「黙って聴くもの」の「君が代」をコロナウイルス最中になぜ斉唱しなければならないのか。コロナウイルス蔓延中に「君が代」斉唱を強要する都教委。

[第507回]
  コロナウイルス問題で、プロ野球や大相撲で「無観客試合」なんてものが実施され、観客が入れるようになっても、間隔をあけて、大声を出すのは控えるということでの観戦可能になった。プロ野球では、大声でヤジをとばした観客に審判が大きな声でのヤジは控えてもらうように求める場面もあったようだ。
  ところが・・・。 「東京新聞」2020.7.20.朝刊 には、
《 新型コロナウイルス感染拡大中の三月、東京都立学校二百五十三校(当時)全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていたことが、教育委員会への取材で分かった。同月二日から全国一斉休校となり、飛沫感染を懸念する学校もあったが、実施を求める都教委の指示に従っていた。専門家は「歌わない教職員の処分が繰り返され、合理的な判断ができなくなっていると指摘する。》
《 都教委の説明によると、安倍晋三首相が全国一斉休校を打ち出した二月二十七日までに、自治体から「飛沫感染防止策として歌わないことを考えている」「歌わないと、服務事故扱いになるか」などの問い合わせがあった。
  都教委は翌二十八日、現場の判断に任せる旨の文書を送った上で、直接管轄する都立校には「国歌斉唱を行う方針に変更はありません」と文書で通知。世田谷区や杉並区の学校は歌わなかったが、都立校は全て斉唱した。ある校長は「歌わないことも考えたが、文書が来たので国歌だけ歌った。校歌などリスクを下げるために歌わなかった」と話す。・・・》
《 新潟大の世取山洋介准教授(教育政策)は、思想・信条の自由から「君が代」斉唱時に起立しない教職員に都教委が処分を続けてきたことを挙げ、「何百人も懲戒処分してきた結果。歌わないことが合理的なのに、委縮して判断できない教育現場の思考停止を表している」と話している。》
と掲載されている。
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  大相撲でも、観客が両国国技館に入っての観戦がされるようになっても、↓ のように、間隔をあけて座り、物言いがついた場合の協議の際も、審判委員の親方は土俵上で間隔をあけて立って話すため、待っている力士にも協議で話されている内容がある程度わかったりもしているというそういう状況において、なぜ、「君が代」だけ斉唱しなければならないのか?
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  まず、第一に疑問に思うのは、「君が代」って、なんで、斉唱するの? ・・・・という点について、大いに疑問に思うのだ。1970年代後半、北野高校の I 校長は「挨拶が短い」という点が好評の校長先生で、小学校・中学校の始業式・終業式・入学式・卒業式というと、校長先生にPTA会長に誰やら彼やらが、どうでもいいような話を長々として、もういいかげん嫌になってくる・・というのが恒例でしたが、北野高校の I 校長だけはそうではなく、たしか、福田赳夫が総理大臣になった時だったと思うのですが、「明治生まれの人も頑張っていますね。昭和生まれの人も頑張ってください。大正生まれの人間からの提言です。終わり」・・・て、ええ校長先生やなあ、ほんま(^^)/・・・て感じがしましたし、雨の時には「私の挨拶は短いと評判ですが、屋外ではなく講堂でやると長くなるかというとそうではありません。終わり」・・・て、ほんま、ええ校長先生やわあ(^^♪ ・・・て思いました。校長が長々とぐっちゃらくっちゃら話すどうでもいいような話なんて聞いてる時間があったら勉強せえ!・・てところだったのだと思っていました。だから、北野高校には、1970年代後半、私が在学中は「君が代 演奏」なんてなかった。しかし、私が学校に行っていた小学校だったか中学校だったかどっちだったか、又、小学校の途中に転校したので小学校だったとしてもどっちの小学校だったか忘れたが、私が小学生や中学生だった時は、「君が代」というのは「国歌」ではなかったのだが、始業式とかに「君が代 演奏」としてレコードがかけられることがあったが、その際は、「君が代」というものは、あくまでも「聴くもの」だったはずなのだ。 黙って聴いていたからといって、「なんで、歌わないのか」なんて言う人は誰もなかったし、歌う人間なんて一人もいなかった。「君が代」というものは「黙って聴くもの」だったのだ。 ましてや、歌ってるかどうか口元を見てまわるなどという、そんな卑しい行為をするような、人間として恥ずかしい行為をする教員なんて一人もなかったし、「黙って聴く」というのが「君が代 演奏」の際の「正しい作法」だったのだ。 いったい、いつから「歌うもの」になったのだあ??? 少なくとも、私と同年代、1960年代後半に小学校に行って、1970年代前半に中学校に行った世代の人間は、「君が代」というものは「黙って聴くもの」という印象を持ってきたはずだ。
  いったい、いつから「歌うもの」になったのだ??? もともと、「君が代」というものは「黙って聴くもの」だったはずだが、いったい誰が「歌うもの」に変えたのだ? その人に変える権利なんてあるのかあ???

