同志社今出川【10/13】同志社女子大栄光館。武田五一知ってる? 学校は建築家が完成させない方が良い

[第448回]
  同志社大学と同志社女子大学は隣接してあります。なんで、共学の同志社大学と女子大の同志社女子大学があるのだろう、それも隣同士にあるのだろう・・と高校生から高校卒業した頃、思ったことがあったのですが、もともとは同志社大学というのは男子校で、女子の行く学校として同志社女子大学が作られ、男子校だった同志社大学が共学になったことから、共学の同志社大学と女子高の同志社女子大学が隣接してあるようになった、ということらしい。
  円満寺 洋介『京都・大阪・神戸[名建築]ガイドマップ』2011.10.31.エクスナレッジ)に掲載されている同志社の建物6棟の最後は「同志社女子大 栄光館」で、これまでの5棟は同志社大学の敷地にありましたが、 「同志社女子大 栄光館」は同志社大学の東側に隣接している同志社女子大学の敷地にあります。↓
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↑ 同志社女子大学 の入口から見ると↑のように見えます。
≪武田の赤いスパニッシュ 同志社女子大学 栄光館
1932年 武田五一
京都市上京区今出川通寺町西入ル≫
≪ルート最後は、いよいよ武田の登場である。実は武田の赤レンガ建築は少なく、わたしは他では見たことがない。縁取りのないシンプルな3連アーチがスパニッシュ的だから、わたしはこの同志社女子大学栄光館を赤いスパニッシュと呼んでいる。スパニッシュは白亜が基本だが、同志社の赤レンガコンセプトに合わせて赤くしたのだろう。 ちなみにこれはレンガ造りではなく鉄筋コンクリート造りである。≫
( 円満字 洋介『京都・大阪・神戸[名建築]ガイドマップ』2011.10.31.エクスナレッジ )
1932年というと、
「ひどく醜い(1932)、5.15事件」の年。
「人、苦しみ、災(1931)、満州事変」の1931年の満州事変の翌年。
「ひどく寒い(1936)、2.26事件」の4年前。
「人、苦しみ、皆(1937)」の1937年の盧溝橋事件、日中戦争開始の1937年の5年前。
  ≪ルート最後は、いよいよ武田の登場である。≫・・なんて、なんだか、その「武田」という人は誰もが知っていてあたりまえみたいな表現、「いよいよ武田の登場である」なんて、なんだか、日曜の夜、待ちに待ったウルトラマンだかウルトラセブンだかが始まるぞお・・みたいな感じの表現なのだが〔⇒《YouTube-武田アワー オープニング 1967 》https://www.youtube.com/watch?v=j3-NC1YFJCo 〕、関西系の「建築家」業界で生きている人にとっては、京都大学の建築学科の教授で、
≪京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し≫た人で、≪関西建築界の父」とも言われる日本の建築家≫(《ウィキペディア-武田五一》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%94%E4%B8%80 )だという武田五一という人は「知らないなどとは口が裂けても口にすることは許されない」と思っているかもしれないけれども、私は「京都大学の建築学科の教授で、京大の建築学科の基礎を作ったという人らしく、京都大学の正門を入ってすぐの時計台記念館を設計した人らしい」とどこで知ったかというと、京都大学のその「時計台記念館」が誰でも無料で見学できる展示館になっていてそれを見学した時に知ったのだ・・;けれども、私は建築屋業界に勤めてきた者であって「建築家」業界に勤めてきたものではないが、それでも、建築の仕事についてきた者で、自分自身を「(建築家+建築屋)÷2」と定義づけている者なので、「名前くらいは知っている」けれども、しかし、一般人は知らない人の方が多いのだ。円満字洋介さんは、そのあたりを認識した方がいいのではないかと思う。私より年下とはいえ、京都精華大学・摂南大学などの講師を務めているという先生に言うことではないのかもしれないが、実際、「一般人」は知らんと思うよ。また、『近現代の建築史』とかいった本にも、前川國男とかは載っていても、武田五一が載っているかどうかはわからん。それだけ、東京系の「建築家」が「日本建築家史」においては幅をきかせているのかもしれないが、「関西系・建築家業界」の人間の感覚がどこでも通じると思わん方がええと思いますよ。
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  《ウィキペディア-武田五一》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%94%E4%B8%80
 によると、同志社女子大学の今出川キャンパスでは、武田五一は栄光館(1932年)のみでなく、他にジェームス館(1913年)の設計を担当しており、いずれも登録有形文化財に指定されているらしい。他に、円山公園(京都市)(1912)・桜之宮公園(大阪市)(1923)や瀧安寺(大阪府箕面市)鳳凰閣(登録有形文化財)(1917)、肥後橋・渡辺橋(大阪市)(1926)も武田五一の設計らしい。
※箕面山 瀧安寺「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map
※箕面山 瀧安寺の鳳凰閣の写真は⇒[第23回]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回〔引越掲載〕》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201101/article_25.html

  ヤフー地図に単に「同志社女子大学」と入れて「検索」をクリックすると、京田辺キャンパスの方が出てきた。同志社女子大学HPによると、学部により今出川キャンパスにあるものと京田辺キャンパスにあるものが分かれているらしく、同大学HPの「学部・学科・専攻科・大学院」https://www.dwc.doshisha.ac.jp/faculty_dep_info
によると、
表象文化学部・生活科学部というのが今出川キャンパスにあり、
学芸学部・現代社会学部・薬学部・看護学部が京田辺キャンパスにあるらしい。

  ところで、皆さん、ご存知のように、同志社大学は共学だけれども、同志社女子大学というのは女子大なのだ。ということは、男性は基本的には入っちゃいかん所ではないかと思うのだ・・が、なぜか、私の手元に↓なんて、普通に見て敷地内から撮影したような写真があるのだ。↓
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↑ な~んでだ? ・・というと、わたくしは、昔から「人畜無害」な人間と見られていたので、女子大も入らせてもらえたということなのか? しかし、この場合、「人畜無害」というのはほめられてるのかけなされてるのか、どうもようわからん。今は昔、20代前半の時、母の知り合いの人の中学生の娘の家庭教師をやってくれと頼まれ、夏休みの間、我が家に週に1回だったか2回だったか娘が来て勉強を見たことがあったのだが、その際、母が「帰りはこの子にお宅まで送らせますから。この子は大丈夫ですから」などと言ったのだ。で、その時、思ったのだが、その「大丈夫ですから」てどういう意味なんだよ? な~んかこう、ほめられたのかけなされたのか、どっちかというと、あんまりほめられたのではないような感じがしないでもなかったのだが。そういうことで入れてもらえたのか?
