遠藤周作『花鳥風月を友として』で考える「津田沼ザ・タワー」。船橋市・習志野市での「田園まさに荒れなんとす」

[第491回] 
  遠藤周作というと、どういう作家か。『おバカさん』という、ふざけたような題名で、ふざけたような話であって、実際にはそうでもない話、というのが私が最初に読んだ遠藤周作の小説だった。代表作というと、『白い人』『黄色い人』『アデンまで』『青い小さな葡萄』『海と毒薬』『沈黙』『聖書の中の女性たち』『イエス伝』・・といったものと短編集『哀歌』に納められているような短編とで、決して、ふざけた話ばかり書いている人ではないし、「愉快な話」ではなく相当深刻な話を書いている人なのだが、この作家の手法として、深刻な話をやさしい文章で読みやすく書く、という姿勢があって、読者は読みやすい。又、無駄に長い小説ではなく、長編に属するものでも長くない。「進歩的」な雰囲気を出している「文化人」で、ドストエフスキーの『罪と罰』という小説を、「愛読書」にあげる人がけっこういるが、『罪と罰』というのは、最後の「エピローグ」の部分が余計ではないか、という気がする。ソ連映画の『罪と罰』では、スピドリガイロフが自殺したというのを聞いた後、ラスコリニコフが警察に自首するところで終わりにしているが、映画の作者もまた、「エピローグ」の部分は余計、「エピローグ」の部分があることによって、この小説は「竜頭蛇尾」というのか、せっかく長く書き連ねてきた小説が「エピローグ」によって駄作になってしまっている、ということに気づいて、ラスコリニコフが自首するところで終わりにしたのだと思うが、私は、むしろ、それよりもさらに前、スビドリガイロフが自殺したのをラスコリニコフが聞いてショックを受けるという部分で終わりでいいのではないかと思っている。最後の部分の失敗、どうも、ドストエフスキーは『罪と罰』の結末をどうしたものか困り、それを、何番目かの妻の助言だかであの「エピローグ」のようにしたというのだが、あの「エピローグ」によって、長々と読んできた読者に、「なんだ、これは」みたいな思いをさせてしまっている、「竜頭蛇尾小説」にしてしまっている・・・ということがある。・・・が、それ以前に、ドストエフスキーの『罪と罰』というのは、なんで、この作者は、ここまで長々と書かないとおれないのか、もうちょっと要領よく書くことはできないものか、裁判所に出す「準備書面」というのは、要領よく読みやすくわかりやすく書いた方が裁判官は好印象を受け、又、裁判官は裁判所に提出されたものには眼を通さないと行けないことになっているとはいえ、実際問題として1人の裁判官が担当する裁判の数は相当あることを考えると、「要領よく短くまとめる能力」というのが弁護士の能力のひとつと言われるらしいのだが(そのわりに、その能力がない、当事者に書面を書かせてそれを裁判所に持って行くという「子供の使い」みたいなことしかできない、「〇日までに振り込んでください」と言うからないカネを大急ぎで振り込むと、振り込まれたと思うと働かない! まさに着手金泥棒・まさに振込詐欺の弁護士が多いのだが)、小説の作家もまた、要領よくまとめて読者が読みやすいように書くべきで、このドストエフスキーという人は、なんで、こんなにぐだぐだと長ったらしい文章しか書けないのか!?!同じだけの内容を、たとえば、ゴーリキーの『どん底』くらいの厚さの本にまとめられないものか、と思ったものだ。それに対して、遠藤周作の作品は大変読みやすい。そして、最初、『おバカさん』を読んで、次いで、『ユーモア小説集2』『ユーモア小説集1』(講談社 遠藤周作文庫)を読んだ上で、『白い人』『黄色い人』『青い小さな葡萄』『海と毒薬』『沈黙』『聖書の中の女性たち』を読むと、『白い人』『黄色い人』『青い小さな葡萄』『海と毒薬』『沈黙』『聖書の中の女性たち』の方が絶対にいいと思うようになる。その上で『狐狸庵閑話』を読むと、むしろ、「読むのがしんどい」。しかし、『ユーモア小説集1』『ユーモア小説集2』『狐狸庵閑話』にも、「真面目な小説を書いてきた人が書くおふざけの話」だけあって、内容のあるものがところどころに見える。

