外観・内観・機能のいずれも目的にない「津田沼・ザ・タワー」。「外」重視のシドニーオペラハウス、「巨大な彫刻」東京カテドラル聖マリア大聖堂などと比較して考える。今こそ失ってはならない日本人の美徳と日本の美。

[第504回]
  「建築」とは、どういう条件を満たした構造物を建築と認めるべきだろうか? ・・考えたことありますか?  そりぁ、建築工事によってつくられたものであれば建築と違うのか・・・みたいに思っていたことも過去にあったのですが、そういう考え方もあるけれども、そうではなく、「建築」と認めることができるものは、どういう条件を満たしたものか、ということを一度考えてみてもいいかと思うのです。 これは、愛知産業大学の建築学科のスクーリングの際に、M先生が言われたことで、ゼネコンさんなり、工務店なりハウスメーカーなり大工なりが作った構造物はすべて建築とする考え方はとりあえず横に置いておいて、「建築」とはどういう条件のものを建築と認めるべきか? ・・と言われてみると、たしかに、どういう条件を満たせば建築と考えて良いか、けっこう難しい課題でもあり、意義のある思考でもあると思います。

  これと多少似たもので、「彫刻」とはどういうものを彫刻と考えるべきか? どういうものを「彫刻」と認定して良いか?・・ということも一度考えてみていいと思うのです。
  まず、皆さん。 東京のJR「上野」駅のすぐ西に、国立西洋美術館というのがありまして、本館はル=コルビュジェさんという「建築家」の設計によるもので、その後ろの新館は、ル=コルビュジェさんのお弟子さんになる前川圀男設計によるものですが、前川圀男の設計によるものは、なかなか、よく考えられたものが多いと私は思っているのですが、国立西洋美術館の新館については、色合いについては、今一つ・・という感じで、前川圀男設計の建物の中では、私の評価は外観については高くありません。
  このル=コルビュジェさんの設計による本館の前、南側の前庭に、なんと、あのロダンの「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」という「西洋美術史」の教科書にも写真が掲載されているような世界的名作、大作があるのです。・・・あれって、本物だろうか?・・・て考えたことありませんか? 私も、最初、考えました。あれは、本物を誰かが模造したもの、イミテーションなのか、それとも、一時的に借りているのか・・・なんて考えました。 フランスから「自由の女神」なんて一時的に借りたことがありましたでしょ。 東京都美術館の後ろに「自由の女神」ではなく「自由な女神」なる像が配置されてまして、なんでも、東日本大震災の時に、宮城県のどこやらのパチンコ屋にあったものが流出して、それを保存していたところから移送して東京都美術館の背後に配置したものということでしたが、最近のパチンコ屋というのはけっこうなものを作りますが、お台場だったかに一時あった「自由の女神」はあれはパチンコ屋にあったものではなく、フランスから借りたものだったと記憶しています。
  ・・で、国立西洋美術館の前庭にある「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」なんて、そんなものすごいものが3つとも日本にあるのか? ・・ということは、一時的に借りて展示してるのか・・ということにしては、ずいぶんと長くあるし、いつ、返すとかいう話はないようだが。・・ということは、あれはイミテーションか? 今は昔、まだ、けっこううまくいっていた頃の大塚家具の有明の本社ショールームで、インテリアコーディネーター資格者を対象とした「ブランド家具について」という講習を受けにいった際、説明してくれた大塚家具の人が、トーネットの曲げ木椅子だとか、「名作」と言われる椅子などの「リプロダクション品」を展示していると、時々、「リプロダクション品ということは、これは、ニセモノですか?」なんて言われることがあるのですが、「ニセモノ」と言われるとちょっと・・・と言われたことがありました。 国立西洋美術館の前庭にある「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」てのは、あれは「ニセモノ」ではないとしても、「リプロダクション品」だったのか?
  ・・・答えは、「3つとも本物」です。但し、3つとも、ブロンズ像であり、東大寺南大門とかの運慶だか快慶だかによる仁王さんの像とか、京都の広隆寺の弥勒菩薩像とかは、木をノミだか彫刻刀だかで削って作ったものですから世界に本物は1つしかありませんが、ロダンの「考える人」とか「地獄の門」とか「カレーの市民」とかはそうではなく、ブロンズ像というのは、石膏をこねて枠を造り、そこにブロンズになるドロドロとした液体状の金属を流し込んで、冷えて固まった頃に、枠の石膏をぱかっとはずすとできあがり♪ ・・ということで、その石膏の枠さえあれば、「本物」をいくつでもこしらえることができるわけです。 だから、ロダンの「考える人」なんてのは「本物」が世界に二十いくつかあるらしく、そのうちの1つが上野の国立西洋美術館の前庭に鎮座しておられる・・・とそういうことのようです。
  内田康夫『北の街物語』(2016.8.26.中公文庫 )にもその話が出ていて、
《 「じつは、この七月に開かれる『北斗美術展』は、創設五十年を祝って北区ゆかりの芸術家の先生方に出品をお願いする記念展でしてね。御子柴先生の『妖精』はその目玉でもあるのです。というのは、この『妖精』は御子柴先生の一入(ひとしお)、思い入れの強いお作でして、世界中にわずか三体しか存在しないものなのです」
「世界中に三体、ですか・・・」
 浅見は驚いたが、それは倉持の意図したものとは違う意味だった。
「ブロンズ像というのは、同じ物がそんなに何体もあるものなのですか?」
「は?・・・」
 倉持の完璧な紳士の顔に、一瞬、間抜けな表情が浮かんだ。浅見のあまりにも素朴な質問に呆れたにちがいない。
「とおっしゃると、浅見さんはブロンズ像は一体だけと思っていたのですか?」
「あ、いえ、そうは思っていませんが」
 自分の無知をさらけ出しそうな気がして、浅見は慌てて取り繕ったが、じつはそんな風に思い込んでいた。
「でしょうなあ。ブロンズ像が三体というのは、きわめて少ないのですよ。上野にあるロダンの『考える人』だって、世界中に何体あるか知りませんが、相当な数が存在するはずです
 そう言われれば確かにそうだ。上野に「考える人」のオリジナルがあるはずがない。
「ブロンズ像のいいところは、原型があれば複数鋳造できることです。そうはいっても、あまりにも多くを鋳造すれば、型があまくなりますからね。作者としては望ましくない部分が生じることもあり得ます。御子柴先生はきわめて厳格な方でもありますが、それ以上に、この『妖精』には愛着があり、デリケートなフォルムに少しでも瑕疵があってはいけないとお考えなのでしょう」
・・・ 》
(内田康夫『北の街物語』2016.8.26.中公文庫)
   蛇足かもしれないが、上野の国立西洋美術館にある《モネの「水連」》は、見ただけでも、なんだかオーラのようなものを感じるものすごい作品だと私は思うのですが、片方で《モネの「水連」》なんて、そんなものすごいものが日本の上野にあるのか・・なんて思っていたのですが、実はモネは水連が好きで、水連の絵をこれも何十と描いていて、そのうちの1枚が上野の西洋美術館にあるということらしい。但し、だから、「な~んだ」というのはあてはまらない。そのうちの1枚であったとしても、上野の国立西洋美術館にある《モネの「水連」》は、あれはすごいと思う。どうすごいか・・なんて、知りたければ、見に行くべし! である。・・まあ、コロナウイルスの問題が一段落してからでもいいとは思いますけれども。
  それで・・・・、このブロンズ像についてですが、ある疑問を感じませんか? 何をかというと、国立西洋美術館の屋内にある「バプテスマのヨハネ」とかいう裸の男の像、ち〇ち〇ぶらぶらした像ですが、あれって、「バプテスマのヨハネ」なんて名づけているけれども、実際にはモデルの男はいたわけで、ち〇ち〇ぶらぶらの像をその男の名前で公開するわけにはいかないから「バプテスマのヨハネ」なんて名づけて公開したのであって、あれは「バプテスマのヨハネ」と違うのではないのか? ・・・単に裸の男の像と違うのか? ち〇ち〇ぶらぶらの姿で「悔い改めよ」とか言われても・・・、なんだか・・・というのもあります、あれは「バプテスマのヨハネ」とか名前がつけられているけれども、実際は単に「ち〇ち〇ぶらぶらのおっさんの像」と違うのか? ・・という疑問もあるのですが、ここで言いたいのはそれではない。
  私が思ったのは、ここで問題提起したいのは、ロダンの「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」といった作品が名作であるとして、あれは「彫刻」なのだろうか? ・・という点です。 「彫刻」というのは、「彫る」「刻む」ということを何らかの素材にやったものが「彫刻」と違うのか? ・・という基準から考えると、ブロンズ像というのは、それが名作であるか否かにかかわらず、「彫刻」とは別のものと考えることもできるのではないか・・・という点です。
  これは、「彫刻」という名称で呼ぶものの範囲をどうするか、「彫刻」というものの定義をどうするかの問題で、「彫る」「刻む」ということをしてこそ「彫刻」だとすると、南大門の仁王さんとか、広隆寺の弥勒菩薩像とかは「彫刻」であっても、ロダンの「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」それに「ち〇ち〇丸出しの男」のブロンズ像というのは、あれは《「彫刻」とは別の何か》と考えるべきではないか、ということになる。