  ・・そういうことではなく、同志社大学の方は共学の大学なので、かつ、過去に受けたことがある大学なのでその分だけ親しみもあり、入らせてもらったのだが、同志社女子大の方については、「男子、危うきに近寄らず」、「瓜田に靴を入れず」「李下に冠を正さず」の心がけで、あくまで門の位置から中を拝見して帰るつもりでいた・・のだけれども、ふと、気づくと↑の写真を撮影できる位置に来ていたのだった。
  神と聖書の前に言うが、けっして塀を乗り越えて入ったのではないし、「抜き足、差し足、忍び足・・」と「こそ~っと」入ったのでもない。同志社女子大の西側の同志社大学の啓明館などがある区域に入って、アーモスト館てのはどこなんだろう・・・とか思いながら、そのへんをごそごそ歩いていると、あれっ、円満字洋介『京都・大阪・神戸[名建築]ガイドマップ』(2011.エクスナレッジ)に写真が出ていた同志社女子大栄光館みたいな建物があるぞ。でも、同志社大学の方から入って、どこぞの風呂場覗きみたいに別に塀を乗り越えて女子大の領域に侵入したわけではなく、あくまで、同志社大学のエリアでアーモスト館てどこかいなあ~あ・・・と思いながら、ごそごそそのへんを歩き回っただけなのだが・・なんて言うと、嘘くさいと言う人もいるかもしれんが決して嘘ではない。 では、どうして、同志社女子大の栄光館の前まで来たのだろう? 途中、女子大生みたいなねーちゃんともすれちがったけれども、「ここからは女子大ですから、入ってはいけませんよ」とも言われなかったというのは、やっぱり、私は「見るからに人畜無害」だったのだろうか? 「見るからに人畜無害」というのは、それはほめてるのか、けなしてるのか? なんか、あんまりほめてるのではないみたいな感じではあるけれども・・。
   庄司薫が『バクの飼い主めざして』で書いていたのだが、庄司薫は大学の構内を歩くのが好きで、東大の合格発表なんて見に行くと、30過ぎるくらいまでサークルの勧誘やってるにーちゃんから入部を誘ってもらったりした「実力」もしくは「実力のなさ」があったというのだが、私もそんなところがあったのだけれども、今ではさすがにもう大学生には見えなくなってきたので、大学の講師の先生か大学の事務職員かと見られた・・のかもしれません。
   ともかく、だ。「同志社女子大に御用の方は、門衛所までお越しください」だか書いた札がそのへんに出ている・・・ということは、やっぱり、男が黙ってそこにいてはまずい・・・んだろうな。 ということは、その門衛所に行ってなんたらかんたら言うか、それとも、「おい、早く出ろ出ろ。こんな所、入っちゃだめだ。早く出ろ」と、今は昔、1993年、東京都江東区亀戸の城東マイホームセンターに出展した(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の「セゾン」という商品名をつけた建物の住宅展示場に入りかけたおっさんが、「おいおい、『一条工務店』なんて書いてあるぞ。早く出ろ。こんな所、入っちゃだめだ。ここは西武じゃねえぞ。出ろ出ろ。一条工務店なんて入っちゃだめだ。早く出ろ」と言って出て行った・・・と同展示場に勤務していた営業社員から聞いたように、やはり、1993年、千葉県松戸市岩瀬のハウジングギャラリー松戸に(株)一条工務店が出展していた住宅展示場に、向かいの住友林業(株)の展示場から出てきた家族連れのうちの男の子が、次は向かいに入るものだと思って入ってくると、その母親が外から「ちょっと、◇◇、出てきなさ~い。ここは入らないの。ここは入っちゃだめな所なのお! 早く出なさ~い! ちょっと、◇◇。早く出て来なさ~い。 ここは入っちゃだめ~え! ここは入っちゃだめな所なのお。早く出なさいってえ~え!」と大声で叫んだということがあったが、そんな感じ。「ここは入っちゃだめな所なのお」「早く、出なさ~い」・・て感じで、さっさと出た。まあ、別に特別悪いことしに行ったのでもないんだけれども、門衛所に行ってどうこう言うほどのものでもないので、さっさと出る方を選んだ。
  ・・それにしても、1992~1993年頃の(株)一条工務店の東京圏の展示場においては、↑のように、「ここは入っちゃだめ~え!」と玄関で叫ばれたり・・というそんな感じで、それに対して、矢鱈と評価が高い「浜松の(株)一条工務店」で仕事をさせてもらっていた(株)一条工務店の遠州人というのは、それでいて静岡県西部・愛知県のみテレビ広告をドカンとやり、東京都で坪55万円のものを浜松・掛川では坪48万円でダンピング販売していたのであったが、「(株)一条工務店の遠州人」というのはなんとも身勝手な連中だった。
  営業の仕事をするにおいては、若い頃、「浜松の(株)一条工務店」みたいなその地域で評価が高い場所で経験するよりも、「東京圏の(株)一条工務店」のような「おい、ここは西武じゃねえぞ、一条工務店なんて書いてあるぞ。早く出ろ。こんな所入っちゃだめだ」 「ここは入っちゃだめな所なのお。早く、出なさ~い!」と言われるような場所で営業の経験をした方が営業としていい経験になる・・というところもあると思う。2001年、(株)一条工務店がNHKのテレビ番組「プロジェクトX」でヤマト運輸が宅急便を始めた時の話を営業社員に見せたことがあったが、その番組で、最初、宅急便を始めたばかりの頃、なかなか頼んでもらえなくて、「セールスドライバー」がその頃を思い出して、郵便局の前に行って、小包を出そうとしているおばあちゃんに「おばあちゃん、その荷物、私に運ばせてもらえませんか」と言うと、そのおばあちゃんから「これはね。孫に送る大事な荷物なんです。大事な物だからあなたには頼めません。郵便局に頼みます」と言われましたと話していたことがあったが、私が入社した1992年頃、東京圏における(株)一条工務店はまさにその時のヤマト運輸のようなものだった。私はそういう場所で仕事をしたが、それに対して、(株)一条工務店の浜松・掛川あたりの営業は「一条工務店」の名前さえ出せば、「ちょっと相談に乗ってもらいたいんだけど、私は年収は・・で、年齢は・・なんだけれども、こういう者でも家は建てられるものでしょうか」と言われたりするというそういう場所で、テレビ広告をドカンドカンとやって、東京圏で坪55万円の「セゾン275S1」を坪48万円でダンピング販売してきたのであったが、(株)一条工務店の遠州人のオーナー経営者というのは、「その荷物、私に運ばせてもらえませんか」と言うと「これは大事な物だからあなたには頼めません」と言われる地域で営業やってきた人間よりも、「一条工務店」の名前さえ出せば評価してもらえるという浜松・掛川などで営業してきた者の方を高く評価するという人間、(株)一条工務店が「評価の高い浜松などで営業させてもらってきた人間」、「空の広さは浜松の広さと同じだ」と思ってる人間が大好きな連中だった。「おい、ここは西武じゃねえぞ、一条工務店なんて書いてあるぞ。早く出ろ。こんな所入っちゃだめだ」「ここは入っちゃだめな所なのお。早く、出なさ~い!」と言われる場所で悪戦苦闘してきた者を粗末にし、「一条工務店」という会社の名前さえ出せば高く評価してもらえる場所で勤務してきた者を矢鱈とかわいがる人間だった。
   で、なんで、私は男性は「入っちゃだめ~え」のはずの女子大の領域に入ってしまったのかというと、共学の同志社大学の敷地内だと思い込んで歩いているうちに、ふと気づくと同志社女子大の栄光館の前まで来ていたのだった。 同志社大学と同志社女子大は隣接しているということは行く前に地図など見て知っていたのだが、間に塀でもあるだろうと思っていたのだが、知らん間に女子大のエリアの方に入っていたのだ。
   なぜ、そうなったのだろうと思い、もう一度、同志社大学の方の入口から入って、今度は「男子、危うきに近寄らず」のエリアに入ってしまわないように用心しながら近づいていくと、↓
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↑知らないうちに、ここ↑を通って女子大のエリアに入ってしまっていたらしい。よくよく見ると、左になんか看板みたいのがあるような感じがしないでもないが、まさか、共学の同志社大学と女子大の同志社女子大の間に行き来できる通路があって、しかも、そこに門番みたいな人ひとりいないとは思わんかったのだ。 ・・・まあ、なんか悪いことしに行ったのと違うから、あくまで、「建築探偵団」なのでかんべんしてちょうだい。
  今は昔、北野高校の生徒で熱田神宮に草薙剣を盗みに行った・・という男がいた・・そうだ。私ではない。体育の先生が剣道の授業の時に教えてくれた話である。熱田神宮にあるということになっている草薙の剣ちゅうやつを、いっちょ、盗み出して検分してこましたろか・・と豪傑は考えたらしいのだ・・が、豪傑ではあるけれども、そうはいっても窃盗は犯罪なので、たとえ、泥棒やるにしてもそのへんでしょーもないもん万引きするよりも、熱田神宮にある草薙剣ちゅうやつを盗み出して検分してこましたろ・・という方がええ・・かもしれんとしても、それでも、ほめるというわけにもいかんか・・と思っていたら、1980年代前半、新聞を見ていると、慶應義塾高校の生徒が東京都の女子高に忍びこんで女の子のブルマーを盗もうとして捕まった( 一一) ・・・という記事が出ていた。 ・・なるほどなあ、そのあたりが、北野タイプと慶應タイプの違い、「元旧制中学校の公立伝統校」と「慶應の内部進学」との違いだなあ~あ・・と思ったものだった。たとえ、泥棒やるにしても、「熱田神宮に草薙の剣」と「女子高にブルマー」とでは、「熱田神宮に草薙の剣」の方が男のロマンが感じられる! それに対して、女子高にブルマー盗みに行くやつて、「いかにも慶應内部進学」て感じがする( 一一) ・・それで、だ。「元旧制中学校の公立伝統校」出身者にして「建築探偵団」としては、女子高・女子大にしょーもないもん、なんかくさそうなもんを盗みに行くようなことはしない。もしも、女から何かを盗むなら、その時は、女の心を盗め!♪!♪!・・・『ルパン3世 カリオストロの城』で最後の最後、銭形が「待てえ、ルパ~ン!」と追いかけて来たところに、王女さんが「いいえ。ルパンさんは今回何も盗みはしなかったわ。あの方は私を守ってくださったのです」と言うと、銭形が「いいえ。ヤツはとんでもないものを盗みました。それは、あなたの心です」と言う場面があった・・・よな。まがりなりにも、ロマンのかけらを持つ男としては、女子高・女子大にブルマー盗みに行くなんてそういう「慶應内部進学タイプ」みたいなマネはできんな。もしも、女性から何かを盗むなら、女の心を盗め(^^♪・・・て、少々キザ・・・かもしれんが、「女子高にブルマー盗みに行くタイプ」(=「慶應内部進学タイプ」)よりはいいだろ。
※《YouTube-ルパン三世/TV・ED 》https://www.youtube.com/watch?v=5-0swe-Sd5o
  ここで知ったのだが、守衛さんというのは男であることが多いのだけれども、同志社女子大の門衛所の守衛さんは、女子大だけあって男性もいたけれども女性の守衛さんもいた。なるほど。

  建築は何回か見学に行くと1度目に感じた印象と異なる印象を2度目・3度目に感じることがあり、又、過去にそこで過ごした所に何十年か後に訪問すると別の印象を受けることもある。 1985年(昭和60年)というきりのいい年、この年、何があったかというと阪神タイガースが優勝・日本シリーズでもその当時、圧倒的に強かった西武ライオンズを破って日本一になった、という年である。なにしろ、しょっちゅう優勝するチームと違って阪神というのはたまにしか優勝しないから、「阪神が優勝した年」というのを覚えておくと、「ああ、あの年なあ」とわかりやすい。その「阪神が日本一になった1985年(昭和60年)」に横浜市港北区日吉の慶應大学日吉キャンパスに「東大の建築学科を卒業されて慶應で教えておられる槇文彦先生」が設計なさったという慶應日吉新図書館というものが竣工したのだ。私は着工前のその場所も知っているし、工事中も前を通っていたし、竣工後、図書館が利用できるようになってからも入館して利用させてもらったのだが、槇文彦先生という方は「建築家」業界においてはビッグネームらしく、慶應幼稚舎卒で竹中工務店の会長の孫らしいのだが、実際問題として日吉新図書館はあんまりいいとは思わんかった。
   但し、いいと思うか否かにかかわらず、私にとっては慶應の日吉新図書館というのは、「建築家」というものを考える上においてきっかけになる建物だった。その時、私は建築学科の学生ではなく、もとより、慶應には建築学科はなかったし、私は建築の仕事につくつもりにしていなかったので、一般人としての感想だったのだが、他の「普通の人」が設計した建物と比べて特別にいいとも思わなかった。むしろ、デザインにばかり凝って、特に必要でもない装飾にカネをかけて、「座席が不足することなく、すべての学生が席に座ることができるようにしたい」「書籍を図書館員に頼んで出してもらうのではなく、すべての書籍を書架に並べて、学生が手に取って見ることができるようにしたい」ということで、それまで日吉にあった藤山記念図書館では狭いということで、新しい図書館を作った・・というのだが、そのわりに、読書や自習のために席を利用しようとすると空席がないし、新しい図書館ができても、なお、図書館員の方にお願いして出してもらわないといけない書籍があるし、又、読書や自習をしようとした際、机の面が暗かったり、又、東京都内の繁華街にあるのではなく、東横線「日吉」駅の前の広いキャンパスの中にあって、隣の建物までの距離はけっこうあるのに自然光を取り入れる工夫が十分になされておらず、「だんだんと緑色の濃淡が変っていく壁面」とか図書館を利用する者にはどうでもいいような所にばかり気が使われており、なによりけしからんと思ったのは、トイレの壁の材質が、落書きをしようと思っても書けないような材質の物を使用して落書きをさせないようにしていた、という点だった。大学の落書きというのは、青春もの・政治もの・猥褻もの・・といずれも見るとなかなかの名作があっておもしろいのだが、そうは言っても落書きである以上、積極的に奨励すべきものではないかもしれない・・けれども、書こうと思っても書けない材質の物を使用することで書かさなくするというのは、これは大学という所においてはけしからんことだった。私が子供の頃、行っていたカトリック系の幼稚園では、門から幼稚園の入口までの途中にマリア像があって、毎朝、そこで両手を合わせてマリア様に拝んで通っていたのだが、それから10年少々経って『聖書』を自分自身で読んでみて、キリスト教においては「偶像崇拝の禁止」という考え方があり、マリア像にしても芸術作品として作るとかなら悪くはないとしても、拝むものではないのではないのか・・などと考えたりした。