  遠藤周作『ユーモア小説集 2』に『花鳥風月を友として』というものがある。亀井勝一郎『青春論』(角川文庫)に、高校などに入学する人に、その学校に在学期間に1人の作家の作品をすべて読むということをお勧めしているという記述があり、又、北野高校の「現代国語」の教諭であった旧姓S野礼子が、現代国語の能力をつけるためには問題集なんかやっても意味はなく、1人の文学者の作品をすべて読むということを高校1年からおこなうべきだ、ということを「現代国語」の授業の最初に話したことがあり、それで、私は、高校の「現代国語」の1年の教科書の最初の方に『聖書の中の女性たち』「ヴェロニカ」という文章が掲載されていた遠藤周作の作品を読もうではないかと考えて、この『花鳥風月を友として』も高校1年の時に読んだものだった。これは、遠藤周作『ユーモア小説集2』(1974.7.20.講談社 遠藤周作文庫)に所収のものだが、最初、1970年4月に「別冊小説新潮」に掲載されたものらしい。
《 十年前、私が東都の喧騒を逃れて、この山里にささやかな居を構え、狐狸庵と名づけた頃は、まだこのあたりは花鳥風月を友にするに相応しい場所だった。わが庵の周囲には雑木林と桃の樹を植えた丘とが拡がり、春ともなれば林には萌黄色の若芽がふき、桃花の香を慕って飛んでくる山鶯(うぐいす)のつたない鳴声が村里の午後を更に長く、更にのどかにするのであった。・・・》
という出だしで始まる。これはいったいどこなのかというと、東京都町田市の玉川学園あたりらしいのだが、・・この文章だけ読んでいると本気にしそうなのだが、しかし、どうも、これは、まるまる本当のことではないらしい。
《 十日ほど経つと今度は手紙ではなく、かなり分厚い原稿が送られてきた。どこの文房具屋にでも売っているコクヨ判の紙にビッシリと七十枚、しかも至るところに書きこみや書き直しがそのままにしてあるもので、いわゆる読み手泣かせの原稿である。
『孤独の目ざめ』
 題だけは大きく書いてある。縁側にしゃがんで、私は三十枚ほど眼を通したのち、投げ出してしまった。なぜかというと面白くなかったからである。・・・・・
・・・
  私は口惜しがったが、向うは自分の迷作を私に無視されたことをいつまでも恨みに思ったらしい。それから三か月の間、約5本の手紙がこの学生から私に送られてきた。・・・
「こちらから望遠鏡で見ていると、あなたはほとんど縁側に寝ころんでいるようでないですか。それで一体、小説家などと言えるのでしょうか。それから庭で立小便をするのはよしたほうがいい。あんたの小便をしている格好はすごくみっともない」
  このような手紙ならまだ私は我慢もできたのだが、次のような文面になると、文字通り腹の底が煮えくりかえるような気持ちがしたのである。
「『庵をとりまく雑木林には四季を通じてさまざまな鳥が来る。春はもう三月の桃の匂いを慕って山鶯が必ず飛んでくるが、まだ幼いのが、親鳥の鳴き声をまねて懸命に鳴くのを一日、聞くのは楽しみである。夏の終わりから秋にかけては特に小鳥もさまざまだが、晩秋の暮など、書を読みながら、ふと山鳩のわびしい声を聞くと人生の無常をしみじみ感じる』
 あんたの随筆を読んであまりの馬鹿馬鹿しさにアキれかえってしまった。一体、このあたりのどこに山鶯だの山鳩だのが来るのか。あんたの家の近所にくるのは雀だけじゃないか。昨日もあんたの家の前を通りかかったら、ゴミ溜めをあさっているきたない雀の群れをみたが、あれがあんたの眼には桃の匂いを慕ってくる鶯だの、秋のわびしき山鳩にみえるのか。それから次の話も何だ。馬鹿野郎。
『我が庭には秋の七草が咲きみだれる。特に桔梗は私の最も愛する花だから、近くの山に杖を引くたび、その根株をほって大事に持ってかえり、あちこちに植えておいたのが夏から秋にかけて紫の花を露ふくみつつ咲かせるのである。鹿追いのひびく流れには萩。山百合。その匂いは風に送られて書を読む私を慰めるのである』
 俺はこの前、そっとあんたのボロ家の庭を見たが秋の七草なんか、何処にもないじゃないか。眼についたのは猫の糞ぐらいのものだ。出鱈目を書くのもいい加減にしろ」
  煮えくり返るような気持ちで私はこの学生の手紙を読み、あまりの口惜しさに、それに火をつけて燃やしてしまったぐらいである。第一、他人の家を望遠鏡で覗き、その家の主人が庭で立小便をしている姿を見るというのは無礼千万、言うに言葉がない。
  その上――
  その上、もちろん、私はわが狐狸庵の描写について多少の粉飾あることは認める。しかし粉飾なくして文章なく、芸術はない。ゴミ溜め箱に集まってくる雀を山鶯と眺め、山鳩の声ときくのが文学芸術というものである。庭に散乱する猫の糞と空罐も秋の七草に変えるのが文章というものである。・・・ 》
ということなので、《狐狸庵の描写について多少の粉飾》はあるらしい。

  この作者は、「ユーモア小説」とか「中間小説」という名称を受ける作品においては、必ずしも、事実そのままを書いているわけではないらしいのだが、まるまる嘘を書いているわけでもなさそうなものが見られる。
《 ところが4、5年ほど前、この狐狸庵と谿(たに)ひとつ隔てた丘に、ある日、4、5人の男が集まって、あちこちを見てあるいている姿が眼にうつった。男たちはいずれもニッカ―ポッカ―ズをはいていた。
  それから数日後、別の人間がそこで測量をはじめた。測量が開始されて一ヵ月たつと、人夫たちが伐採にかかりだした。そしてブルドーザーが蝸牛(かたつむり)のように丘の上下を這いまわって土をくずし、地面を掘りあげた。
  それがすべての端緒であった。みるみるうちに丘はその姿を変え、みるみるうちに醜い段々畠のような住宅地ができた。そしてそれから一年もしないうちに、その段々畠にいずれも同じような形をした文化住宅が並んだ。
  破壊されたのは向こうの丘だけではなかった。春の雨、秋の雨にそこから私の庵まで土の匂いと樹の匂いをふくんだ湿った風をいつも送ってくれた竹林も姿を消した。そのなだらかな斜線が私を飽きさせなかった果樹園もなくなった。ニッカ―ポッカ―ズの男たちがくると、必ず、ブルドーザーがそこを蝸牛のように這いまわった。消滅した場所には次々とあたらしい家ができあがっていく。
(やがては、此処を去らねばならない)
 私は真実、心の底からそう思った。もはやここは住むべき場所ではなくなり、田園マサニ蕪レナントスという言葉が、本来の意味とはちがった形で気持にぴったりとしていた。・・・ 》
なにしろ、「ユーモア小説集」であり「中間小説」に分類される作品に書かれている文章なので、すべてが事実のままかどうかはわからない。なにしろ、本人が《わが狐狸庵の描写について多少の粉飾あることは認める》と書いているのだから。しかし、趣旨として真実に反することを述べているのでもなさそうである。

  そして、ここからが今回の本題。
《 「ごめんください」
  今日も私が手枕をして世のため、人のために全く役にたたぬことを考えていると、あらたな来訪者があった。年の頃、55、6の大学教授風の男で口のあたりにNHKの司会者風な作り笑いをうかべ、おもむろに私に一枚の紙を手渡した。
  それには、謄写版で「この町をよくする会」と書かれてあった。
「なんですか。これは」
「ここに書かれてありますように、我々は折角、この場所に住みながら、色々な点で不便に苦しんでいます。第一にガスが引かれていない。第二に道路が整備されていない。第三にバスの往復数が足りない。そこでここを住みよくすべく、皆で決議文を作ろうと先日の会で決めたのであります。そしてあなたも御賛成の書名を頂こうと思って伺ったのです」
「すると道路をアスファルトにしたり、ガスを引いたり、バスをニ十分おきに遠そうということですか」
 私は警戒態勢をとりながら、おずおずとたずねた。
「さよう。その通りです」
 その男は自信ありげに胸さえそらせながら答えた。まるで私がこれに反対する筈はないと始めから決めてかかっているようだった。
 その時、私の念頭にうかんだのは田園マサニ蕪レナントスというあの言葉で、ここの道がアスファルトになり、アスファルトの道をバスや車が引っきりなしに通り、それらの吐きだすガスが林を枯らし、鳥を追いちらし、花はなくなっていく、荒廃した風景だった。
「署名して、判を押してくださるだけで結構なんですが」
「生憎、印肉がなくて」
「じゃあ署名でいいのです」
「万年筆もありません」
男は私の顔をじっと見た。彼はやっと私がこの趣旨に一向、共鳴していないのに気がついたようだった。
「あなたは反対なんですか」
「いや・・・・そうじゃなく・・・・ただ関心がないのでして」
「そういう協調性のない心がけじゃ、いけませんよ。ここに住むなら住むで、少しでも皆の生活を良くしようという気持を持たねばいけません。でないと非民主的な利己主義というものです」
 彼は長々と何かを言ったが私は聞いていなかった。黙っていると根負けがしたのか、
「まァ、いいでしょう。その代わり、あんたのような非民主的なところはいつまでもガス管を引かずに暮らすんですな」
 と捨てぜりふを残して立ち去った。私はただ唖然として彼が雑木林に消えていくのを見送った。
 ・・・・・  》
( 遠藤周作『花鳥風月を友として』 〔 遠藤周作『ユーモア小説集2』1974.7.20.講談社 遠藤周作文庫 所収 〕 )

