大谷本廟参拝【5/5】自分が空腹でなければ子供にも食べさせない父親。子供に脂の塊を食わす父親

[第416回]
   1960年代後半、父と母と3人で大谷本廟に行った帰り、食堂を捜して京都の街をあっち行ったりこっち行ったりうろうろ徘徊したあげく、ともかく大阪まで帰ろうということになったが、父は「あんた、何に乗りたい?」と小学校の低学年だった私に言い、「何でもいい」と私が答えたのに対し、「何でもいいではいかん。何に乗りたいのか言いなさい」と言い、「阪急」と言うと、「はあんきゅうう~う?」「阪急なんて、あんた、ここからでは正反対の場所やがなあ、はあんきゅうう~う?」と言い、「阪急以外で何に乗りたいか言いなさい」と言い、私が再度「何でもいい」と言うと、父は「何でもいいではいかん。何に乗りたいのか言いなさい」と言い、しかたなしに「京阪」と言うと、「け~えはあ~ん。京阪はここからは遠いがなあ。京阪はここからは遠い」と言い、「それなら、何がいいの」と私が言うと、父は「ここなら国鉄や」と言い、国鉄の快速に乗って大阪駅まで戻りました。 変な人やなあと子供ながらに思いました。最初から「ここなら国鉄や」と決まっているのなら、「ここなら国鉄の駅が近いから国鉄で帰ろう」と言えばいいことなのに、なぜ、「あんた、何に乗りたいか」と言い、「(一番、駅が近い電車がいいから、)何でもいい」と言っているのに、それなのに、「何でもいいではいかん。何に乗りたいか言いなさい」と言って無理矢理言わせたあげく、「はあんきゅううう~う?」「けえいはああ~あん?」と、この人、何なんだろうと思いました。
   1970年代後半、北野高校の教諭だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。結婚して、寺地礼子。その後、離婚したかどうかは知らん)は「私は両親が離婚したから」と「両親が離婚した」人間というのはそうでない人間よりもエライと主張したいようで、「私は両親が離婚したから」というのを最大の自慢にしていましたが、旧姓作野礼子は「両親が離婚した」後、母親の方と一緒に暮らしたらしいのですが、父親がある息子・娘というのは父親のない息子・娘よりもいついかなる時も得しているかというと、そうとは限りません。「はあんきゅうう~う?」「けえいはああ~ん?」なんて、父親がなければされることはないでしょう。父親があるから嫌な思いをすることだってあるのです。その程度のことは、たとえ、「両親が離婚した」娘でもわかっていいはずだと思っていたのですが、旧姓作野礼子は理解できない、理解してたまるかという信念もってる女でした。
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( ↑ 五条通り から見た 大谷本廟。 )

   父と母と3人で大谷本廟に行った後、昼時を過ぎて食事をしようということになったが、父が言うには「わしは同志社に行っとったからよう京都は知っとるんやけど、京都という街は食事する所のない街なんや。『京の着倒れ、大阪の食い倒れ』と言うてな。京都は着物屋はあっても食べ物屋はないんや」と言い、それで、食べ物屋がないかいなあないかいなあと、およそ、食べ物屋がありそうでない住宅街を歩き回った。普通に考えて、大谷本廟の北隣は観光地の清水寺であり、食堂がないとは考えにくい。どうしても、食堂がないのなら、阪急「四条烏丸」駅近くに大丸京都店があるから、大丸に食堂はあるはずだし、国鉄の京都駅のビルに食堂がないとは考えにくい。そもそも、今、行ってみても、大谷本廟の敷地内にも、東よりの本廟会館の中に食事・喫茶の店が2軒ある。その頃もあったのではないかと思うし、たとえ、なかったとしても、清水寺に至る五条坂などに食事の店がまったくないとは考えにくい。なぜ、その時、食べ物屋が見つからなかったかというと、結論を言えば、父は自分が腹がへっていなかったので、それで、意図的に食堂なんかないような場所を、「ないなあ、ないなあ、困ったなあ」とカマトトやりながら歩き回った、ということではないかと思う。
   本当におなかがすいて苦しかったが、京都駅から国鉄(現 JR)の東海道線の快速に乗り、大阪駅まで来た。その頃は、まだ、新快速というものはなく、快速は京都駅を出ると、高槻・茨木・新大阪に停まった後、大阪駅についた。父が言うように「京都ちゅう街は食べ物屋がない困った街なんや」というのが事実であったとしても、大阪駅まで戻ってきた以上は、そこは京都ではなく大阪なのだから、食べ物屋はあるはずだ、特に、大阪駅付近というのは、大阪でも中心地であり、そこに食べ物屋がないならいったいどこにあるんだということになるが、ところがどっこい、いったん京都に行った以上は大阪まで戻ってきても食べ物屋はない。正確には食べ物屋があっても、小学校低学年の私が空腹に苦しんで必死で周囲を見回して、「あ、あそこに食べ物屋があるよ」と言うと、父は「あかん! あんな店」と言って否定するのだ。それが1軒だけならまだしも、「あ、あそこはどう?」と言っても、「あかん! あんな所」と言って、どこを言っても「あかん! あんな店は」と言っていい店がないのだ。