慶應義塾には三田に「『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり』と述べた福澤諭吉の像であるから、普通の人と同じ大きさで、普通の人と同じ高さで、誰もがすぐそばまで行くことができる位置にある福澤諭吉の胸像」というのが三田新図書館の脇にあったのだが、ところが、日吉新図書館ができると、「普通の人間よりもひとまわり大きい福澤諭吉像」というのが「その前を通らないと図書館に入れない位置」に作られてしまった。おそらく、福澤諭吉の著作や伝記など一冊も読まずに「福沢精神!」と叫ぶのが大好きというそういうタイプの人が造ったのではないかと思う。創立者というものは「えらい人」であり、「えらい人」の像というものは普通の人間より大きくあるべきだという思想の人が造ったのでしょう。一般に、「普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる位置に」像を造られる人と、「普通の人間より大きい大きさで・普通の人間より高い位置に・すぐそばまで行けないように柵があったり生け垣で隔てられたりして」像を造られる人であれば、前者の人の方が値打ちのある人であることが多いのだが、そういうことをわからん人が造ったのでしょう。
  しかし、それから30年ほど経ち、何の因果か建築業界の会社に勤め、さらに愛知産業大学の通信課程の建築学科に編入学させてもらい、「現代建築論」とかそういう科目を学んだりして「近現代建築家」と言われる人の設計した建物を見学に足を運んで見てみると、「構造や機能に必要がないデザインにばかり凝っている」という点については、槇文彦なんて軽症も軽症。「世界の丹下健三」なんてのは、「竣工時から雨漏れがした」東京カテドラル聖マリア大聖堂とか、なんで都民はこんなものにカネかけさせられなければならないのかと新聞紙上で議論された東京都庁舎とか、槇文彦なんかよりもはるかにすごい! この場合、「すごい!」というのはひとによってはほめ言葉として「すごい!」と言う人もあるかもしれないが、ここでは私はほめ言葉として「すごい!」という言葉を使っていない。
  そして、何より。「世界の丹下健三」について気に入らないのは、「いついかなる時も自分が一番目立たないと気がすまない建築」「自己顕示欲の塊建築」「いついかなる時も周囲が自分に合わせるべきだ建築」という点である。前川國男の東京都美術館は、上野公園の景観を維持するためにということもあって、地上2階で地下1階にしたというが、そういう事情がなくても前川國男の建物は周囲の自然環境や先住建物との調和というものを常に考えて作られている。熊本県立美術館などは、そこは熊本城の敷地であると認識して、主役は熊本城であり美術館が主役ではないと外観は控えめでありながら、美術館専用のスペースに入るとともに美術館としての自己主張が出てくるようになっている。丹下健三設計の建物というのは、ほとんどのものが「周囲が自分に合わせるべきだ建築」になっており、その強迫観念にとらわれたような精神構造というのは何とかならんもんかという気持ちになった。そういうものを見てきた上で、日吉に行って槇文彦設計の慶應日吉新図書館を見て、三田に行って槇文彦設計の慶應三田新図書館を見ると、いずれも、周囲の先住建物との調和ということを考えて作られているという点に気づいた。「世界の丹下健三」の「いついかなる時も周囲が自分に合わせるのが当然だ建築」と比べると当然かもしれないが、日吉の新図書館はそれまでの先住建物が白色・グレー系のものが多いことから新図書館もその系統の色合いで作られており、三田の新図書館は、三田の建物はエンジ系・茶系のものが多いということから三田の新図書館もその系統の色合いで作られている。学生の時はマイナス面を多く見たけれども、そうでもなく、周囲の先住建物との調和を考えた建物になっているし、「構造や機能に必要がない装飾」にしても、気にせずにその施設を利用していると特に気にならないで、よく注意して見ると気づくというものがあり、そのあたり、「世界の丹下健三」の「見てちょうだい建築」よりも上品なところがあると思えた。
  槇文彦 設計の慶應日吉新図書館、および、慶應三田新図書館は先住建物との色彩的調和を考えて設計されている。槇文彦設計のものでは、東大本郷の法科大学院棟は、最近では建物がかつてに比べて過密になってきた東大の本郷キャンパスにおいて、透明感のあるスケルトンというのかのデザインになっており、それも周囲の状況を考慮されており、それらはプラスに評価されるものだと思うが、武田五一の栄光館も先住建物との調和を考慮した色彩のものになっていると思う。