  1992年に、私が千葉県船橋市の南東部に住んだ時には、周囲には畑がけっこう多かったし、また、我が家のすぐ西は、平屋の家作が建っていて、空間的拡がりもあったが、その家作の所は、アーネストワンというあまり良心的でない建売業者が同社が得意とする「売り逃げ」手法で8区画に建売住宅を建てて「売り逃げ」した。 いくらなんでも、そこまで細かくしなくても・・と思ったが、不動産屋・建売業者には、「細かく分ければ売れる」という強迫観念みたいなものを持っている業者が多いようで、ずいぶんと細かく分けられて、密集した家屋が建てられた。もっとも、我が家もけっこう細かく分けて建てられた家屋を購入して住んでいるので、その点では、あまりよそのことを言えたものでもないだろう。 ある会社の社宅があって、その前の広い道には交通量も多くなく、我が家に来訪者があった時にはその前に停めて来てもらうことがあったのだが、そこも売却されて建売住宅として分譲され、来訪者があった時にクルマを停めてもらう場所はなくなった。それらは、前のままであった方が我が家にとっては良かったのだけれども、そのあたりは、まあ、しかたがないのかもしれない。アーネストワンの手法は、近隣に対する配慮に欠けており、住宅建築業の会社としても、請負業の会社に長く勤めてきた者としては、建売屋というのは、ここまでマナーに欠けた態度をとるものなのか、とあきれた。アーネストワンの態度・対応については、また、後に述べることもあるかと思うが、平屋の家作だったところに、建売住宅が建てられて、それまで、2階の高さの部分はなかった所に2階ができたのは、そこまで密集して作るか・・とは思ったが、平屋だった所が2階建てになるというのは、それは、まあ、しかたがないことかとは思う。また、畑だったところが畑でなくなり、建売住宅が建てられるというのも、それもまた、そこまで細かくするかなあとも思ったし、また、建売屋のセンスの無さには、毎度のことながら、程度低いなあ・・という気持になるのだけれども、畑が住宅になるのも、多少はしかたがないのかもしれない、とは思う。
  遠藤周作『女の決闘』( 遠藤周作『ユーモア小説集1』1975.5.20.講談社 遠藤周作文庫 所収。『女の決闘』は、最初、「オール読物」1967年8月号に掲載されたらしい。)にも、
《 ある日――
  バス道路にそった砂利トラックとブルドーザーがやってきた。トラックは荷台につんだ黒土をドサッと稲田の上に落した。いよいよ田をつぶしてここに何かを建てる工事が始まったのである。
「嫌だわ、折角、スモッグの東京からここに逃げてきたのに、こう林は切られる、畠はなくなるじゃ、引越ししてきた甲斐がなくなりましたわ」
  通りがかった四、五人の主婦たちが恨めしそうにその工事を眺めていた。彼女たちは一年前、ここから二百米ほど向こうに建った団地に引越してきた人たちだが、自分のあとから他人が侵入してくるとなると、断じて許せないのである。
「子供たちの遊び場は東京と同じようになくなるし」
「それにこんなに土をばらまかれると、風の日、ひどい土埃よ。お掃除が大変になりますわ」
・・・ 》
という文章も出ているが、実際、よそのことをあまり言うと、自分の所もそうじゃないのか・・なんてことになりかねないケースもあるとは思う。

  しかし、これはどうなのかな・・と思うケースもある。 船橋市の東葉高速鉄道「船橋日大前」駅の近く、船橋市坪井 というあたり、森林が広がっていたが、あれは、船橋市としては、今後とも森林地帯として残すものだろうと思い込んでいた・・・が、その森林が伐採されて、戸建住宅の住宅地になった。あれは、都市計画としては、森林として残しておくべきものだったのではないのか、と今も思うが、戸建住宅の分譲地に変わった。

  我が家の近所の街灯は矢鱈と明るい。我が家が今の住居に住んだころは、今よりも一回り明るさは低いものだった。私は街灯はあっていいと思うが、東京の銀座か新宿の大通りみたいな明るさの街灯は船橋市の住宅地には必要ないと思っている。銀座か新宿のような所に住みたい人はそういう場所にもマンションはあるのだから、そういう場所に住めばいいことであり、「不夜城」みたいな所でない所ではない場所、住宅地らしい場所に住みたいと思って船橋市に住んだ者としては、銀座か新宿の大通りみたいな明るさにされるのはうれしくない。 ひとつの目安として、「星座が見える暗さ」というものがあると思う。中学校の1年の時、「理科 第二分野」で星座について学んだ時、星座盤を持って、冬の夜、外に出て上を見上げて、「あれがオリオン座。 あれがオリオン座の三ツ星」と見つけて眺めた時より、夜空の星座を見るのを喜びとしてきた者としては、夜を銀座か新宿みたいな明るさにされて星座が見えないようにされてしまうのはうれしくない。 これは、何か我慢する必要があるものだろうか? そもそも、船橋市の住宅地、第一種低層住居専用地域の道を、銀座か新宿の大通りみたいな明るさにして何かいいことがあるのか?
  私は、街灯はあっていいと思うが、しかし、夜は暗いものであり、銀座か新宿の大通りみたいな、夜が夜でない明るさの道にするのがいいとは思えない。 また、我が家の場合は、2階に雨戸の無い窓もあるのだけれども、幸い、雨戸のない窓のすぐ前の位置には街灯はないのだが、家によっては雨戸のない窓のすぐ前に街灯がある家もあるのではないかと思う。南道路の家ならば、たとえ、家のすぐ前に「明るすぎる街灯」があっても、住居の建物との間に庭があって窓までの距離があるから影響は小さいかもしれないが、北道路の家で2階に「雨戸のない窓」がある家の場合、その窓のすぐ前にある街灯が「普通の街灯」から「明るすぎる街灯」に変えられてしまうと、夜、就寝時でも部屋中まで街灯に照らされるという結果になるはずだ
  第一種低層住居専用地域において、「銀座か新宿みたいな明るさの街灯」は、むしろ、良くないと思う。また、船橋市役所は、特定の人から言われて、街灯の明るさを変更したようだが、そういったことがなされるのなら、自治会というのは何のために存在するのか? ということにもなる。私は、船橋市役所に「その地域の人に意見をきくのなら、◇◇さんを窓口にして意見をきくのではなく、自治会があって自治会長さんがおられるのだから、自治会長さんを通して意見をきくようにしていただけませんか」と言ったこともあるのだが、どうも、市役所職員というのは「勢いに負けた」とかそういうケースもあるのか、その地域の住人の意見をきくこともせず、自治会長さんに自治会としての意見をきいてほしいと言うこともなく、特定の個人の主張で街灯の明るさをそれまでよりも明るくしたようだが、今の明るさは明るすぎると思う。もしくは、街灯の間隔が相当広い場合ならば今の明るさでいいのかもしれないが、相当短い間隔で街灯がある以上は、ここまで明るい街灯は必要ないはずだ、と思う。 なぜ、東京都内に住まずに千葉県の船橋市まで来て住んでいるかというと、それは、「住宅地らしい住宅地に住みたい」「夜は夜らしい暗さのある住宅地に住みたい」というところから、都内からの距離が多少あっても、ここならば「住宅地らしい住宅地」「夜は夜らしい夜である住宅地」に住める、というところからだ。そのあたりを理解できていない人もいるらしいのだが、もしも、船橋市・習志野市の住宅地を、銀座か新宿の大通りみたいにすれば、それが「文明」だとか「文化」だとか「進歩」だとか思っているのなら、その思考、その意識というのは、それは「イナカモノ」の意識だと言わざるをえない。福沢諭吉は「『いなかもの』という言葉には2通りの意味がある。田舎の生まれとか、田舎の住人とか、田舎の出身とかいう意味での『いなかもの』というのは、それは別に悪いことはない。しかし、『精神面がいなかもの』という意味での『いなかもの』は、それは良くない」と語ったというのだが、船橋市・習志野市を銀座か新宿みたいにすれば「文化」だとか「文明」だとか「進歩」だとか思うのなら、そういう思考は「イナカモノ」の思考と考えざるをえない。「精神面がイナカモノ」というのは、それは福沢諭吉に今さら言われなくても、それは良くない。