  さらに言いますと、JR「金沢」駅から金沢城の方に向かって道を歩きますと、道路上に、円形の金属製の「芸術作品」が置かれていたのです。他にも、上野公園内の前川圀男設計の東京都美術館の中庭にも、やはり、金属製の球形の「芸術作品」が置かれているのですが、あれは、絵画でないのは明らかですが、「彫る」「刻む」ということをしたものではないという点から考えると「彫刻」ではないでしょうし、ブロンズ像でもない。ブロンズ像というのは、「彫る」「刻む」という作業はしていないとしても、石膏を「こねる」という作業はしているはずで、それゆえ、その「芸術家」の作品、案を考えただけでなく、その作者が自らの手を動かして作ったと言えるのですが、東京都美術館の中庭にある球体なんてのは、あれは、「案を考えただけ」であって、どこかの鉄工所かそういう場所で金属の球体は作られているはずなのです。はたして、そういうものを「絵画ではない」という理由で「彫刻」と呼んでいいのか? もし、「彫刻」と呼んでいいのなら、それなら、東京都文京区関口にある、「世界の丹下健三」設計の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」というのは、あれも「彫刻」ですよね。 「世界の丹下健三」が案を考えて、それをゼネコンさんが造った「彫刻」ですよね。 そうでしょ。
  「鎌倉の大仏」というのは「彫刻」なのか「建築」なのか?  「奈良の大仏」、念のためにお断りしておきますと、千葉県市原市奈良 にある「千葉県の奈良の大仏」(⇒《ウィキペディア―奈良の大仏(市原市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F_(%E5%B8%82%E5%8E%9F%E5%B8%82) )のことではなく奈良県奈良市の東大寺の「奈良の大仏」は、あれは「彫刻」ですね。 建築である大仏殿の中にあるとともに、「彫る」「刻む」という作業で作られたものですから「彫刻」でしょう。 「鎌倉の大仏」の場合は、金属の板みたいのを組み合わせて作られていて、その内部に入ることができますから、「彫る」「刻む」という作り方ではないとしても、「広い意味での彫刻」であるとともに、大きさも大きく内部に入ることができるという点で「建築」でもありそうです。 今は露天にあるので「建築」のような印象を受けますが、かつては屋根があったらしいのですが、屋根のある建物の中にあるから「建築」ではなく「彫刻」だということにはならないでしょう。外側に建物があれば「建築」ではないと言うのなら、神社などで「覆い殿」「覆い屋」と言って、昔からある由緒ある建築を守るために、その外側に覆いとなる建物を造ることがありますが、外側に建築があれば内部のものは建築でないとすれば、覆い殿・覆い屋のある建物は建築でなくなりますが、そうは考えられない。 千葉市中央区にある、千葉市美術館の建物は、古くからの銀行の建物を残して、その外側に鞘のように作った「鞘堂方式」という方式で作られており、内部の建物もまた「建築」です。 だから、外側に「建築」があればその内側は「建築」ではないということにはなりません。
   それでも、「鎌倉の大仏」は「奈良の東大寺の大仏」と同じように「彫刻」に分類されるもので「建築」に分類されるものではないと言いたい人もいるかもしれません・・・が、そうなると、東京都文京区関口にある東京カテドラル聖マリア大聖堂というのは、あれは、どう考えても「彫刻」ではないのか。「内部に入ることができる彫刻」ではないか・・。

  さて・・・、そうなると、オーストラリアのシドニーのシドニー湾に出た岬の先端にあるヨルン=ウッソン設計の「シドニー・オペラハウス」というのは、あれは、「建築」なのか「彫刻」なのか?  東京カテドラル聖マリア大聖堂なんてのは、あれは「ゼネコンの能力を使って作られた内部に入ることもできる彫刻」だと考えられますが、「シドニー・オペラハウス」はどうか・・・。

  1993年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の千葉県松戸市の松戸展示場の事務所にて、営業本部長で松戸営業所長を兼任していたA野隆夫(男。当時、40代)が「デザインがいいということは、構造が悪くて耐久性がないということだ」などと新人に言うので、無茶苦茶だな・・と思ったことがあった。なんで、「デザインがいい」⇒「構造が悪い」「耐久性がない」ということになるのか? そうではないだろう。そうではなく、「建築の美しさ」というのは、基本的には「構造の美しさ」、いわば、身体を鍛えた運動選手の体つきのような美しさであるべきで、病弱な体に化粧しまくりで押せばひっくり返るような「美しさ」が「建築の美しさ」ではないはずだ。 そもそも、(株)一条工務店の営業本部長のA野隆夫が言う「デザインがいいということは構造の問題があって耐久性がないということだ。その点、うちは構造がよくて耐久性があるということだ」という文句は、それでは、「美人でも体の弱い人では困りますよねえ。やっぱり、結婚するなら健康な人でないとねえ。その点、うちの娘はブスもブスもブス、ブス、ブス! もう、何と言ってもスーパー高耐久性ブスですからね。耐久性があるんです」と言っているようなもので、なんか、そういう「スーパー高耐久性ブス」を自慢にする会社の建物なんて・・・、建てたくないなあ~あ・・・て気持ちになってくる、なんで、そういう文句を言いたがる、言わせたがるのかなあ~あ・・・と思ったのだが、(株)一条工務店の営業本部長というのは、そういう文句を言いたがる言わせたがる男だった。
  やはり、建築というものは、構造と機能とデザイン、それに経済性という4つの点から考えて、それを満たしてこそ建築であり、「うちの娘は並外れたブスでしょお~お。だから、耐久性があるんですよ」・・なんて「セールストーク」を新人に教える営業本部長というのは、それは、な~んか、勘違いしとる! ・・と思いますね。(株)一条工務店の営業本部長の「セールストーク」(になってないと思うのだが)を聞くと、なんか、「耐久性のあるブス」と「薄命な美人」となら、むしろ、「薄命な美人」の方がいいような気持になってくる。そういう気持に顧客にならせる「トーク」を(株)一条工務店の「一条オリジナル」の人たちは教えていたのだった・・・が、それは建築についての物の考え方として違うと思うぞ。
  しかし、片方で、東京都文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂というのは、竣工時から雨漏れしていたらしいが、普通、「建築屋」がそんなもの作ったら、「ぶっ壊して建て替えろ」と言われてしまう危険がある。それに対して「建築家」がそれをやると、「さすがは世界の丹下健三」「よっ、名建築!」と称賛してもらえる(なんだか、「世界の丹下健三」という「水戸黄門の印籠」出されると誰もがせっせと称賛しないといけないみたいな感じ、「王様は裸だ」と言ってはいけないみたいな感じ)・・・のですから、なんだか、「建築家」というのは勝手なもの・・・というのか、「建築屋」の視点から見ると「アホと違うか」・・て感じがします・・・が、「竣工時から雨漏れがする」という「巨大な彫刻」を「建築」と呼んで良いのか?・・・というと、どうも、違うような気がします。あれは、どう考えても、「巨大な彫刻」であって「建築」ではないように思いますね。

  ヨルン=ウッソンの「シドニーオペラハウス」ですが、あれは「オペラハウス」なのか? 内部はオペラハウスになっているということですが、あれは別にオペラハウスでないといけない理由はなかったはずです。シドニー湾に突き出た岬の先端に、その地域の特徴的な景観になるものを人工的に造ろうということで計画されたもので、その内部は、ソープランドでは具合が悪いだろうし、パチンコ屋では具合が悪いだろうけれども、オペラハウスでなくても、「何か文化的価値があると評価されるもの」であればオペラハウスでなくても何でもよかったのではないか。
  ミラノのスカラ座・ローマのオペラ座・ナポリのサン=カルロ劇場の3つをイタリアの三大歌劇場と言うということですが、1998年、ミラノのスカラ座の前に行って見て、悪いとは言わんが、それほど特別のものか・・と思ったのですが、中を見学することができて、オペラが開演されていない時、1部屋の中から劇場を見通すことができましたが、「すごい」のは「外」ではなく「中」だったのです。 その前年、1997年、ナポリに行き、サン=カルロ劇場の前を通った時も、ウンベルト1世のガッレリーア などは、「ほほお~お、これがウンベルト1世のガッレリーアかあ~あ」と思うだけのものだったと思うのですが、三大歌劇場として有名なサン=カルロ劇場というのがこの付近にあるはずだが・・・と思って、「あれ、どこ~?」と思って探したら、その前を何度も通り過ぎていた・・ということがありました。サン=カルロ劇場もまた、「すごい」のは「中」であって「外」ではなかったのです。 それに対して、「シドニーオペラハウス」については、これは、一度、見学に行きたいと思いながら行けずにいますので、実物を見ずに言うのは気が引けるのですが、本やインターネットなどに出ている写真でも、「中」の写真もまったく出ていないわけではなく、ヨルン=ウッソンは「中」のデザインにも力を入れたと書かれたものを見るのですが、しかし、実際問題として、本やインターネットにしばしば登場する写真は「外」であり、高く評価されているのは「外」のはずです。
  1980年代前半、FM東京だったかNHK-FM だったかで、ヨーロッパとアメリカ合衆国とのコンサートホールについて、音楽評論家が語っていたことがあったのですが、一般にヨーロッパの方がアメリカ合衆国より歴史がありそうな印象があるけれども、コンサートホールについてはアメリカ合衆国のコンサートホールの方が古いものがあり、それは第二次世界大戦の際にヨーロッパのコンサートホールは失われたものが多いかららしいのですが、その際、その音楽評論家が言っていたのは、最近の音響工学とかの成果を取り入れて造った新しいコンサートホールというのは、どうも、うまくいかない場合が多く、頭で考えて理屈に従って造っても、音楽ホールというのはうまくいかないことが多いみたい・・・という話でした。ここで議論されていたのは、「外」のデザインでもなく、「中」のデザインでもなく、音楽の演奏会をそこで実施した場合に、客席でどう聴こえるかという「機能」の問題だったのです。
  結論としては、音楽ホールであるならば、やっぱり、そこで音楽の演奏会を実施した場合に客席でどう聴こえるかという「機能」が一番大事なのではないか・・と思われるし、その意味で、「シドニーオペラハウス」というのは、あれはオペラハウスでないわけではないかもしれないが、第一義的には「シドニー湾に突き出た岬の先端に造られた巨大なモニュメント」と考えるべきではないか。