  この同志社大学および同志社女子大学の建物だが、関西でキリスト教系の大学というと、やっぱり、同志社と関学を思い浮べるが、いずれもプロテスタントだけれども、同志社は組合教会系であるのに対し、関学はメソジスト系と違うらしく、神戸女学院は同志社と同じ組合教会系らしい。大学の建物については、こちらは、関学と神戸女学院がいずれもウィリアム=メレル=ヴォーリズが全体を計画的に設計した建物で、関学の文学部教授らしい田淵 結(むすび)さんが「ヴォーリズと関西学院-重なり合うそれぞれのあゆみ」(『ヴォーリズ建築の100年』2008.2.10.創元社 所収)で≪関西学院に属する者としては「日本一美しいキャンパス」と自負を込めて語りたくなる関西学院西宮上ヶ原キャンパス≫と書いておられるが、ウィリアム=メレル=ヴォーリズが全体の構想を考えて設計した関学の上ヶ原キャンパスはたしかに美しく、そして、神戸女学院もまた(これは女子大だから男は見学に行きにくいのだけれども)、ヴォーリズが全体を考えて設計したものらしい。この点では関学と神戸女学院に共通性がある。同志社は組合教会系という点で神戸女学院と共通しているようだが、大学の建物については、今回、見てまわったものでも、
同志社
礼拝堂・有終館・・・ダニエル=クロスビー=グリーン
クラーク記念館・・・リヒャルト=ゼール
明徳館・・・大倉三郎
啓明館・アーモスト館・新島遺品庫・致遠館・・・ウィリアム=メレル=ヴォーリズ
同社女子大
ジェームス館・栄光館・・・武田五一
・・と何人もの人がそれぞれ別の建物を設計しているという点で関学や神戸女学院とは異なる。
  関学のように全体をひとりの設計者が計画して作ったものの美しさというのもいいが、同志社の場合は、個々の建物は別の人が設計しているが、それぞれの人がその場所に調和する建物ということを考えて設計しているようであり、何人もが設計して建てられたにもかかわらず、全体に調和があるように思われ、そこが同志社の今出川キャンパスのいいところではないかと思う。・・もっとも、今回は、大学の授業はもう終わった時期に行ったので通行人は少なかったのだが、私立大学の場合は、国立大学と違って、どうしても、人口密度が高くなりがちであり、学生が多い時期に来て見ると、印象はまた違うかもしれないが。

  この後、京都御苑を通り、聖アグネス教会や大丸ヴィラ(元 下村正太郎邸)の前を通って「丸太町」駅から帰った。次回以降、そのあたりと全体について述べたい。

  大学の落書きを肯定しているようなことを述べたが、私は「歴史的建造物」への落書きというものを肯定するつもりはない。しかし、片方において、大学という所においては、ロンドンのハイドパークにおける「スピーカーズコーナー」のような場所、そこでは「(女王の悪口以外は)何を述べてもいい」とされる、又、それに対する反論もまた述べていいとされる場所というものがあっていいし、あるべきだと思うのだ。 それは口頭に置いて発言するのも認められるべきだし、掲示において発言するのもまた認められるべきだと思う。だから、慶應日吉新図書館のトイレの壁が書こうと思っても書けない材質の物を使用していたというのは、あれは落書きよりも間違いなくはるかにけしからんことだったと思う。関学や神戸女学院はヴォーリズが全体を考えて構想したというのは悪いわけではないし、同志社の今出川キャンパスが、個々の建物の設計者は異なるものの、全体の調和がとれたキャンパスの景観になっているというのも悪いことはないのだが、歴史的建造物だらけになって、掲示ひとつ出したいと思っても出せない・出しにくい・・となると、そういう状態というのは大学のあり方としていいのだろうか・・と思ったりもする。

  もうひとつ、落書きについては、非常事態のようなケースについては、その場合には歴史的建造物も「名作」もへちまもあったものではない、という場合がある。
  青年医師連合東大支部編著『現代の医療被害』(1978.8.31.三一書房)から引用する。
≪ 1969年の東大闘争以来、医局講座制の解体と人体実験教授 台弘(うてな ひろし)追放の運動が未だ執拗に続けられている東大病院で昭和48年10月のある日 1枚の告発ビラがまかれた。それは「医療被害をなくする会」と「精神医療を考える市民運動の会・城北ブロック」の市民運動団体によるもので、「東大病院脳外科で検査と称して行われたてんかん患者坂本一仁君(当時11歳)への定位脳手術(ステレオ手術)によって全身運動麻痺、話をすることもできなくされた」という内容で、坂本一仁君に対する人体実験を告発し東大脳外科および東大病院の責任を追及するものであった。
 東大病院では、被害を受けた患者・家族が病院前でビラを配ったり、病院内の壁という壁に医療過誤をおかした医師への怨みをマジックやペンキで書きなぐるといった現象は、東大闘争後の新たな状況としてめずらしいことではない。この1枚のビラも、医学生・医師・看護労働者などに強い衝撃を与え、病院内部からの告発への支持ビラや公開質問状などが多数出されるなかで、前記の二市民団体に医学部学生自治会・東大精神科医師連合が加わって公開討論会が行われることとなった。
 公開討論会では坂本君へのステレオ手術の批判は、まず手術の同意をめぐっておこなわれた。保護者である母は「骨に穴をあけて行う検査」としか説明されていないと主張し、それを裏づけるように看護日誌にも母が入院に際し入院目的をそのように理解していた旨が記載されている。これに対し受持医である吉益医師は、母を何度も呼出したが来院しないので電話で説明して手術の同意を得たと言うのであった。同意をめぐる両者の対立は、本当に吉益医師が電話をかけてきたのか否かということにもまして、電話一本で手術の同意を得ることがそもそも可能かどうかという根本的な差異を示した。どのような外科手術であれ、人体にメスを加えることには変わりはない。・・