  又、戸建住宅の住民は、自宅の庭に庭園灯を設置する場合も、隣地に照明がまったく及ばないということはないとしても、基本的には自分の敷地内を照らす照明灯を設置して、一晩中、隣地やその地域を明るく照らす照明灯を設置する人は少ないはずだが、ところが、マンションの場合は、北側にマンションの通路を設置して、その通路の照明が屋外を照らすことがないようにという配慮が欠落していて、近隣を照らす照明塔になってしまっているマンションが少なくないのだが、あれは、市とか県とかできっちりと規制していいのではないかと思うし、規制するべきだと思う。その土地の所有権があったとしても、「その地域を照らす照明塔」を作る「権利」などというものはないはずだ。
DSC08483.JPG
↑ 右寄りの背の高いのが「津田沼ザ・タワー」だが、「津田沼ザ・タワー」だけの問題ではない。マンションの通路に照明を設置したいのはわかるが、しかし、「タワーマンション」ではなく中層マンションであっても、戸建住宅や2階建て程度のアパートに比べればずっと高い位置であり、高い位置で相当明るい照明を屋外に向けて設置するとどうなるか、ということは、マンションの設計者・施工者は当然、考えるべきであり、法令に規制があってもなくても、良心的な設計者・良心的な施工者であれば近隣への影響も考慮して設計・施工をおこなうべきであろう。↑の写真を見てもわかると思うが、「津田沼ザ・タワー」に限らず、その点において、良心的と言えないマンションが多すぎる。
DSC08484.JPG
↑ 左寄りの背の高いのが「津田沼ザ・タワー」であるが、「津田沼ザ・タワー」に限らず、周囲の住宅地への影響を考慮しようという姿勢が欠落しているマンションが多すぎる。
  今は昔、慶應大学に在学した時、一般教養の「化学」という科目の講義で、教授が「新聞などで、河川の汚濁の問題について、これまでの検査結果と比べて大きく汚濁が進んだという記事が出る場合がありますが、検査の方法ですが、汚染物質の塊が川に浮いて流れていることがあり、そういうものを含んだ部分の水を採取した場合、どうやって検査するのかというと、汚染物質の塊をガラス棒でかき混ぜて溶かした上で検査するのです。だから、汚染物質の塊を含んだ部分の水を採取すると、それまでよりも大変汚濁が進んだように見えてしまうのですが、それは、汚染物質の塊が浮いている部分を採取したからであって、急激に汚濁が進んだのとは違うのです。皆さんの中でマスコミに勤める人があったら、こういうことを認識して、公害問題を扱う時には、数値で見て急激に汚濁が進んだように見えてもそうではないということを理解して、急激に河川の汚濁が進んだというような記事は書かないようにしてください」と言われたことがあった。それを聞いて、「なんか、いかにも慶應て感じ!」と思ったのでした。たしかに、汚染物質の塊を含んだ水を採取して検査したならば、検査の結果としての数値は大きくなることが考えられるけれども、だからといって急激に汚濁が進んだとは限らないわけです。だから、その先生が言われたことは、間違いということではないでしょう。しかし、それを言うのであれば、「検査の数値が大きかったとしても、たまたま、汚染物質の塊が浮いていた部分の水を採取して検査しただけの場合もある」というそちらだけを言うのではなく、同時に「検査の数値が小さくて、それまでより水質が改善されたように見えても、たまたま、汚染物質の塊がない部分の水を採取したから、水質が改善されたように見えただけという場合もある」というそちらも言わないといけないのではないか。「検査の数値が大きかったとしても、たまたま、汚染物質の塊が浮いていた部分の水を採取して検査しただけの場合もありますから、だから、汚染物質の数値が大きくなったから河川の汚濁が進んだというような記事は書かないように気をつけてください」というそちらだけを言ったのでは、結論として、公害問題を指摘するような記事は書くなと言っているような印象を受けます。前々から思っていたことだけれども、なんか、慶應てそんな教授の多い大学だなあ~あ・・・と思って嫌~な印象を受けたのでした〔 福島第一原発事故の後、三陸沖でしたか北海道沖でしたかの太平洋で採れたある魚を検査したところ、放射線量の数値が大きかった、ということについての記事で、「あくまでも、この魚がであって、他の魚もそうだということではないという点について注意する必要がある」という書き方がされていたものがあったのですが、その書き方もまた、私が慶應大学の「化学」の講義で教授が話された内容について感じたものと同様のものがあり、「検査の結果、放射線量の数値が大きい魚があったとしても、あくまでも、その魚がであって、他の魚もそうだということではないという点について注意する必要がある」のは間違いではないでしょうけれども、それを言うのであれば、同時に「放射線量の検査の結果、数値が小さい魚があっても、あくまでも、その魚がであって、他の魚も数値は小さいということではないという点に注意する必要がある」ということも同時に言わないと、「検査の結果、放射線量の数値が大きい魚があったとしても、あくまでも、その魚がであって、他の魚もそうだということではないという点について注意する必要がある」と片方だけ言ったのでは、検査の結果、数値だけで見ると相当危険だというものがあっても、危険だと思うなとそっちばかり言いたいということか? ということになってしまうはずでしたが、そういう書き方のものを見ました。〕・・・が、しかし、その先生が言われたことは間違いというわけでもありません。むしろ、もしも、公害問題を追及したいと考えるならば、河川の水質汚濁を指摘したいと思うのならば、たまたま、汚染物質の塊が浮いていた部分の水を採取して検査したから、検査の結果が相当悪かった、というものを持って、河川の汚濁が進んだ! と大きく報道してしまうと、結果として、いいかげんな記事を書いたということになって、公害問題をはぐらかしてやろうという人たちに利する結果になってしまう可能性が考えられます。ですから、もしも、本当に、公害問題について、河川の水質汚濁についての報道を真面目にやろうと思うのならば、その先生が言われたように、数値だけで見て、河川の水質が悪化したように見えても、その時、たまたま、汚染物質の塊がある部分の水を採取して検査したことによる結果だという可能性もあるということは認識して、記事の書き方もまた、その前提で書くべきであり、同時に、数値だけで見て検査の結果が良かったように見えても、たまたま、汚染物質の塊が浮いていない部分の水を採取しただけのことである場合もある、ということを認識して記事は書くようにした方が、本当に公害問題、河川の水質汚濁の問題を指摘していくことはできる、と言えます。
  こういう場所に公開する写真についても、あまりにも、問題点を強調するような撮影のしかたのものを掲載してしまうと、実状に一致していないのではないかと言われてしまう危険もあります。ですから、問題点を指摘はしても、誇張するような撮影のしかたになった写真は選ばないようにということを考えて公開するようにしています・・が、難しいのは、カメラで撮影したものを掲載すると、最近のカメラはなかなかよくできていて、しろうとが撮影してもうまく撮れてしまうところがあって、肉眼で見たものと同じように撮れたものを掲載しようとしても、「肉眼で見えたものと同じように」撮影されたものというのは、なかなかないのです。また、「肉眼で見えたもの」といっても、リゼット=ショール『眼鏡よさようなら』(1987.篠崎由美子訳 立風書房)では、著者は、そもそも、視力1.0で見えたものが正しい見え方なのか? ということを指摘しており、多くの人間は、1.0くらいの視力で見えたものが正しい見え方だとして、そのように見えるように眼鏡を調節しているけれども、0.1の視力で見えた見え方は「正しくない見え方」で1.0で見えた見え方が「正しい見え方」だというのは何か論拠があるのか? 実際、人間以外の動物には1.0の視力の人間が見るものとは異なる見え方で見えているはずで、視力1.0の人が見えるものが正しいという論拠はないはずだというのです。そうなると、肉眼で見えたものが正しい見え方とも決まっていないし、私のような近視の人間にとっては、裸眼で見えたものが正しいのか、眼鏡をかけて見たものが正しい見え方なのか、眼鏡にしても強めの度数のレンズのもので見たものが正しいのか弱めの度数のもので見えたものが正しいのか、よくわからなくなってきます。
  そういうことはあるとしても、それでも、あまりのも肉眼で見えたものとは異なると撮影者が思うような写真の掲載は避けた方がいいのではないか、とも思うのですが、ところが、困ったことに、カメラで撮影したものというのは、撮影後に何ら修正を加えていなくても、肉眼で見えたものとはどれもが同じではない。 「特に誇張したように写ったものを選んで掲載するようなことはしないように気をつける」という姿勢はとっているつもりですが、カメラで撮影したものは、どうしても肉眼で見たものとまったく同じではない、というその点は理解いただいた上で、掲載した写真は見ていただくようお願いします。