  それなら、私などよりも上の世代はどうか、戦中戦前に産まれた世代はというと・・・・。 野村克也・筑紫哲也『功なき者を活かす』(1998.3.5.光文社 カッパブックス)で、ちょっと前に他界した野村のじいさんが述べている。
《 [野村] 昨年の日本シリーズでもう一つ驚いたというか、あきれたのは、パシフィック・リーグの球場では試合前に『君が代』に合わせて国旗掲揚があるんです。試合前のセレモニーとして。
  私も、慎んで『君が代』を聴きながら国旗掲揚を見ていたんですが、ふっと西武のブルペンを見ますと、森投手コーチが見守るなか西口・伊東のバッテリーが投球練習をしているんです。我関せずという感じで。スタンドのお客さんが全員起立して国旗掲揚に参加しているにもかかわらず。これは、日本シリーズ初戦の、試合直前の話ですけど。
  この光景を見て、こんなチームには絶対に負けられない。このチームを日本一にさせたら日本プロ野球界の恥だと、正直そう思いました。
・・・ 》
・・・野村克也というじいさんは、学歴は高卒でありながら、「野球は頭でやるもんや」とか言って「知的なイメージ」で高学歴層に受ける野球人で、一応「立教大学卒」の長嶋と逆で、長嶋のファンと野村のファンというのはタイプが違うと野村自身が書いていたのだが、一般に、長嶋のファンというのは低学歴の人に多く、野村のファンは高学歴の人間に多いという傾向があったのだが(ひとつには、野村がそうなるように売り込んだ、アピールしたのだが、「わしぁ不器用で世渡りが下手や」とか言いながら、けっこう世渡り上手みたいなところもある・・)、それでも、やっぱり、野村に高卒の人だなあと感じる部分というのはあった。それは、「君が代」というものを、戦前・戦中の国家主義の思想・政策の一環として国民を精神支配するための道具として国民に強制されたものだ、ということに気づいておらず、たとえ、パリーグの球場で「君が代の演奏」「日の丸の掲揚」がされても、客の側ではそれを強制される筋合いはないし、選手・コーチもまた強制される筋合いはないはずで、「君が代」「日の丸」翼賛が好きではない選手やコーチが、「君が代」「日の丸」翼賛に同調しなかったとしても、それは不真面目ということとは別であり、むしろ、「君が代」「日の丸」翼賛に同調する人の方が不真面目・不誠実とも言えたはずなのですが、そのあたりを理解できないというあたりが、野球の話については野球選手でもない者にも興味深く話してきた野村克也という人の限界か、と思われる部分でもありました。
  野村克也は何年の生まれかというと、昭和10年(1935年)の生まれで、対談『功なき者を活かす』での対談相手の筑紫哲也と同年生まれ。1935年というと、「人、苦しみ、災(1931)」の1931年の満州事変の4年後、「戦(いくさ)長びく(1937)、日中戦争」、日中戦争開始、盧溝橋事件の1937年の2年前。1945年(昭和20年)の「終戦」だか敗戦だかの10年前の生まれ。「終戦」・敗戦の1945年の時点では10歳だった、という人で、お父さんが徴兵されて戦争に行った先で病気で死亡という「戦病死」したことから、戦後は、お母さん一人にお兄さんと2人、育ててもらったそうで、しかも、そのお母さんが体を悪くしてしまったそうで、そこから、「わしぁ貧乏やからな」というキャラクターができたらしく、野球選手・野球監督として成功して大金持ちになっても「わしぁ、貧乏やから」と書きまくっている本を、正真正銘、貧乏な人間に買わせて印税で稼いできた、というじいさんだった・・・。印税でじいさんを儲けさせてしまった人間の一人が私である。
  その満州事変と盧溝橋事件の間くらいの年に産まれて、「終戦」だか敗戦だかの年には10歳だったという人、うちの両親よりも10歳ちょっと若いというくらいの人で、野球については「知性派」「考える派」で「何も考えてない」という「長嶋みたいや」というタイプと逆の人だったようだが、学校については高校までしか行っていない人で、兄弟でもお兄さんの方が勉強はできたらしいという人ですから、南海ホークスの監督を解任されてから本を読みまくったらしいが、もともとは、運動選手であって教養人・知識人であった人ではないだけあって、その時代の思潮から必ずしも自由になっていない、生まれ育った時代の思潮から「精神の独立」ができていないような面も感じられます。それでも、うちの父親なんかよりずっとマシですけれども。
  そういう人の意識として、「君が代の演奏」「日の丸の掲揚」というのは、《 私も、慎んで『君が代』を聴きながら国旗掲揚を見ていたんですが 》というものだった。戦前生まれの人にとって、「君が代」というのは、あくまでも、「謹んで聴くというもの」だったのです。
  その「君が代」を、最近、大阪府立和泉高校の「民間人校長」と称する、実質、戦中の「配属将校」みたいなもの、高校教諭の資格も持たず、高校教諭の経験もないのに、いきなり、「校長先生」に”天下りみたい”というのか、「縁故入社」というのか「裏口入学」というのかで就任させてもらった中原徹という男、自分自身は早稲田大の内部進学らしく、早稲田大の内部進学が早稲田大の内部進学の高校に勤めるのならともかく、大阪府と縁があるわけでもなく、どこか大阪府立の高校の卒業生でもないのに、「配属将校」みたいな「校長」になって、その「裏口入学みたい」な「縁故入社」の「天下りみたい」「落下傘みたい」に就任した校長のテカ(手下)となって、「君が代」を歌っているかどうか、「口元チェック」してまわった教員がいたということですが、そんなヤツ、教員と言えるのか? なんとも、精神的に卑しい人間である。その「口元チェック」とかしてまわった者、おまえは、そんなことするために高校教諭になったのか? 
  私が高校生の時、クラブのOBで京都大学に行った人たちが、京大の教育学部に在学中の人に「教育学部というのは、教育される必要がある人間が行く所なんだ」などと冗談で言っていたことがありましたが、「口元チェック」などということをやってまわるような精神的に卑しい人間というのは、冗談ではなく、人を教育する人間ではなく、教育される必要がある人間と言うべきでしょう。

  さいとう たかを『ゴルゴ13』でも、その国の人間によって、国歌を耳にした時の感じ方が違う・・・という話が出てきたが、日本人は「君が代」を聴くと「厳粛な気持ちになる」と、『ゴルゴ13』の著者は書いていたのだが、「厳粛な気持ちになる」かどうかはその人によっても違うだろうけれども、「君が代 演奏」というものは、『ゴルゴ13』の著者などにとっても「厳粛な気持ちで黙って聴く」というものだったはずで、「歌うもの」ではなかったはずなのだ。
  『ゴルゴ13』は現代的な話のようだが、作者の さいとう たかを は、《ウィキペディア―さいとう たかを》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%86%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%82%92 によると、1936年生まれ。野村克也・筑紫哲也が生まれた1935年(昭和10年)より1年後なので、野村のじいさんと同年代と考えていいでしょう。その世代の人には「君が代」を聴くと「厳粛な気持ちになる」人が少なからずいたようで、「君が代」というものは「厳粛な気持ちで黙って聴くもの」だったのです。なぜ、誰が、それを歌わせたがるのか、疑問に思います。「黙って聴くもの」を声を出して歌うというのは、それは、むしろ、「作法に反する」ようにも思えるのです。中原徹とかそういう若造が、なぜ「作法に反する」ことをさせたがるのか? どうも、よくわかりませんね・・・。

