しゅうふ)博士の思想を紹介しよう。端的にまず彼の革命観から見てみよう。
 彼は、フランス革命についてつぎのような論断を下す。
 「革命の心理学的特性は、これまで殆ど同質であった国民共同体が二つの政治的集団、すなわち古い体制の代表者と新しい組織の推進者とに急激に分裂することにある」
 「さて、一体革命の如く法律の一般予防の圧力がなくなった時は、成人の誰もが等しく群衆暗示に駆られて無制限な残忍行為を敢行するものだろうか? そうではない。この時 直前に現れて、犯罪性を遺憾なく発揮するのは以前から犯罪的傾向を持った人、すなわち潜在犯罪者の範疇から駆り集められた犯罪者群である。最も明瞭にこの関係を語るものはフランス革命である。
  1789年の春 不穏な気運が見えかけると、大群の無頼の徒はパリ-の周囲に集まって彷徨した。四月の終り頃になると、全国から出て来た多勢の見知らぬ人間が襤褸をまとい、棍棒をかついで我こそはという格好で現れて来た。獲物の周りに集まった禿鷹のごときこの人間共は密輸入者、密猟者、浮浪者、乞食、犯罪者、無鉄砲な無頼漢の類であった。かれらは職業がないばかりではなく道徳も持たない階級の人々であって、ギゾーのいわゆる社会の残滓からなっている。革命の初めの置くの兇行が主としてかれらによって行われたばかりでなく、その後の組織的虐殺もまたかれらの仕業であった。アヴィニョンの恐るべき虐殺を行った一味の中から、方法を教えにパリへ来た者共が加わって七月の虐殺が行われた。九月の虐殺の下手人中にはマルセイユ、アヴィニョンなど南の地方から集まった同志の他に、肉屋その他粗暴な労働者が加わっていたが、おそらく彼らは護国軍を懐柔するためにコンミューヌによって雇われたものらしい。そして前述の同志というのは以前の兵士、盗賊、脱走者、ジプシー、浮浪者などであって、それらの一人は180人の首を槍にかけたいために、180哩を遠しともせずやって来た、と豪語したということである。かれらの中には本能的に獣性を発揮した本来の犯罪者の他に、羊のごとく受動的に駆りたてられあるいは最初善良な意図をもってやって来た者が血に中毒して理性を失い、『殺人宗』に改宗したものも含まれる。しかし、とにかくフランス革命という芝居の役者達の大部分は、家と職のない平素の犯罪者や、浮浪者、無政府状態において犯罪的本能を蘇らせられた潜在犯罪者、野心的冒険家、半呆けの狂信家の精神病者からなっていたことは十分証明された」
  どうやらこれで「犯罪学」とはいかなる学であるのか、そして犯罪学の「父」とはいかなる史観をもっているのか、ということが「十分に証明された」といってよいのではないだろうか。そして彼ら犯罪学者の胸の中にある革命がこのようなものであり、革命家像がこのようなものであることが、単に歴史上の革命観のみならず、現実に起こる諸闘争と二重映しになり、偏執狂的にこれを律し去ろうとしてさまざまの統計をもて遊び、「犯罪生活曲線」などというものを打ち出して来るところに、単なるパラノイアごっこであるとは笑い飛ばせぬ恐ろしさがある。・・・ 》
( 高杉 晋吾『頭脳支配――おそるべき精神医療の実態』1971.6.15. 三一新書 「6.狂気・犯罪・反乱」より )
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
 お~こわ~
恐怖の精神病院 《IVC BEST SELECTION》 [DVD] - ボリス・カーロフ, アンナ・リー, マーク・ロブソン
恐怖の精神病院 《IVC BEST SELECTION》 [DVD] - ボリス・カーロフ, アンナ・リー, マーク・ロブソン

  いかにも怖そうな東京医科歯科大学国府台キャンパスと国立国際医療研究センター国府台病院・精神保健研究所 の間は、さりげなく、眼を合わさんようにして、クルマはできるだけ停車せずに進んで、クルマから降りることなくさりげなく進んで北に直進。
  うかつに徒歩で近づいて「こいつ、気に食わねえ」とか思われたら「逮捕監禁療法」(=”入院療法”)とかされるかもしれん。いったん「逮捕監禁」されたら、次は「薬漬毒盛療法」(=”薬物療法” ”化学療法”)とかされるか、「電気ショック療法」とかされるか。もしくは「緊縛療法」とか、「強制労働療法」「無賃労働療法」(=”作業療法”)あるいは「撲殺療法」(=”精神外科療法”)とかされるか・・・もうちょっと”穏便”に「洗脳療法」「言いくるめ療法」「マインドコントロール療法」(=”心理療法” ”カウンセリング” )とかで精神改造するか。そういった「人間による人間の加工」が表の街道から隔絶された場所で断固としておこなわれている? ・・・ ともかく、そういうややこしい所とは善良な市民はかかわらんのが一番や。怖いから近寄らん方が良さそうやな・・・。