   そして、何より、「津田沼 ザ・タワー」という習志野市谷津1丁目、JR「津田沼」駅のすぐ南側に建造中の人口の岩山だが、↓
DSC08482.JPG
( ↑ 2020年4月23日 撮影。 )

↑ これは、どう考えても「精神面がイナカモノ」であろう。
  これは、船橋市や習志野市に造るべきものではないはずだ。こういう「タワーマンション」に住みたいという人は、何も、船橋市や習志野市に住む必要はない。東京都内の六本木とかそういう場所に住めばいいことであろう。
  船橋市や習志野市というのは、「ここまで来れば戸建住宅に住むことができる」という場所であり、戸建住宅もしくは中層のマンションに住む人の居住地域のはずで、このような人工的岩山を造るべき場所ではないはずなのだ
  まさしく、この「津田沼 ザ・タワー」のおかげで、「田園、まさに荒れなんとす」である。
DSC08485.JPG
↑ 「津田沼ザ・タワー」で気になるのは、肉眼で見ると、外壁が特に光っているようでもないのですが、カメラで撮影すると、他のマンションは、照明は光って写っているものの、外壁が光って写りはしていないのに対し、「津田沼ザ・タワー」の場合、カメラで撮影したものは、外壁が明るく光ったように写るという点です。いつ、撮ってもそうなるのです。

  夜になると、こういう「タワーマンション」はその周囲を照らす「照明塔」になることが予想されるが、そうならないようにどういう対策をとるということを、このマンションの事業者である三菱地所レジデンス(株)・三井不動産レジデンシャル(株)・野村不動産(株)、施工者の「株式会社フジタ 千葉支店 高橋時男」氏、設計者の「株式会社フジタ 一級建築士事務所 赤木寛」氏は考えたのかな? 何も考えていない、というのではそれはおかしいのではないかな。 特に、一級建築士というのはそういうことを考えて仕事をするのが一級建築士であって、「いっきゅうけんちくしい~い!」と叫べば「ひとは言うことをきく」みたいに思っている人間が一級建築士ではないはずなのだ。違うか? 一級建築士の資格というのは「安もんの水戸黄門の印籠」ではないはずなのだ。戸建住宅においては、2階の居室に雨戸がない場合に、あまりにも隣家の方向に居室の照明が強く照らすような場合には、カーテンを引くとかなんらかの配慮をするものだが、「タワーマンション」というのは、相当広い範囲を照らす照明塔になるはずであり、当然、周囲から夜を奪うことがないように配慮しなければならないはずだが、赤木寛さんはどういう配慮をしたのかな???