  まず、 「国歌」というものは、「国民誰もが嫌がらずに歌える歌」を国歌として選ぶべきであり、歌いたくないと思う人がいる歌は、その歌が好きな人がいたとしても、「国歌」とするにはふさわしい歌ではない、ということである。「君が代」のような、歌いたくない、聴きたくないと思う人が少なくない「歌」を「国歌」に選ぶのが間違っている。
  1970年代前半、私が中学生だった時、総理大臣になった田中角栄がテレビのインタビューに出ていて、「田中さんが好きな歌というと?」と訊かれて、田中角栄は「う~さ~ぎ~、お~いし、かの山~♪ という歌ありますでしょ。私はあの歌が大好きです」と話していたことがあったが、たとえば、それなんかは、特別に好きだという人ばかりかどうかはわからないが、絶対に歌いたくないとか聴きたくないという人は少ないと思うのだ。その点で、「故郷(ふるさと)」という歌は、少なくとも「君が代」よりは「国歌」として選んでも悪くない歌だと思う。
  卒業式に「蛍の光」を在校生が歌い、卒業する生徒の方が「仰げば尊し」を歌うということが、私が小学校を卒業した1970年代初めあたりまでは多かったのだが、「仰げば尊し」の歌詞も、「身を立て、名をあげ」というくだりなどは、なんだか、出世した人間はえらいが、特別に「えらい人」にはならず地道に生きた人間はだめみたいな響きがないでもない。又、「わが師の恩~♪」てくだりについては、学校という所においては、教師と生徒との関係は人間関係であり、お互いに、うまくいっている場合もあればそうでもない場合もあり、無理矢理、「わが師の恩~♪」などと言わせるというのは、あまりいい趣味ではないと思われるし、あまりにも、強制的にそういう文句を言わそうとするならば、「おまえには世話なってないわ!」とか「おまえには恨みこそあれ、恩なんてないわ!」とかいう話が出てこないとも限らない。
  入学式・卒業式には、関西限定で「六甲おろし」を歌うようにすれば、そうすれば、関西では多くの人間は大喜びで歌うのではないか・・・とも思うが、関西にも巨人ファンはいるわけで、「六甲おろし」であっても、強制的に歌わせるとか聴かせるとなると、それは良くないだろう。「六甲おろし」は自主的に歌うものだろう。・・「くったばれ、読売、くったばれ、読売~♪」という「東京音頭」とともに・・(^^)/
※ 《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE
《YouTube-阪神ファンによるくたばれ読売(東京音頭)》https://www.youtube.com/watch?v=HEyGB5M-9K0
  まず、「君が代」を「国歌」にしようとした自民党のじいさんたちだが、《「国歌」にふさわしい歌を選ぼう》ということで決めたのではなく、《「君が代」を「国歌」にしよう》ということで決めたわけで、その思考がまずおかしいと思う。なぜ、先に「君が代」があるのか?
たとえ、復古調の『古事記』『日本書紀』『万葉集』あたりからとったものでも、たとえば、ヤマトタケルが故郷の大和地方を思って詠んだ・・・ということになっている「大和は国のまほろば たたなづく青垣 やまごもれる大和しうるわし」とか、そういう文句のものに曲をつけたとすれば、まだ、それほど嫌がる人は少ないかもしれないが、自民党のじいさんにはそういう発想もなかったのだろうか。

  田中角栄が好きだと言った「う~さ~ぎ、お~いし、か~の~や~ま♪」という歌、文部省唱歌の「故郷(ふるさと)」という題名らしいが、せめて、この「故郷(ふるさと)」を「国歌」にしてはどうか・・・という提案をする議員は自民党におらんかったのか・・・と思うのだが。
  しかし・・・。 比較的多くの人がいい歌だと思うものを選んだとしても、それでも、歌というものは人によって好みがあるもので、あまり好きではないという人ががあっておかしくないものだ。だから、どんな歌を国歌として選んだとしても、それは歌うことを強制するべきものではないはずであり、嫌がる人に無理に聴かせない方がいいと思う。