   さて、「塔」「タワー」と言われる建物には、観光目的のものと電波塔のものがあり、両方のものもある。電波塔だが観光用にも使用されているものには、東京タワー・名古屋タワー、それに、最近できた東京スカイツリーがある。 電波塔ではなく観光目的のものとしては、神戸のポートタワー・大阪の通天閣・群馬県邑楽町の邑楽タワー、それに江の島のサムエルコッキング苑の展望灯台、福島県いわき市の いわきマリンタワー・・といったあたりか。 千葉県富津市の東京湾観音も、上の方から展望することができるので、広い意味ではこれに含まれるかもしれないが、中に入ることができるとはいえ、山の上に建つ観音様なので、他のものと同じではない。パリのモンパルナスタワーは、高層ビルだが、高層ビル群をモンパルナス地区に造ろうという計画で、1棟目が造られたところ、パリの市民はパリにこのような高層ビルを造るのはふさわしくないと猛反対し、その結果として、1棟だけが建つようになったので、「タワー」となり、「モンパルナスタワー」と呼ばれ、高層階に展望室が設けられた、というもので、これも、広い意味では「塔」「タワー」かもしれないが、東京タワー・名古屋タワーや通天閣・神戸ポートタワーなどとは性質が違うし、これを「塔」「タワー」の仲間に入れるとなると、浜松町の貿易センタービルとか西新宿の東京都庁舎とか、そういうものも入れるべきか、ということにもなってくるので「微妙」です。 お寺の五重塔・三重塔というのも、もちろん、「塔」ですが、お寺の「塔」というのは、基本的には中に入ることを前提としたものではないはずなので、東京タワー・名古屋タワーや通天閣・神戸ポートタワーなどの「塔」「タワー」とはその点で性質は違うでしょうけれども、遠方から見えるものという点では共通します。 新宿の丹下都市建築設計の設計のコクーンタワーというのは、あれは私は悪趣味だと思うのですが、そう思わない人もいるらしいのですが、「塔」「タワー」のような性質も持っているのではないでしょうか。以上、私が一度でも近くまで訪ねたことがある所を書きだしました。 再度、整理すると、
1.電波塔・・・東京タワー・名古屋タワー・東京スカイツリー。
2.観光目的のもの・・・神戸ポートタワー・通天閣(大阪市)・邑楽タワー(群馬県 邑楽町)・江の島サムエルコッキング苑展望灯台・いわきマリンタワー。
3.観音さまだが、上の方から展望もできる・・・東京湾観音(千葉県富津市)
4.高層ビル・・・モンパルナスタワー(パリ)・貿易センタービル(浜松町)・東京都庁舎・アベノハルカス
5.五重塔・三重塔・・・
 (ア)五重塔・・・東寺・仁和寺(京都市)・法隆寺(奈良県)・四天王寺(大阪市)・中山法華経寺(千葉県市川市)・池上本門寺・浅草寺(東京都)・長禅寺(甲府市)
 (イ)三重塔・・・飛騨国分寺(高山市)・長禅寺(甲府市)・薬師寺(奈良市)
6.「塔」的な建物・・・新宿コクーンタワー
   東京もん のおっさん には、関西嫌い・大阪嫌い・アンチ阪神のおっさん というのがけっこういて、そういうおっさんには、大阪と阪神の悪口を言うことに生きがい感じているような人がいるのだが、そういうおっさんは、東京タワーとか東京スカイツリーと通天閣の高さを比較して、通天閣を「ちっさ!」「みじめ!」とか言って喜びたがるのだが・・・、もともと、通天閣というのは電波塔ではなく観光用のものであって、大阪ではテレビの電波は生駒山から出ているのであって通天閣から電波が出ているわけではないので、東京タワーや名古屋タワーのような高さにする必要がなかったのであり、それを比較して、「ちっさ!」「みじめ!」「なんじゃ、これは!」とか言いたくて言いたくてしかたがないシンドローム・・みたいなおっさんがいっぱいいる・・のだが、そういう東京もん のおっさんを相手にしてもあほらしいだけなので、ほっとくしかない。
※ 《ウィキペディア―サムエルコッキング苑》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%8B%91
サムエルコッキング苑 https://enoshima-seacandle.com/
いわきマリンタワー http://www.iwakicity-park.or.jp/misaki/marine_tower.html

   内田康夫『龍神の女(ひと)』(『龍神の女(ひと)-内田康夫と5人の名探偵』2010.6.20.祥伝社文庫 所収)では、和歌山県の紀伊山地の護摩壇山(ごまだんざん)という所、標高1372mの護摩壇山にある33mの「ごまさんスカイタワー」という観光用のタワーを、登場人物の和田が、「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」という場面がある。
《 バスは高野龍神スカイラインを行く。奈良県と南紀を結ぶ唯一の有料道路で、これが通ったお蔭での観光地図が一変したといわれているそうだ。
  大和から紀州への行程は、幾重にも連なる山々によって遮られ、むかしからの峠道は鳥も通わぬ・・・と言わせるほどの難所つづきだった。そこにアスファルト道路が通り、快適なバスが走る。冬季でも日中は通行可能なのだそうだから、ずいぶん便利になったものである。
  もっとも、便利さはともかくとして、文明が必ずしもすべて結構というわけにはいかない。標高1372メートルの護摩壇山という、樹海の上にそそり立つような山の頂(いただき)に「ごまさんスカイタワー」という、33メートルの観光用のタワーが立っている。それに付帯する施設も幾棟かある。
「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」
 バスから降りて、タワーを見上げるなり、和泉は悪態をついた。麻子は「また始まった」という目で笑っているが、和泉は本心、腹が立ってならない。
「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」
「まあいいじゃありませんか」
「いや、よくはない」
・・・ 》
〔 内田康夫『龍神の女(ひと)』(『龍神の女(ひと)-内田康夫と5人の名探偵』2010.6.20.祥伝社文庫 所収)〕
和歌山県田辺市と奈良県吉野郡十津川村の境目付近の田辺市にあるようだ。
※ 龍神村の観光情報 ごまさんスカイタワー http://www.ryujin-kanko.jp/contents/miyou/skytower.html
《ウィキペディア―道の駅田辺市龍神ごまさんスカイタワー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E3%81%AE%E9%A7%85%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%B8%82%E9%BE%8D%E7%A5%9E%E3%81%94%E3%81%BE%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
  内田康夫は推理小説にしては純文学に近い推理小説を書く「推理小説家」で、小説のそれぞれの場面においても正直に内田の感想が述べられているものが多い。「ごまさんスカイタワー」については、私は一度見に行ってみたいと思いながら行けずにいるので、実際に見ていないものについてはどうと言いようがないのだが、内田康夫の感想としては、登場人物の和泉が言う
「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」
「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」

という発言内容のようなものだったようだ。

( ↑ 「ごまさんスカイタワー」 )

  外観のデザイン、ある程度離れた場所から見た景観についてどう思うか、どう感じるかについては、これは人によって感じ方の違いというのは多かれ少なかれあるはずで、ある方が自然でもあります。
  外観デザインとしていいか悪いか、という問題とともに、それがあった方が景観がいいか、ない方がいいか、という問題もあります。「ごまさんスカイタワー」については、内田康夫は、ない方がいいと思ったようです。 但し、展望台を造って町おこし・村おこしにしようと田辺市は考えたのかもしれません。その際ですが、自然にとけこみ目立たない建物がいいのか、そうではなく、その地域の自然に人工的にあるデザインをプラスすることで、自然の景観+人口の建物 で、自然の景観だけよりもいい景観を実現しようとする方がいいのか。 シドニーオペラハウスは、後者を取ったものでしょうけれども、「ごまさんスカイタワー」については、設計者がそのあたりをどう考えていたのか。もしも、後者だとして、あまり良いものではないと内田康夫は感じたようです。