  これまでに「タワーマンション」が建てられた場所というのは、「なんか、いわれのある場所」であるケースがけっこうある。東京都中央区佃(つくだ) というと、江戸時代に徳川家が大阪の佃(つくだ)の漁師を江戸に招いて移住させ、将軍家に水産物を納めさせたという漁師が住んだ所と言われ、佃島の界隈はその頃からの風情が残る地域として、私が中学生の頃、1970年代、「旅」(日本交通公社)という雑誌に写真入りで取り上げられたこともあったが、そのすぐそばに石川島の「高層タワーマンション」という無粋なものができていて、なんで、中央区佃は、伝統的建造物群保存地区か何かそういうものに指定を受けるようにしなかったのか・・・と思うのだが、昔からの佃島の地区を「庶民の街」ととらえ、他方で、あの高層マンション群というのを、相当、「高級なもの」のように思っている人がいるらしいのだが、あの高層タワーマンションが建っている地域というのは、『鬼平犯科帳』などにも登場する石川島人足寄場があった所と違うのか?

( ↑ 東京都中央区佃1丁目の高層タワーマンションのあたり。 マークは「スカイライトタワー」 )
  マンションではないが、「池袋サンシャイン」て、よっぽどいいものみたいに思っている人がいるらしいが、知っている人は知っているはずだが、あれは、かつての「巣鴨プリズン」、巣鴨拘置所の跡地のはずだ。

( ↑ 池袋サンシャイン。 巣鴨拘置所跡。 )
  川崎市中原区の「武蔵小杉」に高層タワーマンションがいくつも建っているが、私の感覚では、あの場所は「武蔵小杉」ではないのだ。「武蔵小杉」というのは、東急東横線とJR南武線の「武蔵小杉」駅の付近を言うもので、JR横須賀線にできた「武蔵小杉」駅というのは、JR南武線の駅では、武蔵小杉駅と向河原(むかいがわら)駅の中間あたりで、「武蔵小杉というよりも向河原(むかいがわら)」という印象の場所だ。

( ↑ マーカーはJR横須賀線「武蔵小杉」駅新南口。 )
  武蔵小杉というのは、東急東横線「武蔵小杉」駅の両側のことで、綱島街道より西側は武蔵小杉でも、綱島街道より東側の「品鶴貨物線」沿いの部分は武蔵小杉ではなく向河原で、土地の評価もひと回り低い場所・・・という感覚だった。もともと、あそこは、工場の跡地か品鶴貨物線の操車場か何かの跡地ではないか。 そういう場所だから、戸建住宅用地にしても人気は出ないであろうし、オフィス街にするような場所でもないし・・ということで、高層タワーマンションにして、「嘘でも百回言えば真実」みたいに、なんだか、その高層タワーマンションがいいものみたいに吹きまくった・・・というものではないか。
  私は、今でも、「武蔵小杉」というのは東急東横線「武蔵小杉」駅付近のことであって、JR横須賀線「武蔵小杉」駅の前の高層マンションというのは、あれは東横線「武蔵小杉」とは別のものだ、東急東横線「武蔵小杉」とJR横須賀線「武蔵小杉」は別のものだと思っている。

  それに対して、習志野市谷津1丁目15 の「仲よし幼稚園」跡地の場合は、人足寄場とか巣鴨プリズンとかそういう「いわれのある場所」ではないはずなのだ。 問題としては、JR「津田沼」駅から近い場所としての商業地としては厳しい。そもそも、この「津田沼ザ・タワー」の場所が商業地域に指定されているというのが不適切ではないかと思う。近隣商業地域でも厳しいくらいではないか。
  この場所は、京成電鉄「津田沼」駅と京成電鉄「谷津(やつ)」駅の中間であり、JR「津田沼」駅のすぐ南側といえども、JR「津田沼」駅の北側の住宅地の住民は、買い物などにおいてはJR「津田沼」駅の北側か、船橋市域の住民は津田沼ではなく船橋駅付近の方に行く場合があり、JR「津田沼」駅の南側にまでなかなか行かない。南側にはすでにマンションがいくつも建っており、その住民が南側のモリシアビルなどの商業施設を利用することはあっても、南側のマンションの住民ですら北側の商業施設を利用することが少なくないのではないか。結論として、JR「津田沼」駅の南側は、「JR津田沼駅周辺」としての範囲に含まれるのは駅のすぐ南側のモリシアビルまでで、その南側、「津田沼ザ・タワー」が建造中の場所は、もはや、「JR津田沼駅周辺」の範囲ではなく、京成谷津駅と京成津田沼駅という「今ひとつぱっとしない京成の駅」2つの範囲になっている。 そういう場所をなんとかしようということならば、まず、考えるべきことは、JR「津田沼」駅の南側が北側と線路で隔絶されている状況を改善して、北側から南側へも人の流れを作ることと、京成「津田沼」駅とJR「津田沼」駅という2つの駅が「別の駅」になっている今の状況を改めて、その間を人が行き来したいような場所にすることではないか。そのためにはどうしたものか? 「仲よし幼稚園跡地開発事業」の審査委員に千葉工大の建築学科の教員が2名入っていたはずなのだが、建築学科の教員にしては、結局のところ、マンション屋の計画に「お墨付き」をつけて、「建築学科の先生が選ばれた」ということにして反対しにくくするというあほくさい行為をしただけで、およそ、「建築学科教授」の値打ちなんて考えられない対応だった。そんな「建築学科教授」なんてあんのか? と思うがあったのだ。
  私ならば、JR「津田沼」駅の北側・JR「津田沼」駅の南側・京成「津田沼」駅の北側の3地区を結ぶ人の流れをどうつけるか、を考えて、「仲よし幼稚園跡地」はその基地となるような施設を設けるようにする。 又、そうであれば、たとえば、東京都の青山の「スパイラル」は、槙文彦が施主から「ともかく、変わったものを作ってもらいたい」と言われて設計したというが、「仲よし幼稚園跡地」に造るものは、「ともかく変わったもの」を作って、「JR津田沼駅北側」地区からも、「京成津田沼駅北側」地区からも、「行ってみよう」という気持になるものを作るべきだったのではないか。 私が思い浮かべたものとしては、東京の新橋駅の脇の丹下健三設計の「静岡放送・静岡新聞」ビル、三田のクウェート大使館。もしくは、大阪梅田の阪急イングスの観覧車。あるいは、横浜市都筑区のセンター北駅のすぐ北の阪急ビルの観覧車。 「スパイラル」でも「ガオ」でも、「ともかく、変わったものを作ってほしい」という方針で、「ともかく、変わったもの」をJR「津田沼」駅南地区と京成津田沼駅北地区の中間に造ることで、そこに両側からの人の流れを作り、「JR津田沼駅北側」「JR津田沼駅南側」「京成津田沼駅北側」の3地区を結ぶことができれば、それがこの地区にとってプラスになるのではないか。又、習志野市役所は、かつては、京成「津田沼」駅の南東側にあったが、それが、さらに東の方に移転したが、そうではなく、この「仲よし幼稚園跡地」に移転してもよかったのではないのか?  そういうことを考えたか? 単にマンション屋の利益になることに、千葉工大教授が神輿に載って権威づけをしてお墨付きを与えただけと違うのか?  だいたい、「世界的建築家」と称する人の存在自体が、「世界的建築家 安川新三の設計による」とか言われると逆らえない・・・みたいな風潮というのは、それ自体が民主主義に敵対する動きと思われるのだが〔「安川新三」というのは、安藤忠雄・黒川紀章・磯崎新・丹下健三をくっつけたものだが、わかってもらえたかな?〕、それならそれで、その「世界的建築家による設計」というフレーズを使った「ともかく変わったもの」でも仲よし幼稚園跡地に造って、それを核、もしくは基地として、JR津田沼駅と京成習志野駅を結ぶ人の流れを作るように計画すればよかったのではないだろうか。
  ↑ の「津田沼 ザ・タワー」というのは、「建築学科教授」が審査委員長になって決めるようなシロモノと違うだろう。単に環境破壊をおこなうだけのものだろう。 「津田沼 ザ・タワー」ができても、JR「津田沼」駅の北側の住民はJR「津田沼」駅の南側には行かないだろうし、京成「津田沼」駅付近の住民もJR「津田沼」駅南側に行くこともないだろう。 JR「津田沼」駅の南側はほとんどが習志野市だが、駅は船橋市と習志野市にまたがってあって、JR「津田沼」駅の北側は西よりは船橋市で東よりは習志野市になっているのだが、JR「津田沼」駅の南側が「ぱっとしない」のは、ひとつには、南側は習志野市だということに原因があるように思う。 実際、今回、船橋市と習志野市の境目付近を見てまわったが、船橋市と習志野市の境目付近での船橋市と習志野市では、習志野市は「イナカくさい!」、この場合、「田園のいいところがある」という意味ではなく「イナカモンくさい」。そのあたりを習志野市役所はよく自覚するべきだ。それを意識できないような建築学科教授というのは、あんまり値打ちのある教授ではないと判断せざるをえない。

