「慶早戦」を見に行きたくない理由。自分が「応援」するのではなく人に「応援」させて「指導」しようという「応援指導部」。講義を妨害して太鼓をどんどこ鳴らすのが「愛塾」と考えている慶應大応援指導部。慶應体育会の暴力体質。女性の体さわるために「若き血」を歌う「慶應ボーイ」。自分が露出の多い服を着て股はちかって「見られた」とか言うバカ女は男性にとって反社会的勢力。

[第534回]
  慶應義塾高校など私立大学の系列高校 と 私立6年制受験校 と 公立伝統進学校 を比較しての話を始めた。 もともとは、灘高校卒の医者で、死を希望する人を「殺した」医者2人の片方が兵庫県神戸市の私立灘高校卒の男だった、というのを見て、やっぱり、そういうことをやりそうな人間というのは、公立進学校出身の人間よりも私立6年制受験校出身の人間の方に多いよなあ~あ・・・と思ったところからで、私立6年制受験校と公立伝統進学校との比較を述べよう、どちらがいいかというと、結論はないのだけれども、そのあたりについて述べてみようと考えた時、もうひとつ、慶應義塾高校のような私立大学の系列校というものがあり、それも一緒に述べた方がいいと考えたところから、
【1】 大学のある系列高校、特に慶應系高校 https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_1.html
【1】-2 「外部の者」を「教育」したがる中等部から慶應。「殴る」の大好き人間の慶應体育会。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_3.html
【1】-3 意味のない「◇◇君 休講」、福沢諭吉像を高い場所に移動させたい人たち。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_4.html
【1】-4 簡単にお金を「見捨てる」慶應女子高女の福沢精神。そいつには親切にしない方がいい「慶應ボーイ」「慶應タイプの女たらし」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_5.html 
・・を述べてきた。 述べているうちに、もともとは、主たる論題だった、私立6年制受験校と公立伝統進学校の比較 よりも、私立大学系列高校、特に慶應義塾高校・慶應女子高校について長く述べてしまうことになり、もともと、本題のつもりではなかったものについては、そのあたりで、とりあえず、おしまいにしておこうと考えたのだが、野村克也『負けに不思議の負けなし(下)』(2020.3.30.朝日文庫)に掲載の、元プロ野球コミッショナーで元最高裁判所裁判官の下田武三と野村克也との対談を読んだところ、そこでの下田武三氏の発言に、そうだよなあ・・と思うものがあり、又、下田武三氏がそういった発言をするのは、やっぱり、同氏が東京師範学校附属中学校(現 筑波大付属中学校・高校)から東大法学部卒という経歴の人であり、慶應内部進学とか早稲田内部進学とかではないという点があると感じ、もしも、私のような公立小学校~公立中学校~公立高校卒の人間が慶應大学で同様のことを言ったならば、内部進学の人間、及び「準 内部進学」の人間何人もから睨みつけられる、もしくは、殴りかかられるところであり、そのあたりは、やっぱり、国公立の高校~東大など旧帝大系国立大学の方がいいなあ・・・と、こんなことを言うと「慶應タイプ」から殴りかかられるおそれがあって怖いし、「慶應心理学」から「なんちゃら症候群」だの「なんだかんだシンドローム」だのと「診断」されて「治療」されるおそれがあって、なんとも、怖いこわい怖いこわいのだが・・・、もう、還暦過ぎたことだし、「愛塾」シンドロームから殴られて殺されるのなら殺されてもいいわ・・て気持ちで述べることにする。「慶應心理学」というのは、要するに、内部進学独善主義の世界観・人間観を「心理学用語」という戯言・寝言でぐちゃぐちゃ言ってるだけであり、害こそあれ益になるものは何もない。慶應の「心理学者」などというものは、あいつらは学問の敵であり、民主主義の敵である。
※ 《ウィキペディアー下田武三》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E6%AD%A6%E4%B8%89

  「愛塾」シンドローム の人たちには、「あなたが考える『愛塾』だけが愛塾ではなく、あなたとは異なる愛塾も認めるべきではありませんか」などと言おうものなら、「愛塾」心旺盛な「慶應タイプ」は何人もで襲いかかってくる可能性が小さくなく、それを「独立自尊」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか彼らは主張するのであり、そういう人とつきあうのは何とも疲れる・・・ので、できるだけそういう人(「小此木啓吾みたいなやつ」)は相手にしたくない。
  「作家で精神科医」(で慶應大医学部卒)の なだ いなだ が『人間、この非人間的なもの』(ちくま文庫)〔同書は、私が高校生の時、「現代国語」の教科書に題材として掲載されていたのだが〕で、戦中、「どうも、日本は負けそうだな」と口にしたところ、「おまえはそれでも日本人かあ!」と怒鳴りつけられたが、そんなこと言われても、日本人なんだからしかたがないじゃないか・・と思ったが、この「おまえはそれでも◇◇かあ!」という言葉には、自分たちとは異なるタイプの人間の存在を認めない偏狭なファッショ的な思考が存在するということを なだ いなだ は述べていたのだが、慶應大学の学生、特に内部進学の人間には「おまえはそれでも慶大生かあ!」と言って自分とは異なるタイプの人間の存在を認めないファッショ的な思考の人間が大変多かった。かつ、そういう人はその態度・その思考のことを「愛塾心」だと考えており、慶應義塾がある特定のタイプの人間しか存在を認めないような学校になってもらいたくないと考える思考は「愛塾心」ではない、けしからん! と心の底から考えている人たちだった。 そういう人が慶應大学には多く、特に内部進学の人間というのはそういう精神構造を観念的にかっちんかっちんに叩きこまれてきた人たちだった。かつ、内部進学のそういう精神構造のことを「自我が確立されている」とか「アイデンティティーをもっている」とか「独立自尊の精神を持っている」だと教えられてきた人たちだった。「企業はそういう人間を喜ぶ」とか、さらには「ギャルにもてもて」とか吹き込まれてきた人たちだった。
人間、この非人間的なもの (ちくま文庫) - なだ いなだ
人間、この非人間的なもの (ちくま文庫) - なだ いなだ

  北野高校の野球部は、戦後すぐの時に、高校野球の選抜大会で全国優勝したことが1回あったようだった・・が、それは「戦後のどさくさに紛れて優勝しよった」という人があり、又、「北野高校の人間だけ、戦後の貧困期にええもん食うとったんとちゃうか」とか言う人もあったが、戦後すぐという頃までは、進学校とスポーツが強い高校というものが分かれておらず、「スポーツ学校」というのは、たいてい、「勉強せんと野球ばっかりやっとるような不良高校」である場合が多く、「文武両道高校」と「勉強せんと野球ばっかりやっとる不良の高校」とがあったという時代においては、「文武両道型公立進学校」でも都道府県の大会で優勝できる可能性はあり、全国大会に出れば全国大会で優勝できる可能性もあったようで、今とは状況が違ったようだ。
  北野高校では、夏の大阪府大会に野球部の人間が出る試合の前になると、応援部の人間が校門の前に立って、「野球部の試合を応援に行きましょう」と呼びかけたが、それを見て、行ってみようかな・・と思ったことはあった。 なぜ、「行ってみようかな」と思ったかというと、行くのも自由、行かないのも自由であり、「応援」に行ったとしても、心の中で応援していても、別に、「かっとばせえ~え、な~んちゃら♪」とか叫ばなければならないという義務があるわけでもなく、応援部の人間は、見に行きましょうと呼びかけても、試合になると、「応援」するのは応援部の人間が応援していたのであり、一般学生が見に行ったとしても、どういう見方をしようが自由だった。だから、最終的に行くかどうかはともかく、見に行っても悪くないという気持になった。

  ところが、慶應大学の場合は違うのだ。 まず、北野高校では「応援部」と言っている「クラブ」を、慶應大学では「応援指導部」などと彼らは称していたのだ。 慶應大学の「応援指導部」と称する人たちは自分たちが応援したいから応援するというのではなく、応援するのは一般学生で、彼らはそれを指導するのだ・・という主張なのだ。・・なんだ、そりぁ?
  それより前、「朝日新聞」の「声」という欄に出ていた投書だが、隣の家の息子が自衛隊に入ったようで、自衛隊の服が洗濯物として干してあったりするのだが、隣家の奥さん(自衛隊に入った息子の母親)に「自衛隊になんて息子さんを入れて、もしも、戦争になったら危険なのじゃありませんか」と話したところ、息子が自衛隊に入った隣家の奥さんは何と言ったかというと「うちの息子はちっとも危険じゃありませんよ。もしも、戦争になったなら、その時はお宅の息子さんとか一般の国民が徴兵されて一線に立って戦うのであって、うちの息子とか自衛隊員は徴兵された一般の兵隊に命令して戦わせるのですから、危険なんてあるわけないでしょうが」・・・と、そうおっしゃったという。 そうか、自衛隊というのは、一般国民を守ってくれる存在かと思ったらそうではなく、一般国民に命令して戦わせて死なせるための存在だったのか・・。 それとよく似ている。北野高校の「応援部」の人間はあくまでも応援したいと考えた人間が応援するクラブであるのとは異なり、慶應大学の場合、応援するのは一般学生であって、「応援指導部」の人間というのは一般学生に「応援」するように「指導」する存在だということだ。「応援指導部」というのはそういう意味の名称だった。なんとも、傲慢な名称である。もうひとつ、「慶早戦支援委員会」という「サークル」もあったようだが、「応援指導部」と似た団体だったようだ。
  彼らが「応援」したいのなら「応援」すればいいだろうし、一般学生にも「一緒に応援しませんか」と「お誘い」するのなら誘って悪いということはないと思うが、自分たちは「応援部」ではなく「応援指導部」であって、一般学生に「応援しろお!」と「指導」する「部」だと言われると、その思いあがった態度・精神構造はいったい何なんだ? ・・ということになる・・のだが、これは普通のことを私は言っているつもりだったのだが、ところが、慶應大学の「学生相談室」の「カウンセラー」で慶應大学の「心理学」の「講師」にこういうことを言うと、「受験勉強の悪影響だと思います」とか「自我が確立されていないからそういうことを言うということですね」とか「アイデンティティーを持っていないからそういった発言が出てくるということですね」とか、「思考の硬さが気になります」とか、「モラトリアム人間というのがそのあたりに出ているのでしょう」とかなんとかかんとか言いまくるのであり、自分たちが「応援」したいのならすればいいが、別に「応援」したいとも思っていない者を、もしも、その「応援」に加担しないならば非国民みたいに言って無理矢理に「応援」に参加させようというそういう態度というものには賛成できかねる・・・というとビョーキ扱いされてしまう・・・という、それが慶應義塾という学校であり、それが「慶應心理学」だったのだ。 まさに、「おまえはそれでも慶大生かあ!」というやつである。まさに、「応援指導部」はファシズムの団体であり、東京六大学野球の「慶早戦」というのはファシズムの行事である! そういえば、スタイルからして、ナチスに似ている。

  少々、話がそれるが、東京六大学野球では、慶應と早稲田の試合を毎シーズン、最後にやることになっていたようで、1980年代、法政や明治から、それはおかしい、なんで、3位対5位の試合を最後にやらなきゃならないんだ、相撲でも千秋楽結びの一番というのは東正横綱と西正横綱が対戦するもので、東京六大学野球でも、前シーズンの優勝チームと2位のチームの対戦を最後に組むべきではないか(法政 対 明治 の試合を最後に組むべきではないか)、なんで、3位と5位(早稲田 対 慶應)の対戦を毎回最後に組まなきゃならないんだ・・という主張が出ていたと聞いたのだが、今はどうなったのだろう。その慶應と早稲田の試合を最後になるように日程を組むというのは、なぜ、そうなっていたのか、慶應と早稲田の人間が「根回し、かきまわし」やったのか・・? 千葉県船橋市の船橋アリーナに東京六大学野球についての展示コーナーがあって、そこに書いてあったものによると、東京六大学野球が先にあって「早慶戦」というものができたのではなく、日本の大学で最初に野球部ができたのは慶應で、次にできたのが早稲田で、2番目に野球部ができた早稲田大学が先にあった慶應に対抗戦をやりましょうと申込んでできたのが早慶戦だったらしい。それに、3番目に野球部ができた明治が加わって3校の対抗戦になり、さらに法政が加わり、立教と東大が加わって東京六大学野球になったらしく、早慶戦が先にあってそこから東京六大学野球ができたということから、東京六大学野球では早慶戦を最後の日程に組んでいたらしい。
  ・・で、それはいいんだけど、そうであってもなくても、それを見に行くかどうか、見に行くとして、見に行ってどういう見学のしかたをするかは人それぞれ、自由だと思うのだ。それを、なんだか、見に行かなきゃならんみたいな感じというのは、それはよくないと思ったのだ。又、見に行ったとしても、静かに観戦したいという人間だっていると思うのだ。自分自身は野球選手になるつもりはなくても野球はけっこう好きで、野村のじいさんみたいに「次の投球をあててみせる」とか考えながら見る人だっていていいと思うし、「応援」して悪いことはないけれども、静かに「応援」したい人だっていると思うのだ。それを認めない風潮というのはいかがなものか・・と思ったのだが、こういったことを口にすると「おまえはそれでも慶大生か」とまるで人を非国民みたいに言う・・だけにとどまらず、「モラトリアム人間」としての徴候が出てますねとか、「東大病」だとか、「受験勉強の悪影響だ」とか、「自我が確立されていないということを示してますね」とか何とかかんとか、うよくもまあ、そこまで言えたもんだと思うくらい、なんじゃかんじゃ、なんたらかんたら言いまくらないとおれない人間シンドロームがうじゃうじゃいる! という慶應という学校は気色悪い、蕁麻疹が出てくる!
頭脳支配 (1971年) (三一新書) - 高杉 晋吾
頭脳支配 (1971年) (三一新書) - 高杉 晋吾