  ・・坂本君の手術の場合、母への同意が問題になっているが、本人に対してはどうか、吉益医師は「坂本君は精神薄弱で字も書けないし、子供だから同意をとっていない」という。これは治療者の一方的論理である。坂本君への同意は何によって可能か、ということと、「同意がとれない」人への「実験的治療」は許されるかという二つの重大な問いが発せられる。・・
  ステレオ手術は直接目で見ながら手術目標に達するのではなく、気脳像(PEG)や気脳室像(PVG)から間接的に手術目標の位置を求めてこれに手術針を刺入して、しかもこの部位を動物実験やその他の刺激実験で確かめた方法と条件で破壊するのであるから、被術者が覚醒しており、脳座標の標準にちかい構造であることが原則である。東大脳外科は嫌がる坂本君を注射で眠らせ、全身麻酔で手術したがゆえに、誘電発位による位置確認ができず解剖学的な推定しかしていず、それさえも脳室拡大があるため手術には視床内外の他の部位を破壊する危険は十分あったのである。・・≫
東京都文京区本郷の東大医学部付属病院(俗に「東大病院」と称しているが、この表現だと東大医学部卒の医者が診察しているかのように思われてしまうが、実際には東大医学部という「帝国主義医学部」の「植民地大学」である私立金権医大卒の医者が「診察」しており、「看板に偽りあり」・・というか、これは不当表示ではないかと思うのだが)は、現在は↑で≪病院内の壁という壁に医療過誤をおかした医師への怨みをマジックやペンキで書きなぐるといった現象≫が起っていた建物の南側に新しい建物ができて、そちらが「東大病院」として「診療」がおこなわれているようです。↑のように、医療過誤、もしくは「医療」に名を借りた「医者」と称する狂人による傷害行為に対する抗議を「患者」やその家族・支援者が病棟の壁に書きなぐる・・といったものを、厳しく取り締まるとなると、それは、加害者に加担する行為と評価されるでしょう。・・「革命はお客を招いてごちそうをすることではない」と毛沢東は『湖南省農民運動視察報告』で述べたが、↑のようなケースにおいては、「落書きというものが一般論として好ましいものではない」なんてことは、もはや、関係ない。もはや、「お客を招いてごちそうをすること」ではないし、「刺繍に花をつけたすこと」でもないのである。
  東大病院で「医療被害」にあっている「患者」が医師などを告発する文章を壁に書きなぐるというのは、それは「造反有理」(反逆には理由がある)とでも言うもので、東大病院の建物が価値のある建物であろうがなかろうがそんなことは関係ない。この認識は、歴史的建造物は大事にするべきだということと相反するものではなく、物事の両面であると私は認識する。

  もうひとつ、関学など全体を計画的に造られたキャンパス、同志社の今出川のように別々の設計者が設計したものの、結果として、全体が調和している・・けれども、ほぼ完成したような状態の建築について不安を感じる点がある。それは、大学であれそれ以外であれ、学校というものは「完成した状態」であるのが好ましいのだろうか? という疑問である。東京の新宿駅の西口に「世界の丹下健三都市建築設計事務所」が設計したという「コクーンタワー」という空から巨大な文鎮が落下してきたみたいな建物がでのだが、ま~たまた、「世界の丹下健三都市建築設計事務所」が得意とする「自分が一番目立たないと気がすまない建築」「周囲に自分が合わせるのではなく周囲が自分に合わせろ建築」で傍若無人なものを作りやがった・・と気分が悪かったのだが「コクーンタワー」は何の建物なのかというと東京モード学園というファッションデザイン・インテリア・美容などの専門学校が入っている建物らしい・・が。はたして、そういったデザイン関係の学校の建物としてあれがふさわしいのか。
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↑を見ていただきたい。千葉県船橋市の船橋卸売市場の外壁であるが、外壁面は区画割されていて、もともとは何も描かれていない状態であるから、そこに、誰もやらが絵を描いたりしてそれが装飾となっていく。新宿のコクーンタワーとどっちがデザイン関係の学校にふさわしいか・・。新宿のコクーンタワーは完成しすぎているように思うのだ。「世界の丹下健三都市建築設計事務所」がデザインを完成させてしまって、そこに通う学生が何らかの手を加えて芸術しようという余地はもうないのではないか。そうではなく、デザイン関係の学校が入るビルならば、なんらかの手を加える余地というものが残っている物の方がいいことないか? 「世界の丹下健三都市建築設計事務所」はあくまでも芸術するのは自分達であり、入居する学校の生徒は芸術しなくてもいい、もしくは、お仕着せで教えられるものをそのまま頭に入れればいいことであって、自分で考えて芸術しようとする必要はない! と言いたいのか? そこまで考えていたかどうかはわからないが、「世界の丹下健三都市建築設計事務所」設計のコクーンタワーと、船橋市卸売市場の壁面と見比べて、どっちが芸術の学校にふさわしいか、一度、考えてみてもらいたいように思うのだ。