  「ストレス」解消に何をするといいか・・・というと、座禅をするといいという人とか、般若心経の写経をするといいと言う人とか、スポーツをするといいと言う人もあり、そして、「クラシック音楽を聴く」というのがいいと言う人がいるのだが、なぜ、「音楽」ではなく「クラシック音楽」なのかというと、クラシック音楽の方が音の波長というのかリズムというのかが脳を落ちつける働きをするとかいう説があるらしい。しかし、「作家で精神科医」の なだ いなだ が、どこかで書いていたと思うのだが、結局のところ、みんな、「ストレス」を口実にして自分がやりたいことをやっているだけと違うのか・・・・と。 そう言われればそうかもしれない。
  私なんかは「文武両道型文治派」と自分を思っているのだが、その「文武両道型文治派」の私は、毎日、少しずつ、身体を動かす時間を持とうと思っていても、疲れたり、気分が塞いだりした時には、「きょうは、まあ、いいかなあ」なんて思ったりするのだが、「根っからのスポーツマン派」みたいな人と話すと、そういう「根っからのスポーツマン派」の人は、疲れたり、気分が塞いだりした時になると・・・、「きょうは気分が塞いでるから、だから、筋トレやろ♪」・・とか考えるらしいのだ。そのあたりが「スポーツは嫌いではないが文武両道型文治派」と「根っからのスポーツマン派」の違いか・・という気がする。張本は「素振りは俺の睡眠薬だ」とか言って寝る前に素振りをやっていたというのだが、そんなもん、寝る前に運動やったらかえって目が覚めるのと違うんかい・・て感じがしないでもないのだが、まあ、本人が好きでやるのなら、「好きにすればええやん」てとこかもしれん。
  音楽については、ロック音楽というのは、あれは、難聴の人の音楽ではないのか・・と私は思っている。今となっては20年以上前だが、屋外でのロック音楽の演奏会に職場の同僚に誘ってもらって、せっかく誘ってもらったのだからと思って行ってみたところ、スピーカーで人工的に拡大したものすごい音量のものが鳴り響いて、耳が痛くて痛くて、拷問でしかなかった。その後、3日ほど、耳に痛みが残って、いくら、「せっかく、誘ってもらったのだから」などという事情があっても、ロック音楽の演奏会は二度と行くべきではないと思った。ロック音楽というのは、肉声や楽器の自然な演奏ではなく人工的に音を拡大して演奏するので、耳を悪くしてしまう。かつ、ロック音楽の演奏者は多くが難聴になっていて、難聴になっている人の基準で音量を決めて流すので、それを何度も聴いていると聴いた人も難聴になってしまうようだ。だから、どういう分野のものがいいかは人によって好みがあって、いいだ悪いだ言ってもしかたがないとしても、ロック音楽だけは聴かない方がいい、と私は思った。あれは、耳を攻撃している兵器であって音楽ではないように思う。
  「クラシック音楽が好きだという人は、インテリぶりたい俗物だ」と橋下徹が発言したことがあったが、たしかに、「インテリぶりたい」から「クラシック音楽が好きだ」ということにしている人というのは現実にいると思う。しかし、それなら、「クラシック音楽が好きだという人」は誰もが「インテリぶりたい俗物」だから「クラシック音楽が好きだということにしている」のかというと、そういうことではないはずだ。それから、クラシック音楽といっても、いろいろなものがあるわけで、フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で、リヒャルト=ワグナーを悪趣味だと否定していたが、たしかに、ワグナーというのは悪趣味だと思う。10代の頃は、オペラ『ワルキューレ』の「ワルキューレの騎行」なんていいと思ったが、歳を経るとともに、ドイツ人で人種差別主義者のリヒャルト=ワグナーが作曲した曲だなあ・・という感じがしてきた。〔⇒《YouTube-Wagner(ワグナー)-Ride of The Valkyries-Karajan in Salzburg1967- 「ワルキューレの騎行」 カラヤン ザルツブルグライブ》https://www.youtube.com/watch?v=3uU6w1rrLqc 〕 なんか、攻撃されそうで怖い。この曲を好きな人というのは、もしかして、自分は攻撃する側だ・・・とか思ってませんか? ・・ また、うちの父親が、ヨハン=シュトラウス2世のオペラ『こうもり』序曲を聴きながら「いらいらいらいら」とか言うていたのを見て、「クラシック音楽を聴くと落ち着く」という話があるが、それは曲にもよる(人にもよるかもしれん)・・・と思うようになった。〔⇒《YouTube-ヨハンシュトラウス/歌劇(こうもり)序曲/ベルリンフィルハーモニー》https://www.youtube.com/watch?v=BugDZWgVQnY 〕 あのオペラ『こうもり』の序曲というの、「ちゃんちゃんちゃん、茶チャカチャカ、ちゃんちゃんちゃん、茶チャカチャカ・・いらいらいらいら♪」という音楽というのは、あれは、聴くといらいらしてくる音楽と違うのか・・・という印象を受けたし、あんなもの、いったいどこがいいのか私にはさっぱりわからん。 まず、「クラシック音楽」と言っても、それぞれ違うのであり、それが精神安定に効果があるかどうかといっても、その曲によっても違いがあるのではないかと思う。最近、「モーツァルトで安眠」とかそういうCDを見かけたが、たしかに、モーツァルトの音楽というのは、比較的気持ちが落ち着く方向に働く音楽が多いのではないかと思う。まあ、音楽というのは、人それぞれ、好みがあり、「クラシック音楽を聴くと落ち着く」と言う人というのは、自分でそう思っているのなら聴けばいいと思うが、クラシック音楽ではなく他の分野の音楽を聴くと落ち着くという人がいるのならばその分野のものを聴けばいいと思う。ロック音楽は耳が痛くなるのでやめた方がいいと思うけどな。
  住宅建築業の会社の経営者に、住宅建築業の会社の「トップセールス」とか営業部長とかの話を録画したビデオを販売している会社があったようで、2001年だったと思うが、(株)一条工務店に在籍した時に、積水ハウス(株)の営業部長の話と東日本ハウス〔現 (株)日本ハウスホールディングス https://www.nihonhouse-hd.co.jp/?utm_source=Yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=brand_group_higashinihonhouse&yclid=YSS.1000036238.EAIaIQobChMI1NK-6Ony6gIVz34rCh0r1wcWEAAYASAAEgLBE_D_BwE 〕の「トップセールス」のおっさんの話を聞かされたのだが、東日本ハウスの「トップセールス」のおっさんは、「お客さんの家に営業に同行して行く時には、クルマの中で必ず、軍歌を聴かせるようにしています。軍歌は気持ちがたかぶる音楽ですから、お客さんの家に行くまでに気持ちがたかぶるようにさせるのです」などと言っていたので、さすがに右翼東日本ハウスだけあって、怖いな。右翼東日本ハウスだけあって、いかにも教養水準が低い、いかにも野蛮人て感じがするな・・・・と思ったものでした。「気持ちがたかぶる音楽」というのなら、別に軍歌でなくても、「六甲おろし」でもいいし、「ミルマスカラスのテーマ スカイハイ」だっていいわけでしょ。〔⇒《YouTube-ジグソー** スカイ・ハイ》https://www.youtube.com/watch?v=ZxuwEmtekeI 〕 「ガメラマーチ」でもいいわけだし(^^)/〔⇒《YouTube-ガメラマーチ》https://www.youtube.com/watch?v=_lOKKnFgiT8 〕・・というよりも、東日本ハウス〔現 (株)日本ハウスホールディングス〕の営業というのは、お客様の家にレスリングかボクシングでもしにいくつもりなのか??? なんか、ちょっと、勘違いしとるような感じがするのだが・・・、そう思いませんか? 私が客の立場なら、軍歌ききながら来た、気持ちをたかぶらせてきたおっさんなんて、むしろ、家中にあげたくないなあ・・・、ほんと! 会社名からして、「東日本ハウス」だと「普通の名前」だけれども東日本中心という感じの名称で、全国企業にしようとするにはふさわしくないということからか、「日本ハウスホールディングス」にしたようだが、そうなると、「いかにも右翼て感じ」の名前、「日本財団」と関係あんのかあ? 「日本会議」と関係あんのかあ? ・・て感じの名前になった。そんな会社のそんなおっさんに軍歌聴きながらやってこられたのでは、「なんか、怖そう!」て感じがして、家中に入れたくない・・・が、東日本ハウス(現 日本ハウスホールディングス)のおっさんとしては、軍歌を聴くと、うれしくなるのだろうから、おっさんが、社歴の浅い営業に、無理矢理、軍歌を聴かせるというのは、右翼東日本ハウスだけあるて感じ、「ああ、東日本ハウスに勤めなくって良かったあ~あ!」て感じがするが、自宅で自分一人で聴くのなら、「好きにせえ」てところである。・・・それにしても、(株)日本ハウスホールディングス のホームページに掲載されている社長の写真見ると、な~んか、いかにも右翼のおっさん・・て感じ・・の顔してるな・・・。
  それで、ともかく、歌というものは、人それぞれ、好みがあるのだから、歌うにしても、聴くにしても、強制するのは極力避けるべきものだ。このくらいのことを理解できないような人間、このくらいのことも、教え直してやらないといけないような人間は、教育されるべき人間であって教育する人間ではないはずだ。