   船橋市は、まだしも、JR「船橋」駅の北側と南側を結ぶ通路の建造に尽力しているのに対して、習志野市は、この「津田沼ザ・タワー」によって、JR「津田沼」駅の北側と南側をこれまで以上に隔絶した地域にしようとしている。

   船橋市・習志野市というのは「ここまで来れば、戸建住宅に住める場所」であり、「ここまで来れば、夜は夜らしい暗さがある場所」であり、「住宅地は住宅地らしい住宅地である場所」であり、「高層ビルなんてない場所」であり、「ここまで来れば、高層ビルなんてない場所に住めるという場所」であったはずで、それが船橋市・習志野市の良さであったはずだ。それを破壊することで、習志野市にメリットがあるとなぜ思うのかマカ不思議である。マンション屋に利益があるだけと違うのか? 千葉工大の建築学科というのはぶっつぶした方が世のため人のため社会のためではないか? という気がする。
   我が家の近所からでも、「津田沼 ザ・タワー」がよく見える家とそうでない家があるようだが、我が家からはよく見える。まさに、環境破壊タワーであり、まさに「貧困なる精神」がそこにそびえている。 まさに、遠藤周作が言うところの、「田園まさに荒れなんとす」がそこにそびえている。

  遠藤周作『花鳥風月を友として』では、遠藤周作に出版社を紹介してもらおうとして来た学生が、断られた後に、遠藤邸・狐狸庵を望遠鏡で見たという話が出ているが、私はそんなに性能のいい望遠鏡を持っていないが、もし、我が家から「津田沼ザ・タワー」のあたりをもしも望遠鏡で見たとしても、こちらは何ら悪いことはないはずだ。なぜなら、そこは本来は「空」なのだから、空を望遠鏡で見て文句を言われる筋合いはない。それに対して、「津田沼ザ・タワー」の我が家の側、北側には窓がいっぱい見えるのだが、あれだけ、いくつもの部屋があれば、中には望遠鏡で見ようと考える人間が1人や2人いたとしても不思議ではないが、「津田沼ザ・タワー」から我が家の2階の窓を見られるのはそれは「プライバシー侵害」であり不法行為であるはずだ。他人の家の敷地内を望見するような窓を「津田沼ザ・タワー」が設置していることが何よりおかしいのである。

  (2020.4.23.)

☆ 習志野市「津田沼 ザ・タワー」(工事中)の横暴!!!
[第455回]《戸建住民の居住環境悪化を招く 都心でもない場所での高層マンション建築に受忍義務があるのか? 》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201905/article_3.html
[第463回] 高層マンション「津田沼ザ・タワー」による居住環境破壊。商業地域に住居マンションは不当。勝手に自然改変https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_8.html
[第464回]「津田沼ザ・タワー」は下品で野蛮。事業者・設計者・開発行為事業者でない者になぜ問合せさせようとする? https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_9.html
[第465回] 商業地域の容積率を悪用する「津田沼 ザ・タワー」。及、都市計画しない習志野市都市計画課 https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_10.html
[第466回]「津田沼 ザ・タワー」の確認票他+死人が出る可能性がある三菱地所レジデンスと(株)フジタの工事現場
「津田沼 ザ・タワー」の確認票他+死人が出る可能性がある三菱地所レジデンスと(株)フジタの工事現場https://tetsukenrumba.at.webry.info/201906/article_11.html
[第467回]「津田沼 ザ・タワー」宅地建物取引業の票。ももんがあのような茶碗のかけらのような野蛮な高層マンション https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_1.html
[第468回]「津田沼ザ・タワー」事業者名票枠外に別の問合先記載は不適。地下鉄をありがたがる人と高層マンションをありがたがる人https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_3.html
[第469回]「本人訴訟の一般人には相当大きく安全側に要求し、弁護士にはよほどのことがないと」の裁判所書記官の対応と、「三菱」「三井」「野村」の言うことならきくのか? 独立自尊の精神に欠ける習志野市建築指導課!https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_4.html
[第470回]都市計画法による用途地域の趣旨を守るために建築基準法の規定があり、逆ではない。マンション屋の為の都市計画課なら存在価値はない。岩山マンションによる環境悪化・財産価値低下に補償することもせずに「意見の違い」など認められない。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201907/article_5.html
[第471回]船橋市各所から見た「津田沼 ザ・唯我独尊タワー」船橋市各所から南方に岩山として眺望を妨げ、同類が建てば通風も妨げると思われる「津田沼 ザ・タワー」。なにゆえ、市民はこのような遮蔽物を人工的に造られねばならぬのか!?! https://tetsukenrumba.at.webry.info/201908/article_1.html
[第474回] 権威主義 千葉工大教授 山本明氏の欺瞞+習志野市「仲よし幼稚園跡地事業」計画の無能。専用住宅業者に売却する土地を習志野市は商業地域として売って良いのか? 准教授 倉斗綾子氏の無能。「津田沼 ザ・タワー」は夜、光る外壁にする必要は何かあるのか?―「津田沼 ザ・タワー」について。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201911/article_1.html
[第478回] 富士山のそばに人工的岩山を造られても国民は文句は言えないか? 夜空を照らす照明塔岩山マンションははた迷惑。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_1.html
[第479回] 3階建か4階建の建物を前提に規定された数字を160mを超える岩山建造に適用は不適切。権威づけ神輿の建築学科教授山本明氏・倉斗綾子氏はこの程度のこともわからないのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_3.html
[第480回] 夜、光る「津田沼ザ・タワー」の設計者の発想は異常。及、マンションの開放型廊下の照明は近所迷惑。夜を奪う明るさの街灯まで必要か。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_4.html
[第482回]「津田沼 ザ・タワー」の「容積率緩和」適用は制度の趣旨に反する。「仲よし幼稚園跡地活用事業」「審査委員」の選定は八百長か。商学部経営学部系教員を選考委員に入れないのは、八百長計画に異議を唱えさせないためなのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_6.html
[第483回]「津田沼ザ・タワー」の侵害に「権利意識の欠如」状態になってはならない。「相互主義の原則」として習志野市の商店での買い物は控えましょう。「言ってもだめよ」はファシズム傾向と理解せよ! 「専門家」信仰は山本明氏のような権威主義者の思うツボ!https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_8.html
[第484回]「津田沼ザ・タワー」は北側に大きな窓を設ける権利がなぜあるのか? 夜、光らせる権利がなぜあるのか? 及、猫の頭なでるだけなでて糞や小便を他家の庭やガレージでさせる猫の飼主は横暴ではないか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_9.html
[第485回]「津田沼ザ・タワー」”最高のロケーション”と称賛する「投資家カズのトレード日記」は精神病理学上の問題ではないかとすら思える。邑楽タワーの失敗と「津田沼ザ・タワー」の居直り。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_10.html
[第486回]「津田沼ザ・タワー」に反対はあっても賛成はありえない2つの理由。60年安保闘争には2種類の反対があった、て知ってますか。「大学教授」であっても「知識人」ではない千葉工大の大学教授。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202001/article_11.html
[第487回] 地下鉄と「高層マンション」は文明ではない。モンパルナスタワー・ナポリ副都心に該当する配慮は見られない「津田沼ザ・タワー」。「津田沼ザ・タワー」は建築学科課題としては落第点である。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202002/article_1.html
[第488回] 「津田沼ザ・タワー」はパチンコ屋みたいに、夜、光りだしたが、パチンコ屋より傲慢。屋上のペントハウスを光らせて、マンション屋と「購入者」は何か得するのか? https://tetsukenrumba.at.webry.info/202002/article_2.html
[第491回] 遠藤周作『花鳥風月を友として』で考える「津田沼ザ・タワー」。船橋市・習志野市での「田園まさに荒れなんとす」 〔今回〕
[第497回] 都心の区がビルの新築に際し住居スペース確保を求めるごとく、郊外の駅前では商業施設の割合を確保させる規定を設けるべきである。都心に向く建物と郊外に向く建物は違う、ということくらい建築学科教授ならわかりそうなものだが。「1年の契約社員」の募集を「正社員」募集と言う会社はいかがなものか。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202005/article_5.html
[第498回] 雲の中のトドラが棲息する場所のマンション、バルタン星人の3倍の高さのマンションなんて、人間にとって非本来的だと思いませんか?ー『ウルトラQ』『ウルトラマン』で考える「津田沼ザ・タワー」の貧困なる精神。https://tetsukenrumba.at.webry.info/202005/article_6.html


「慎腹風呂愚」
[第759回]《高山の町並にて。「和風のドーマー」は違和感なく存在。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。—高山の町並みにて(1)》https://shinkahousinght.at.webry.info/202003/article_10.html?1584263851

☆他に、高層ビル・高層マンションの問題について
☆ 「船橋プラウドタワー」(千葉県船橋市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第5回]2月 といえば、確定申告!・・・・船橋税務署 駅から遠すぎるよお・・・・https://shinkahousinght.at.webry.info/201102/article_2.html

☆ 「千里タワー」(大阪府豊中市)について・・・
「哲建ルンバ」
[第122回]野蛮な 千里タワー。大阪 に超高層ビルが ドバイ ・ 東京 と異なり不適切な理由https://tetsukenrumba.at.webry.info/201302/article_1.html
[第419回]箕面教会(箕面市)見学【2/5】府道から箕面教会。北川原公園・箕面川の紅葉はきれい。高層ビルは野蛮https://tetsukenrumba.at.webry.info/201811/article_3.html
「慎腹風呂愚」
[第471回]新装「高山駅」。周囲の景観との調和を考えた建物だが。及、屋根とは何かわかっていない建築会社についてhttps://shinkahousinght.at.webry.info/201610/article_27.html

☆ 「ロジュマン千里中央」(大阪府豊中市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第456回]上新田天神社(大阪府豊中市)参拝4 神社を背後から見下ろす下品な高層マンション 他https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_18.html

☆ 「コスモフレスタ箕面」(大阪府箕面市)について・・・
「哲建ルンバ」
[第197回]日本キリスト改革派神港教会・カトリック六甲教会・神戸松蔭女子学院 と 安藤忠雄「六甲の集合住宅」
https://tetsukenrumba.at.webry.info/201312/article_1.html

☆ 「ジオミューズレジス」「ジオタワーミューズフロント」「ジオタワーミューズガーデン」(大阪府高槻市)について・・・
「慎腹風呂愚」
[第634回]上宮天満宮参拝【6/10】天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_7.html
[第638回]上宮天満宮参拝【10/10】北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_11.html 
で述べました。

第二ユーモア小説集 (講談社文庫 え 1-10) - 遠藤 周作
第二ユーモア小説集 (講談社文庫 え 1-10) - 遠藤 周作
日本環境報告 (朝日文庫) - 本多 勝一
日本環境報告 (朝日文庫) - 本多 勝一
はじめての天体観測 (天文すいせん図書) - 鈴木 敬信
はじめての天体観測 (天文すいせん図書) - 鈴木 敬信

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック