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zoom RSS 高校合格発表と芸術科目選択の想い出。黒田節による音楽のバビロン捕囚

<<   作成日時 : 2019/03/20 20:42   >>

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[第449回]
  3月20日というと、公立高校の合格発表の日だったと思います。昨日のことのように思いますが、ふと気づくと、それからもう40年以上経ったんですね。
  北野高校は行きたいと思って行った学校でしたから、合格発表の時に自分の番号と名前があった時はうれしかった。「私立6年制受験校」出身の人には、そういう私立高校と公立伝統校とでは私立受験校の方が上だという意識の人がいるようで、北野高校に入学した人にも、灘高校を受験して落ちて北野高校には合格できて入学してきたという人も中にいたようで、そういう人には「私立受験校」及びそういう高校に行った人に劣っているという意識の人があったようですが、私はもしも灘高校と北野高校の両方を受けて両方に通った場合には北野高校に行くつもりでいましたので、そういう意識はまったくありませんでした。
  慶應の教授は北野高校が嫌いで、講義の最中に固有名詞を出してけなします。「北野高校の人間というのはねえ。北野高校の人間というのは国公立の方が私立よりもいいと思っていませんか。まったく、何を馬鹿なことを思っているのか。北野高校の人間というのは、『どうして、私立だったらいいんですかあ?』なんて言うでしょ。バカか! 私学だということは、いいってことじゃないか。こんな常識もわからんのかあ!」と教壇の上で絶叫しますが、そういうことを言われると、「どうして、私学だったらいいってことが常識なんですかあ?」と言いたくなるのですが、そう言うと、またもや、「なにを非常識なことを言ってるんだ、おまえはあ! 私学だったらいいってことが常識だという、その程度の常識もわからんのかあ!」と叫ぶでしょうから、そういう人に逆らってもどうしようもありません。「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞ。我々内部進学の人間はおまえら(慶應義塾の)外部の者〔慶應の内部進学の人は大学だけ慶應に行ったという人間のことを「(慶應義塾の)外部の者」と言います〕とは違うんだ。わかってんのかあ。内部進学のこの僕がおまえら外部の者(特に、公立高校出身の者)に口をきいてやってるんだぞ。もっと、ありがたく思いなさい。わかってんのかあ!」とでも叫ぶでしょうから、逆らわない方がいい。今は昔、「朝日新聞」に掲載されていた話ですが、王貞治は台湾人で、王貞治のお父さんは王が子供の頃から「我々は、ここでは外国人なんだ。だから、周囲の人に好かれるようにしないといけない。決して周囲の人に嫌われてはいけないんだ」と王に教えたというのですが、慶應という学校に公立高校卒で行くと、まさにそんな感じになる。「ここの学校はあくまでも内部進学の人たちの学校であり、我々公立高校の出身の人間の学校ではないんだ。我々はここではよそ者であり、『外国人』なんだ。内部進学の教授が講義の最中にマイクに向かって言うように『(慶應義塾の)外部の者』なんだ」と思いました。考えてみると、せっかく北野高校まで行って、旧帝大系国立大学に十分合格できる可能性があるところまで学習したのに、なにも物好きにそんな「内部進学者様」の下男にならされるための大学に行くことないのじゃないか、とも思います。 私が1浪中に、北野高校の音楽のN先生が「1年までよお」と言ってくれたことがあったのですが、N先生は、好意で言ってくれたのだと思うのですが、その「1年まで」という意味を間違えて理解していたのではないかと思います。「1年まで」というのは「浪人は合計で1年まで」と考えるのではなく、「今から、1年まで」というのが正しい意味だと思います。 こんな大学に行かされるくらいなら、「(今から)1年までなら」余計に浪人してでもまともな大学に行った方がいい、と思うようになります。 慶應の内部進学の教授は「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。我々内部進学の人間はお前ら外部の者とは違うんだぞお。わかってんのかあ」とか講義の最中にマイクに向かって言うのですが(実際のところ、そういう発言を聞くと、そのへんにファーストベースでもあったら投げてやりたい気持ちになったが・・あいにくファーストベースがなかったので投げることができなかった)、何もわざわざカネはらってそんな変な大学に行くことないのじゃないか。わざわざ、カネはらって内部進学の人間の下男・婢をするための大学に行くことないのじゃないか、という気持ちになります。日吉台学生ハイツで私が住んだ階と同じ階に、私と同じ年齢で天王寺高校卒で私と同じ慶應の商学部に在籍した男で、慶應に在籍しながら受験しなおして、結局、3浪で東大に行ったという男がいましたが、普通はそうだよなあと思います。私も彼と同じように受けさせてもらうことができれば、私も彼と同じように東大に行けたのではないかと思います・・・が、彼とは家庭が大きく違った。
  大学受験は決して公平ではない。実際のところ、お父さん(もしくは、お母さん)が京大なり東大なりを卒業しているという人、もしくは、東大に行きたいと思ったが行けなくて慶應なり早稲田なりに行ったという人の息子・娘というのはうらやましいなあ〜あ・・と思ったものです。年収が多いか少ないかという問題ではなく、進学・受験について理解がある。なんで、うちの親は息子の足を引っ張るようなことばっかりやるのだろう・・・と思ったことがありましたが、うちの親というのはそういう親だったのです。北野高校の同級生や、それ以外のところで知り合った人で東大に行ったり京大に行ったりした人の親を見ると、いいなあ〜あ・・・と思ったことがありましたが、そう思っても、それはひとの親であって自分の親ではないので、どうしようもありませんでしたが、しかし、大学進学においては、「親の能力」というのは影響します。足引っ張るようなことをしないと気がすまない親というのが自分の親であったとしても、そういう人生、もしくはそういう運命のもとに生まれてきたのだから、しかたがないのかもしれません。

  1970年代なかば、今からもう40年以上前、北野高校の合格発表の後、「芸術科目の登録」をしてくれということになりました。私は、中学生の時、高校も中学校と同じように音楽もあれば美術もあるものと思っていたのですが、そうではなく、芸術科目は音楽・美術・書道の3つのうちから1つを選択するようになっていたのです。1週間・・が無理ならせめて3日以内とか考えて決めさせてもらえればと思ったのですが、合格発表の日のうちにということでした。
  私は、体育はそれほどできる方ではなかったけれども、音楽と美術は大好きで、中学校の時の内申書の成績も音楽と美術は10でしたし、「主要五教科」より音楽や美術の方が好きだったくらいでしたので、書道は小学校の時には近所の書道の先生の所に習いに行ったこともあり、母から教えられたりもして、中学校1年の時までは悪くない方の成績でしたが、中学校2年からは書道の授業はなくなり、その後、縁がなかったこともあって、それほどやりたいと思わなかったのですが、音楽と美術のどちらか片方なしにしろと言われると、それはつらかった。 「主要五教科」の学習はするが音楽も美術も苦手という人もいたようで、そういう人はどっちが負担が軽いかという視点で考えたりもしたようですが、私の場合は、体育以外の増位山みたいなところがありましたので、どっちにしたものか迷いました。
  合格発表の後、その日のうちにどちらか選んで登録しろということになっていたのは、その頃の北野高校の先生の認識では芸術科目というのはそれほど重視されていなかったのかもしれませんが、「増位山」としてはそうではありません。高校の時は無理かもしれないけれども、大学4年間のうちには絵の1枚でも書いてみようか、「普通の仕事」についた場合でも、「ライフワーク」として美術にいそしみたいと思っていて、片方で、たとえば、岡村 喬生(おかむら たかお)は早稲田大学でグリークラブに入ったのがきっかけでそこから声楽家の道に進んだとか、ハンス=ホッターはミュンヘン大学の哲学科の出身でそこから声楽家に進んだとか、朝比奈隆は京都大学のオーケストラ部の指揮者からプロの指揮者の道に進んだとか、チャイコフスキーはロシアの役人であったが作曲家にもなったとか、ボロディンは医者で化学者で作曲家は副業だったとか、そういった話もあり、たとえ、進学校の北野高校に行ったとしても、「増位山」は音楽や美術の道をあきらめたというわけではなかったので、音楽・美術・書道のうち1つだけを選択というのを突然言われたのはショックで、書道はそれほどやりたいと思わなかったけれども、音楽にしたものか美術にしたものか悩みました。
※ 若い人には「増位山」と言われても何のことかわからない人もいるかもしれませんが、元大関の7代目増位山、元三保ヶ関親方のことで、私が高校生の頃は、まだ、大関ではなく、私が大学生の頃に大関に昇進したはずですが、父親も力士で増位山。外掛けを得意技にする力士はあっても内掛けをやる力士はそれほどなかったところを、増位山は内掛けと出し投げを得意技にした力士で、力士としても大関までなったとともに、歌手としてもデビューして、それも、運動選手が歌を歌うという珍しさから受けたというのではなく、増位山の場合は歌手としても「そんな夕子にほれました」とかプロとして相当ヒットした曲があり、さらに、≪絵画は二科展入選の常連である。≫(《ウィキペディア−増位山太志郎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%BD%8D%E5%B1%B1%E5%A4%AA%E5%BF%97%E9%83%8E )ということで、1970年代後半から1980年代にかけて、小学校から中学校にかけて「主要科目」以外の体育・音楽・美術がよくできる生徒のことを「増位山」と言ったことがあったのです。私なんかは、体育はそれほどできる方ではありませんでしたが、音楽と美術については「増位山」であったわけです。

  90を過ぎた母は、私が小学生の時に、小学校の先生が私が「図画工作」の時間に描いた絵を大阪府の大会に出したいのでと言って、持って行き、そのままになった・・・ということは「大阪府の大会」では入選しなかったのかもしれませんが、その絵を「渡さずに置いておけばよかった」などと言うのですが、ばあさん、何を言うのかと思います。 大学生の時、私より1歳下で、同じ北野高校から東大の文学部に進学したUくんは、東大に行きながら、コントラバスを習いに行っていたが、私は「大学生」の時にどういう生活をしていたかというと、父は「大学は勉強する所とは違うねんぞ。甘ったれるなよ。甘ったれとってはいかんぞ、チャンコロ」と言い、「勉強する所とは違う」ということだと何をする所かというと、アルバイトをする所だそうで、「甘ったれておってはならぬぞ、チャンコロ。それ、アルバイト、あるばいと、アルバイトお、あるばいとお! てってこっこテッテテッテらったらったラッタラ♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉あ、とってちってたあ〜あ!」と言われてアルバイトばっかりさせられていたのであり、「なんで、私だけが」と思ったけれども、父は「アルバイトを嫌がる人間というのは、モラトリアム人間病という病気にかかっているのであ〜る。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロ。大学は勉強する所と違うねんぞ、チャンコロ。とってちってたあ〜あ!」と言われて、アルバイトばっかりさせられていたのであり、そうやって私の才能はつぶされたのだった。今になって、小学校の時の絵がどうのと言うのなら、せめて、大学生の時に、「なんで、そんなにアルバイトづけにしないと気がすまないの」と一言でも父に言ってくれたらと思うが、「夫に逆らえない女」の母にそういうことを期待しても二百パーセント無理であったし、私が「大学生」であった時は、母も父と一緒になって言っていた。
  父は「高校は義務教育じゃないんだからやなあ。おまえは本来は高校には行くべきではないのにからに、北野高校に行ったというのは、それはおまえが甘ったれておるからじゃ、チャンコロ! おまえは高校には行くべきではないんや。おまえは。ましてや、おまえは大学なんか行ってはいかんのじゃ」と言うのだった。「それなら、自分で働いて行きますから」と言ったのだが、父は「な〜にを言うとるんじゃ、何を。 おまえが産まれなければよかったのに産まれたおかげで、わしは迷惑しとるんじゃ、わしは。んが、んが、んがあ!」 「そやからやなあ、これから死ぬまでおまえに働いてもろうて、おまえが産まれてしもうたためにかかったカネをまどてもらわんといかんのじゃ、このチャンコロめが、産まれなければよかったのに産まれおってからに、チャンコロ!」と言い、「何でも、カネだす者に決める権利があるんじゃ。大学は親がカネだして行かす以上は、どこの大学のどういう学部に行かすかは親に決める権利があるんじゃ。心得違いを起こすでないぞ、チャンコロ! だいたい、高校は義務教育ではないんやからやなあ。おまえは高校には行くべきではなかったのに、それを北野高校に行ったというのは、おまえが甘ったれとるからじゃ、わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ、わかっとんのんかわかっとんのんかわかっとんのんか、チャンコロ!」と言うのだった。その結果、私は、結果として、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくない学部に暴力と強制と脅迫で行かされてしまった。「感謝しろお!」と父は言うのだったが、何を感謝しろと言うのかわからない。もし、親がいなかったなら、私は日本育英会奨学金を受給して自分が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行くことができたし、そうでなくても、自治医大とか無料の大学、あるいは防衛大・防衛医大や気象大学校・職業訓練大学校など「大学校」として「大学校」に在学中から公務員の扱いで給料をもらえる学校に進学するなどの選択をして自分が納得の行く所にいけたし、たとえ、音楽や美術の道で食べて行くところまではできなかったとしても、ライフワークとして続けるということもできただろう。 親がいたために、「わしに決める権利があるんじゃ。チャンコロ。のぼせあがるなよ、チャンコロ。世の中にはなあ、わしのように自分ではやらずにひとに命令してひとに号令をかけるのが向いている民族と、あんたあのように自分のことをひとに決められて命令されて号令かけられて、せえっせせっせ、せえっせせっせと働くのが向いていてうれしい民族と2種類の民族がおるわけや。世の中はその2種類の民族で成り立っておるわけで、どっちか片方では世の中は成り立たんわけや。天の神さまは大変賢明なお方であって、わしのように号令かけるための民族と、あんたあのように人から号令かけられることを何よりも喜ぶ民族の2種類に人間を分けて作られておるわけや。 そやから、号令かけるのが向いておってひとに号令かけるために神さまから作られた民族のわしいがやなあ、号令かけられるのを喜ぶあんたあに号令かけたっとるんやないか。てってこっこ、テッテて、てってこっこ、テッテて♪ てってコッコてっててってラッタラったらったあ♪ どや、うれしいやろ、チャンコロ。うれしいじゃろ、うれいいじゃろ、うれしいじゃろ、チャンコロ」と言うのだった。「その、チャンコロウさんという方がうれしいのかどうかは知りませんけれども、私はうれしくないですから」と言ったのだ、「何を言うとるんじゃ、このチャンコロめが、よくも産まれおってからに、このくそチャンコロめが、産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに、チャンコロっ! おまえが喜ぶもんやから、おまえに喜ばせてやろうと思うてやなあ、そんで、わしが号令かけたっとんねんぞ。ありがとうございますと言って喜ばんか、チャンコロ! この糞チャンコロめが、チャンコロ! ほれ、喜べ喜べ、チャンコロちゃんころ、喜べ喜べ、ちゃんころ、チャンコロ! てってこっこ、テッテテッテ、らったらった、ラッタら♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタら〜あ! ほれ、喜ばんか喜ばんか、喜ばんか、チャンコロ!」と言うのだった。

  私は、中学校を卒業する頃や高校に入学する頃は、もし、高校で芸術科目を3科目から1科目を選択するのなら、そんなものは本人が自分がいいと思うものを選べばいいことだし、本人が選ぶべきものだと思っていた。ところが、北野高校の合格発表の後、芸術科目を3科目から1科目を選択してその日のうちに登録してくださいと言われた時、私が、書道はそれほどやりたいと思わなかったけれども、音楽と美術とどちらにしたものかと考えていたところ、父が「あんたは音楽や」と言って決めてしまったのだ。嫌だった。なんで、私は音楽に決まってるのか、なぜ、そういうことを言うのか理解できなかった。
  音楽で悪いということはなかったのだが、なぜ、それを父に決められなければならないのか、それを理解できなかった・・・のだが、父としては「あたりまえです」というところだったのだろう。 「何でも、ひとのことを決める民族・階級と、自分のことを何でもひとに決められる民族・階級というものが世の中には決められておるわけや」と後に父は言うようになるのだが、そういう意識だったのだろう。父は「わしはドイツ人やねんぞ、ドイツ人。わかっとんのんか。おまえはチャンコロやねんぞ、チャンコロ。わしとおまえとは民族が違うねんぞ、民族が。わかっとんのんか、チャンコロ。民族の違いを忘れるな!」と言うのだった。さらに「わしは慶應やぞお。わしは慶應やねんぞ、わしはわしはわしはあ。おまえとは違うねんぞ。心得違いを起こすなよ、浪商! この浪商めがよくも産まれおってからに、浪商! おまえはなあ、おまえは北野高校に行ったと思うておるかもしれんけどなあ。おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ。心得違いを起こすでないぞ、浪商! 浪商のくせしておまえが北野高校に行かせてもらえたのは、わしがえらいからやねんぞ。おまえは北野高校に行かせてもらえるような努力は何ひとつとしてしとらんねんぞ。わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、この浪商めが、よくも産まれおってからに。このくそ浪商めが、産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに、産まれなければよかったのに、浪商!」と、毎日毎日、私の顔の鼻のあたりか眼のあたりを指で突き刺すようにして叫び続けたのだった・・・・が、この言い方は、父の「親友」で医者屋のM川から「わしは息子に言うたりますねん。『おまえが大学(金権関西医大裏口入学http://www.kmu.ac.jp/ )に行けたというのは、おまえが努力したからとは違うねんぞ。わしがエライから行かせてもらえてんぞ。心得違いを起こすなよ』と。そない言うたりますねん」と言われて、「そうや、わしもそない言うたろ」と思って言いだしたようだったが、しかし、M川のドバカ息子が金権関西医大に裏口入学したのはM川がエライから行かせてもらえたのではなくM川に薬漬け・検査漬け・毒盛りされたかわいそうな「患者」のおかげであってM川のおかげではないし、そもそも、北野高校というのは公立であって裏口入学なんてないし、私は裏口で入れてもらったのではないのである。父は「わしはほんまは慶應やねんぞ、ほんまは慶應。家が貧乏やったから慶應を受けさせてもらえんかったんであって、そうでなかったらわしは天地がひっくり返っても慶應に行った人間やねんぞ。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。おまえとは違うねんぞ、浪商! 浪商の分際で慶應のわしと一緒やと思うなよ、浪商! この浪商めが、この浪商! 産まれなければよかったのに産まれてきおってからに、産まれてきたことを反省しろ、浪商!」と言うのだったが、しかし、なんで、家が貧乏やったら慶應を受けさせてもらえないのか、もし、慶應大学に行きたかったのなら行けばよかったのと違うのか、父が実際に行ったという同志社大学と慶應大学とどこが違うのかというと、慶應は昔から大学については「国立大学よりは高いが私立大学の中では安い方」の学費の大学であるから、学費は慶應の方が高いということはないはずであり、慶應の方がかかるとすると下宿代だろうけれども、下宿代がかかるからということなら、それこそ、アルバイトして下宿代分をかせげばよかったのと違うのかと思ったのだ。母は父が生存中は父に同調していたのだが、父が他界して10年を超えるとマインドコントロールが解けてきたのか、言うことが変った。「あの人、よく言うよねえ。あの人が慶應に行きたかったというのは知ってるけれども、行けなかったのは家が貧乏やからじゃないでしょ。あの人、慶應を受けたけれども落ちたんでしょうが。自分が落ちたから行けなかったんでしょうよ。あの人のお父さん、ここのお祖父さん、私が結婚した頃は戦争でだめになってしまっていたけれども、あの人が大学に行くころは船場の商社で出世してものすごい勢いやったんよ。あの人のお父さん、新聞の一面に載るような人やったんやないの。あの人、毎日、女中さんに送り迎えしてもらってた人でしょうが。何が家が貧乏やったからやの。よく言うわ」と言うのだった・・が、それにしても、学歴詐称したり、実際には落ちたから行けなかったくせしやがってからに、「家が貧乏やったから受けさせてもらえんかって〜ん」とか言うヤカラというのは、世の中、ゴマンといるものだが、普通、そういうことは他人の息子に言うものであって、おのれの息子には、むしろ、「おまえ、あんな話、本気にするなよ」と教えるものではないかと思うのだが、ところが、うちの父親というのは逆だった。そういうおっさんだった。「だいたい、同志社も推薦入学でしょうよ。牧師さんに推薦してもらって入れてもらったんでしょうよ」と言うのだった。そもそも、私は父が『聖書』なんて読むのを見たことがないし、教会という所にもほとんど行くことのないおっさんだったが、『聖書』を読まない、教会に行かないおっさんが、なぜ、洗礼を受けているのか・・、なんか不思議だなあと長年思ってきたのだが、同志社に推薦入学で入れてもらう条件というのが、1.洗礼を受けること、2.特別献金を払うこと、という2つだったようで、それで、「特別献金」払って同志社に入れてもらったらしい。「特別献金」て何なんだ・・、もしかして、別名、「袖の下」と違うのか? ・・・なんて思わんこともないが、ともかく、そういう「推薦入学」で『聖書』なんて後にも先にも読まない人がキリスト教系の大学の同志社に入れてもらったのだが、そういう推薦してくれる牧師を教会なんて行ったことない人間なのに捜し出してくるというのは祖父というのはたいしたものかもしれないが、しかし、父としては行きたかったのは慶應であって同志社ではないので、その後も不満は残ったらしい。母が言うには、戦中は慶應の学生というのは「もてた」らしい。 今は慶應は内部進学の人は金持ちの息子が多いようだが大学については合格最低点より高い点数さえ取れば誰でも行ける、また、そうであるから内部進学の教授は講義の最中に「われわれ内部進学の人間はおまえら『外部の者』とは違うんだ。わかってんのかあ。内部進学のこのぼくがおまえら『外部の者』に口きいてやってんだぞお。わかってんのかあ」と叫ぶが、かつて、父が大学生であった戦中は大学も慶應は「金持ちの息子の行く所」だったことから「(金持ちの息子をひっかけてやろうという)女の子によくもてた」そうで、父はそういう所に行きたかったようだった・・・が、祖父は船場の商社で出世したらしいが、同志社に口をきいてくれる牧師を捜し出すことはできたが慶應に口をきいてくれる人を捜し出すことはできなかったらしく、父にとってはそれが不満だったようだった。だから、それから何十年経っても私に言うのだった。「おまえはなあ、おまえは慶應に行ったと思っておるかもしれんけどなあ。おまえが努力したから慶應に行けたのとは違うねんぞ。わしがえらいから行けてんぞ。おまえはなあ、おまえは北野高校に行ったと思っておるかもしれんけどなあ。おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ。わしがえらいからやねんぞ。わしがえらいねんぞ。わしがわしがわしがわしが。んが、んが、んがぁ〜あ!」と。その「ドイツ人で慶應の民族」のおっさんは「自分ではやらずにひとに号令かけるのが得意」で、「チャンコロで浪商の民族」だという私は「いつでも何でもいつでも何でも、ひとに服従するのが向いていて、ひとから号令かけられるのが何よりうれしいという人間」なのだそうだ。「そやから、あんたを喜ばせてあげようと思って、そんで、号令かけたってんねん。てってこっこ、てっててって、らったらったらったらあ〜あ♪ どや、うれしいやろ、うれしいやろ、うれしい言わんか、チャンコロ。喜べ喜べ喜べ、チャンコロ、ちゃんころ、チャンコロ、ちゃんころ!」と言うのだった。

  北野高校の出身者では佐伯祐三(さえき ゆうぞう)という「日本美術史」のテキストにも名前が出ている画家がいるが、もちろん、画家を目指したとしても誰もが佐伯祐三になれるわけではないだろうけれども、たとえ、そういうものにならなかったとしても、ともかく、絵の1枚描いて何が悪いよ・・と私は思うのだが、父はそうは思わなかったようだ。そうではなく、「甘ったれておってはならぬぞ。チャンコロ。すべてをすべてをわしのために。すべてをすべてをわしのために。会社のためにすべてを捧げつく〜す。わしのためにすべてを捧げつく〜す。産まれなければよかったのに産まれてきたという罪をつぐなうために、産まれなければよかったのに産まれてきた者を育ててもらった恩に報いるために、すべてをすべてをわしのために。すべてをすべてをわしのために」と言うのだった。だから、絵なんて描く「ぜいたく」は許せません、ということだったようだ。たしかに、父が好きな「戦中」は「贅沢は敵だ」という時代で、「音楽なんてものをやるような女々しいヤツは」と言われた時代だったから、父も私にそういう教育をしたかったのだろう・・・けれども、そのわりにおっさんは下手なりにバイオリンを弾いておったのは、なんでか・・、なんかようわからん。

   北野高校の芸術科目は、美術をやりたい気持ちもあったのだけれども、音楽で悪いことはなかった。音楽の先生には、自分は芸大・音大を卒業していても、普通科の高校や中学校の音楽の授業は芸大・音大に行くような人とは別のレベルの低いものをやるという人もいるが、北野高校の音楽のN先生はそうではなく、「ここの高校の生徒は、京大とか阪大とかに行こうと思えば行ける人だから、女の子は芸大にでも行きたいと思うなら行けばいいと思うけれども、男の子は京大や阪大に行ける人に音楽家の道に進ませるというのがいいかというと、私は行けばいいと言う自信はない」と言われていたが、授業については基本的には芸大や音大に行こうという人と「差別」したようなものではなかったのではないかと思うし、音楽について述べられたことについてはもっともなものが多かったと思うし、生徒の中に、自分は嫌われていたから成績が悪かったと思っていた人間がいたようだが、そうではなくきっちりと理由があって良い成績をもらえなかったのにそれを理解できていなかった人がいたのだと私は思っている。
  私が、音楽ではなく美術の方を選択しようかと考えたのは、美術も好きだったということと、もうひとつ理由があって、音楽は、授業でもそれ以外でも、音楽をやると、その後、他の科目をやっている時も、頭の中に音楽が残る、という点があった。『男ドアホウ甲子園』だかいう漫画に、殿馬というピアノを相当やったことがある選手がいて、常に頭の中で音楽の曲がかかっていて、その曲に合わせて野球のバッティングをするという男が登場したが、そこまでいかないにしても、音楽は自分が演奏する場合も「音楽家」の演奏を聴いた場合も、その曲がその後も頭の中で鳴り響くような状態になることがあり、これは努力でなんとかなるものではないので、それで、他の科目の学習を考えると美術の方がいいことはないか・・などと考えたりもしたのだ・・が、父はそんなことちっとも考えない男だった。

  その後、「大学生」の時、父は言い出した。 「あんた、会社に勤めたら、宴会で黒田節、歌え。 あんた、歌うまいからちょうどええわ。黒田節、歌え。甘ったれてはならんぞ、チャンコロ。黒田節、歌え、黒田節。さあ〜はけえはあ、のおめえのおめと歌わんか、黒田節。歌わんか、黒田節!」と。私は小学生の時にオルガンの練習をさせられ、ピアノの練習をさせられ、そして、発生練習して腹筋運動をして声楽のための体を作り、コールユーブンゲンやって、そして、「黒田節、歌わんか、チャンコロっ!」と。黒田節を酒の席で歌わせられるために、私はオルガンの練習やってピアノの練習やって発声練習やって腹筋運動やってコールユーブンゲンやってきたということか。 そういう人生だったのか。そういう人生を送らされるために、そのために、オルガンの練習させられて、ピアノの練習させられて、発生練習して腹筋運動やってコールユーブンゲンやってきた・・とそういうことか。そのために、「あんたは音楽や」と芸術科目まで決められたのか・・。小学校の低学年の時、「世界の偉人伝」というシリーズで『世界の偉人伝 ベートーベン』なんて本を父は私に読ませた・・ということは、ベートーベンみたいになろうと努力すればうちの親は喜んでくれるのだろうと思ったのだが、そうではなく、ない夢を追わせた上でリトルベートーベンに黒田節を歌わせてやろうという魂胆だったようだ。

 ≪ こののち、イザヤ(700B.C. ころ)・エレミヤ(600B.C.ころ)らの預言者が現れて亡国を警告したが、そのかいもなく、イスラエルはアッシリアに滅ぼされ(721B.C.)、ユダも新バビロニア(カルデア)に征服されて(586B.C.)、住民の多くはバビロンに連れ去られた。これは ″バビロン捕囚″とよばれている。
 この捕囚のあとごろから、彼らはユダヤ人とよばれるようになった。
ー・−・−・−・−・−・−・−
 バビロンの捕囚
 われらは、バビロンの川のほとりにすわり、シオン(エルサレム)のことを思い出して涙を流した。われらはその中の柳にわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を1つうたえ」といった。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。 (「旧約聖書」詩篇 37篇 )≫
 (護 雅夫『よくわかる世界史』1973.初版。 1975.初版第6刷。 旺文社 )

  もし子供に何かを学ばせようとするなら、黙って学ばせればいいことで、よその親に自慢するものではないと思うのだが、どうも、私の母は自慢したがった。ああいうのは良くないと思うし、私が夫なら、「余計なこと言うな」と言うが、私の父はそういうことを言える男ではなかった。私がピアノを習いに行っているというのをどこで聞いたのか、小学校の同級生から「ピアノなんて習いに行って、おまえは女か!」と言われたことがあったのだが、それについては私は別に何とも思わなかった。なぜ、なんとも思わなかったかというと、その「ピアノは女がやるもの」という認識が間違っていると思っていたからだ。叔父(母の弟)はスポーツマンで、スポーツマンだけあって、「うちの娘は女でも剣道やりよるぞお。たいしたもんやろ」などと言っていたが、剣道やって悪いことはないけれども、私も今でも木刀1本持っていて毎日素振りを短時間やっているのだけれども、「やりたきゃやれば」てところであって、剣道やったからといって「たいしたもの」てことは別にない。
  私は子供の頃は知らなかったのだが、「ピアノをやると女の子は女の子らしくなる」という考え方があったらしく、又、結婚する際に、何ができるかといった時、「ピアノができる」というのは女性にとってプラスの評価になるのではないかと考える人がいるらしく、それで女の子にピアノを習わせようとする親があり、その結果として、道を歩いていると、嫌々ひいとるなあ〜あとはっきりとわかる音色で練習しているピアノの音を耳にすることがあったわけだ。 私はピアノの音というのはそういう音だと思っていて、そして、バイオリンなどは弦で糸をこすって音をたてるわけだから、そのこすりかたで音色は異なるだろうけれども、ピアノというのは鍵盤を叩くだけだから、誰が鍵盤を叩いても音色はそう変わらないだろう・・と思っていたのだが、20代前半の時、FM放送でピーター=ゼルキン(ルドルフ=ゼルキンの息子)のピアノの演奏を聴いて、ピアノというのはこんなに柔らかい音を出す楽器なのかと驚いたことがあった。やっぱり、嫌々練習させられている子供の引くピアノの音はそんな音になってしまうようだ。
  私がピアノを練習する時、母は「女の子になんか負けてはいけません」と言ったのだ。だから、私は「女の子というのは、嫁入り道具か何かのためにピアノの練習をしているのであり、それに対して私は音楽家として大成できるかどうかはわからないとしても本格的に音楽を学ぶためにピアノの練習をしているのだから、嫁入り道具に練習しているような女の子に負けてはいかん」と思ったのだ。又、母は「先生の息子になんて負けてはいけません」と言ったのだ。「先生の息子」というのは、私は、結局、「ピアノの先生」を3人の人の所に行ったのだが、2人目の先生の息子が私と同じような年齢で、息子も同じようにピアノの練習をしていて、発表会の時、毎年、出るのではなく隔年ごとのように出ていたのだが、前年、ピアノの先生の息子が出て、その次の年にその先生の息子の代わりのような立場で私が出たということがあり、それで「先生の息子になんか負けてはいけません」と言ったのだが、そう言われた息子としては、「先生の息子」に負けてはいかんと思って練習すれば、その「先生の息子」が生きるような人生を私が生きても文句は言われないだろうと考えたのだった・・が違った。「先生の息子」は「世界的音楽家」にはならなかったようだが、しかし、どこかの音大にでも行って中学校か高校の音楽の先生か何かにはなったのではないかと思う。それに対して、私は「おまえ、黒田節、歌え。黒田節。さあ〜あけえわあ、のおめえ、のおめ・・と歌え、黒田節。おまえ、歌うまいからちょうどええわ。歌わんか、黒田節。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロ。チャンコロ、黒田節、歌え、黒田節!」となったのだった。俺は黒田節を宴席で歌わせられるために、「先生の息子になんか負けてはいけません」と言われてピアノの練習をしたのか・・・と思うと、悔やんでも悔やみきれない。あんなもの、やるのじゃなかった。私にピアノの練習をさせた親は鬼だ。黒田節を宴席で歌わせるためにピアノの練習をさせた親は鬼である。
※《YouTube-ヴェルディ《ナブッコ》行けわが想いよ黄金の翼に乗って/トスカニーニ 》https://www.youtube.com/watch?v=ihjhGYGtH6Y

  ピアノの2番目の先生の所に行っていた時だが、初歩的なテキストを一通り終えた後、次はそれよりも難易度が高い曲集をさせてもらえるものと思い込んでいたら、「次はこれをやりましょう」と言って、それまでやっていたものよりもまだやさしいような初歩的な練習曲集を渡されたので、「ええ〜え?」と思ったのだが、思ったことが表情に出たのか、その先生はこちらが思ってことを理解したようで、「こうい基本的なことをきっちりと何度もやるのが大事だから」と言うのだった・・が、それから何十年か経った今思うには、あの先生はああいう「ごく初歩的な練習曲集」しか教える能力のない人だったのではないかと思う。高校の音楽の先生の教育実習に来た方など、相当難しい曲の楽譜をいきなり目の前に出されても、さっさとひいたりしていたのだがが、私はなぜそうなることができなかったのか、というと、小学校の6年になるかどうかの頃に、「男の子だから、ピアノはもうよろしい」と母から言われて、なんで、「もう、よろしい」のだろうかと納得いかないままにやめさせられた、ということがあるが、それとともに、ついた先生の違いというのもあるように思う。やっぱり、「ピアノの先生」と言っても「ピアノの先生」なのか「子供の世話やってる」のかわからない「ピアノの先生」ではなく、本当に自分自身もピアニストとしてやっていっている人、もしくはピアニストとしてやっていこうとした人に習わないと、その差は大きいと思うようになった。そうでなければ独習で学んだ方がかえっていいかもしれない。
  最近では、DVDというものができて、プロのピアニストが演奏会でひくところを見ることができ、特に、ピアノの鍵盤を指が動くさまを至近距離から映したものを見ることもできるのだが、1番目に習った先生から、私は指を寝かせてひいてる、もっと指を立ててひくべきだと言われて、それで、苦労して指を立ててひく練習をして、「なんだか、ひきにくいひき方をしろと言うものだなあ。なんで、こんなひきにくいひき方がいいのだろう」と思いながら、指を立ててひく練習をしたものだが、DVDで「世界的ピアニスト」の演奏を見ると、その頃の私よりもはるかに指を寝かせた状態でひいている人がいる。その1番目の先生は高校の音楽の先生が土曜日の午後に自宅で指導していたという先生だったと思うが、あの先生もまた、必ずしも適切でない指導をしていたのではないかと思う。
  それに対して、姉2人が習いに行ったピアノの先生はプロのピアニストとしてはどのくらいの人だったのかよくわからないが、ともかくもプロのピアニストだったらしい・・が、それにもかかわらず、姉2人はものにならなかった。 父が言うには上の姉のT子さんは「大変優秀な人」で「ドイツ人」だそうで、「T子さんはおまえとは違うねんぞ。おまえとは。おまえとは民族が違うねんぞ。T子さんはドイツ人やねんぞ。おまえのようなチャンコロとは民族が違うねんぞ。T子さんはおまえとはちごうて、ほんまは奈良女子大やねんぞ。ほんまは、ほんまはほんまは奈良女子大やねんぞ」と言うのだったが、そんなに「ほんまは奈良女子大」なら「ほんまは」ではなく「ほんまに」奈良女子大に行けばいいじゃないか、なんで行かないんだよお! と思うのだが、父が言うには「おまえが、大事なT子さんを奈良女子だに行けんようにしたんじゃ。チャンコロが悪いねんぞ、チャンコロが。チャンコロのおかげで大事なドイツ人のT子さんが奈良女子大に行けんようにされたんじゃ。えらい目に合わされたわ。チャンコロのおかげで」と言うのだったが、「要するに落ちたんじゃろうが。 落ちたもんが何を言うとんねん、何を」・・・と思うが、そう言うと、「おまえが落としたんじゃ、お前があ。このチャンコロめが。ひとのせいにすんなよ、T子さんはほんまは奈良女子大に通った人やのにからに、お前が落としたんじゃ。お前が落としたくせしてからに、落ちた者がいかんのじゃろなどとお前みたいなことを言う人間のことを心理学では『外罰的性格』と言うねんぞ。わかっとんのんか、外罰的性格! おまえがT子さんを落としたくせしてからに、ひとのせいにすんなよ」と言うのだった。だいたい、その「大事なドイツ人のT子さん」が奈良女子大を受けた時、私はいくつだったかというと小学校の1年であり、小学校の1年生がいったい何したと言うんじゃい?!? と思うのだが、「おまえさえ産まれなければ、もっとT子さんを応援してやることができてT子さんは奈良女子大に天地がひっくり返っても通ったたんや。たとえ、落ちても、おまえがおらんかったら、産まれなければよかったおまえを育てる費用がかからんかったらそのカネでT子さんを私立の4年制大学に行かせてやることができたんや。おまえが産まれてきたために大事なT子さんを短大にしか行かせてやれんようになってしもうたんや。すべて、悪いのんはおまえやぞ。おまえが産まれてきたことがいかんねんぞ。産まれてきたことを反省しろよ。T子さんに、『産まれてきて申し訳ございませんでした』と地面に頭をすりつけて謝れよ、チャンコロ!」と言うのだったがその「優秀なドイツ人のT子さん」というのはいったいどんな「応援」してほしかったのか?
  なにより、父は小学校の1年生なんて、その頃のことを覚えてないと思って言っているのだろうけれども、実は覚えているのであって、「大事なドイツ人のT子さん」は奈良女子大しか4年制大学を受けていないのではなく、私立大学も4年制大学をいくつか受けていて、それをことごとく落ちたのだ。落ちたから行けなかったくせして、「チャンコロが産まれたために、ドイツ人のT子さんが短大しか行かせてもらえんようになったんじゃ。反省しろ、チャンコロ。T子さんに土下座して謝れ、チャンコロ!」と言うのだったが、天地は何度もひっくり返るようで、T子さんは奈良女子大だけでなく二期校で受けた国立大学も落ちて、私立大学も落ちて、その「チャンコロ」だという私は武庫川女子大やなんてそんなもんまで落としたらしいのだ。なんとも、えげつない息子だこと。ほんと、「産まれなければ良かったのに」ということになる。「産まなかったらよかったのと違うのですか」と私は言ったのだが、「何を言うとるんじゃ、チャンコロ。ええかげんにせんか。おまえが産まれたんじゃろうが、おまえが。ひとにせいにすんな。おまえが産まれなければよかったの産まれてきたんじゃろうが」と言うのだった。ひとつの可能性として、私は人工中絶に失敗して産まれてしまったのかもしれないと思う。私は母に「お姉さんよりも、私にその先生に習いに行かせてくれれば良かったのに」と言ってみたのだが、母は「あんたは男の子やから、だから、男の子はどうせ中学校に行く時にはやめさせるんだから、いいかげんな先生でもええと思ったんや」などと言うのだが、その「やめさせる」ために練習させるというその考え方というものが私には理解できない。やめさせるためのものなら、最初からさせなければいいのと違うのか? と思うし、「男の子やからいいかげんな先生でもええ」というその考え方も理解できない・・が、黒田節のためのピアノの練習だった、ということなら、たしかに、「いいかげんな先生」でもいいことになるし、なにより、そんなピアノの練習みたいなもの、やったのが間違っていた。

  公立伝統校出身の人間というのは、中学校には音楽もあれば美術もあるので、ある程度以上は音楽も美術も学んできているのに対して、開成高校とかそういう「私立受験校」出身者は中学校から行った人間は音楽や美術は実質やっていないようだし、高校から入った人間も、公立伝統校出身者の場合は、私が入学した時の北野高校にしても、試験は当日の試験で数学・英語・国語・理科・社会の5科目が実施されるとともに、内申書で全科目(数学・英語・国語・理科・社会の5科目と音楽・美術・技術家庭・保健体育の4科目)についての成績が高校に提出されて総合点で合否が決められたので、中学校の時には音楽も美術もやっており、やらないと内申書の成績が悪くなって高校に落ちる可能性があるので、一般に音楽も美術もある程度以上の成績の者が公立進学校に行っていたのに対し、私が中学校を卒業した年の灘高校の入試の科目も数学・英語・国語・理科の4科目で、社会科はなく、音楽・美術・技術家庭も保険体育もなかったので、内申書の音楽や美術の成績が合否に影響する公立伝統校に行く人間に比べればやっていない人が多いように思えます。そういった「私立6年制受験校」から来ていた人を見ても、音楽や美術については、底辺の高校の生徒並みかそれ以下の人が多いようで、片方で、公立伝統校は伝統校であるゆえに、放っておいても成績のいい生徒が入ってくるというところから、「親方日の丸」のようになってしまっていたという面は現実にあると思いますが、他方、音楽や美術については底辺の高校の人並みかそれ以下みたいな人が入試にある科目だけ学習して東大とかに合格したとしても、はたしてそういうのがいいのだろうか・・と思ったりもしますが、宴席で黒田節を歌わせられるために、小学校の時からオルガンの練習をしてピアノの練習をして、発生練習して腹筋運動して、コールユーブンゲンやって、「おまえ、黒田節、歌え。おまえ、歌うまいから黒田節ええわ。黒田節を歌え。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロ。チャンコロ、黒田節、歌え」とされるのなら、そんなことなら、音楽も美術も学習しない方がよっぽどいいように思います。

  北野高校は行きたいと思って行った学校だったので、合格した時はうれしかった・・が、卒業してみると、良かったのかどうかよくわからない。良かった面もあったかもしれないが、そう言えない面も間違いなくあった。『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)の著者の柴田孝之が「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは、多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書いていたが、私もそう思う。この点についての認識が欠けていた、というのが高校の時の私にとっては大きな欠点だったと思う。 親が賢明な親の場合、親が息子にそれを教えたりすることがあるようだが、私の親にはそういう能力はなかった。親にそういう能力がない場合、生徒は高校の教諭に期待するのだが、期待を裏切る人、期待の逆をする人もいた。私の場合、特に、2年の時、旧姓S野礼子(女。当時、20代。北野高校→神戸大文学部卒。結婚して「T地」、その後さらに離婚したかしないかは知らん・・)に担任されたのが不幸だったところもある。あいつがいた、という点から考えると、それ以外でどんなにいい面があっても、最低・最悪・最凶の学校だったと思う。
  父は「うちは学校の先生になんかならせるような金持とは違います」と言っていたのだが、旧姓S野は「私は両親が離婚したから」というのを自慢にしていた女だったが、不思議なことにその「両親が離婚した」という女でも高校の先生にならせてもらっていた。しかも、父は「たとえ、学校の先生になるにしても、数学か英語の先生でなかったら家庭教師のアルバイトができないから、なってはいかん。国語や社会科や理科の先生はなってはいかん」と言いまくったが、旧姓S野は「両親が離婚した」にしては国語の先生という職業についていた。よっぽど「甘ったれとる」人間だったのだろう。父は「うちは文学部なんか行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と言い続けたが、旧姓S野は「両親が離婚した」わりに神戸大しか行けないくせして文学部に行っていた。「両親が離婚した」としても、それでもよっぽど金持ちだったのだろう。そういう「両親が離婚した」というのを最大の「売り」にする女は、「両親が離婚した」女だけの担当になればいいのではないか。そうでない人間の担任になるのはやめてもらった方がいい。 あの女、私にいったい何の恨みがあったのかと思うが、私なら、たとえ、東大の文学部か京大の文学部でも「うちは文学部になんか、行かすような金持と違います。甘ったれなさんな」と言って行かせてもらえないのに、神戸大の文学部になんてくそどあつかましくも行ってふんぞりかえっていたが、何様のつもりなのか、と思う。よっぽど甘ったれておったのではないか。
   (2019.3.20.)

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高校合格発表と芸術科目選択の想い出。黒田節による音楽のバビロン捕囚 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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