  そのまま北に進むと、右にマルエツ がある。このあたりから松戸市だが、松戸市栗山 で、まだ「矢切」ではない・・けれども、松戸市栗山に 栗山浄水場があり、その西に 野菊の里 浄水場 があり、さらに西に 矢切取水場 があるのだが、住居表示としては栗山浄水場は松戸市栗山だが、その西の 野菊の里 浄水場は松戸市栗山と松戸市下矢切とにまたがって存在し、その西の矢切取水場とその西の江戸川の取水塔は松戸市下矢切にある。
  松戸市栗山のマルエツは店名は マルエツ 八切駅前店 https://www.maruetsu.co.jp/index.php/shop/detail/9251 と言うらしく、このすぐ北に北総鉄道の「矢切」駅がある。
  マルエツ矢切駅前店の向かいあたりに サイゼリア があり、こちらは サイゼリア 松戸矢切店https://shop.saizeriya.co.jp/sz_restaurant/spot/detail?code=1176 と言うらしい。
今回は、帰りにここで食事をした。

  マルエツ 矢切駅前店・サイゼリア 松戸矢切店のすぐ北の右側(東側)に、「民子と野菊と矢切の渡し」と縦長の看板が立った小広場というのか、小ロータリーがあるが、ここが北総鉄道「矢切」駅だ・・が、電車はここでは地下を走っているので地上では電車は見えない。
DSC06405.JPG
DSC06408.JPG
↑ 《 初恋のまち・やきり 》《 名作「野菊の墓」の舞台 》
《 民子と野菊と矢切の渡し 
  下矢切商和会・矢切地区風致保存会 》
と書かれています。
DSC06407.JPG

  「矢切」は「やぎり」で、「き」に「てんてん」、濁音だと思っていたのだが、この看板 ↑ には「やきり」と「てんてん」なしの清音で書かれている。あれ? 「やぎり」ではなく「やきり」だったの? そうなると「やぎりのお~お、わた~し~い♪」とか歌っていたおっさんは、間違った音で歌っていたのかあ?
※ 《YouTuveー細川たかし 矢切の渡し 【愉快にオンステージ】》https://www.youtube.com/watch?v=rzN2TsnVTLE

  《ウィキペディアー矢切》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%88%87 によると、《 矢切(やきり/やぎり)は、千葉県松戸市にある上矢切(かみやきり)、中矢切(なかやきり)、下矢切(しもやきり)の3地区の総称。かつてはそれぞれ上矢切村、中矢切村、下矢切村という独立した村だったが、松戸町との合併により松戸市の一部となった。 公称地名等はいずれも「やきり」と清音で読むが、駅名(矢切駅)、バス停留所名は「やぎり」と濁音になる。後述の歌謡曲『矢切の渡し』も「やぎりのわたし」と読ませているため、濁音で発音されることが多くなった。》
  住居表示では「かみやきり」「なかやきり」「しもやきり」と清音だが、駅名とバス停名は「やぎり」と濁音で歌謡曲の「矢切の渡し」でも濁音で歌っているということで、どちらが正しくどちらが間違いというわけでもないようだ。発音するには濁音で「やぎり」と言う方が言いやすいように思う。 千葉県の東部の山武市は、かつて山武郡山武町があったが、山武町とその他のいくつかの町が合併して山武市になったが、山武町は「さんぶ」町だったが、山武市は「さんむ」市らしい。 船橋市飯山満も「はさま」説と「はざま」説があるようだが、「いいやま みつる」ではない。

  北総鉄道「矢切」駅のロータリーはそれほど広いものではなく、電車が走っている場所も地下であり、初めて前を通ると、はたして、ここが駅なのかどうかわからずに通り過ぎてしまう・・が、一度、ここが駅だと理解すると、次回からは目印になる。
  さらに北に進むと、右側に皆川病院。さらに進むと、右手に小さい郵便局〔 松戸矢切(まつどやぎり)郵便局https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300105348000/ と言うらしい〕、左側にビッグボス 矢切店〔ビッグボスシバザキ株式会社 実店舗https://www.bigbossliquor.com/shop.html 〕がある交差点があり、「下矢切」交差点というようだが、ここを左折する・・が、郵便局はそれほど大きな郵便局ではなく目立たないし、気づかずに通り過ぎてしまう可能性もある。
  ビッグボスて、けっこうよく見るような気がしたが何屋だっけ・・と思ったが酒屋らしい。

  「下矢切」交差点を左折して西に行くと、正面に矢切神社があり、ここを左折すると、「矢喰村庚申塚」があるが、庚申塚の手前を西に行く。庚申塚の方に向かって左側ではなく右側の道を進む。 初めて行くと「矢喰村庚申塚」と「矢切神社」が紛らわしく混同して間違えやすいが、2回目以降は間違えることはない・・と思うので、また、いつか行ってみたい。
  矢喰村庚申塚の北側の道を西に進むと、後は道なり。 右側(北側)に「カトレアハウス」というアパートの名前が出ているのを見ながら西に進むと、左側の上に「野菊の墓 文学碑」、右側の上に「野菊苑」がある交差点に出る。
DSC06376.JPG
( ↑ 「野菊の墓 文学碑」がある一角。 )


  ↑ の階段を登っていった上の左側に「野菊の墓 文学碑」↓ がある。
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫
野菊の墓―他四編 (岩波文庫 緑 9-1) - 伊藤 左千夫

  「野菊の墓 文学碑」がある所へ登る階段の左手には木製の縦長の碑 ↓ が建っており、これも「野菊の墓 文学碑」を示すものか? と思ってよく見ると、どうも、書かれている文言が違うようだ。
DSC06381.JPG
↑ 読みにくいが「史跡 永禄古戦場跡・・」と彫られているようだ。
  ここは「西蓮寺」というお寺の北西の一角なのだが、「野菊の墓 文学碑」が設置されているけれども、「永禄古戦場跡」でもあるらしい。
  「永禄古戦場」とは何かというと、「野菊の墓 文学碑」の南のあたりに、「永禄古戦場跡」についての説明看板が出ていたが、
DSC06377.JPG
《 史跡 国府台の戦争
  今から約400年前、この国府台で二度の大戦争があった。それぞれ敵味方千人以上の戦死者がここに死かばねをさらした。
  ・・・第一回の戦争は、天文7年(1538)10月7日、相模台の合戦ともいい、これを前(さき)の国府台合戦という。
  第二回はこれより25年後、永禄7年(1564)正月7日の合戦でこれを後(のち)の国府台合戦という。それはここ矢切台で戦われた。
  合戦の背景
  この時代の関東地方はだいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸大谷口城主 高城(たかぎ)氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。これに対して安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方へも手を伸ばして千葉、原、高城らを攻め、やがて北条氏をも破って関東の実験を握ろうと野望をいだいて茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。
  合戦のもよう
  矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老 遠山丹波守直景 と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
  この時、小金大谷口城主 高城氏も北条方に加勢のため、下矢切 大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
  遠山、富永 等は大将 北条氏康、氏政 父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し渡り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
  遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中まで攻め登った所を、一挙に坂上から攻め落とした。北条方の勇将 富永三郎右衛門尉 は、朝からジュンサイ池附近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。
  又、遠山丹波守は、この坂下 坂川の手前「カイカバ曲り目の内野」という所で、里見方の里見山之介という十六才の少年にその首を打たれた。
  この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いたが、この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗戦となり、大将 里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後 再起することはなかった。
  本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 江戸城主
癸亥(みずのと い)正月
其外千余人」と記されている。
  南無・・・
 昭和45年(1970年) 正月 撰文 奥山 儀八郎
       矢切地区風致保存会 》
と書かれている。「野菊の墓 文学碑」が設立されたのが、1965年(昭和40年)5月だから、↑ の説明書きが設置されたのはそれより5年後ということになる。
※ 《ウィキペディアー野菊の墓 文学碑》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%8F%8A%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A2%91

  このあたりは、伊藤左千夫『野菊の墓』の舞台であるとともに、16世紀、里見軍と北条軍の戦いがあった場所でもあるということらしい。


[1]-2  県道1号(松戸街道)を北上して、松戸矢切郵便局が東、ビッグボス 矢切店 が西にある信号がある「下矢切」交差点を左折する(西に曲がる)ところを直進してしまった場合、それからたいして行かないうちに、国道298号(下を東京外環自動車道が通っている道)と交差する交差点に出るので、ここで左折して、国道298号のさらに側道を進み、国道298号を超える歩道橋がある所を左折(南に曲がる)道があるので、それを曲がって南下すると矢切神社の東側に行く。 実は今回、私は「下矢切」交差点で曲がるつもりで通り過ぎて、この経路で行くことになった。・・で、この道を行った場合は矢切神社の南側で右折して西に行くのだが、神社、神社・・と思って見て進むと「矢喰村庚申塚」を、これが矢切神社か? と思い、え? え? え? ・・と思って南に行き過ぎてしまうことがあるので、その場合は適当な所で戻ってきて矢切神社の南側、矢喰村庚申塚の北側の道を西に行くようにする。

  「野菊の墓 文学碑」があり、「永禄古戦場跡」の木製の碑が建っている一角の道を隔てた北側に「野菊苑」という公園というのか、広場があるのだが、その西に公衆便所もある。
  公衆便所はあるけれども、「野菊の墓 文学碑」「野菊苑」来場者用の駐車場はない。


[2]  市川側からの行き方としては、もうひとつ、東京外環自動車道の側道である県道298号を北上する方法がある。
  国道14号(千葉街道)で、京成本線「菅野」駅のすぐ南

( ↑ マーカーは京成本線「菅野」駅。 )
「駅入口」交差点と道路地図には書かれているのだけれども、実際に国道14号から曲がろうとすると、どこか見つけにくいのではないかと思うが、そこを北に曲がる。 菅野のあたりは、かつては「高級住宅地」だったという話で、だからなのか東京外環自動車道が通ることに住民は反対だったらしいが、それに配慮したのか東京外環自動車道はこのあたりでは地下を走り、側道の国道298号は地上を通っている。
  国道14号(千葉街道)からでなければ、東側は「菅野通り」とか「アーデル通り」とか道路地図には書かれている道を西に進んで、東京歯科大市川総合病院https://www.tdc.ac.jp/igh/tabid/734/Default.aspx の西、マルエツ 市川菅野店https://www.maruetsu.co.jp/index.php/shop/detail/9295 の西、華屋与兵衛 市川菅野店https://maps.hanayayohei.co.jp/jp/detail/3740.html の西のあたり、「市川総合病院入口」と道路地図には書かれている交差点で国道298号を北に行く。

( ↑ マーカーは「東京歯科大学 市川総合病院」 )
  高速道路ではなく側道の方でもクルマで走りやすい道なのだが、難点として、どこで曲がるのかわかりにくいという問題がある。

  東京外環自動車道「松戸」インターチェンジを過ぎてすぐの交差点を南に曲がり、県道1号(松戸街道)を南下して、東側に松戸矢切郵便局、西側にビッグボックス 矢切店がある信号がある交差点を西に曲がり、矢切神社の南側をさらに西に進むと「野菊の墓 文学碑」が南側、「野菊苑」が北側にあるあたりに至る・・・が、松戸矢切郵便局は本局ではなく、たいして大きくない郵便局なので歩いて前を通るとわかるだろうけれどもクルマで走ったのでは気づかずに通り過ぎる可能性が小さくない。ビッグボックス 矢切店の方がまだしも目立つが、それほど目立つというほど目立つわけでもない。東京外環自動車道の側道(国道298号)と県道1号(松戸街道)が交わる交差点から南下して最初の信号の所・・・と覚えて西に曲がるようにする方がいいかもしれない。

  道路地図によると、東京外環自動車道の側道の国道298号を北西に行くとすぐに、国道6号(水戸街道)と交わるジャンクションに出る。又、県道1号(松戸街道)をそのまま北に進むとJR常磐線を高架で超えることになり、常磐線を越えてすぐのT字路を右折して進むとJR「松戸」駅の西のあたりに至るようだ。
街の達人 7000 でっか字 千葉 便利情報地図 (でっか字 道路地図 | マップル) - 昭文社 地図 編集部
街の達人 7000 でっか字 千葉 便利情報地図 (でっか字 道路地図 | マップル) - 昭文社 地図 編集部

  次回https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_3.html こそ、「野菊の墓 文学碑」と「野菊苑」について述べる。

  (2021.9.5.)

☆ 「野菊の墓 文学碑」「野菊苑」「永禄古戦場跡」「矢切の渡し」
1.文学・哲学は毒薬か? 牛乳屋兼歌人・文学者の伊藤左千夫は何か悪いか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_1.html
2.市川側から「野菊の墓 文学碑」への道。「永禄古戦場跡」。「精神保健研究所」て何やってるのか? 〔今回〕
3.西蓮寺(真言宗)。『春の潮』に見られる「自我」の主張。結婚式乱入を美化する映画『卒業』は称賛できない。「自我」を持たないことを「自我の確立」と騙す「心理学」「精神医学」ファシズム。小学生用文学全集の是非。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_3.html
4.野菊苑から見た西方の絶景。『野菊の墓』と「文学碑」「野菊苑」の一致する立地。詩的な小説『野菊の墓』。「文学的表現」は文学・哲学ならいいが法律家には誉め言葉にならない。矢鱈と多い「法律家以上でない法律家」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_4.html
5.野菊庵・伊藤左千夫の短歌の木札。伊藤左千夫は単作作家ではない。「性格あつかましい」は自慢することではない。本は貸すと返ってこない。「女性版俗物4種の神器」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_5.html
6.「矢切の渡」と江戸川。『春の潮』とともに読むべき『野菊の墓』。いいかげんな「解説」を書く文学部教授と権威主義。『野菊の墓』で押しつぶされた「自我」の主張をする『春の潮』https://tetsukenrumba.at.webry.info/202109/article_6.htm
保安処分 (1984年) (三一新書) - 青木 薫久
保安処分 (1984年) (三一新書) - 青木 薫久
刑法改正をどう考えるか (三一新書 888) - 刑法改正・保安処分に反対する百人委員会
刑法改正をどう考えるか (三一新書 888) - 刑法改正・保安処分に反対する百人委員会
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫
現代の医療被害 (1978年)
現代の医療被害 (1978年)
《 坂本一仁君は昭和40年(1965年)2月(7歳)頃より後方へ倒れる、食事中ハシや茶碗を落とすという小発作があり、九歳よりさらにそれに大発作も合併し、梅が丘病院より東大分院神経科に通院し、薬物療法をうけつつ通学をしていたのだが、精査のため昭和43年(1968年)9月(10歳)東大脳外科を受診し、同年11月入院検査し、てんかん治療のため定位脳手術(視床内髄板破壊術)の適応ありとされ、翌昭和44年(1969年)11月(11歳)東大脳外科に入院し、同年(1969年)12月と翌年(1970年)1月の2回にわたり両側の視床内髄板破壊術を受けたのである。ところが、手術後より運動失調の状態となり入院前と一変して自立歩行もできない状態のまま退院を強要され、以後一度の脳外科医師による診察・往診もないまま自宅で看護を一人で行ってきた母は、ついに昭和48年(1973年)1月東大病院を告訴(民事)するに至ったのである。
 ・・・・
  公開討論会では坂本君へのステレオ手術の批判は、まず手術の同意をめぐっておこなわれた。保護者である母は「骨に穴をあけて行う検査」としか説明されていないと主張し、それを裏づけるように看護日誌にも母が入院に際し入院目的をそのように理解していた旨が記載されている。これに対し受持医である吉益 医師は、母を何度も呼出したが来院しないので電話で説明して手術の同意を得たと言うのであった。同意をめぐる両者の対立は、本当に吉益 医師が電話をかけてきたのか否かということにもまして、電話一本で手術の同意を得るということがそもそも可能かどうかという根本的な差異を示した。どのような外科手術であれ、人体にメスを加えることには変わりない。患者・家族が対等な医療行為の契約関係を結びたいと望むのに対して、医師側は一度医師にまかせた限りは絶対の信頼を医師に与えよという依存関係(依らしむべし、知らしむべからず)を要求する。手術の実態を知ってたら決して手術させなかっただろうと嘆く母と、患者への行為から積極的に手術をしてやったという医師との間の亀裂は深い。
  坂本君の場合、近代的な契約関係から言っても同意が成立していないのは明白である。しかし、・・・
  ・・・・
  ・・坂本君の手術の場合、母への同意が問題になっているが、本人に対してはどうか。吉益医師は「坂本君は精神薄弱で字も書けないし、子供だから同意をとっていない」という。これは治療者の一方的論理である。坂本君本人への同意は何によって可能か、ということと「同意がとれない」人への「実験的治療」は許されるかという二つの重大な問いが発せられる。・・・》
( 青年医師連合東大支部 編著『現代の医療被害』1978.8.31. 三一書房 ↑ 「第二章 現代の医療被害論」「[3]医療被害を生む構造」「(五)人体実験と研究至上主義」「(5)東大脳外科による定位脳手術」 より。 ) 

告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック