横田滋さん死去の記事に思う。北朝鮮拉致被害者の扱いと「北方領土」問題の扱いの類似点と右翼マスコミの愚劣さ。

[第499回]
  朝鮮民主主義人民共和国は、「韓国」は大韓民国の略称だが、「北朝鮮」は地域の名称であるから「朝鮮民主主義人民共和国」の略称は「北朝鮮」ではなく「共和国」と呼んでもらいたいと言っているらしいが、「共和国」では共和国は世界にいくつもあるので「朝鮮民主主義人民共和国」の略称とは多くの人間は考えないから、「朝鮮民主主義人民共和国」の略称としては自国内で使うのならともかく外国では使えない。アメリカ合衆国の略称として「アメリカ」と表現する人がいるが、「アメリカ」と言うと南北アメリカ大陸全体の呼称であり、アメリカ合衆国の略称は「アメリカ」ではなく「合衆国」とするべきだという考え方があり、1970年代に私が使用した高校の「地理A(系統地理)」の教科書は「合衆国」と記載していたが、合衆国は共和国と違っていくつもないので、アメリカ合衆国のことを言うとわかるが、実は、メキシコも「メキシコ合衆国」だったはずだった。ソビエト社会主義共和国連邦の略称を「ソビエト連邦」とするのは普通で、「ソ連」「ソ連邦」とするのもいいとして、「ソビエト」と表現する人がいて、「ソビエト」はロシア語で評議会のことを意味する言葉であり、ロシア語で評議会を意味する「ソビエト」を「ソビエト社会主義共和国(の)連邦」の略称とするのは不適切と思われたが、不適切な言葉をあえて使用していた人には、不適切な言葉をあえて使用することで、「ソビエト」(評議会)による政治を否定しようという意図があったのでしょう。大韓民国を「韓国」という略称で呼ぶのは、かつて、日韓併合より前に朝鮮半島に存在した李氏朝鮮が、終わりころ、「韓国」と名称を変更したことがあり、西側の国において、大韓民国の方が李氏朝鮮の後を継承する正当な政権だというニュアンスを込めて、「韓国」と呼んでいる場合があるのではないか。なおかつ、金達寿(キム タルシュ)『朝鮮』(岩波新書)では、「朝鮮」というのは朝鮮半島全域を指す言葉であるが、「韓」というのは、もともと、ソウル近辺の部族名であり、もともと、「李氏朝鮮」だった国が特定の地域の部族の名称を国の名前にするというのは、それだけ、特定の地域と部族を重視する公平でない姿勢が政権に出てきたことを意味していたと考えられるということを指摘している。それから考えると、「韓国」という略称もあまりいい略称ではないのかもしれない。
  その朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)に朝鮮半島は第二次世界大戦の後、朝鮮戦争を経て2つに分かれた状態が長く続いてきたのだが、私が中学生や高校生くらいの頃、1970年代においては、北朝鮮よりも大韓民国の軍事政権の問題の方が多く問題視されていた。1973年(野村のじいさんが南海ホークスの選手兼任監督であった8年間で、前期優勝して、後期優勝の阪急をプレーオフで3勝2敗で勝ち越して、唯一、通年優勝した年)、東京のホテルグランドパレスから、金大中氏が拉致された、という金大中氏事件(実際は、「金大中氏拉致事件」ではなく「金大中氏殺人未遂事件」だったのではないか? とも言われるらしいが)という事件もあり、大韓民国の軍事政権は相当問題がありそうに思えた。金大中氏がホテルから拉致されて乗せられた船に対して、拉致事件を察知したアメリカ合衆国軍の戦闘機が日本の米軍基地からスクランブル発進した上で太平洋上でその船に威嚇射撃をおこなったことから、「殺人事件」ではなく「拉致事件」になったとかいう話だが、大韓民国の軍事政権が、あまりにも圧政的な姿勢を取り反対派を拉致して殺害するようなことをおこなうなら、「北朝鮮と力を合わせて南の軍事政権を倒そうではないか」という動きになる可能性というものを怖れて、それで、アメリカ合衆国は、南の側の「保守的民主主義者」「アメリカ的自由主義者」であった金大中を守ろうとしたということだったのではないか、とも言われるらしい。
  さらに、1980年代初め、北朝鮮の金日成が死去したと韓国政府が言い出し、北朝鮮はしばらく沈黙した上で、北京において中国政府の人間と会見する場に金日成がおもむろに登場することで、韓国の誹謗中傷なのか何なのか、正しくない情報の発表の状況を暴露した、ということもあった。そのあたりにおいても、北朝鮮よりも朴正熙から全斗煥に至る韓国の軍事政権の問題の方が大きく指摘された。ところが、いつしか、韓国では、かつて、拉致された側であった金大中が大統領にも就任し、少なくとも、かつての軍事政権の時代よりは民主的な政権が実現したか・・と思われるようになったのに対して、北朝鮮では、抗日と建国の英雄のように言われてきた金日成の後、息子の金正日が政権を継承し、いつしか、本来なら社会主義とは相容れないはずの「世襲」の政権になってしまった。社会主義を攻撃するために、北朝鮮の悪口を言おうとする人が今もいるようだが、もはや、北朝鮮の問題点として言われるものは社会主義がどうこういう問題とは別の問題になっているように思われる。