  「君が代」が好きという人というのは、「親孝行」が好きという人と似ている。又、「糸ひき納豆」を関西人に食べさせたがる東京もんのおっさん と似ている。
  「親孝行」が好きという人というのは、たいてい、自分が親に孝行したがる人ではなく、誰か自分以外の人間に「親孝行せえよお、親孝行。わしは親孝行な人間やねんぞ、わしはあ。わしは親孝行なえらいエライえらい人間やてほめろよ、このわしを~。親孝行せんとバチあたんぞ、親孝行せんとお~お」と言うのが好きな人である。うちの父親なんかも、自分の親が2人とも他界した、息子はある・・となると、それまで、「親孝行」なんて一言も言ってなかったのに、途端に言いだした。「親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこ、クオッ、クオッ! 親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこ、クオックオッ! 朕思うに我が皇祖こ~そ~は、親に孝に親に孝に親に孝に、わしに孝にわしに孝にわしに孝に、わしにわしにわしにわしに、わしにい~い、わし、わし、わしい~い!!!」と言いまくるようになったのだが、あれは、どう考えても絶対に「ずっこい!」と思う。 元A級戦犯の笹川良一さんは、大阪府箕面市の阪急箕面線「箕面」駅から箕面大滝に向かう滝道の途中に、《笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表している》らしい像が立っているのだが、あれは箕面滝道にだけあるのかと思っていたら、インターネットで見ると、船の科学館のほか、全国あちらこちらの競艇場に同様のものがあるらしい・・・が、けっこうカネのかかっている像だと思うが、その像を作成する費用は、競艇ですって首くくって母親を泣かせた男のカネで出ている・・・とか、あなた、こういうこと、考えたことない~い??? ・・というのか、だいたい、香川県の金刀比羅宮の石段なんて、お母さんをおぶって登るなんて、危ないと思うぞ。 それよりも、母が90代まで生きてくれたおかげでわかるようになったことがいくつかあるのだが、一般に、おばあさんというのは、おぶられるのを嫌がるのだ。特に、人前でおぶられるのは嫌がるのだ。それを、わざとらしく、おぶってみせて、しかも、全国の競艇場に「わしぁ、こんなに親孝行なんじゃ、わしはあ」の像を作りまくる・・なんて、それはお母さんをダシにして勝手なことやってるだけ!・・・だと思う。 そういう人っているわけだ。「一日一善」とか言って、「わしみたいにええことせえよお、わしみたいにええことを」と言いたいらしいが、その広告のカネもまた、競艇ですって首くくって母親を泣かせた男のカネから出ている・・・なんて、あなた、こんなこと考えたことない~い???
  千代大海・・・というと、8勝7敗⇒負け越し⇒8勝7敗⇒負け越し⇒8勝7敗⇒負け越し⇒・・と続けた弱い弱い大関・・という印象があるかと思うが、実は、それは引退前の頃のことで、大関に昇進した直前直後は千代大海はけっこう強かったのだ。引退前から考えると信じられないかもしれないが、大関に昇進する直前直後は強かったのだ。その強かった頃の千代大海の得意技というのが「親孝行」だった。おまえ、まがりなりにも相撲取りならば、「親孝行」なんて得意技にしないで相撲の技を得意技にしたらどうなんだ?・・て感じがしたが、その後、大関でもベテランの大関になってくると、得意技は別のものになったらしい。「週刊ポスト」だったか「週刊現代」だったかに掲載されていた、幕内力士匿名座談会だったかで述べられていたのだが、十両以上になった力士には八百長の誘いがかかってきて、それをすべて断るのは至難の業であり、ことごとく断ってきた稀勢の里や安美錦らはその点だけでもすごい力士だそうだ。たいていの力士には八百長の誘いがかかるが、珍しく誰からも八百長の誘いがかからないのが高見盛で、なぜ、誘われないかというと、口が軽いので、こいつと八百長やるとばれそうで危ない。他にも、若の鵬は身体能力が高いことから相撲をそれほど覚えていないうちに幕内まで上がってきたことから、演技が下手でばれそうな八百長をやるから危ない。それに対して、魁皇・千代大海・琴光喜の3人は、じ~つに、演技がうまい!!! 特に、人間の体というのは、上半身と下半身で正反対の動きをやるというのは相当難しいのだが、千代大海の場合は、上半身は突っ張りで前に出る動きをやりながら、腰から下は自分から後ろに下がるという難しい動きを見事にやってのけるそうで、これを「千代大海のムーンウォーク」と呼んで「誰もが尊敬している」(笑)・・・そうな・・・(笑)。・・で、若い頃は相撲取りのくせして、相撲の技ではなく「親孝行」なんてのを得意技にしていた千代大海は、引退前になると「千代大海のムーンウォーク」という「誰もが尊敬する」技を得意技にするようになったらしい・・・(笑)。
  いずれにせよ、親孝行などというものは、やろうと思ったなら黙ってやればいいことであって、人にどうこう言うことではない。又、親孝行しようと思っても、仕事が忙しかったり、お金がなかったりしてなかなかできない場合もあるし、せっかく、親のためと思ってやっても、喜んでもらえなかったり、ということもある。 それを「わしは、こんなに親孝行やねんぞお、わしはあ。どうじゃ、わしをえらいエライえらいとほめんか、このわしを~お! わしみたいに親孝行せんとバチあたんぞ、バチがあ。親孝行せえよお、親孝行!!!」とか言いまくるおっさん・・というのは、単なる身勝手なアホでしかないだろう。 「親孝行」が好きと言う人というのは、自分が親孝行しようと思うのなら、黙ってやればいいことであるのに、それを黙ってやるのではなく、人に「親孝行せえよお、親孝行。わしみたいに親孝行せえよお、親孝行せんとバチあたんぞ、バチあたんぞ」と言うのが好きなのである「君が代」が好きという人は、たいてい、「君が代」を嫌がる人に無理矢理「君が代」を歌わせたり聴かせたりすることが好きなのである。そういう、なんというのか、趣味の悪い人間なのである。
  それは、「糸ひき納豆」を関西人に無理矢理食べさせたがる東京もんのおっさん・・と似ている。「納豆」とのみ言うと、関西では「甘納豆」のことを言う。私が子供の頃、1960年代から1970年代にかけては、関西では「甘納豆」は売られていても、「糸ひき納豆」は売ってなかったし、私は見たことなかった。 小学生向けの小説で、目が不自由な納豆売りのお婆さんを騙して、小さい方の金額で大きい方の納豆を騙し取ることをやった少年の話が出ていて、どうも、ぴんとこなかったのだが、それは関西の子供は「納豆」と言うと「甘納豆」のことを考えたのに対して、その小説で述べられていた「納豆」というのは「糸ひき納豆」のことだったからだ。今では、東西の行き来も多くなったからか、関西でも「糸ひき納豆」は普通に売っている。これを、相手が関西人だと思うと、「糸ひき納豆」がどんなに栄養価があって優れた食品かということを説いて、「糸ひき納豆」を食べるのを嫌がる関西人に無理矢理食べさせてやろうということに喜びを感じる東京もんのおっさん・・というのが、けっこういるのだ! ・・私なども、「関西人でしょ。納豆食べないでしょ。それが関西人の欠点なんですよ。納豆は栄養分が豊富で健康にいいんですよ」とか何とか言って食べさせようとして、実は私は関西人は関西人でも「糸ひき納豆食べる派関西人」だと知ると、「ええ~え? 関西人なのに、納豆食べるんですかあ~あ? なんでえ~え? なんで、食べるのお~お」と、残念で残念でたまらない・・て感じで言うおっさんてのがいるのだ。「糸ひき納豆」を食べさせること自体が目的なら、相手がすでに「糸ひき納豆」を好んで食べるということを知れば喜べば良さそうなものだが、そうではなく、はっきりと態度に表して残念がるのだ。 ちなみに、在東京圏関西人(「日本」とは東京のことだと考えている東京もんからすると、「在日関西人」)には「糸ひき納豆食べる在東京圏関西人」と「糸ひき納豆食べない在東京圏関西人」がいて、「糸ひき納豆食べない在東京圏関西人」は、私みたいに「糸ひき納豆食べる在東京圏関西人」を見ると、「なんで、あんた、そんなもの食べるの!!!」と、なんと言うのでしょうか、「民族の誇りを捨てたのか!」とでもいった調子で、もしくは、宗教の戒律を破ったかのような調子で、まるで、イスラム教徒が豚肉を食べるかのように、ヒンズー教徒が聖なる動物である牛の肉を食ったかのように責める人がいるのだが、「関西人の誇り」は「六甲おろし」で十分であって、「糸ひき納豆」食べるからと言って、別に、関西人の「民族の誇り」を捨てたわけではないし、関西人としての戒律を破ったというつもりはないのだが、「民族の誇り」を捨てるのか・・・みたいに言う人というのが時々いる。それで・・・、東京もんのおっさんには、「糸ひき納豆食べない派の関西人」に、無理矢理、糸ひき納豆を食べさせるということに快感を覚えるようなおっさん・・というのがいるのだ。本当に。これ、巨人が嫌いな人間に巨人を応援させようとする巨人ファンのおっさんとも似ているように思う。
   「親孝行」が好き! というおっさんというのは、実際には、《ひとに「親孝行せえよお、親孝行せえよお」と言うのが好き》という人、もしくは、《ひとに「親孝行せんかあ。この親不孝もんがあ」と言うのが好き》という人であり、自分が親孝行するのが好きとかどうこういう話ではないのです。「糸ひき納豆」を「糸ひき納豆食べない派の関西人」に無理矢理食べさせることに生きがい感じている東京もんのおっさんと似ており、巨人嫌いの人間に巨人を応援させたがる巨人ファンとも似ており、それらは、「君が代」を嫌がる人間に、無理矢理、「君が代」を歌わせてやろうとする、なんというのか、趣味の悪い人間と似ている。 なんというのか、それら、「無理矢理やるのが好きなタイプ」という人たちである。ほんと、そういう人には、「お願い、それだけは、やめて!」「そこだけは、イヤ!」なんて言おうものなら、ますます、無理矢理、やりたくなってくる。そういうタイプの人たちである。

  「君が代」を「国歌」に制定したがる症候群の人、「国歌」に制定するだけでなく、「君が代」を歌うのを嫌がる人間に無理矢理歌わせることに快感を覚える人間シンドロームの人・・というのは、それは性格に特徴があると思われる。
  コロナウイルスの問題で、大きな声を出すな、とプロ野球観戦においても、大相撲観戦のおいても言われているという最中、なんで、「君が代」を無理矢理、歌わせないといけないのか? そう思いませんか?  まず、「君が代」というのは、戦前戦中においても、「歌うもの」ではなく、「黙って聴くもの」だったのです。 戦後、「国歌」ではない時代においても、学校で「君が代 演奏」がされる場合には「黙って聴くもの」だったのです。 ですから、「歌いたい」のではなく「歌うのを嫌がる人に無理矢理歌わせることに快感を覚えるタイプ」の人、いわば、「無理矢理やるのが好きなタイプ」も、とりあえず、コロナウイルスの問題が、いつ、収束するのかわからないが、けっこう、収束するまで期間がかかるかもしれないが、プロ野球にしても、今年のセリーグは、今年度については、CS(クライマックスシリーズ)はおこなわないでおこなう・・ということにしたのですから、「君が代」もまた、コロナウイルスが収束するまでの間は、「君が代 演奏」はやらないか、それが嫌ならば、「君が代 演奏」は「黙って聴くもの」としておこなうようにするべきです。 「黙って聴く」というのは、戦前戦中の日本でそうだったし、戦後民主主義と言われた時代の学校で「君が代 演奏」がされた時も「黙って聴くもの」として演奏されたのですから、プロ野球のセリーグでクライマックスシリーズは、来年以降どうするかは別として、今年度はクライマックスシリーズはなしでやるということにしたように、「君が代 演奏」はコロナウイルスの問題が収束するまでの間は、「君が代 演奏」をやるのなら「黙って聴くもの」としてやる、というようにすればいいことです。
  それをまた、たとえ、コロナウイルスの問題で、マスク着用義務づけ、プロ野球や大相撲が大声を出しての応援や大声でのヤジは禁止として実施されているのと同様に、「歌うもの」としての「君が代 演奏」は禁止として、「君が代 演奏」をおこなうのならば「黙って聴くもの」としておこなうようにするべきだ・・・と思うのだが、””雨にも負けず、風にも負けず、コロナウイルスが感染する危険にも負けずに「君が代」を嫌がる人間に無理矢理に歌わせたくてたまらない人たちシンドローム”” の人たちが、日本の社会に蔓延して、そのビョーキに感染した人がけっこういるようです。
  そういう人たちというのは、自分自身のその変わった性格を分析してみた方がいいと思います・・・・が、そういう人は自己分析なんてしないのです。小此木啓吾がひとに「なんじゃかんじゃ症候群」「なんだもんだシンドローム」と「精神医学」的レッテルを製造してひとに貼りまくっても、自分自身がそれに該当することはないか・・なんて絶対に分析しないのと同様に、自分たちは常に正しい、自分たちは間違っていても正しい・・・と信念もっているのです。

   ・・・コロナウイルスの問題が一段落するまでの間くらいは、「君が代 演奏」をもしもやるのであれば、「黙って聴くもの」としてやるようにする、ということは、コロナウイルスの性質から考えて、大いにもっともなことだと私は思うのだが、コロナウイルス感染拡大の危険を冒してでも「君が代」を嫌がる人間に無理矢理歌わせたくてたまらない症候群 という人たちが、日本の「教育委員会」にはそのビョーキ・「ほとんどビョーキ」の感染者がけっこういるようだ。 困ったもんだ・・まったく・・・。

  私は、小学校から高校まで公立の学校に行き、学校というものは私立より国公立の方がいいと思ってきた。その理由は、国公立の方が一般に学費が安いからということもあるが、私立の学校というのは、「どこかの誰か」のものであり、「どこかの誰か」の意向で作られて、「どこかの誰か」の考えに沿って運営されているのに対して、国公立の学校というものは「みんなのもの」、「特定の誰かの指示・命令で運営されるのではなく、国民全体の意思で運営されるもの」、「どこかの誰か」に命令されて動かされるものではないもの、と思ったからだ。私立は「どこかの誰か」の私物であるのに対して、国公立は「みんなのもの」「公共のもの」という認識だった。 しかし、逆を考える人もあるようで、福沢諭吉は『学問の独立』という書を発表し、学問・教育・学校というものは、「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきで、それゆえ、学校は民間で運営されるべきで、私立の方が好ましいということを主張した。実際にはどうかというと、両方の面があるのではないかと思う。
  私立の学校の方がカネがかかるから、だから、関西人は「なんで、一生懸命、勉強したもんがカネのかかる私立の学校に行かされなきゃならんのだ。勉強せえへんかったもんが、カネのかかる私立の学校に行くのはしかたがない。もっと、勉強せえへんかったもんは、さらにカネかけて裏口入学で行くしかないというのも自業自得や。一生懸命、勉強したもんが税金で設立されてる国公立の学校に行かせてもらうのは当たり前やがな。なんで、一生懸命、勉強したもんがカネのかかる私立の学校に行かされにゃならんのや」と考えるのだが、私はそう思ってきたが、しかし、一方で、もしも、国公立の学校よりも内容がある値打ちがある私立の学校があったとしたならば、「コストと利益を比較考量して」考えて、十分に利益がコストを上回るという私立の学校があれば、そのコストはかける値打ちがある・・と考えることもできる。慶應の先生はそれを言われるのだった。「だって、こっちの方がいいんだもん」と。この場合の「利益」は金銭的利益だけを言うのではなく、内容があるものならば、「コストと利益を比較考量して」少々費用がかかっても、むしろ、「お買い得」である場合はあるし、公立伝統校が「伝統校」の名前に胡坐をかき、公立であるという「親方日の丸」経営から「勝手な事ばっかりやってるだけ」であれば、コストが安くても「安物買いの銭失い」になる場合もある。私が卒業した後くらいから大阪府の公立高校が「地盤沈下」したのは、ひとつにはそれがあったと私は思っている。
  1980年代、「日本列島を(アメリカ合衆国軍のための)不沈空母とする」と発言した中曽根売国奴内閣の臨教審の委員になった慶應義塾の塾長の石川忠雄が、国立の大学の場合は、すべての国立大学が設立母体は「国」であって共通しているのに対して、私立の大学は設立母体はそれぞれ違う、ということを述べていたが、たしかに、私立の学校の場合、「私立」がいいか悪いかと言っても、それぞれ違うわけで、なってない「私立」の学校があったとしても、だからすべての私立の学校がなっていないということになるわけでもないだろう。
  『学問の独立』という著作を福沢諭吉は書き、福沢諭吉は、学問は「政府」「国」「国家」から独立したものでないといけない、ということを述べてきたはずだが、中曽根臨教審の委員になっていた慶應義塾の塾長の石川忠雄は「かつての教育勅語のようなもの」を今の日本に設けるべきだなどと主張した。これは、福沢諭吉の思想とは正反対の主張である。石川忠雄は慶應義塾の内部進学らしいが、内部進学の人には、福沢諭吉の著作や伝記などをまったく読まずに「福沢精神」「福沢精神」と叫ぶのが大好きという人が多い。内部進学の人は誰もがそうだということではなくそうでない人もいるとは思うが、間違いなく「多い」。そういう人にとっては「福沢精神」というのは福沢諭吉の著作や福沢諭吉が人生をどう生きたか・それぞれの場面でどういう判断をしたかといったことから考えられたものではなく、あくまでも内部進学の人間がやることが「福沢精神」であり、「独立自尊」というのは自分自身で自ら考えて自分自身の考えで判断して生きる、それが生活にプラスになることもあればマイナスになることもあるかもしれないが、どうであっても、自分自身の考えを独立して持つ・・というのが「独立自尊」ではなく、内部進学の人間がやることが「独立自尊」であり、社会の動きに反対しないのが「独立自尊」で「自我が確立されている」であり、それは違うぞと多数派に対してでも意見を述べる人間というのは「独立自尊の精神を持っていない」「自我が確立されていない」という「診断」になるのであり、それって逆と違うのか・・と思うのだが、「慶應心理学」は独立自尊の態度がない人間を「独立自尊の精神を持っている」と「診断」する。それが「慶應心理学」である。逆らうと「モラトリアム人間病」にかかっているとか小此木啓吾一党に「診断」される危険があるから怖い、こわい、怖い、こわい! 「治療」と称して「人間による人間の加工」をされる危険もある。つくづく、怖い、こわい、怖い、怖い。
  学問・学校というものは「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきだ、という福沢諭吉の主張は一理ある。但し、それなら、私立の学校は、設立者や出資者などから独立した存在であり続けることができるのか、という問題があるのだが、〔 福沢諭吉という人は、1835年生まれで、1901年(明治34年)没、明治維新の1868年より前の江戸時代に33年、明治時代に33年、江戸時代と明治時代に半分ずつ生きた人であり、その時代の人として考えると、大変、進歩的な人で魅力のある人であったのだけれども、「資本主義に対する批判が不足している」といった批判もあるものの、それは江戸時代に半分・明治時代に半分生きたというそういう時代の人として考えると、やむをえなかったのではないかとも思われるし、又、そのあたりがその時代の人である福沢諭吉の限界であったのかもしれないとも思われるところで、学問・学校が「国」「国家」「政府」によって運営されて指示され支配されるのではなく、「民間」で運営されるべきだというのは一理はあっても、私立であれば、何ら制約を受けずに「学問の独立」が確保されるのか、という問題の分析は十分になされていない、とも言える部分である。福沢諭吉は江戸時代に半分・明治時代に半分生きた人としては、その時代の人であることから考えてしかたがない部分もあったとしても、江戸時代に半分・明治時代に半分生きた人が言ったことを現在にそのまま持ち込み、「私立だってことはいいってことじゃないか」とか言ってしかたがない「ほとんどビョーキ」みたいな教授先生が慶應大学には少なくなかったが、「江戸時代に半分・明治時代に半分生きた人の優れた面」と「その時代に生きた人の限界」とを分けて考えることができない、今現在そのまま主張したのでは今現在の時代にはそぐわないものをそのまま口にしないとおれない症候群みたいな人というのが、内部進学の教授には多かった、明治維新前後においては学問・学校は「国」「国家」「政府」からの独立ということが大事であっても、さらに、私立の場合には設立者や出資者から独立できるのかという問題もあるが、封建時代に生まれて生きた人が資本主義の問題点についての分析ができていないのはやむをえないとしても、今現在の人間がその分析がないというのは高く評価できない。〕、「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきだ、という考え方自体はもっともなもので、それは私立の学校に限らず、国立・公立の学校でも、「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきであろう。その点から考えて、東京都立の大学がいくつか合併した際に、都立のいずれかの大学の卒業生でもない都知事の石原慎太郎が「都立大学」という名称はだめだと主張し、「首都大学東京」という変てこりんな名称にしろと命令して決まったというのも、「学問の独立」「学校の独立」という点から考えておかしい。おそらく、右翼反動石原慎太郎は都立大学の「リベラル」なイメージを嫌ったのであろうと思うが、右でも左でも、ともかく、その大学の出身者でもない者が、都知事だからとこの名前はいかん、この名前にしろと命令して決めるというあたりからして、「学問の独立」「学校の独立」という趣旨に反するものである。
  『学問の独立』という書を出して、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものでないといけないと主張した福沢諭吉を創立者とする慶應義塾の塾長の石川忠雄が、「かつての教育勅語のようなものを設ける必要がある」などと中曽根臨教審の委員として発言したのだが、この人は福沢諭吉の著作を読んでないのか? ・・・と思ったものだ。「この民は口では私を敬うが、その心は私を遠く離れている」と『旧約聖書 イザヤ書』だったかに書かれていたが、内部進学の人には口では「福沢精神」と叫びまくるが、その心は福沢諭吉を遠く離れている人というのが少なからずいるのだが、石川忠雄さんもその一人のようだ。学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきであり、同じ考えで、倫理・道徳といったものもまた、「国」「国家」「政府」から独立したものでないといけないはずである。それを、「国」「国家」「政府」もしくは「天皇」が、国民の倫理・道徳の問題に口出して「親に孝行せえよお」「夫婦は喧嘩すんなよ」「兄弟は仲ようせえよお」とか「教える」などというのが、それがおかしい。最近、比較的若い人で、「教育勅語」というものを読んでみたら、何もそんなに悪い内容じゃないじゃないかと思ったなどと言う人が時々あるのだが、内容がいいか悪いか以前に、倫理・道徳といったものを「国」「国家」「政府」もしくは「天皇」が決めるというのが、その決めた内容がいいか悪いかにかかわらず間違っているのです。「国」「政府」「国家」もしくは「天皇」が、倫理・道徳といった問題を、こうなんだぞと国民に「教育」するというのが、それが間違っているのです。倫理・道徳といったものは、学問・学校が「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきであるというのと同じく、「国」「国家」「政府」から独立したものでないといけないのです。そのくらいのことを理解できていない人が、慶應義塾の塾長だとして「我々(内部進学)は福沢精神を身に着けている」とかおっしゃるというのは、それはチャンチャラおかしいと判断せざるをえない。
  最近の、教育委員会という妖怪のような存在による「君が代」「日の丸」の強制、特に、戦前戦中においても、戦後しばらくにおいても、「君が代」は「黙って聴くもの」であったのに、それを誰かが勝手に「歌うもの」に変えて、変えた内容を国民に強制しようとしている、特に、公立の学校で強制しようとしているのですが、それは「学問の独立」「学校の独立」の趣旨に反するものです。教育委員会の委員になるような人ならば、この程度のことは考えてみたことはあっていいはずだと思うのですが、ないみたいな感じです。いちいち、各都道府県の教育委員会に「どうしましょうか」と訊かないと判断できない、そんな校長先生だらけ・・、あんた、最終学校卒業するまで何を勉強してきたのか・・て感じの先生だらけ、「学問の独立」「独立自尊の精神」を口だけではなく本当にある程度以上持っている人ならば、自分自身の考えを主張することができるはずであり、それが教育委員会の要求と異なることだってあっておかしくないはずである。教育委員会と称する妖怪から指示されて、生徒に「人間による人間の加工」をするのが教諭の仕事だと思っているような、そんな教諭だらけということなのだろうか?特に、校長先生というのは、「人間による人間の加工」を仕事とする人間の管理者だと思っている人なのだろうか?

  福沢諭吉は、「学問の独立」として、学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきだ、と考え、それゆえ、学校は「民間」のものである方が良いとして私立の学校の方が良いと考えたが、江戸時代に半分・明治時代に半分生きた人だけに資本主義に対する批判・分析が十分でない人だけあって、「学問の独立」として学問・学校は「国」「国家」「政府」から独立したものであるべきだとしても、それなら、私立の学校は設立者・出資者から自由であることができるのか、私立でさえあれば「国」「国家」「政府」から独立して存在できるのか、という問題があるが、それについて十分な分析・批判はできていないように思われる。むしろ、その点で、「私(わたくし)」によって支配され運営される学校よりも、「公(おおやけ)」によって運営される学校の方が「みんなのもの」「特定の誰かのものではないもの」になれるという面がある。〔「私学だってことは、いいってことじゃないか。こんな常識がわからんのか」とかおっしゃる慶應の教授先生(内部進学)はこのあたりの分析がまったくできていない。〕
  しかし、さらに・・。ドイツの精神分析家で共産党員であったヴィルヘルム=ライヒは資本主義社会は人民は資本により抑圧された社会であり、社会主義の社会こそ人民が自由な精神を確保して生きることができる社会であろうと考えたが、ところが、モスクワに行ってロシア革命によって誕生したソビエト連邦を見て、ライヒは、これでは「国営資本主義」だと幻滅し、「抑圧された社会」と「抑圧されない社会」を資本主義か社会主義かという視点からとは別のものとして考えるようになる。これと似たことが、最近の日本においてもあったわけだ。公立の高校の方が、「わたくし(私)」立よりも「おおやけ(公)」によって設立された「おおやけ(公)」のものであり、「みんなのもの」で、「公」平なものであろう・・・と思っていたら、大阪府立の和泉高校では、高校教諭の資格も持たない中原徹なる男が、「独裁」を主張する大阪府知事の橋下徹の縁故入社で(もしくは裏口入学で)「民間人校長」なるものに就任してしまったこれでは、「おおやけ(公)」立高校ではなく、国営資本主義というのか府営資本主義というのかであり、「おおやけ(公)」立とは言えない。「独裁」を主張する府知事によって「わたくし(私)」化されて、高校教諭の資格すら持たない男に校長になられて「独裁」された高校は、府立とはいえ、「おおやけ(公)」立とか「公平」立とかとは考えられない。むしろ、「わたくし(私)」化された高校に府民の税金が注がれる方がおかしい。和泉高校に橋下徹一派の人間が教諭の資格も持たないのに裏口入学か縁故入社かのように校長として派遣されるのなら、その「わたくし化高校」は公立ではなく私(わたくし)立高校に変えた方がいいくらいである。

   それから・・、先日、インターネットの記事を見て思ったのだが、アメリカ合衆国のプロ野球のメジャーリーグでは、コロナウイルス感染防止のため、今年は「乱闘禁止」と決められた・・・というのだが、「乱闘」て、もしかして、これまで、禁止されてなかったのかあ??? これまでは、やっても良かったのかあ??? ・・・

   コロナウイルス感染防止を考えると、パチンコはしばらくは控えた方がいいのではないか・・・といっても、世の中、何が大事かといってパチンコほど大事なものはない・・ておっさんがいる。 コロナウイルスに感染する危険を冒さないように、当分の間は風俗店とか「接触が密」になりそうなお風・お水の店には行かない方が良さそう・・・と思っても行かないではおれない・・という人がいるのと同様に、 ””コロナウイルス感染拡大をきたしてもおかまいなしに、「君が代」を嫌がる人間に無理矢理歌わせたくて歌わせたくて我慢できないシンドローム””という人がいるようです。

  ””コロナウイルス感染拡大をきたしてもおかまいなしに「君が代」を嫌がる人間に無理矢理歌わせたくて歌わせたくて我慢できないシンドローム””  に感染した怪獣を退治できるように、モスラにお願いして歌おうか・・自宅で。
⇒《YouTube-モスラの歌 フルVer. ザ・ピーナッツ ('1961モスラより) MOTHRA 古関裕而》https://www.youtube.com/watch?v=mHXLyzy_GjI

  (2020.7.29.) 

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