エクセル3級合格体験記【1/8】出題問題を行なう装置はある+大学入試「難問は私立受験校が有利」でない

[第394回]
   ワード文書処理技能認定試験3級・2級(サーティファイ)に続いて、エクセル表計算処理技能認定3級(サーティファイ)に合格しました。
   学習していて、ワードは、小学校から高校までの科目でいうと「国語」的な感じでしたが、エクセルは「算数・数学」的な感じがしました。 といっても、エクセルで「合計」「平均」とかを算出する場合、自分で計算するわけではなくエクセルが計算してくれるわけで、自分で計算することはまったくないのですが、それでも、感覚として「算数・数学」的な感覚でした。
   「学習法」といっても、特別なものはありません。ウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』(2011.第2版 ウイネット)を前から最後まで2回やり、その後、サーティファイソフトウェア活用能力認定委員会『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』(2011.サーティファイ)に掲載の練習問題10題・模擬問題6題とウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』(2011.第2版 ウイネット)に掲載の「総合学習問題」とインターネットからダウンロードできるサンプル問題1題の計18題をだいたい3回ずつくらいやった、それだけやると、試験時間60分の問題を30分から40分くらいで一通りできるようになった。その上で、サーティファイソフトウェア活用能力認定委員会『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』(2011.サーティファイ)の問題で、回答する際に手こずったものに印をつけておいて、その部分を何回か見返した。 で、受けたら通った・・というものです。
※ ウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』https://www.wenet.co.jp/webapp/products/detail.php?product_id=2193
問題集 https://www.sikaku.gr.jp/ns/el/org/prepare/text/
・・この問題集はインターネットで注文して手に入れることができますが、アマゾンでは中古書はあっても新刊書は売ってないみたいです。

   サーティファイのホームページhttps://www.sikaku.gr.jp/ns/el/ には「学習時間の目安」なんてのも出ていたと思いますが、あんまり参考にはならない、というのか、私は参考にしませんでした。 だって、他の人がその時間かけて合格できても、自分もその時間かければ合格できると決まっていないし、それだけかけなくても合格するかもしれないじゃないですか。 で、これから受ける人の参考に言いますと、私の場合、時間ではなく、↑に述べたように、ウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』(2011.第2版 ウイネット)を前から順番に最後まで2回やって、その後、サーティファイソフトウェア活用能力認定委員会『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』(2011.サーティファイ)の「練習問題」をやりながら学習していきましたが、練習問題の1題目は2題目の時にはわからない・できない課題がけっこうあり、制限時間内にもできなかったが、わからない・できないものがあると、ウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』(2011.第2版 ウイネット)の該当箇所を見て、さらにそれでもわからない時には『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』の「解説」を読んでやりました。「解説」を見ながら操作して、試験の制限時間を無視してそれ以上の時間をかけて解いて、それで各問2回ずつやりながら2問目・3問目・4問目と続けていくうちに、そのうち、『Excel2010 クイックマスター 基本編』も『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』の「解説」も見なくても、回答できるようになり、練習問題10題の終わり頃になると、試験時間60分の問題を、だいたい、40分くらいでできるようになりました。
   毎回、それまでに操作したことがないようなものが1つか2つ出てくるのですが、出題されるということは、どこかにそれをできる装置があるわけですから、あせらずに、どこにあるか探せばたいていできます。 ワード2級を受験した際には、「ある程度以上の速度でやること」も課題としてあったのではないかと思うのですが、その「ある程度以上の速度」でやらないと試験時間内にできなくなるおそれがありました。しかし、3級の場合、ワード3級もエクセル3級も「ある程度以上のスピードでやる」ということはあまり試験の審査の対象としていないように思います。 試験時間は足らないということはないという印象を受けました。但し、あるセルに関数を入力した後、相対参照・絶対参照を適切に設定した後、オートフィル機能を使って他のセルにも関数を設定するという作業をすれば時間が足らなくなることはないと思いますが、もしも、オートフィル機能を使わずに、ちびちびひとつひとつ関数を入れていくなどということをしたならば、おそらく、試験時間は足らなくなるでしょう。 