  さて、北朝鮮による拉致被害者という人たちが何人かいたらしい。最初は、え? 拉致なんてしたの? と思ったし、当然、それは社会主義の考え方には合わないもののはずである。それとともに、拉致なんてしたとして、いったい何の目的で、何を考えてやったのか? ・・・と思ったものだった。 片方で、日航機を乗っ取って「北朝鮮へ行け」と行った人だっていたわけだから、何も、行きたくないという人を無理に連れていかなくても、行きたいという人を連れていってあげればいいのに・・・なんてことを思ったこともある。(そう思いませんか? 普通に考えて、なんで、行きたい人を連れていかないで、行きたくないという人を連れていくのか? ・・と思いませんか?)
  その「拉致被害者」と言われてきた人たちの中で最も有名、最もしばしば名前が出されてきたのが横田めぐみ さんという女性で、《ウィキペディア―横田めぐみ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%BF によると、1964年(昭和39年)生まれで、1977年(昭和52年)、中学生の時に行方不明になり、北朝鮮に拉致されたのではないかとされているらしい。私より5歳程度年下の人らしい。他にも「拉致被害者」と言われてきた人はいたのだが、特に、横田めぐみさんの名前がよく出てきたのは、両親が熱心であったということもあるだろうけれども、それとともに、「拉致被害者」ではないかと言われていた人の中には、あくまでも、「北朝鮮に拉致された可能性がある」ということであってそうでない可能性もある人もいたのに対して、横田めぐみさんは、拉致されたという点について、国民に知らされていない部分で相当の確証が比較的早くからあったのではないか。
  その横田めぐみ さんの父親の滋さんが、この2020年6月5日に87歳で亡くなったらしい。なんとしても、娘を奪還したいと思い続けて、無念な気持ちのまま、亡くなられたようだ。6月6日の新聞には各誌の朝刊の1面に他界された記事が掲載された。私の父親ならあれだけの努力はできなかっただろう、と思う。
※ 《ウィキペディアー横田滋》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%BB%8B

  朝日・毎日も6月6日の朝刊には1面に横田滋さんが他界された記事が掲載され、スポーツ新聞も1面に掲載したものがあったが、産経新聞は6月6日の朝刊の1面に掲載しただけでなく、6月7日の朝刊の1面にも掲載し、さらに、6月10日の朝刊の1面にも横田滋さんについて掲載していた。
  しかし、だから、産経新聞が拉致問題について熱心で良心的なのか? ・・・というと、これは違うと思うのだ。 産経など右翼マスコミがやることというのは、毎度のことながら、「拉致問題」を取り上げても、「拉致被害者」の帰国を目的とするものではなく、「拉致問題」をさかんに取り上げることで北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)をけしからんと攻撃することを目的としているもので、それは、むしろ、拉致被害者の帰国には妨げになる可能性が大きいと考えられるのだ。
  群馬県館林市と栃木県佐野市の境目付近の館林市、館林市と佐野市は渡良瀬川を境にしていて渡良瀬川の左岸が佐野市で右岸が館林市なのだが、一部分、渡良瀬川の左岸(北側)であるが館林市である部分があり、そこに救現堂というお堂があり、渡良瀬川の鉱毒問題や谷中村の問題に携わった田中正造翁の5カ所に分骨されたうちの1か所の墓所でもあるのだが、「救現堂」というのは「現世を救え」という考え方から命名されたお堂で、今現在、渡良瀬川の鉱毒の問題で苦しんでいる人がいるのなら、手段をいい悪いと言っている時ではなく、まず、現実に苦しんでいる人の状況を救うことが大事であり、その為に役立つことなら何でもする、という考え方で、田中正造が明治天皇に直訴したのも、自由民権運動に携わっていた人や社会主義者の中には、天皇に直訴して物事を解決しようというのは方法として正しくないのではないかと言う人もいたらしいが、まず、今現在、鉱毒問題で苦しんでいる人間がいる以上、それを救うのが第一なのだ、という考え方によるものだったらしい。
※ 《ウィキペディア―雲龍寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%B8%82)

( ↑ 雲龍寺。 群馬県館林市下早川田町1896。 「救現堂」と田中正造翁の5分骨された墓所の1つがある。 )
  これは、「北方領土問題」と似たところがある。
  そもそも、「北方領土」という表現からしておかしいのだが、日本政府の見解としては、北千島とサハリン南部(南樺太)は帰属が未決定で、南千島は「日本固有の領土」であって、サンフランシスコ平和条約において「放棄」した千島列島には含まれないとし、色丹島と歯舞諸島は千島列島ではなく北海道の一部分であり、特に歯舞諸島は、今は根室市の一部になった根付半島の歯舞村に所属していた島であり、行政区画としても根室市の一部分である、というものだったはずである。
  千島列島は誰のものか? サハリンは誰のものか? 根源的な問題として述べるならば、舟田次郎『千島問題を考える』(1979.4.25. たいまつ新書)所収の須田禎一『千島問題の理解のために』によると、
《 千島は誰のものか。アイヌのものである。
  サハリン(からふと)は誰のものか。アイヌとギリヤークとオロチョンのものである――松好貞夫の新著『北涯の悲劇』を読めば、そういう結論しか出てこない。
  この結論をおしてゆくと、アメリカ大陸やシベリアは誰のものになってしまうのだろう。・・・
  千島について知る前に、まずサハリン島(からふと)の方をさきに見ておこう。
  北海道の網走にモヨロ遺跡というのがある。それがアイヌとは異質なオホーツク系の文化であることは早くから断定されていたが、それがどんな原因で亡びさったのか、についてはいろいろな仮説がある。最近有力になった仮説はこうである。この”オホーツク人”はサハリン島の勢力によってバック・アップされていた。ところが13世紀に入って、サハリン島がチンギスカンの部下によって占拠されていらい、背後の支柱を失ったモヨロの”オホーツク人”はアイヌとの闘いに敗れて亡びたのだ――
  網走のモヨロにコロニーをつくった種族は、おそらく現在サハリン島に住むギリヤークかオロチョンの類縁者であったろう。18世紀にはサハリン島の覇権はアイヌがにぎっていたが、13世紀ころまでは違った様相だったのだろう。
・・・・  》
《  つぎに千島(クリルスキイ・オーストロフ)について見よう。千島についての最も詳しい日本人の調査研究は、平岡雅英の『維新前後の日本とロシア』(1934年、ナウカ社)である。
  それによると、千島の原住民(いわゆる千島アイヌ)を最初に驚かせた異人は、フリースという名のオランダ人船員で、1643年のことである。しかし、彼はエトロフ(択捉)島をアメリカ大陸の一部と勘ちがいしていたくらいだから、ここであげるほどのことはあるまい。
  ロシア人がカムチャッカ半島の全海岸を掌握したのは1697年である。そのカムチャッカ半島へ1710年(宝永7年)4人の日本漁夫が漂着した。イワン・コズィレフスキーというロシア人はこの日本漁夫たちを案内役として、シュムシュ(占守)島・アイライト(阿頼度)・パラムシル(幌筵)の3島に上陸している。”日本漁夫の案内で”とあるから、北千島には日本人の方が先に入っていたと見てよかろう。
  日本(松前藩)がクナシリ(国後)に”場所”をひらいたのは1754年(宝暦4年)である。
  ”場所”とは、アイヌ居住地にひらく交易地のことで、運上屋とか番屋とかよばれる交易所が設けられた。一方ウルップ島以北がロシア人の手におさえられたのは1765年(明治2年)で、エトロフ島は双方の競合地となったようだ。18世紀の初頭には北千島まで進出していた日本人が、その中葉にはロシア人に押され、エトロフまで怪しくなったわけである。最上徳内が1786年(天明6年)エトロフに渡ったときには、すでにロシア人がいばっていた。・・・ 》
ということで、根源的なことを言うのなら、千島列島はアイヌのもので、サハリンはアイヌとギリヤークとオロチョンのもの・・ということになるのであろうけれども、日本とロシアの関係においては、1855年(安政2年)の日露和親条約の時点においては、北千島(ウルップ島以北)はロシア領、南千島(択捉島以南)は日本領で、サハリン(からふと)はこれまでと同様に両国民雑居の地とするというもので、1858年(愛琿条約と同じ年)に日露修好通商条約が結ばれ、1875年(明治8年)(「千島の岩魚ごっそり(1875)」)の千島樺太交換条約において、千島列島は全島、日本領で、サハリンは全島、ロシア領とされ、日露戦争後の1905年のポーツマス条約において、サハリン南部が日本領になった。
  みなもと太郎の『風雲児たち』では、日露和親条約の時のこととして、日本側は「北海道にいるアイヌは千島列島にも住んでいる。ゆえに、千島列島は全島が日本領だ」と主張したのに対して、ロシア側は「カムチャッカ半島にいるアイヌは千島列島にも住んでいる。ゆえに、同じ理由で千島列島は全島がロシア領だ」という主張をした話がでている。日本側の意識として、和人とアイヌは東洋人・アジア人・黄色人種として近い存在であるのに対して、ロシア人というのはアイヌとは完全に別の存在だという意識があったのに対して、ロシア人にはそういう意識はなかったということか。今現在でも、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)などはロシア領になっているが、あれは、もともとは、ドイツ領だったはずで、ドイツ宗教騎士団が入植した地域、「プロイセン」だったものが、ブランデンブルクとプロイセンが合併してブランデンブルク=プロイセンが成立し、さらに、そのブランデンブルク=プロイセンが中心となってドイツが統一されてドイツ領になった地域だったが、ドイツ宗教騎士団というのは、「宗教騎士団」と言っているけれども、実際にはゲルマン人によるスラブ人居住地域への侵略だったと、スラブ人の間では言っていたようで、スラブ人であるミュシャはドイツ騎士団による侵略の絵というものも描いている。第一次世界大戦の後、西プロイセンはポーランド領になり、第二次世界大戦後、東プロイセンはソ連領になったが、ドイツ騎士団領だった地域はもともとはスラブ人の土地をゲルマン人が侵略した土地だという主張があるようだが、そのスラブ人はスラブ人といってもロシア人ではなかったはずだが今もロシア領になっている。スラブ人の居住地域だったからという理由でロシア領だとする主張が認められるのならば、もしも、日本が相当の軍事力があるなら、もともとはアジア人の居住地域だった沿海州や東シベリアは日本が「進出」でもして領土としていいという理屈にもなりそうだが、ロシアはそれは認めないであろう。日本としては、アイヌ人というのは和人の仲間のようなものであり、和人の仲間であるアイヌ人が千島列島に住んでいるからには千島列島は日本領だという意識があったのではないか。
  『風雲児たち』では、ロシアの后妃が日本好きだったそうで、日本と戦ってはいけませんと言ったらしいことから、サハリンの領有にはロシア側は妥協案を示したらしいが、その妥協案というのは、サハリンの中央から分けるのではなく、現在のユジノサハリンスク(旧豊原)などの南部、地図で見ると股みたいに広がった北海道に近い部分は日本領と認めてそれより北はロシア領としようという「案」だったらしく、日本としてあまり強く言えなかったのは、日本人が入植していたのはサハリンでもその南部に限られていたという点があったらしく、ロシアとしては、すでに日本人が入植していた地域についての日本の領有は認めて、それ以外はロシア領にしようという「妥協案」を出した、という話が出ている。しかし、ロシア側にもまた、日露和親条約が結ばれたのは1855年で、その3年後の日露修好通商条約が結ばれた年の1858年(「『嫌でごわす(1858)』とムラビヨフ」)に、ロシアは愛琿(アイグン)条約で清からスタノボイ山脈以南・ウスリー川以北の地を獲得し、沿海州はロシアと清との雑居の地として、さらに1960年の北京条約で沿海州をロシア領としたというもので、日露和親条約が結ばれた1855年の時点においては、サハリンの対岸、サハリンの西側のニコライエフスク=ナ=アムーレ(尼港)などの地域もロシア領ではなかった、という弱みもあったらしい。

  それで・・・。 「北方領土」という曖昧な表現がされているのは、その地域をぼかして表現しているという点があり、日本政府として、なぜ、サンフランシスコ講和条約において、「千島列島」を「放棄」したのか・・という点をぼかしている点も原因としてありそうだ。
  舟田次郎『千島問題を考える』(1979.たいまつ新書)には、
《 須田さん(須田禎一)が「千島問題――」を書いた1960年代の初頭、同じくこの問題へのアプローチのしかたを説いた一般向けの論文に、寺沢一東大助教授(現教授、国際法)の「北方領土の法理と外交」(『世界』36年12月号)がある。
  「北方領土」なる意味不明、意図不明の言葉を心やさしくもそのまま使ったこの論文は、しかし、正体不明の言葉が象徴するこの問題の、国民にとってのうさん臭さを冷厳につつき出している。「須田・千島――」が民族自立、積極中立の欲求からかけ離れた日米軍事体制下の領土回復欲求の自己矛盾を大枠で捉え、政府・与党の欲求方式に見られる技術的難点を直截に指摘している。この時点で、すでに国民的課題と喧伝されていた千島回復要求を、二つの論文はそれぞれタテ、ヨコの線で切り、具体的な解決を要する現実の外交課題としての欠落部分を浮き上がらせているのだが、タテ、ヨコの座標軸がともどもに告発する四島要求の最大の欠落部分は、その返還実現によって利益を受ける国民、とりわけ南千島と密着して生きる人々の具体的な生活利益への配慮が希薄、というよりも構造的にまるでビルドインされていないことである。・・ 》
《  ・・・国民的要求の千島が国家的要求の「北方領土」になり変わる過程で、論理的に”致死量に近い”無理を取り入れてしまったのだが、それをそのままに「返還要求に応じたら平和条約を結んでやる」といわんばかりの要求姿勢は、実は「返してくれるな」ということ、永遠に抗議し続けることでしかない。・・・ 》
《 千島返還と日米軍事同盟は二者択一という手詰まりのメカニズムがいよいよ固いものになる中で、国内向けのジョーカーとして浮上したのが国論統一の大号令――「北方領土返還の国民運動」ではなかったか。 》
と出ている。
  「北方領土」の返還運動というものも、はたして、色丹島・歯舞諸島や南千島を本当に返還してもらおうとしてのものなのか、それとも、「北方領土」をソ連は占領してからに、悪いやっちゃ! と叫ぶことでの反ソ運動が目的だったのか、後者だったのではないのか、と思われるようなものが少なくないように見受けられるのだ。
  ソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦になったが、ロシア連邦になるとソビエト連邦の時とは事情は同じではないはずで、ソビエト社会主義共和国の連邦が「資本主義の国に領土を割譲してはならない」という大義名分はなくなったはずで、又、日米安保条約が存在すれば、米軍は日本の領土のどこにでも軍事基地を設けることができるわけで、南千島が日本に返還されれば、そこに米軍基地ができる可能性が考えられたのに対して、「米ソの冷戦」がなくなることで、その問題は重要性が低くなる可能性が考えられたが、他方、ロシア連邦の国際的位置づけの低下はロシア人としては喜べないもので、ますます、「島を渡す」ことに抵抗が出てくることも考えられたであろう。

  それで・・・。 似ていると思いませんか? 「北方領土」問題と「拉致被害者」問題についての、右翼マスコミの訴え方は。 本当に返還してもらおうとしているのか、それとも、「北方領土」を占領しやがってソ連は悪いやっちゃ! と攻撃するのと、「日本人を拉致して返さないとは北朝鮮は悪いやっちゃ」と攻撃する姿勢は似ていると思いませんか?
  どういうつもりで「拉致」したのか、そのあたりもよくわからないのですが、「悪いやっちゃ」と責めれば、今も生存しているであろう「拉致被害者」が返されるのか、というと、そうではないと思うのです。一番、大事なものは、「拉致被害者」が日本に帰されることのはずであり、それから考えると、「悪いやっちゃ」とせっせと攻撃するのはかえってマイナスになるのではないのか。それをわかっていて、日本の右翼マスコミは北朝鮮攻撃の理由として「拉致問題」を利用しているのではないか。

  日本人を何人か拉致して北朝鮮に連れて行って帰さないというのはいいことか悪いことか・・・といえば、いいわけないのですが、現実に北朝鮮にいるらしい「拉致被害者」に帰ってきてもらおうと思うならば、「悪いやっちゃ」とせっせと攻撃するのがそれがプラスになるのか? というと違うと思うのだ。
  北朝鮮の政権の問題点として「拉致問題」を指摘して攻撃の材料にするならば、もしも、北朝鮮の政権が完全に転覆して、韓国に吸収されるように朝鮮半島が統一されることになれば、もはや、北朝鮮の政権を維持する必要はなくなり、「拉致被害者」をとどめ置く必要もなくなって日本に帰還できる・・という可能性もないわけではないかもしれないが、北朝鮮の政権が完全に崩壊しないならば、永遠に戻ってこないことになるのではないか。北朝鮮攻撃の材料として使いたいから永遠に返してくれるな、と言っているのとたいして変わらないことになるのではないか。

   金正日政権の終わり頃、日本では小泉ええかっこしい内閣の時、「拉致被害者」を何人か、「一時帰国」させることを北朝鮮の金正日政権が認めた時、おそらく、金正日政権は、自国を取り巻く不利な国際的な条件を認識して、日本に、いくらかなりとも北朝鮮よりの姿勢を取ってもらうか、(「アメリカ合衆国のメカケ」である日本には)「北朝鮮寄りの姿勢」とまではそこまでは無理としても、せめて、いくらかなりとも反北朝鮮の姿勢を緩やかにしてもらうことを期待して、拉致があったことを認めるとともに、何人かの人の帰国を認めて、拉致はよくないが、拉致があったことを認めて、何人かの帰国を認めた、という点を評価してもらおうとしたのではないのか。
   「一時帰国」と言っても、自分の意志で北朝鮮に行ったのではなく「拉致」されて行った人が「拉致」された国に戻らなければならない義務はないのであり、「一時帰国」からそのまま帰国することになったとしても、なんら、おかしなことはないはずだが、そこまでは、北朝鮮の金正日政権は認めたであろうし、予測もしていたであろうけれども、ともかく、何人かは帰国させたということと、「拉致」があったことを認めて、どういう目的で「拉致」がされたかの説明はなく、それについて謝罪はしなかったとしても、遺憾の意思表示のようなものはしたわけで、その部分については評価してもらえるということを期待したが、ところが、日本の対応は、何人かを帰国させたことと「拉致」があったことを認めたことについて、いくらかなりとも評価するのではなく、むしろ、「拉致」があったという点をとりあげて、せっせと北朝鮮を攻撃するものだった。それでは、北朝鮮の政権としては、「拉致被害者」の何人かを帰国させたのは失敗だった・・・ということになってしまうのではないか。
   それを承知の上で、せっせと「拉致」したという北朝鮮とその政権を攻撃しまくる右翼マスコミの姿勢は、「拉致被害者」は帰していりません、「拉致問題」は今後も北朝鮮を攻撃するための材料として使いますから、帰さないでください、と言っているようなものではないのか?