  もうひとつ、少々話がそれるが、阪神が優勝した時に道頓堀に飛び込んで死亡した人が出たと思うが、あれはやめた方がいいと思うよ。飛び込むのなら、もうちょっと安全な所に飛び込んだ方がいいと思う。 野球で勝った時に水に飛び込むという話の元祖は、たぶん、早慶戦の後、日比谷公園の噴水に飛び込むというやつからきているのではないかと思うが、実際に日比谷公園に行って「日比谷公園の噴水」というものを見てみるといいと思う。ちょうど、飛び込むのにいい深さ・大きさなんだわ(^^♪
  日比谷公園の噴水というのは、人工的なもので、川ではないので流されていって海まで行くなんてことはない! 又、深さもまた、深めのお風呂、もしくは、子供用プールよりは少々深いかな・・という程度のものなのだ。だから、飛び込んでも死ぬ可能性は小さい。まあ、お風呂で溺死する人だって中にはあるわけだから、絶対にないとまでは言えないとしても、普通は死なない深さなのだ。やっぱり、「バカやってみせる」のなら安全第一! 計画性が大事!  ・・で、たとえ、溺れてしななくても噴水に飛び込んだらびちょびちょになってしまうじゃないか、帰り、びちょびちょの服で電車に乗れるのか・・というと、これも、「あらかじめ、飛び込むことを想定して着替えを持って行っておく」ということなのだ。やっぱり、「バカやってみせる」場合には安全第一であるとともに、計画性が大事なのだ(^^♪ ほんと、計画性のないことやんのん、一番嫌いなんや。・・道頓堀というのは、私が子供の頃、1960年代後半においてはゴミがいっぱい浮いてる「ドブ」であり、ぷ~んぷん臭う、くっさいくっさいドブで、およそ、飛び込む気持ちになんてなれないものだったが、今はその頃よりはきれいになったようだけれども、「堀」とは言っても一人前に川だから、飛び込むと危ないと思うよ。 天王寺さんの亀の池なんて飛び込んだら亀が迷惑するからこれもやめた方がいいと思うが、靭公園かどこか、噴水でもあったらそっちにした方がいいと思う。道頓堀は一人前に川だから飛び込むのは危ない! 安全第一を心得る者のみが「バカやる」権利がある・・と思う。

  三田の教室で講義を聞いていた時のことだが、窓の外で、応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのか、その両方なのかの人間が、「〇日の慶早戦に応援に行ってください」と呼びかけるくらいならいいと思うが、それだけではなく、すぐ横で講義がおこなわれている最中に、太鼓をどんどこどんどこ叩いて、まるで、我々は慶早戦のために尽くしているのに、おまえらは講義をきくなどとはそれでも慶大生か、この非国民め! とでも言っているかのような態度を取っていたのだ・・・が、私、彼らは大学を出て行ってもらいたいものだと思ったのだ。
  かつて、塾長だった小泉信三は、学問をやってその上でスポーツもやるというのなら大いにやっていいけれども、学問をやらずにスポーツをするというのはそれは本末転倒だとおっしゃった・・・と誰だったか教授が講義の時に話されたのを聞いた記憶がある。それを、慶應の応援指導部の人間なのか慶早戦支援委員会の人間なのかは、まるで「我々が慶應義塾のために慶早戦を応援に行けと一般学生に命令しているのに、講義を聞いているとは何事だあ、この非国民めがあ!」みたいなそんな調子で、講義の声が聞こえにくかろうが知ったことか、講義やってる方がけしからん・・と言いたいかのように、どんどこどんどこ、太鼓をたたき、大声を張り上げていたのだが、彼ら、大学で学ぶ気持ちがないのなら、大学を出て行ってもらった方がいいと思った・・のだが、こういうことを言うと、「おまえこそ、慶應を出て行け」と言われるのが慶應義塾という学校であり「慶應心理学」だったのだ。おかしいと思いませんか?
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫
政治と精神医学―ソヴェトの場合 - S.ブロック, P.レダウェイ, 秋元 波留夫

  彼ら、応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのか、そいつらも、曲がりなりにも慶應大学の学生なのでしょ。それならば、慶應大学の講義は何時何分から何時何分までというのは当然知っているはずですから、太鼓をたたいたり大声を張り上げたりするのは、昼休み及び、講義と講義の間の休憩時間のみにして、講義がすぐ横でおこなわれている時には、すぐ前を通る人くらいには聞こえるという程度の声で呼びかけるという程度に限定するべきです。そのくらいのマナーも守れないのならば、応援指導部などやめてしまえ!・・・と言いたいところだったが、ところが、言うと、「おまえはそれでも慶大生か!」と「おまえはそれでも日本人か!」と戦中言われたのと同じ調子で言われるというのが慶應義塾という学校だったのだ。アホの集団と違うかて感じがした。

  かつて、上野で彰義隊と「官軍」とが戦っていた時、築地鉄砲洲にあった慶應義塾では、塾生がその行方を気にしてしかたがなかったので、福沢諭吉は、それならと、10分だけ、慶應義塾の建物の屋根の上に登らせて見学させたが、それが終わると、「さあ、学問に戻ろう」と言い、「世の中がどうであれ、我々はそれに影響うけず、学問を続けようではないか」と語ったという話がある。内部進学の人間は、「福沢精神、福沢精神」と叫ぶのは大好きで、福沢諭吉の墓参りもするが、こういった本は読まないので知らないと思うが、私は小学校低学年の時にこの話を本で読んだ。
  但し、その「小学校低学年向き」の本では、福沢諭吉は「何があっても関係なく学問を続けて行こう」と諭したという話になっていたが、実際はそれだけではなく、討幕と佐幕の戦いについて、福沢諭吉は「どっちも積極的に支持できない」という見解で、もとより、福沢諭吉は洋学者で、尊王攘夷派が言う「攘夷」などとんでもない、むしろ、開国をして欧米の文化・文物を積極的に取り入れるようにしないと大変なことになると考えていた人間であり、攘夷派から「洋学を学ぶとはけしからん」と言って切りかかられて追いかけられた経験もある人間であり、討幕派≒尊王攘夷派など決して改革派ではないし、およそ、支持できるものではないと考えていた人間で、また、下級武士といえども幕臣であったのだが、他方で、それなら江戸幕府は支持できるのかというと、こちらもあまり高く評価できるものではないと考えていたらしく、それゆえ、上野での彰義隊と「官軍」との戦いなど、どっちが勝っても支持できる存在ではないと考えていたことから、「どっちが勝つか」なんてどうでもいいことだ、という姿勢だったらしい。
  そういうこともあったようだが、もしも、福沢諭吉が生きていたならば、「早慶戦が迫っているのに講義なんてやっているとは何事だあ」みたいな感じで、そのすぐ横で講義の声が聴きとれないように太鼓をどんどこどんどこ鳴らして大声で叫んでいる応援指導部(なのか慶早戦支援委員会なのか)の人間を見たならばどう思うだろうか。 あんたたち、ちょっと、考え方を間違えていませんか・・・と、福沢諭吉は思うのではないか。
  アンドレ=ジッド『ソビエト旅行記』(光文社古典新訳文庫)では、社会主義とソビエト連邦に好意的に見ていたアンドレ=ジッドは、ソ連に招かれて行って現実のソビエト連邦の状況を見て、ちょっと違うのではないかと感じ、もしも、レーニンが生きていたならば、レーニンですらも収容所に入れられるかシベリア送りにされる可能性がある、と述べる。もしも、福沢諭吉か小泉信三が生きていたならば、福沢諭吉か小泉信三ですらも、応援指導部の人間およびその同類から「おまえはそれでも慶大生かあ」と言われるのではないか、福沢諭吉でも「福沢精神を身に着けていない」と「慶應心理学」から「診断」されるのではないか。その可能性が大きいと思われる。
・・・だいたい、「福沢精神」とギャースカぎゃーすかギャースカ言う人というのは、たいてい、福沢諭吉の著作や伝記など1冊も読んでいない人である場合が多い。1980年代前半、ネパールだったかどこだったかで、麻薬を資金源としている政治団体が「毛沢東派」を名のっていたのに対して、中国共産党は「麻薬を扱う団体が毛沢東の名前を名のるのはやめてもらいたい」と抗議したという記事が新聞に出ていたのを読んだが、福沢諭吉の思想とは逆行するような言動をとる者が「福沢精神」を名のるのはやめてもらいたいものだ・・・と思ったのだが、それを言うと、「おまえは思考が硬いな」とか「そういうようにわざわざ無理して逆らっているというのは、自我が確立されていないからだ」とか「慶大生としてのアイデンティティーがない」とか「そんなこと言うようなやつは就職先なくなるぞ」とか言われることになる。なんか、怖い学校だな、慶應という学校は・・・。
ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分
ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分

  早慶戦であれ慶早戦であれ、見に行こうと思う人が見に行くのは行けばいいだろうし、「応援」したい人が応援するのはしてもいいと思うのだが、行きたくない人は行かなくてもいいと思うし、見に行くにしても、「野村の考え」によって野球戦略を分析したいという人もいていいと思うし、「野村スコープ」で投球を分析したい人だっていていいと思うし、応援するにしても、大声で叫んで「応援」するのは好きじゃない、静かに「応援」したいという人だっていていいと思うのだが、自分たちが主張する「愛塾」が愛塾であって、それ以外の愛塾は愛塾ではないという主張、まさに右翼の主張をしたがる、それをやらないとおれない症候群が応援指導部の人間だったのだ。おまえら、その態度が民主主義的な態度ではないということくらいも、まがりなりにも大学生なのにわからんのか! おまえら、恥を知れ!!! ・・と思ったのだが、こういうことを口にすると、「おまえの方こそ、わざわざ無理して逆らっているんだろう」とか「慶應義塾のアイデンティティーがないな」とか言われる、「おまえ、東大の学生みたいなことを言うなあ」とか言われることになるのだ、慶應という学校においては。なんなんだ、こいつらは・・と思うが、それを慶應で言ってもどうもならない。
  あの応援指導部および慶早戦支援委員会の人間というのは、自分たちが慶早戦の「応援」をしたいのなら好きにすればいいが、一般学生に「応援」を「指導」してやるというその姿勢、ファッショ的なものだ、右翼的なものだという事実を理解できないのか? そのくらいのことすらも理解できないというのは大学生として恥ずかしいと思わないのか?・・と思ったのだが、思わないようだった。

  かつて、私などよりもひと回り上の世代の人の時代、全共闘運動とか安保闘争といったものがあった時代においては、体育会は、警察暴力団・自衛隊暴力団・プロ暴力団・右翼暴力団とともに、体育会暴力団として「暴力団5派連合」の1つと評価され、大学の学生の自発的な活動を押さえつける装置として機能していた
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( ↑ 「週刊現代」2021.1.23号 講談社 所収、「いま振り返る「全共闘運動」「学生運動」 世界を変えたいと思った日々」 に掲載の写真と説明書き。 「日大経済学部前で対峙する 体育会系学生と全共闘学生」 )
週刊現代 2021年1月23日号 [雑誌] - 週刊現代編集部
週刊現代 2021年1月23日号 [雑誌] - 週刊現代編集部
慶應の場合は、「体育会+応援指導部」が私が大学生だった1980年代においても機能していたとともに、内部進学がその役割を果たしていた。内部進学の人間は、それこそ、種無し葡萄を人に皮むいてもらってスプーンですくって食うようなどう考えても「教育されなければならない人間」が「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などと叫んでいた。内部進学と、もうひとつ、「学生相談室」・「慶應心理学」というのも、学生の自発的な精神を抑え込むための装置として存在していたが、私は心理学というものを実状をはるかに超えて高く評価してしまっていて、警戒心が愚かにも欠けていたので、それに気づくことができずにいたが、今は認識している。
  森 毅(つよし)・齋藤 次郎『元気が出る教育の話』(1982.中公新書)に
《 (斎藤次郎) もう一つ運動部のことで言うと、非行防止対策に利用されている側面があるんですね。つまり子どもたちが自由にふらふらしてると非行ばかりするから、暗くなるまで学校にびっちり管理しようという、そういう発想がかなりありますね。
(森 毅) それは伝統的にあるんでね、戦前、左翼の学生運動が盛んになったときでも、運動部は利用されたわけね。 ある意味で、軍隊的秩序志向みたいなんが、運動部として常にあるわけね。あれもまた気持悪いんだなあ。・・ 》
 ( 森 毅・齋藤 次郎『元気が出る教育の話――学校・世の中・自分』1982.6.25.中公新書 )
という発言があるが、私が大学生だった1980年代、慶應の「体育会+応援指導部」(+内部進学+小此木啓吾+「学生相談室」と「慶應心理学」) はその役割を果たしていた。
  ・・小此木啓吾の正体について気づいていない人は今でもいると思うが、トマス=サズ『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)では、「精神科医が言うことを聞く前に、その精神科医を見てください」と述べられ、そして、アインシュタインの言葉だという「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」という言葉が引用されている。このアインシュタインの言葉を小此木啓吾にも適用してどういう人間か判断する必要がある。小此木啓吾の言うことを聞く前に、小此木啓吾を見るべきであろう。

  慶應の体育会を「応援」したくない理由はもうひとつある。私は「体育理論」というと、体育をおこなうことによる効用としてはこういうものがある・・とか、運動機能を向上させようとするなら、こういった練習法が好ましいとか、そういった話をするのが「体育理論」だと思っていたのだ。念のため、断っておくが、私はスポーツそのものは決して嫌いではない、世の中には「フォアグラ型文治派」みたいな人もいるが、私はそうではなく「文武両道型文治派」だと思っている。毛沢東は『体育の研究』(ベースボールマガジン社)で、これまで、中国では、頭脳が優れている人は体が弱い、体が頑丈な人は頭脳が劣っていると考えられてきたが、これからはそういう考え方ではなく、すべての国民が自ら体を鍛えるスポーツマンであるとともに、自ら学び考える哲学者であるべきだ・・と述べる。私も、人間はそうあるべきだと考えてきたのだった・・・が、ところが、慶應の体育会の人たちというのは、そういう考えとは違うようなのだ。
毛沢東の「体育研究」 (1964年) - 毛 沢東, 山村 治郎
毛沢東の「体育研究」 (1964年) - 毛 沢東, 山村 治郎
  『あしたのジョー』では、矢吹丈にランニングをさせる際に、丹下段平は細い狭苦しい道ばかりを走らせるので、矢吹丈が「おっつぁん、なんで、狭い走りにくいような道ばっかり走らせるんだ」と言うと、段平が「広い道は舗装されていて硬くて、走るには膝にこたえて良くないんじゃ」と語る。1980年前半だったと思うが、東大野球部が4位になったことがあり、その時の監督は東大の大学院生で、保健関係の研究をやっていた人間で、筋力トレーニングでも、腕立て伏せなどやるにしても、毎日やるのと2日に1回やるのとでは効果はそう違いはなかったが、2日に1回やるのと3日に1回やるのとでは効果に違いがあった。それなら、2日に1回やるようにすればいいと考えた。走るのでも、長距離走は野球をする体力にはそれほど影響はないようだったので、それは省く、といったことを考えて練習をおこなうようにしたらしい。もっとも、プロ野球選手の場合、投手では「金やん」が「走れ、走れ」と投手にはともかく走って下半身を鍛え、「下半身で投げろ、下半身で投げろ」とやったそうなので(ロッテにいた時の野村のじいさんは「わしら、陸上部とちゃうでえ」と思ったそうだが)、長距離走が野球選手に効果があるのかないのか、そうなるとよくわからないところがあるが、ともかく、そういった研究成果をもとに練習内容を考えたらしい。そういったことをやるのが「体育理論」だと私は思っていたのだった・・・が、ところが、慶應大学の必修科目の「体育理論」では体育会の教授がどういうことを言ったかというと、「殴るというのはスポーツの基本だ。殴っちゃだめだなどとわけのわからんことを言うやつが最近いるが、そんなこと言うようなやつはスポーツすんなってんだあ! 殴らないスポーツなんて、そんなものあるわけないじゃないか! わけのわからんことを言うやつが多くて困ったもんだ。 『殴られたから怪我したじゃないか』なんて言ってからに、何をわけわからんこと言ってんだ。殴ってんだから怪我するのは当たり前だろうがあ! 頭おかしいんじゃないか、まったく。一回、病院、入院しろってんだあ! 特に、女子バレーは激しいんだけども、男性のコーチが女子選手の髪の毛をつかんでコートの中を引きずり回したりするんだ。それがスポーツなんだよ、それをやってこそスポーツなんだよ。それをいかんと言うようなやつは、病院に入院しろってんだあ」などとお叫びになるのだった。あんたこそ、一回、病院に入院した方がええのとちゃうかあ・・・と思ったのだが、逆らうとうるさそうだったし、怖そうだったので言わなかったが、危なそうなおっさんやった。 又、「体育会の人間は学力はないが根性がある。今年、体育会の陸上部に入った何何くんなんかは、4月に入った時には、グランドを1周するだけでもひいひい言っていたんだけれど、半年経った今では、4周走ろうが5周はしろうが平気で走っている。これは根性がついた、ということだ!」とお叫びになったのだった・・・が、「せ~んせえ~え、それって、根性がついたのではなくて、体力がついたのと違うんですかあ~あ?」とお尋ねしたかったのだが、逆らうとうるさそうだったので言わんかった・・・が、なんで、そういう野蛮人の戯言を必修科目だなどと言われて聞かされなければならないのだろうか。迷惑千万なのだ。彼ら慶應体育会の教授のような暴力大好き人間症候群の寝言を「体育理論」だなどと言われて聞かされなければならないというのはおかしいと思う。あんなものは「体育理論」ではないし、彼ら、慶應の体育会の教授こそ「体育理論」がわかっていないと思うなにより、女性の髪をつかんでひきずりまわすなどということを平気でする男というのを私は好きになれない。男性の気持ちとしてそういうことをやりたいと思わないし、やりたくもなければされたくもない。私はスポーツは嫌いではないが、そういう暴力行為を「スポーツ」だとして正当化したいしたい症候群は嫌いである。
  北野高校の体育の授業や運動部はそういったものは否定し、そうではない体育と運動部だったと思ったし、進学校の運動部というものは、その慶應の体育会の教授が言うような「アホ学校の運動部」スタイルではないはずだったのだが、慶應の体育会というのは「進学校タイプの運動部」もしくは「東大京大型の運動部」ではなく「アホ学校の運動部タイプの運動部」だったようだった。慶應はアホ学校の部類なのか進学校の方の部類なのか・・、少なくとも、体育会については「アホ学校の運動部の部類」であると断定せざるをえないであろう。そんな連中の、暴力肯定を「スポーツ」と称している詭弁につきあいたくないし、そのゆな主張を支持したくないので、だから、慶應の体育会には自分も入らないし「応援」にも行きたくない。そのような連中を「応援」するのは「反社会的勢力」であると考える。
  「アホ学校」などと書くと、「アホ学校とは何だあ!」と怒る人が出てくる可能性があるが、女性の髪をつかんでコートでひきずりまわすとか、そういったものを「スポーツ」だと信じているようなヤカラ、そういうことを平気でするような人間、そういったものを悪くないと思っているような人間を「アホ」と言って何が悪いものか、そのようなことをやっている団体・学校を「アホ学校」と言って何が悪いものか!

  以上、2つの理由から、慶應の野球部の試合は慶早戦に限らず見に行きたくないと考えたのだが、野村克也『負けに不思議の負けなし(下)』(2020.3.30.朝日文庫)に掲載の、元プロ野球コミッショナーで元最高裁判所裁判官の下田武三と野村克也との対談「狂騒応援から名選手は育たない」で、元プロ野球コミッショナーで元最高裁判所裁判官の下田武三氏が私が思っていたことと同様のことを述べておられたのを読んで、そうだよなあ、やっぱり、そう考える人もいるよなあ・・と思ったのだった。同時に、こういったこをと述べるというのは、下田武三氏が東大卒の人であって慶應卒の人ではないからだということも気づいた。
負けに不思議の負けなし【完全版】下 (朝日文庫) - 野村 克也
負けに不思議の負けなし【完全版】下 (朝日文庫) - 野村 克也
慶應の学生もしくは教授に言うと、「おまえ、何を非常識なこと言ってるんだ」と睨まれるか殴りかかられるようなことを下田武三氏は述べていた。

  プロ野球のコミッショナーというのは、プロサッカーのチェアマンとは意味が違って名誉職のようなもので特別に権限があるわけでもないらしく、他の業界で上の方の役職についた「えらい人」もしくは「上級国民」がなる役職になったいるらしく、過去になった人としては、私がすぐに思い出すのは、1978年(昭和53年)の阪急 対 ヤクルト の 日本シリーズで、3勝3敗での7戦目、ヤクルトが1点リードで大杉が足立からレフト方向に打ったファウルフライ、明らかにファウルである打球を審判がフェア(ホームラン)だと判定し、そういうことをするとどうなるかというと、阪急 上田監督は守備についていた選手をベンチに引き上げさせて、ファウルだと訂正するか、そうでなければ「ホームラン」と判定した審判を変えろと要求、日本シリーズ第7戦、接戦の状態からの放棄試合か?・・・というところに、審判でもないのにしゃしゃり出てきて、「コミッショナーが頼んでもだめか」と上田監督に試合再開を要求したじいさん、それを見て、うちの母親などは金子コミッショナーのじいさんを「さすがに、しっかりしている」なんて称賛していたが、あれはやっぱり、コミッショナーは出て行ってはだめではないか。コミッショナーであれ誰であれ、いったん、試合が始まったら試合の終了まではその試合の進行については審判に責任があるもので、たとえ、「えらい人」であれ「上級国民」であれ、「『上級国民』の私が言ってるんだから私の言うことに従いなさい」なんてそういう内容を言ってはいかんだろう・・と思う。又、コミッショナーが説得したと言われたが、動画の音声を聞いていると、「説得」にしてはえらそうな口のきき方であり、「上級国民」が言えば「並国民」は従うものだという意識がはっきりと出ており、私は不快感を覚えた。行ってみれば、慶應の内部進学の教授みたいなものだ。「このぼくは中等部から慶應に行ってるんだぞお。おまえら外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ~あ!」という、まあ、そんな感じだ。カーストが上の俺の言うことがきけんのか! ・・みたいなそんな態度やった。慶應の内部進学みたいや。
  金子コミッショナーて、コミッショナーになる前は何やってたじいさんなんだ?・・・というと、《ウィキペディアー金子鋭(かねこ とし)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E9%8B%AD によると、富士銀行の元 頭取・会長 らしい。《1978年の日本シリーズ第7戦では、ヤクルトの大杉勝男が放ったホームランの判定に抗議し続ける阪急の上田利治監督に対し試合の再開を説得した。金子が説得する肉声は集音マイクを通じてテレビでも放送された。金子は怒気を含んだ声で「(コミッショナーである)わしが(頭を下げて)頼んでも駄目か!」を繰り返している。作家の近藤唯之は金子の恫喝ともとれる傲慢な態度と、その説得力のない言葉に「俺の酒が飲めないのか」と下戸の後輩社員を責める酔っ払いのサラリーマンと同じレベルだと、著作で述べている。》と書かれているが、「コミッショナーによる説得」と述べる人があったが、あの打球は、ポールの上のあたりのホームランかファウルか微妙という打球をホームランと審判が言ったというようなものではなく、明らかに・どう見ても・絶対間違いなくファウルであり、おそらく、審判は打球を見失ってしまい、それでも立場上どちらか言わないといけない立場なので当てずっぽうで「フェア(ホームラン)」と言ったらはずれた・・というものだったのではないかと思うが、明らかにファウルであるものをホームランだと言われたチームの監督を「説得」するにしては、ずいぶんとえらそうな口のきき方であり、「説得」というようなものではない印象を受ける。「上級国民」の俺様が命令すれば「並国民」はファウルでもホームランだと認める義務があるみたいなそんな態度であろう。金子コミッショナーは音声では「コミッショナーが頭さげて頼んでもだめか」と上田に発言しているが、動画の画像の方を見ると、まったく頭さげていない。ちっとも頭さげないで、それでいて、「コミッショナーが頭さげて頼んでもだめか」て、じいさん、何、言うとんねん・・・て感じ。
  プロ野球のチームを減らして1リーグ制にするとかしないとかいう話がでて、プロ野球選手会がストライキをやった時、団体交渉において、選手会長の古田が「社長とではなくオーナーと話をしたい」と発言したのに対して、巨人の なべつねつねお が「たかが、選手が。思いあがるのもたいがいにしろ!」と暴言をはいたが、団体交渉は日本の労働組合法で認められているだけではなく、使用者はそれを拒否すれば、「断交拒否」として労働組合法第7条違反、「不当労働行為」(unfair labor cotract)と評価される違法行為であり、団体交渉の場には、使用者は「ある程度以上権限がある者」が出席する必要があり、たとえば、人事部・総務部に所属の入社後の年数が浅いヒラの従業員に話を聞かせるというのは、それは団体交渉に応じたことにならず、必ず、社長が団体交渉の場に出ないといけないということはなく、人事担当の取締役とか、人事部長などでもよいと考えられる場合が多いが、実際には、役職がどうかよりも、その団体交渉の内容についての権限をある程度以上持っている人であるかどうかが問題とされるのであり、プロ野球の1リーグ制にするかどうかという問題において社長が団体交渉の席に出ていたわけですから、それ自体は断交拒否ということにはならないとしても、プロ野球選手会の会長の古田が「社長ではオーナーと話をしたい」と言ったのは、一般の多くの会社と違ってプロ野球の場合は「社長」が一番上の役職ではなくその上に「オーナー」がいるわけで、その問題については社長ではなくオーナーと話さないと埒が明かないと考えて「オーナーと話をしたい」と言ったのであり、古田が「選手」という立場でではなく「選手会会長という労働組合の代表者」という立場で言ったのに対して、「たかが、選手が。思いあがるのもたいがいにしろ!」などと言ったのでは、それでは不当労働行為と評価される、違法行為と評価されることになると思われる。「たかが」この程度のことも理解できない爺さんが「思いあがるのもたいがいにしろ」という感じだったが、読売新聞てのはそんな人がトップなのか・・という感じやった・・・。
  ・・・が、金子コミッショナーの「コミッショナーが頼んでもだめか」と、まるで、「上級国民」の俺が命令しているのに俺の命令がきけないのかみたいな態度、なべつね つねお が「オーナーと話をしたいなどと、たかが選手が。思いあがるのもたいがいにしろ」と叫んだのと似た感じ、まるで、「このぼくは中等部から慶應に行ってるんだぞお。内部進学のこのぼくがおまえら外部の者に口をきいてやってるんだぞ。わかってんのかあ」という慶應の内部進学の教授みたいな態度であり、「さすがに、しっかりしている」などと言ってほめるものかなあ・・と思ったものだった。うちの父親は「コミッショナーの命令やがな、命令。上田はアホや。コミッショナーの命令もきけんようなやつはクビじゃあ!」などと言って喜んでいたが、うちの父親というのは、「その程度の人間」だったのだろう。うちの父親は江本が阪神を辞めた時も「上役を批判するようなやつは、クビじゃあ! 甘ったれるなあ!!!」と叫んでいたが、そういうおっさんやった。 「ベンチがアホやから」という気持になる側ではなく、そう思われる側の人間にとっては、「ベンチがアホやから野球ができん!」と実は江本は当人に向かっては言っていないらしく、記者に向かっても言ってなかったらしく、それを新聞記者が「ベンチがアホやから野球ができん!」と新聞に書いたことに対して球団が「謹慎」と言ったのに対し、言ってもいないことに対して「謹慎」とは何だということで自分から辞めたということだったらしいが、うちの父親は「上役を批判するようなやつは、当然、クビじゃあ! 甘ったれるなあ~あ!」と江本に向かって言うのではなく私に向かって何度も叫んでいた・・が、そのような理由での解雇は労働法上、「解雇権の濫用(らんよう)」と評価されるものであろう。(日本の裁判所はいいかげんだから、そんな解雇でも「有効」という判決だすかもしれんけどな。) 金子鋭(とし)コミッショナーというのは元 富士銀行 頭取で、そういうおっさんやった。
  間違いなく・どう考えたってどう見たって打球はファウル、大杉の打ち方を見てもファウルになる打ち方だし、ヤクルトのベンチではフェア(ホームラン)という審判の判定にヤクルトの松岡が首を傾げているのが映っており、審判はいったん「フェア」と言ってしまったものを変更することができずにいただけで、誰もがファウルと思っているものを「ホームラン」と認めて再開してくれと言うにはずいぶんとえらそうな横柄な口のきき方であるし、何より、試合途中の審判の交代は認められないのと同じく、試合途中においてコミッショナーであろうが審判でない者がその試合の進行をどうしろなどと言ってはならないはずだが、それを「『上級国民』の俺様がホームランと認めて試合を始めろと命令してるのにきけんのか」という調子で口出す男が金子コミッショナー・元富士銀行頭取だった。私は戸建住宅建築業の仕事を長くやったが、お客様からも「富士銀行はなにかとえらそうにしている」「富士銀行はなにかと待たせる」と言われることが多かった。富士銀行という銀行が、そういう「なにかと上から目線の銀行」だということも金子鋭氏の態度に影響していたのかもしれない。
※  ニコニコ 1978年日本シリーズ ヤクルト対阪急 大杉の疑惑のホームラン https://www.nicovideo.jp/watch/sm2833438
  次いで、そのすぐあと、「ずるい巨人、わるい巨人、きたない巨人」が「空白の1日」というのを「利用」して、ドラフト会議前に江川と契約した・・という事件があった時、ドラフト会議で江川を指名した阪神からトレードで巨人に江川を移籍させるのが妥当だという「判決」なのか「審判」なのか、要するに「上級国民」としての命令をした、ということがあった。江川はそこまでして巨人に入りたいらしかったが、そのわりに、簡単に辞めてしまったり、どうも、よくわからん・・・が、金子鋭コミッショナーとしては、それを「みんなが納得する解決法」と考えたらしかったが、だいたい、「みんなが納得する解決法」なんて言っても、それは実際は「それで納得する人はいるかもしれないが、納得しない人間だっているのに、それを無理矢理に納得させる解決法」であるはずだが、そういう「解決法」を取った人だった。
  金子コミッショナーが退任する時、「私は財界人として結果を重んじる人間だったが、それではだめなようなので、この後、コミッショナーになる人は過程を重んじる法律家がいいと思う」だか発言して辞めた。
  そして、「結果を重んじる財界人」ではなく「過程を重視する法律家」として就任したのが、元最高裁判所裁判官の下田武三氏だった。ところが、何だったか思い出せないのだが、その下田コミッショナーが「過程を重視する法律家」としての法的思考による判断ではなく、「結果を重んじる財界人」みたいな判断を下したことがあった。その時、私は慶應大学に在学中で、「法学」という講義を履修していたので、「法学」の先生に意見をきいてみたいと思い、講義の後、K留島教授(当時、慶應大法学部教授、専門:商法)に、「前の金子コミッショナーが、『過程を重んじる法律家がいい』と言って元最高裁判所判事としてコミッショナーになった人なのに、この判断はおかしいのではないでしょうか」と話してみたのだが、「あれは、何も法律による思考をしたのではなく、みんなが納得するように判断したものでしょう」などとおっしゃったので、なんだ、この人は! と思った。「やっぱり、慶應の教授なんてあかんなあ」と思ったのだった。「みんなが納得する解決法」をとったというのなら、それなら法律による解決というのは「みんなが納得する解決法」ではないとでも言いたいのか? ・・ということになる。違いますか? 日本の法律というのは「みんなが納得する解決法」として考えられたものとは違うのか? 法学部の教授がそんなこと言ってどうするんだ? ・・と思ったが、今から考えると、講義の後にそういう人に質問したって無意味、むしろ、有害だった。今なら、そんな質問はしない。慶應の教授なんて「そんなもの」だと今は思っている。・・何の問題だったか思い出せないのが残念だが、下田武三さんという方は、「結果を重んじる財界人」ではなく「過程を重視する法律家」としてコミッショナーに就任したわりに、法律家らしからぬ判断をした人だった。
  裁判官としてどういう判決を出した人かというと、よく知られているものに・・・と言っても、私は慶應大学のある「憲法」の先生から聞いたので知っているが、法学部卒でもない日本人で知っている人と知らない人なら知らない人の方が多いだろうと思うが、「尊属殺人被告事件」というものがあった。かつて、日本の刑法には「尊属殺人罪」と言って、子供が親を殺したとか祖父母を殺したとかいう場合は「尊属殺人罪」になり、親が子供を殺した場合は単なる「殺人罪」で、親が子供を殺した場合よりも子供が親を殺した場合の方が罪が重くなるようになっていて、一般に、10代から20代くらいの人間に話せば、たいていの人間は「なんでやねん?」と思うのだったが、うちの母親などに話すと「そりぁ、当たり前や」と言うのだった。うちの父親も「当たり前です。わしい~いのようなえっらいえっらいえっらいえっらい人間を殺すような者は、当然、尊属殺人罪です。殺人罪より罪が重いのは当然です」と言うのだったが、それなら子供を殺す親というのは他人を殺した場合より重い罰を受けるべきということはないのか?・・というと、まったくないらしかった。それもまた、「当たり前です」ということだった。その「尊属殺人罪」という刑法の規定は、国民はすべて平等であるという日本国憲法の規定に違反するものであり、違憲であり無効だという判決が出たのが「尊属殺人被告事件」だった。
  この事件というのは、実の父親に強姦されて孕み出産した子供というのか孫というのかがある女性が、その父親を殺したという事件で、弁護士から検察官から裁判官から誰もが被告人に同情し、実刑を受けさせるのはあまりにもかわいそうだと考えたようだったが、いくら「情状酌量」しても、「執行猶予」の判決を出すには懲役・禁固の年数が長いものは出せないようで、「殺人罪」ならば執行猶予にすることができても、「尊属殺人罪」を適用したのでは執行猶予にできなかったようで、それで、なんとか、「尊属殺人罪」ではなく「殺人罪」として扱いたいとその裁判にかかわった多くの人間が考えたらしい。
  その結果、「尊属殺人罪」は違憲であり無効と判決が出され、「尊属殺人罪」ではなく「殺人罪」として扱われたようだが、最高裁判所大法廷(15人)では、違憲だという意見が14人、合憲だという意見が1人だったが、誤解している人がいるが、違憲だという意見にも2通りあって、「尊属殺人罪を殺人罪と別に設けること自体が違憲だ」という意見と、「尊属殺人罪を殺人罪と分けることは違憲ではないが、尊属殺人罪の罰条を殺人罪の罰条よりも重くしている罰条の程度が違憲である」という意見があったらしく、厳密には、「尊属殺人罪自体が違憲」6人、「尊属殺人罪を殺人罪と分けて設けることは違憲ではないが、罰条の差が大きすぎるのが違憲である」という意見が8人、「尊属殺人罪は合憲である」という意見が1人、6対8対1 で、ともかく、その時の尊属殺人罪の条文は違憲だという意見が合計14人で、ただ一人、「尊属殺人罪は合憲である」と主張した裁判官がいて、それが誰かというと、プロ野球コミッショナーになった下田さんだった・・・ということだ。うちの父親なんか、大絶賛しそうなじいさんだ。息子の敵・娘の敵という感じがする。「ちょっと変わってる・・」と教えてくれた憲法の先生もぽろっと口にされたのを覚えているが、プロ野球の下田 元コミッショナーというのは、そういうじいさんである。実の娘を強姦するような父親に喜ばれそうなじいさんである。
  他に、有名なコミッショナーというと、プロ野球の球団を減らして1リーグ制にするとかしないとかいう話が出た時に、「コミッショナーを辞職する」と言い出して、そのわりにはいつまで経っても辞めなかったという、元検事総長の根来(ねごろ)さんがおられる。 なんだよ、このおっさん、平穏無事なら「わしはコミッショナーじゃあ」とえらそうにして在任して、何か問題が出ると「や~めま~すよお、わたし、や~めま~すよ~お」と叫ぶという、職場に時々いる、「や~めま~すよお、わたし、や~めま~すよお」と言えば周囲のアホな男、アホな上役が一生懸命機嫌を取ってくれると考える職場のバカ女症候群と一緒やんけ! ・・というおっさんじゃないか・・と思ったら、そう思うのは私だけではなかったようで、ラジオの野球中継の時だったか、野球解説者の板東英二が「この人(根来プロ野球コミッショナー・元検事総長)も、変わった方ですねえ。この人、辞めると言われたのと違うんでしゅかね。辞めたいなら辞められればいいと思うのだけれども、辞めると言いながら、なんで、辞められないのでしょうねえ」と発言していたが、板東英二はなかなかいいこと言うと思った。
  プロ野球の「解説者」でも、「巨人の機嫌取りばっかりやるやつ」とか、川藤みたいに「阪神ファンの酔っ払いのおっさんとたいして変わらんおっさん」とかもいるが、板東英二と江本孟紀の2人は「ええこと言う♪」と感動することをしばしば発言する。・・少々、話がそれるが、板東英二は、2000年だったと思うが、ラジオの野球中継の時、「最近ねえ、『野球は頭でやるもんや』とか、そういうことを言いすぎですよお。だいたい、そんなもん、野球みたいなもん、やってる人間が頭つかうのん、得意なわけないでしょうが! 頭つかうのん、嫌いやから野球みたいなもん、やっとんねんがな。頭つかうのん、得意やったら野球みたいなもんやらんともっと他の仕事やってるわ」と・・・はははははは・・・そこまで言うか・・と発言。まあ、板東英二の場合は、自分自身も元野球選手であることから、笑いを取ろうということで、そういう言い方をしたのでしょうけれども、本来、元検事総長などという人は、元運動選手にはないような頭脳と経験があるのではないかと期待されてコミッショナーになっているはずだが、そのわりに・・・なに、この人!・・・て態度を元検事総長様はお取りになったわけだ。「や~めま~すよお、わたし、や~めまあ~すよお~お」と言えば、周囲のアホな男、アホな上役が一生懸命機嫌をとってくれると考える職場のバカ女症候群と同程度では、な~にが元検事総長じゃあ!!!・・ということになるが、案外、そういう「えらい人」というのは「その程度」の人が多いのかもしれない。
※ 《ウィキペディアー根來泰周(ねごろ やすちか)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E4%BE%86%E6%B3%B0%E5%91%A8

  それにしても、なべつねつねお さんてずいぶんと長生きされるということは、相当ええもん食うとるいうことか・・・? 

  下田武三 元プロ野球コミッショナー が『負けに不思議の負けなし (下)』(朝日文庫)に収録されている野村克也との対談で述べていたもので、なるほどと思ったのは、
《 (野村) 最近のお仕事のなかではボクら、応援の問題に興味を持っています。詳しくお聞きしたいですね。
(下田) 人に応援を強制しない、耳をつんざく鉦(かね)や太鼓を鳴らさない、人が見えなくなる大きな旗やノボリを使わない、この三つを励行させようというのが私の狙いで、各球場の入り口に張り紙をしているわけです。憤慨して抗議する人もいるし、破る人もいますが、今シーズン中はずっと徹底して図りたい。 一朝一夕では直らんと思うけれども、今シーズン全期間を通じて直したいと思っているわけです。
(野村) プロ野球のファンのレベルが下がっていると思うんですよ。要するに、拍手するタイミングを知らない。大リーグの野球を見ていると、ドンチャカは絶対にないですよね。たとえば、「四番、センター、メイズ」なんてアナウンスされると、ワーッと拍手があるでしょう。惜しみない拍手という感じですよね。見せる商売というのは、歌手でも俳優でも、あの拍手が生き甲斐なんですよ。われわれは拍手をもらうとものすごくエキサイトしてファンにこたえようという気持ちになる。ところが、いまは「四番、サード、掛布」とアナウンスしても、拍手というよりもドンチャカドンチャカしてて、拍手が選手に伝わっていかないんですよ。掛布よ、頼むよ、というファンの声が、全部あの鉦や太鼓で消えちゃう。・・・
・・・・
(下田) ピッチャー出身のある評論家に、投げるときにワイワイ騒がれたら妨げになりませんかと聞いたら、やっぱりなるといっていました。アメリカでは、ピッチャーが投げるときはシーンとしています。特に名バッターと名ピッチャーの対決なんてときは、みんな息をのんでますよ。・・・
・・・
(下田) ・・それから、去年あたりから、女の人を含めた若い人たちが、えらい騒ぐんですね。野球を楽しんでいるのか、それとも群衆のなかに入ってワイワイ騒いでいるだけなのか、つまり原宿なんかの道路上でわけもなく騒ぐつもりで騒いでいるファンがそうとうあるんです。これも邪道だと思いますね。
・・・
(野村) たとえば席が取れなくて、阪神ファンのお客さんが、後楽園の一塁側にやっと席を取ったということもあると思うんですよ。そういう人たちにまで、手をたたけだのと強制して、そしてけんかが始まるわけでしょう。
・・・・・ 》
  このあたりの発言にはもっともだと思うものがある。 ただ、プロ野球の場合、ドンチャカやりたい人もいるわけだし、それを目的に球場に行く人もいるわけだから、席によって、ドンチャカやっていい席と、静かに観戦する席を分ければどうかと思うのだ。 私は、中学生の時に、高校野球の全国大会を見に甲子園球場に行ったことが何回かあるが、「一塁側内野アルプススタンド席」「三塁側内野アルプススタンド席」というのは、その高校の応援のための人が座る席・・・という「規定」はないけれども、そのような感じになっていて、「内野席」でもホームに近い位置の内野席、ベンチのすぐ後ろあたりの席で何度か見たのだけれども、そのあたりでは、野球を見たいという人、どちらかといえば、その側のチームを応援したいという人の方が多いかもしれないが、逆側のチームの方に親近感を持っている人もいて、「応援」を強制されるようなこともなかった。同じ中学校で野球部に入っていた男と一緒に見に行ったことがあったが、彼はそこでスコアブックをつける練習をしていた。スコアブックをつけようとすると、ドンチャカなんてやることはできないし、私も静かに見るのが好きだったから、ベンチのすぐ後ろあたりの内野席はちょうどよかった。
  同じ中学校で野球部に入っていた男が、江川を見たいと言い、一緒に見に行ったのだが、江川がいる作新学院は人気があり、作新学院の一塁側内野席は売り切れだったので、やむなく、三塁側内野席で見たところ、その時、作新学院と対戦した三塁側の広島商業が、佃投手の好投と広島商業の「機動野球」で前評判の高い江川の作新学院を圧倒・・、むしろ、広島商業てすごいなあ・・と思ったもので、一緒に見に行った男も、「こっちでよかった」なんて言っていた。それこそ、野村のじいさんが好きそうな「野球は頭でやるもんや」を広島商業は実行して「江川の作新学院」を撃破したのだった。
  私は野球の専門家でも何でもないけれども、野球の観戦でも、必ずどちらかのチームを「応援」しないといけないという決まりなんてないと思うのだ。 野球そのものを見て、どちらの選手であってもいいプレーには喝さいを送るというのでもいいと思うのだ。 それを、どっちかを「応援」しなきゃならないという「強制」はおかしいと思う。
  どっちかを「応援」したいという人も見に行っていいけれども、どちらを「応援」するわけでもないという人間だって見に行っていいはずだし、「応援」のしかただって、ドンチャカやりたい人もおれば、静かに心の中で「応援」したい人もいると思うのだ。
  野村が、《 昔は野次でもユニークなのがあって、野次ることを楽しみにしているお客さんもいました。歌舞伎じゃないけど、「いよっ、長嶋」なんて掛け声ね、あれはタイミングとしてはいいし、お客さんも和みますよ。いまは、やかましくて野次る気になれないでしょう。・・・》と述べているが、プロ野球の場合、これはおもしろいという野次を言いたい人もいるのではないか。
  甲子園球場の内野席で高校野球を見た時、北海道の留萌高校が出場して、たしか、僅差で負けたと思ったのだが、試合後、全員がベンチの前に整列して、ベンチの後ろの席、ちょうど私が座っていたあたりに向かって、全員で一礼して退出したのを見て、こういう礼儀正しい態度っていいなあ・・と思ったのを覚えています。そういうのを見ると、もともとは、たまたま、そちらの側の席があったからそちらに座っただけの人間でも、もう負けてしまった後かもしれないけれども、応援したいような気持になります。たしか、僅差で負けてしまったけれども、留萌高校のベンチの後ろの席に座ってよかったなあと思いました。もしかすると、一礼したのは、自分たちの高校の応援団の人に一礼したつもりだったのかもしれません。それなら、ベンチのすぐ後ろの席ではなく、もっと外野席に近いあたりにその人たちはいたはずですが、そんなことはどっちだっていいのじゃないか、ベンチのすぐ後ろの席は、そこの席なら買えたからそこで見ていたという人間が多い席だったと思うが、全然関係ない人間にだって、終わった後、一礼して退出するという姿勢は好感を覚えましたし、留萌て一度行ってみたいなあとその時、思ったものでした。
  そういった野球の見学の経験から考えて、慶早戦の見学だか「応援」だかいうのは、あれは「野球観戦」とは別のものだと思うのだ。 高校野球の全国大会の場合、内野アルプススタンド席はその高校の応援をするために来た人の席で、ホームベースの後ろは中立で、内野席でもホームに近い場所は、その側のチームを応援したい人もそうではない人もいる席で、静かに見る席、応援したい人も静かに応援する席で、「応援」を強制されない席で、外野席もそうと、「住み分け」ができていたと思うのです。
  プロ野球の場合も、「六甲おろし」歌うために行っとるんじゃあ、憎き巨人、ずるい巨人、悪い巨人、汚い巨人、卑劣な巨人をボロクソに言うたるために行っとるんじゃあ・・という人もいていいだろうけれども・・・〔それをいかんと言われるとつらい!〕、
※ 立川清登「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)http://syowa-kayo.net/846/
※ 氷川きよしさんと阪神ファンのコラボによる東京音頭! https://www.youtube.com/watch?v=Vt2yXzBWMiA
※ 【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8 
・・阪神ファンだけれども静かに見たいという人だっていていいと思うのだ。だから、自分の見方をひとに強制するようなことはよくないと思う。

  高校野球の甲子園球場の全国大会の場合、その席によって、「応援」するための席と、静かに見たい人の席が「住み分け」がされていたように思うのだ。
  地方大会では、「甲子園常連私立高校」などでは地方大会でも大人数で「応援」するかもしれないし、「野球専門校」「スポーツ専門高校」では、野球部の部員の人数が多く、何人もがスタンドでユニフォームを着て「応援」しているのを見る。 スポーツ入学で入った人はベンチ入りの選手に選ばれない場合は、スタンドで「応援」するのが「仕事」みたいなもので、野球部に入っても試合に出れないで「応援」ばっかりさせられていたのではしかたがないのではないか・・というとそうでもなく、「スポーツ入学」で入った人というのは、一般入試で入った人間とは異なり、その運動部を辞めると学校も辞めなきゃならないのだけれども、ベンチ入りの選手になれなくてもスタンドで「応援」しておれば卒業させてもらえるらしく、高校3年間、「応援」やってレギュラー選手の下働きみたいなことをやれば「高卒」の学歴を取得できるというメリットがあるらしい。だから、その高校の野球部のユニフォームを着てスタンドで「応援」ばっかりやってる人というのは「かわいそう」でもなければ「物好き」でもないらしい。(株)一条工務店の栃木県佐野市の営業所にいた時、同営業所にいたK岡(男。当時、40代)が、息子に「野球やって高校に行くのと勉強して高校に行くのなら野球やって高校に行く方がいいだろ。だから、勉強はしなくていいから野球やれ」と言っていると話していたことがあったが、へ~え、そういう進路の選択肢もあるのかと思った。スポーツ入学で高校に進学しても、誰もがプロの運動選手になるかスポーツ入学で大学に行けるかするわけではなく、ましてや、誰もがプロの一流選手になれるわけではないが、だから、スポーツ入学で高校に行って高卒でスポーツと関係ない仕事についたら意味はないのかというとそうではなく、勉強で高校に行こうとすると通る高校がなかなかない人でスポーツで行こうとすると行けるという人は、スポーツ入学で高校に入って、高校時代は野球ならベンチ入りは最後までできずに、スタンドでユニフォームを着て「応援」したり、レギュラー選手の下働きしたりして過ごせば、高校は勉強せんでも卒業させてもらえて、「高卒」の「学歴」を取得できる・・というメリットがあるらしい。
  片方で野球部が甲子園大会に時々出場し、他方で東大とかに1人か2人合格する年があるという私立高校の場合、たいてい、「スポーツクラス」と「進学クラス」と「一般クラス」が分かれていて、野球やって甲子園大会に出るやつは「スポーツクラス」の人間で、東大とかに1人か2人通るやつがいるとそれは「進学クラス」の人間であって、「文武両道」やっているのではなく「文武分業」の高校らしい。 それに対して、公立進学校で「文武両道」とか言っている高校の場合は、野球とかサッカーとかラグビーとかやっている人間が京大とか東大とかに合格している。 そういう「文武両道」の公立進学校の運動部の人間は、スポーツ専門校の運動部の人間なんかアホや・・とか思ってるかもしれないけれども・・。 1980年代の終わり頃、橋下徹が北野高校の3年だった年、北野高校のラグビー部は全国大会に出場して2つ勝ち、1月初めに「ラグビーの強豪」伏見工業と対戦して善戦したが、さすがに伏見工業は強かったようで勝てなかったようだが、伏見工業のラグビー部のやつというのは、大学に行くにしても就職するにしてもラグビーで進学したり就職したりするのであり、高校3年の1月になっても花園ラグビー場でラグビーやっとるとしても、伏見工業のラグビー部のやつにとっては、それは入学試験か就職試験を受けているようなものであるのに対して、北野高校のラグビー部のやつというのは、京大とか東大とかに行こうとしている人間でスポーツ入学で大学に行くわけでもないのに、高校3年の1月になってまで花園ラグビー場でラグビーやっとる・・・て、もしかして・・アホちゃうか?
  私が北野高校に在学した時、1970年代後半だが、私の1つ上の学年の人で、ラグビーを3年の11月だか12月だかまでやって、それで京大の医学部に現役で通ったという人がいたし、私と同じ学年の人間でも、京大・東大に現役で通った人間はいたわけで、そうなると、「文武両道や。えらいなあ、えらいなあ。あんたとは違ってえらいなあ!」と、うちの父親などは言うのだったが、私がやろうとすれば必死になって妨害するくせしてからにそういうことを言うのがうちの父親の特徴だったのだが、えらいかアホかはどうもよくわからんようなところがあった。3年の12月までラグビーやってそれで現役で京大とか東大とかに通れば「すごい♪」とか言ってほめてもらえるかもしれんけれども、3年の1月になってまで花園ラグビー場で、大学に進学するにしても就職するにしてもラグビーで進学したり就職したりするスポーツ専門校のやつとラグビーやって、それで大学落ちたやつて・・・・、もしかして、アホちゃうか? ・・・て感じがしないでもない。これ、言うと怒る人もいるのだけれども、実際、そうでしょ。まあ、ラグビーやらなきゃ絶対通るというものでもないのだけれども、あんたら、スポーツ入学で大学に行くわけでもないのに、3年の1月になってまでスポーツ入学で行く高校のやつと一緒にラグビーやって、なんか、ご苦労さん・・というのか、スポーツ学校で勉強せんと野球やラグビーばっかりやってるやつよりも、むしろ、進学校の生徒のくせに高校3年の1月になってまでスポーツ学校のやつと一緒に花園ラグビー場でラグビーやってるいやつて、そっちの方がよっぽどアホちゃうか?・・て感じもしないでもない・・・(^^)/

   北野高校の応援部の人間が、7月頃、「野球部が☆☆球場で◇◇高校と対戦します。皆さん、見に行きましょう」と校門の前で呼びかけても、行きたきゃ行けばいいし、行きたくなければ行かなくていい。 そして、見に行っても、応援部の人間というのは自分たちが「応援」したいから「応援」しているのであって、見に行った一般学生に自分たちの流儀の「応援」を強制はしない。 それに対して、慶應の「応援指導部」というのは、「応援部」ではなく「応援指導部」であり、彼らは、「応援」は一般学生がするもの、一般学生には「応援」する義務があると考えており、「応援指導部」に部員というのは、一般学生に「応援」するように「指導」する人間なのだと考えている。・・なんとも、傲慢な連中だ。
   ・・・だから、そのあたりの態度を見ると、そうでなかったなら、一度くらいは見に行ってみようかと考えるところでも、行くべきではないな・・と判断するに至る。 こういうことを言うと、慶應という学校では非国民みたいに言われることになるが、だからこそ、そんなことで非国民扱いするような行事には参加したくないし参加するべきではないと考える。そのようなことで人を非国民扱いするような連中は「反社会的勢力」と考えるべきであろう。
  こういうことを言うと「慶應心理学」から、「心理学者」とか「カウンセラー」とか称するような人たちから、「思考の硬さが気にかかります」とか「自我が確立されていないから、わざわざ逆らってそういうことを言うということですね」とか、「そのあたりにも、モラトリアム人間病の特徴が出ていると思われますね」とかなんとかかんとか「診断」されてしまうおそれがあり、「治療」されてしまう危険もある。まったく、つくづく、怖い、こわい、怖い、こわい!!! 怖いわあ、ほんと、「心理学」というのは本当に怖い!
第四間氷期 (新潮文庫) - 公房, 安部
第四間氷期 (新潮文庫) - 公房, 安部

  慶早戦を見に行きたくない理由を2つ述べたが、他にあと2つある。
  ひとつは、1980年代後半、三田キャンパスで、応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのかが出していたタテカン(立て看板)・・・最近、京大ですら、タテカンの提示を禁止したりしているらしいが、不思議なことに、慶應大では応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのかが出す、東京六大学野球の案内の看板についてはおとがめなしなのだ。 右翼の方はかまわんということなのか? ・・・そのタテカンに、「女の子と肩を組んで応援しよう」などと書いてあったのだ。 私は昔も今も「聖人」だとか言うつもりは毛頭ないが、しかし、 「慶應タイプ」の男というのは、「サークル」の「コンパ」に他大学や専門学校の女子学生を誘って来させて、その上で、「『若き血』を歌いま~す」と称し、「肩を組む」という口実で女性の体をさわる男というのが大量にいるのである。 私は自分が「聖人」だとかいうようにはまったく思っていないが、だからといって、そういうヤカラ(=「慶應タイプ」「慶應ボーイ」)の仲間にはなりたくないのだ。女性でも、もともと、そういうのを期待して参加する女も中にはいるのかもしれないが、そうでない人もいるはずなのだ。彼ら、「慶應タイプ」がやっていることは、それは強制わいせつ罪に該当する犯罪である。
  そういった強制わいせつ罪に該当するはずの行為を繰り返す「慶應タイプ」の男というのは、特に、内部進学と「(三流以下高校卒で)1浪で慶應の経済」というタイプに多い。(慶應の内部進学の女というのは、それら「慶應タイプの強制わいせつ犯」の仲間である。) それらの男には、親が大企業の重役とか会社の社長とかそういった人間が多いようで、彼らこそ「本物の慶大生」であり、彼らこそ「福沢精神を身に着けている」であり、彼らこそ「独立自尊の精神がある」であり、彼らこそ「自我が確立されている」「アイデンティティーを持っている」「人間を知っている」「企業はそういう人間を喜ぶ」であり、何より「ギャルにもてもて」と「慶應心理学」から「診断」される人たちらしいのだが、「慶應心理学」からいくらボロクソに「診断」されようが、私はそういう強制猥褻罪の犯人どもと仲間にはなりたくないのだ。
  それとともに、慶應という学校においては、そういう強制わいせつ罪の犯人どもに加担するのが「協調性」であり「自我が確立されている」で「独立自尊」で「福沢精神」と評価されるのか・・・と判断し、この学校で生きていくためには、又、この学校を卒業してこの学校の卒業生として生きていくためには、彼らのような行為を自分も取るようにしないといけないということなのだろうか・・・などと考えて実行したとして、はたして、私のような大学だけ慶應に行ったという「(慶應義塾の)外部の者」「(慶應義塾の)外部の連中」にも「塾風ボーイ」と同じ基準が適用されるという保証はない。もしも、彼らと同様の行為をしたとして、「ハシゴをはずされる」ことになる可能性は十分考えられる。・・・そういうことを考えると、彼らとは関わりたくないし、「女の子と肩を組んで『若き血』を歌いましょう」などという慶應大学の応援指導部・慶早戦支援委員会の人たちの主張に同調するわけにはいかない。

  それから、さらにもうひとつ。 東京六大学野球、特に慶早戦というものでは、チアガールだかチアリーダーだかいうねーちゃんが登場するのだが、あいつらというのは、露出が大きい服装をして足を振りあげたりするのだが、自分で露出が多い服を着て自分で足を振りあげたりしている・・ということは、見て欲しいということなのだろう・・・と考え、「見て欲しい」と言うとるのだから、見てあげなきゃいかんだろう・・と考えるべきなのか・・・。 どう思いますか?
  最近、女子運動選手が、「演技」の最中に写真を撮られたとか「見られた」とか言って、それを「被害にあった」とか言うておるようだが、それは「被害にあった」というものなのだろうか?  自分が「見てちょうだい」て格好しているのと違うのか? 自分で「見てちょうだい」という格好しているやつを「見た」としても、あるいは普通に眼を開いておれば「見えた」としても、それは「被害にあった」とかそういう性質のものだろうか?
  見てほしいのか、見られたくないのか、どっちやねん?・・・と思いませんか? 見られたくないなら公衆の面前で「見てちょうだい」て格好すんなや!・・・と思いませんか? 

  そういうやつの近くにいて、「見た」だの「見られた」だのと言われたのでは災難だ。 だから、「安全第一」を考えると、そういうのんの近くにはいないようにした方がいい。 ・・自分が「見せてる」くせして、何が「見られた」じゃ・・てやつははた迷惑だ。

  それから、慶應の体育会について支持したくない理由はもうひとつあった。 京大に行った人に聞いた話では、京都大学では、体育は1年の時に週に1コマ、2年の時に週に1コマだそうだが、慶應大学では「基本体育」が1年の時に週に1コマで、もし、1年で単位を取れなければ「基本体育」は4年までに履修すればいいことになっていたが、もうひとつ、「選択体育」というものがあって、いくつものスポーツ種目の中から1つを選択して、それを夏休みか春休みに集中して履修するということになっていた。
  それなら、他であまりできないものを履修した方が良さそうと思い、私は「馬術」を履修したのだが、これは、慶應大学がそれぞれの種目ごとに体育の講師を雇っているわけではなく、体育会の部員が指導していて、「馬術」ならば体育会馬術部の人間が指導していた。馬術部の人間からすれば、自分たち体育会の人間よりも体力の劣る者の世話をさせられるというのは大変だったのではないかと思うのだが、だからと言って、慶應大学の教職員でもない者が「こらあ。根性ないなあ」とか言って人を突き飛ばしたりする「権利」が彼らにあるのか・・というとないと思うのだ慶應大学は、大学の教職員として雇用契約を結んでいるわけでもない者に「選択体育」だと称して、一般学生を突き飛ばしたりさせていたのだが、もし、そういう行為をさせた結果として怪我人が出たとすると、雇用関係を結んでいない者がおこなった行為について慶應義塾はどう責任を取るつもりだったのか、どう責任を取らすつもりだったのか? 私は、結局、2年浪人して入学することになってしまったが、実際のところ、2浪もするとその間に体力は低下する。彼ら、体育会の人間は「体育会の人間は学力はないが根性がある」などと言うのだが、その「根性」と称する体力がある人間が、2浪して体力が低下した人間や、あるいは、体育を「見学」までしないとしても、一般学生よりも体力が劣っている人間や体調がいいとは言えない人間を、「根性がある」と称する「体力がある」人間が同じ学生なのに突き飛ばして喜んでいるという野蛮な態度を取っていたのだが、彼ら体育会の人間はそういう態度のことを「根性がある」と称していたのである。 慶應大学の体育会の教授は「体育理論」という必修科目の講義で「スポーツである以上は『殴る』ということは必須であって、『殴らないスポーツ』なんてそんなスポーツあるわけないじゃないか。『殴る』というのはすべてのスポーツの基本だ」と明言されるのだったが、まだしも体育会に入部する人間はそういう思考を肯定した人が自分自身の意思でそういう団体に入部しているのだから、自業自得かもしれないが、一般学生はそのようなものを認めた覚えはないのである。今から考えてみると、あいつら、暴行罪で告訴してやった方が良かったかと思っている。体育会という暴力体質の団体に自分自身の意思で入部したいと判断したものがそういう体験をするのなら、それは自分自身がそのような団体に加入したいと考えた、もしくはそのような団体だと見抜くことができなかったということで入部した者にも責任はあるかもしれないが、体育会のような団体に加入したいとは毛頭思っていない、体育会のような野蛮人の思想を肯定したいなどとは毛頭考えていない一般学生に「選択体育」だと称して半月ほどでもそういう団体に加入したような体験をさせるというのは、これは大学のあり方として大いに問題がある。
  さらに、夏休みの「馬術」の講習の中ほどの日、「きょうは体育会馬術部のOBの方が来られていますので、馬術についての講義をしていただきます」と言って話を聞かされたのだが、そこで、その「体育会馬術部のOBの方」という男性は何を話したかというと、
「スポーツをやってどういういいことがあるかというと、まず、飲み屋で喧嘩した時に勝つ、ということがある」
・・と、そうお話になったのだ。 ・・なんか、聞いてるだけで情けなくなってきた。慶應の体育会のOBの体育・スポーツについての認識というのは、そういうものだったのだ。 「飲み屋で喧嘩した時に勝つ」て、何、それ?
  私なら、飲み屋でもめそうになったなら、どうすべきかというと・・・、とりあえず、逃げる。もしくは、「すいません」と一言いえばそれで納まるなら、「すいません」と言ってその場を去る。 たとえ、相手が攻撃してきたとしても、それを防いだという場合でも、法律論理としては「正当防衛」ということになるとしても、実際に正当防衛であったとしても、警察が「正当防衛」という扱いにしてくれるという保証はない。防衛しただけなのに、こちらが暴行罪だか傷害罪だかで逮捕されたりしたのではたまったものではない。「防衛」だと評価してもらえたとしても「過剰防衛」と評価される可能性だってある。 そういったことを考えるならば、「三十六計、逃げるに如かず」である。それを、「スポーツをやっていいことというと、まず、飲み屋で喧嘩した時に、勝つ」・・・て、慶應の体育会てのは「そんなもの」か( 一一)
  そういうのを「慶應タイプ」とか「慶應ボーイ」とか言うそうで、「スポーツマンらしいさわやかさ」とかも言うらしく、「独立自尊」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「アイデンティティーをもっている」とか「診断」されるらしいのだが、私の考えとは異なる。 『史記』の「淮陰候韓信列伝」には、「漢の三傑」の一人、韓信の話が述べられており、「韓信の股くぐり」と言われる話があるが、韓信が若い頃、無頼とでもいうのか、あまり素行が良くない者とつきあいがあり、ある男が「もし、おまえに勇気があるなら俺を刺し殺してみろ。勇気がないなら、腹ばいになって俺の股の下をくぐれ」と言った。韓信は腹ばいになってその男の股の下をくぐった。人々は韓信を勇気がないやつだと嘲笑った。その後、韓信は漢の高祖 劉邦につかえ、行政に優れた蕭何・外交に優れた張良とともに軍事に優れた韓信として「漢の三傑」と言われて劉邦の中国統一に貢献したが、漢の統一がなされた後、もはや、軍事に優れた者は必要ないと判断されて左遷された。左遷されて淮陰の地に、淮陰候として赴任した時、韓信は、若い頃、食べる物もなくて困っていた時に食事をさせてくれた老婆を探し出して、「私が今日あるのはあなたのおかげです」と言って、最高のお礼をした。又、韓信に「俺の股の下をくぐれ」と言った男を探し出して「この男はたいした男だよ」と取り立て、「俺があの時、おまえの股の下をくぐったのは、おまえが恐ろしかったからじゃない。おまえなんか刺し殺しても名が上がるわけでもなく、おまえなんか刺し殺してもしかたがないから、だから、おまえの股の下をくぐってみせたのだ」と語った、という。
  「体育会馬術部のOBの方」という男性は韓信とは正反対の考えの人だったようだ。 なんか、話を聞くと悪影響を受けそうで嫌だ。

  ・・・・ということで、慶早戦というのは今も見に行きたくない。
  まあ、大学卒業後、うまくいかないことがあった時、「り~くのお、お~じゃあ、慶應~♪」とか大声で歌うことで、野球部の人間を応援するのではなく、自分自身の気持ちをふるいたたせたいという人があったなら、その気持ちはわからないこともないけれども、それにしても、それで自分自身の気持ちをふるいたたせるということなら、あまりにも「慶應」という部分の占める比重が多き過ぎるようにも思う。

  とりあえず、露出の多い服装して股はちかって飛び跳ねるねーちゃん、見てもらいたいのか見られたくないのか、どっちなのか、はっきりしてちょうだい・・・。自分が見せておいて、「見た」だの「見られた」だの言うのはやめてね・・・。

  (2020.1.21.)


《 (2019年)10月には、慶應大学アメフト部が合宿中に、露天風呂に入る女性部員を盗撮したとして、無期限の活動自粛となったし、先月には下着を盗んだ教授が現行犯逮捕された。だが、それのみならず、今度は体育会を応援するスポーツ観戦の陰の立役者「応援指導部」に疑惑の目が向けられている。》
《  アメフト部に続いて、今度はチアリーダーも所属する慶應大学の応援指導部で問題行為が発覚。しかも、覗きに盗撮、下着泥棒の”ハレンチ”3点セットというのだから、福沢センセイも開いた口が塞がらない――。》
《 証言した先のリーダー部関係者は、
「今年の春に体験入部した新入生が大怪我をした、と先月スポーツ紙が報じています。当時、”部の内情に関する取材は受けるな”という指示が部長の教授から部員に伝えられていました。今回も同じ連絡が下達されています」
  この対応に大学の隠蔽体質が透けて見える。もっとも、彼らの行為はれっきとした犯罪と言わざるをえない。
  性犯罪被害に詳しい上谷さくら弁護士の解説。
「覗き見は軽犯罪法違反及び、迷惑防止条例違反にあたります。盗撮も同様で、現場となった県の条例では6ヵ月以下の懲役、または50蔓延以下の罰金となります。下着を盗った場合は窃盗罪となりますが、これらの行為は自ら実行せず、誰かにやらせたとしても適用されます。後輩が全く逆らえなかった状態と認められれば、4年生のみが罪に問われる可能性もあります」・・・ 》
( 《デイリー新潮 慶應大学応援部が不祥事隠蔽! 合宿所で働いた「ハレンチ行為」全容》 週刊新潮2019年12月12日号掲載。 https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12130557/?all=1&page=1 
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12130557/?all=1&page=2 )
  うちの母親などはこういう類の男(=「慶應タイプ」「慶應ボーイ」)が好きらしいのだが、私は嫌いなのだ。そもそも、
《 「この宿には大浴場があり、男湯と女湯は竹製の仕切りで分けられていました。合宿中にある夜、下級生が風呂にいると、そこに当時の3年生が数人入ってきた。すると、彼らは”一発芸をやれ”と命じたのです」
 必死に場を盛り上げる下級生。すると、3年生の吉田直樹君(仮名)が一人の下級生に対し「お前、(仕切りを)よじ登れ」と言い出した。仕方なく、竹の引っ掛かりを探して登ろうとしたのだが、
「さすがにまずいと思ったのでしょう。途中で仕切りから降りてこようとしたそうです。しかし、同じく当時3年の立花亮平さん(仮名)は”男だろ!”と叱りつけ、結局、彼は上から女湯を覗くことに。吉田さんはそのことにご満悦で”俺が指示した”と周囲に吹聴していたのです」(同)
 その3年生が4年生になり、部を仕切る幹部となった今年、ハレンチ行為はさらにエスカレートしていく。・・・ 》
というが、人格的に程度の低い上級生、本来、大学という所に行くべきではない人間から「命令」されたからやったらしいのだが、やった人間というのは、上級生から指示されたからと言うかもしれないが、それならば、おまえは会社に就職したなら、上役から指示されれば人殺しでもやるのか? ・・ということになる。おそらく、やるのだろう。 そういう人間をわざわざ育成しているような慶應大学の体育会と応援指導部はすべて廃止するべきであろう。そもそも、彼らは「体育」をやっているのではなく、むしろ、「体育」に反することをやっている。 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とかいう言葉があるが、彼ら慶應大学の体育会および応援指導部は精神も肉体も健全ではない
  運動部でも、科学的方法で体を鍛えて健康と体力を増進させ学業にもプラスになるようにしようという「進学校の運動部」と、その逆の非科学的なことを暴力でおこなう「アホ学校の運動部」と、慶應の体育会はどちらなのかというと明らかに後者である。慶應大学では明らかに「アホ学校の運動部」の人間が、「アホ学校」の大学に入学したつもりはない人間に、「体育理論」という科目を必修科目にしてアホが勝手なことを強制的に聞かせており「選択体育」と言って、これも必修科目として、体育会に入ったわけでもない人間に、体育会のアホがその体質を教え込もうということをしている。そのたりが根本的におかしいのである。
  「体育会の人間は学力はないが根性がある」などと体育会の教授は言うのだが、上役が人を殺せと言ったとしてそのまま従う人間と、それはできませんと断る人間とどちらが「根性がある」のか、それを考えてみるべきであろう。 大浴場をよじ登って女湯を覗き見しろと言われて、正面から断るかやんわりといなすかはともかく、アホに従わない人間が「根性がある」のか、そういうアホに従う人間のことを「根性がある」と体育会のクズ教授は「体育理論」という必修科目でマイクに向かって叫ぶのであるが、そんなものを「根性がある」と考えるのではなく、そういったものには断固として断るの者こそ「根性がある」と考えるべきではないのか。 慶應という学校は、””間違っている行為にも従う人間を「根性がある」と評価したがる症候群”” の人間が少なくない特徴があり、それを「大人だ」とか「適合性がある」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか「診断」したがるのが「慶應心理学」の「心理学者」と小此木啓吾一派である。 なんで、それが「自我が確立されている」なんだ? なんで、それが「独立自尊の精神」なんだ? 逆と違うのか?・・と私などは思うのだが、それを言うと「自我が確立されていないからそういったことを言うということですね」とか「独立自尊の精神を持って居ればそう言ったことは言わないところですね」とか「未成熟だからそういうことを言うと考えていいと思います」とか「モラトリアム人間病という病気にかかっているからそういったことを言うのです」とか「診断」される危険があり、「治療」される危険もあるので、もうほんとに怖い、こわい、コワイ、怖い! 「慶應心理学」は「反社会的勢力」であろう。彼らのその体質、「ほとんどビョーキ」「病的」と思われる体質は「この病気は簡単には治らない」状況にある。・・だから、私は慶應には行きたくなかったが、そういう「体質」が好きだという「ほとんどビョーキ」の人間がおり、慶應はそういう人間に向いている大学かもしれない・・・。慶應は体育会や応援指導部の暴力体質とともに、「慶應心理学」と小此木啓吾一派によるマインドコントロール・精神支配によって、人間を理不尽なことをされても言われても抗えない抗う姿勢を喪失する家畜化する組織・機関・技術が充満している「学校」である。
  アンドレ=ジッドは『ソビエト紀行』で、もしも、レーニンが今のソビエト連邦に生きていたならば、レーニンですらも、収容所に入れられるかシベリア送りにされるかするかもしれない・・と述べるが、もしも、福沢諭吉が今の慶應義塾に学生として在籍したならば、福沢諭吉ですらも「おまえはそれでも慶大生か」と言って迫害され、暴力を振るわれて怪我させられるか、あるいは、小此木啓吾一派から「病気」と「診断」され「治療」されることになる可能性がある。
   (2021.2.5.)

  慶應の人間には ””「慶應タイプの強姦魔」「慶應タイプの性犯罪者」がいると、それに同調するのを「協調性がある」とか「スマート」とか「思考が柔軟」とか言いたがる症候群”” の人間がおり、特に「慶應心理学」はそういうヤカラのことを「自我が確立されている」「アイデンティティーをもっている」「独立自尊の精神がある」「人間的に成熟している」「受験勉強の悪影響を受けていない」と「診断」するのだが、それは逆であろう。 「おい、やめておけ」と言える者こそ「協調性」で「スマート」で「思考が柔軟」で「自我が確立されている」で「独立自尊」のはずだ。しかし、慶應には《「おい、やめておけ」と言える者こそ「協調性」で「スマート」で「思考が柔軟」で「自我が確立されている」で「独立自尊」のはずだ》と発言する者を圧迫し迫害する伝統がある。そういう「伝統」を得意にし誇りにしている人というのがいる。
  《 性犯罪被害に詳しい上谷さくら弁護士の解説。
「覗き見は軽犯罪法違反及び、迷惑防止条例違反にあたります。盗撮も同様で、現場となった県の条例では6ヵ月以下の懲役、または50蔓延以下の罰金となります。下着を盗った場合は窃盗罪となりますが、これらの行為は自ら実行せず、誰かにやらせたとしても適用されます。後輩が全く逆らえなかった状態と認められれば、4年生のみが罪に問われる可能性もあります」・・・ 》
( 《デイリー新潮 慶應大学応援部が不祥事隠蔽! 合宿所で働いた「ハレンチ行為」全容》 週刊新潮2019年12月12日号掲載。 https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12130557/?all=1&page=1 
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12130557/?all=1&page=2 )
《 後輩が全く逆らえなかった状態と認められれば、4年生のみが罪に問われる可能性もあります 》というのはおかしい。「全く逆らえない状態」であったなら、そんな「サークル」など辞めるべきだ。実際、私自身、慶應大学に在学した時、一時、内実を知らずに入部したり顔を出したサークルで、この団体は反社会的であると判断して脱退した団体、及び、一時顔を出したが、その後、関わらないようにした団体が複数ある。大学生にもなって、この団体は関わらない方がいいと判断することができず、「先輩」の「命令」に従って反社会的行動を平気で取っている者に責任がないというのはおかしい。 その程度の判断もできない人間、慶應の内部進学の人間は90%以上の人間はそうであるが、そんな人間は、大学に行く必要はない人間だ。
  大学生にもなって、この団体は関わらない方がいいと判断することができず、「先輩」の「命令」に従って反社会的行動を平気で取っている者というのは、その「反社」にそのまま所属しておれば、就職の際に便宜をはかってもらえると考えて「反社」に加担している者であり、「命令」した4年生に罪があるのは当然として、「命令」されてやりましたあ・・といって罪がないという主張は通らない。当然、「実行犯」にも責任がある。 「『先輩』から言われたからやったことですから責任はありません」などという主張は「禁治産者」でもない者がそのような主張をしても通じない。「『先輩』から言われたからやったことですから責任はありません」などという主張をする社会に危険・有害な人間は、「保安処分」として「精神病院」に「入院」して隔離でもされた方がいい、「責任能力」がない人間だからそうしてくださいと言いたいのか? そうされたくないのなら、「『先輩』から言われたからやりましたから責任はありません」などという主張をしてはいけない。 「『先輩』から言われたからやりましたから責任はありません」などという身勝手な主張を認めて、他方で「俺は冗談で言っただけなのに本気にしてやったのでびっくりしましたあ」などという「先輩」の側の主張も認めたならば、その「無責任の体系」を認めるなら、結局、彼らはどんな反社会的な行動をしても国民はこの「反社」のやることを認めさせられるということになってしまう。それは許されてはならないことであろう。
  たとえ、「先輩」から「命令」されたとしても、そのような反社会的な行動には加担できないと判断すれば断らないといけない。それが「独立自尊」であるはずだ。ところが、「慶應タイプ」の「心理学者」は、そのような場合に慶應タイプの反社会的集団に加担する方を「協調性」で「独立自尊」で「福沢精神」で「自我が確立されている」と「診断」するが、その「心理学」「心理学者」の方が間違っていると考えるべきであろう。 1980年代前半だったと思うが、ネパールだったかで麻薬を資金源とする政治団体が「毛沢東派」を名のっていたのに対して、中国共産党は「麻薬を扱う団体が毛沢東の名前を名のるのはやめてもらいたい」と抗議したということがあったが、同様に、私が福沢諭吉ならば「俺の名前をおかしな意味で勝手に使うな」と「慶應タイプ」と「慶應心理学」に対して言いたいところである。
  (2021.2.7.)

  たとえ、反社会的行為ではない場合でも、「先輩」から「命令」されれば何でも従うというように精神構造を加工された人間、及び、そういう人間で構成される組織というものが強い組織か弱い組織かという問題がある。戦中、日本の軍隊というのは指揮官を倒せば、その軍隊はだめになったという。それに対して、すべての構成員が自ら考え志願して加入し動いている団体であれば、トップが倒れても、他の誰かが新たなトップになるだけのことだ大学の体育会や応援指導部といった戦前戦中の軍隊の体質をありがたがって引き継いでいる団体においては、一人一人が考えて動くのではなく「トップの言うことをきく」ということで成り立つ組織という戦前戦中の日本軍国主義の弱点というものも引き継いでいると思われる。
  野村克也がどこかで述べていたが、鶴岡一人・西本幸雄・星野仙一の3人には共通点があるという。まず、いずれも、東京六大学野球出身であるという点〔鶴岡・・・法政大卒、西本・・・立教大卒、星野・・・明治大卒〕。鶴岡は南海ホークスを何度も優勝させ、監督としての生涯勝率は相当高い数値を残している監督で、何より、テスト生で入団した野村を正捕手として取り立ててくれた監督で、西本は大毎(現 ロッテ)・阪急(現 オリックス)・近鉄とそれまで優勝したことがないチームの監督になってことごとく優勝させたすばらしい監督で、星野も中日で2度・阪神で1度・楽天で1度優勝した監督だが、いずれも、選手を殴る監督であり、どうも、東京六大学野球出身者には「選手を殴って言うことをきかす」という体質・伝統があるようで、そして、いずれも、レギュラーシーズンでの優勝はしても、日本シリーズなど短期決戦に弱い監督だった。やっぱり、「殴ることで言うことをきかす」という「指導」をされてきた選手は、それで上達したとしても、自分自身で考えて判断して動くということができなくなり、日本シリーズなどの短期決戦で、ここぞという場面において自分自身で考えて動くということができなくなるのではないか・・と野村は述べていたが、私もそういうことはあるのではないかと思う。
  慶應大学で、三田で「民法1(総則・物件法)」の講義で担当の助教授が話されたことだが、三井物産とか三井系の会社で東大出身者と慶應大出身者を同数ずつ採用することにしているという会社があり、そういう会社を調べてみると、係長・課長から部長くらいまでは東大出身者と慶應大出身者の昇進状況は同じくらいだが、そこから上になると差がでるそうで、そこから上になると東大出身者に比べて慶應大出身者はずっと少なくなる、これは、「慶應という学校は『使いやすい、使われやすいばっかりで、自分自身で判断して自分自身が指導者になることはできないという人間』をわざわざ育成している学校だからだ」というように「現代の眼」という月刊誌に載っていたものを読んだが、これは悔しい気持ちがするが、しかし、実際にそういう面はあるのではないかと思う・・ということを話された。私は、その原文を読んでみたいと思い、その助教授に「現代の眼」の何年の何月号か尋ね、いつくらいのものだったと思うというのを聞いて、図書館でバックナンバーを調べたのだが、原文を見つけることはできなかった。他の雑誌だったのかどうだったのかもっと別の年代のものに掲載されていたのか、それはわからないが、そういうことはあるように思う。 「慶應心理学」の「心理学者」は「使いやすい、使われやすいばっかりで、自分自身で判断して自分自身が指導者になることはできないという人間」のことを「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神をもっている」とか「診断」するのだが、それは逆と違うのか? と私は思ったし、そう言ったこともあるのだが、うかつに言うと「自我が確立されていないから、そういったことを言うわけですね」とか「独立自尊の精神があればそういったことは言わないところですね」とか「診断」されることになる。
  「慶應心理学」(慶CIA)は「使いやすい使われやすいばっかりで、自分自身で考えて判断し自分自身が指導者になることはできないという人間」を「自我が確立されている」「独立自尊の精神をもっている」「アイデンティティーをもっている」「受験勉強の悪影響を受けていない」等々となんだかんだ言うことで、そういう人間に「人間による人間の加工」をおこなおうと日夜画策してきているが、こういう人間が「自我が確立されている」人間ですと言われれば、はいはい~とそういう人間になろうとする人間、「独立自尊の精神があればこのように行動するはずですよお」と言われれば、はいはい~と言われた通りの行動をする人間、言われたような人間になろうとする人間というのは、そういう人間を「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか言うのか? 逆と違うのか・・と思うのだが、逆を教えているのが「慶應心理学」であり慶應大学の「学生相談室」である。 体育会の暴力体質と「慶應心理学」の陰湿な体質は表裏のような感じがするが、実はその方針には共通したものがあり、いずれも、人間から自分自身で考えて判断しようという姿勢を奪い、「使いやすい使われやすいばっかりで自分自身が指導者にはなれない人間をわざわざ育成」しようという動きであり、そういうことをおこなっている陰謀組織である
  1980年代、三田キャンパスで、↑で述べた「民法1(総則・物件法)」の講義を聞いていた時、その教室の窓のすぐ外で、応援指導部なのか慶早戦支援委員会なのか両方なのかの人間が学生服を着て太鼓をどんどこ鳴らし、こいつら、いったい何のつもりだ? 大学生ならば、講義がおこなわれている時間に講義の声が聞こえないように太鼓をどんどこすぐ横で鳴らすというのは非常識だということくらいわからんのか?!? ・・・と思ったが、彼ら応援指導部・慶早戦支援委員会の人間からすれば認識は逆で、おそらく、「我々が慶早戦のためにやっているのにその横で講義みたいなもんやるとは何事だあ!」とでも思っていたのであろう・・と思う。だから、大学および学問と応援指導部はどう考えても両立するものではないのである。その助教授もまた、「あなたたち、講義の妨害になるから、その場所で太鼓をたたいたり大声をあげたりするのは控えてもらえませんか」と注意すればどうかと思ったが、言われなかった・・というよりも応援指導部(及び慶早戦支援委員会)には逆らうと怖いから言えなかったようであった。
  私も、太鼓を教室の窓のすぐ外でドンドコ鳴らして講義を妨害していた者たちに、「あなたたち、太鼓を鳴らしたり大声を張り上げたりするのは、昼休みか講義と講義の間の休憩時間だけに限定して、講義時間中はすぐ前を通る人には聞こえるというくらいの声で誘うくらいにして、太鼓や大声をあげるのは控えるべきではありませんか」と言いたかったが、うかつにそういうことを言うと、「われわれが慶早戦のために働いているのに何事だあ!」とか「おまえはそれでも慶大生かあ!」とか言われ、殴りかかられる危険が感じられたので、言わなかった・・というよりも、言えなかった。 「あなたたち、ここは学問をおこなう大学という場所ですから、太鼓を鳴らしたり大声を張り上げたりするのは、昼休みか講義と講義の間の休憩時間だけに限定して、講義時間中はすぐ前を通る人には聞こえるというくらいの声で誘うくらいにして、太鼓や大声をあげるのは控えるべきではありませんか」と言いたかったが、うかつにそういうことを言うと「われわれが慶早戦のために働いているのに何事だあ!」とか「おまえはそれでも慶大生かあ!」とか言われ、殴りかかられる・・そういう体質およびそういう人間のことを「慶應リベラル」と言います。なんで、そんな態度が「リベラル」なんだ?!?・・・と思うのだが、こういうことを言うと「慶應心理学」および「慶應学生相談室」から「思考の硬さが気にかかります」とか「診断」される可能性が大きい。こわい怖いコワイ怖いこわい怖いこわい怖い!!! 慶應はそういう「大学」で、「慶應リベラル」というのはそういうもののことを言うのであった。そういうのを「リベラル」とは言わないでしょう・・などとうかつに言うと慶應においては「ラディカル」とか、あるいは「共産党!」とか言われるのである。社会党でも自民党でも「共産党」と言われるのである。
  (2021.2.7.)

  遠山啓『競争原理を越えてーひとりひとりを生かす教育』(1976.1.31.太郎次郎社)には、
《 ・・この序列というものが、人間を支配する手段としていかに有効であるかということは、このなかにはいってみないとわからない。いちどそのなかにはいってみると、この階段を落ちて下へさがることがいかに苦痛であるか、家庭におられるかたはあまり意識されないかもしれませんが、それはたいへんなものです。序列というものが官吏の世界ではひじょうにものをいうのです。
  序列をつけることは、上から治める側にとってはひじょうに都合がいい、序列をつけられると、団結して反抗することができない。・・》
と述べられていますが、体育会や応援指導部の人は、「序列」をつけて支配されたがる精神構造にできているのです。そういう精神構造の人間のことを、「慶應心理学」や慶応大学生相談室は「自我が確立されている」「独立自尊の精神がある」「受験勉強の悪影響を受けていない」「思考が柔軟」とか言うのです。こういった批判をすると「モラトリアム人間病にかかっている」とか「未成熟」とかなんとかかんとか「診断」されるおそれがあります。怖いでえ~え、ほんま・・・。
  体育会や応援指導部でなくても、慶應の人間というのは、何かと「せんえつ~う」とか言うのが好きで、そうやって、自分自身で考え思考する姿勢を喪失していくのですそして、自分自身で考える姿勢を奪われることに苦痛を感じなくなった人間のことを「塾風を見につけている」「独立自尊の精神がある」「福沢精神を身に着けている」「自我が確立されている」「アイデンティティーをもっている」とか「慶應心理学」は「診断」するのです。
  ほかにも、「企業はそういう人間を喜ぶ」とか、さらには「ギャルにもてもて」とか吹き込まれて、そして、そうかいなあ・・と思うようになる人間もいるわけです。ええ~え? なんでやね~ん?・・と思い、それを口にすると、「未成熟」とか「適応性に問題がある」とか「思考の硬さが気にかかります」とかなんとかかんとか「診断」されます。「協調性に問題がある」とか「診断」される場合もあります。
  「企業はそういう人間を喜ぶ」と言う人がおり、そう言われて、そうかいなあ・・と思うようになる人もいるようですが・・、そうなのですか? 日本の企業というのは、そんな人間、「『独立自尊の精神』が欠ける人間が独立自尊だ」と教えられて、即座にそのまま信じることができるような、そんな人間を日本の企業は喜ぶのですか? ・・実際には、「企業は・・」などと言っても、企業というのは「人の集合体」ですから、そんな人間を「喜ぶ」人も1人以上はいるのではないでしょうか。しかし、「企業はそういう人間を喜ぶ」などと吹き込まれて、それでそんな人間に自分自身を一生懸命「自己飼育」して、それで、喜ばれなかったなら、その時はどうするのですか?

  この「当時、”部の内情に関する取材は受けるな”という指示が部長の教授から部員に伝えられていました」というその「部長の教授」、おのれは何のペナルティーも受けずにすますつもりではないだろうな、このゴロツキ野郎!! 
  (2021.2.5.)

  1980年代、慶應大学に在学中、商学部で「経済史」「産業史」を担当されていたU教授が、「私が大学生の時、ワグネルに入って声楽とバイオリンをやったのだけれども、『男のくせに、音楽なんてものをやるとは、女々しいやつだ』などと言われたものだが、何をわけのわからんことを言うか、『何が悪いか!』と思って、声楽とバイオリンをやってやった。何が悪いかあ!」と言われたことがあったのだが、スポーツ関係者、特に、剣道やる人間には「男のくせに音楽をやるとは、女々しいやつだ」とか言いたがる「アタマが戦中」の人間が今も少なくないのだが、それに対して、 「私が大学生の時、ワグネルに入って声楽とバイオリンをやったのだけれども、『男のくせに、音楽なんてものをやるとは、女々しいやつだ』などと言われたものだが、何をわけのわからんことを言うか、『何が悪いか!』と思って、声楽とバイオリンをやってやった。何が悪いかあ!」という態度をとる人間と、「男のくせに、音楽なんてものをやるとは、女々しいやつだ」とか言われて、へえへえと従う人間とどちらが「根性がある」のか?・・・というと、体育会や応援指導部の人間というのは、ためらうことなく、へえへえと従い、「男のくせに、音楽なんてものをやるとは、女々しいやつだ」と言うヤカラの尻馬に乗って、自由な文学・哲学や音楽・美術を弾圧しようと動く人間を「根性がある♪」と称賛するのである。「企業はそういう人間を喜ぶんだ」とか言うのだが、もしかして、日本の企業の経営者て、アホちゃうか・・・? そんなヤカラに「体育理論」と称する非体育理論・反体育理論の講義を必修科目だとしてさせるのはおかしいし、「選択体育」だと称して、体育会に入りたいなどとはまったく考えていない一般学生に体育会の人間から、突き飛ばしたりさせるというのは、これは大学のあり方としてどう考えてもおかしい!  そもそも、運動ばっかりやってる人間が、大学入学直後の体力が落ちている人間を突き飛ばして、「こらあ。根性ないなあ。こらあ」とか言うのがおかしいのだ。そんな野蛮な行為をする人間が「根性がある」わけがないのだ。 彼ら、体育会の人間というのは、「体力」を「根性」と言うのだが、「体力」と「根性」は別である・・が、それを体育会のアホに理解させようとしても無理である。 しかし、そのどう考えてもおかしいことをおかしいと発言すると、「慶應心理学」と小此木啓吾一派は、「自我が確立されていないからそういうことを言うということですね」「独立自尊の精神が欠けているからそういうことを言うと言えますね」とか「診断」し「治療」しようとすることになる。「慶應心理学」の「心理学者」などと称するヤカラは、あいつらは、どうしようもないクズである。あいつらは人間のカスである。 「慶應心理学」の「心理学者」と称するヤカラどもには、「人間のカス症候群」とでも「診断」してやるのがふさわしいであろう。 もしくは””「塾風さかえて学問亡ぶ」シンドローム””とでも「診断」してやるのがふさわしいかもしれない。
  (2021.2.5.)

  高校を卒業する年、東大に落ちたところ、うちの父親から、「おまえは産まれる時点で、『天の神さま』というお方から『この人間は浪商である』と決められて産まれてきた人間やねんぞ。わかっとんのか、浪商! 小学校・中学校は義務教育やから行かせてやってやってやってやらんとしかたがないけれども、高校は義務教育とは違うねんぞ。高校は義務教育とは違うということは、おまえは高校には行ってはいかんねんぞ。わかっとんのか、浪商! 義務教育でないものはおまえは行ってはいかん民族で階級やねんぞ。浪商のくせしやがってからに、何を甘ったれて北野高校に行っとんのじゃ、浪商! 浪商のくせして北野高校に行くな、浪商! わかっとんのか、浪商! 浪商は高校行くなちゅうんじゃ、この浪商、チャンコロ、ロスケ、イタコ! 高校にはお前は行ってはいかんねんぞ。ましてや、おまえは大学には行ってはいかん人間やねんぞ。わかっとんのか、この浪商めが! おまえは北野高校に行ったと思うておるかもしれんけれども、たとえ、北野高校に行ってもそれでもおまえは浪商やねんぞ。これは『天の神さま』というお方がお決めになったことやねんぞ。わかっとんのか。義務教育でない以上は高校は行ってはいかんねんぞ。わかっとんのか、わかっとんのか」と、毎日毎日、今でもその文句が耳鳴りしているくらいに言われ続けたものだった・・・・が、 ↑ の慶應の応援指導部の連中、どいつもこいつも、義務教育であろうがなかろうが「中学校行ったのは余計」であるはずだ。ましてや、高校は行くべきではない人間であるし、「ましてやましてや、大学になんぞ、行ってはならない人間」であろう。特に、「当時、”部の内情に関する取材は受けるな”という指示が部長の教授から部員に伝えられていました」というその「部長の教授」とかいうやつ、小学校行ったのは余計じゃ!!! ウルトラのぼせあがるな! ウルトラ超ド級に甘ったれるな!!!・・・ということになるはずである。
  それから、「小学校と中学校は義務教育やから行かせてやってやらんとしかたがないけれども、義務教育ではないからには高校には行ってはいかん」といううちの父親とうちの父親の親友のM川という医者屋とその同僚のK田という医者屋の説(そうであるにもかかわらず、M川のドバカ息子はM川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼いだカネで私立金権関西医大裏口入学で、K田の息子はK田が「患者」を薬漬けにして稼いだカネでバカ大学2つも行ったらしいのだが)によると、義務教育というのはあくまでも公立の小学校・中学校のことのはずであり、慶應幼稚舎だの慶應中等部だの普通部だのといった私立の小学校・中学校というのは義務教育ではないはずであり、そうであるからには””「幼稚舎から慶應」症候群の小此木啓吾”” は、どう考えても、「義務教育ではないのだから、(私立の)小学校には行ってはいかん」はずなのである。なんで、””「幼稚舎から慶應」症候群の小此木啓吾”” はウルトラ甘ったれて・ウルトラのぼせあがって慶應幼稚舎みたいなもんに行っとるんじゃ!!!  ロボトミーとかやって「治療」してやらないといけなかったのではないのか?!? 「電気ショック療法」を小此木啓吾症候群にやって「治療」してやらないといけなかったのではないのか?!? 小此木啓吾を「逮捕監禁療法」で「病院」に強制的に「入院」させて、「作業療法」として労働搾取・無賃労働・強制労働につかせる必要があったのではないのか??? なんで、小此木啓吾症候群は「治療」されないんだ???
  慶應幼稚舎だの慶應中等部だのというのは、義務教育ではないはずなのだ。あくまでも、義務教育というのは公立の小学校・中学校のことを言うのであって、慶應幼稚舎だの慶應中等部・普通部だのというのは義務教育ではないはずなのだ。なんで、小此木啓吾は義務教育ではないのに、慶應幼稚舎などというものに、ウルトラ甘ったれて行ったのだ??? 小此木啓吾は小学校行くべきではなかったのではないか。小此木啓吾は小学校行ったのは余計であるはずだ。小此木啓吾はロボトミーとか電気ショックとか、もしくは、「精神安定剤」と称する毒薬の大量投与による「化学的ロボトミー」によって「治療」される必要があったのではないのか????
  (2021.2.5.)

  《 「今年の春に体験入部した新入生が大怪我をした、と先月スポーツ紙が報じています。当時、”部の内情に関する取材は受けるな”という指示が部長の教授から部員に伝えられていました。今回も同じ連絡が下達されています」 》という その「部長の教授」なる者、なんで、匿名なんだ? 当然、実名をあげるべきではないのか???
慶應の体育会と応援指導部というのは暴力団なのか?
どう考えても、この「部長の教授」がやっている行為は「反社会的勢力」と考えるしかないと思われるのだが、そうではないか!?!?
その「部長の教授」とかいう者、プロ暴力団の組長の息子とかで「幼稚舎から慶應」とかなのか?!? 

  (2021.2.5.)

【1】 大学のある系列高校、特に慶應系高校 https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_1.html
【1】-2 「外部の者」を「教育」したがる中等部から慶應。「殴る」の大好き人間の慶應体育会。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_3.html
【1】-3 意味のない「◇◇君 休講」、福沢諭吉像を高い場所に移動させたい人たち。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_4.html
【1】-4 簡単にお金を「見捨てる」慶應女子高女の福沢精神。そいつには親切にしない方がいい「慶應ボーイ」「慶應タイプの女たらし」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202008/article_5.html 
【1】-5 私が慶早戦を見に行きたくない理由。〔今回〕
【2】 医者屋民族を特権階級と考える民族の高校・「プロレスラーの豊田よりも狂暴」女子育成高校? ほか、私立6年制受験校。
【3】 親方日の丸・・だけでなく、最近では「国営資本主義」化・スターリズム的公立高校出現の大阪府立高校。
三四郎 - 夏目 漱石
三四郎 - 夏目 漱石
《 砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。・・・・
  それからまた競走があって、長飛びがあって、その次には槌投げが始まった。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう辛抱しきれなくなった。
 運動会はめいめいかってに開くべきものである。人に見せべきものではない。 あんなものを熱心に見る女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所まで来た。・・・・ 》
( 夏目漱石『三四郎』 角川文庫 )

  そういえば、4コマ漫画で「陸上部の後輩が先輩に悩みを打ち明ける話」というのを見たことがある。
(後輩)「先輩、俺、槍投げなんてやっても、これがいったい何の役に立つのかわからないんです」
(先輩)「う~ん。おまえは自分のことしか考えていないのではないか。もっとほかの人間のことも考えてみろ」
(後輩)「はい」
(先輩)「特に、砲丸投げとか円盤投げとかハンマー投げとかの人間のことを考えてみろ。あんなもの、いったい何の役に立つんだ・・・」
・・・実際、そうなのだ・・・
  (2021.2.11.)
愛の無常について (講談社文庫) - 亀井勝一郎
愛の無常について (講談社文庫) - 亀井勝一郎
《 ところが、このとき同時に人間の弱さがあらわれます。疑問の永遠性、永続性に耐えることはつらい。 出来るだけ早く、簡単な解決をのぞむか、乃至(ないし)は考えることを放棄する、いや別のことを考えるのです。 パスカルはさきの言葉のつづきとして、「舞踊すること、フリュートを吹くこと、歌うこと、輪遊びをすること、戦争すること」等をあげていますが、こういうことに考えを向け考えて、人間の何であるかを考えようとはしなくなる。その条件はそろっています。たとえば、今日のスポーツは、精神にとって危険な存在と化しました。私はスポーツを否定はしませんが、そのために新聞や雑誌の特別版が必要だということになると、これは知性のために危険だといいたいのです。一種の阿片的役割を果たしかねない。・・・》
( 亀井勝一郎『愛の無常について』講談社文庫 「第1章 精神について」 )
家族の死 - デーヴィッド クーパー, Cooper,David, 嘉寿, 塚本, 嘉, 笠原
家族の死 - デーヴィッド クーパー, Cooper,David, 嘉寿, 塚本, 嘉, 笠原
《 ・・しかしもしそうしようとするならば、われわれは運動競技への熱中とか儀式化されたヨガといった偽りの戻り道を排除しなければならない――運動とかヨガのような儀式は、身体経験を、何か真の関係の外で一定の時間割にしたがって遂行できるようなものへと外面化しようとする家族のたくらみを、ただ強化するだけなのだ。・・・》
( デビッド=クーパー『「家族」の死』 みすず書房 ) 

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