おそらく、試験時間の設定はオートフィル機能を使って関数を入れることができるかということを見ることも考えた上での試験時間ではないかと思いますが、オートフィル機能を使って他のセルにも関数を入れるというのは、一度、習得すればたいして難しいことでもないので、やればいいのです。そうすると、毎回、時間は余りますから、1問か2問、それまでに扱ったことがなく、操作法に迷うものが出たとしても、どこかにその操作をする装置はあるのだから、あせらずに、じっくりと探せば、きっと見つかります。とくに、ダイアログボックス起動ツールをクリックしてでてくるダイアログボックスのどこかにある場合が多いので、毎回、1問か2問なら、それをじっくりと探すのに時間を費やしても60分以内にはできるようになりました。 しかし、模擬問題の5問目と6問目は、練習問題10問と模擬問題の1~4問は40分くらいで解けるようになった状態で回答しても、50分以上かかったので、その問題によってもかかる時間は異なることがあると認識し、その後、時間がかかった模擬問題の5問と6問を何度かやりました。 その結果、一般に40分くらいで回答できた問題が、30分くらいで一通りできるようになりました。
   最後にサンプル問題をやりましたが、サンプル問題は、問題集に掲載の問題より難しいわけでも何でもないのですが、問題集は問題が本に書かれていて、本を見ながら回答するのに対し、サンプル問題、そして、本番の試験の問題は、問題は紙に書かれているわけではなくパソコンの画面に出てきますから、サンプル問題はエクセルの練習というよりも、パソコンの画面に問題が出たものを同じパソコンの画面に回答する練習と考えてやりました。

   私の場合、ワードの3級・2級を受けて合格した後、エクセルの3級を学習して受けたのですが、学習していくと、どうも、ワードは「国語」的でその感覚が残っていて、エクセルは「算数・数学」的な感覚で、最初、なんか違和感を覚えるようなところがありましたが、そのうち、その馴染みました。 むしろ、エクセルとワードには共通するものがあるので、片方を学んだ人は他方の学習もその分だけしやすいと思います。
   たとえば、図形の挿入なんて、やることは一緒ですし、ワードアートなんてのも一緒ですよね。 文字のフォントや色の変更、塗りつぶしとかも共通しています。
   ところで、「青、アクセント1、白+基本色40%」とか「青、アクセント1、白+基本色60%」、あるいは「赤、アクセント2、黒+基本色25%」「赤、アクセント2、黒+基本色い50%」の「・・・%」の数字ですが、私は最初、その「青」とか「赤」とかが「基本色」だと思っていたのです。それで、基本色に白を何パーセントか混ぜた色のことをだとすると、より白っぽいのは%の数字が小さい方だと思ったらどうも変なのです。 結論を言いますと「基本色」とは青とか赤とかのことを言っているのではなく白と黒のことで、より白っぽい色・より黒っぽい色の方が「・・・%」の数字は大きいのです。これはワードにもエクセルにも共通するものですが、その色を捜す時に、これを理解できているかどうかで探しあてるまでの時間が変ります。
   色については、何度か問題を解いていくと、そのうち、ここならばこのくらいの色ではないかという予想がある程度できてきますので、そのあたりにポイントしてみると、ちょうどその色かもしくはその近くの色であることが多い。 そうなると、探す時間が短くてすみます。

   この3月くらいに、「サンデー毎日」とか「週刊朝日」とかに、「大学合格者数高校別ランキング」とかが出ていて、「公立校の復権」といった記事が出ていました。大阪府では、橋下徹が知事の時に、進学重点指定校だったか10高校を指定して、学区を撤廃するなどしたようで、大阪市北部の北野高校と南部の天王寺高校が京大などの合格者数をかなり回復し、北野高校はついに京大合格者数1位を奪還したらしい。京都府でも堀川高校などが京大合格者数を増やし、兵庫県では一時は低迷していた神戸高校が「復権」してきたらしい。東京都では、1970年頃だったか、学校群という制度が実施されて以来、公立の日比谷高校などは進学校ではなくなり、かわりに、開成・麻布などの私立6年制高校が東大合格者数を増やしたが、この春の入試では公立の日比谷高校と西高校が東大合格者数を大きく増やしたらしい。 私が北野高校の高校生であった時、文化祭に、かつて、北野高校の野球部が(戦後のどさくさにまぎれて?)選抜大会で全国優勝した時に4番を打っていて、卒業後、京都大学法学部に進学して弁護士になったという山本さんという方が講演に来られて、「『公立の学校で進学校があるのはけしからん。公立の学校で進学校があるのは差別をすることになる。公立の学校はすべて《普通の学校》にするべきで、東大や京大に行きたいような者は私立の高校に行くようにするべきだ』などと言う人がいるが、私はそれは逆だと思う。私は家が貧乏だったけれども、公立の進学校の北野高校があったので、それで、京都大学の法学部に進学できて弁護士になることができた。進学校はすべてカネのかかる私立の学校ということになったなら、金持ちの息子・娘しか一流大学に行けないということになり、むしろ、そちらの方こそ差別であり不公平になると思う」といったことを話されたことがあったが、私もそう思う。 もっとも、私立の学校が絶対にいかんということではなく、もともとは進学校でもなんでもない学校で、東大や京大に合格者を出したりしている学校があるが、そういう学校というのは、「企業努力」をしているのだと思うのだ。昔から「東大と甲子園」と言って、私立の高校が知名度を上げて学校経営を成功させるための手段として、東大に合格者を出すことと野球部が甲子園の全国大会に出場することの2つがあげられ、それは、私立の学校の問題点として、本来、学問というものは、高校というものは、どの大学に合格できるかよりも、どれだけその学問について理解を深めることができるかの方が大事なはずなのに、大学合格ばかりを優先するというのは邪道であると言われ、又、野球については、野球のできる生徒を英雄視して持ち上げることで、野球のできる生徒に自分は特別エライ人間なんだと勘違いさせることになり、それは学校教育としておかしいと言われたりしてきたが、しかし、他方において、私立の学校は生き残るためにそういう「企業努力」をしているのに対して、公立の学校は「親方日の丸」。 実際、私が北野高校に入学した1970年代なかばにおいては、私が入学する2年程前に学区が小さくなったことから、入学者の学力がそれまでよりも低くなった・・のはしかたがないといえばしかたがないのだが、たとえそれでも、大阪府の高校の中では最も高い学力水準の生徒が来ていたはずなのだが、ところが、ある英語の先生は「まったく、できの悪い学年やなあ。こいつらは」などと授業中にしばしば言っていたが、そういう文句は言うものではないと私は思うし、それまで進学校でも何でもなかった私立高校を進学校にのし上げた教師は、学区が小さくなってそれまでよりも学力水準の低い生徒が入ってきた北野高校よりももっと学力水準の低い生徒を指導して東大や京大に合格させるようにもっていったのであり、そのあたりを考えると、公立進学校の教諭というのは、その学校の状況に胡坐をかいていたと判断せざるをえない。又、たしかに、高校は大学進学のためだけにあるのではないし、東大なり京大なりに合格・進学・卒業した人が誰もが偉い人で、有名大学に行けなかった人間は誰もがクズかというとそんなことはないというのは間違いではないけれども、しかし、それならば、「傾向と対策」を踏まえて「試験に出る」部分を「出る順に」学習すれば京大なり東大なりに合格できる可能性がある生徒に対して、試験に出ないようなものばっかり大量に勉強させて関関同立くらいに行かせて、「大学はどこでも一緒や。どこに行くかではなく、そこでどれだけ勉強するかが大事や。(落ちて)良かったじゃないか」なんてヌケヌケと言うような教諭が良心的なのか? そうではあるまい。たとえ、自分の所の高校から東大なり京大なりに1人多く合格させたとしても、どこかでかわりに1人落ちているのだから、そのこと自体は、別段、世の為人の為に何かやったことにはならないが、しかし、自分が担当する生徒には本人が行きたいと思う所にできるだけ行かせてやりたいと考えるのがそれが人情であり親心ではないだろうか。「大学はどこでも一緒や。(落ちて)良かったじゃないか」などと言うような男が良心的かというと違うと思うぞ。
   それで。「サンデー毎日」に、東大や京大の試験問題について、試験問題が難しいと、6年間、学習してきた私立6年制高校の卒業生が有利になり、試験問題が易しいと公立高校の卒業生が有利になる・・・などと書かれていたが、私はそれは違うと思うぞ。 まず、私立6年制高校の人間は6年間、勉強してきて、公立高校出身者は3年しか勉強していないという認識は間違い。中学校の3年間も勉強してきているのであり、中学校の3年間というのは無駄なことをやっているわけではない。 私立6年制高校の人間が大学入試に有利なところとしては、公立高校出身者は、中学から高校に入る時に試験があり、中学校でやっているもの・高校入試で必要なもので、大学入試にも必要なものもあるけれども、中学校でやっているもの・高校入試で必要なだが大学入試には必要ないというものがあり、私立6年制高校の人間はそういうものをやらないですませることができるので、その分の力を大学入試に必要なものに注ぐことができるという点がある・・・と柴田孝之が『東京大学機械的合格法』に書いておったと思うが私もそう思う。 しかし、その片方で、中学校から高校の6年間というのは、40過ぎた人間の6年間なんかよりもはるかに長く、その間に入試がないと、人間はなまけてしまうことになりやすく、そのため、私立6年制受験校でも中学校から入った人間よりも高校から入った人間の方が成績がいい場合が多い・・とこれも柴田が書いていたが私もそう思う。「サンデー毎日」が書いていた試験問題が難しいと、6年間、学習してきた私立6年制高校の卒業生が有利になり、試験問題が易しいと公立高校の卒業生が有利になる・・・などというお話は嘘だと思う。そもそも、東大や京大の試験問題というのは、たとえ、比較的易しい問題が出題された年であっても、決してそんなに易しい問題ではないはずだ。公立進学校の人間でも、ある程度、難しい問題が出題された場合を想定して学習しているはずであるし、中学校に入ってから大学入試まで試験がない人間が有利なら6年制私立受験校の人間でも中学校から入った人間の方が高校から入った人間よりも有利なはずだが実際はそうはなっていない。そういうことではなく、私が思うには、大学受験においては、その科目そのものの学習と試験問題についての対策との2つから入試の対策は成り立っており、あくまで「一般的に」であるが、公立進学校と私立受験校では、公立進学校の方が「その科目そのもの」についての学習に比重があり、私立受験校の方が「試験問題についての対策」に比重があるように思う。 これはあくまでも「どちらかと言えば」であり、「一般的に」であって絶対的なものではないが、そういうことがあるのではないかと思う。だから、難しいか易しいかの問題ではなく、試験問題にその大学の問題に特有なものが強く出た問題が出題された場合には私立受験校の人間の方が有利になる場合があり、その科目そのものの能力が強く問われる問題が出題された場合には公立進学校の人間の方がいくらか有利になる・・・ということではないかと私は思う。 難しいか易しいかの問題ではないはずである。