そんなに父の気に入る店がないのなら、梅田界隈なら阪急百貨店も阪神百貨店もあるのだから、阪急か阪神の百貨店の食堂にでも入ればとも考えたのだが、父は「心斎橋まで行ってから食事にしよう」と言い、そして、空腹に苦しみながら地下鉄御堂筋線に乗って「心斎橋」駅まで行った。そして、心斎橋筋を歩きながら食堂を捜したのだが、さすがに心斎橋筋には食堂はあるのだが、ところがどっこい、食堂があって、私が「あそこ、どう?」「あそこ、食べ物屋があるよ」と言っても言っても、「あかん! あんな店は」「あかん! あんな所は」と言って父が気に入る店というのがないのである。午後3時は間違いなく過ぎていた。午後4時まではなってなかったような気がするが、結局、心斎橋筋の不二家に入って食事をしたのだが、今も思うが、あのおっさんは、なぜ、子供が一生懸命捜して「あそこ、どう」「そこに食べ物屋あるよ」と言っても言っても、「あかん! あんな所は」「あかん! あんな店は」と言って否定し続けたのか・・。結論を言うと、おっさんは自分が腹が減っていなかったから、だから、食べたくなかったのだ。だから、「京都ちゅう街は食事する所のない街なんや」などとカマトト言って、わざわざ、食堂なんかないような住宅街を選んで歩きまわらせて、そして、国鉄に乗って大阪駅まで行くのなら京都駅という京都市でも国鉄の駅では最も大きな駅の付近なら食堂くらいあるはずだったが、それでも、「大阪に着いてから」と言い、大阪駅に着くと「心斎橋に行ってから」と言い、心斎橋駅で降りて心斎橋筋を歩いて食事の店があっても、「あかん! あんな店」「あかん!そんな店は」と言っていい店というのがどこにもなかったのだ。

    私が20代前半の時、父は、大阪のミナミ、宗右衛門町の「高級料亭」に連れて行ってやってやってやると言い出したので、「要りません」と言ったのだが、「なんでやねん。このわしが連れて行ってやってやってやってやってやると言うてやってやってやってやっとんのやないか。連れて行ってくださいとお願いするもんやろ」と言ってしつこいので、根負けして一緒に行ったことがあった。行くと父は言うのであった。「この店はなあ、わしいみたいな、えっらいえっらいえっらいえっらいえっらいえっらい人間しか入ってはならない店やねんぞお。あんたあなんかは入ってはいかん店やねんぞ、わかっとんのんか、チャンコロ! おまえなんか、入ってはいかんねんぞ、チャンコロ! おまえなんかが一人で入って食事しようなんて考えても、入ろうとすると、『出ていってちょうだい』言うて怒られるぞお~お。つまみだされるぞお~お。わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、チャンコロ!」と言うのだった。そんな店、入りたくもないわ、けったくその悪い! 要らんわい、そんな感じの悪い店なんか、と思った。そもそも、行きたくないと言っている人間を無理矢理つれていっておいて、「おまえなんか、この店は入ってはいかんねんぞ」て、何やねん、それ。
   そのうち、料理が出てきたが、寿司が出たので口にしたところ、父は「おい、こら! おまえは、今、いったい、なんちゅうことをしたんや、おまえはあ!」と言うのです。何したと言われても、寿司だから、北野高校の「地理」のH先生が「寿司の食べ方」として「向こうづかみ」と言って、寿司は向う側から持つようにすると、しょうゆをつける時に寿司のネタの方に醤油をつけることができる、手前から持つとシャリ(ごはん)にしょうゆをつけることになるが、ごはんに醤油をつけてもしかたがない、と授業中に教えてくれたので、その教えに従って「向こうづかみ」にして口に入れたのだが〔実際、ひとが寿司に醤油をつけるのを見ていると、ごはんに醤油をつける人がいるが、醤油をつけるならシャリ(ごはん)ではなくネタにつけるべきだ〕、父は「こら。おまえが今、口に入れたもん、いったい、いくらすると思うておるんや。おまえが口に入れただけでも、それ、2万円以上するねんぞ。わかっとんのんか、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロ。おまえなんぞがそんなもの、口に入れてええのか!?! おまえ、そんなことしてええのか?!? いったい、おまえはなんちゅうことをするんや、おまえはあ!」と言うのでした。1カンの半分で2万円以上するて、いわゆるボッタクリと違うのかて気もしますが。だから、そんな店なんか行きたくないと何度も言ったのに、それなのに「なんで行けへん言うんや、このえっらいえっらいえっらいえっらいえっらいらいこのわしが連れていってやってやってやってやってやると言うてやってやってやってやったっとんのにからにやなあ、なんで行かんのや、おまえは」としつこいので根負けして行ったのであって行きたくて行ったのではないのに。 で、そのうち、仲居さんがきて、仲居さんは父に同調して「あいのて」を入れる。なんで、このおばさんに私はそういうことを言われなければならないのかと思った。どうも、その店は父が「接待」してもらってきた店らしく、いつも父を連れてきた人は「ほうかん」みたいなことをしていたのではないか。だから、仲居さんは、いつも「接待」してもらっていた男性が若い男性と一緒に来たので、それで、私を、きょうはこの人が「ほうかん」なんだと思ったのかもしれない。