  マスコミが、「拉致問題」を取り上げるのは大いに取り上げていいと思いますし、取り上げるべきだと思いますが、「朝日」「毎日」が横田滋さんが他界された翌日の6日の朝刊で1面に掲載したのに対して、「産経」は翌日だけでなく、翌々日の7日の朝刊にも、5日後の10日の朝刊の1面にも掲載して取り上げた、という点については、取り上げて悪いということはないのですが、「拉致問題」を材料にして北朝鮮を攻撃したいという右翼・産経新聞の特色がそこに出ている、と判断されるものだと考えられ、「拉致問題」を取り上げたからということでプラスに評価はできません。

  田中正造が渡良瀬川鉱毒問題において、「現世を救え」という姿勢、手段がいいとか悪いとかは二番目以降の問題であり、ともかく、今、苦しんでいる人間がいる以上、今、苦しんでいる人間を救うことが第一だとしたように、「拉致問題」というのは、「拉致」された人が帰国できるようにするということが第一であるはずで、「拉致問題」を北朝鮮を攻撃する材料に使用することを目的・目標として取り上げるべきではないはずです。
  北朝鮮が「拉致被害者」のうちの何人かを帰国させた時、北朝鮮が期待したように、いくらかなりとも、「全員ではないが、何人かを帰国させた」という点については評価する、という姿勢を日本政府と日本のマスコミが取ったならば、さらに評価してもらい、北朝鮮の国際的立場を回復させるために、さらに何人か帰国させよう・・となる可能性というものも考えられたのではないか。
  それを、「拉致問題」を材料としてせっせと北朝鮮を責める材料として使ったことにより、「拉致被害者」で帰国できていない人の帰国はさらに遠のいた、のではないか。「北方領土」は返還されない方がソビエト連邦⇒ロシア連邦 を責める材料として使える、と考えているのではないか、と思われる人たちと同様、「拉致被害者」も帰国できない方が北朝鮮を責める材料に使える・・・と考えている人がいるのではないのか。

  北朝鮮の「ミサイル実験」に対しても、その発射された方向を見ると、どこに対してのアピールなのか、ある程度、わかる場合があるように思えるのですが、日本の領土・領海の上空を飛ぶのはできるだけ少なくしたような「実験」の場合、おそらく、その「実験」をアピールしている相手は日本ではないはずで、むしろ、日本に対しては「配慮」しているのではないかと思われるようなケースにおいても、先頭を切って北朝鮮を責める言動を日本政府が取るというのは(「ミサイル実験」を肯定はしないとしても、北朝鮮を責めるのに日本が先頭切って言うべきケースではないのではないか、と思われるようなケースにおいても、日本が先頭切って発言したりしていたが・・・)、そのあたりも、「拉致被害者」は帰さないでもらいたいと言っているような印象を受ける対応ではないか。

  「拉致被害者」を、「北方領土問題」でソビエト連邦⇒ロシア連邦を責める材料に使うのと同様に、反北朝鮮の態度を取るための材料として利用するという姿勢は、それは「拉致被害者」の為を思わない姿勢であり、当然のことながら「拉致」がいいわけではないものの、それを材料にして北朝鮮を責めることが「拉致被害者」の帰国より重要みたいな態度・姿勢を取る者については、「拉致問題」に取り組んでいるように、一見、見えても、あまり評価できないし、評価したくないように思いますね・・・。 そう思いませんか?

  (2020.6.11.) 

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