   それで、大学入試との比較の上で論じるために、大学入試についてちょろっと触れるつもりでかなりの字数を費やしてしまったが、エクセル表計算処理技能認定試験については、テキストとして、ウイネット編著『Excel2010 クイックマスター 基本編』(2011.第2版 ウイネット)、問題集として、サーティファイソフトウェア活用能力認定委員会『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』というものが発行されているのだが、この場合、テキストの『Excel2010 クイックマスター 基本編』を何度も何度も徹底して学習すると、問題集のサーティファイソフトウェア活用能力認定委員会『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』の方はやらなくても合格できるか・・・というと、そんなことはない。 実は、私はこのテキスト、『Excel2010 クイックマスター 基本編』を2回やった時点で、テキストの内容を十分にはマスターできていなかった。もっと、きっちりとマスターできてから問題集をやるようにした方がいいか、それとも、すでに2回やったのだから、問題集の方に進んだ方がいいか考えたが、テキストを2回やって多少は頭に入った段階で問題集に移り、問題集を学習することで試験対策の能力を身に着けた。 この問題集は実際の試験問題を想定して作られたものであり、試験対策には相当役に立つ。 いつまでも、テキスト『Excel2010 クイックマスター 基本編』をやり続けるよりも、この問題集の方に進んだ方がいいと考える理由は、
1. 試験問題には、『Excel2010 クイックマスター 基本編』では述べられていないが、『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』では出ており、その「解説」でやり方が説明されている問題がけっこうあるので、テキストばっかり学習していたのでは永遠にできない問題がある。
2. 実際に試験で受けるのは、問題集に出ているような問題であり、そうである以上、「試験に出る」ものに力を入れてやった方が良いに決まっている。
・・ということによる。

   1970年代後半、大阪府高槻市にあったYMCA予備校高槻校「京大東大文系クラス」で「主事」というよくわからん役職についていた藤井という男が、「社会科は教科書を読んでおけばできます」などとデマカセを言うので、こいつ、いいかげんなヤツだなと軽蔑したことがあった。 私は、すでに高校を卒業するまでに、教科書なんて何度も読んできたし、それ以上のことをやってきた。しかし、東大の日本史・世界史の問題はできなかったのだ。京大・阪大型の問題なら、もしくは、北野高校の中間考査・期末考査の問題や模擬試験の問題ではある程度以上の点数を獲得できたし、東大の1次試験の問題でもある程度以上の点数を獲得できたが、ところが、東大の2次試験の問題はできなくて困ったのだ。だから、「京大東大文系クラス」と言うからには東大の日本史・世界史の試験問題をとけるようになるにはどうすればいいのかの対策をやってくれるであろうと期待してYMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」に行ったのだが、ところが、入るとすぐに、「主事」だという藤井という男が、「今年から共通一次試験で国立大学を受ける者は全員が社会科を2科目受けないといけないことになりましたので、先生の数が不足しましたので、社会科は1科目だけで1科目は自分で学習してもらうことになりました。授業がない方の1科目は教科書を読んでおけばできますから教科書を読んでください」などと無責任きわまりないデマカセ発言をおこなったのだった。それで「京大東大文系クラス」を名乗るのはおかしい。「『看板に偽りあり』だな」と言う人が同じクラスの人にいたが、私もそう思う。

( ↑ YMCA予備校高槻校 があった場所。 今は、大阪医大 本部北西部キャンパス になっている。)
   社会科の共通一次試験対策においては、教科書を読むというのが最善とは言えない。むしろ、共通一次試験より前と共通一次試験以後とでは、「その試験問題に対する対策」の占めるウエートが共通一次試験以後の方が大きいと思われたので、共通一次試験対策としては、「教科書を読むこと」よりも、「ある程度、信頼できる共通一次試験対策の問題集を腰を落ち着けてやること」の方が効果はあったはずである。デマカセを言うしか能のない男を「主事」などというよくわからない役職につけて、デタラメ言わせている無責任で良心的と言えない予備校は、これではなあ・・と思っていたら・・・→つぶれた。
