「かわいい子には旅をさせよ」の4通りの意味。旅行でわかる人間性。父親がある人間はない人間より常に有利とは限らない、ということもわからないバカ女―父の日に

[第500回]
  「かわいい子には旅をさせよ」という言葉の意味は・・・というと、一般に言われているのは、旅行をさせろということではなく、昔は、旅というのは、大変、難儀な思いをするものであったので、若い頃に苦労を経験させた方がいいということを言ったもの・・・とされている。父は私に、毎日毎日、「若い頃の苦労はこうてでもしろお!」と言いまくっていたが、おかげで、苦労を買いまくらされて、「苦労」というものが貯まりに貯まったので、そろそろ、それを売ったろか♪・・・と思ったのだが、ところが、売ってやろうと思うと、誰も買い手がないのだ。なんや、売れん商品を大量に仕入れさせられてしもうた。迷惑なことやな。買うのなら、売れる商品を仕入れるべきで、売れんような商品を仕入れてもしゃあないのに、「苦労」やなんて、売れん商品ばっかり買わされてしもうた。
  この「かわいい子には旅をさせよ」という言葉の意味だが、若い頃に楽した人間はいかん、若い頃に苦労した経験のないもんはあかん・・・とか言う人があるわけだが、数学の学習法として、遠山啓『数学の学び方・教え方』(岩波新書)で遠山啓(ひらく)が書いていたことだが、遠山啓は、「水道方式」という「数学嫌い」に子供がならないよう、楽をして算数・数学がわかるようになる方法というものを考えたが、ところが、「水道方式」は苦労しなくても算数・数学ができるようになるからいかん・・などと言う人が出てきたそうで、算数・数学というものは苦労してこそ価値がある・・とか、なんか、マゾヒズムみたいなことを言う人が世の中にはいるのです。森 毅は『数学受験術指南』などで、「佐保利流数学指南」を名のっているが、「さぼり流」と言うだけあって、数学で楽して良い成績を取ってやろうではないか・・と言うのだが、楽して数学ができるように・・とか言うと、それはけしからん・・とか言い出す人が出てくると言うのだが、そういう「苦労」を大量にさせるのがいい! 「苦労」をさせると「根性」がつくとか、そういう、何と言うのか、日本的精神主義とでも言うのか、そういう主張をする人がいるのだ。スポーツ関係者は「根性」とか「気合」とか言いたがる人が多いが、「気合」でなんとかなるなら苦労せんぞ・・と思うのだが、日本的精神主義・戦前戦中型軍国主義的精神主義は日本人からなかなかなくならないようだ。
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※ 「水道方式」とは・・・・
《 だからいちばんはじめは、234 
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というような、0が一つもなくて、繰り上がりのないものからやります。・・
そういう型の問題からはじめて、だんだん0が途中にはさまってくるのに、発展していきます。そのつぎに繰り上がりのあるものへと進んでいきます。
  そのように型分けをして、順序づけ、配列をつけて練習問題をやらせていきます。・・・
  こういうやり方ですと、一つの型は数題やらせれば十分です。いちばん最初の問題をしっかりやっておくと、あとは子どもが少しずつ気をつければ、つぎのができる仕組みになっています。・・
  それからもう一つは、こまかく型分けしてありますから、子どもが間違えたとき、たとえば1のケタと10のケタが繰り上がりがあるような問題で間違えたら、この子はこの型が弱いのだということが判断できます。そういう子どもにはその型の問題を選んで多くやらせるという指導法もできることになります。・・・
  ・・ちょうど都会の水道設備に似ています。水源地がいちばん高いところにあって、水道管でしだいに枝分かれをして、各家庭の台所まできています。だから私はこれを研究するときに、半ば冗談に「水道方式」という名前をつけてやっていたら、いつの間にかそれが本名になってしまったのです。・・・
  その成果によりますと、計算問題は平均70点ぐらいであったのが、だいたい90点ぐらいになるといわれています。・・・》
( 遠山 啓『数学の学び方・教え方』1972.5.31.岩波新書 )
ということで、3桁の足し算であれば、最初から0や繰り上がりのあるものをやるのではなく、0と繰り上がりのないものから初めて、次に0が入っているものをやり、その後、繰り上がりがあるものをやると、易しいものから少しずつ難しいものへと移行していく学習法で、もし、つまづくようなら、つまづいた所を重点的にやればいいし、すでにできるようになっているものまで何度もやらずに、つまづく問題を重点的にやるという方法、水源地から各家庭に水道がつながっていて水が流れるように、もしも、うまく流れないなら、うまく流れない部分を重点的にやるようにする・・・という方法を「水道方式」と言っているようです。
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  うちの父親はスポーツ関係者ではなかったが、私に毎日毎日、「気合じゃ、気合。とってちってたあ~あ!!!」と叫び続けていたのだ・・が、父は「わしはひとに号令かけるのが得意やねん。適材適所や、適材適所。そんでもって、あんたは号令かけられるのがうれしいねん。世の中は、そうなっとるわけや。号令かける人間ばっかしでもあかんし、号令かけられる人間ばっかしでもあかんわけや。そやから、わしいのように自分ではやらずにひとに号令かけるのが得意の人間と、あんたあのように号令かけられることに快感を感じる人間、号令かけられるのが何より喜びの人間と、両方の人間がおってこそ、世の中はなりたつわけや」と常々口にしていたように、あくまでも、ひとに「気合じゃ、気合じゃ」「根性や」「気合の問題や」「寝ずにや~る。根性でや~る。気合でや~る」と言うのが好きなのであって、自分がそう言われるのが好きなわけではなく、自分が「気合」「根性」でやるわけではなかった。私には「寝ずにや~る。寝ずにやる。睡眠時間を減らして。睡眠時間を減らして」と毎日言っていたが、自分はというと、夜9時には「寝よ寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん。寝よ寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん♪ もう、歯あ磨きました」とか言って、10時には布団の中に入っていて、プロ野球ニュースを見るとさっさと寝ていた。自分はさっさと寝ておいて、ひとに「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る!」と言いまくるというのは卑怯ではないか、とも思ったのだが、そのあたりが「日本的」なのかもしれない。ところで・・、あの「寝よ寝よ」は意味がわかるのだが、「ぽんぽん」というのはどういう意味だったのか? どうも、それがよくわからない。しまった、生前、きいておけばよかった・・と思うのだが、もう手遅れである。
  「私は、号令かけられることに快感なんて感じませんけども」と言ったのだが、「何を言うとるんじゃ、何を~お! おまえはチャンコロであってやなあ。チャンコロは号令かけられることに喜びを感じる民族。わしはドイツ人であって、ひとに号令かけなければならないと天の神様から命じられてこの世に産まれてきた民族なんじゃ。わかっとんのんか、チャンコロ! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と何度も何度も言うのだった。「喜べチャンコロ、喜べチャンコロ、喜べ喜べ喜べチャンコロ♪」と毎日毎日、私に言いまくってきたが、毎日毎日、「ドイツ人」からそう言われ続けてきて、「ドイツ人」が嫌いになった。
  「民族の違いを忘れるな!」「階級の違いを忘れるな!」と私は父から毎日毎日、何度も何度も、耳鳴りがするくらい言われ続けてきたが、言われ続けてきて、そして、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と思うようになった。「両方の人間が必要」というのは、「自分ではやらずにひとに号令かけるのが向いている民族」にとっては「号令かけられて、せえっせせっせ、せえっせせっせと働く民族」というものが必要かもしれないが、「号令かけられて、せえっせせっせ、せえっせせっせと働く民族」と指定された人間としては、「自分ではやらずにひとに号令かけるのが向いている民族」なんて必要ない。そのあたりが、感じ方にもまた「民族の違い」というのがあるのかもしれません。
  そう言えば、父の勤め先の社長は、従業員が体調不良というのか、病気で休んだりすると、「病(やまい)に勝てえ!」と言ったそうで、父は「あのおっさんも、病気で入院してる人間に、『病(やまい)に勝てえ』とは、困ったおっさんやでえ、あのおっさんもお」と言っていたのだが、親戚だけあって、なんか似ているように思う。うちの父親も、私が医者屋から変な薬を飲まされて体調を崩していた時、「気合の問題やねん、気合の問題。気合じゃあ~あ! 気合じゃあ~あ! 気合じゃあ~あ!」と、アニマル=浜口みたいなことを横に来て叫んでいた。・・ああいう、アニマル=浜口みたいな「気合だあ、気合だあ、気合だあ」と自分に言うならともかくひとに言うのが好きなおっさん・・・て、嫌いなんだよなあ。ああいう「日本的精神主義」みたいな人間は・・・。
※ 《YouTube-アニマル浜口 気合64連発!!》https://www.youtube.com/watch?v=ai_KePLfpcY
・・まあ、アニマル=浜口の場合は、半分、ふざけてやっとるようなところがあるみたいだけどね・・・。アニマル=浜口は半分ふざけて言っていても、うちの父親は本気で真剣に言っていた。かつ、自分には言わずにひとにだけ言うというのがそれが「世の中のため」と思って言っていたようだった。そして、「適材適所やねん。ひとに号令かけるのが向いてる人間と、ひとから号令かけられるのが向いておって号令かけられることに喜びを感じる人間、号令かけられることに快感を感じる人間と二種類の人間がおるわけや」と言っていたように、父は「気合じゃ、気合じゃ、気合じゃあ」と言うのはあくまで私にであって、自分には「気合じゃ、気合じゃ、気合じゃあ」とは絶対に言わなかったのだ。

  父の勤め先の社長の発言についてもうひとつ言うと、部下のことを「まったく、あのアホはどないしようもありませんわあ」とこぼした「中間管理職?」の人間に、社長が「アホはアホなりにつこうたらええがな。アホはきみと違うのか。そのどないしようもないヤツでも使うのがきみの仕事やろうが。それを使えんきみがアホと違うのか」と言ったそうで、父はそれを聞いて、「さすがは社長。ええ~えこと言いはる♪」と感動したそうだった・・・のだが、そこまでなら、それはいいと思うのだが、父はさらに「世の中、わしい~いみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間ばっかしとは違ういうこっちゃ。アホもつこうてやらんといかんと、そういうこっちゃ♪」と言って喜んでいたので、私はそれを聞いて、「アホがめでたいのお~お」・・・と思ったのだった。私なら、勤め先の社長が「アホはアホなりにつこうたらええがな」と言いよった・・・とすると・・・、「はて・・? 俺は、このおっさんにとって、アホの側なのか、アホでない側なのか、どっちやろうか・・・」と考えるところである。ところが、うちの父親というのは、「アホはアホなりにつこうたらええがな」と言われると、疑うことなく、「そうや! ええ~えこと言いはる♪ 世の中、わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間ばっかしとは違ういうこっちゃ♪」とか考えるようだったのだ。そして、それを口に出して言うのだった。・・・アホちゃうかあ・・・て感じやった。 「アホはアホなりにつこうたらええがな」と勤め先の会社の社長が言いよったとすると、・・少なくとも、「はて、俺は、このおっさんにとって、アホの側なのか、アホでない側なのか、どっちやろうか・・?」と考える人間と、「そうや、その通りや♪ わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間ばっかしとは違ういうこっちゃ♪」と即座に考える人間とでは、いくらかなりとも前者の方がアホではないように思うのだが、後者の人にそれをわからせてあげようと思っても、これは相当に難しい・・・。
  慶應大学で「近代思想史」という講義の時に、教授が「私のゼミにいる人で、ヒトラーのナチズムのようなものは自分は悪くないと思うと言った人がいたので、私は『ナチズムのようなものが悪くないと言うのは、それは自分がナチスの親衛隊か何かになって弾圧する側になるのが悪くないという意味ではないのですよ。自分自身がユダヤ人の立場になってガス室に送られて殺されるのが悪くない、という意味なのですよ。わかっていますか』と言ってあげたのです」と話されたことがあったのだが、この教授が言われたことはもっともなことだと思うが、しかし、これはわかっている人間にとっては当たり前のことであって、言われなくてもわかるものなのだが、ところが、わかっていない人にとっては大変理解しがたい問題であり、わかっていない人にわからせようと思っても、そう簡単ではない。これと似ている。「アホはアホなりにつこうたらええがな」と勤め先の社長が言いよった・・とすると、「はて、俺はこのおっさんにとって『アホ』の側か『アホ』でない側か、どっちなんやろうか」と考える人間と、「そうや、その通りや。世の中、わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間ばっかしやないいうこっちゃ」と自分は「アホ」でない側やと勝手に決めつけて疑わない人間がいるわけで、後者に、あんた、「アホ」でない側と思われているという保証はないのと違いますか・・と教えようと思っても、これは極めて難しい。
  私が小学校に行くか行かないかの頃から、父は「日教組は全員、刑務所に叩きこめえ! 共産党は死刑じゃあ! 朝日新聞の記者は全員、刑務所に叩きこめえ」と家で叫んでいた。あくまで、「家で叫んでいた」のであって、よそで同じことは言っていないだろうと思っていたが、今となってはよくわからない。そういうおっさんやった。日本国の法律で死刑に該当する行為をしたわけでもない人を「死刑にしろ」だの、懲役・禁固に該当する行為をしたわけでもない人を「刑務所に叩きこめ」だのと軽々しく言うということは、そういったことが許されるようになったなら、自分もまた、死刑にされたり刑務所に叩きこまれたりすることになる可能性があるのではないか・・と思う人間がいるが、父はそうではなく、「アホなこと言うな。わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間が、死刑になったり刑務所に入れられたりするなんて、ありえないことを言うたらいかんぞ。およそ、考えられないとっぴな発想をしてはいかんぞ。突拍子もないことを言うてはならんぞ」と父は言うのだった。なんか、めでたいのお~お・・て感じやった。そういうおっさんやった。
 「コスイギンというやつはコスイやつやから、コスイぎ~ん!」とか言っておった。「千島を取って返さんというのは、悪いやっちゃ」と言うのだったが、ヤルタ会談で第二次世界大戦終結後は千島列島はソ連領とするという密約をしたアメリカ合衆国と大統領フランクリン=ルーズベルトは悪くないのか、それにもとづくサンフランシスコ講和条約で千島列島を「放棄」した自民党政権は悪くないのか・・というと、それは悪くないらしく、そのあたりがようわからんおっさんやった。日ソ漁業協定についても、「そんなもん、海を泳いでる魚なんて誰のもんでもないんやから、誰が採っても自由や。それを採ったらいか~んやなんて言いよってからに、コスイやつや、コスイぎ~ん♪」とか言うておったのだが、まず、サラリーマンには「海を泳いでいる魚なんて誰が採っても自由なはずや」と思っている人がけっこういるのだが、「漁業権」というものがあって、「誰が採っても自由」というものでもないはずなのだが、おっさんはそういう理解がないようであったし、日本の東から北東の海域において、無制限に漁業をおこなうと、そのうち、魚が採れなくなるおそれがあるので、それで、日ソ漁業協定というものを結んで、日本はこれだけ、ソ連はここまでということにしましょうと決めたにもかかわらず、日本の漁船がそれを上回って採っていたらしく、日本政府が取り締まらないからソ連が拿捕したりしていたということがあったようなのだが、おっさんはそういうことは理解しないようだった。「原発に反対するようなやつというのは、何でも何でも、『反対、はんたい、反対、はんたい』言うのが好きなヤツが反対しとるんじゃ。甘ったれとるから反対言いよるんじゃ、甘ったれとるから。そういうヤツは刑務所に叩きこんだったらええ、刑務所に」とか言うておった。「なんで、原発に賛成すれば甘ったれていなくて、原発に反対すると甘ったれとることになるんですか」と言ったこともあったが、「甘ったれとるからじゃ」と言ってきかなかった。なんかもう、無茶苦茶・・・て感じだった。
  「朝日新聞の記者は全員、刑務所に叩きこめえ!」とか叫んでおったわりに、我が家は継続的に朝日新聞を定期購読していたのだったが、それは「巨人はズルイ! 読売はけしからん! 巨人は許せん! 読売はなっとらん!」という方が優先したのではないか、と思う。毎夜、読売テレビの「巨人ー◇◇」という野球中継を見て、「長嶋ちゅうやつはもう、すぐに頭に血い昇って内野ゴロ打ちやがってからに、アホや、こいつはあ」「柴田はすぐに頭に血い昇ってからにカッカしおってからに、こいつはもう」とか、「金田はこのアホは巨人におべっか使うようなことばっかり言いやがってからに、けしからんな、こいつはあ」とか「読売テレビというのは巨人放送や、巨人テレビや。ほんま、なっとらんな、読売テレビちゅうのは、ほんまにもう。読売テレビはつぶしたらんといかんなあ、ほんまにほんまにい!」と毎度毎度言っていたが、そのわりに、あくる日もその読売テレビの「巨人ー◇◇」を見とった。だから、関西の読売テレビ・東京の日本テレビにとっては、巨人ファンではなくアンチ巨人が増えてもちっとも困らないだろうなあ、と思ったものだ。なにしろ、アンチ巨人というのは、どこに一番関心があるかというと、なにより、巨人に一番関心があるのだから・・というのか、関西の読売テレビ・東京の日本テレビで「巨人ー◇◇」という試合の放送しかなかった時代においては、普通にテレビを見ていると、半分の人間は巨人ファンになって半分の人間はアンチ巨人になるようになっていたわけで、うちのおっさんは、アンチ巨人になったのだった。ひとつには、祖父(父の父)が勤めていた会社が大洋ホエールズの前身の球団の親会社だったということと、父は(実際に卒業した大学は同志社だったはずだが)「わしは慶應やぞお、わしはあ。わしは慶應やねんぞお、わしはあ、わしはあ」と叫んでいたおっさんだったので、大洋ホエールズの監督だった別当薫が慶應大学出身だったので、大洋ファンだったということもあったのではないかと思われ、又、アンチ巨人にとっては、1960年代後半から1970年代前半にかけては、阪神は2位とかが多くて決して弱いわけではなかったが「巨人に弱い」「肝心な所で優勝争いに弱い」チームであったのに対して、大洋ホエールズというのは、投手に平松・山下・坂井・小谷などがいて、中塚・江尻・シピン・松原・江藤・ボイヤー・米田・伊藤・といった打線は、無茶苦茶巨人に強いチームだったので、アンチ巨人にとっては「巨人に弱い2位の阪神」よりも「巨人に強い3位の大洋」の方が魅力があった、というのはたしかだった。関西人にとっては阪神にゃんこ は地元のチームではあるものの、なにしろ、巨人に弱かったし、肝心なところで毎回負けよる。「ええかげんにせえよお」て感じ。にゃんこ は期待してもあかんわあ・・と思いながらも、それでも応援してくれる「阪神ファンは一番や~あ」・・て、たぶん、阪神球団の経営者は思っとるのではないかと思うのだが、うちの父親は、そんなわけで、大洋ファンでアンチ巨人だったのだ。大阪では、新聞は「普通は朝日」であったということもあると思う。

  「かわいい子には旅をさせよ」という言葉には、「若い頃の苦労はこうてでもせえ」と父が毎日毎日私に言いまくってきたように、「苦労」というものを買い過ぎたので、そろそろ、倉庫に貯まった「苦労」を売ってやろうかと思っても、誰も買ってくれない不良商品を買え~え! という意味だと一般に言われるが、私は、他に2通りの意味があるのではないか、と今は思っている。
  ひとつは、子供というものは、親の影響だけを受けて大人になるべきではなく、親戚のおじさん・おばさんや、近所の人、学校の先生や友達、その他、親以外の人の影響も受けて大人になった方がいいのではないか、という意味があると思うのだ。大学に行くのに、「家から自転車ででも行けるような大学」なんてのに行くよりも、下宿代がかかったとしても、下宿して行くような大学に行った方が、大学で勉強する内容と別に、そこで学ぶものがあるという考え方もある。
  もうひとつ、仕事についても、1980年代後半、小堀住研(株)に入社した時、同じ時に入社した人間で、造園屋の息子というのがいたが、彼は、造園屋を継ぐつもりでいたようだったが、その前に、他人さまの会社で雇ってもらって仕事をする経験を一度は持った方がいいということで、造園と多少は関係のある業種として戸建住宅建築業の会社に勤めたらしかった。1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で、栃木県の営業所にいた某くんは、大学を卒業後に(株)一条工務店に勤めたが、水道屋の息子だったらしく、水道屋と多少は関係のある業種ということで戸建住宅建築業の(株)一条工務店に勤めたが、(株)一条工務店を辞めて水道屋に勤めると聞いたので、「自分の所に勤めるのですか」と言うと、「いえ、自分の所に勤めたのでは修業になりませんから、他の水道屋で雇ってもらって勤めるんです」と言っていた。最終的に、自分の所の会社を継いでもいいけれども、その前に、同業の他社で雇ってもらって仕事をする経験を持つか、同業ではないが、多少は関係のある業種の会社で雇ってもらって仕事をする経験を持った方がいい、ということを、「かわいい子には旅をさせよ」という意味でとらえることもできるのではないか。父の勤め先の二代目の社長も、東大を卒業した後、すぐに自分の所の会社に勤めるのではなく、銀行にしばらく勤めたようだった。もっとも、『築地魚河岸三代目』では、乾物屋の親父が「銀行みたいなもん。晴れている日に傘を貸して、雨が降ったら取り上げるような、そんな連中だ」と言う場面があったが、小堀住研(株)に銀行から出向で来ていた従業員を見ると、銀行みたいなもん、あんな「あつかましいだけの無能のお殿様」みたいな連中なんて、むしろ、勤めない方がいいのではないか? という気もしないでもないが。経験として勤めるのなら、銀行ではなく、他の業界の会社の方がいいということはないか・・と思わないこともない。又、そう言う人もいる。

  「かわいい子には旅をさせよ」という言葉は、決して、「子供に旅行させよう」という意味ではないと言われてきたし、たしか、小学校でも先生はそう言ったように記憶している。しかし、今、振り返ってみると、子供の頃、若い頃に、自分が生まれ育った所と異なる所に行ってみる経験を持つというのは有意義なことで、できれば、そういう経験をした方がいいという意味もまた、間違いということはないのではないか、とも思うようになった。特に、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/  の「アタマが浜松」みたいな人を見ると、なんと言いましょうか、福島県の会津地方では、国鉄(現 JR)の只見線が会津若松から新潟県の小出まで全通した時、「これで、『会津の人間は海と猪苗代湖では猪苗代湖の方が広いと思っている』と言われなくてすむ」と会津の人間は喜んだ・・と何かに載っていたのを読んだことがあるが、浜松の人間というのは、浜名湖は海のすぐそば・・というより、海と一部分がつながっているのだから、海と浜名湖では浜名湖の方が広いなどと考えることはないはずだと思っていたのだが、ところが、「(株)一条工務店の遠州人」を見ると、もしかして、「遠州人」というのは、海と浜名湖では浜名湖の方が広いと思うとるのと違うのか? ・・・みたいな感じだった。「遠州人」といっても、あくまでも、「(株)一条工務店の遠州人」のことで、「遠州人一般」がどうかということではないけれども。 「空の広さは浜松の広さと同じだ」と思っている人、「それは違いますよ。『空の一部分の広さは浜松の広さと同じだ』と言うのならそれは正しい。しかし、『空の広さは浜松の広さと同じだ』と言うのならそれは間違っている」と言うと激怒する人、そういう人を見ると、たとえ、観光旅行でもいいから、小学生から中学生にかけてくらいの頃に、どこか、生まれた場所とは違う所に行ってみる経験を持った方がいいのではないか・・という気持になる。「空の広さは浜松の広さと同じだ」と思っている人に、「空の一部分の広さは浜松の広さと同じだ、と言うのならそれは正しい。しかし、空の広さは浜松の広さと同じだと言うのなら、それは間違っている」と言うと激怒しよるのだ。 「浜松でいいものは日本全国どこででもいいに決まってるんだ。こんな常識がわからんのかあ!」とひきつけおこして叫ぶ人に、それは違いまっせ・・・とわからせようとしても、無理!!!  そういう人を見ると、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉は、観光旅行でもいいから、若いうちに、生まれ育った所と違う場所に行ってみる経験を持つべきだ、という意味でも間違っていない、と思うようになる。
  最近、インターネットで、「犬を賢い犬に育てるには」とかいう記事があったのを見ると、「子犬の頃に、いろいろな場所に散歩で連れていく」「子犬の頃に、いろいろな人と会う経験をさせ、いろいろな犬と会う経験をさせる」というものが出ていた。家の中でしか生活させない、家のすぐ近くしか歩かせないということでは、犬も賢い犬にはならないようで、(株)一条工務店の「オリジナル従業員」を見ると、人間もまた、浜松・掛川・名古屋といった地域、静岡県中西部・愛知県しか知らない人間というのは、「空の広さは浜松の広さと同じだ」「太陽・月・星といった宇宙の天体はすべて浜松を中心として回転している」と考える人間になってしまうようだ。そういう人に、「月は地球の周りを回転しており、地球が太陽の周りを回転しているのであって、決して、太陽・月・星が浜松の周りを回転しているのではありません」なんて言うと、怒りよるから、だから、そういう人には言わん方がいい。彼らは「すべての天体は浜松を中心として回転している」と心の底から信じていて、それに異を唱えられると、精神的平衡を失うようだ。

  折井英治編『暮らしの中の ことわざ辞典』(1962.9.20.集英社)には、
《 わが家を出て知らない他国へ行ったり、そこで働いたりすることは苦しいことであるが、しかし人の子は親のもとをはなれてそういう苦労をなめなければ鍛えられるものではない。ほんとうに子供を愛するならば目先の愛情にとらわれず、子供に苦労をさせることだ。ところで、これを現代流に解釈すれば、「旅行は見聞をひろめるものだからかわいい子には旅をさせよう」とでもいうことになろう。》
と出ており、この折井英治編『暮らしの中の ことわざ辞典』の文章だと、私が↑にあげた3通りの意味合いがあることになる。

  さて。私自身の経験から言って、子供の頃、若い頃に、実際に旅行したことによって知ることというのが、2通りある。それは、生まれ育った場所と違う所に行ってみて知る経験は有益だという意味と、もうひとつは、家族、特に親と一緒に旅行することで、普段、その家族の性格・性質について気づかなかった点に気づくということがある、ということである。「父の日」にちなんで、私自身の経験を述べる。
【1】 小豆島
(1)花火
   1960年代後半、私が小学校1年の時の夏休み、父の勤め先の会社の社員旅行で小豆島に行くのに、私と高校1年だった下の姉とが一緒に行かせてもらった。上の姉は高校3年だったので、大学受験があるからということで母と家に残った。 父は「小豆島に言ったら、夜、浜辺で花火をやろう。小豆島でやる花火を買ってきなさい」と私に言い、それで、私は花火を買ってきた。小豆島で花火をやるのを楽しみにして、買ってきた花火を見るだけでも見ておきたいと思っても、父は「花火は小豆島に行ってやります。家ではやりません」と言って、花火を見ることも許さなかった。
  小豆島に行き、1泊目の夜、「花火、やろう」と言うと、父は「花火は最後の日の夜にやります。1泊目の夜はやりません」と言うので、2泊3日の旅行の後の方の夜にやるものだと理解して、2泊目の夜を楽しみにした。
  ところが、2泊目の夜になると、社員旅行で行っているので、夕食後、社員みんなで酒を飲み、たしか、父は「部長」だったと思うのだが、酒を飲んだのか飲まされたのかで、いつまで経っても花火をしにいこうとしない。しびれをきらすくらい待ったが、これ以上、遅くなると、もう、花火をできなくなるのではないかと思い、父に「花火、やろう」「花火、しにいこう」と言ったのだが、言っても父は無視して返事をしない。さらに我慢して待ったが、ますます、夜遅くなってしまい、花火をやる時間がなくなってしまう。それで、「花火やろう」「花火しにいこう」と父に言ったのだが、それでも父は返事をしない。それだけでなく、高校生だった姉が「あんた、ちょっと、いいかんげんにしなさい!」と言って私に怒るのだった。「あんた、お酒のんでる人が夜の海に行ったら危ないでしょう。そのくらい、わからんの、あんたはあ!」と言って怒るのだった。なんで、俺が怒られなきゃならんのだ? 「小豆島に行ったら花火をやろう」と言ったのは父親であり、私の方から言ったことではない。「小豆島で花火をやるから、花火を買ってきなさい」と言って私に花火を買いに行かせたのはうちの父親であったはずだ。そして、「1泊目の夜は花火はやりません。2泊目に花火はやります」と前日の夜に私に言ったもの父親であったはずだ。うちの父親がそう言ったから、だから、私はその前提で考えたのであり、父親が「2泊目の夜に花火をやります」と言ったから、そう言ったのに、夜、遅くなっても花火をしにいこうとしないから、だから、これ以上、遅くなったら、「もう、寝る時間です」になってしまって、花火はできなくなってしまうと思って言ったのに、なんで、俺が怒られなきゃならんのだ???

  納得いかない思いでいたが、高校1年の姉は、父親が花火をしにいこうとしないし、社員旅行での最終日の前夜は酒を飲むことになっていたのだろうと解釈したのか、高校1年の姉が小学校1年の弟と2人で夜の海に花火をしにいこうと考えたようだった。それで、姉は食事の部屋を抜け出して、就寝に使用していた部屋に行き、花火を持って夜の浜辺に弟と2人で行こうと考えた。しかし、部屋に戻ると、女性社員のTさんが、なぜか、1人、部屋にいたのだ。もしかして、誰か、男性を待っていたが来てもらえなかったのか?・・・なんて、今の年齢になると考えないこともないが、小学校1年生はそんなことを考える思考はなかった。それで、姉は、「Tさん、花火、一緒にやりに行きませんか」と誘い、それで、3人で夜の海辺に行って花火をやった。小学生としてはTさんと一緒に花火をできたのは、それはそれで楽しかった。・・しかし、普通、父親ならば、「小豆島に行ったら花火をやろう。小豆島でやる花火を買ってきなさい」と小学校1年生に命じて買ってこさせたのであるならば、1泊目の夜に「花火は2泊目の夜にやります。1泊目の夜は花火はやりません」と言ったにもかかわらず、2泊目の夜になると、夕食の後、「飲み会」みたいになってしまって子供と花火をやりに行くことができなくなったのならば、「申し訳ない。今回は花火をやりに行けなくなってしまった。又、別の機会にできるように考えるから、今回は我慢して。ごめんなあ」と、私が父親ならば子供に言うところである・・・が、そういうことは絶対に言わないのがうちの父親だった。そういうおっさんやった。
  それでもって、父は私がハタチくらいになると、毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言うのだった。「世の中にはやなあ、カス親! もおれば、ダメ父! もおるわけでやなあ、わしい~い みたいなエッライえっらいエッライえっらいエッライえっらいエッライえっらいスーパーマンのお父さんばっかしやないわけやあ。あんたあは、わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらいスーパーマンのお父さんを持って、しあわせ、しあわせ、しあわせ、しあわせ! あんた、恵まれてるねえ~え。あんた、幸せやねえ~え! あんた、しあわせ、しあわせ。あんた、ほんまに恵まれてるねえ~え!」と言うのであった。父は「あんたはなあ、もしかすると、わしのことを『普通のお父さん』やとか勘違いしてるかもしれんけども、わしは『普通のお父さん』とは違うねんぞ。わしは『スーパーマンのお父さん』やねんぞ。知ってたか?!?」と言うのだったが、知らんかった。パーマンかと思うとった。子供に「小豆島に行ったら花火をやるから花火を買ってきなさい」と言って買いに行かせて、「花火は小豆島でやります。家ではやりません」と言って家で花火を見ることすら禁じておきながら、小豆島に行くと「花火は1泊目の夜はやりません。花火は2泊目の夜にやります」と言っておきながら、2泊目の夜になると、いつまでも会社の人間と一緒に酒のんで、「花火やろう」「花火やりにいこう」と言っても無視して、しかも、高校生の姉から「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい」などと怒られて、「悪かった」「すまなかった」という一言も言えないようなパーマンかと思っていたが、スーパーパーマンだったようだった。
  「かわいい子には旅をさせよ」と言うが、今から考えてみると、ああいう経験もまた、旅行をしたことから経験したことで、旅行に行くことなく家にずっといたならば、ああいうおっさんやった、ということに気づくことはなかったかもしれない・・と思う。
  1992年、(株)一条工務店で東京営業所(展示場)に在籍した時に東京都町田市で建てていただいたUさん(当時、40くらい)に契約いただいたのだが、Uさんは大阪府出身で東大を卒業して大蔵省(現 財務省)にキャリアとして勤務していた人だったようだが、仕様打ち合わせ(色合わせ)を東京都江東区木場の東京事務所でおこなった時、けっこう遅くまでかかったのだが、Uさんは子供2人に「☆☆ちゃん、申し訳ない。もうちょっと我慢して」と言い、終わると、「☆☆ちゃん、終わったよ。よく頑張ったね」と言われたので、それを見て、この人は東大出てキャリアで大蔵省(現 財務省)に勤めているだけあって、さすがやなあ・・と思ったものだった。うちの父親なら、絶対にそんなことは言わない。言わないかわりに「わしいみたいなエッライえっらいエッライえっらいエッライえっらい・・・」とかそういうことを言いまくるであろう。うちの父親は「あんたは、もしかすると、わしのことを『普通のお父さん』やと勘違いしてるかもしれんけども、実はわしは『エッライえっらいエッライえっらいエッライえっらいスーパーマンのお父さん』やってんぞ。知ってたか」と言うのだったが、「スーパーマンのお父さん」よりも「普通のお父さん」の方がええわあ~あ・・・と思ったものだった。
  「普通のお父さん」といっても、どういうのが「普通」なのか、世の中には普通でない人はいっぱいいると思うが、少なくとも、私なら、「小豆島に行ったら花火をやろう。花火を買ってきなさい」と言って買いに行かせて、小豆島に行った1日目には「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜は花火はやりません」と言っておきながら、2日目の夜になって、「飲み会」みたいになって花火をやりに行けなくなったなら、私なら、子供に「申し訳ない。会社の人と飲み会みたいになって抜け出せなくなってしまった。ごめんなあ。花火は別の機会にできるように考えるから、我慢して」と言いますし、又、自分のことを「えっらいエッライえっらいスーパーマンのお父さん」などと言われたくもないし言いたくもない。「スーパーマン」ではない、生身の人間だ。その表現は1970年代終わりに父の「親友」の医者屋のM川が父に言った文句ではないかと思うのだが、私なら、そういうことを言うヤツがいたとして、ほめられるのとけなされるのとなら、ほめられた方がどちらかといえば気分はいいかもしれないが、そこまで言われたのでは「こいつ、何を考えてるのかな?」と考える。考えるでしょ、普通。違いますか?  いつだったか、橋下徹が「政治家の中で最もイケメン」と言われて、「それでは『う〇こ の中では最も形のいい う〇こ』と言われたみたいでうれしくない」と答えた、とヤフーニュースだったかに出ていたのを見たが、うまいこと言ったもんだと思ったが、政治家というのは、イケメンであるとかないとか言われて喜んでいるようではだめで、そういうものに乗らなかったというのは、その点では橋下は北野高校卒だけのことはあったかと思った・・が、乗せられる人というのも世の中にはいるもんだ。昔、西川きよし と 横山やすし の漫才で、西川きよし が「あんた、えらい、あんた、えらい。えらいエライえらいエライえら~い! あんた、天皇へーか、あんた、天皇へーか、あんた、天皇へーか。えらいエライえら~い!」と言うと、横山やすし が「なんやねん、それはあ~あ。やめえ!」と言うというギャグをやっていたことがあるが、うちの父親なら、「あんた、えらい、あんた、えらい。えらいエライえらいエライえら~い! あんた、天皇へーか、あんた、天皇へーか、あんた、天皇へーか。えらいエライえら~い!」とでも言われると、「そうやねん。わしぁ、えらいねん。わかったかあ」とでも言うところである。アホがめでたいのお! という感じがする。この2月に他界した野村克也のじいさんがどこかで書いていたが、「ささやき戦術」として、キャッチャーとして背後からボソボソ言うと、大杉は「うるさ~い!」と怒ったそうで、張本はバッターボックスをはずして気分を変えようとした時、スタンドから「こら、早く打たんかあ」と言われ、「こいつがうるそうて打てんのじゃあ」とバットで野村を指して言ったそうだが、テレビ番組で張本が自分は腹が立つとむしろファイトがわいて成果をだせるというようなことを話しているのを見たので、これは使える♪ と思い、後ろから「おっ、さ~すがは張本さん♪ いい~い構えしてるねえ~え。ほれぼれするねえ。日本で張本さんほどいい構えしてるバッターは他にないねえ。メジャーリーグでも張本さんほどすばらしい構えしてるバッターはないねえ~え♪」と言ってやったところ(野村は、ピッチャーを助けるために「ささやき戦術」をやっていたと言うが、自分が楽しんどるのと違うんか~い・・て感じがしないでもない(^^)/ )、張本は「やめてくださいよ、もう」と言いよった・・らしい・・・が、うちの父親なら、「わかったかあ。わしほどえらいお父さんはおらんねんでえ」とでも言うところだろう。・・なんか、もう、アホにつける薬はない・・みたいな感じがする・・・。「わしはスーパーマンやってんでえ。知ってたか」と父が言うので、「はあ。スーパーマンですかあ? 空、飛ぶんですか?」と言ってやったことがあったのだが、「アホぬかせ。そんなもん、飛ぶか! 何、言うとるんじゃ、おまえはあ!」と言うので、「しかし、スーパーマンなんでしょ。スーパーマンなら、空、飛ぶのと違うのですか」と言うてやったことがあったのだが、「空、飛ばないスーパーマン」らしかった。「スーパーマンのお父さん」てのは、なんか、ユニークなことするなあ、と思う。

  一緒に花火をやったお姉さんに、「Tさん、うちの子と一緒に花火やってくれたそうだね。どうも、ありがとう」という一言を父親なら言ってほしかった、とも思ったが、あの男にそこまで期待するのは無理な要求というものであっただろう。

  姉は「お酒のんでる人が夜の海に行ったら危ないでしょう」と私に言ったのだが、それよりも、高校生の娘が小学校1年の弟と2人で夜の海辺に行くことの方が「危ない」ように私は思う。実際、その時ではないが、姉は似たような状況で痴漢にあったりしている。父親なら、そのあたりを配慮するべきであるし、そのあたりを配慮できてこそ父親ではないのか、と思うのだが、そういう思考のできないおっさん、そういう思考は完全に欠落している男だった。

(2)子供の水筒を取り上げる。
  家を出る時、母は高校1年だった下の姉に、父と下の姉と小学校1年だった私とのために一般用水筒にお茶を入れて持たせ、それと別に、私に、子供は喉がかわくとつらいからと子供専用に鉄腕アトムの絵が描かれた小さい子供用水筒にお茶を入れてもたせた。姉に持たせたものは、父と下の姉と私と3人の為のものとして持たせたものだった。母と上の姉が行かなかったのは、上の姉がこの時、高校3年だったので、大学受験の為の勉強をしないといけないからということで母と家に残ったようだった。
  ところが、大阪市港区の弁天埠頭から小豆島に行くフェリーボート(といっても、自動車とともに乗ったのではなく人間だけで乗ったのだが)に乗ると、「会社の人」は男も女も誰ひとりとして水筒を持ってきておらず、水筒にお茶を入れて持参していたのは我が家だけだった。水筒を持ってこなかった人というのは、水筒を持ってこなくても、喉が乾けば、その頃は今と違って「水」とか「お茶」が入ったペットボトルなんて販売されていなかったが、清涼飲料水は売店や自販機で売られていたし、その頃は「トイレの水」といっても、便器に貯まっている方の水ではなく水道から出る方の水はたいてい上水道で飲むことができたので、清涼飲料水を売っている所がなければ、「水道の水」でも飲めばいい、その方が荷物が少なくてすむ・・といった考えだったのではないかと思う。下の姉は、「会社の人」が誰も水筒にお茶を入れて持参してきていないのを見て、「会社の人」への気遣いのつもりで、「お茶、どうぞ」と言って入れてまわったのだった・・・が、ここが問題である。我が家は、「会社の社員旅行に一緒に行かせてもらった」とはいえ、費用を出してもらったわけではなく、姉の分も私の分も我が家で出して行っていたのであり、又、我が家は「会社の人」の給仕係として行ったのではなかったのだ。だから、姉は「会社の人」にお茶を入れてまわる理由はなかったはずなのだ。それでも、「すいません、お茶を少し分けてもらえませんか」と頼む人があったなら、少し分けてあげてもよかったと思うが、そうではなく、頼まれもしないのに、「お茶、どうぞ」と言って入れてまわるとどうなるか。「お茶を分けてもらって、どうも、すいません」と思ってもらえたならばいいけれども、そうではなく、そういうことをすることで、この人たちは自分たちの給仕係であり、自分たちのためにお茶を水筒に入れて持ってきているんだ・・と思われてしまうようならば、そんなことなら、お茶を分けてあげるということはしない方がいい。父は「わしは、営業部長になったら、それまで誰もあげたことがないようなすばらしい営業成績を残したんやで」と言っていたのだが、営業でも営業部長でも、ともかく、営業の仕事をやった人間ならば、まず、そのあたりを見て判断できないといけない。まったく、そのあたりを見れていないうちの父親は、当人が何を言っても、営業としての能力を発揮できていなかった、と考えるしかない。姉もまた、そのあたりを見て判断しないといけないのだが、なにしろ、私が「世間知」のない男の息子だったので父親から「世間知」を学ぶことができなかった息子であったのと同様に、姉もまた、「世間知」のない男の娘であったので父親から「世間知」を学ぶことができていない娘だった。
  2泊3日の旅行の最終日、小豆島の旅館を出る時、下の姉は「それじゃあ、旅館で水筒にお茶を入れてもらっていこう」と「有言実行」しようとしたのだ。なんで、いちいち、「有言実行」しないといけないのか。黙って入れてもらえばいいことだろうが、と思うのだが、「有言実行」しようとした。すると、会社のある男性社員が「お茶なんて、入れてもらわんでええ」と横から口出したのだった。なんで、この人がそんなこと言うの? ・・と小学校1年生の私は思った。我が家は給仕係として随行していたのではないし添乗員として随行していたのでもない。下の姉が一般用水筒を持参していたとしても、それは、あくまでも、父と下の姉と私のための水筒とお茶であって、「会社の人」の為に持参していたのではないし、行きの船で「会社の人」に下の姉がお茶を分けてあげたとしても、それは、自分たちだけで飲むのは気が引けたので、それで分けただけであって、「会社の人」から「お茶なんて入れてもらわんでもええ」なんて言われる筋合いはないはずだった。姉は、「会社の人」のそんな発言は無視して、入れてもらってくればいいことであって、横からおかしな口出しをする者が間違っているのだった。又、父は、会社の従業員、自分の部下がそういうおかしな発言を横からしていることを上役なら、当然、見ていないといけないはずだった・・が、それを見れない男がうちの父親だったのだ。

  下の姉は「お茶なんて、要らん」「お茶なんて、入れてもらわんでもええ」と「会社の人」から横から言われて、それで、「お茶、要らないですかあ」などとアホなことを言ったのだった。なんで、その人にそんなことを言うのか。その人が横からそんなことを言うのがおかしいのだ。ところが、「お茶要らないですかあ~あ」と下の姉が言うと、その男性は「要らん。お茶なんて入れてもらわんでもええ」と言い、その指示、なんで、その人にそんな指示をされなきゃならないのかと思ったのだが、その指示に下の姉は従って、「それじゃあ、この水筒にはお茶を入れてもらうのはやめて、〇〇ちゃんのアトムの水筒にだけ、お茶を入れてもらうことにしよう」と言ったのだ。するとまた、その会社の男性社員は「ああ。それにでも入れてもろとけばええわ」などと、なんで、この人がそんなことを言うのか、と思ったのだが、言ったのだった。私が父親ならば、又、私が部長ならば、「△△さん、あんた、それは余計な口出しというものと違うかな」と注意します。それを言えてこそ、部長と違いますか。部下が余計な口出しをしているならば、部長なら、それをきっちりと指摘するのが仕事と違いますか。ところが、それを言う能力がないのがうちの父親だったのだ。

  小豆島から大阪の弁天埠頭に向かう船の中で、前日、一緒に花火をやった女性社員のTさんが私に「お茶、ちょうだい」と言ってきたので、一緒に花火をやって遊んだお姉さんに頼まれたことなので、喜んで分けてあげたのだった・・・が、子供はそれでいいとしても、そのお姉さんというのは、私の場合は上の姉と11離れていたので、そのお姉さんも上の姉よりさらにもうちょっと年上くらいという感覚だったが、それでも、ハタチを過ぎた会社員であり、「ハタチを過ぎた会社員」が子供が持っている物を「それ、ちょうだい」と言うというのが非常識だということも理解できないようでは困ります。父の勤め先は化粧品会社で、そのお姉さんは美容部員さんだったのだが、美容部員さんというのは、言っちゃなんだが、実際のところ、「底辺の高校卒」の人がなる仕事であり、「学校の勉強はあんまりできなかった地方の高校卒の女の子」がなっていたのだった・・・が、学校の勉強ができてもできなくてもそれはここではどうこう言うことではない。もしも、女性でも東大にでも行くほど勉強ができたなら美容部員なんてやってないだろう。だから、学校の勉強ができてもできなくてもそれはかまわないが、たとえ、学校の勉強のできはよくなかったとしても、それでも、美容部員さんというのは営業のはずなのだ。まがりなりにも営業の仕事についている人間が、小学校1年の子供が持っている物を「それ、ちょうだい」などと言うバカはないだろうが!!! 違うか? 父はその美容部員さんの上役だったのだから、上役ならば、そういう言動を見たならば、「Tさん、申し訳ないけれども、子供が持っている物は取り上げないでもらえないかな」と、きっちりと言わないといけない。それが言えないのでは部長としての価値はないことになる。「アホはアホなりにつこうたらええがな」とその会社の初代社長が言ったというのだが、小学校1年の子供が持っているものを「それ、ちょうだい」と言うバカ女には、上役はきっちりと注意しないといけないし、言えないのでは「アホはアホなりにつこうたらええがな」という社長の発言において、「アホ」の側か「アホ」でない人間の側かというと、そのくらいのことも言えないような部長は、「アホ」の側と考えるしかないことになる。上役の子供が持っている子供用の見るからにちょっとしか入っていないと思われる水筒のお茶を「お茶、ちょうだい」などと言ってほしがる女は、それを注意しないで放置しておくと、そのうち、お客さんの子供が持っている物を欲しがるようになるだろう。上役なら、それを注意しないといけないし、注意できないようなら上役としての価値はないことになる。

  しかし、子供の方は、3日間、一緒に過ごして遊んでもらった相手であり、特に、前日、「花火は2日目の夜にやります」と父が言ったにもかかわらず、2日目の夜に「花火やりにいこう」といくら言っても父が無視した時に、一緒に浜辺に行って花火をやったお姉さんだったので、分けてあげるのは嫌ではなかったし、むしろ、喜んでわけてあげたのだった。
  ・・・ところが・・・。 今から考えると、うちの父親というのは、アホと違うか? ・・というよりも、どう考えてもアホや! と思うのだ。「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、ここまでアホとは思わんかった!」・・・。 それを見て、父が「ちょっと、それを貸してんかあ」と言って私が持っていた鉄腕アトムの絵が描かれた子供用のごく小さい水筒を取り上げて、そして、「配給、配給♪ お茶の配給です、配給♪」と言って、「会社の人」に、特に、お茶が欲しいと言っていない人にまで入れてまわったのだった。小豆島の旅館を出る時に「お茶なんて要らん」と言った男性も私の水筒からお茶を入れてもらってそれを飲んでいたと思うのだが、アホと違うかと思う。アホな上役の部下はアホになるようだ。
  子供用の小さい水筒に入っているごくわずかのお茶を、「配給、配給♪ お茶の配給です、配給♪」などというアホなことをやって、何人もに入れてまわるとすぐになくなるのは最初からわかっていることだ。私が「お茶、ほしい。喉かわいた」と言うと、父が「ないねん。お茶、もうないねん」と言うのだった。母は、父と姉と私のために一般用水筒を用意して、それと別に、子供は喉がかわくとつらいから、子供用に別に子供用の水筒を別に私に持たせたのだったが、ところが、父は子供が持っているごく小さい水筒を取り上げて、「配給、配給♪ お茶の配給です、配給♪」などと言って、別にお茶が欲しいと言ったわけでもない人にまで入れてまわり、子供が飲みたいという時には1滴もない状態にしてしまったのだった。「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、しかし、ここまでアホとは思わんかった!」・・・。
  この話はここで終わりではない。(3)に続く・・・。

(3)弁天埠頭⇒弁天町駅⇒弁天町駅プラットホーム⇒天王寺駅⇒南田辺駅⇒「もうすぐ、家です。もうすぐ、家!」
  父は「売店に行ってジュースこうたろ」と言って船の売店に私を連れて行ったのだが、船の売店は閉まっていた。父は「弁天埠頭に着いたらこうたる」と言うので、苦痛に耐えて弁天埠頭まで我慢したのだった。
  ところが・・・。今、思っても、「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、しかし、ここまでアホとは思わんかった」。弁天埠頭に船が着くと、父は「バス来てる、バス来てる。弁天町の駅に着いたらこうたる」と言って、さらに弁天町の駅まで我慢しろと命令したのだった。
  「弁天町の駅についたらこうたる」と父は言うのだから、男が「こうたる」と言うたからには「こうたる」のだろう・・と思ったのだった・・・が、ところが、国鉄、現在はJRの大阪環状線の弁天町の駅に着くと、父は「プラットホームの売店でこうたる。プラットホームの売店で」と言うのだった。
  そして、弁天町駅のプラットホームに行くと、父は「電車来た、電車来た。天王寺の駅に着いたらこうたる。天王寺の駅についたら」と言うのだった。読んでくださっている方にも、そろそろ、この話の結末が予想できる人もいるのではないかと思うのだが、国鉄、現在はJRの天王寺駅に着くと、天王寺駅というのは駅として大きな駅であり、売店は間違いなくある駅だったのだが、父は「阪和線の電車来てる、電車来てる。南田辺の駅に着いたらこうたる。南田辺の駅に着いたら」と言うのだった。いくらなんでも、あんまりだ! と思った。思いませんか? その頃は、夏場は水分を多くとるとばてるから水分はあまり採らない方がいいと言った時代だったが、いつからか正反対のことを言うようになり、最近では「水分補給をまめにしないと脱水症状になる」と言うようになったのだが、実際、子供は脱水症状になりつつあったのだ。父は「阪和線の電車きてる、電車きてる」と言うのだったが、今では、阪和線の電車は、快速は大阪駅もしくは京橋駅から大阪環状線の海側を経由して天王寺駅まで行ってそこから阪和線に入り、南紀方面に行く特急「くろしお」と関空に行く特急「はるか」は京都駅か新大阪駅始発で梅田貨物線を経由して大阪環状線の海側を通って天王寺駅から阪和線に入る電車が多くなったが、その頃は、阪和線の各停・快速・「直行」と言っていた区間快速、それに紀勢線に和歌山から乗り入れる特急「くろしお」・急行「きのくに」もすべて、天王寺駅始発であり、「電車来てる、電車来てる」などと言っても、阪和線・紀勢線の天王寺駅はターミナル駅で櫛型ホームにはたいてい「電車来てる」のだった。そして、電車は着ていても、ターミナル駅なので、なかなか出ないのだった。阪和線の各駅停車に乗ってもなかなか出ないので、「まだ、出ないから、ジュース買って」と悲壮な気持ちで訴えたのだが、父は「もうでる、もうでる」と言うのだったが、そんなもん、来たばっかりの各停はターミナル駅ではなかなか発車するもんか。今、思うと、父はそれを承知の上で、「もうでる、もうでる」と言いまくっていたと思う。小学校1年の時の私は、ジュースを買って欲しいと言ったのではなく、「喉がかわいた。お茶を飲みたい」と言ったのであり、「ジュースこうたる」というのは父が言ったのであり、小学校1年の時の私にとっては、ジュースでなくても、お茶でも水でも何でも良かったのだ。その頃の水道の水はたいてい、上水道の水が来ていて、最近、雑誌で見た記事によると、天王寺駅の水道の水は都会には珍しく井戸水だそうだが、ともかく、水でもお茶でも何でもよかったのだが、父は「もうでる、もうでる。もう、電車でます、もう、電車でますと言うてますでしょ」と言ってきかなかったのだ。今、思うと、姉もまた、「お父さん、子供は喉がかわいたらつらいから、水道の水でもいいから、飲ませてあげよう」と言ってくれても良さそうなものだったと思うのだが、それを言わないのが下の姉だったのだ。
  そして、長時間待って、やあっと阪和線の各駅停車は天王寺駅を出発し、そこから2つ目の南田辺駅の到着した。「南田辺の駅に着いたらこうたる」と父は言っていたのであり、「男がいったん、こうたると言うたからにはこうたる」はずだった。南田辺の駅からは、もう、電車もバスも乗るものはない。駅から家まで歩くだけであり、さすがに、買って飲ませてもらえるだろう・・・と思い込んだ。
  ところが・・・、それは見通しとしてあまりにも甘かった。南田辺駅に着くと、父はこう言ったのだ。「もうすぐ、家です。もうすぐ、家。さあさあ、もうすぐ家です。もうすぐ、家!」と。・・・・あんまり、こんなことする人ないと思うがなあ~あ・・・と思ったし、なんで、そんなことしないといけないのか? とも思った。 又、私は、自分が1滴も飲めないような水筒を、なんで、肩から下げて持ち歩かないといけなかったのか、とも思う。 うちの父親はそういうおっさんやった。
  そして、家に着くとおっさんはこう言ったのだった。「ほ~ら、着いたあ~あ♪」と。・・あ~んまり、こんなことする人ないと思うのだけれども、この人は、いったい、なんで、こういうことをするのだろうか・・。なんで、こんなことしないと気がすまないのだろうか・・・。
  そして、そのおっさんが、私がハタチになった年、こう言ったのだった。「あんたには、子供の頃から、よそとはちごうて、あんたが欲しいというものは、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでもどんなもんでもどんなもんで、ええもんばっかし、何でも何でも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってやってきたから!」と、おっさんはそう言ったのだった。「弁天埠頭に着いたらこうたる」⇒「弁天町の駅につたらこうたる」⇒「弁天町の駅のプラットホームでこうたる」⇒「天王寺の駅でこうたる」⇒「南田辺の駅についたらこうたる」⇒「もうすぐ、家です、もうすぐ、家!」・・とやったおっさんが、「あんたには、子供の頃から、欲しいと言うものは、いつでもいつでも、何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかし、いつでも、こうてきて、やあってやってやってやってやったったから」と、そう言いよったのだ。あきれた!
  さすがに、それには、私は「違う。絶対に違う!」と否定した。ところが、父は「はあ~ん! こいつ、こんなこと言いよるわあ。難儀やなあ、こいつはあ、このチャンコロはあ~あ。おまえ、こんなこともわからんのんか、こんなことも。わしは、あんたがごく小さい子供の頃から、欲しいというものは、いつでもいつでも、何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかし、何でも何でも、買ってきてやあってやって、やあってやって、やあってやって、やってやってやってやってきてやってやってやったったという、こんなこともわからんのか、おまえはあ! 困ったことやなあ、ほんまにい! こいつ、ビョーキやわ、こいつ! こんなことも理解できんとは、こいつ、絶対にビョーキやわ。 これは、薬のませて治療したらんとあかんわ、こいつ。こいつ、絶対にビョーキや。難儀やなあ~あ、ほんまあ。わしのようなエッライえっらいエッライえっらいエッライえっらい英雄で聖徳太子でキリストでヒットラー総統で謙虚な謙虚な人格者の聖人のお父さんの子供に産んでもらってあげてやってあげていただいてもらってくださってもらっていただいて、いつでも何でもどんなもんでも何でも即座にこうてもらってがえていただいてくださってやってもらってきたのにからに、こいつ、こんなこと言いよるわ。これは絶対に間違いなくビョーキです、こいつは絶対に! こういうのを『病識がない』と言うんや、こういうやつのことを。薬、飲ませ、薬、くすり、クスリ、クスリ、薬、くすり、クスリ。それも、ちょっとではあかんわ、相当大量に飲ませたらんとあかん! わしのような英雄の父親を持ってものすごい幸せに育てててもろうたくせしおってからに、こいつはこんなこと言いよる、これは間違いなく、絶対にビョーキや、ビョーキ! 薬、飲ませたらんとあかん、それも、相当大量に飲ませたらんとあかん。ちょっとではあきまへん。大量に飲ませたらんとあかん! 迷惑なやっちゃな、こいつはあ。わしのようなエッライえっらいエッライえっらい、特別に特別にえらい人間の子供にこんなカスが産まれるというのは、これは、生物学上の突然変異学説ちゅうもんや。間違いない! こいつ、大量に薬のませて治療したらんとあかん! 飲ませ、飲ませ、薬、くすり、クスリ、薬!!!」・・と言いまくったのだった。「病識がない」のはあんたと違うんかい、あんたとお? 「たとえ、首をもがれても絶対に違う!」と頑張ったのだが、「難儀やあ。こいつ、こんなこと言いよる。これは絶対にこいつ、ビョーキやわ、こいつう!」と父は言うのだった。ビョーキはあんたと違うのか? と思ったが、そういうおっさんやった、うちの父親は。6月の第三日曜が「父の日」、今年、2020年(令和2年)は6月21日が「父の日」である。そういうおっさんの日である。

【2】椿温泉・白浜
  そして、小学校2年の時の夏休み。 母の母(祖母)と母の母の母(曾祖母)と一緒に、和歌山県の椿温泉に母と一緒に行くことになった。 1泊2日で、椿温泉に宿泊して、2日目には白浜の海水浴場によって帰ることになっていたが、祖母と曾祖母は行きは一緒に行っても帰りは一緒ではなく、1ヵ月くらい椿温泉で湯治をして、別に帰ることになっていた。
  その頃、住んでいた家は国鉄、現在のJRの阪和線の線路から遠くない場所で、子供の頃から、阪和線の電車を見るのが楽しみで、かつ、最寄駅の南田辺駅は各停しか停まらない駅だったので、快速や「直行」という名前の区間快速、急行「きのくに」、そして、特急「くろしお」というものに一度、乗ってみたいとずっと思ってきたのだが、特に、特急「くろしお」というのは阪和線の各停しか停まらない駅が最寄駅の場所に住んでいる子供にとってはスーパースター、あこがれの電車だった。
  もともとは、母の母(祖母)と母の母の母(曾祖母)とが椿温泉に湯治に行くのを、帰りは曾祖母の息子、祖母の弟が迎えに行くけれども、行きは母に一緒に行ってほしいということを「曾祖母の息子」(母から見て、叔父)が母に頼んだらしいが、その時は小学校2年の私はそのあたりの事情は知らなかった。
  小学校2年の時の私にとっては、阪和線・紀勢線で椿や白浜まで行けるというのはものすごい楽しみだった。線路から比較的近い場所に住んでいたが、最寄駅の南田辺駅から天王寺駅までの各停の2駅は何度か乗ったことがあったが、その線路を走っている急行「きのくに」は白浜行きとかが多く、特急「くろしお」は新宮行きと、紀勢線まわりでの名古屋行きがあった。名古屋は紀勢線をまわっていかなくても、近鉄特急でも新幹線でも行けたのだが、紀勢線の特急「くろしお」に乗っていった、白浜とか串本とか新宮とかいう所はどんな所なのだろう? と思い、それ以上に、特急「くろしお」というスーパースターにぜひ一度乗ってみたいと思っていたのだが、もしかすると、その特急「くろしお」に乗れるのかも? と思うと期待いっぱい。
  それで、父に言ったのだ。「列車は何に乗るの? 『きのくに』? 『くろしお』? できたら、一度、『くろしお』に乗ってみたいんだけど」と。すると、父は「そうやなあ。そやけど、お婆さんがどう思われるかということもあるからなあ。お婆さんが『くろしお』に乗りたいか『きのくに』に乗りたいか、お婆さんの意見もきいてみんといかん」と。私は「それなら、お婆さんにきいてみて」と言ったところ、父は「よっしゃ。お婆さんにきいてみようなあ」と言ったのだった。ところが、「お婆ちゃんは、何て言いはった?」ときいても、父は「それが、まだ、お婆ちゃんは、『くろしお』がいいか『きのくに』がいいか、どっちがいいか、言いはれへんねん。困ったなあ、早く返事しはったらええのにからになあ」と言うのだった。「なんで、返事してくれはらへんの。早く、返事してもらわないと、指定席、なくなってしまうかもしれへんやんか」と私は言ったのだったが、父は「そうやなあ。なんで、返事してくれはらへんねやろなあ。きっと、お婆ちゃんも迷ってはるんやろうなあ」と言うのだった。そのうち、「お婆ちゃんは、急行『きのくに』でも特急『くろしお』でもどっちでもいいらしいわ。そやけど、『くろしお』は、もう、指定席がないそうで、行きは急行『きのくに』で行って、帰りは急行『紀州』で白浜から帰ることになった」と言うのだった。「お婆ちゃんはどっちでもいいのなら、それならそれで、なんで、もっと早く返事してくれはらへんの」と不満だった。結局、行きは急行「きのくに」で行き、椿駅で下車。帰りは、母と私だけで白浜の海水浴場に行って、白浜駅から急行「紀州」に乗って天王寺駅まで帰ることになったのだが、実際には、最近では、日本全国で「急行」というものが本当に少なくなって、ほとんどが「特急」になり、紀勢線も京都・新大阪・天王寺発で阪和線から紀勢線に入る特急が「くろしお」で、名古屋から関西線・紀勢線に入る特急が「南紀」になったが、その頃は、特急が「くろしお」で、天王寺から阪和線・紀勢線に入る急行が「きのくに」、名古屋から関西線・紀勢線に入る急行が「紀州」で、わずかに名古屋から紀勢線まわりで天王寺までの急行「紀州」というのがあり、白浜はすべての特急・急行が停車したが、椿駅は最近は各停しか停まらない駅になったが、その頃は急行「きのくに」は停車するが特急「くろしお」は通過する駅だったので、それで、椿駅に停車する列車の方が便利だということで、急行「きのくに」で行くことにしたらしい。帰りは、特急「くろしお」が停車する白浜駅から乗車するのに、なぜ、特急「くろしお」ではなく、急行「紀州」にしたのか、というと、後に母から聞いた話では、父が言った「お婆ちゃんが、どっちがいいか、なかなか返事しはらへんから、『くろしお』は指定席がなくなって、急行しか指定席は取れんかった」という話は嘘で、実際は、祖母と曾祖母を行きは母に連れて行ってもらうということを、母の叔母(曾祖母の息子。祖母の一番下の弟)が依頼して、母に祖母と高齢の曾祖母に同行して行ってもらうかわりに、母と私の旅費と1泊の宿泊費を出してくれたらしいのだ。だから、費用を出すわけでもない父は、特急「くろしお」にするか急行「きのくに」「紀州」にするかなんて、口出すことなんてできなかったのだ。「よく言うわ♪」て感じである。行きは、椿駅には急行「きのくに」は停車するが特急「くろしお」は停車しないので、急行「きのくに」の方が便利だから「きのくに」にしたようで、帰りも、特急ではなく急行でもそれほど遅くないし、急行でも十分と考えて、料金の安い方の急行「紀州」にしたのか、それとも、帰りも椿駅から帰るという前提で、椿駅からの急行「紀州」の切符を母の叔父は用意して渡したが、母が私を白浜の海水浴場に連れて行きたかったから、白浜に2日目に立ち寄って、椿駅からの切符で白浜駅から乗ったかであったようだ。「お婆ちゃんにも、『くろしお』の方がいいか『きのくに』の方がいいか、意見をきいてみんといかんからなあ」とかいう父の言葉は、最初から嘘っぱちだったし、もともと、父がカネを出す話ではなかったらしい。うちの父親というのは、そういう男だった。
  それにしても、なぜ、そんなところで嘘をつくのか、と思う。なぜ、本当のことを言わないのか? と思うのだが、精神的に貧困な男というのは、嘘をつく必要のないところで嘘をつくという傾向があるように思う。1990年、小堀住研(株)の東京支店自由が丘営業課(東京都目黒区)に勤務した時、営業課長だったT橋賢一郎(男。当時、30代なかば過ぎ。東京電機大学工学部建築学科卒)は、見込客に対して、必要のない駆け引きをやりたがり、それで、かえって話をおかしくする男だった。入社してまだそれほど経っていなかったその時の私は、なんか変だなと思いながらも、課長のやることなんだからとその時は思ったのだったが、あれはやっぱりおかしい。「精神的に貧困なやつ」というのは、駆け引きなんてしないで、正直に正面から本当のことを話せば相手は理解してくれるという場面で、不必要な駆け引きをやったり嘘をついたりしてかえって話をおかしくしてしまうということがあるが、小堀住研(株)の高橋賢一郎はまさにそれだった。今から考えると、私が小学校2年の時の父の対応もまた、それだったように思う。ちっぽけな野郎だなあ・・・と思う。
  夏目漱石の『吾輩は猫である』に「お地蔵さんを移動させる話」というのが出てくるのだが、道の真ん中にお地蔵さんがいらっしゃる道があり、もともと、それほど、人通りが多い道ではなかったので、道の真ん中にお地蔵さんがおられても困らなかったが、そのうち、人の通行量が多くなり、荷車なども通るようになると、お地蔵さんが道のど真ん中におられたのでは通りにくくて困るようになった。そこで、お地蔵さんに、道のどちらかに寄ってもらいたいと考えた。最初、力自慢の男が、お地蔵さんを持ち上げて運ぼうとしたが、お地蔵さんは重くて、力自慢の男でも持ち上げることはできなかった。次に、「賢い人」に来てもらうことにした。「賢い人」は、お地蔵さんの前にお札を見せびらかして、「おい、お地蔵さん、これ、欲しいじゃろ。欲しかったらこっち来い。欲しかったらこっち来い」とやってみたが、お地蔵さんは、札束を見せられてもニセ札を見せられても、まったく意に関せず、動こうとしなかった。次いで、ヤクザもんは、お地蔵さんの所に来て、「お地蔵さん、動かないと怖いぞ怖いぞ」とお地蔵さんを脅すような態度をとったが、それもお地蔵さんには役に立たなかった。そして、次に「実業家」がやってきて、お地蔵さんのまわりで、パイプに煙草を入れて吸って煙をもこもこ出してみせたが、それでも、お地蔵さんは動かなかった。この「実業家」というのはいったい何なんだ? というと、江戸時代から明治維新を経て明治時代になる頃、廃藩置県が実施されて藩がなくなる際、それまで、藩が所有していたものがどうなるかという問題で、たとえば、東京の三田の島原藩下屋敷だった土地は、それまで、築地鉄砲洲にあった慶應義塾が手狭であるということから、福沢諭吉は、その島原藩下屋敷だった土地をうま~く安く購入することができたそうで、それが慶應大学の三田キャンパスになった。これは福沢諭吉は正直に『福翁自伝』(岩波文庫)で述べている。しかし、すべての人が正直に述べているわけでもなく、岩崎弥太郎の三菱ってのは、どうやって財閥になったかというと、海運業から財閥にのし上がったと言われるが、なぜ、岩崎弥太郎はそんなに船を持っていたのかというと、どうも、幕末期に土佐藩が持っていた船をうま~く手に入れたらしく、そのあたりを知っている人は知っていたそうで、夏目漱石も、それゆえ、「実業家」というものを「胡散臭い」存在と見ていたようで、『吾輩は猫である』でも、登場人物のくしゃみ先生は、近所の「実業家」の奥さんが「うちは実業家ざんす」という態度をとっても、「『実業家』よりも中学校の先生の方がえらいと思っている人」で、「実業家」なんてちっともエライと考えなかったらしく、その「くしゃみ先生」のモデルはというと夏目漱石自身だったそうだ。お地蔵さんを移動させようと、力自慢でもだめ、「賢い人」でもだめ、ヤクザもんでもだめとなって、「実業家」がお地蔵さんのまわりで、パイプに煙草をつめて吸ってプカプカと煙を出してみせたというのはどういう意味かというと「ケムに巻く」という「実業家」の得意技をやってみせたということだったらしい・・・が、「実業家」の得意技の「ケムに巻く」というのをやっても、それでもお地蔵さんは動いてくれなかったのだ。そこへ、バカ竹と言われて、人からバカにされていた少々精神薄弱の若者がやってきて、「俺ならお地蔵さんに動いてもらうことができる」と言い出したので、力自慢の人でもだめ、「賢い人」でもだめ、ヤクザもんでもだめで、「実業家」でもだめだったものが、バカに動かせるわけないだろうがと多くの人間は言ったが、これだけ、いろいろな人間がやってもだめだったのだから、「ダメでもともと」と考えて、バカにやらせてみたらどうかということで、バカ竹にやらせたところ、バカはどうしたかというと、お地蔵さんの所に行って、「お地蔵さん、すいません。お地蔵さんが道の真ん中におられるもので、荷車など通るのに人が難儀をしております。申し訳ありませんが、道のどっちか片側に寄っていただけませんでしょうか」とお地蔵さんに頼んだのだが、そうすると、お地蔵さんは「なんだ、そんなことか。それなら、もっと早くにそう言ってくれればよかったのに」と言って、すたすたと道の片側に移動してくれた・・・というお話。実際、こういうことはあると思うのだ。営業の仕事をしていても、別に特別の権謀術策なんて使わなくても、正面から正直に「すいませんが、・・・という事情がありまして、・・・というようにお願いできませんでしょうか」と言えば、「ああ、そうでしたか」ときいてもらえるところを、なんかおかしな駆け引きみたいなことをやりまくることで、かえってきいてもらえないようにしてしまう人というのが現実にいると思うのだ。そう思いませんか?  私が小学校2年の夏休みに、母と一緒に祖母・曾祖母が和歌山県の椿温泉に湯治に行くのに同行して椿温泉に1泊して帰りに白浜の海水浴場に寄って帰ったのも、もともとは、母の叔父(曾祖母の息子。祖母の弟)がお金を出して母の叔父からすると高齢の母親と足の具合が良くないらしかった姉を椿温泉に湯治に行かせたいと考えて、帰りは自分が迎えに行くけれども、行きは母について行ってもらいたいと考えて、それで、一緒に行ってもらうかわりに母と私の交通費と1泊の宿泊費を出してくれたらしかったのだ。父は、それを、なんで、正直に言わないのか? 正直にそう言ってもらえば、小学生は、そういうことかと理解したはずなのに、なんで、「お婆ちゃん、早く、どっちがいいのか返事くれはったらええのにねえ。お婆ちゃん、迷ってはるんやろうねえ」などとバカなことを言いまくったのか、と思ったが、そういうおっさんやった・・・ということのようだ。今週の末の日曜日、6月21日は「父の日」、そういうおっさんの日である。
  私は、母から、椿・白浜に行ったのは、祖母と曾祖母を母が連れていくかわりに、母の叔父が母と私の運賃と1泊の宿泊費を出してくれたので、それで、母の叔父としては、行きは急行の方が椿駅に停車して便利なので急行にしたが、帰りは特急が停車する白浜駅から帰ったので特急に乗ることもできたが、急行の方が安いから急行にしたものだと思い込んでいたのだったが、そうではなく、母の叔父(私からすると「大叔父」ということになるか)は、帰りも椿駅から帰ると思って、特急「くろしお」は白浜駅には停車しても椿駅には停車しないので、椿駅に停車する急行の方が便利だと思って急行「紀州」の切符を取ったが、母が私を帰りに白浜の海水浴場に連れていってやりたいと考えて、それで、椿駅からではなく白浜駅からその急行に乗ったのではないか、という気がする。もし、「子供が特急の『くろしお』に乗りたい乗りたいと言っているので、特急と急行の差額をうちで出すから帰りは特急の『くろしお』にしてもらえませんか」と言えばそうしてもらえたのではないか、という気がするし、大叔父は自営業である程度以上軌道に乗ってやっていたという話なので、そう言えば、「なんだ、そういうことか。〇〇ちゃん、『くろしお』に乗りたいのか」と言って、差額を出さなくても帰りは特急「くろしお」の指定券を買ってくれたかもしれない・・という気がする・・が、そのあたりはよくわからないが、うちの父親は、なんで、自分がカネ出して切符を買うわけでもないのに、「困ったねえ、お婆ちゃん、早く返事してくれはったらええのにねえ~え」などと子供を馬鹿にするようなことを言うのか、と思うが、そういう男だったのだ、あの男は。

【3】大谷本廟
(1)「京都ちゅう所は食べもん屋のない街やね~ん」
   さらに、【1】が私が小学校1年の時、【2】が小学校2年の時のことだが、あのおっさんは、「毎年、なんかやっとる」て感じなのだが、私が小学校3年の時のことだったように思うのだが、京都の東山の大谷本廟(西大谷)に行った時のことである。浄土真宗はいくつかの派に別れているが、京都には、西本願寺と東本願寺の2つの本願寺があり、大谷本廟と大谷祖廟があるのだが、ところが、浄土真宗には、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派なんてのがあって、本願寺派とか大谷派とか言われても、どっちも本願寺やし、どっちにも大谷があるわけで、どっちが本願寺派でどっちが大谷派なのかわかりにくいことこの上ない。もうちょっと他の名前のつけかたできんもんか・・と思うのだが、要するに、西本願寺と言われている寺は正式名称は「浄土真宗本願寺派本山本願寺」と言い、その飛び地として存在する「親鸞の墓所」が大谷本廟で俗称が「西大谷」、一般に東本願寺と言われている寺は正式名称は「真宗大谷派真宗本廟」と言い、その飛び地として存在する「親鸞の墓所」が大谷祖廟で俗称が「東大谷」で、西本願寺と東本願寺は、西側にあるのが西本願寺で東側にあるのが東本願寺だが、西大谷と東大谷はどっちが西にあるか東にあるかではなく、西本願寺の大谷が西大谷で、東本願寺の大谷が東大谷らしいのだ。大阪には、南御堂(難波御堂、難波別院)と北御堂(津村御堂、津村別院)が南北にあるのだが、これは、南本願寺の御堂と北本願寺の御堂ではなく、南にあるのが南御堂で北にあるのが北御堂。 それで、
本願寺派・・浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)-大谷本廟(西大谷)-北御堂(津村別院)-築地本願寺(築地別院)
大谷派・・・真宗本山真宗本廟(東本願寺)-大谷祖廟(東大谷)-南御堂(難波別院)
となるようだ。 それで、大谷本廟(西大谷)に何しに言ったかというと、我が家は父が同志社に「推薦入学」させてもらうためにキリスト教に改宗したようなのだが、それまでは父の家系は浄土真宗本願寺派で、父の父(祖父)のお骨は大谷本廟(西大谷)の納骨堂にお世話になっていたのだ。それで、西大谷に参拝したのだった。
  大谷本廟(西大谷)というのは、納骨堂を言うものだと私は子供の頃は思っていたのだが、納骨堂はあるけれども、大谷本廟は納骨堂というわけではなく、「親鸞の墓所」という位置づけで、少し北に、親鸞の遺体を火葬したお荼毘所もあり、大谷本廟は庭がきれいで、建物も独創的なものがある。清水寺のすぐ南にあり、京阪本線「清水五条」駅から東に直進した突き当りでわかりやすい場所である。かつては、西本願寺に行く人はいっぱいいても、大谷本廟には身内のお骨を納骨堂でお世話になっているとかでない人はあまり行かなかったが、最近は、コロナウイルスが問題になる前までは、白人の観光客と思われる人などを大谷本廟の境内で見ることもあった。清水寺のすぐ南で、京阪本線「清水五条」駅から東に直進した突き当りで、少し南には三十三間堂や「国家安康」「君臣豊楽」の鐘で有名な方広寺があり、清水寺のさらに北には高台寺があり、高台寺の西には建仁寺があり、高台寺の北には円山公園や八坂神社、さらに北には知恩院がある、という場所である。
  さて、その帰りだが、昼食をとろうということになったのだが、父は「京都ちゅうところは、食堂の無い街なんや、ほんま。『大阪の食い倒れ、京都の着倒れ』と言うて、大阪は食べ物屋がある街やけど、京都は着物屋はあっても食べ物屋はない街なんや。わしは京都の同志社に行っておったからよう知っとるんや」と言うのだった。・・読んでくださっている方には、すでに、お気づきの方もあるかもしれない。私が小学校1年の夏休み、小豆島に行った時、小豆島から大阪の弁天埠頭に帰る船の中で、船の売店がしまっていたということから、「売店でジュースこうたる」⇒「弁天埠頭に着いたらこうたる」⇒「弁天町の駅でこうたる」⇒「弁天町の駅のプラットホームでこうたる」⇒「天王寺の駅でこうたる」⇒「南田辺の駅でこうたる」⇒「もうすぐ、家です。もうすぐ、家!!!」と、結局、家まで買ってもらえず、喉がかわいてぶっ倒れそうな状態で家まで我慢させられた、ということがあったのだが、同じ人間のやることというのは、そう変わらないものだ。
  父は、「食べ物屋ないなあ。食べ物屋ないなあ」と言いながら、結局、京都駅まで歩いて行ったのだ。たしか、大谷本廟の帰り、どこか、寄ってみようということで、方広寺に立ち寄ったように思うのだが、方広寺までは歩いたのはいいとして、そこから、「食べ物屋ないなあ。食べ物屋ないなあ」と父と母と私と3人で言いながら、一生懸命、私は食べ物屋を捜しながら、国鉄、現在のJRの京都駅まで歩いたのだった。
  さすがに、京都駅まで行ったら、京都駅のあたりには食べ物屋の1軒くらいありそうに思いませんか? ところが、京都駅まで行くと、「ここまで来たら、大阪まで行ってからにした方がええ」と父は言うのだった。ほら、似てますでしょ。小豆島からのフェリー⇒弁天埠頭⇒弁天町駅⇒弁天町駅のプラットホーム⇒天王寺駅⇒南田辺駅⇒「もうすぐ、家です、もうすぐ家!!!」というのと。
  そして、京都駅から国鉄の快速にのって大阪駅まで行きました。大阪駅というと、阪急・阪神・地下鉄御堂筋線の駅名だと梅田駅です。梅田のあたりに食べ物屋がないはずないと思いませんか? それに、梅田は京都ではなく大阪ですし。 ところが、いったん、京都に行くと、大阪に帰ってきても、な~かなか食べ物屋はないのです。大阪で心斎橋の大丸に寄って帰る予定になっていたのですが、大阪駅につくと、父は「心斎橋まで行って食べた方がええ」と言うのでした。それで、小学校3年の時だったと思うのですが、小学生は空腹をかかえて苦しみながら、心斎橋まで地下鉄御堂筋線で行ったのです。心斎橋の駅の前には大丸とそごうがあります(今は、そごうはなくなり、大丸の店舗になったようですが)。大丸・そごうには食堂がありますから、「食べ物屋がない」はずないのです。
  ところが、父は「百貨店の食堂みたいなもん、しゃあない」と言うのです。それで、食堂を捜して、心斎橋筋を空腹を抱えながら歩きました。小学校3年だったと思うのですが、私は必死です。すでに、午後3時を過ぎ、4時近くなっていたのではないでしょうか。心斎橋筋を歩きながら、「あ、そこに食堂がある」と私が見つけて父に言うと、父は「あかん。あんな店、あかん!」と言って否定するのです。子供が空腹を抱えているのに、なんで、そこまで、店を厳選しないといけないのか? 私が父親ならば、特別の店でなくてもいいから、ともかく、子供が食べられるような店に入るところですが、そのあたりが、《「英雄」「ドイツ人」「聖徳太子」のお父さん》は「並のお父さん」とは思考が違うようでした。必死で食べ物屋を捜して、「あ、そこにある!」と私が言っても言っても、父は「あかん! そんな店」と言うのでした。
  そして、結局、心斎橋筋にあった不二家に入って食事をしたのでしたが、もう、午後4時近くなっていたように思います。なんで、小学生を連れて、そんなことをするのか? ・・・答えは、父がお腹がすいていなかったから・・・でしょう。おそらく、そんなところでしょう。そういうおっさんやった。
  普通に考えて、京都というのは観光地ですから、食べ物屋がないわけないのです。今は、大谷本廟の中にも食堂はありますし、北側は清水寺ですから、清水寺に来た人向けの食堂がないわけないのです。大谷本廟の帰りに方広寺に寄ったのはその時だったか他の時だったか記憶がはっきりしないのですが、方広寺は今ではそれほど大きな寺という感じではありませんが、すぐ南には三十三間堂があり、京都国立博物館もある場所であり、「食べ物屋がない」というのはおかしいのです。又、それならそれで、さっさと京都駅までバスででもタクシーででも行くか、阪急の四条河原町か京阪の五条(現、清水五条)か七条駅か、駅の付近にでも行けば食べ物屋はありそうなものです。ところが、父は「食べ物屋ないなあ。食べ物屋ないなあ」と言って、空腹を抱えて苦しむ小学生を歩かせて、方広寺付近から京都駅まで歩かせたのです。 そして、京都駅という国鉄(現 JR)の京都の代表的な駅付近なら食べ物屋の1軒くらいあっていいはずで、見つからなければ駅員にでも尋ねれば良さそうなものですが、それを、「ここまで来たら、大阪まで行ってからにするべきや」と言って、国鉄の快速で大阪駅まで行き、そして、大阪駅に着くと今度は、「心斎橋まで行ってから」と言い、心斎橋駅につくと、「百貨店の食堂なんてあかん!」と言って心斎橋筋を歩き、心斎橋筋で食堂を私が見つけても、「あんな店、あかん!」「あんな店、あかん!」と言って否定して、午後4時くらいまで、空腹の小学生を我慢させたのでした。
  1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)が「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と言って、「父親がいなかった」という自分は父親がいた私よりもエライ! という主張をしたのでしたが、父親がいなければ、こういう経験をさせられることはなかったと思います。母と2人でどこかに行った時には、母は、食事時間をとうに過ぎているのに、「あんな店、あかん!」「あんな店、あかん!」と言って子供に食べさせないということはなかった。それなら、その時は、母も一緒にいたのですから、下の姉が一緒にいた小豆島からの帰りに、下の姉は父に「子供は喉がかわいたのを我慢させるのはかわいそうだから、水道の水でもいいから飲ませてあげて」と言ってくれれば良さそうなものだったが言わなかったのと同様に、母もまた、父に「もう、食事時間を相当過ぎているから、大人はよくても子供はつらいから何でもいいから食べさせてあげよう」と夫婦なら言ってよさそうに思えるのですが、母は「夫に逆らえない女」でしたので、父が「あんな店、あかん!」と言って食べさせないようにすると、そういう時は必ず、父に服従するのでした。後に、姉に「言ってくれれがいいのに」と言うと、姉は「そんなもん、お父さんに逆らったら殴られるもの、言えるわけないでしょう」と言うのだったが、母もそうだったのかもしれない。
  北野高校の教諭だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」とその分だけ自分はエライのだと主張するのでしたが、「両親が離婚した」というのは、それは何か自慢することなのかあ??? 違うと思うぞ。 結婚というものは、基本的には、この人と、一生、一緒にやっていこうということでするものだが、それでも、一緒にやっていくのは無理だということで離婚する人もあるわけで、その人にはその人で事情があったのだろうから、「しかたがない」ことかもしれないが、しかし、「しかたがない」かもしれないが、「自慢すること」とは違うと思うぞお。旧姓作野礼子はまがりなりにも北野高校という高校を卒業した人間なら、そのくらいはわかっていていいのではないか、と思ったのだが、わからない女だった。わかってたまるか、という女だった。我が家は、両親は離婚していなかったが、しかし、夫婦ならば、そのくらい言えていいのではないかと思われるようなことを言えない夫婦だった。「家庭内離婚」みたいな夫婦と見てもよかったかもしれない。両親がそういう状態の夫婦とはっきりと離婚した親とでは、どっちがいいか・・といっても、それぞれの家庭はそれぞれ異なるのだから、どっちがいいとか悪いとかいちがいに言えるものではないと思うが、旧制作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と言いまくって、その分だけ自分は苦労してきたエライ人間で、「作野さんは両親が離婚されただけあって、苦労されてきたから、しっかりしておられるわあ」と誰もからほめてもらう権利があると考えていた女だった・・・が、そんな「権利」なんてあるのか? ・・というと、そんな「権利」なんてないと思うぞ。 くっだらねえ女だなあ~あ・・と思う。 「父親がいなかった」のなら、小豆島から弁天埠頭に向かう船⇒弁天埠頭⇒弁天町駅⇒弁天町駅のプラットホーム⇒天王寺駅⇒南田辺駅⇒「もうすぐ、家、もうすぐ、家!」と渇きにあげき苦しむ経験も、京都 方広寺付近⇒京都駅⇒大阪駅・梅田駅⇒心斎橋駅⇒心斎橋筋の店⇒心斎橋筋の不二家 と空腹を抱えて我慢させられる経験もすることはなかったはずだ。旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と言えば、誰もが「作野さんはえらいわあ~あ」とほめるものだ、ほめないといけないものだ、という確信みたいなものを持っている女だったか、なんか、物事の考え方を間違えているように思う。

(2)「あんた、何に乗りたい?」「は~んきゅう~う?」「け~いは~ん?」
   そして、その際だが、方広寺付近でだったと思うのだが、「ここから大阪までどうやって帰ろう」と母が言ったと思うのだが、父は私に「あんた、大阪まで、何に乗りたい?」ときくのだった。 私は「何でもええ」と答えた。実際、電車に乗りに行ったのではないので、何がいいのかなんてわからないから、「何でもええ」のだった。
   ところが、父は「『何でもええ』ではいかん。何に乗りたいか乗りたいものを言いなさい」と言うので、しかたなしに、それまでに大阪から京都に行く際に乗ったことがある阪急と京阪では阪急の特急の方が乗り心地が良かったように思ったので、それで、「阪急」と答えたのだったが、ところが、父は「は~んきゅう~う? 阪急やなんて、ここからでは逆方向やがなあ。は~んきゅう~う?」と言うのだった。そして、「阪急以外で何に乗りたいか、言いなさい」と言うのだった。それで、阪急以外に大阪から京都までの間は京阪の特急に乗ったことがあったので、「京阪」と答えたのだった。ところが、父はまたもや、「け~いはあ~ん? 京阪やなんて、あんた、それでは、ここからでは、遠いがなあ。京阪やなんて、困ったこと言うなあ」と言うので、「だから、何でもいい」と言ったのだ。「何に乗りたいか言わんといかん」と言うから、しかたなしに「阪急」と言うと、「はあ~んきゅう~う?」と言われ、「阪急以外で」と言うからしかたなしに「そしたら、京阪」と言うとまたもや、「け~いはあ~ん? 京阪やなんて・・」と父が言うので、いったい、どないしたらええねん! と思ったものだ。
   そして、父は「阪急か京阪以外で何に乗りたいのか言いなさい」と言うので、「それなら、何だったらいいの?」と私が言ったところ、父は「ここなら、国鉄や」と言うので、「それなら、国鉄」と答えたところ、父は「よっしゃ。そしたら、あんたが国鉄に乗りたいというから国鉄に乗せてやろ」と言い、国鉄の快速に京都駅から大阪駅まで乗って大阪に帰ったのだった。 結局、父は最初から、京都のその場所から大阪に帰るのなら国鉄の駅が近いと考えていて、国鉄に乗って帰るつもりでいたが、それを私に「国鉄に乗りたい」と言わせることで、それで、「あんたが国鉄に乗りたいと言うものやから、そやから、あんたに国鉄に乗せてやってやってやってやったってんで」ということにするために、「あんた、何に乗りたいのか言いなさい」と言って、無理矢理、言わせたのだった。なんか、ちっぽけな野郎だなあ! という感じがする。うちの父親はそういうおっさんやった、そういうおっさん。 今週の末の日曜日はそういうおっさんの日である。

【4】広島・宮島
(1)子供の行きたい所に連れていってやってやったったということにして自分が行きたい所に行く男。
  振り返ってみると、あのおっさんは、毎年、何かやっとった・・ということを実感する。私が小学校4年の時のことだった。小学校4年の6月に転居して、小学校も転校したのだが、転居する少し前、母が「夏休みに家族でどこかに行ったらどうやろか」と言い出したのだ。父は私に、「あんた、どこに行きたい?」ときくので、小学校4年生はよくわからないので、その時、小学校の「国語」の教科書に、「思い出深かった広島」という「小学生が書いた紀行文」ということで掲載されていた文章を読んだ後だったので、「広島」と言ったのだ。
  うちの父親はそれを聞いて、「ひ~ろ~しまあ~あ? 広島みたいなもん、何もあらへんがな、広島みたいなもん」と言うのだった。そういう男だった。うちの父親の頭には「見るとこ」というものが、あらかじめ、何か所かインプットされていて、「旅行」というとそういう所にピンポイントで行って帰ってくるものという認識・思想を持っていた。「何もあらへん」といっても、「観光地」とされているものがあるかどうかの問題であり、その街のあり方というものを見るには、特に「史跡」とか「重要文化財」とかに指定されたものがなければ「何もあらへん」というものでもない。商業学・マーケティング的発想で見るならば、街づくりに成功している市町村とそうでない市町村というものもあるだろうし、そういうものを見るのも見聞を広める行為ではないかと思うのだが、うちのおっさんにはそういう発想はないようだった。
  そして、広島って、なんで、「何もあらへん」のかもよくわからない。「国語」の教科書に掲載されていたのは、宮島の厳島神社と広島の平和祈念館・平和公園・原爆ドームだったのだが、その付近で誰しも思い浮かぶものとしては、岩国の錦帯橋。岩国は都道府県としては山口県になるが、広島県の西よりの宮島より少し西の位置になる。呉は軍港だったというが、どんな街なのだろう、ということも私は思ったし、三原から呉を通って広島までの呉線に乗ってみたい、呉線からの瀬戸内海の車窓を見てみたいという気持もあった。さらに、その頃、本州と四国の間には橋はなく、岡山県の宇野と香川県の高松の間に宇高連絡船があるとともに、もう1か所、広島県の仁方から愛媛県の堀江までの仁堀連絡船というものがでていたのだが、仁堀航路が出ていた仁方てどんな所なのだろう・・なんて思ったし、仁堀航路にも乗ってみたいとも思った。県庁所在地には城下町がなった場合が多く、広島にも広島城がある。広島の北には三段峡という渓谷がある。「何もあらへん」ということはないはずだ。宮島に行くとともに、宮島に渡る宮島口という所も歩いてみたいと思ったのだが、「宮島口なんてそれこそ何もあらへん」と父は言うのだったが、それは間違いだと思う。宮島というのは聖なる島という扱いであり、福岡県の沖ノ島は聖なる島であって神職といえども無暗に上陸してはならないことになっていたはずだが、宮島の場合は聖なる島という位置づけであっても宮島に人は上陸していいし、女人禁制なんてものもないし、宮島にホテルもあるようだが(もみじ饅頭も売ってたと思うし)、それでも、聖なる島であり、宮島というのは対岸から拝むべきものなのか、上陸して厳島神社に行くべきものなのか、厳島神社の鳥居が海の中にあるということは、海から厳島神社に行くということを考えて作られたものではないのか。そういったことを考えると、上陸する前に、対岸から見てそのあたりを考えてみるべきではないのか、とも思うのだ。
  「ひ~ろ~し~まあ~あ? 広島みたいなもん、何もあらへん」と父は言ったが、結局、父と私と2人で広島に1泊2日で行くことになった・・が、父は「宿泊は湯田温泉」と言って、1日目は宮島に行くと、宮島口に戻って、また、特急に乗って防府まで行き、山口市の湯田温泉まで行って宿泊して、2日目に、湯田温泉から広島に行って広島の平和公園・平和祈念館に行って広島から特急に乗って帰ると言うので、それで、私は「なんで、広島に行くのに山口市の湯田温泉に泊まらないといけないの?」と言ったのだ。そう思いませんか? 父は「そんなこと言うても、湯田温泉しか泊まるとこあらへん」と言うのだった。私は、地図を見て、「泊まるとこ」が広島・宮島から遠くない場所にないか見たのだが、「◇◇温泉」と名前のついた所でないといけないということならば、広島県では、湯来温泉というものが広島の北方にある。それで、私は「湯来温泉じゃだめなの?」と言ったのだが、父は「そんなもん、あかん」と言って山口市の湯田温泉にまで行って泊まることになった。
  何が何でも温泉地で泊まらないといけないということはないと思うのだ。広島市は広島県の県庁所在地であり、ビジネスホテルもないということは考えにくい。宮島の西には岩国市があり、最近、「平成の大合併」で全国の市が周囲の市町村を併合して「え? そんな所まで」という感じで市域が拡がり、無茶苦茶広い市になり各県内の人口順位も変わったが、その頃、山口県では、人口が一番多いのは県庁所在地の山口市ではなく、順番は忘れてしまったが、岩国・徳山・下関の3市は県庁所在地の山口市より人口が多い市だった。県庁所在地とか「県庁所在地より人口が多い市」であればビジネスホテルの1軒くらいないとおかしい。何より、宮島にもホテルもあるし、国民宿舎もあったように思うのだ。ひとつには、うちの父親というのは、母が言った用語によると「貧乏人のぼんぼん」であり、特別金持ちでもないのに「ぼんぼん」みたいなところがあって、私が慶應大学に在学中も、日吉に来て食事をしようと日吉の街で、「そこ、入ろう」と言うと、「やめとこうや、あんなとこ」と言って、《「普通の大衆食堂」だと入れない人》だったが、そういうおっさんだったので、旅行して宿泊するにしても、「泊まるとこ」ではなく「あのおっさんが泊まれる所」というとかなり限定された、ということだったのかもしれない。国民宿舎というのも、たぶん、あのおっさんは泊まれないのではないかと思う。たぶん、「わしみたいなエッライえっらいエッライえっらい人間がそんなとこ、泊まれるかあ」とか言うのではないかと思うが、「えっらいエッライえっらいエッライ人間」とかいうのは、何かと便利が悪いもんだと思う。山谷か釜ヶ崎のドヤ街とかいうなら、私でもちょっと考えるが、それこそ、内田康夫の浅見光彦シリーズで浅見光彦がよく宿泊している「安めのビジネスホテル」というそのくらいが私なんかは一番居心地がいいのだが、ところが、「えっらいエッライえっらいエッライ」とかいうおっさんは、「そんなとこ、泊まれるかあ」という発想になるようで、今、思うと、たしかにあのおっさんは「慶應タイプ」だったなあと思う。慶應の内部進学の学校に行っておけばちょうど似合いだったのではないかと思う。私が慶應大学に在学中も「関西慶應高校を作ろうではないか」とかいう話が出ては関西出身者は誰もが「そんなもん、作っていったい誰が行くねん」と言っていたものだったが、高校だけなら、関西人にとっては魅力がないが、小学校から高校まで、関西慶應幼稚舎・関西慶應中等部・関西慶應義塾高校と作れば、きっと、社長の息子とか医者屋の息子とかパチンコ屋の息子とか清原の息子とかが行って、関西慶應高校から慶應大学に行って(私のような大学だけ行った「にせもの」とは違って)「塾風を身につけた本物の慶大生」になるだろう。関西慶應幼稚舎があれば、父もそこに行けば「いかにも慶應」の人間になって良かったのではないかと思うのだが、残念ながら関西慶應幼稚舎はなかったので行けなかったようだ。
  しかし、それにしても、広島・宮島に行くのに、わざわざ、山口県の中央部の山口市の湯田温泉まで行って泊まるというのは理解に苦しむ。湯田温泉にあのおっさんのゆかりのある女でもおったんかい? というと、そういうことでもないと思うのだ。私と一緒に風呂に入って食事して寝ただけのことで、私が寝てからこっそりどこかに出かけたとかそんなことはしていないはずだ。
  2日目、湯田温泉から秋吉台に行き、秋芳洞と秋吉台を見学し、大急ぎで防府までバスで行って、防府から特急で広島に行き、広島の平和公園と平和祈念館を見学し、平和公園の向かいにある原爆ドームを見て広島駅に大急ぎで行って帰ったのだが、広島・宮島に行くのに山口市にまで行って泊まると、なんともあわただしい、強行軍で落ち着かない移動だった。
  なんで、広島・宮島に行くのに山口市の湯田温泉に泊まらないといけないのか? 逆に、湯田温泉に泊まるのなら、山口市というと、ザビエル記念聖堂やザビエル公園があり、中原中也の生家も湯田温泉にあったはずで、中原中也の詩にもある長門峡は山口市の北にある。湯田温泉に泊まるのなら、広島・宮島に行くのではなく、湯田温泉に泊まって秋芳洞と秋吉台に行きたかったのなら、秋芳洞・秋吉台の他にザビエル公園とか、中原中也なんてのはあのおっさんは知らんだろうし、中原中也の詩を理解するような感性なんてのは「慶應タイプ」が持っているわけないとして、長門峡もあるし、津和野なんてのも山口まで行けば遠くないはずだし、防府駅で山陽本線の特急を降りてバスで山口市の湯田温泉まで行くのなら、防府には防府天満宮なんてのもある。広島・宮島に行くのなら湯田温泉に泊まって秋芳洞・秋吉台に行く必要はないし、湯田温泉に泊まって秋芳洞・秋吉台に行くのなら広島・宮島に行くのではなく、山口市に近い場所に他に行く所はあったのではないかと思うのだ。
  それを、なんで、1日目は宮島に大急ぎで行って、「それ行けえ。時間ない、時間ない~い。てってけてってけてってけてってけ」と速足で歩きまわって、宮島口から特急にのり、2日目はバスで秋吉台・秋芳洞に行くと、防府から特急で広島に行って、広島の平和祈念館と平和公園に大急ぎで行って、またもや、大急ぎで帰る・・というそういうもったいないことをしないといけないのか、と思ったのだが、結論として、あのおっさんは、「湯田温泉に泊まって秋芳洞・秋吉台に行く」ということをしたかったのだと思う。しかし、自分が行きたい所に行くということを主張することができない男だったので、それで、私に「あんたが広島に行きたい言うもんやから、そんで、広島に連れていってやってやってやってやったってんで」ということにして、「湯田温泉に泊まって秋芳洞・秋吉台に行く」ということを実行したようだった。なんで、そんなことするかなあ~あ・・・と思うのだが、そういうおっさんだった。あの性格はそう簡単には変わらないようだ。「貧乏人のぼんぼん」というのか「慶應に行ってない慶應タイプ」というのかのおっさんだった。関西慶應幼稚舎がなかったというのが、あのおっさんにとっては気の毒だったのではないかと思う。もし、東京に住んでいたならば、慶應幼稚舎⇒慶應中等部⇒慶應義塾高校⇒慶應大学経済学部 と進んで、「いかにも慶應」「本物の慶應」「サラブレッド的慶應」になることができたのではないか、と思う。そういう「本物の慶應」が好きな人というのも、世の中にはそういう気色悪いのが好きという「物好き」もいるわけだから、そういう「ギャルにもてもて」になったかもしれないし、「慶應心理学」から「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか称賛する「診断」をしてもらえたことだろうが残念ながら関西には関西慶應幼稚舎はなかった。父は大阪教育大の付属小学校に行ったらしかったが、大阪教育大付属小学校というのは、小学校から中学校には内部進学で行けるが、今は高校はあって中学校から高校も内部進学で行けるらしいが、慶應幼稚舎・慶應中等部・慶應義塾高校というのは慶應大学に進学する前提の高校であるのに対して、大阪教育大の付属の小学校・中学校と父が行った頃はなかったが今はある高校は大阪教育大の先生が教育学の研究をするためのモルモットの生徒を用意するための学校であって大阪教育大に進学するための学校ではなく、高校と大学の間は切れているので、大阪教育大の小学校・中学校に行っても大阪教育大に進学できるというものではなく、神戸大教育学部の付属の小学校というのも、あれも、神戸大教育学部の先生が教育学を研究するためのモルモットの生徒を用意した学校であって神戸大教育学部付属小学校に行けば神戸大に内部進学で行けるわけではないのであり、そういう付属ではなく、小学校から大学まで内部進学で行ける慶應幼稚舎みたいな所に行っておけば、そうすれば、「本物の慶應」になれて「わしは特別に特別にえらい人間やねんぞお。おまえとは民族が違うねんぞ、民族が。おまえとは階級が違うねんぞ、階級が。民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と言いまくって慶應内部進学の教授みたいな人間になることができたのではないかと思う。そういうのが、すばらしいと言う人と気色悪いと言う人があるけれども・・・。

(2) なぜ「国語」の教科書に「思い出深かった””広島””」が掲載されていたか、なぜ地方都市で広島にだけプロ野球チームがあるのか、なぜ「いくぜ、福島」なんてポスターがJRの駅に貼られているのか・・を考える思考がある人間とない人間。
 「国語」の教科書に掲載されていた「思い出深かった広島」という文章は、「小学生が書いた紀行文」だということで掲載されていたが、実際は小学生が書いたものではないと思う。そして、なぜ、広島なのか? 「思い出深かった◇◇」という紀行文なら、日本には「思い出深い」ような場所はいくらでもあるのに、なぜ、広島なのか? 
  それは、日本のプロ野球のチームは、私が小学生だった1960年代前半においては、東京(および川崎)に5チーム、名古屋に1チーム、大阪(および西宮)に4チーム、福岡に1チームと広島に広島カープが1チームあったのだが、東京圏5チーム・関西圏4チーム・中京圏1チームと福岡に1チームはわかるとして、なぜ、もう1チームはなぜ広島なのか? と共通している。 もしくは、東日本大震災と福島第一原発の後、JRの駅に行くと「行くぜ、東北」とか書かれたポスターがしばしば貼られていて、東北、特に福島県に観光旅行に行きましょうというキャンペーンが展開されたが、それと同じ傾向のものでしょう。
  広島に行く前、「思い出深かった広島」という「国語」の教科書に掲載されていた平和祈念館や原爆ドームの記述を読んで、かつて、広島で大変なことがあったんだなあ~あと思い、ぜひ、一度、見学に行きたいと思ったものだったが、その時点では、戦後25年弱であり、もう、放射能汚染の影響はなくなったものだと思って過去の惨事について学ぶつもりで行ったのだった・・・が、ところが、広島の平和祈念館の展示と説明書きを見ると、放射能汚染の影響は数十年は続くと考えられたと書かれていて、「その後、50年は草1本生えないであろうと言われた」が実際は草は生えていたのだけれども、ともかく、小学校4年の時の私が広島を訪問した時、まだ、原爆投下から25年経っていなかったのであり、放射能汚染の影響は投下直後よりは減少していたとはいえ、なくなったわけではなかったのだ。だから、原爆が投下された広島や長崎の方は気の毒だったとは思うが、しかし、そこに住んでいる人は転居も簡単ではないかもしれないからそこに住むのはしかたがないとしても、まだ放射能汚染の影響が残っている地域には、まだ放射能汚染の影響が残っていると思われる時期には、大人はともかく、そこに住んでいるわけでもない子供は行かない方が良かったはずなのだ。「行くぜ、東北」はまだしも、「行くぜ、福島」とかいうポスターは、放射能汚染の被害を受けた地域に国民に行かせてやろうというキャンペーンであるのは明らかである。広島カープの「育成の広島」という姿勢は「カネにあかせてよその主力選手を強奪し、審判まで抱き込んで優勝しようとするズルイ巨人・悪い巨人・卑劣な巨人」と逆で好感を持つのだけれども、「野球が好きな人が多い」ということなら、広島だけではなく他にも「野球が好きな人が多い」都市はあったはずで、それが、なぜ、地方都市で広島市にだけプロ野球チームができたのかというと、小学生の時に読んだ長嶋茂雄監修『プロ野球入門』(秋田書店)には「原爆の街に球団を」ということで、広島カープはできた・・と書かれていたのだ。原爆の被害にあった街の人たちに協力しようということなら悪いことではないのだが、まだ、放射能汚染の影響はなくなったわけではない地域に、そうではない地域の人間を行かそうとするキャンペーンというのは、そういうものにうかつに乗せられてたまるか! と私なら思う。 福島県は私自身が5年間、住んだ所であり、福島第一原発事故は大変悲しいのだけれども、もし、放射能汚染の影響が本当になくなったのならいいけれども、実際はそう簡単になくなるものではないはずであり、そこに住んでいるわけでもない人間に、無責任に、放射能汚染の影響が残る地域に行かそうとするキャンペーンというものには、そんな操作に簡単に乗せられてたまるか! と思う。 私が小学生の時に広島に行った時からすでに50年ほど経ち、今では、広島は原爆投下から約75年であり、福島第一原発事故の影響に比べれば、広島原爆の影響はずっと小さいようだけれども、1960年代後半においては、「国語」の教科書にあえて「思い出深かった広島」という「小学生が書いた紀行文」だということで大人が書いた文章を掲載することで、小学生に広島に行かせてやろうという操作には、私が父親なら、そういうものには乗せられたくないと考えた。大人が仕事で行くのはしかがないが、仕事でもないのに子供を連れていくのは不適切だと私なら判断したし、「どこに行きたい?」ときいて、子供が「広島」と答えた時に、そのあたりをきっちりと説明して教えたと思う。うちの父親はそういう判断ができない男だったのだ。なにしろ、「コスイやつやからコスイぎ~ん!」とか家で叫んでいるおっさん、「共産党は死刑にしろお! 日教組は刑務所に叩きこめえ! 朝日新聞の記者は全員、刑務所に入れてしまえ!」とか家で毎日のように叫んでいるおっさんで、「原発に反対とか言うやつは甘ったれとるからそんなこと言いよるんじゃ。刑務所に入れたったらええ、刑務所に」とか叫んでいるおっさんだったから、だから、原爆投下による放射能汚染がまだなくなったわけではない地域に子供を行かせてやろうというキャンペーンの一環として小学校の「国語」の教科書に掲載された「思い出深かった広島」という文章のカラクリも理解する姿勢はなかった、ということだろう。「わしは、『普通のお父さん』やのうて『えっらいエッライえっらいエッライ、特別に特別にえらいお父さん』やね~ん」と言うおっさんは、そういうおっさんやった。体制側・権力側に都合がいい言動をとると、「えっらいエッライえっらいエッライ」とか、もしくは、「自我が確立されている」とか「アイデンティティーをもっている」とか「思考が柔軟」とか「社会性に優れている」とかなんとかほめてくれる人が出てくる場合がけっこうあるのだが、「えっらいエッライえっらいエッライ特別にえらいお父さん」とかいうのも、その類の人間がおだててくれた文句だったのかもしれない。そういうおだてに簡単に乗る男のことを「心理学」では「自我が確立されている」と言い、「え? それって違うのではないか?」「逆てことないのか?」と思う人間は「自我が確立されていない」とか「アイデンティティーを持っていない」とか「未成熟」とか「モラトリアム人間病にかかっている」とかなんとかかんとかシンドロームとかなんじゃもんじゃ症候群とか「心理学」から「診断」されることになる。

(3) 父親があるからさせられる「ちゃっちゃっちゃ」
  1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」とそれを最大の自慢にして言いまくっていて、「父親がいなかった」自分に対して、父親がいた人間は常に恵まれていて常に得していて常にいい思いばっかりしてきたはずだと言いたかったようだが、父親というのはいる方が常にいいとは限らない。
  広島の平和祈念館に行った時だが、父は私にカメラを向けて、「おい、そこで、ちゃちゃっちゃとポーズとってみい」と言うので、嫌だったのだが、父が執拗に要求するので、しかたなしに、ちゃっちゃっちゃというポーズをとると父はその写真を撮って喜んでいたのだが、平和祈念公園というのは、ちゃっちゃっちゃする場所ではないと思うのだ。 そういう場所で、そういうポーズを取らされるというのは嫌だった。
  北野高校の教諭だった旧姓作野礼子みたいな「両親が離婚した」「父親がいなかった」娘というのは、そんな経験ないと思うのだ。父親があったから、そういう嫌な経験もさせられたのであり、旧制作野礼子は「父親のない娘」であったから、それが理解できないようだった。もっとも、父親がない人、両親が離婚したからない人であるか、死別した人であるか、どちらの場合でも、「父親のない娘」が誰もが、旧制作野礼子みたいに、父親がある人間は誰もが常に恵まれていて常に得していて常にいい思いばっかりしているとか、そんなことを思っているかというとそうではないと思うのだ。旧姓作野礼子は私に「あなたはブンケーよ」と何度も何度も言いまくって、「ブンケー」(経済学部もしくは商学部・経営学部のこと)だけは首をもがれても行かされたくないと思っていた私を、無理矢理、「ブンケー」(経済学部もしくは商学部・経営学部)に行かせて、親に喜ばれようと画策したのだったが、黙って言われてばかりいることはない、こっちだって旧姓作野礼子に言ってやっていいはずだ。旧姓作野礼子こそ「文学部には向いていない」し「高校の教諭には適性がない」と判断されるべき人間である。 花登筺『銭の花』(講談社)をもとにしたテレビドラマ『細腕繁盛記』(関西の読売テレビ・東京の日本テレビ)で、加代が小さい頃、大阪のミナミ、宗右衛門町で「南地楼」という高級料亭を一代で築いた祖母のゆうが、団扇(うちわ)をしみじみと眺めているのを加代が見て、「お婆ちゃん、何してんの」ときくと、ゆう が「いやあ。『団扇(うちわ)を見れば骨がある』いうのはほんまやなあ、思うてなあ」と語り、加代が「そんなん、当たり前やんか」と言ったのに対し、ゆう が「加代ちゃん、ええか。どこの家でもなあ。外から見たらええように見えても、うちわ(内輪)に入って見ると、骨があるもんなんやで」と語るという場面があった・・のだが、北野高校の教諭だった旧姓作野礼子の母親というのは、自分と自分の娘だけが苦労した人間で「苦労したからエライ人間」だと心の底から信じており、よその家には「骨がある」ということを理解できない人間だったようだ。旧姓作野礼子という女は北野高校という高校を出ても、「(どこの家でも)内輪を見れば骨がある」ということも理解できない、「自分だけが『苦労してきたエライ人間』で、誰もから常に『えらい、エライ、えらい、エライ』とほめてもらう権利がある。両親が離婚していない人間は誰もが『作野さんは両親が離婚されただけあって苦労してきてられるからしっかりしてられてえらいわあ』とほめる義務がある」と考えている人間、そういう精神的に成熟しているとは言い難い人間、結論を言うと「勝手なやつ」だったようだ。

(4)「あんた、これ、欲しないかあ」
  そして、国鉄、現在のJRの広島駅から特急に乗ったのだが、特急「みどり」だったと思うが、広島駅のプラットホームの売店で、父は「週刊文春」で「太平洋戦争時の日本海軍の軍艦配備図」というのが特集として掲載されていたものを、「あんた、これ、見たないかあ」と私に言ったのだった。そういうのを掲載するあたりが、「週刊文春」および「文芸春秋」というのは、《「真ん中よりちょっと右」という位置を常にとっている雑誌》という特色を示している。「真ん中よりちょっと右」という、あくまでも「ちょっと」というのがミソで、そのあたりの客層がいるわけで、そのあたりの客層に購読してもらうことを考えて作られている雑誌である。おっさんは、その「真ん中よりちょっと右」雑誌が掲載する「太平洋戦争時の日本海軍の軍艦の配備図」を見たいと考えたのだった。
  しかし、それなら、それで、私に「あんた、これ見たないかあ」などと言うのではなく、自分が見たいのだから、「週刊文春」くらい、自分でさっさと買って読めばいい・・と思いませんか?  ところが、そういうものを買うのに、いちいち、子供に「あんた、これ、見たないかあ」と言って「見たい」と言わせて、「あんたが見たいと言うもんやから、あんたのために、こうてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやったってんで。感謝せえよお」と言わないとおれない、というそういうおっさんやった。・・ちっぽけな野郎だなあ! という感じがする。
  この類のことを、何度もやられたので、そのうち、私は、「そんな手にひっかかるか」と思うようになったのだが、その時はまだ理解できていなかった。それで、父から「あんた、これ、見たないかあ」と言うので、私のために言ってくれていると思い込んで、「見たい」と言ってしまったのだ。父は「よっしゃ。そしたら、こうたるわあ」と言って、「週刊文春」を購入したのだが、小学校4年の私に「あんた、これ、見たないかあ」と言い、私が「見たい」と言い、父が「よっしゃ。そしたら、こうたるわあ」と言って買ったからには、買うとそれを私に渡してくれるものだと私は思っていたのだが、買うと、それを受取ろうとした私に「電車に乗ってから」と言って渡さず、そして、特急「みどり」が広島駅に着くと、父は特急「みどり」に乗り込むと、父が窓側の席に座り、小学校4年生を通路側の席に座らせて、そして、父は窓側の席で売店で買ったばかりの「週刊文春」を読みだしたのだった。はあ? はあ~あ?
  自分が読みたいから買うのなら、何も、小学生に「あんた、これ、欲しないかあ」「あんた、これ、見たないかあ」などと言わなくてもいいではないか。自分が読みたいから買うのなら、さっさと黙って買えばいいことであろうが。小学生に「あんた、これ、見たないかあ」と言い、「見たい」と言わせて、「よっしゃ、そしたら、あんたが見たいと言うからこうたるわあ」と言って買った上で自分が見る・・という、あのおっさんがいつもやる手口というのは汚いし、小学生にとってはその手口をやられた、というのはショックだった。
  あんまり、そんなことやる人ないと思うんだけどなあ~あ・・・と思うが、統計とったわけでもないから、世間一般に多いか少ないかはわからんが、誰もがそういうことをやるわけではないはずだ。少なくとも、私が父親ならそんなことはやりたくない・・・が、そういうことをやらないとおれないのがうちの父親だった。  

(5)窓側の席に座って週刊誌を読む。
  北野高校1年の時、「地理A(系統地理)」の授業で、H先生が「日本のサラリーマンは、出張で普段と違う場所に行った時、電車の中で何やっとる。週刊誌読んどるやろう。せっかく、普段と違う所に行って電車に乗ったのなら、窓から外を見ておけば、『ああ、あそこにあんなものがある』『あれは何だろうか』といろいろなものを知ることができておもしろいのに、週刊誌なんて読む必要があれば家に帰ってから読めばいいことだろうが。地理の勉強というと、地理の教科書を読むというのも、それも読んで悪いということはないけれども、まず、電車に乗ったら窓から外を見る、特に普段と違う場所に行って電車に乗った時には窓から外を見るという習慣が、それがまず地理の勉強ちゅうもんや。それを、まったく、日本のサラリーマンというのは」と話されたことがあったのだが、うちの父親は、まさに、その「日本のサラリーマンというのは」だった。ましてや、その時、父は出張で広島県から山口県に行ったのではなく、観光目的に行ったのであり、週刊誌読むのなら行かなくてもよかったのではないのか、ということになるのだが、それでも、「電車に乗ったら週刊誌を読まないとおれない」というおっさんやった。

(6)子供に通路側に座らせて、自分が窓側に座ろうとする男。子供に通路側に座らせて、窓側の席で週刊誌を読む男。
  又、週刊誌を読むのなら通路側の席でいいはずで、それを、なんで、自分が窓側の席に座り、小学生の私に通路側の席に座らせて、窓側の席で週刊誌を読むのか。週刊誌を読むのなら私に窓側の席に座らせてくれればいいのに、とも思ったのだった。
  その時だけではない。行きは、大阪駅から宮島口駅まで特急に乗ったのだが、特急「しおじ」だったか、その時も父は自分が窓側に座り、小学校4年の私に通路側に座らせたのだった。親と子とで旅行している人を見ることは何度もあったが、そういう親子づれは電車に乗ると、必ず、子供に窓側の席に座らせて、親は通路側の席に座って一緒に窓から外を見ていたものだった。なぜ、うちの父親はよその親と違って自分の方が窓側の席に座ろうとするのか。宮島口から防府までの特急「はと」では私が先に電車に乗り込んで席を見つけたので、自然と私の方が窓側に座るようになったが、大阪から宮島口、広島から大阪までの特急では、父は断固として自分の方が窓側に座ろうとしたのだった。子供に窓側に座らせて親は通路側に座って一緒に窓から外を見ている親子づれを何度も見たが、そういう親子がうらやましかった。
  広島から大阪までの特急「みどり」では、父は自分が窓側の席に座って窓側の席で「週刊文春」を読み、小学生の私に通路側の席に座らせたのだったが、そのうち、読みつかれたのか、「週刊文春」を閉じて膝の上に置き、窓側の席で眼を閉じて寝だした。寝るのなら、私に窓側の席に座らせてくれればいいのに、と思ったのだったが、断固として自分の方が窓側の席に座ろうとする男だった。
  なんで、そんなことするかなあ~あ・・・と長年思ってきた。私は、最初、父が自分が窓側の席に座ろうとするのを見て、父も外を見たいのだろうと思っていたのだったが、そうではなく窓側の席で週刊誌を読むので、週刊誌を読むのなら通路側の席でもいいはずで、私に窓側の席に座らせてくれればいいのにと思ったのだが、断固として窓側の席で週刊誌を読み、さらにその後、窓側の席で寝るので、寝るのなら通路側の席でもいいはずで、私に窓側の席に座らせてくれればいいのにと思ったものだった。なぜ、断固として窓側の席に座り、小学生の子供を通路側の席に座らせて、窓側の席で週刊誌を読んだり寝たりするのか?
  長年、理解できなかったのだが、最近になって、内田康夫『湯布院殺人事件』(2009.講談社文庫)を読んでわかった。あのおっさんは、上座に座っているつもりだったのだ。 内田康夫『湯布院殺人事件』(講談社文庫)では、大学教授を引退して「フルムーン旅行」に妻と九州に出かける和泉教授が東京駅で長距離列車に乗る際のことを次のように書いている。
《 列車が入線してきて、乗り込もうという間際になって、宴会の時に幹事を務めた、平井という世話焼きの学生が、「先生に肝心なことを言うのを忘れていました」と、耳に口を押し当てるようにして言った。
「座席の座り方ですが、なるべく先生が窓側にお坐りになったほうがいいと思います」
「ほう、なぜだい? エチケットとしては、女性を窓側にしたほうが、よさそうに思うけどね?」
「はあ、常識から言うとそういうことになるのですが、じつはですね、統計上、窓側に女性を坐らせるのは、正式な夫婦じゃないケースが多いのだそうです。五十歳以上の日本の亭主は、おしなべて自分が窓側にデンと坐り、奥さんは通路側に坐りたがるものなのだそうですよ」
「ふーん、そんなものかねえ・・・・」
 近頃の若い者は妙な知識を持っているものである。言われてみると、なるほど、ありそうなことだ。
 車内に入って、いざ座席に座る段になった時、和泉は麻子に「どっちに坐る?」と訊いてみた。
「わたしは通路側で結構ですよ」
「やっぱりそうか」
 和泉は感心した。
「しかし、折角の旅行じゃないか。窓側に坐って、外の景色を見たらいい」
「でもいいんですよ。あなたを下座に置くみたいで、なんだか落ち着きませんし、それに、敬老の精神からいっても、あなたを大事にしませんとね」
「ばか、ひとを年寄扱いするな」
 和泉は笑ったが、これもまた平井が言っていたとおりだ。
 若い連中はともかく、騎士道精神などというものは、恋愛時代か、せいぜい新婚当座までで、日本の亭主らしくあるためには、自ら窓側に坐らないといけないものらしい。
 気のせいか、平井は興味深そうな目でことの成り行きを見つめている。
 和泉は結局、列車がホームを離れるまで、立ったまま、見送りに答礼し、そのあと、窓側に坐った。・・ 》
  これを読んでわかった。和室で床の間がある部屋では、床の間の前が上座らしいが、電車ではどっちが上座も下座もないと私は思っていたし、特に、親子で一緒に旅行している親子づれを見ると、たいていの親子は、子供を窓側に坐らせて親が通路側に坐って一緒に窓から外を見ていたので、それが普通のように私は思い、断固として常に自分が窓側に坐ろうとして、しかも、小学生の子供に通路側に坐らせて、自分が窓側の席に座って窓側の席で週刊誌を読み、読みつかれると窓側の席で寝るおっさんというのは、なんか変わってるなあ・・と思ったものだったが、あのおっさんとしては、上座に自分が座っているつもりだったようだった。
  内田康夫『湯布院殺人事件』を読んでわかった。あのおっさんは、自分が上座に坐っているつもりで窓側に坐り、小学生の私に通路側に坐らせて窓側の席で週刊誌を読んだり寝たりしていたのだった。しかし、おっさんに窓側の席で週刊誌を読んだり寝たりされて、終始、通路側の席でじい~っと座っているというそういう旅行をしても、小学生にとってはあんまり意義はないのだった。小学生にとっては、小学生に窓側の席に座らせて一緒に窓から外を見る親の方が良かった。「特別に特別に特別にえらいえらいお父さん」は自分が窓側の席に座って週刊誌を読んで、小学生に通路側に坐らせるが、「普通のお父さん」はそうではなく子供に窓側に坐らせて一緒に窓から外の景色を見るもので、「普通のお父さん」を持つ同級生がうらやましかった。
  私なら「親子の間で上座も下座もない」と考えるが、うちの父親にはそういう発想はないようだった。「クリスチャン」だったはずなのだが、もともと、同志社大学に推薦入学で入れてもらうために洗礼受けた「クリスチャン」であって『聖書』は読まないし教会にも行かない「クリスチャン」だったから、「親子の間で上座も下座もない」というような思考はなかったようだ。

  私が20代の後半の頃、「世界に冠たるドイツ」が好きなおっさんは、母と一緒にドイツに旅行したことがあったらしいのだが、母が言うには、海外に旅行すると、父は「よその奥さんにおべんちゃらばっかりしてみっともない」というおっさんだったそうで、母はあほくさくなって一緒に行くのをやめたらしい。それで、その後は父はひとりで「世界に冠たるドイツ」に旅行に行ったらしい・・・が、そうだろうなあ、と思った。あのおっさんと一緒に旅行しても、面白くないだろうなあと思った。父は上座に坐っていたつもりだったらしいが、会社の上役と一緒に出張にでも行ったならば、上役ににらまれたくないと思えば、座る席くらい上役が喜ぶ所に坐らせてあげればいいと思うが(実際のところ、ゴルゴ13に狙われるような「要人」は外からの狙撃を避けるために窓側は避けた方がいいであろうし、そこまでいかなくても、通路側の方が出入りしやすいし、トイレが近い高齢者は通路側の方が行きやすいであろうし、座席で寝る人は通路側の方が窓からの光の影響を受けないので寝やすく通路側の方がいい場合もあり、列車が転覆したような場合は窓側の方が死亡率は高そうな感じがするし、常に窓側がいいとは限らない)、小学生の時の私は父の部下だったわけではなく、「会社の上役と一緒に出張するような旅行」に仕事でもないのにわざわざ行く必要はなかったはずだった。母は「一緒に行っても、よその奥さんにおべんちゃらばっかりしてみっともない」と言って一緒に旅行するのをやめたらしいが、私も、小学校4年の時は一緒に行ったけれども、それでカネもらえるのならともかく、そうでなければあのおっさんと一緒に旅行してもしかたがない、と思うようになった。

(7)女性の裸の写真が掲載された週刊誌を小学生に買う男
  「週刊誌」、「朝日ジャーナル」以外の週刊誌というのは、日刊紙である新聞や月刊誌に比べて、程度が低いというイメージがあった。「朝日ジャーナル」というのは、週刊誌だけれども内容がある骨のある雑誌と思っていたのだが、1984年頃、筑紫哲也が編集長になった頃から路線変更して変な方向に進みだしたと思ったら、ふと気づくと「休刊」ということになったが、考えようによっては朝日新聞社に新聞社系の週刊誌が「週刊朝日」と「朝日ジャーナル」と2つなくても1つでいいようにも思える。その「週刊朝日」と毎日新聞社の「サンデー毎日」の新聞社系の2つは、新聞社系だけあって女性の裸の写真とかは掲載しない週刊誌で、内容も無茶苦茶なものは載せない方針の週刊誌のはずで、「実話誌」と言われる3誌、「週刊実話」「週刊大衆」「アサヒ芸能」の3誌というのは、別名、ヤクザ3誌と言われ、ヤクザさんの話題を毎回掲載しているもので、誰も、程度の高い雑誌だとは思っていないが、時としていい記事を掲載していることもある。1960年代から1970年代においては、「平凡パンチ」と「プレイボーイ」の2誌は男性向けのエッチな雑誌という位置づけだったのだが、ふと気づくと「平凡パンチ」は消えてなくなっていた。慶應大学の生協書籍部で慶應義塾高校の生徒が「プレイボーイ」を購入していたのを見てびっくりしたことがある。高校生というものは、ロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』とかアンドレ=ジッド『狭き門』とか夏目漱石『三四郎』『こころ』とか森鴎外『青年』とか久米正雄『学生時代』とか伊藤整『青春』とか、そういうものを読むものだと思っていたのだが、慶應義塾高校の生徒というのはそういうものを読まずに「プレイボーイ」を読んでおったのだ。程度の低い高校だなあ、程度の低いやつらだなあ、と思ったものだったが、そういう高校の卒業生が「外部の連中を教育してやらんといかんからなあ」とかふんぞり返って言うのが慶應義塾大学という大学だった。なんで、おまえらに教育されんといかんのじゃあ! と思ったものだったが、こういうことを言うと、「受験勉強の悪影響だ」とか「自我が確立されていないから無理して逆らっている」とか「未成熟だからそういうことを言う」とか「モラトリアム人間病にかかっているからそういうことを言う」とかなんとかかんとか「慶應心理学」に「診断」されることになる。怖い、怖い、怖い、怖い! ほんとに怖い、怖い!!!
  「右寄り週刊誌」として「週刊新潮」と「週刊文春」があるが、「週刊新潮」は毎回、共産党・社会党や日教組・朝日新聞などをせっせと攻撃する雑誌であり、見なくても何を書いてるかだいたいわかる雑誌であるが、敦賀の下着泥棒の高木某の記事とかも掲載したように、自民党の議員だからといって常にヨイショしてもらえるとは限らないようだ。「週刊文春」は、『田中角栄の研究』だとか、あるいは、協栄ボクシングジムの薬物オレンジとかを取り上げたりした雑誌だったと思うが、けっこう、批判的な記事を掲載するが、政治的には「基本的には、真ん中より右」という位置から常に書いている。(本多勝一は、文春による『田中角栄の研究』は、反権力・反体制の側から権力・体制の側の田中角栄を批判・攻撃したものではなく、保守本流・より体制側・より権力側から保守の傍流の田中角栄を攻撃したものだった、と指摘している。)「一番右端から」ではなく「真ん中より右から」という書き方で、「とことん右から」だった「諸君」とか「正論」とは違うところだったようだ。「週刊ポスト」と「週刊現代」がライバル関係の週刊誌のようだが、これは、毎回、裸の女性の写真を掲載する雑誌で、やめるわけにはいかないだろう。
  最近、見ていると、「週刊文春」「週刊新潮」は裸の女性の写真は基本的には掲載しない、「週刊朝日」「サンデー毎日」とその点では同じ姿勢のように見受けられるが、かつては、「週刊文春」にも裸の女性の写真は掲載されていた。
  私は、父が「あんた、これ、見たないかあ」「これ、欲しないかあ」と私に言うので、私は「欲しい」と言い、父は「よっしゃ。そしたら、あんたが欲しい言うからこうたるわあ」と言って「週刊文春」を駅の売店で購入し、そういう経緯で買ったからには買うと私に渡してくれるものだと思うとそうではなく、「電車に乗ってから」と言って自分が持ち、特急「みどり」に乗ると、父は自分が窓側の席に座って、私に買ったはずの「週刊文春」を自分が読み、そのうち、読み疲れると、その「週刊文春」を自分の膝の上に載せて両手で押さえて寝てしまったのだった。しかし、私は、「あんた、これ、欲しないかあ」「あんた、これ、見たないかあ」と父が私に言って買ったものだったので、当然、私が見せてもらっていいはずだと思っていたのだった。だから、家に帰ってから、父がいない時、私はその「週刊文春」を開いて見たのだったが、そこには裸の女性の写真が掲載されていた。今から考えると、「プレイボーイ」「平凡パンチ」などよりは「控え目」のものだったかと思うが、それでも、裸の女性の写真が掲載されていた。
  相撲の若の鵬が、「週刊現代」で述べていたが、十両以上になった力士が八百長の誘いをはねつけるのは相当困難だそうだが、ある30代なかばくらいになった幕内力士が、「若ちゃん、八百長はやらない方がいいよお」と言ってくれたことがあったらしい。「若ちゃん、若いうちは八百長はやらない方がいいよ。俺は歳をいってしまって力がなくなって、八百長をやらないと地位を保てなくなってしまったからやっているけれども、若いうちはやらない方が絶対にいいよ。八百長をやる側になろうと思えば、いつだってそっちに行けるんだから。八百長をやらないでおれるならやらない方が絶対にいいから」と言ってくれたらしい。 それと似たようなところがあるのではないかと思うのだ。 1970年頃だったか、私が小学校の高学年の時、永井豪という漫画家が『ハレンチ学園』なんて漫画を描いて話題になったのだが、今、見ると、つまらないだけ、面白くもなんともない。しかし、小学生が見ると、かなり過激で衝撃の強いものだったように思う。それと同様と考えるべきかどうかわからんが、裸の女性の写真だとか水着姿の女性の写真だとかいうのは、実際問題として、雑誌にはあっちやらこっちやらに掲載されていて、ある程度以上の年齢になると、何かの折に眼にするようになる、もしくは、なってしまうのだが、だから、小学生にでも見せればいいのかというと、違うと思うのだ。相撲の八百長は、もし、八百長をやろうと思えば、いつだってできるんだから・・とベテラン力士が言ったのと同様、そっちの側に行こうと思えばいつだって行けるんだよ。そんなもの、見ないでおれるのなら、見ないでいた方がいいのだ。だから、私は慶應義塾高校なんて、子供には行かせたくないし、自分自身が特に聖人でも何でもなくても、子供にはできるだけそういうものは見せたくないと思うのだ。いつか、見ることがあるかもしれないが、そっちの側に行こうと思えば、いつだって行けるのだから。 自分が見たい週刊誌を買うのに、たいして高いわけでもない「週刊文春」なんて黙って買って見ればいいだろうに、それを、いちいち、「あんた、これ、欲しないかあ」「あんた、これ、見たないかあ」と言って「欲しい」と言わせることで、「あんたが欲しい言うからこうてやったんや」ということにして自分が欲しい物を購入して自分が見る、といううちの父親の手法は、毎度、うんざりするのだが、それとともに、裸の女性の写真が掲載されている週刊誌を小学生に買うというその発想、裸の女性の写真が掲載されている週刊誌を小学生に「あんた、これ、欲しないかあ」と言う男というのは、いったいどういう父親なんだ・・・? と思うが、要するにそういう父親だったということだ。そういうおっさんやった。

(8)なぜ、家族で旅行しないのか。
  母が90代まで生きてくれたおかげで知ったことがある。この広島・宮島と山口への旅行は、なぜ、行くことになったかというと、母が「夏休みにみんなでどこかに旅行したらどうやろ」と言ったのだ。それで、父が私に「あんた、どこに行きたい?」と訊き、私が「広島」と答えたところから始まったものだったのだ。 母に、父が行きも帰りも自分が窓側の席に断固として座ろうとして、特に帰りは窓側の席に座って週刊誌を読んだ話をしたところ、母が「だいたい、普通、旅行に行くといったら家族で行くやろ」と言うので、それで思い出したのだ。なぜか、父と私の2人で行くことになり、なんで、他の家族、母と姉2人は行かないのだろうと思ったのだが、姉2人はすでに大きかったので親と一緒に旅行しても面白くないと思ったのかもしれないが、最初は母が「夏休みにみんなでどこかに行ったらどうやろ」と言い出したところから始まった話だったのに、いつのまにか、父と私と2人だけで行くことになっていたのだった。
  結論としては、父は自分が湯田温泉に泊まって秋芳洞と秋吉台に行きたかったのだ。それを、自分1人で行くというと家族から不平が出ると思い、それで、私を利用した、ということではないか。父は、普段から「子供ちゅうもんは、女が育てるもんなんやぞ。心得違いを起こすなよ」といつも言っている人間だったし、子供だけでなく、家族とつきあうということを苦手にする男だった。だから、家族でみんなでどこかに行ったらと母が考えても、父はそういうのが苦手だったのだ。
  川端康成『雪国』なんて小説が、なんで、あんなのがノーベル文学賞に選ばれるのか、と読むと思うが、よく言われるのは、戦後、「アメリカ合衆国のメカケ」としての日本のスタンスが固まってきたので、それで、アメリカ合衆国さんが日本の国際的地位を高めようとお考えになって、日本人から、プロボクシングのチャンピオンとミスユニバースとノーベル賞受賞者を出そうとお考えになり、ノーベル賞の場合、一番いいかげんなのがノーベル平和賞で次いでいいかげんなのがノーベル文学賞で、そもそも、日本語を読めない人が選んだような文学賞に価値はあるのか? ノーベル文学賞を選定している人というのは、そんなに何か国語も読める人なのか? と考えると、いかにも八百長くさい・・て感じがする。 ノーベル文学賞をその時、生きている日本人の文学者の中から選ぼうとしたが、三島由紀夫というのは、日本刀もって自衛隊駐屯地に押し込むような男であり、「ノーベル文学賞作家」にそういうことをされたのではたまったもんじゃないので、そういう危ない系の人は忌避。志賀直哉はノーベル賞というものを胡散臭いものと見ていたようで、そういう意識の人間に受賞させて、サルトルみたいに辞退されたのでは困るので、受賞させても辞退する可能性がある志賀直哉は忌避。井上靖はリベラルで左翼ではなく、良心的な作家であるが、『天平の甍』『敦煌』『蒼き狼』など中国方面を題材にした小説を書いていて、中国の文学者ともつきあいがあるようで、社会主義国だった中国とつきあいのある文学者というのは忌避。消去法で残ったのが、人畜無害というのかはっきり言って「たいしたことない」川端康成で、特に、川端康成は元A級戦犯笹川良一と小学校の同級生だったとかいうことで、それなら川端康成にしようということで川端康成が受賞することになった・・・というのは、あくまでも憶測であって、実際にそうかどうかはわからないのだが、なんか、ありそうな話である。それで、川端康成が受賞するとして、なんで、『雪国』なんだ・・。冒頭のトンネルを抜けるとそこは雪国だったとか、越後湯沢の宣伝みたいな語りだしは有名だが、そんなにたいした小説か? あの程度のものなら他にいくらでもあるのと違うのか・・て印象を多くの人間は受けているのだが、新潮文庫に付録のアメリカ合衆国人の文学評論家が書いていた解説によると、なんでも、「日本人」というのは「我々」欧米人とは休暇の過ごし方が違うようで、欧米人ならば休暇は妻や家族とともに避暑地・避寒地で過ごして楽しんだりするものだが、それに対して「日本人」はそうではなく、「日本人」は妻や子は家に残して保養地に男性が1人で行き、芸者とともに過ごすものである・・・そうなのだ。へ~え、「日本人」てそうなのお・・・、知らなかった・・というのか、どうも、俺は「日本人」とは違うようだ。欧米人に「日本人」というのはそういうものなのだということを紹介するのに、この『雪国』という「名作」は最適だそうなのだ。どうも、そんなところで、川端康成『雪国』はノーベル文学賞に選ばれたようだ。「作家で精神科医」の なだ いなだ が「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。どのような人が受賞しているかで決まるのだ」と『娘の学校』(中公文庫)で述べているが(かつ、それを聞いて、娘が「へえ~え。なるほど~お。それで、パパはノーベル文学賞をもらわないんだね」とパパの顔をまじまじと見て言った、とも書いていたのだが)、まあ、川端康成のノーベル文学賞なんてその程度のものだと思うのだが・・・、「日本人」のおっさんには、休暇を家族と過ごすのが苦手という人というのが時々いるのは事実で、うちの父親なんてのはそれだったのではないかと思う。休暇でなくても、家族や嫁と人間関係を築くのが苦手であり、それゆえ、「わしは特別に特別にえらいエライえらいエライお父さんやね~ん」と言うことで、家族関係がうまくいかなければ自分以外の誰かが悪いのだということにしようとする男だった。考えようによっては、かわいそうな人間だったのかもしれない。
  だから、母が「夏休みにみんなでどこかに行ったらどうやろ」と言っても、私を利用して自分が湯田温泉に泊まって秋芳洞・秋吉台に行く話に変えてしまったのだが、家族と人間関係を築く能力が優秀ではないからという理由があったと思うが、それとともに、「シブチン」「しみったれ」だからということもあったと思う。母と姉2人も連れていくと5人分の旅費が必要になるが、自分が私を利用して行くと2人分ですむので、5人分は出したくないから、2人で行くことにしたのだろう。おそらく、そんなところだろう。しかし、5人分だとカネがかかるからということなら、山口県まで行かなくても、もっと近隣の所、滋賀県か和歌山県か兵庫県かそのあたりにすれば交通費はたいしてかからないだろうし、宿泊も国民宿舎とかを利用すれば安く行けたのではないかと思うが、「家族で旅行する」というのが苦手なおっさんで、国民宿舎とかそういう所も苦手、「わしいみたいなエライえらいエライ人間が、そんな所なんか泊まれるかあ」みたいな意識だったのではないかと思うので、それで、「山口まで大急ぎで行って帰って」になったのではないか。

【5】大阪万博――計画を子供まかせ・帰宅方法を何ら考えない。
   そして、「1970年の~、こ~んに~ち~わ~♪」。 大阪万博の時だが、9月、最後、終わりから1週間前の土曜日というのが、一番混んだ日だったらしいのだが、その一番混んだ日に行ってしまったのだ。父と母と下の姉と私と4人で行ったように思う。上の姉は行かなかったのではないか。 普通、子供に計画を考えさせても、最終的にどうすべきかは父親は社会経験のある者として判断するものではないかと思うのだが、うちの父親はそういう判断のできる人間ではなかった。
  大阪万博の会場の入口は何か所かあったが、電車の駅と直結していたのは、中央口が北大阪急行電鉄の「万博中央口」と、阪急千里線が「万博西口」と直結していたが、その時、我が家は阪急沿線に住んでいたので、行きは千里線で西口から行った。 しかし、今から考えると、阪急千里線というのは曲がっていて所要時間がけっこうかかるのに対して、北大阪急行は梅田から新大阪を通って北に直進している路線であり、北大阪急行の方が速かったということはないか、と思うのだ。
  それでも、行きは千里線で西口から入って行ったのはいいが、「混んでるから、遅くならないうちに帰ろう」ということにしたのはいいが、会場の東の方から西口に行くにはどうすべきか、を考え、会場を一周するモノレールが走っていたけれども、左回りのものばかりだったので、西口に行くには遠いと考えて「動く歩道」で移動したのだが、これがまた、けっこう時間がかかるのだった。たとえ、逆回りでも、モノレールに乗った方が速かったのではないかと思う。
  ともかく、中央口まで行き、「タクシーで帰ろう」ということになったのだが、ところが、タクシー乗り場には延々と人の行列が続いていて、それでいて、タクシーはなかなか来なかった。あれだけ、人が並んでいるのだから、行けば客をつかめたはずだから、タクシー会社も運転手に無線で連絡して行かせればよかったのではないのかと思うのだが、なかなか、来なかった。
  父は、「わしは、営業部長になった時は、それまで誰も残したことがないようなもんのすごい優秀な成績を残したんや」とか言うておったが、それは嘘かもしくは、実際に売っていたのは美容部員さんであったり、問屋が小売店に売ってしていたのであって、営業部長が売っていたわけではないから売れたのではないのか、と思う。もしも、営業の経験がある人間ならば、「何があるかわからない」と認識して、困ったなあ~あ・・・という不測の事態が発生した時には、その時はその時で何とかする・・という姿勢というものがあるはずで、そういう姿勢があってこそ営業のはずなのだ。それを、ものすごい行列があって、その行列がまったく前に進まない、という事態において、何もしようとしない。今から考えると、あんな父親ないなあ、と思う。
  「わしはものすごい人格者で、誰もから慕われてる人間やねん」とか言うておったのだが、それならば、その「誰も」ではなく「誰か」に電話して、「◇◇さ~ん、今、万博会場の中央口にいるんだけど、タクシーに乗ろうと思っても、ものすごい行列でいつになったら乗れるのかわからん状態で途方に暮れてるんだあ。誠に申し訳ないんだけど、うちの家族4人で来てるんだけど、クルマで来て、どこか、◇◇さんの都合のいい駅でいいから阪急の駅まで乗せてもらえないかなあ~あ」と頼んでみるとか、というよりも、普段からそういう時に頼めるような人間関係を作っておく・・ということができているのが好ましい・・のだが、あのおっさんにそういう人間関係ができているわけないし、そういうことを頼む才覚のあるおっさんではなかった。
  それならそれで、無理にタクシーに乗らなくても、目の前から北大阪急行電鉄の電車は何本も出ていたのであるから、それに乗って千里中央駅まで行って千里中央駅からタクシーに乗るか、それとも、新大阪駅まで行けばタクシーはあるだろうから新大阪駅まで行ってタクシーに乗るか。もしくは、千里中央駅から路線バスで我が家がある宝塚線沿線の駅まで行くか。北大阪急行で梅田駅まで行って、梅田で阪急に乗ることにするか。中央口でタクシーを待っていたのでは、いつになったら帰れるやらわからんとなると、それならどうしようかと考えるのが父親というものと違うのか? 営業の経験のある人間ならば、「不測の事態が発生したなら、それならそれで、何なとやる」ものと違うのかと思うのだが、ところが、あのおっさんはそうではなく、何もしない、何も考えないでつっ立っていただけだった。そういうおっさんやった。

【6】大谷本廟2
(1)弟とその子供を連れていかない男。自分の親は弟の親ではない、息子の祖父母ではないと考える男。
  そして、私が中学校1年の時のことだ。祖母(父の母)が他界したのだが、京都の大谷本廟にお骨を納めに行くのに、父は兄弟は4人と戸籍にはなっていたが、1人は死産ではなかったが生れて1週間ほどで他界してしまったそうで、父の姉は結婚後に嫁ぎ先で他界してしまったそうで、父と弟(私から見て叔父)の2人がいたのだが、弟(私から見て叔父)は少々体が悪かったので、それで、父は「あんなん、連れていってもしゃあない」と言って、私と2人で納骨に行くと言ったのだった。
  しかし、そういうのはいいのだろうか。少々体が悪いとはいえ、葬式にうちの家まで叔父は来たのだ。だから、京都までも行けただろうし、行けないのなら、叔父の息子か娘(私から見てイトコ)を一緒に連れて行けば良かったのではないかと思うのだ。どうも、うちの父親というのは、自分の母親というものを、あくまでも、自分の母だと考えていたようで、弟の母とは考えなかったようで、私の祖母ともイトコの祖母とも考えなかったようだった。そういうおっさんやった。
  父が他界した時、葬式に叔母(叔父の妻)は来てくれたが、イトコは2人とも来てくれなかったが、おそらく、イトコは2人ともうちの父に対していい思いをしなかったのではないのか、と思う。 産まれて1週間くらいで亡くなった子供は別とし、父の姉は何十年も前に他界して子供はなく、いるのは父とその子供と父の弟(叔父)とその子供ならば、父が行くのなら、父の弟(叔父)かその子供(イトコ)のどちらかは納骨には行くべきであり、叔父が行かないなら、中学2年生だったイトコ(女)か小学校6年生だったイトコ(男)のどちらかを連れていくべきだったのではないのか、と思うが、そういうことは考えないおっさんだった。だから、父の葬式にはイトコには来てくれなかった。
  父は生前、私に「あんたがわしに世話になったことは、これまでにいっぱいあるけれども、わしはあんたにこれまでに、何かひとつでもやってもろうたことはないし、今後ともあんたに世話になるようなことは、何一つとして絶対にないんやからなあ」と何度も何でも言っていたのだが、「わしはあんたにこれまでに、何かひとつでもやってもろうたことはない」かというと、私は小学校に行く前から、鰹節を削るのは我が家では私の役目で、父は私が削った鰹節を食ったはずだったし、ゴマをするのも私の役目で父は私がすったゴマを食ったはずだったし、転居後は、庭の植木は私はずいぶんと刈ったし、庭の芝も私は刈ったし、私が刈った芝の上でおっさんはゴルフのパットの練習をやっとったはずだったし、「何かひとつでもやってもろうたことはない」などとはよく言ったものだと思うのだが、又、父が他界する前、入院する時、私は東京圏に居住していたが、母が「前に(父が)回生病院に入院した時は、〇〇が大阪にいたから着替えを持って行ってもらったりしたけれども、今は東京にいるから頼めないから」と言ったところ、「そんなことあったかあ~あ」と父は言ったそうで、「あったでしょうよ。持って行ってくれたでしょうよ」と母が言っても、「知らんなあ。そんなもん、やってもろたことなんてないなあ」と言ってきかなかったそうだが、それまではともかく、「今後ともわしはあんたに世話になるようなことは、何一つとして絶対にないんやからなあ」と何度も何度もいいよったのだが、そういうことを言うのなら、そんなおっさんの葬式なんてやってやる必要ないのじゃないかとも思うが、そうもいかないからやったが、父は葬式代は残していたけれども、カネの問題じゃない、たとえ、葬式代を残していたとしても、それでも、家族は葬式するのに労力を使っているのであり、「今後ともあんたに世話になるようなことは、何一つとして絶対にないんやからなあ」とはよく言ったものだと思うが、コロナウイルスの関係での「緊急事態宣言」後、お墓の掃除に行っていないので、千葉県から新東名・伊勢湾岸道・新名神・名神経由でクルマでお墓の掃除に行ってきたが、考えてみると、なんで「今後ともわしはあんたに世話になるようなことは、何一つとして絶対にないんやからなあ」と毎日のように言いまくった男の墓なんて掃除してやる必要があるのか、と思わないでもないのだが、それでも、私がやらなきゃ誰もやらないので掃除してきたが、なんで、ああいう口をききまくった男の墓を掃除してやらんといかんのか、という気持になる。蹴っ飛ばしてやろうかというくらいの気持ちになるが、蹴っ飛ばすわけにもいかないので、蹴っ飛ばさずに掃除してきたが、よくもまあ、ああいう口をきけたものだと思う。

(2)お骨を落とす男
   そして、大谷本廟にて。 納骨のために来ていたのは我が家だけでなく、他に2件ほどあったように思う。 今となってはどのお堂でだったか忘れてしまったが、渡り廊下があって、普段、あそこ、一度、通ってみたいなあと思いながら通れない所を通ったような気がするのだが、説明を聞いた後、こちらに来てくださいと言われて行ったお堂では、入口で靴を脱いで畳の間に上がるようになっていたのだが、お骨は父が小さい壺に入ったものを持ち、私が大きな立方体の箱のものを持っていたのだが、入口で靴を脱ぐ時、これは気をつけて脱ぐようにしないとお骨の箱を落としたりしては大変だと思い、細心の注意を払って気をつけて気をつけて靴を脱いで上がったところ、私の背後で、お骨を落とした人があって、コテンコテンコテンと音がしていたので、ああ、やっぱり、軽率な人がいて落としたんだなあ~あ・・・と思って振り向いて見ると、落としたのはうちの父親だった。みっともない。自分の母親のお骨をそんな所で落とすとは、情けない! 「他人のふり」しようかと思ったのだが、そういうおっさんやった。「おばあさん、びっくりしたはるわ」などと照れ笑いみたいに言うておったが、そういうおっさんやった。もしも、私が落としたなら、かんかんになって怒りよったはずだが、自分が落とすと、「おばあさん、びっくりしたはるわあ」と照れ笑いみたいに言っておしまい。そういうおっさんやった・・・が、この話を母にすると、「あら、もし、私が落としたりしたら、ものすごい怒られるところなのに、自分が落とすなんて」と言うのだった、そういうおっさんやった。「他人のふり」したかった。
  もっとも、葬式などの時に変なことをする人というのは他にもあり、祖母(母の母)が他界した後、葬式の後、焼き場から帰った後、親戚の者が喪主になっていた叔父(母の弟)のクルマに乗せてもらって移動すると、叔父は喫茶店でクルマをとめて、「ちょっと、そこ、入って行こう」と言ったのはいいが、祖母(叔父の母)のお骨が入った箱を、クルマの助手席に、ぽ~いと置いて、「さあ、行こう」と言ったので、このおっさん、何すんねん! と思ったものだった。この人とはあんまり関わりたくないなあ、とも思った。おのれの母親のお骨が入った箱をクルマの助手席にぽ~いと置いて、「そこ、入っていこう」と喫茶店に入る男とは、あんまり関わりたくないなあ~あ・・と思ったものだ。
  この叔父は私が嫌いで、うちの父親の葬式の時には、「うちの息子は男の兄弟がおるから(3人兄弟でそのうち2人が男だから)あんたに世話になることはないけれども、あんたは女の兄弟しかないんやから、今後は会社に勤めるにしても保証人になってもらおう思うても、うちに頼むしかないんやから、これからは、あんたはうちには一切頭上がらんのやからなあ。そう思うておけよお」とそう言いやがった。普通、葬式の日にそういうことを言うかなあ、と思ったものだったが、叔父はそういう男だった。そして、「今後は、あんたは何かあったらうちに頼むしかないが、うちはあんたに何か頼まんでも男の兄弟はおるんやからあんたに世話になることは一切ないからなあ」とそう言いやがったのだが、そのわりに、長男(イトコ)は結婚する際、結婚式に出てくださいと頼んできたので、子供の頃、一緒に遊んだりしていたイトコが頼むことなので、もったいつけずに出ればいいと思って出たけれども、うちの父親の葬式の日に「うちはあんたに何か頼んだり世話になることは一切ないんやからなあ」と言ったおっさんの息子の結婚式なんて出てやる必要なかったかな、と後から思った。結婚式に出席するというのは、「出てもらう」という面もあるが「呼んでもらう」という面もあると思う。イトコが結婚式に出てくれと言ってくれるのなら、出席させてもらっていいし、何らもったいつけることなく出席するべきだと思って出席したが、しかし、「呼んでもらった」という面もあるけれども、やはり、「出席してもらう」「出席してもらった」という面だってあるわけで、ひとの親の葬式の日に「うちの息子は男の兄弟がおるからあんたに世話になることはないけれども、あんたは女の兄弟しかないんやから、今後は会社に勤めるにしても保証人になってもらおう思うても、うちに頼むしかないんやし、あんたはうちに世話になることはあるけど、うちはあんたに世話になることは一切ないんやからなあ。これからは、あんたはうちには一切頭上がらんのやからなあ。そう思うておけよお」などという口をきいたヤツの息子の結婚式に何で出てやらなきゃならんのか、そういう口をきいておいて、よくも、息子の結婚式に出てくださいと大きな顔して頼めたものだと思う。「うちは今後あんたに世話になることは一切ない」とひとの親の葬式の日に大きな声でふんぞりかえって言ったのと違うんかい?!? どの口が頼んどんのんじゃい、どの口があ!?! 叔父はラグビー選手だったのだが、頭がラグビーでできている男の考えることやることというのは「そんなもの」だということか。
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「まあ、ひと言でいうと ただのバカだよ!」
( ↑ 梅宮あいこ・投稿者:ぬいさん「熱血高校時代」。
『ちび 本当にあった 笑える話(ちびわら)』2020.2.10.ぶんか社 所収)
  そして、私に「あんたは、今後は会社に勤める際の保証人にしてもうちに頼むしかないんやから、俺にはあんたはこれから一切頭あがらんのやから、そう思うておけよお」とうちの父親の葬式の日に言った男は、結局、一度も保証人になることなく死にやがった。要するに「口だけの男」やったということであった。この男は私が嫌いで、私の悪口を言うためなら「千里の道を遠しとせず」やってくるという男だったのだが、母は「大阪からわざわざ来るのだから、お土産を買ってきて」と私に頼むのだったが、「なんで、私の悪口を言いに来る人のためにお土産なんて私が買ってこないといけませんの。誰か、他の人に買ってきてもらえばいいでしょう」と言ったのだが、母は「あんたに頼むしか、買ってきてくれる人間ないから」と言うのだったが、なんで、私の悪口を言うために「千里の道を遠しとせず」やってくる男のためにお土産を買ってこなければならないのか、『舌切り雀』の話の婆さんのお土産のごとく「お化けの詰め合わせのつづら」でも持ち帰らせてやれば良かったかと今も思う。

【7】貿易センタービルとパレスホテル
(1)食べられるメニューのない中華料理屋と飲めない「お茶」
  そして、1970年代前半、中学校2年の時、上の姉が結婚したのだが、上の姉は東京都に在住の人と結婚したので、東京駅から近いパレスホテルで結婚式をおこなったのだが、その際、東京で1泊したように思うのだが、東京でどこか1カ所、行こうということで、父と浅草から浜松町までの墨田川下りの船に乗り、浜松町の貿易センタービルの展望階に行った。最近では隅田川下りの船は宇宙船みたいなかっこいい船が運航しているが、その頃は「普通の船」で船べりから目の前に隅田川の水が見える状態の船だった。
  その際だが、貿易センタービルの高層階のレストランで食事をしようとして、中華料理屋に入ったのだが、ところが、メニューを見ると、知っている料理名が1つもないのだ。父は「あんた、何にするか」と言うので、メニューに書いてある中国語なのか日本語なのかわからない名称なんて何のことかわからないので、それで、知っている中華料理の名称として、「餃子(ぎょうざ)」と言ったのだが、父は「アホぬかせ、おまえはあ。餃子みたいなもん、こんな店にあるわけないやろ」と言うのだった。それで、「焼売(しゅうまい)」と言ったのだが、やはり、父は「アホか。こんな店に焼売(しゅうまい)なんてあるわけないやろが」と言うのだった。しかたがないから、「春巻き」と言ったのだが、「春巻きみたいなもん、あるかあ」と父は言うのだった。しかたがないから、「そしたら、焼き飯」と言ったのだが、「アホか、ええかげんにせんか、おまえはあ。焼き飯みたいなもん、あるわけないやろ」と言うのだった。そんなこと言われても、餃子(ぎょうざ)・焼売(しゅうまい)・春巻き・焼き飯(チャーハン)の他に中華料理の名前なんか知らないから、「無茶苦茶言うな、おまえはあ」と父は言うのだったが、無茶苦茶言ってるのはあんたと違うのか、という感じやった。今から考えると、もうひとつ、「酢豚(すぶた)」というのも食べたことがあったと思ったが、その時、酢豚は洋食のような気がして中華料理とは思わなかった。
   結局、何を注文したか記憶があやふやなのだが、「喉、かわいた。お茶ほしい」と言うと、父は「お茶」をボーイに求めたのだが、「お茶」だとして出てきたものは、日本の緑茶ではなく麦茶でもなくほうじ茶でもなく、烏龍茶でもなくプアール茶でもジャスミン茶でもなければ紅茶でもなく、変な味と匂いがして、およそ、飲めたものではなかった。「普通のお茶が欲しい」と言ったのだが、父は「アホなこと言うな。こんな店に、『普通のお茶』なんてそんなもん、あるかあ!」と言うのだった。「そしたら、水が欲しい。水もらおう」と言うと、父はまた、「ええかげんにせんか。水みたいなもん、あるわけないだろうが!」と言うのだった。「それなら、トイレに行って、水道の水を飲んでくる」と言うと、父は「あかん、あかん。トイレの水なんて飲んでどうするんや」と言うのだが、「だから、喉かわいて苦しいんや」と言ったのだが、父は「そやから、それを飲め言うとるんやろうが」と言うのだが、「だから、飲めないんや」と言ったのだが、「飲まんか、おまえはあ」と父は言うのだった。拷問だった。あの時、出たのは、烏龍茶でもなくプアール茶でもなくジャスミン茶でもなく、あれはいったい何だったのか? そのレストランも不親切だと思うのだ。中国人はあんなまずいお茶もどきを喜んで飲むのかどうか知らないが、日本人にとっては飲めない液体であり、そんなものしかないというのは、日本にある店としておかしいと思う。 何年か前、横浜市磯子区の三渓園に行った時、三渓園の会館で、お茶・・といっても、「お~い、お茶」の方のお茶ではなく、「けっこうなお点前ですこと、オホホ」の方のお茶を着物を着た女の人がたててくれるという所があり、私はおいしくいただいたのだったが、ところが、韓国人の旅行者の一行が来て、そのうち、若い男性が、なんとか飲もうとしたものの、顔をしかめていたのをその日の「茶道の先生」の男性が見て、「合わないですか。無理しなくていいですよ」と言うのを聞いた。日本人にとっては、おいしいじゃないかと思う抹茶でも、外国人の人の味覚では「合わない」場合もあるわけで、その茶道の先生が「無理しなくていいですよ」と言ったように、無理させて苦しませてもしかたがないと思うのだ。世界貿易センタービルの高層階にあった中華料理屋というのは、もしかすると、「街の中華料理屋」もしくは「和洋中華」という店、要するに大衆料理屋の中華料理とは違う高級店だったのかもしれないが、日本人にとっては苦痛以外の何物でもないような液体を出してどうするの? そういうものを「高級料理」だと得意がっているのなら、その姿勢は間違いだと思うのだ。日本にある店であるからには、日本人が食べれるようなもの、日本人が飲める飲み物を用意すべきではないのだろうか。日本にある店であるからには、メニューも日本人がわかるような書き方をするべきではないのだろうか。日本人が飲めないようなお茶もどきの液体しか出さないのではなく、せめて、「水」くらい用意すればどうだろうか。そう思いませんか? あんな店、二度と入りたくないと思ったものだった。まさか、「毛沢東思想の人民中国」はあんなものを食うておったのだろうか? 毛沢東思想の中国の料理ならば、「地主や資本家・買弁階級」の料理ではなく「農民やプロレタリアート」の料理を出してもらいたいものだった。とりあえず、餃子・焼売・春巻き・焼き飯のある中華料理屋の方がよっぽどおいしかった。
  私が父親ならば、「水みたいなもん、あるかあ。ええかげんにせえ」などと言うのではなく、店員に「すいません。子供にはこの味はきついようなのですが、水か普通のお茶はありませんか」と父親として言いますね。それを言わないのをうちの父親は得意にしていたのだが、私なら逆にそういう時に、「すいません。この味は子供には合わない味のようなのですが、水を用意していただけませんか」と父親として言うし、「水」も用意できないなどとそれを得意がって言うような店ならば、「どうも、この店は子供に不親切な店ですね。お宅はそういう商売をされておるのでしょうか」とでも言ってやるところである。それを言えることを私なら誇りにする。言える父親と言えない父親との違いがそういう所で出る。姉が結婚した相手のお父さんを見て、母は「うちのお父さんとはずいぶんと違うわあ」と言ったことがある。どこが違うかというと、夫婦でどこかのお宅に訪問した時、妻がトイレを借りたいと言った時に、ダンナの方が「申し訳ありません。ちょっと、トイレを貸してやっていただけませんか」と言ったそうで、うちの父親なら「ちょっと、トイレを借りたいのだけれども」と言うと「我慢せえ」と言って怒るところで、そのあたりが、「お父さん」といってもずいぶんと違うものだと思ったというのだった。うちの父親は「父親にもいろいろな父親があるわけでやなあ、わしっみたいなエッライえっらいエッライえっらい賢明で謙虚で親切で思いやり深くて沈着冷静で子供にとってはこれ以上のお父さんはないという父親もあればやなあ、ダメ父もおればカス親もおるわけで、あんたはエライえらいエライえらい謙虚で人格者で英雄のお父さんを持ってあんたはこの上もなく恵まれた幸せな人間やいうこっちゃ」と何度も何度も言っていたのだったが、母が言うところの、よその家に行って、嫁がトイレを借りたいと言うと、女性に変わって「すいませんが、ちょっと、トイレを使わせてやっていただけませんか」と頼んでくれる男と、そうではなく、「我慢せえ!」というおっさんと、そのあたりに違いがあるようだった。(男性は、本当にいざとなったら立小便でもするが女性はそうはいかないし、身体の作りとして膀胱を抑える筋肉が女性は男性より1つ少ないらしく、その為に、女性は男性よりも小便を我慢しにくいらしい。だから、男性は、同行している女性に対して、そのあたりについて配慮するべきであろう・・と私は思うのだが、思わんおっさんもいるようだった。)
  「餃子(ぎょうざ)」というのは、父は「餃子(ぎょうざ)なんて、そんな安物料理がこんな店にあるわけないだろうが。何、考えとるんじゃ、おまえはあ」と言うのだったが、ところが、その何年か後、東京の神田神保町のすずらん通りにある「スイートポーヅ」という餃子専門の店に入ると、そこに説明書きがあって、餃子(ぎょうざ)というのは、中国では普段の料理ではなく「ごちそう」なのだそうだ。「安もんの料理」ではなく「ごちそう」だったらしい。「中華料理の高級レストラン」てのは、そんなことも知りよらんかったようだった。

(2)東京駅の目の前からパレスホテルまで戻らないといけない理由がどこにあるのか。
  そして、結婚式の後、下の姉と帰宅しようとパレスホテルから東京駅まで歩いたところ、東京駅の目の前まで来た時に、上の姉の結婚相手の男性の下の弟(結婚相手は男ばかりの3人兄弟で、一番下の弟)が後ろから来て、「東京駅まで送りますからホテルまで戻ってください」と下の姉に行ったようだった。その人は、その頃は、まだ、大学を出て勤めたばかりだったと思うのだが、せっかく、パレスホテルから走って追いかけてきてくれたのはいいけれども、その点には感謝するとしても、すでに東京駅の目の前まで来ているのであり、その場所から東京駅までとパレスホテルまでとなら、パレスホテルまで引き返す方が何倍も遠いのは明らかであり、「パレスホテルから東京駅までクルマで送るように兄から言われて来たのですが、もう、東京駅まで来てますねえ。配慮が足らなくてすいません」とでも言うべきで、そう言えば、「いいえ、とんでもありません。わざわざ、ここまで来てもらって申し訳ありません。せっかく、来ていただきましたけれども、もう、東京駅まで来ていますから、お気持ちだけいただいておきます」とでも言えばいいことだった。ところが、下の姉は、パレスホテルに引き返そうとするので、中学校2年の私は「なんで、引き返すのお?」と言ったのだが、姉は「パレスホテルから東京駅までクルマで送ってくれると言ってはるから」と言うのだったが、「でも、もう、東京駅まで来てるよ。なんで、もう、東京駅まで来てるのに、わざわざ、戻らないといけないの」と言ったのだが、下の姉は「そんなこと言っても、クルマで送ると言ってはるのに断れないでしょうが」と言うのだった。変なの・・・と思ったが、東京駅の目の前まで来ていたのに、わざわざ、またもや、パレスホテルまで引き返して、パレスホテルの駐車場からクルマに乗せてもらったのだが、東京駅付近は道路は混んでいて、結局、「ここで、いいですか」と言われて降りた所は、引き返す前にいた場所と同じような場所、もしくは、元いた場所より東京駅に遠いくらいの場所だった。なんか、アホなことやっとるなあ~あ・・と思ったものだったが、下の姉は、「断れないでしょう」と言うのだったが、断っていいと思う。実際、東京駅の目の前にいるのだから、「せっかく、来ていただいて申し訳ありませんけれども、もう、東京駅まで来ましたから」と言って悪いことはないと思う。
  むしろ、そういう場面では、クルマで送ろうと追いかけてきてもらったという気持はいただくとしても、東京駅の目の前まですでに来ているのに、わざわざ、せっかく歩いてきた所を逆に歩いて戻るというようなことをする必要はなかったはずだ。↑ に述べたように、小豆島に行った時に、帰りに、「それじゃあ、水筒に旅館でお茶を入れてもらおう」と「有言実行」しようとして、本来、何の関係もない「会社の人」である男性から「お茶なんて入れてもらわんでええ」などと言われて、それに従ったり、東京駅の目の前にいるのに、「東京駅までクルマで送りますから」などと言われて、東京駅からパレスホテルまで歩いて戻って、パレスホテルから東京駅まで渋滞している道路をクルマに乗せてもらって最初にいた場所と変わらない場所、もしくは、むしろ、最初にいた場所より東京駅に遠いような場所で降ろされて、それで、お礼言うとか、下の姉は気を使ってそうしていたようだったが、そういう「気遣い」は相手によっては、むしろ、逆効果になる場合があったのではないかと思う。
   パレスホテルから東京駅までクルマで送ってもらうために、東京駅からパレスホテルまで歩いて戻った、というのは、どう考えても馬鹿げているが、その時、送ってくれた上の姉の結婚相手の下の弟が、それから何十年か後、東京の信濃町の結婚式場で結婚式をあげた。その際、私は福島県いわき市で勤務していたが、結婚式に出てくださいと言われて、東京の信濃町で午前10時からという結婚式だったので、早朝、4時に起きて、いわき市の湯本駅を午前5時台に出る「スーパーひたち」に乗って行った・・のだが、「スーパーひたち」に乗車中、ふと気づいたのは、「慶事用のネクタイ忘れた」ということだった。もし、午後1時とか午後2時とかからの結婚式にしてもらっていたならば、私は、いわき市の湯本駅で特急を1台乗り過ごしてもまだまだ余裕があるという時刻に出ていたので、東京のどこかで慶事用のネクタイを購入することができたが、午前10時までに信濃町に行かないといけないとなると、百貨店は午前10時からで、慶事用のネクタイを売っている店で午前8時台に開いている店というのはどこにあるのか? ということになる。困った。上野は美術館・博物館はいっぱいあるが、百貨店などの店はあまりない。もうすこし後なら、アメヤ横丁でそういう店がもしかするとあるかもしれないが、とりあえず、上野で走り回って探したが、まず、午前8時台では開いている店がない。 次に、中央線のお茶の水駅で降りて、お茶の水で走り回って開いている店を探したが、そもそも、8時台では開いている店がない。なぜ、お茶の水で降りたかというと、過去に、神田神保町の会社に勤めていた時、お茶の水駅の売店で慶弔用のネクタイが販売されているのを見た記憶があったからだが、JRのお茶の水駅のキオスクに行っても売っていなかった。後に確認したのだが、慶弔用のネクタイを置いていたのはJR「お茶の水」駅のキオスクではなく、東京メトロ「新お茶の水」駅の売店だった。お茶の水駅近くの公衆電話から、信濃町駅近くの結婚式場に電話を入れて、上の姉を呼び出してもらい、慶事用のネクタイを忘れてしまったのだが、結婚式場で慶事用のネクタイを販売しているか貸し出しているか、どちらかないか調べてほしい、もしくは、誰か親戚の人で慶事用のネクタイを1本予備に持ってきている人がないか、尋ねてほしいと頼んだのだが、ところが、上の姉は父が言うには「人間には人種・民族というものが産まれた時点において決まっておってやなあ、T子さん(上の姉)はドイツ人の民族でやなあ、あんたはチャンコロの民族やねんぞ。ゆめゆめ、民族の違いを忘れてはならぬぞ、チャンコロ! ドイツ人はドイツ人らしく、チャンコロはチャンコロらしくじゃ。わかっとんのんか、チャンコロ! 民族の違いを忘れるな、チャンコロ! わかっとんのんか、チャンコロ! T子さんはドイツ人の民族で奈良女子大の階級やねんぞ、階級! おまえはチャンコロの民族で浪商の階級の人間なんじゃ。これは天の神様がお決めになったことであって、人間が神さまの御意志に逆らってそれを変えようなどとは決して考えてはならぬことであるし、変えようと思うても決して変えることはできないことやねんぞ」ということで、父は、毎日毎日、私の眼を指で突きさすように指さして何度も何度も繰り返して言ったものだった・・・が〔「民族の違いを忘れるな」と毎日毎日言われて、その文句は耳にこびりついて常に忘れないかわりに慶事用のネクタイを忘れてしまった〕、そのわりに、「ドイツ人」、あんまりしっかりしとらんやんけ! 「ドイツ人」、あんまり頼りにならんやんけ! ・・上の姉は「わかんないわ」と言うのだったが、「とりあえず、結婚式場の人に訊いてもらえない?」と言ったのだが、「そんなの、わかんないわ」と言うのだった。「『わかんない』じゃなくて、訊くだけ、結婚式場の人に訊いてもらえない?」と言っても、「だから、ないのと違う?」と言うのだが、「『ないのと違う?』ではなく、結婚式場の人に訊いてみてくれない?」と言ったのだが、「だから、ないよ、そんなの。ないと思うよ」と言ってきかないので、「わかった。それじゃあ、しかたがないから、新宿の小田急に行って、店が開くまで店の前で待って大急ぎで買ってすぐに行くけれども、百貨店は午前10時開店だから、それから買って行くから、午前10時からの結婚式には少しだけ遅刻してしまうから、そう話しておいて」と言って電話を切った。なんや、「ドイツ人」「しっかりしたお姉さん」「あんたとちごうて特別に優秀なお方」というのは、あんまりしっかりしとらんがな・・と思ったのだが、しかたがないから、新宿の小田急の店の前で待ち、開店と同時に走って入って売り場を捜して慶事用のネクタイを購入して、走って新宿から中央線の電車に乗って信濃町まで行き、結婚式場まで走っていったのだが、それでも、少々遅刻することになった。小田急にしたのは、慶事用のネクタイなら、百貨店ならどこでも置いているはずと考えたことと、伊勢丹は新宿の駅から少々歩く必要があるのに対して小田急は駅の前であり、過去に何度か利用したことのある百貨店なのでそうでない店よりも売り場を見つけやすいと考えたことからである。
   ところが、だ。姉の結婚相手の一族らしいあるおばさんが、結婚式の後、披露宴の前に、私の所に来て、「どこからいらっしゃったの?」と言うので、「福島県のいわき から来ました」と言うと、「いわきからクルマで来られたの?」と言うので、「電車で来ました」と言うと、「いわきからクルマで来られたの?」とこちらが電車で来たと言っているのに「クルマでいらっしゃったの?」と言うのだ。再度、「電車で来ました」と言ってもそれでも、「クルマでいらっしゃったの?」と何度も何度も言うので、この人、何のつもりなんだ? と思ったし、又、「この人、いったい誰なんだ?」とも思った。姉の結婚相手の一族であるらしいので、余計な所で逆らわん方がいいと思っていたのだったが、ずいぶんとしつこかった。後から考えてみると、あのおばさんは、おそらく、姉の夫の父親の妹かそういう人だったのではないか、と思う。姉の夫の父親はその一族の人にとっては出世した人で、一族のおばさんはけっこう世話になったらしいのだ。その世話になった大事な人の息子の結婚式に遅刻してくるとは何事だあ! と言うつもりで、それで、クルマで来たのなら予想外に時間がかかったということもあるかもしれないが、電車で来たのに遅刻するとは何事だあ! と言ってやった、というつもりだったようだ。しかし、私はそこまで文句を言われなければならないものだろうか。そこまで言うのなら、それなら、こちらも言わせてもらっても悪くないはずだ。上の姉が結婚式を東京であげた時、父は出席してもらうように頼んだ相手で大阪在住の人には、大阪から東京までの新幹線の往復の交通費を渡して来てもらったのだが、私は結婚式に出てくださいと言われて出ただけで、福島県いわき市の駅から東京の上野までの特急「スーパーひたち」の乗車券と特急券の費用は私が出して出席したのである。又、上の姉が結婚式を東京であげた時は、大阪から行く人が行きやすいようにと東京駅から近いパレスホテルを会場に選び、大阪から行く人が出やすいように、午後からの結婚式にしたのに対して、福島県から行く私がいるにもかかわらず、姉の結婚相手の弟の結婚式は午前10時からで、午前10時に遅れずに行くために、私は、夜遅い仕事であるにもかかわらず、早朝、午前5時台の「スーパーひたち」に乗って行ったのだった。福島県から来てもらう相手に、午後からの結婚式にするのではなく午前10時からの結婚式にして、上野駅の近くとか東京駅の近くとかではなく、上野駅からなら2回乗り換えないと行けない信濃町駅の近くの結婚式場を会場にして、そこまで来てもらって、それで、そこまで文句を言うものだろうか? それでも、慶事用のネクタイを忘れてしまったことからとはいえ、遅刻することになってしまったのは申し訳なかったと思ったし、そう思うから、「どうも、遅れてしまって申し訳ありませんでした」と私は言ったのだが、それでも、執拗に「クルマでいらっしゃったの?」と何度も何度も言い、「いいえ、電車で来ました」と何度も言ってもそれでも執拗に「クルマで来られたの?」と食いついて離れないおばさんというのは、この人、いったい何なんだ?!? と思った。 そこまで文句を言わないといけないものだろうか? そこまで文句を言われてまで、別に出てあげないといけないことないのではないか? とも思ったのだが、あくまでも、執拗に食いついて文句を言って離れなかったのは、その親戚のおばさんであって、結婚する当人とそのお母さんの2人は、「きょうは、どうも、わざわざ来てもらいまして、ありがとうございました」とお礼を言われ、少々遅刻したことについても、一言として文句など言われなかったのだったが、あのおばさんは、あの人はいったい何だったんだ、と今も思う。
  姉の夫の父というのは、岩手県から東京に出てきてけっこう出世した人とその親戚の間ではなっていて、世話になった人というのがいたらしく、「世話になった人」としてはその世話になった人の息子の結婚式というのは万難を排して遅れずに出席しないといけないものだったのであろうが、しかし、私は、そのおっさんがえらいかえらくないかにかかわらず、別に、どこかの学校に裏口で入れてもらうように口をきいてもらったとかいうことは一度でもあったかというと、まったくない! どこかの会社に就職できるように口をきいてもらったことが一度でもあったかというと、まったくない! のであり、もしも、東大(東洋大学の「東大」ではなく東京大学の「東大」)にでも裏口入学で入れてもらったとかそういうことがあったのなら、「長いものには巻かれろ、札束には切られろよお」てもので、へいこらへいこらしても悪くないかもしれないが、入れてもらってないからね。「世話になった」おばさんとは立場は違うのである。それでも、遅れずに出席したいと思って、早朝、5時台に湯本駅を出る「スーパーひたち」に乗って行ったし、交通費としては、常磐交通の高速バスの方が電車の「スーパーひたち」よりも安かったけれども、それでも、電車とバスならば電車の方が遅れる可能性は小さいと考えて、交通費としては高い方の「スーパーひたち」に乗って行ったのだった。そのおばさんにそこまで執拗に文句を言われるのならば、こちらも黙って言われていることはないのであり、こちらも言わせてもらっても悪くないはずだった。「私の父は姉が東京で結婚式をあげた時、大阪から東京での結婚式に出るために来てもらう人には新幹線の代金を渡して来てもらったのですが、私は福島県のいわき市から東京までの特急料金も普通運賃も私が出してきているのですが、どんなものでしょうねえ。姉が東京で結婚式をあげた時は、大阪から来る人にも出やすいようにと東京駅から近いパレスホテルでやったのですが、福島県いわき市から来る私にとっては、上野駅かそうでなくても東京駅から近い場所でやってもらった方が助かったのですが、上野駅からだと2回も乗り換えないといけない信濃町の結婚式場を選ぶというのは、遠方から来る者に対して失礼ではありませんか。違いますか? 上野駅のすぐ近くにいい結婚式場がなかったのなら、それならそれで、せめて、上野駅から乗り換え1回で行ける場所でということで会場を選ぶべきではありませんか? 信濃町駅の近くの結婚式場というのは、福島県から来る者に対して失礼ではありませんか? どうでしょうか? お答えいただけませんか? 福島県から出席する人間がいるのなら、結婚式は午後からにするとか配慮があって良さそうなものですが、なぜ、午前10時からなのでしょうか? お宅様が午前10時からにした方がご都合がよろしかったからですか? お答えいただけませんのでしょうか? そもそも、早朝、5時台に出る特急に乗らないと行けないということなら、前日から東京で宿泊するという前提でホテルを用意しても良さそうなものですが、それも用意されていませんが、それは私がなめられておるということですか? 私がそれだけ、軽く見られておるということですか? 違うのなら、この扱いはなんでしょうか?!? なぜ、お答えいただけませんのでしょうか?!?」と言ってやった方がよかったか・・と思わないこともない・・のだが、しかし、何度も何度も執拗に食いついてきたのは、あくまでも姉の夫の親戚のおばさんであって、結婚式をあげた当事者でもなければ当事者のお母さんでもなく、当事者と当事者のお母さんは「きょうは、わざわざ来てもらいまして、ありがとうございました」と言われたのであり、結婚式の当事者と当事者の親が何ら文句など言っていないのに、「親戚のおばさん」が勝手なことをすることの方がおかしいのです・・・が、あそこまでやられたのでは、こちらも黙って我慢していることはなかったのではないか、という気がします。そもそも、どこの誰なのかも名乗らずに、「クルマでいらっしゃったの?」などと執拗に食いついてくるというのも、失礼なおばはんです。「失礼ですが、あなたさまはどちらさまでしょうか? ご自分のお名前も名乗らずに、先ほどから何をおっしゃっておるのでしょうか」と言ってやった方が良かったかと、今、思っているのですが、まあ、それにしても、「親戚のおばさん」で「変な人 その1」「変な人 その2」・・がいるということは、けっこうあることであり、いちいち腹を立てるのも大人げないかもしれない・・かとも思うが、「親戚の変なおばさん」が、そういう場面で跋扈するという原因のひとつとして、すでに東京駅の目の前まで来ているのに、パレスホテルから東京駅までクルマで送りますからと言われて、それを実現するために、わざわざ、東京駅からパレスホテルまで歩いて戻るというアホなことをやっているから、だから、「親戚のおばさん」で「変な人 その1」が登場する・・という面もあるのではないか・・という気がする。
  さて、6月第三日曜日は「父の日」。今年、2020年(令和2年)は6月21日(日)が「父の日」だが、普通、父親というものは、小豆島の旅館で、「じゃあ、水筒に旅館でお茶を入れてもらってこよう」と「有言実行」しようとする娘がいた時、「お茶なんて、入れてもらわんでもええ」などと、本来、何の関係もないのに「命令」する男がいた時、そういう男にどう対処したものか、と考えるのが父親ではないか。すでに東京駅の目の前まで来ているのに、「パレスホテルから東京駅までクルマで送りますから」と言いに来た男性に、それを実現させるために、わざわざ、ご苦労さんなことに東京駅からパレスホテルまで歩いて戻るということは、するべきことなのか、どっちでもいいのか、やらない方がいいことなのか・・・ということを考えるのが父親というものではないのか・・と私は思うのだが、及び、営業部長として実績を残したと父は言うのであるが、営業もしくは営業部長ならば、そういうことを考えるものと違うのか? そういうことを考える頭が「営業的判断能力」と違うのか? と思うのだが、違うだろうか?

【8】ドイツとドイツ人が好きな男。
  中村好文『住宅巡礼』(新潮社)で、中村好文氏がアメリカ合衆国へ行く飛行機の中で、隣席の青年と話をしていて、中村好文氏が血液型と一緒で、好む旅行先から人間のタイプが決まり、ヨーロッパがいいという欧型・アメリカ合衆国がいいという米型・ともかく英語圏の国がいいという英米型・やっぱり日本がいいという邦型・・というのがあると、ふざけ半分に言ったところ、隣席の青年から「あなた、絶対、欧型ですね」と言われた、という話が書かれていた。
  仕事でどこそこに海外出張で行ってくれと言われて行くのとは別に、自分が身銭を切って旅行しようという場合に、どこに行きたがるか、というのは、その人の性格をある程度表しているように思う。 フランス文学科というのは、お茶・お花・着付けとともに女性の俗物4種の神器だと思うが、フランスという国に丁寧語の「お」をつけるのは日本だけで、実際にフランスに行ってみると、フランス人はフランスと言う言葉に丁寧語の「お」はつけないし、実際にフランスに行ってみると、お茶・お花・着付けとセットになって俗物4種の神器になるような感じの国でもないように思った。 ロシアの歌というと、「ええなあ、うらやましいなあ。わしぁ、貧乏やからなあ。わしぁ、日陰の月見草やあ」みたいなそんな歌ばっかりかと思っていたのだが、たとえば、「モスクワ郊外の夕べ」なんてのはそういう歌ではないし、あまり、決めつけない方がいいかと思う。
  それで・・・、その国が実際にどうかと別に、その国に行きたがる日本人のおっさんというのは、あんまり好きになれんと思うのが、フィリピンとドイツである。フィリピン大好き人間のおっさんというのは、フィリピンに何しに行きよるのかというのが問題だ。(株)一条工務店の経営者みたいなもので、一般従業員が、契約になるかならないかにかかわらず、夜遅くまで、客宅に行って奮闘しているまさにそに最中に、フィリピン人女性ネイティブスピーカーからアルコール付きでマンツーマンでタガログ語講座うけてる(株)一条工務店の営業本部長みたいな男・・て、そういうヤツ、嫌いなんだよ、そういうヤツは。
  そして、「世界に冠たるドイツ」というのが好きで好きでたまらんというおっさんというのも、好きじゃないんだよ、そういうおっさんは。「わしは英雄やねんぞお。わしは聖徳太子でキリストでヒットラー総統やねんぞお」とうちの父親は何度も何度も言っていたのだが、なんというのか、ドイツ大好き人間のおっさんというのは好きじゃないなあ・・・。
  うちの父親は、晩年、ドイツに何度も旅行に行ったらしいのだが、なにしろ、当人、「ドイツ人」だと言うのだから、行きたきゃ行けばいいのだが、「ドイツ人でアメリカ人で慶應の民族」とかいうおっさん、なんだかなあ~あ・・と思った。ヘルマン=マウ・ヘルムート=クラウスニック『ドイツ現代史』(岩波新書)によると、戦後のドイツにおいても、ネオナチの勢力が復活しようとする時もあるが、そのたびに、ドイツではそれに対しての反対の動きが出ているらしく、決して、実際のドイツ人というのは戦後もナチズムを復活させようというような人ばかりではないようなのだが、ところが、日本人でドイツが好きだというおっさんというのは、ネオナチみたいな人が多いのだ。うちのおっさんも、そんな感じがして、60を過ぎてドイツ語の勉強していたようだが、他の言語なら大いにけっこうだと思ったが、「世界に冠たるドイツ」語というのは、なんか、気色悪かった。

  「かわいい子には旅をさせよ」という言葉の意味は、「若い頃には苦労せんとあきまへんで」という意味と言われてきたが、その解釈が正しいのかどうか。 そういう理解もあるかもしれないが、人間は親からだけの影響を受けて成人するのではなく、いろいろな人の影響を受けて育つ方がいい、という意味合いもありそうだし、言葉の通り、旅行をして生まれ育った場所とは違う所を見る機会を持つのは有意義だという意味だって間違いではないように思うが、4つ目の意味として、旅行をすると、普段、見えないものが見えてくる。その人がどういう人間なのか、旅行をすると、普段、わからなかったものが見えてくる、ということもあるのではないか、と思う。 ↑ のように、うちの父親は、旅行するたびに、特色を発揮して見せてくれたから。

   遠山啓(ひらく)は、『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親は家族で誰より「世間知」がある人間で、子供は父親から「世間知」を学ぶものだが、父親のない子供は父親から「世間知」を学ぶことができないので、その分、不利だと書いていたのだが、遠山啓(ひらく)は5歳の時に父親を亡くし、しかも、それまで、父親は朝鮮にいて同居していなかったことから、生まれた時点では父親は生存していたけれども、父親がない子供のようなもので、父親がある子供は父親から「世間知」を学ぶことができるという点で有利だと言うのだが、それは、事実上、父親がない子供として育った遠山啓が言うことであって、実際に父親があった息子からすると、父親があっても「世間知」のない父親の息子というのは、父親から「世間知」を学ぶことなんてできないのである。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを何より自慢にして、父親がある人間というのは得しているみたいに言うのだったが、実際はそうではない。父親があるから常に得するかというとそうではなく、いるからややこしい時だってあるのであり、それを理解できないという点において、旧姓作野礼子は、父親がない娘の欠点を露呈していた、ということかもしれないが、父親がない娘といっても誰もが旧姓作野礼子みたいかというとそうではないので、本人の問題もあると思う。
  6月21日(日)は「父の日」、「わしに感謝せえよお。わしにい」「えらいえらいこのわしに感謝せんとバチあたるぞお」の日である( 一一) ( 一一) ( 一一)
「きょうは父の日やから、あんたに『今までお世話になってどうもありがとうございます。感謝してます、お父さん』と言うてもらおうと思うて電話かけてやってやってやってあげてやったってん」と言って電話がかかってくる日である( 一一)( 一一)
( 一一)( 一一)( 一一)( 一一)( 一一)・・・

  (2020.6.19.
 「父の日」の6月21日(日)の2日前。)

☆ 2020年の父の日に。
(1) 「かわいい子には旅をさせよ」の4通りの意味。旅行でわかる人間性。父親がある人間はない人間より常に有利とは限らない、ということもわからないバカ女〔今回〕
(2) 生きしてくれた母のおかげでわかった父親の人間性と高校教諭の白痴かげん https://tetsukenrumba.at.webry.info/202005/article_8.html
(3) 1980年前後、司法試験に早期に合格する方法、及、近所迷惑なおばさんの話。なぜ「弁護士は役に立たない」かの理由1https://tetsukenrumba.at.webry.info/202006/article_3.html 

家族の政治学 - R.D. レイン, Laing,R.D., 良男, 阪本, 嘉, 笠原
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『文芸春秋』の研究―タカ派ジャーナリズムの思想と論理 (1977年) - 松浦 総三
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