  そして、芸術・デザインの学校でなくても、ともかくも、学校という所の建物というのは、あまり完成しすぎない方がいいということはないだろうか? そもそも、「東大の建築学科を卒業されて慶應で教えておられる槇文彦先生」がデザインはやるもので、学生はやらんでよろしい、やるとしても先生の言われるとお~りやりなさい・・というのが、大学のあり方として望ましいのかどうか? もし、そんなことを考えている人が設計したもので、そうであるから落書きしようとしても書けない素材のもので壁面を作ったというのなら、その設計者こそけしからんのであり、そういう壁面ならば、彫刻刀でも持って行って削ってこましたろか・・と思う者がいたとしても、そう思われるような物を設計した人間の方が悪い。そう思わんか?

  ひとりの設計者が全体を考えて構想して作られた関学の上ヶ原キャンパスも、ひとつひとつの建物の設計者は異なるが全体の調和がとれている同志社の今出川キャンパスも、いずれも甲乙つけがたい美しい景観ができているとは思うのだけれども、しかし、ふと感じるのは、「完成しすぎている」という点。 大学および学校というものは、「完成しすぎている」建物というのは、必ずしもいいとは言えないのではないか。 東大の本郷にしても、慶應の日吉にしても、ここまでは「完成しすぎている」ことはない。 東大の本郷は、私が高校を卒業する頃は、東京の街中にありながら東大の本郷キャンパスの中に入ると静かで、夏目漱石の『三四郎』で寺田寅彦がモデルらしいという「野々宮さん」が「静かでしょう」「学問をするのはこういう場所でないと」と言う場面があったと思うが、まさにそんな環境だったが、それから何十年か経ち、人口密度は高くなっていないと思うのだが、建物密度はずいつんと高くなってしまい、その頃に感じた良さが今はなくなってきてしまっている・・・けれども、それでも、「完成していない場所」としての条件は今もあると思う。大学の環境は「完成しきった環境」になるのはいいことないように思う。その点で、同志社の今出川キャンパスは、いいようなそうでもないような・・という印象だった。2000年代中頃だったように思うのだが、東京都江東区の東京現代美術館で開催された「イサム=ノグチ展」(名称はこの通りだったかどうかわからない)を見にいった時、イサム=ノグチが考案したという北海道のなんとか公園の図が出ていたのだが、イサム=ノグチは、「最後の仕上げは子供たちがそこで遊びながら作り上げてくれるでしょう」だったか述べたと書かれていたと思うのですが、公園はそうであるのが望ましいと思うし、大学およびその他の学校というものも、「有名建築家」があまりにも仕上げてしまうよりも、最後の部分については、そこで学ぶ学生や教員が利用しながら作り上げていくのが望ましいのではないかと思います。

  同志社大学もそうだが、同志社女子大もかつては、京都市でも北部にあって、京都市の南部にある京都女子大などと比べても大阪から行くには便利が悪かったが、今では西に地下鉄烏丸線「今出川」、東に京阪「出町柳」駅ができて便利になったものだ。
  駿台予備校京都校は私が浪人中にあった場所から移転したように思うのだが、浪人中、その頃は大阪校はなかった駿台予備校の模擬試験の案内を取得しようと京都校に行き、その帰り、近畿予備校がこのあたりにあったように思ってどんな所か前から見て行こうと思って来たところ、その向こうに同志社女子大があり、女子大生の女の子がまぶしいように感じた(という表現が最適かどうかわからんが)・・ということがあったが、今となってはずいぶん前のことになってしまった。
  大阪府のYMCA予備校がなくなったのは自業自得で淘汰されて当然だが、大阪北予備校もなくなり兵庫県の大道学園もなくなったが、京都の近畿予備校は今もあるらしいが前とはずいぶん内容が変ったようだ。

  「(日本基督教団)同志社教会のあゆみ」http://www012.upp.so-net.ne.jp/doshi-ch/intro.html に≪・・1946年には礼拝場所を現在の栄光館ファウラーチャペルに移しました。現在の同志社教会は、同志社の学生・教職員・卒業生とともに、一般市民の教会員によって構成される、「学園の教会」と「まちの教会」の二つの要素を兼ね備えたユニークな教会となっています。≫と書いてある・・ということは、入っていいの? しかし、やっぱり男は入りにくいよねえ・・。
  (2019.3.18.)

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