  景観として考えた時、高い方がいいとは限らないのです。愛知産業大学の建築学科のスクーリングの際に、M先生が「高さを競うなどというのは、後進国の発想だ」と言われたことがありましたが、私も同感です。「高さを競う」などというのは、「後進国の発想」であるとともに、「イナカモンの発想」だと思います。 この場合の「イナカモン」という言葉ですが、福沢諭吉は「『いなかもの』という言葉には2通りの意味がある。田舎の生まれとか、田舎の住人とか、田舎の出身とかいう意味での『いなかもの』というのは、これは別に悪いことはない。しかし、『精神面がいなかもの』というのは、これは良くない」と語ったというのですが、「高さを競う」という発想をする人、高さについて「負けるもんかあ」とよそより高いものを作らなきゃと強迫観念みたいなものを持ち、その観念から自由になれない人というのは、「精神面がイナカモノ」だと考えるべきだと思います。
  これまで、私が見たもので、「ちょうどいい高さ」と思ったものとして、大阪市の通天閣と岐阜県高山市の飛騨国分寺の三重塔があります。 通天閣というのは、東京もん のおっさんが、何かと、東京タワー・東京スカイツリーと比較して、「ちっさ!」「みじめ!」「なんだ、これは!」・・・とバカにしたがるのですが、そういうことを言いたがるあたりが、東京は関西と比べて「いなか」「いなかもの」だと関西人が考えるものでもあると思います。通天閣は電波塔ではないので、電波塔として必要とされる高さにする必要がなかったということもありますが、何年前でしたが、大阪市のJR「天王寺」駅の北側に立って見て、通天閣というのは「その場所に、ちょうどいい高さ」だと思ったのです。
  そして、何年か前、岐阜県高山市の市街を歩いていて、飛騨国分寺の三重塔を見て、やはり、「その場所に、ちょうどいい高さ」だと思ったのです。飛騨国分寺の三重塔については《 塔は創建時は七重の塔で、焼失を繰り返すたびに小型化し、現存の三重塔は1821年(文政4)の再建。》(るるぶ社国内編集局 企画編集『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.3.1.るるぶ社国内編集局 )ということで、最初から三重塔だったわけではないらしいのですが、高山の市街を歩いていて、ここには三重塔で「ちょうどいい」のではないか・・といったことを思ったのです。 一般に、五重塔と三重塔とでは五重塔の方が値打ちがありそうな感じがしますが、そうでもないのではないか。三重塔は決して五重塔に劣るものではない。その場所によっては、三重塔で十分、もしくは、三重塔の方がその場所に調和する、という場合もあるように思ったのです。

  「より高いものを求める」というバベルの塔みたいな姿勢というのは、あまり文化的な態度ではない。愛知産業大学の建築学科のM先生が言われたように「高さを競うというのは後進国の発想」だ私も思いますし、又、「イナカモンの発想」だと思います。 むしろ、「その場所に合う高さ」、「その場所にふさわしい高さ」というものを考える姿勢というものが、文化的な態度・姿勢であり、高いものを建てる技術力があれば高いものを建てるということではなく、高いものを建てる技術力があるのならそれはそれでけっこうなことですが、その上で、「その場所にふさわしい高さ」というものを考えるという姿勢がないといけない。「その場所にふさわしい高さ」というものはどういうものか・・・ということを考える姿勢すらも欠落しているような人間というのは、そういう人間のことを何というかというと、「野蛮人」とか「イナカモン」と言うのです。
  JR「津田沼」駅の南側、千葉県習志野市谷津1丁目15 の「津田沼ザ・タワー」の計画について、「選考委員」の委員長になっていた千葉工業大学教授⇒名誉教授 の山本明氏は、その意味で「野蛮人」であり「イナカモン」だと断定せざるをえないでしょう。「イナカモン」ですよ、「イナカモン」。この場合、「イナカモン」というのは「田舎の生まれ」とか「田舎の住人」とか「田舎の出身」という意味ではなく、「精神面がイナカモン」という方の意味です。私は、大学という所のいい点、及び、旧帝大系国立大学や旧帝大系ではないが東京工大・一橋大・神戸大などの大学に行った人のいいところとして、専門とする分野以外についても学んできている・・という点があり、入試の試験科目が少ない私立大学出身者に比べて、「専門バカ」になりにくい、という点があると思っていたのですが、山本明氏を見ると、東京工大卒だというわりに、その期待を裏切っています。むしろ、「ただのバカ」と違うのか・・という印象を受けます。
〔大学入試において、試験科目が多く、直接、その専門分野とつながらない科目も試験にある旧帝大系国立大学などの国立大の方がいいか、専門分野に必要な科目と思われるものに重心を置いた試験を実施する私立大学の入試の方がいいか、というと、その分野にもよるでしょうけれども、医学部などは医者は人間を相手にする仕事ですから、数学・英語・物理・化学だけの慶應大医学部・慈恵医大・自治医大などよりも東大・京大・阪大など医学部でも入試に国語や社会科もある大学の方がいいのではないか、と私は自分が高校生くらいの頃は思ったのでしたが、実際に医者をやっている人を見ると、あんまり関係ないみたい・・という印象を受けるようになりました。しかし、専門学校と違って、大学の場合は一般教養科目もあり、「サンデー毎日」が入試の特集で、旧帝大系国立大学7校と東京工大・一橋大・神戸大の3校を「十大国立大学」と書いていましたが、そういう大学は入試において、「理系」でも国語や社会科の試験があるという点で、実際に卒業生がどうであるかは別として、入試の制度として「総合的思考ができる人」を求めているのではないのか、と思いますし、「大学」という所のいいところとして(「バカでも入れる私大の建築学科」がどうかはさておきまして)、「総合的視野」というものがあってこそのものと思うし、その姿勢を放棄したのでは、「十大国立大学」卒の人間としての価値はないことになってしまうのではないか・・と思います。〕
千葉工大のホームページの山本明研究室のところを見ると、伝統的建造物群保存地区についての写真なども掲載されているのですが、単に行って写真を撮ってきたというだけでは、そんなものは、時間とカネがあれば誰でもできるのです。それを見に行って何を学んできたのか、何を思ったのか、何を考えたかということの方が大事なはずですが、単に写真を掲載しているだけであり、「なんか、あんまり、大学教授としての値打ちがないみたいやなあ」という印象を受けます。私が慶應大学の商学部に在籍した時、「社会科学概論」という講義の際、つくば科学万博というものについて「つくば科学万博などというものは、あれは、技術万博であって、あんなものは科学万博じゃない」「あんなものは技術ではあっても科学ではない」と教授が言われたことがありましたが、大学教授というのは、そういった感覚があってこそ大学教授ではないのか、と思うのですが、山本明氏にはそういうものが見られないように思われます。
  又、千葉工業大学助教⇒准教授 の倉斗綾子(くらかず りょうこ)氏も選考委員に加わっていたようですが、選考委員に加わって、この人は何を発言したのか? 単に、「建築学科助教」という肩書でマンション屋の利益に加担しただけと違うのか? 違うのなら、どう違うのか説明してもらいたいものです。やはり、慶應大学の商学部にいた時、「政治学」という講義で、教授が「最近、なんだか、サラリーマンみたいな大学教授が増えましたなあ」と言われたことがあったのですが、単に、マンション屋の利益に「◇◇大学建築学科 助教」という肩書で翼賛するだけなら、そんなものは「アホでもできる!」のであり、そんなことするために大学の教員になるのなら、大学の教員になる価値はあんまりないと言わざるをえない。 あんまり、意味のない「助教」「准教授」さんだこと・・と言わざるをえない。
※ 「仲よし幼稚園跡地活用事業」http://www.city.narashino.lg.jp/jigyosha/proposal/nakayoshi/index.html
 「仲よし幼稚園跡地活用事業 事業者選定結果」http://www.city.narashino.lg.jp/jigyosha/proposal/nakayoshi/senteikekka.html
 「仲よし幼稚園跡地活用事業 事業者選定結果について」http://www.city.narashino.lg.jp/jigyosha/proposal/nakayoshi/senteikekka.files/senteikekka.pdf

( ↑ 千葉県習志野市谷津1丁目15。 「津田沼ザ・タワー」建造中。 )

  外観デザイン、景観に貢献するデザインか景観を破壊するデザインか・・という点においては、これは人によって感じ方は多かれ少なかれ違って当たり前で、誰もが同じように感じるのではむしろ気持ち悪い。愛知産業大学の通信課程の建築学科に入学させてもらった時、愛知産業大学と京都造形芸術大学(最近、大学名から「造形」を取り除いて「京都芸術大学」と改称するという話が出てきて、それでは「京都市立芸術大学」の略称の「京都芸術大学」「京都芸大」と一緒になってしまうがな・・と思っていたら、京都市立芸術大学からクレームが出た、という記事がインターネットに出ていました)と大阪芸大の3つの大学に通信課程で建築学科もしくは学科名は「建築学科」ではないが建築を学び卒業すると二級建築士の受験資格を得ることができる学科があるのですが、愛知産業大学と京都造形芸術大学は通学過程と通信課程の比重が同程度で、全国でスクーリングや試験が実施されるのに対して、大阪芸大は通学過程の方が主でスクーリングなどは大阪府の柏原市だったかまで行かないといけないという点があり、愛知産業大学は学科名が建築学科だったのに対して京都造形芸術大学は卒業すると二級建築士の受験資格を得ることはできても学科名が建築学科ではなかったことと、学費が愛知産業大学の方が京都造形芸術大学よりも安かった、という点から、愛知産業大学の方にしようと考えたということもあったのですが、それともうひとつ、入学説明会の時に、愛知産業大学ではM先生が話をされて、その話を聞いて、なかなかもっともなことを言う方だと思い、この人に世話になりたいと思った、ということから愛知産業大学の方に応募した、ということがありました。
  M先生と私とは、建築についての考え方について共通点はかなりあると思います。考え方に共通点があるとともに、たとえ、自分と考え方が違う人でも、筋の通った意見を言うのであればそれはそれで認めようという人と、自分が気に食わないものは認めないという人がいると思いますが、M先生は自分と違う考え方でも筋が通った意見なら認めようという方の人のようだと思ったこともあって愛知産業大学の方に入学させてもらったのです。 しかし、話を聞いていると、建築物についての感想においては、私とM先生とでは感じ方が違うものもあったようです。これは、人間が2人おれば感じ方が違うことがあって当たり前で、感じ方が違うものがあって悪いことは何もないと思います。
  感じ方が違うようだと思ったものとして、新宿のコクーンタワーというものをM先生は肯定的に述べられたのですが、私はあれは悪趣味だと思ったのです。「好みの問題」というのは、これはどうしてもありますから、しかたがないところもあるかとは思います。
  そして、もうひとつ、神奈川県の江の島の山頂に、サムエルコッキング苑というのがあって、そこに展望灯台という塔があるのですが、私は、江の島に行った時は特にどうと思わなかったのですが、鎌倉の七里ガ浜のあたりの海岸から見て、「あれは、ない方がいいなあ~あ」と思ったのでしたが、和歌山県田辺市と奈良県吉野郡十津川村の境目付近の田辺市にある「ごまさんスカイタワー」を内田康夫は「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」と感じて登場人物の和泉にそう語らせたようでしたが、「ごまさんスカイタワー」については私は実際に現地に行って見たことはなくインターネット上に掲載されている写真と『龍神の女(ひと)』のコミック版に掲載されている絵しか見ていないので、あまり断定的なことは言えませんが、江の島のサムエルコッキング苑の展望灯台については、鎌倉の海岸から見て「どうしてこううものを作りたがるのかねえ」「景観をぶち壊しにすることはないよ」と内田康夫が「ごまさんスカイタワー」について思ったのと同様のことを思ったのでした・・・が、M先生はそうではなく、「塔として作られたものでは、いいと思ったものはほとんどない。いいと思ったのは江の島のサムエルコッキング苑の塔くらいのものだ」と話されたことがあり、そうかな・・・と思い、人それぞれ、感じ方の違いというものがあるということか・・と考えたのでした。
  私は、愛知産業大学の通信課程の建築学科に入学させてもらう時、M先生の話を聞いて、この方はなかなかもっともなことを言う人のようだ、と思い、又、建築についての考え方については私と共通するものがかなりある人のようだと思ったのでしたが、建築物についての感じ方については違うものもあったようでしたが、ひとつには、「哲学徒+商学部卒」と「建築学科卒の建築学科の先生」との違いというのもあるかもしれないとも思ったのです。
  私は、結局、慶應大学の商学部をともかく卒業させてもらいましたが、卒業証書には「商学士」と書いてあるけれども「純粋商学部」みたいな商学士ではなく「(商学部+法学部+哲学・心理学)÷3」みたいな商学士であり、慶應大学の商学部の入試科目は数学・英語と日本史か世界史の1科目を選択で「国語が入試にない大学学部」だったのですが、私は、結局、2年も浪人してしまい、東大の試験には合格できなかったけれども、2浪目については、自分の科目の中では国語の成績が一番良かったという人間で、他の科目は別として、国語については東大の受験生の中でもいい方の成績を取れていたのではないかと思っています。もともと、文学・哲学を学んできた者であり、そして、世の中には、文治派か武断派か、文武両道系か・・とさまざまな人がおり、それは、能力としてできるかどうかよりも、人間としてのタイプの違いみたいなものがあり、私は自分を「文武両道系の文治派」だと思っているのですが、世の中には「根っからのスポーツマンタイプ」みたいな人がおり、他方で「フォアグラ型文治派」みたいな人もいるのですが、どちらも私とはタイプが違う。「フォアグラ型文治派」の人というのは頭だけで物事を考えるみたいな感じがあるのですが、「文武両道系文治派」は体全体で考えるような感じがあります。英語の単語を覚えるにしても、数学の問題を考えるにしても、「フォアグラ型文治派」の人は頭だけで考えるのに対して、「文武両道系文治派」の人間は体全体で考えるみたいなそんな感じがあります。「文武両道系文治派」であるとともに、「文理総合型」であり、「何学部に行っても人間としては哲学徒」のつもりでいた人間でした。名前からして、私が産まれた時に父親がつけた名前は某哲学者の名前を拝借した名前でしたしね。うちの父親は「世の中には、ひとに命令する係の人間とひとから命令され号令かけられてせっせせっせとやる人間の両方がおって世の中は成り立つのであって、天の神さまは人間を2つに分けて御造りになっておるのであり、わしいは自分ではやらずにひとに号令かけるのが向いてる民族で、あんたあは常に号令かけられるのが向いておって、あんたは号令かけられることが何よりも喜びである民族やねん」とか何度も言ってましたが、私はそういう考え方は嫌いで、そうではなく、かつて、毛沢東は『体育の研究』(ベースボールマガジン社)で、すべての国民に体育を勧めるとともに、すべての国民が自ら考えるべきであることを述べ、「すべての国民が自ら体を鍛えるスポーツマンであり、同時に、自ら考える哲学者であるべきだ」と述べたというのですが、私もそういう考え方で、うちの父親とは正反対の思想の持ち主でした。これは、実際にどれだけできるかできないかとは関係ありません。できようができまいが、「自ら体を鍛えるスポーツマンであるとともに、自ら考える哲学者」であるのです。人間のタイプとして私はそううタイプなのです。そして、「何学部に行っても、人間としては哲学徒」であり、文学者で哲学者である人間ですから、私としては、「理系学問」みたいに思っている人がけっこういる建築学について考える際も、思考は「哲学徒」なのです。私にとっては、建築を考える上においての古典は(あくまでも、私にとってであって、世間一般には違うかもしれませんが)、和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫)・亀井勝一郎『大和古寺風物詩』・家永三郎『日本文化史』(岩波新書)・ブルーノ=タウト『日本美の再発見』(岩波新書)といったもの、それにF=ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』『悲劇の誕生』、あるいはロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』といったものが建築を考える上においての古典でもあったのです。 そのあたりが、私は最終的に慶應大学の商学部を卒業させてもらったけれども、「純粋商学部卒」の人とは違うところもあるのと同様に、建築学科に行った人で「純粋建築学科卒」みたいな人とは思考が違うところがあるかもしれない、と感じています。
  それで、どうも、最初から工学部建築学科に行ったという人と、私のような「人間としては哲学徒・文学徒」とは感じ方が違う場合があるのではないか、と思うことがあります。そのひとつが、自然の景観があって、そこに建築を人工的に加えたとして、それをすばらしいと思うか、「なぜ、こんなことをするのか」と感じるか、という度合いですが、実際には、建築を人工的に加えた場合でも、よく考えて作られているものもあれば、景観破壊でしかないものもあり、絶対にどちらとあらかじめ決まっているわけではないのですが、あくまでも、一般的傾向としてですが、「人間としては哲学徒・文学徒」の者は自然の景観を比較的そのまま維持する方を好み、「最初から工学部建築学科」という人は建築を加える方を好む傾向があるのではないか、というように思ったのです。江の島のサムエルコッキング苑の塔を、私が、あんなの、いいかなあ・・と思ったのに対して、愛知産業大学の建築学科のM先生が「塔でいいと思うものはほとんどない。いいと思うのは江の島のサムエルコッキング苑の塔くらいのものだ」と思われたというその感じ方の違いには、もしかすると、「人間としては哲学徒・文学徒」であるものと「最初から工学部建築学科」の方との違いという点もあるかもしれない・・・などと思ったのでした。

  それで・・・。 通天閣についてはJR「天王寺」駅の北側から見て「ちょうどいい高さ」と思ったし、飛騨国分寺の三重塔については、決して三重塔は五重塔に劣らない、むしろ、その場所には三重塔の方がふさわしい場合もあると思ったのでした。江の島のサムエルコッキング苑の塔については、私はない方が景観上いいと思ったのですが、愛知産業大の建築学科のM先生は「塔について、いいと思ったものはほとんどない。いいと思ったものは江の島のサムエルコッキング苑の塔くらいのものだ」と言われたということは、サムエルコッキング苑の塔をいいと思われたらしいので、人それぞれ感じ方は違うのかもしれません。もしかするとですが、私も、サムエルコッキング苑の塔については、江の島で見た時には悪いとは思わなかったのですが、鎌倉の七里ガ浜あたりの海岸から見て、あれはない方がいいと思ったのでしたが、M先生も、もしかすると、鎌倉の七里ヶ浜付近から見た景観ではなく自分が江の島にいて見た印象について言われたという可能性もあるように思います。

( ↑ 鎌倉市 七里ガ浜。 広い範囲で見ていただければ、七里ガ浜から江の島方面 についての立地がわかります。)
   パリのエッフェル塔は最初にできた時は評判が悪かったらしいが、そのうち、パリの市民は見慣れて、あまり悪く言わなくなったらしく、人によって感じ方が異なる場合や、見慣れるとそう悪くないと思うようになる場合というのもあるとは思います。 しかし、↓ なんて、何かいいですか? いいと感じる理由は何かありますか? ありえますか? ありえませんでしょ。↓
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↑ 千葉県船橋市、県道船橋我孫子線(「ふなとり線」)「吹上」交差点付近から見た「津田沼ザ・タワー」とその左側は千葉工大の高層ビルのもよう。 こんなものあって、何かいいと思いますか? ない方がいいに決まってますでしょ。 違いますか。 新幹線の窓から見える東寺の五重塔はあっていいと思います。 それに対して、↑ の「津田沼ザ・タワー」て、あることで何かいいですか? ない方がいいに決まってますでしょ。 飛騨国分寺の三重塔はあっていいと思いますよ。 それに対して、こんな場所に「バベルの塔」みたいな無粋なものを建てて何かいいことがあると思いますか? 何もありませんでしょ。
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↑ 船橋新京成バス・習志野新京成バス「船橋整形外科」バス停から見た「津田沼ザ・タワー」および、その左側は千葉工大の高層ビルのもよう。
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↑ 我が家の2階の南側窓から見た「津田沼ザ・タワー」。 左右のマンションも高すぎと思いますが、「津田沼ザ・タワー」は明らかに限度を超えています。

  建築とは何か。
1.構造と機能とデザインと経済性を満たしてこそ建築である。(某工務店の営業本部長は「うちの建築はブスだということは耐久性があるということだ」などと、わけのわからんブス自慢するのはやめてもらいたいものです。)
2.「外」と「中」と内部を利用する機能との3つの面から見るべきものだ。
この2点を頭に入れるべきだ、ということを今回述べました。
  特に、この2の方を考えてみていただきたい。
  東京カテドラル聖マリア大聖堂と「鎌倉の大仏」は、中に入ることもできるけれども、基本的には「外」を造ったものであり、そのデザインについては「好みの問題」もあるとしても、基本的には「巨大なる彫刻」である。この場合、「彫る」「刻む」という作業を人間の手でおこなうものでなければ「彫刻」と言えないとして、ロダンの「考える人」とか「カレーの市民」とかを「彫刻」と言えないと定義づけるなら彫刻ではないことになるでしょうけれども、東京都美術館の中庭にある球体のように、案を考えただけで実際に製造するのは他の業者でも彫刻だという定義で考えるならば、「鎌倉の大仏」も東京カテドラル聖マリア大聖堂も「彫刻」です。
  シドニーオペラハウスというのは、設計者のヨルン=ウッソンは「中」についても相当考えた・・とインターネットの記事を見ると書かれてはいるのですが、それでも、「外」と「中」と「機能」を考えると「外」が主であるということは否定しがたい。それから考えると、シドニーオペラハウスもまた、「巨大な彫刻」という性質を持っている。東京都庁舎もそういう傾向はいくらかあるように思えます。「巨大な彫刻」を造りたいのなら、丹下都市建築設計が費用を出して造るべきで、東京都民の税金で造るな! ・・と言いたいところはあります・・が、都庁としての機能もないわけではないので、「百パーセント彫刻」でもないのでしょう。
  さて、「津田沼ザ・タワー」はどうでしょうか。 「外」はどうか? 「外」について、何か、いいものがあるか?・・・ないでしょう。
  それならば、「中」はどうかというと、そもそも、人工的にその地域の景観を破壊し、その地域の気候に影響を与え、その地域の住環境を悪化させることが考えられるものを作ることに対して、その地域の住民にとってそれを上回るだけの「中」「内部の機能」があるというのかどうか・・というと、内部はマンションであり、そのマンションを購入した人にとって、何かいいところがあったとしても、地域住民にとっては、「中」「内部の機能」は何らプラスに評価されるものはないのです。
  もしも、この付近に住みたいという人がいるのなら、何も、先住住民の居住環境を悪化させる「人口の岩山」「無粋な塔」を造る必要はないはずで、その付近の先住住民の居住環境に悪影響を与えることがない場所に住めばいいことで、習志野市谷津1丁目15 の場所に上方向に巨大な箱を造ってそこに住まなくてもいいはずなのです。又、JR「津田沼」駅にデッキで直結し快速で東京都内まで一本で行ける・・というのが長所だと言うのなら、別に津田沼駅の南側まで快速で帰ってこなくても、東京都内にマンションを建てて住めば快速で往復する時間と運賃がかからなくてその方がよっぽどいいでしょう。快速で往復する意味ないじゃないですか。そうでしょ。違いますか。違わんでしょ。

  「津田沼ザ・タワー」は、
1.「外」は無粋で景観を破壊するものでしかない。
2.「中」「内部の機能」は、この地域の住民にとっては何ら必要がないものである。
  この2点から考えて、建築すべきものではないはずなのです。

  但し、もともと、私有地に業者が建てたいと考えたという場合であれば、法規制をクリアしている場合に、それを行政がだめだと言うことができるか・・という問題があり、あらかじめ、このようなおかしなものを建てられないようにする法規制を整備しておかなかった習志野市都市計画課の怠慢は責められる必要がありますが、業者にだめとは言えませんでした・・ということはありうることかもしれません。
  しかし、この「津田沼ザ・タワー」は事情が違うのです。建築地は、もともと、習志野市の市有地だったのです。習志野市の市有地で「なかよし幼稚園跡地」だったのです。 しかも、用途地域は商業地域で、この土地だけ、南側にベロのように商業地域が突き出た場所でした。JR「津田沼」駅の近くでも、北側は商業地として成り立つとしても、南側は、駅のすぐ南のモリシアビルまでが商業地としては限度で、それより南の、現在、「津田沼ザ・タワー」が建造中の場所は商業地域としては厳しいのではないかと思われる場所で、用途地域を商業地域ではなく、せめて、近隣商業地域か、それとも住居地域などに変えた方がふさわしいのではないか、と思われる場所でした。
※ 習志野市用途地域マップ https://www.city.narashino.lg.jp/townmap/youto2/youto_index2.html
  その場所を、「仲よし幼稚園跡地活用事業」と称して、上方向に巨大な箱を造ることで、足元の商店に需要ができるようにと、足元の町会と千葉工大建築学科の教員2名とで、上方向に巨大は箱を造ってそこに人間を押し込めることに決めてしまった。先住住民の居住環境も景観も知ったことか・・という姿勢で。 習志野市役所と習志野市長はこういう進め方をしていいと考えているのか?
  まず、本来なら、これだけ、巨大なものを造ろうとするのなら、足元の町会と千葉工大だけで決めてしまうというのはおかしいはずだ。それを、まるで、巾着切りみたいに、「やったもん勝ち」みたいに、足元の町会と千葉工大だけで決めてしまった。・・とりあえず、その外側の住民は「相互主義の原則」として、当分の間、「津田沼ザ・タワー」の足元の町会の範囲の商店では買い物はしない・飲食はしないということにしましょう。「相互主義の原則」です。 「経済制裁」までの効果があるかどうかわかりませんが、とりあえず、「不快感の表明」くらいはしないといけません。「黙っていたらなめられる」。 習志野市の足元の町会の人たちと千葉工大は、その外側の住民を馬鹿にしているのではありませんか。とりあえず、「相互主義の原則」として、「津田沼ザ・タワー」の足元の町会の範囲の商店では買い物は控えるようにしましょう。
  習志野市長の宮本泰介さんは、《ウィキペディアー宮本泰介》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%B3%B0%E4%BB%8B によると、習志野市で産まれて、習志野市の幼稚園に行って習志野市の小学校に入学したが、小学校の途中で、「西宮わ~ん」で有名な兵庫県西宮市の小学校に転校して、中学校は西宮市の中学校に入ったけれども、今度は中学校の途中で習志野市の公立中学校に転校して卒業し、千葉県八千代市の、なんか言うたらなんやけど、ようわからん私立大学の政治学科を卒業したという人で、2020年現在で47歳、まだ若いが、市長としては3期目で、選挙では「自公・連合千葉推薦」で当選したらしい。その宮本泰介さん、普通に考えたら、これだけ、巨大なものを、もともと、市有地であった所に造ろうということならば、その上方向の大きさから考えれば、横方向もまた、それに見合った広い範囲の住民に意見を問うた上で進めるべきものであって、足元の町会と千葉工大だけで決めてしまっていいという考えは、それは了見が違うのではありませんかな。 習志野市の条例で、高さ10mを上回る建物については、敷地境界から50m以内の土地の所有者と土地・建物の占有者に説明しろということになっているようですが、高さ10mというと3階建ての建物が10mを超えるか超えないかという高さであり、人工の巨大な岩山を想定した規定ではないはずなのです。 市有地であった場所をどうするかという話において、足元の町会と千葉工大だけで決めていいというその了見は、民主主義に反する思考ではありませんか?
  千葉工大建築学科の教授⇒名誉教授の山本明さんは、まがりなりにも建築学科の教授⇒名誉教授として、こういうことを考えませんか? 考える頭がない人なのでしょうか。 千葉工大は、こういうことを考える頭がない人を建築学科教授にして雇っていたということでしょうか。 千葉工大助教⇒准教授の倉斗綾子(くらかず りょうこ)さんは、こういうことを考える頭がない人だということでしょうか。千葉工大はそういう人を建築学科の助教⇒准教授に雇っているということでしょうか。 だいたい、千葉工大の高層ビルからして、その場所としては高すぎますよね。建築学科のある大学としては、そういう思考がないというのは、おかしいですね。そう思いませんか。「バカでも入れる私大の建築学科」だとしても、それでも、ともかくも、「大学」の建築学科でしょ。 建築学科がある「大学」として、その場所にふさわしい高さかどうか、それだけの上方向に巨大なものを造るかどうかという計画ならば、横方向もそれに見合って広範囲の住民に意見をきくのは当たり前のことだ、という認識が欠落しているというのは、その大学の建築学科というのは、建築学科と言うに値するものと言えるのか? そんな建築学科を建築学科と認めていいのか?
〔 なお、「バカでも入れる私大の建築学科」という表現は、「ビッグコミック 増刊」(小学館)に連載中の『モディリアーニにお願い』という漫画で「バカでも入れる美大」という表現がされているものを真似たものですが、私なんかは、高校を卒業した頃、うちの父親から「うちは、工学部なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と毎日のように言われ続けたもので、「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言っても、母から「百パーセント絶対に国立大学に通るとは限らないでしょうがあ。たとえ、0.01パーセントでも落ちる可能性がある限りは国立大学でも工学部なんて受けてはいかんでしょうがあ」と言われたもので、東大の理科一類に通ったか、京大の工学部建築学科に通ったかというと、それはわからないが、「ともかくも国立大学の建築学科」というくらいならどこか通るところはあったと思いますが、それでも、「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。とってちってたあ~あ♪」と言われ続けたものでした。それを、千葉大工学部ならまだしも、千葉工業大学(千葉工大)なんて私立大学の工学部に行かせてもらうようなヤツというのは、よっぽど金持ちの息子・娘なのかもしれないけれども、なんとも、けったくそ悪いやつらやなあ・・という感じ、「蹴っ飛ばしたろか」なんて言っても実際に蹴っ飛ばすわけにはいかないとしても「蹴っ飛ばしてやりたいくらい」の気持ちがします。うちの父親は私が高校生の時は「そんなもん、国立大学か私立でもせめて慶應か早稲田くらいにでも行くのなら大学に行けばいいし、行くべきやと思うけれども、明治やたら法政やたら専修やたらポン大やたら何たらわけのわからん私立大学なんか行くようなやつなんて、そんなやつ、大学行く必要ないはずや。そんなやつ、全員、自衛隊に入れたったらええねん、自衛隊に。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては」と言っていたもので、自衛隊はともかく、なんで、そんな人が「大学」に行くのか、大学というのは小学校から高校まで勉強した人が行く所と違うのか、小学校から高校まで勉強しなかった者がなんで「大学」に行きたがるのか・・と私も思ったものでした。正直な気持ちとして、千葉工大なんて行くようなヤツなんて、なんで、大学に行くのか・・という気がしますね。・・まあ、千葉工大の建築学科に行った人というのは東大の建築学科とか京大の建築学科とかと違って「工務店の息子」が多いみたいですけどね。一昔前なら「建築の専門学校」か「工業高校の建築学科」に行った人が「大学」という名前の学校が増えたことから「私立大学の建築学科」に行くようになった・・という人が行く学校なのかもしれません・・・が。〕

   「プロポーザル方式」という方法で決めたというのですが、そうやって習志野市の市有地をどうするか決めたのであれば、その過程で、このようなものは景観破壊につながるもので、先住住民の居住環境を悪化させるものであり、習志野市・船橋市の住宅地としての評価を下げることになるものだ、ということは、たとえ、足元の町会の代表者であまり賢くない人、「精神面がイナカモノ」の人、「後進国の発想」の人が多かったということがあったとしても、まがりなりにも、建築学科の大学教員が選定委員に2名入っていて、しかも、委員長に建築学科の大学教授がなっている以上は、そんな選定委員がマンション屋の下請けみたいに動いていいものではないはずだ・・ということくらいはわかりそうなもので、又、市役所職員もまた選定委員に加わっていたわけですから、マンション屋の言いなりになるのが市役所職員ではないはずだ、ということくらいはわかりそうなものでした・・・が・・・、もしかして、実際には「アホばっかしやった」てことだったのでしょうか。習志野市民は「アホ」に給料払ってきた、ということだったのでしょうか。

   そして、内田康夫『龍神の女(ひと)』の中での和泉という大学教授(法学部の教授という設定)が発言した
「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」
という文句ですが、この文句、「津田沼ザ・タワー」にそのままあてはまりますでしょ。
「どうしてこういう」”津田沼ザ・タワー”のような「変てこりんなものを作りたがるのかねえ」と思います。
   そして、↓ を見てください。
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↑ 「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」という内田康夫『龍神の女(ひと)』の中での和泉の文句ですが、すでに、”津田沼ザ・タワー”を建造するだけで「十分」景観「を破壊しているんだから、その上に」まだ、屋上のペントハウスを光らせて、習志野市民・船橋市民の夜まで奪うことないだろう・・・と思うのです。屋上のペントハウスと、四隅はヘリポートなのでしょうか。もしも、実際に夜間にヘリポートにヘリコプターを着陸させなければならないような緊急事態が発生したということならともかく、そうでもないのに、なにゆえに、屋上を光らせる必要があるのか? 習志野市民・船橋市民の夜を奪う権利が、なにゆえに、「津田沼ザ・タワー」にあるのか? 「津田沼ザ・タワー」の設計者・施工者というのはいったい何様のつもりなのか?
   習志野市長の宮本泰介さんは、なにゆえに、その北側の住民の居住環境悪化を招き、景観を破壊する「津田沼ザ・タワー」なるものを元市有地に造ろうと考えたのか?  又、なにゆえに、商業地域に商業地域としての高い容積率を悪用させて「高層マンション」を建てさせようとしたのか? 市有地である以上、その場所に商業施設ではなく住居専用マンションを建てさせようということならば、住居系用途地域に変更した上で売却するべきではなかったのか?  自転車置き場を敷地内に設置することでの容積率緩和として、その場所の容積率よりも高い容積率を適用させているということですが、自転車置き場が必要だったのなら、もともと、市有地だったのですから市有地に自転車置き場を造ればよかったことで、容積率をその場所の容積率よりも高いものを適用させるための大義名分として悪用させるべきではなかったのではないのか? まがりなりにも、市長ならば、そのあたりについて、きっちりと答える必要があるはずです。 相当広い範囲の住人に意見をきいて進めるべき問題を、足元の町会と千葉工大と市役所職員だけで「巾着切り」みたいな進め方、「やったもん勝ち」みたいな進め方で決めて進めたのは、どうしてなのか? なぜ、そのような民主的でない決め方・進め方をしたのか? まがりなりにも市長ならば、きっちりと説明するべきです。

  船橋市二宮・飯山満地区連合会 発行「会報 ひろば」 で、「発行者 会長 神田廣栄」氏が「今こそ失ってはならない日本人の美徳」と述べている。↓
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なるほど。 ↑ 「発行者 会長」で船橋市会議員の神田廣栄氏が「今こそ失ってはならない」と言う「日本人の美徳」として、「津田沼ザ・タワー」のようなものを、自分たちさえ良ければ、その北側の住民の居住環境が悪化しようが景観を破壊しようが知ったことか・・という姿勢で建てるような、そういう姿勢は「日本人の美徳」としてあってはならないことだ。 神田廣栄氏もいいこと言うじゃないか。・・それで、なんで、神田廣栄(かんだ ひろえい)氏は、船橋市や習志野市での高層ビル建築に賛成なんてしているのだ?   「今こそ失ってはならない日本人の美徳」と言うからには、その地域の景観を破壊しても知ったものか、北側住民の居住環境を悪化させても知ったことか、船橋市・習志野市の住宅としての評価を下げることになっても知ったことか・・・という姿勢で「津田沼ザ・タワー」などを建てさせてはならないのではないのか?  「津田沼ザ・タワー」およびその同類を建てて、おのれだけ儲ければいいと考えている人たちは「今こそ失ってはならない日本人の美徳」ということを考えてみるべきではないか? 

  この「ひろば」という会報だが、毎度、船橋市会議員の神田廣栄(かんだ ひろえい)氏が一面に何か書いていて、私は船橋市会議員の神田廣栄氏が神田廣栄氏の個人の機関紙として発行しているものかと思い込んでいたのだが、よく見ると、「船橋市二宮・飯山満地区町会連合会」の「会報」と書いてあるのだが、なんか、神田廣栄氏の個人の機関紙みたいな形態になっているようで、これまで、それほど真剣に考えてこなかったが、もしも町会連合会の会報だとするならば、なんか、ちょっと変じゃないのか・・という印象を受ける。
  とりあえず、「日本人の美徳」という表現が最適かどうかはさておき、「津田沼ザ・タワー」のような景観破壊のものを建てさせて、「日本の美」を破壊するような行動には、神田廣栄氏は、船橋市会議員ならば、このような「日本の美」を破壊するような動きは防止するように働きかけてもらいたいものだ。 たしか、御自分も前原地区だったかで戸建住宅に住まれていたはずで、その点から考えると、「津田沼ザ・タワー」のようなものに、上から踏みつけられるような環境にされるのはうれしくないはずだと思うのだ。 「日本人の美徳」と「日本の環境の美」を守るべく、市民は努力したいもので、市会議員には努力してもらいたいものだ、と思う。
  「船橋市では、高さ30mまでという規制なんてあんなもの作られて迷惑だ」などと神田廣栄氏は発言なさったのだが、ありぁ、「日本人の美徳」として、その発言はおかしくないかな? 「日本人の美徳」と「日本の環境の美」を守るためには、「30mまで」でも規制は緩いと思うのだが、「今こそ失ってはならない日本人の美徳」といったことをおっしゃってる方の御発言として、ありぁ??? て感じがします。しませんか?

  (2020.7.21.)

☆ 習志野市「津田沼 ザ・タワー」(工事中)の横暴!!!
[第455回]《戸建住民の居住環境悪化を招く 都心でもない場所での高層マンション建築に受忍義務があるのか? 》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201905/article_3.html
[第463回] 高層マンション「津田沼ザ・タワー」による居住環境破壊。商業地域に住居マンションは不当。勝手に自然改変https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_8.html
[第464回]「津田沼ザ・タワー」は下品で野蛮。事業者・設計者・開発行為事業者でない者になぜ問合せさせようとする? https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_9.html
[第465回] 商業地域の容積率を悪用する「津田沼 ザ・タワー」。及、都市計画しない習志野市都市計画課 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_10.html
[第466回]「津田沼 ザ・タワー」の確認票他+死人が出る可能性がある三菱地所レジデンスと(株)フジタの工事現場
「津田沼 ザ・タワー」の確認票他+死人が出る可能性がある三菱地所レジデンスと(株)フジタの工事現場https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_11.html
[第467回]「津田沼 ザ・タワー」宅地建物取引業の票。ももんがあのような茶碗のかけらのような野蛮な高層マンション https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_1.html
[第468回]「津田沼ザ・タワー」事業者名票枠外に別の問合先記載は不適。地下鉄をありがたがる人と高層マンションをありがたがる人https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_3.html
[第469回]「本人訴訟の一般人には相当大きく安全側に要求し、弁護士にはよほどのことがないと」の裁判所書記官の対応と、「三菱」「三井」「野村」の言うことならきくのか? 独立自尊の精神に欠ける習志野市建築指導課!https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_4.html
[第470回]都市計画法による用途地域の趣旨を守るために建築基準法の規定があり、逆ではない。マンション屋の為の都市計画課なら存在価値はない。岩山マンションによる環境悪化・財産価値低下に補償することもせずに「意見の違い」など認められない。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_5.html
[第471回]船橋市各所から見た「津田沼 ザ・唯我独尊タワー」船橋市各所から南方に岩山として眺望を妨げ、同類が建てば通風も妨げると思われる「津田沼 ザ・タワー」。なにゆえ、市民はこのような遮蔽物を人工的に造られねばならぬのか!?! https://tetsukenrumba.at.webry.info/201908/article_1.html
[第474回] 権威主義 千葉工大教授 山本明氏の欺瞞+習志野市「仲よし幼稚園跡地事業」計画の無能。専用住宅業者に売却する土地を習志野市は商業地域として売って良いのか? 准教授 倉斗綾子氏の無能。「津田沼 ザ・タワー」は夜、光る外壁にする必要は何かあるのか?―「津田沼 ザ・タワー」について。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201911/article_1.html
[第478回] 富士山のそばに人工的岩山を造られても国民は文句は言えないか? 夜空を照らす照明塔岩山マンションははた迷惑。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_1.html
[第479回] 3階建か4階建の建物を前提に規定された数字を160mを超える岩山建造に適用は不適切。権威づけ神輿の建築学科教授山本明氏・倉斗綾子氏はこの程度のこともわからないのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_3.html
[第480回] 夜、光る「津田沼ザ・タワー」の設計者の発想は異常。及、マンションの開放型廊下の照明は近所迷惑。夜を奪う明るさの街灯まで必要か。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_4.html
[第482回]「津田沼 ザ・タワー」の「容積率緩和」適用は制度の趣旨に反する。「仲よし幼稚園跡地活用事業」「審査委員」の選定は八百長か。商学部経営学部系教員を選考委員に入れないのは、八百長計画に異議を唱えさせないためなのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_6.html
[第483回]「津田沼ザ・タワー」の侵害に「権利意識の欠如」状態になってはならない。「相互主義の原則」として習志野市の商店での買い物は控えましょう。「言ってもだめよ」はファシズム傾向と理解せよ! 「専門家」信仰は山本明氏のような権威主義者の思うツボ!https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_8.html
[第484回]「津田沼ザ・タワー」は北側に大きな窓を設ける権利がなぜあるのか? 夜、光らせる権利がなぜあるのか? 及、猫の頭なでるだけなでて糞や小便を他家の庭やガレージでさせる猫の飼主は横暴ではないか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_9.html
[第485回]「津田沼ザ・タワー」”最高のロケーション”と称賛する「投資家カズのトレード日記」は精神病理学上の問題ではないかとすら思える。邑楽タワーの失敗と「津田沼ザ・タワー」の居直り。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_10.html
[第486回]「津田沼ザ・タワー」に反対はあっても賛成はありえない2つの理由。60年安保闘争には2種類の反対があった、て知ってますか。「大学教授」であっても「知識人」ではない千葉工大の大学教授。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_11.html
[第487回] 地下鉄と「高層マンション」は文明ではない。モンパルナスタワー・ナポリ副都心に該当する配慮は見られない「津田沼ザ・タワー」。「津田沼ザ・タワー」は建築学科課題としては落第点である。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202002/article_1.html
[第488回] 「津田沼ザ・タワー」はパチンコ屋みたいに、夜、光りだしたが、パチンコ屋より傲慢。屋上のペントハウスを光らせて、マンション屋と「購入者」は何か得するのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202002/article_2.html
[第491回] 遠藤周作『花鳥風月を友として』で考える「津田沼ザ・タワー」。船橋市・習志野市での「田園まさに荒れなんとす」https://tetsukenrumba.at.webry.info/202004/article_4.html
[第497回] 都心の区がビルの新築に際し住居スペース確保を求めるごとく、郊外の駅前では商業施設の割合を確保させる規定を設けるべきである。都心に向く建物と郊外に向く建物は違う、ということくらい建築学科教授ならわかりそうなものだが。「1年の契約社員」の募集を「正社員」募集と言う会社はいかがなものか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202005/article_5.html
[第498回] 雲の中のトドラが棲息する場所のマンション、バルタン星人の3倍の高さのマンションなんて、人間にとって非本来的だと思いませんか?ー『ウルトラQ』『ウルトラマン』で考える「津田沼ザ・タワー」の貧困なる精神。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202005/article_6.html
[第504回] 外観・内観・機能のいずれも目的にない「津田沼・ザ・タワー」。「外」重視のシドニーオペラハウス、「巨大な彫刻」東京カテドラル聖マリア大聖堂などと比較して考える。今こそ失ってはならない日本人の美徳と日本の美。〔今回〕
[第505回] 雲より高いマンション、雨雲の中のマンション、雲霧に埋没するマンションは、建築として住居として本来的ではないだろう。「津田沼ザ・タワー」は非人間的・・で家相も良くない・・だろう。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202007/article_2.html

「慎腹風呂愚」
[第759回]《高山の町並にて。「和風のドーマー」は違和感なく存在。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。—高山の町並みにて(1)》https://shinkahousinght.at.webry.info/202003/article_10.html?1584263851


☆他に、高層ビル・高層マンションの問題について
☆ 「船橋プラウドタワー」(千葉県船橋市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第5回]2月 といえば、確定申告!・・・・船橋税務署 駅から遠すぎるよお・・・・https://shinkahousinght.at.webry.info/201102/article_2.html

☆ 「千里タワー」(大阪府豊中市)について・・・
「哲建ルンバ」
[第122回]野蛮な 千里タワー。大阪 に超高層ビルが ドバイ ・ 東京 と異なり不適切な理由https://tetsukenrumba.at.webry.info/201302/article_1.html
[第419回]箕面教会(箕面市)見学【2/5】府道から箕面教会。北川原公園・箕面川の紅葉はきれい。高層ビルは野蛮https://tetsukenrumba.at.webry.info/201811/article_3.html
「慎腹風呂愚」
[第471回]新装「高山駅」。周囲の景観との調和を考えた建物だが。及、屋根とは何かわかっていない建築会社についてhttps://shinkahousinght.at.webry.info/201610/article_27.html

☆ 「ロジュマン千里中央」(大阪府豊中市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第456回]上新田天神社(大阪府豊中市)参拝4 神社を背後から見下ろす下品な高層マンション 他https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_18.html

☆ 「コスモフレスタ箕面」(大阪府箕面市)について・・・
「哲建ルンバ」
[第197回]日本キリスト改革派神港教会・カトリック六甲教会・神戸松蔭女子学院 と 安藤忠雄「六甲の集合住宅」
https://tetsukenrumba.at.webry.info/201312/article_1.html

☆ 「ジオミューズレジス」「ジオタワーミューズフロント」「ジオタワーミューズガーデン」(大阪府高槻市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第634回]上宮天満宮参拝【6/10】天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_7.html
[第638回]上宮天満宮参拝【10/10】北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_11.html 
で述べました。 

龍神の女 内田康夫と5人の名探偵 (祥伝社文庫) - 内田 康夫
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ジャン・クリストフ 全4冊 (岩波文庫) - ロマン・ロラン, 豊島 与志雄
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古寺巡礼 (岩波文庫) - 和辻 哲郎
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日本美の再発見 増補改訳版 (岩波新書) - ブルーノ・タウト, 篠田 英雄
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