  YMCA予備校高槻校の「主事」だという藤井という男は「ぼくらはクリスチャンとして、洗礼を受けて、毎週、日曜日に教会に行って礼拝に出て献金払ってるんだから。それでいいんだ。聖書なんて読む必要ないんだ。聖書なんて、あんなもん、何ひとつとしていいことなんて書いてないんだから、あんなもの、読むべきではないし、読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてまかり間違っても絶対に考えてはいかん」と毎日のように言いまくっている男で、こういう男のことを「経験なクリスチャン」と言うらしいのだが(洗礼・礼拝・献金というのは「敬虔なクリスチャン」の”免罪符3種の神器”のようである)、「『いい先生』なんてそういうことは言ってはいかんのですが」などと言い、それが「クリスチャン」の教えであるかのように主張するのだったが、そもそも、「『いい先生』なんてそういうことは言ってはいかんのですが」などという教えが聖書のどこかに書いてあるかというと、そんなものはどこにも書かれていないはずであり、それを、さも「クリスチャン」の教えであるかのように言いまくる。そもそも、藤井は「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんだから、あんなも~ん! あんなもん、読んでいいことなんて何ひとつとしてないんだ、あんなもの。聖書なんて読んではいかん。聖書なんて読むべきじゃないんだ、あんなもん」と主張しまくってきた人間であるから、藤井の考える「クリスチャンの教え」というのは聖書とは何の関係もない藤井が勝手に創作したもののようである。そして、YMCA予備校高槻校の授業を担当しているアルバイトの講師の授業は「京大・東大文系クラス」の授業としてはいいとは言い難いなどと言うと、「そういうことは言ってはいかん」とか言うわけです。藤井とYMCA予備校にとっては「クリスチャンの教え」というのはまったく都合がいい「教え」である。
   母は今でも言うのだ。「あんた、そんなこと言ってもN口は京大に通ったでしょうよ」と。母はN口という同級生が大好きだったのだ。高校2年の5月はじめ。北野高校の遠足が予定された日、雨天だったために遠足は中止になったが、クラスの有志で、「それじゃ、これから京都に遠足に行こうかあ♪」ということになって、十三駅から阪急京都線の特急に乗って四条河原町まで行き、円山公園に行って、そこでバレーボールやったりして、その後、梅田まで行き、田園という喫茶店でしばらくすごしたということがあったのだが、私はクラス替えがあってすぐのことだったので、クラスの人間と馴染みになっておいた方がいいと考えて参加したのだが、N口はそれには参加せずに別の所に行ったようだった。家に帰ると母は激怒し、「なんで、そんなもん、行ったんや」と言うのですが、私としてはクラス替えがあった直後であり、クラスの人間と馴染みになっておいた方がその後、そのクラスで一緒に授業を受けてやっていくのにいいと思ったので、そう判断してこれは参加しておいた方がいいと考えたのですが、母は面白くなかったようです。そして、母は「N口はそれに行ったのか?」と言うので、「N口は行かなかったみたいや」と言うと、「それ見ろ。N口が行かないものを、なんで、あんたは行くんや」と言うのでした。父母のそういう態度には精神的にまいりました。N口が行けば私も行かないといけない、N口が行かなければ私も行くべきではない。私が嫌いでN口が大好きな母は何かとN口に合わせさせようとするのでした。
  N口だけでなく、近所に私と同じ中学校から北野高校に行ったN川という男がいたが、そいつが午後2時くらいに家に帰っていたことがあり、それを道で見かけたことがあったらしく、母は「N川が家に帰ってるのに、なんで、あんたは帰ってないんや」と言って怒るのです。我が家の門限は「2時」でした。「午前2時」ではなく「午後2時」です。その頃、北野高校は、冬時間と夏時間が分かれていて、夏時間では、午前8時10分に1限目が始まり、50分の授業と10分の休み時間があって、4時限目は午前12時00分、正午に終わり、昼休みが40分で午後0時40分に5限目が始まり、50分の授業と10分の休憩時間で6限目は午後2時30分に終わっていました。時々、休講があり、その際、たとえば、2限目と6限目に休講が入ったような時、クラス委員が5限目の先生に交渉して、その先生が2限目があいていたならば、5限目の授業を休講になった2限目にやってもらい、午後は完全にお休み♪・・・・なんてすることがあったのです。N川のクラスではそういうことをやったようで、それで、4限目が終わった後、N川はお弁当を食べ終わるとすぐに帰宅したようで、そうすると、1時半より前に自宅に着くわけです。しかし、N川と私はクラスが違いましたから、N川のクラスは午後の授業が完全になくなっても、私のクラスは6限目までびっしりあったわけですから、午後2時までに家に帰るということはできません、6限目まであった私のクラスでは「門限」の午後2時までに帰宅することはできないのでしたが、それを言っても母は認めてくれないのです。「なんで、N川は家に帰ってるのにあんたは帰ってないんや」と言って怒るのです。母に怒られないようにするには、午後の授業2コマを欠席して帰れば良かったのかもしれませんが、ともかく我が家はつきあいにくい精神衛生に良くない家庭でした。
   何の因果か予備校まで同じYMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」なんてものの同じクラスに行くことになってしまったN口が、1浪したけれども京大の法学部に通った・・・ゆえに、YMCA予備校高槻校「京大東大文系クラス」は何一つ問題のないすばらしい予備校で「悪いのはあんたでしょうがあ!」と言い、「主事」の藤井という男は「あの人はクリスチャンなんだから、絶対に悪い人であるわけないでしょうがあ」と言うのでした。考えてみると、「クリスチャン」というのは、洗礼を受けて・日曜ごとに教会に行って「牧師先生のけっこうなお話」というのを座って聞いて・献金を払うというその3つの行為と引き換えで、「敬虔なクリスチャン」と認定してもらえて、「あの人はクリスチャンなんだから悪い人であるわけないでしょうがああ!」と認定してもらえるのですから、かつ、それでYMCA予備校で仕事にありつけるのですから、藤井にとっては「コストと利益を比較衡量して」経済学的に考えると十分に割りが合う宗教ですね♪ なかなかの御利益があるようです。
   YMCA予備校高槻校「京大東大文系クラス」が「看板に偽りあり」で「主事」だという藤井という男が極めていいかげんな不誠実な人間であったとしても、「それでも、N口はあんたとは違って通ったやないかあ~あ!!!」と母は言うのですが、そして、それはその時だけではなく、それからすでに40年経った今でも母は私に言いますので、それで、私は母に言ったことがあるのです。「N口を産めば良かったのに、どうして、N口を生まずに私を産んだの?」と。母は「あんたが産まれた時はうれしかったんや」と言うので、「なんで、うれしいの? うれしくないでしょ。お父さんも何度もっていたでしょ。『よくも、産まれやがってからに。よ、く、も、産まれやがってからに、このチャンコロめがあ~あ!』と、私の顔を指さして何度も何度も叫んでいたでしょ。なんで、そんな産まれなければよかったような子供を産んだの? 私を産まずに、N口を産めば良かったのに。N口が好きなんでしょ。なんで、大好きなN口を産まずに私を産んだの? たとえ、産むべき子供を間違えて産んでしまっても、しまった、失敗した、産むべきでない子供を産んでしまった、災難や!!! と思ったならば、世の中には、子供が欲しいと思っても産まれずに、他人さんの子供でももらって自分の子供だとして育てたいという人だっているのだから、そういう人に養子にあげれば良かったのと違うの? そうすればみんなが幸せになったはずでしょう。どうして、私を産んだの? たとえ、産まれてしまっても、どうして、どこかに養子にやらなかったの?」と。母は「あんたが産まれた時はうれしかったんや。お父さんは、A子が産まれた時でも、『なんや、また、女の子を産みやがってからに』と言って怒ったけれども。今度は男の子が生まれて本当にうれしかったんや」と言うので、「それならそれで、たとえ、男の子を産むにしても、私を産むのではなくN口を産めばよかったでしょうよ。なんで、N口を産まずに私なんか産んだの? 産まなければ良かったでしょうよ。お父さん、何度も言っていたでしょう。『よ、く、も、産まれやがってからに。よ、く、も、産まれやがってからに。産まれなければよかったのに、チャンコロ! 産まれなければ良かったのに、チャンコロ! このチャンコロめが、自分が産まれてきたということを反省しろ、チャンコロ! 産まれてきて申し訳ございませんと言いなさい』と何度も何度も私に指さして言っていたでしょう。産まれなければ良かった子供をなんで産んだの?」と。母は「お父さんには怒られたよ。あんたが産まれる前も、何度も妊娠して、そのたびに中絶して、お父さんから『この女は、はらんではらんでしようがない女やなあ、ほんまにい。どうしようもない女やなあ。また、はらみおってからに、この女はあ。この女は産む産むの女、この女ははらむはらむの女。ほんまにほんまにどうしようもない女やなあ。また、はらみおってからに、この女はあ』と怒られたよ」と。「だったら、私も中絶して流してしまえば良かったでしょうよ。そうすればみんなが幸せになったんでしょうよ。 もしくは、私を産まずにN口を産めば良かったでしょうよ。そうすればみんなが幸せになったんでしょうよ。なんで、私を産んだの。私を産んだから、みんなが不幸になったんでしょうが。お父さんがそう言っていたでしょうが」と言ったのだが、母は「あんたが産まれた時は、本当にうれしかったんや」と言う。「だから、うれしいわけないでしょうよ。N口が産まれたのならうれしいでしょうけれども、私が産まれてうれしいわけないでしょうが。なんで、私が産まれてうれしいの?!?」と、いくら言っても、結論はでないが、ともかく、母は私が嫌いでN口という私はあんまり好きではない男が大好きだったのだ。
   N口が模擬試験などでどんな点数をとっていたかなんかはどうでもいい。大学入試は自分が自分自身で納得がいく所に合格できるかどうかが問題であって、隣にいるやつがどうかなんてどうでもいいことである。そいつが通ろうが落ちようが知ったことではない。 で、N口はなぜ通ったか? その理由だが、
1. まず、私は、YMCA予備校高槻校と「主事」の藤井という男の特高体質に気づき、「この男、けしからんな!」と思い、それが受験生活にマイナスになったが、N口の場合はN口もまたいくらかそれに近いような思想の人間であり、N口は浪人したとはいえ、京大に合格して行ったが、弟2人はあまり勉強はできなかったらしく、1人の弟は巡査(「国家公務員1種に通って警察庁に入った」ではなく「巡査」)になったそうで、近頃、大阪府警の警察官が沖縄に派遣されて、沖縄の人間に向かって、「ドジン」とか「シナ人」とか言ったというニュースがあったが、その男、N口の弟と違うのか? と思ったが、年齢から考えて、N口の弟ならもう少し歳をいっているはずなので別人だと思うが、N口もまたその類の人間であり、私は、沖縄まで行って沖縄の人間に「ドジン」だの「シナ人」だのと罵るヤツというのはけしからんと思うが、N口は「世渡り上手」でそういう文句は口にはしないが、思想的にはその類とたいして変わらない男であったので、YMCA予備校の藤井とも「たいして変わらない」人間であり、思想的に似ていたので、藤井のような偏狭で身勝手な人間の影響がマイナスになることは、私なんかよりはるかに小さかったはずである。 私は自分では「リベラル」のつもりだったのだが、N口は「リベラル」ではなく、YMCA予備校と藤井とたいして変わらない程度の人間だったのだ。 共産党の議長だった野坂参三は、慶應大学の経済学部に在学中、慶應義塾の塾長であった小泉信三のゼミにいたそうで、小泉信三は野坂参三を高く評価していたそうで、小泉信三は近代経済学者であり、社会主義・共産主義には反対の立場の人間であり、共産党の議長になるような野坂参三を評価していいのかというと、小泉信三は「そんなことは何の関係もない。たとえ、自分と考えが違う人間であっても、優秀な者は優秀だと認めるべきである」と言ったというのだが、YMCA予備校とYMCA予備校の「主事」の藤井はそうではなく、自分の偏狭な「思想」にとって気に食わない人間はやっつけたいというそういう人間だったのだが、そして、私は藤井にとって気に入らなかったようなのだが、逆に、N口は藤井と「思想」が似ていたのだ。
2.  もともと、大学入試というのは、合格した人間は何から何まで良くて、不合格の人間は何から何にまでダメだったというものではない。 プラスの面ももちマイナスの面ももちながら、結果として合格最低点を越えれば合格、結果として合格最低点に達しなければ不合格というもので、通った人間といえどもマイナスの要素はあったはずだし、不合格になった人間といえども何から何までダメだったわけではない。 だから、YMCA予備校高槻校「京大東大文系クラス」が「看板に偽りあり」であったとしても、それでも、通る人間がいたとしても、それはありうることである。
3.  YMCA予備校というのは、もともと、大阪の予備校であり、「京大東大文系クラス」というのを高槻校に作る前においては、京大・阪大には合格者をある程度だしていた予備校で東大には合格者をあまり出していない予備校だった。 私は「京大東大文系クラス」というものができたので、それで、東大入試の対策をとってくれるのであろうと期待していったが、YMCA予備校としてはそういう意思はまったくなく、そうではなく、「京大東大文系クラス」という名称をつければ、国立大学の法学部・経済学部・文学部を目指す受験生で成績のいい人間が応募して入ってくるであろう、そういう人間を入れて、高校卒業時に京大を受けて落ちた人間なら阪大か神戸大、阪大を受けて落ちた人間なら神戸大か大阪市大か大阪府大か滋賀大あたりを受けさせて合格させれば、そうすれば「YMCA予備校から〇大学に合格」と言うことができて、予備校屋としての商売にプラスになるだろう・・・というそういう魂胆で「京大東大文系クラス」と名づけただけであって、京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部、東大の文科1類・2類・3類の試験問題についての対策をとろうなどとはハナから考えていない、というものだったが、もともとが、YMCA予備校は京大・阪大・神戸大には合格者を出していた予備校だったので、その授業の構成は京大・阪大・神戸大にはある程度は対応していたが、東大には対応していなかった。だから、東大に行きたいと思った者にはあまり適しておらず、東大に行きたいと思っていた者に対してよりは京大・阪大に行きたいと思っていた人間には、いくらかなりとも対応していた。(だから、せめて、「京大東大文系クラス」ではなく「京大・阪大文系クラス」と命名すれば、それほどは「看板に偽りあり」ではないことになったかもしれないが、偽りのある看板を出したがる予備校だった。)
4. そして、何より大きかったのは、我が家は父親も母親も、京大や東大に行った人間ではなく行こうとした経験もない人間であり、親が京大や東大に行った親の家庭とは事情が違った。親が京大や東大に行った親、もしくは、行きたいと思ったが合格できずに慶應か早稲田かに行った親、もしくは、京大か東大に行きたいと思ったが成績が思うように伸びずに断念して阪大なり神戸大なりに方向修正して行った親の場合は、息子よりも親の方が、藤井みたいな男を見ると、「あいつの言うことは無視しろ」「あんなヤツ、相手にすんな」と息子にアドバイスをするものであった。ところが、我が家の場合は、私の方から「あの男の言うことは無茶苦茶で、あいつは大学入試のことなんて何もわかってないやつだから相手にしないでほしい」と言っても、父は「専門家の言うこと、専門家。専門家、せんもんか、センモンカ、専門家、せんもんか、センモンカ、せ~んむお~んくわあ~あ!!!」と言ってきかず、「あんなヤツ、専門家と違うよ」と言っても、「甘ったれておってはならぬぞ。専門家の言うこと、専門家、せんもんか、センモンカ、せえ~んむお~んくわあ~あ!!!」と言って私の言うことには耳を貸さず、母は「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」「あの人はYMCA予備校の主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当にえらいクリスチャンのはずや」と言い、「あんたは、先生に逆らうとは、あんたはいつから不良になったんや」と言い、どう考えても無茶苦茶デマカセ言ってるだけの男の言うことを採用しないと「先生に逆らう」だの「不良」だの「非行少年」だのと言われることになってしまったのだ。「あいつは、先生じゃないよ」と言っても父も母もきかない。「先生」というのは、高校の場合は、各科目についての教員免許というものを大学で取得して、その上で高校の先生になった人を言い、教員免許を取得した人には京大・阪大や東大を出た人もあれば、「三流以下大学」しか出ていないが教員免許は取得した人もいるわけだが、そういう人を言ったが、京大や東大に行きたいと思ったならば、やっぱり、自分自身が京大や東大に合格した経験があるか、もしくは、京大や東大に進学しようとしたが合格できずに慶應や早稲田かそのあたりに行った人か、京大や東大を目指したが途中で断念して方向修正して阪大あたりに行った人か、そういう人でないと受験生の指導はできないはずであり、藤井の場合は教員免許も持っていないし、京大も阪大も東大も通っていなければ受けてもいない人間であり、亜拓大東帝国くらいの大学しか出ていない人間が、「クリスチャンだから」ということで予備校に勤めているというそういう男であり、「あんな男、先生じゃないよ」と私は言ったのだが、言っても言っても言っても言っても、母は「ああいうクリスチャンとして立派な人を悪く言うとはあんたはまともじゃないからそんなこと言うんだ」とか、「あんたと違って藤井さんはクリスチャンとして尊敬しないといけない人なんだから」とかなんだかかんだか無茶苦茶言いまくって、私が「あいつの言うことは無茶苦茶だから、どうかお願いだからあいつの言うことはきかないで」と言っても言ってもきいてもらえなかったのだ。 そこが我が家の欠陥だった。 我が家みたいな家は他になかったと思う。 むしろ、親が「ああいうやつは相手にせん方がいいぞ」と息子に教えたのではないかと思う。そういう家庭と我が家のように、父は「すえ~んむお~んくわあ~あ! すえ~んむお~んくわあ~あ♪」とか言いまくり、母は「あの人はクリスチャンなんだから悪い人であるわ~けがない」と言い、そして、私が心のなぐさめとして読んでいた『聖書』を「敬虔なクリスチャン」の藤井から「聖書みたいなもん、読んではいかん」と指導されて、母はそれをとりあげたのだった。父は「あんたが浪人したおかげで、いくらの損」と電卓をたたいて日夜計算した。「あーめん、ソーメン、北海道♪ あーめん、ソーメン、ほっかいどお~お! あれだけ出すのにどれだけ、きついかきついかきついくわあ~あ♪」と毎日、叫びまくっていた。〔⇒《YouTube-【パオパオチャンネル】ヤーレンソーラン北海道》https://www.youtube.com/watch?v=t7Eye6wKMtY 〕 そういう「家庭の違い」というのは大変大きかったと思う。
5.  藤井は「ぼくらはきみらと違って社会人経験があるんだからな」と言うのだったが、大学入試に必要なのは「社会人経験」よりも大学受験の経験である。そもそも、自分が実際に「社会人経験」を経た上で考えると、あの藤井て男は、いったいどんなもんのすごい「社会人経験」があると言いたいのだろうか? と思う。ある程度、しっかりした親なら、「何をアホなこと言うとるか!」と思うところだと思うが、我が家の親は「そうや、そうや」とか言って同調していたが、そのあたりは私にとっては不幸だった。
6. 大学入試が成功するか否かは予備校だけで決まるのではない。我が家は家庭の協力がなかった。条件のいい家庭の息子・娘は羨ましかった。

   大学入試というのはさっさと通った人間にとっては「単なる過去の思い出」かもしれないが、落ちた人間にとってはそうではない。いつまでも忘れることなんてできない。私にしても、今でも試験の夢を見るし、合格発表を見に行った時の夢も見る。試験の後、点数を計算しながら、あそこで何点とれて、ここでは何点減点されて、全体として何点くらいとれたはずで、合格最低点は何点くらいのはずで、・・とか夢の中で考えていたりもする。高校を卒業する時点でなかなかできなかった東大の日本史・世界史の問題の学習法について、自分なりにこうすればできるのではないかといったものを考えついたりしたのだが、最近、書店で教N学社の「赤本」大学別過去問シリーズの『東大文科』を見てみると、私が受けた頃とは東大の文科1類・2類・3類の問題は相当変わっていて、もし、これから受けるなら私ならこういうことをする・・・というものは、もう役に立たなくなってしまったようだが、それでも、夢の中で一生懸命考えていたりもする。『あしたのジョー』では、元ボクサーの丹下段平が、若い男を見ると、「おめえ、ボクシングしねえか。俺がコーチしてやる。俺がコーチしてやれば、世界チャンピオンにだってなれる」と口説きまくり、山谷のドヤ街のガキどもにバカにされるが、段平のおっさんの気持ちはわかる。
   しかし、それにしても、YMCA予備校高槻校と「主事」の藤井という男は、よくもまあ、あれだけ、無茶苦茶なデマカセを言いまくったものだと思うが、そんなことだから・・→つぶれた。

   それで。YMCA予備校高槻校の藤井が、「社会科は教科書を読めばできます」と経験もないくせにデマカセ・デタラメ言ったのは適切ではないように、エクセルの試験でも「教科書」のような感じのテキスト『Excel2010 クイックマスター 基本編』をそれだけを何回もやれば合格できるかというと、そうではないと思う。 エクセル表計算処理技能認定試験(サーティファイ)の学習法ですが、『Excel2010 クイックマスター 基本編』を「教科書」と考えて、その「教科書」を読めば、あるいは、「教科書」の学習をすれば通るかというと、通りません。むしろ、私がやったように、「教科書」(『Excel2010 クイックマスター 基本編』)は2回ほどやればそのくらいで切り上げて、試験問題想定の問題集(『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』)の方に力を入れて徹底してやった方が通りやすいと思います。
   なんだか、大学入試のことを参考に触れた上で、それと対照にして述べるつもりで、大学入試の話に少々深入りしてしまったが、次回、『Excel2010対応 Excel表計算処理技能認定試験3級問題集』で学ぶ上で、そこる『Excel2010 クイックマスター 基本編』には出ていない個々の問題について述べる。

  次回、2. エクセルにもインデントがある+経験ないと難しいものがある https://tetsukenrumba.at.webry.info/201809/article_2.html
   (2018.9.7.)

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