帰り道みち、父は「ああ、おいしかった。ああ、ええ気持ちや。ああ、ええ気持ちなった。どや、おまえは今までこんなものすごいうまいもん、食うたことないやろ。どや、舌がとろけ落ちたやろ」と言うのだったが、実際問題として、それほど特別においしいとも思わなかった。むしろ、感じの悪い店だなあと思った。すき家か松屋の牛丼の方がおいしいような気がした。「そのへんの中華料理屋」の冷やし中華の方がおいしい気がした。 日吉の店の「半ちゃんラーメン」の方がおいしい気がした。日吉の生協食堂のカレーライスの方がおいしい気がした。父はそういう店に入るのは得意だったようだが、片方で、慶應大学の教養課程がある日吉におっさんが来た時だが、日吉の定食屋というのか大衆食堂というのかに入ろうとすると、「ちょっと、やめとこうやあ。こんな店。やめとこうやあ、こんな店、いややわ、こんな店」と言って入れないのだ。このおっさん、そういう人間だったんだなとわかった。「高級料亭」は入れても定食屋・大衆食堂は入れないて、なんか、かわいそうな男だなあと思った。そういうおっさんだったので、だから、京都の大谷本廟から京都駅に行き、大阪駅から心斎橋駅まで行く間、食べ物屋は何軒もあったけれども、父が入ることができる食べ物屋はそれほど多くはなかったのかもしれない。しかし、本質はそれではなく、単におっさんが腹がへってなかったというそれだと思う。
   普通は、子供を連れてどこかへ行ったなら、子供のことを考えて食事もするものではないかと思う。私ならそうする。少なくとも、午後4時近くまで、「ないなあ、ほんまにないなあ。どこにもないなあ」とカマトトやって歩き回らせるなどということは、私ならしない・・が、うちの父親はするおっさんだったのだ。さすがに、「ドイツ人」というのは私らとは違う。さすがに「ドイツ人でアメリカ人で天高(天王寺高校)で慶應の民族」というのは、「ロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖で浪商の民族」とは「民族が違う」。なるほど。
※ 《YouTube-ウエストサイド物語~アメリカ(America)》https://www.youtube.com/watch?v=qFw6yyZD_i4
   1970年代後半、北野高校の教諭だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。結婚して、寺地礼子。その後、離婚して、作野に戻ったかかどうかは知らん)が「私は両親が離婚したから」と「両親が離婚した」というのを自慢しまくり、なんか、両親がいる人間というのは犯罪者か何かみたいに言いまくったのだが、しかし、旧姓作野礼子は母と一緒に過ごし父のない娘だったらしいが、父親というのは、常にあった方が有利とは限らない。この時でも、父と母と3人で出かけたので、そして、母は「夫に逆らえない女」だったので、それで、午後4時近くまで、「ないなあ、ないなあ、困ったなあ、ないなあ、ほんまに困ったなあ」という父のカマトトにつきあって空腹をかかえて苦しみまくったのだが、もしも、母と2人で出かけていたならば、母はそんなことはしなかったはずである。父親がいる息子・娘は父親のない息子・娘よりも有利な時もあるかもしれないが、父親がいるから苦労することもあれば、父親がいるから嫌な思いをすることもあるのだが、普通、この程度のことは、たとえ、「両親が離婚した」息子であれ娘であれわかるはずだと思ったのだが、旧姓作野礼子はわからない女、信念もって理解しない女、理解してたまるかと考えている女だった。北野高校は行きたいと思って行った学校だったので、合格発表の時や入学した時はうれしかったのだが、しかし、あの女がいた、というその点だけで見ても、北野高校という高校は、あんまりないいい学校ではなかったと思う。

   「そういうことも、一回くらいならあるかもしれないけど」とか、「両親が離婚した」というのを最大の「売り」にしている女は言うかもしれないが、しかし、「一回くらい」じゃないのだ。何度でもあるのだ。何度でも。
   小学校1年の夏休みだが、父の会社の社員旅行に父と高校生だった下の姉と私と一緒に小豆島に連れてもらったことがあった。「連れてもらった」と言っても、会社から費用を出してもらったのではなく姉と私の分は我が家で費用は払っていた。その時だが、母は父と姉と私のために水筒にお茶を入れて姉に持たせ、私にはそれと別に子供用の小さな水筒にお茶をいれて私に持たせた。行きの船の中、会社の人たちは、誰ひとりとして水筒を持って来た人はなかった。姉は「どうぞ」と言って、会社の人たちにお茶を入れてまわっていた。ところが、そんなことするから、会社の人は、お茶をもらってありがとうございますと考えるのではなく、我が家は会社の人たちのために水筒を持って行ったみたいに勘違いしてしまった。まず、ここに伏線があった。自分たちは水筒にお茶を入れていったが、他の人たちは持っていないという時、分けてあげることで「どうもすいません」と思ってくれるか、それとも、この人たちは自分たちの給仕係として水筒を持って来ているんだと思われてしまうか。そのあたりを見て分けてあげた方がいいか分けてあげない方がいいか判断する必要がありますが、姉はその判断ができなかった。父は「わしは営業部長やった時、それまでにない最高の成績を残した人間やねん」と言っていたが、私は嘘くさいと思っている。営業経験があるなら、このあたりを見て判断しないとけない。それが営業の能力のはずだ・・が、父はそのあたりをまったく見ていなかった。
   帰る時、旅館で姉が「水筒にお茶を入れてもらっていこう」と口にだして有言実行しようとしたところ、会社のある男性が「要らん。お茶なんて要らん。入れてもらわなくていい」と言って姉に入れてもらわないように“命令”した。なんで、この人がそんなことを言われなければならないのかと思った。姉はあくまでも我が家の3人のためにお茶を入れてもらおうとしていたのであって、もし、会社の人がお茶を欲しかったのなら、自分で水筒を持ってきて自分で入れてもらえばいいことだったのだ。水筒を持たずに来て、それでもお茶が欲しくなった時、水筒を持って来た人がいて、もし、ある程度余裕があるように思えたなら、「すいませんが、少し、お茶を分けてもらえませんか」と言ってもいいが、ひとが水筒にお茶を入れてもらおうとしているものを、「要らん、お茶なんか、入れてもらわなくていい」と他人が言うことはないのである。姉もまた、そう言われたからと言って、入れてもらうのをやめる必要はないし、そもそも、有言実行しなくても黙って入れてもらえばよかったことだった。姉は、「そしたら、〇〇ちゃんの水筒にだけ入れてもらっていこう」と言い、小学校1年の私が持っていた子供用のごく小さい水筒にだけお茶を入れてもらってきた。
   ところが、小豆島から大阪の弁天埠頭に向かうフェリーボートの中で、父の会社は化粧品会社大学だったのだが、ある美容部員のおねえさんが、私に「お茶ちょうだい」と言い、私は私の水筒からお茶を分けてあげた。小豆島に行った3日間、一緒に遊んでもらったおねえさんだったので、子供としてはお茶を分けてあげるのは嫌ではなかった。しかし、まがりなりにも、成人した女性が、自分で働いて生活している女性が、子供に、子供が持っているものを「ちょうだい」と言うのは非常識である。私なら、仕事でお客さんと接する際など、子供に子供が持っているものを「ちょうだい」などとは絶対に言わないし、子供が「これ、あげる」と言ったとしても、子供のその気持ちは無視するべきではないと考えても、「もらっていいのですか」と親に確認してからにする。もっとも、その時は、相当年上のような気がしたが、美容部員のおねえさんというのは、せいぜい20歳を過ぎたくらいでしかなく、まだまだ十分に大人としての判断力はないし、言っちゃ悪いが学歴も高卒でそれも「あんまりいい高校でてない」人だった。だから、「しかたがない」かというとそうではない。美容部員というのは営業であるはずである。営業であるならば、「子供が持っている物を大人が欲しがってはいけない」「子供がもっている物を大人がとりあげてはいけない」ということくらいは理解しないといけないし、理解しない人がいたならば、上役は注意するべきである。ところが、私が美容部員のおねえさんにお茶を分けてあげたのを父が見て、「ちょっと、それ、貸してんかあ」と言って、私が持っていた小さい子供用の水筒をとりあげて、そして、欲しいと言っていない人にまで、「配給、配給。お茶の配給、配給」と言って、飲ませてまわったのだ。今、考えると、あのおっさん、どう考えてもアホや! と思う。
   子供用の小さい水筒に入っているお茶なんて、「配給、配給。お茶の配給、配給」などとアホなことやって、配ってまわったら、すぐになくなるのは目に見えている。そして、なくなった。私が「のど渇いた。お茶ほしい」と言うと、父は「ないわあ~あ」と言ったのだ。私は何のために水筒を肩からぶら下げて行ったのだ? 自分が飲めないお茶のための水筒を私はなぜ肩からぶら下げていかないといけなかったのだろうか? 父は「売店に行って、ジュースこうたろ」と言って船の売店に行ったが、売店は閉まっていた。姉は会社の人のために水筒を持って行ったのではない。父と姉と私のために水筒を持って行ったのであり、母は子供は大人とは違うから、子供専用に別に持たせておくべきだと判断して私専用に小さい子供用の水筒を持たせたのだ。ところが、その子供用の水筒を奪い取って、「配給、配給。お茶の配給、配給」て、アホちゃうか・・というより、アホである。我が家は会社の人のための給仕係でもなければ添乗員でもないのであり、売店にジュースを買いに行けばいいのは、父が子供のために買いに行くべきではなく、水筒を持ってこなかった会社の人が買いにいけばよかったことだった。 売店が閉まっているのを見て、父は「弁天埠頭についたらこうたる」と言うのだった。それで、弁天埠頭まで我慢することにした。
   ところが、弁天埠頭に船が着くと、父は「バス、着てる、バス、着てる。弁天町の駅に着いたらこうたる」と言い、さらに弁天町の駅まで我慢させられることになった。そして、弁天町の駅にバスが着くと、父は「プラットホームに着いたらこうたる、プラットホームについたらこうたる」と言い、そして、プラットホームに行くと、父は「電車きた、電車きた。天王寺の駅に着いたらこうたる、天王寺の駅についたらこうたる」と言って、さらに天王寺の駅まで我慢させようとしたのであった。弁天町の駅というのは国鉄(現 JR)の大阪環状線の駅で、この路線は2分か3分おきに電車は来る路線であり、「電車きた、電車きた」て、そりぁ、来るわいな。そして、天王寺の駅に着くと、父は「電車きてます、電車きてます。南田辺の駅に着いたらこうたる、南田辺の駅についたらこうたる」と言うのでした。天王寺駅というのは、今は、南紀方面への特急は京都駅か新大阪駅始発で大阪環状線を経由して天王寺から阪和線に入り、快速は京橋か大阪駅始発で環状線で天王寺駅に来て天王寺駅から阪和線に入り、天王寺駅始発の電車は各停だけですが、その頃は、特急も急行も快速も「直行」と言っていた区間快速も各停もすべてが天王寺駅始発で、天王寺駅というのは阪和線のターミナル駅でしたので、「電車きてる」なんて言われても、たいてい、「電車きてる」のです。同時に、ターミナル駅ですから「電車きてる」としても、来ていてもすぐには出ないのです。阪和線の各停に乗らされましたが、なかなか出ません。「まだまだ、出ないから」と私は言ったのですが、父は「もうでる、もうでる。もうすぐ出る出る出る」と言うのですが、なかなか出ません。
  やっと発車して、そして南田辺駅に着きました。もう、ここから家までは歩くだけですから「バスきてる」もなければ「電車きた」も「電車きてる」もないはずで、今度こそ水分を摂取させてもらえると思ったところ、父はこう言ったのです。「もうすぐ、家です。もうすぐ、家!」と、そして、渇きに苦しみながら南田辺駅から家まで歩きました。 姉は高校生だったのですが、もしも、高校生の時の私なら、小学校1年の弟なり妹なりがいて、父がそういうことをしたならば、「ちょっと、お父さん、子供には飲ませてあげないと」と、最低ひとことは言いますが、姉はそういうことを言う能力がない人間でした。姉と話をすると、「そんなもん、お父さんに何か言ったら殴られるから怖くて言えないでしょうよお」と言うのでした。たしかに、父は「九州男児」でしたので、男は殴ってはいかんが女はいくら殴ってもいいという思想を持っている人間で、「なんで、女を殴ってはいかんねん。女なら殴ってもいいはずや」と言っていました。そういうおっさんでした。なんで、私は自分用に持って行った水筒のお茶をすべてひとに取られて自分は飲むことができず、フェリーボートの中→弁天埠頭→弁天町駅→弁天町駅のプラットホーム→天王寺駅→南田辺駅→家 と、そこまで我慢させられなければならなかったのでしょうか?
   この フェリーボートの中→弁天埠頭→弁天町駅→弁天町駅のプラットホーム→天王寺駅→南田辺駅→家 という引っ張り方は、大谷本廟に行った後、昼時が過ぎた後、「食事するとこ、ないなあ、ないなあ。京都はほんまに食事するとこのない街やねん。困ったなあ、ないなあ、ないなあ」としょーもないカマトトやって、そして、いくらなんでも京都駅の付近に食事する店がないわけないと思ったのですが、京都駅では「大阪に着いてから」と言い、大阪駅に着くと、「心斎橋に行ってから」と言い、心斎橋に着くと、心斎橋筋を歩きながら、「あかん! あんな店」「あか~ん! あんなとこ」と言いまくる・・という手法は共通する手法です。 父は、おそらく、「うまくやってやったった」みたいに思っていたのではないでしょうか。
   北野高校の教諭だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」というのを「売り」にしていたのですが、父親がない娘というのは、その分だけ苦労しているから、だから、その分だけ「しっかりしている」と人から認めてもらう権利があると確信していたようですが、そんな権利なんてないと思うのです。むしろ、父親があっていい時もあるかもしれないけれども、あるからややこしい時だってあるわけです・・・が、ところがどっこい、旧姓作野礼子というあの女は、絶対にそれを理解できないのです。この程度のことも理解できないような女は、学校の教諭なんかならない方がいいと思います・・が、なるのでした。
   旧姓作野礼子は、入学式の日に有給休暇をとって海外旅行に行ったりもしましたが、教育職員といえども労働者として有給休暇をとることは認められているとしても、しかし、高校の先生というのは夏休みもあれば春休みもあるし、私が勤めた会社なんて「国民の祝日に関する法律」なんて無視ですが、高校は祝日はきっちり休みですし、何もわざわざ入学式の日に海外旅行に行かなくてもと思うのですが、それもそういうやり方を得意にしていたようです。

   私が父に感謝していることが2つあります。ひとつは、父は相当のヘビースモーカーでしたが、私には「煙草は吸わない方がいい」と言ってくれたこと。父は、若い頃、もともとは煙草は喫っていなかったらしいのですが、ところが、軍隊で満州に行った時、1人何本と煙草を配給されたが、自分は喫わないので、煙草を喫う人にそれをあげていたというのです。そうすると、煙草を喫う人にとっては配給の煙草の数は少ないので、もらうとうれしいらしく、そして、それをものすごくおいしそうに喫ったというのです。それを見て、そんなにおいしいものなんか、と思い、そして、そこまでおいしいものをタダで人にあげるというのはもったいないという気がして、そして、喫ってみたそうで、その時に煙草を覚え、それ以来、やめることができなくなったそうです。やめることができなくなったけれども、しかし、健康のためを考えると煙草は喫わない方がいいと思っていたらしく、自分は喫っても、自分が喫うから息子にも喫わそうとはしなかったのです。自分が喫うことからひとにも喫わそうとする人というのがいますが、父は私にそうしなかった、という点について、この点には感謝しているのです。
   もうひとつは、父は相当偏食の人間だったのですが、自分が食べないものについて、「これ、気持ち悪いから、食べないでおき」と言って息子にも食べさせないようにする、ということはしない人だったのです。そうではなく、「これ、気持ち悪い。要らん。だから、あんたが食べなさい」と言って私に食べさせたのです。その結果、父が「気持ち悪い」というものは私が食べることになった。そんな「気持ち悪い」ものを食べさせられるなんてかなわんのではないかと思う人もいるかもしれませんが、父が「気持ち悪い」と言うのは、サニーレタスとかそういうものです。レタスでも、全体が黄緑のレタスは父は食べるのですが、先が紫色のサニーレタスは「これ、気持ち悪い。要らん。あんたが食べなさい」と言って、私が食べるものになるのです。サニーレタスなんて、私にとっては、ちっとも「気持ち悪い」ことないのです。もっとも、自分が「気持ち悪い」と思うものを息子に「気持ち悪いから、あんたが食べなさい」て、普通、そういうことを言うかあ~あ? て気もしますけれども。
   もっとも、食べ物について、嫌な思いをしたものもあります。私がまだ幼稚園児だった時だと思います。家で、すき焼きをやった時だったでしょうか。脂の塊というのか、脂肪の塊というのかがありました。私は、最初、それは、豚だか牛だかの不健康な部分、病的な部分であり、食べるべきものではないと思っていたのです。ところが、父は「これ、あんた、好きやろ。食え」と言うのでした。「ええ~え、こんなん、食べるものなのお?」と私は言ったのですが、父は「そうや。食べるものや。おいしいぞおお~お。あんた、好きやろ、こういうの」と言うのです。「なんか、気持ち悪いわ」と言ったのですが、「何を言うとるねん、何を。あんたなんか、これ、好きなはずや。好きやろ」と言うのですが、それまでに食べたことはないし、見ただけでも気持ちが悪い。「こんなん、食べるのお?」と言ったのですが、父は「食わんか。食べ物の好き嫌いをしてはいかんだろうが。食え。食わんか。おいしいぞおお~お」と言うのでした。「そんなにおいしいなら、お父さん、食べはったらどうですか。おいしいんでしょ」と言ったところ、父は「何を言うとんねん、何を。こういうのは若いもんが好きなんや。あんたみたいな人間が食うものなんや。わしは赤身を食うんじゃ、わしは赤身を。おまえ、食え。食わんか。食え。食べ物の好き嫌いはいかんだろうが、食わんか。食べ物の好き嫌いをしてはいかんだろうが。食え、食え、食え」と言うのでした。「わしなんかは赤身を食うんじゃ。おまえは、これを食え!」と。父がそう言うので、その脂の塊を口に入れたのですが、口の中でも気持ち悪いし、かんでもかみ切れないし、噛むと余計に気持ち悪いし、無理矢理のどの奥に送り込もうとしましたが、気持ち悪くて飲みこめないしで、苦労していたところ、さすがに、母親が「食べんでもいいよ」と言ってくれて助かりました・・が、脂の塊というのは、それはあくまでも鍋に脂を敷くためのものであって、食べるものではない、ということを知ったのは30を過ぎてからでした。
   『C級サラリーマン講座』に兎田課長というのが登場し、この脂の塊を食べるのですが、それを見た周囲の人間が気味悪がって、「おまえ、それは食べる物とは違うぞ」と言う場面がありました。「おまえ、それは食べるものとは違うぞ」と『C級サラリーマン講座』の登場人物が言うものを、父は幼稚園児であった時の私に、「わしは赤身を食うけれども、おまえはこれを食え。おまえ、これ、食わんか。食え、食え、食え」と言って食べさせようとしたのです。かつては「成人病」と言ったものを最近は「生活習慣病」と言いますが、これは、ある程度の年齢になったからなるとかいうものではなく、若くても生活習慣によってなることがあるので、それで「生活習慣病」と呼ぶようになったらしい。高脂血症・高コレステロール血症といったものは、「生活習慣病」であり、これはなってからの生活習慣に原因があるのではなく、なるまでの生活習慣に原因があるものです。幼稚園児に脂の塊を食べさせたからといって、ただちに「生活習慣病」になるということはないとしても、それが後に出てきます。だから、若い者だから、いいかげんな食生活をしてもいいというものではないのです。「おまえ、それは食べるものとは違うぞ」というようなものを子供に食べさせようとする親というのは、いかがなものでしょうか。 しかも、「わしは赤身を食うんじゃ。おまえは、これを食え。食え、クエ、クエ~ッ!」と言って自分は食べずに子供に食べさせようとするおっさんというのは、「親に感謝じゃ、親に感謝。わしに感謝せえよお、わしにじゃ、わしにい。このチャンコロめが。わしに感謝しよう。すべてをわしのためにささげ尽くす! 戸締り用心、火の用心。わしに孝行しよう! マッチ1本、火事の元お。とってちってたあ~あ!」と私が20歳以降、父は毎日毎日、私に叫んでいましたが。「わしに感謝じゃ、わしに感謝。 戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元お。とってちってたあ~あ!」という「わしに感謝」というのは、あの「おまえ、それは食べるものではないぞ」というものを、「わしは赤身を食うんじゃ、わしはそんなものは食わんのじゃ。おまえ、食わんか。クエ、食え、クエ~ッ、クエ~ッ、クエ~ッ!!!」とやられたことを「感謝」せえということなのか!?! ・・・まあ、「戸締り用心、火の用心」が悪いとは言いませんけどね・・・・。
    北野高校の教諭だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」というのが何よりの自慢で、自分は父親がないから、だから、父親がある息子・娘よりもエライと誰からもほめてもらう権利があるという信念をもっていたのですが、しかし、父親がない娘というのは、父親から「わしは赤身を食うんじゃ、わしは。おまえは、これを食え。食べ物の好き嫌いをしてはいかんだろうが、食べ物の好き嫌いをしては。食わんか。食え、クエ、クエ~ッ、クエ~ッ、クエ~ッ!!!」と言って、「それは食べるものとは違うぞ」という脂の塊を食べさせようとされるという経験はないはずです。父親のある息子・娘はいついかなる時も得している、いついかなる時も有利な扱いをしてもらっているという旧姓作野礼子の身勝手な主張は、事実に反します。この程度のことも理解できないようなバカ女は、高校の教諭なんてやらない方がいいと思うのですが・・、ところがどっこい、やるようです、バカ女は。

    父は「ドイツ人でアメリカ人で慶應の民族」だそうです。慶應大学に行かなくても「人間が慶應」「人格が慶應」だそうです。私は「ロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖で浪商の民族」だそうです。拓殖大学も浪商高校ももちろん言ってませんし受けたこともありませんし、浪商高校は阪急京都線沿線のどこかにあったように思いますが、インターネットで見ると今は大阪府の南部に引っ越したようですが、拓殖大学はどこにあるのかも知りません。小堀住研(株)に入社してすぐの本社での研修の時、隣の席の男が拓殖大学卒だったのですが、「拓殖大学卒」というと、「なんか、空手やってて、右翼で、怖そう」というイメージがありますが、小堀住研(株)の本社での研修の時の隣の男は、全然そんな感じじゃなくて、むしろ、優しそうな感じでした・・が、ともかく、私は拓殖大学には行ってないし受けたこともないし関東圏のどこかじゃないかと思うのですがどこにあるかも知らないのですが、それでも私は「人格が浪商で人格が拓殖」だそうです。「浪商は浪商らしくしろ、この浪商、この拓殖、このチャンコロ!」と父は毎日のように私に言っていました。「よくも、産まれやがってからに。産まれなければよかったのに産まれやがってからに」と。私はそういう呪いの言葉とともに地上に生まれてきた人間だったようです。
※ 《YouTube-Song of the Volga Boatmen(ヴォルガの舟唄) - Red Army Chorus(赤軍合唱団) - Leonid Kharitonov - Леонид Харитонов 》https://www.youtube.com/watch?v=uNb54rwDQJM

    慶應大学のあるサークルの合宿に行った時、「幼稚舎から慶應」という、その何と言うのか、「本物の慶應」「サラブレッド的慶應」というのか、「なんか、気色悪い」というのかの人が来ていました。 その人は、私が種無しブドウ(デラウエア)を食べると、「おまえ、そんなもの、よく食べるなあ」と言うのです。「そんなもの」て、そんなに特別なものを食べたかなあと思ったのですが、彼は「種無しブドウなんて、そんなもの、自分でひとつひとつ、房からちぎって食べるなんて、そんなおかしなこと、できるかあ!」と言うのです。「ひとに皮をむいてもらって、お皿に盛ってもらってスプーンですくって食うのなら食うけれども、自分でひとつひとつ房からちぎって食うなんて、そんなおかしなこと、おまえ、よくそんなおかしなことするなあ」と言うのです。さらに、「蜜柑でもそうだ。蜜柑も、ひとにむいてもらって、カラスにしてもらってなら食べるけれども、自分で皮をむいて蜜柑を食べるなんて、そんなおかしなこと、できるかあ!」と。なんか、すごい! 「慶應幼稚舎流種無しブドウの食べ方」「慶應幼稚舎流蜜柑の食べ方」というものなのでしょうかね。こういう人というのが、小学校の時からアルマーニの制服とか着てるのでしょうか。「これがアルマーニか」、ツンツン・・とかやってやりたくなりますね。こういう人のことを、慶應義塾では「本物の慶大生」「塾風を身につけている慶大生」「独立自尊の精神を身につけている」「思考が柔軟」「福沢精神を身につけた慶大生」「スマートな慶應ボーイ」「自我が確立されている」「大人だ」「人間が成熟している」「アイデンティティーを身につけている」「こういう人間が社会で役に立つ」「こういう人間が会社で喜ばれる」と言われるらしいのです。さらに、「ギャルにもてもて」と言うみたいです。すごいですねえ~え! しかし、たとえ「ギャルにもてもて」であったとしても、種無しブドウを自分で房からちぎって口に入れて食べることができないなんて、かわいそうな人だなあ~あ・・と思いました。私が行った公立の小学校では、食べ物は好き嫌いなく何でも食べるようにしましょうと教えたとともに、種無しブドウであれ他のブドウであれ、自分で房からちぎって口に入れるものだ、蜜柑は自分で皮をむいて口に入れるものだ・・と教えていたのですが、ところが、慶應幼稚舎ではその逆を教えているようなのです。そして、その「本物の慶大生」「塾風を身につけている慶應ボーイ」「ギャルにもてもて」が言うのでした。「外部の連中を『教育』してやらんといかんからなあ」と。そういう「教育」を「外部の者」(大学だけ慶應に行った人間)にしたいみたいでした。内部進学の教授は「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ!」と教壇で叫びます。種無しブドウは自分で房からちぎって自分で口に入れて食べなさいという教育は「害がある」、ひとに皮をむいてもらってスプーンですくって食べるのが「ギャルにもてもて」の食べ方「独立自尊」の態度であり「福沢精神」であると言いたいようでした。・・なんか、ビョーキ移りそうで嫌なんですけどお・・。
    父は「わしはドイツ人でアメリカ人で慶應の民族やねんぞ、このわしはあ。んが、んが、んがあ!!!」と毎日のように言っていましたが、しかし、「ほんまは慶應」だそうですが、実際には慶應義塾の学校には、小学校から大学までどこにも行っていませんので、それで、「ほんまは慶應」であっても、いくらか軽症だったようです。父は、サニーレタスは「これ、気持ち悪い。あんたが食べなさい」と私に言いましたし、「林檎と蜜柑とどっちがいい?」ときくと、たいてい、「林檎がいい」と言い、「キャベツとレタスとどっちがいい?」ときくと、たいてい、「キャベツがいい」と答えました。なるほどなあと思いました。林檎と蜜柑ですと、私なんかは、林檎はむかないといけないが、蜜柑はむかなくても食べられるから蜜柑の方がめんどくさくない、キャベツとレタスなら、キャベツは切らないといけないが、レタスは手でむしればいいのであって切る必要はないから、レタスの方が手っ取り早い、めんどくさくない・・と考えるのですが、父は逆なのです。「林檎はむいてあるが、蜜柑はむかないといけない」「キャベツは切ってあるが、レタスは自分でむしらないといけない」・・父はそう考えるようでした。なるほど、「林檎はむいてある」し、「キャベツは切ってある」のです。しかし、それは誰かがむいているから「むいてある」のであり、誰かが切っているから「切ってある」のですが、父は「林檎は女がむくものです」「キャベツは女が切るものです。甘ったれなさんな」と言うのでした。で、私が生まれる前は、我が家は、父の他は、母と姉が2人いましたから、「女がやることです」と言えば、母か姉が切るなりむくなりしたようです。しかし、姉2人が結婚して家にいなくなり、そして、私が大学生であった時、母が足を怪我して立てなくなった時、父はどうしたかというと、私に「むいてくれ」と言ったのです。そして、私が林檎をむき、キャベツを切ったのです。父が言うところの「女がやることです」を私がやったのです。すると、父はこう言ったのです。「これまでに、わしがあんたにやってやってやってやったったことはいっぱいあるけれども、わしがあんたにやってもらったというものは、何ひとつとしてないんやからな。何ひと~つ、何ひと~つ、何ひと~つ!」と。しかし、あんた、今、俺がむいた林檎を食っただろうが。あんた、俺が切ったキャベツを食っただろうが!!! と思ったのですが、それでも「何ひと~つ、何ひと~つ」と父は言うのでした。「親孝行せえよお、わしに親孝行せえよお、親に感謝せえよお、わしに感謝せえよお。わしにじゃ、わしにい、わしにわしにわしにい~い! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元。とってちってたあ~あ!」と。そういうおっさんでしたが、しかし、「ほんまは慶應」であっても本当は「幼稚舎から慶應」ではありませんでしたので、だから、父は、種無しブドウは、「ひとに皮をむいてもらって、お皿に盛ってもらって、スプーンですくって」でなくても普通に食べたのです。蜜柑も「ひとにむいてもらってカラスにしてもらって」でなくても食べたのです。「ほんまは慶應」であっても「本当に幼稚舎から慶應」の人とはそのあたりが一緒ではなかったのです。
   北野高校の教諭だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」というのが何より自慢で、「両親が離婚」していない人間というのは極悪人みたいに言うのですが、父親というのは、いついかなる時もあった方がいいのかというと、そうでもない時もあると思いますよ。いるから苦労する時もあると思いますよ。あのバカ女は死ぬまで理解しないでしょうけれどもね。

   (2018.10.14.)


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