東京都庭園美術館【7/8】日本庭園と茶室。お茶・おはな・着付け・仏文科は俗物4種の神器。ツツジ嫌い!

[第392回] 東京圏の美術館・博物館(15)-7
   東京都庭園美術館の敷地内には、旧朝香宮邸で「日本におけるアール=デコ建築の代表」と言われる「本館」、最近、美術館専用として作られた本館の西側の「新館」があるとともに、本館の南側に「日本庭園」があり、その東側に「芝庭」があり、芝庭の南に「洋風庭園」があり、さらには「庭園」というよりも自然な林が残されていると思われる区域があります。
※ 東京都庭園美術館HP 「敷地内平面図」https://www.teien-art-museum.ne.jp/visit/#floorMap3
   本館(旧朝香宮邸)は「日本におけるアール=デコ建築の代表」と言われるような建物ですから、洋館で、洋館が主として鎮座する施設ですから、「東京都庭園美術館」の「庭園」も洋風庭園かと思いきや、本館の南側には、なかなかの「日本庭園」があります。
   東京都庭園美術館は、「国立科学博物館附属自然教育園」 に隣接しており、見たところ、もともとは、その両方が一続きのものであったのではないかいなあ・・て感じがします。 グーグル地図↓で見ても、東京都庭園美術館の本館・新館の背後(北側)のあたりに、「白金長者屋敷跡」なんてのが書かれていますし、東京都庭園美術館の本館(旧朝香宮邸)の玄関前の北のあたりには「高松藩 松平家 下屋敷跡」なんて書かれています。↓

・・・ということは、↓の「日本庭園」というのは、はたして、「旧朝香宮邸」の時代に造られたものなのか、そうではなく、その前の「高松藩松平家下屋敷」の時代に造られたものなのか?  東大の本郷の三四郎池だって、あれはもともとは「東大の三四郎池」ではなく「加賀前田家屋敷の育徳園心字池」だったわけですし、「高松藩松平家下屋敷の日本庭園」が「旧朝香宮邸の日本庭園」になり、「東京都庭園美術館の日本庭園」になったということでしょうか?   「下屋敷」というと・・・、『鬼平犯科帳』なんかによく出てきますね。江戸の大名の屋敷には「上屋敷」と「下屋敷」があった・・と。
   《ウィキペディア―江戸藩邸》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%97%A9%E9%82%B8 によると、≪通常、大名には、江戸城周辺から江戸郊外にかけて、複数の屋敷用地が与えられた。大名の屋敷には当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼ぶ。すべての大名が上中下の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては、中屋敷を持たない家や、上中屋敷の他に複数の下屋敷を有する家など様々であった。 ≫ ≪・・・上屋敷は参勤交代制度により1年毎(大名により異なる)に江戸と本国を行き来する大名の、江戸における居住地であった。また、大名の正室・嫡子は人質として江戸に常住することが定められており、上屋敷に居住した。≫ ≪・・・下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。・・ 藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する蔵屋敷として、遊行や散策のために作られた庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった。 ≫  ということらしく、大名や正室・嫡子は上屋敷に住んだが、だからといって、下屋敷は下っ端の住む所ということでもなかったようだ。 『鬼平犯科帳』を見ると、「◇◇邸の下屋敷で『渡り中間(ちゅうげん)』が賭場を開いている」とかいう話が出てきて、「相模の彦十」とか「小房の粂八」とかが探りを入れるために賭場に潜入したり、あるいは、『仕掛人藤枝梅安』では彦次郎が賭場に潜入して、賭博で負けてふてくされている中間(ちゅうげん)を飲みに誘って主家の情報をきき出す・・なんて話があったりするが、没落・堕落した下屋敷で賭場が開帳されることにあったのかもしれないが、下屋敷は常に賭博の場所であるわけではなく、≪庭園など別邸としての役割≫≪遊行や散策のために作られた庭園≫として使われることがあったようなので、下屋敷に日本庭園が整備されていたとしても不思議ではない・・・から、東大の本郷の三四郎池にしてももともとは「東大の三四郎池」ではなく「加賀前田家屋敷の育徳園心字池」だったわけですし、どうも、そのあたりの説明書きを見つけることができないのですが、ここも高松藩松平家下屋敷の日本庭園だったのかもしれませんね。
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   そして、日本庭園内の「茶室」は重要文化財に指定されたらしい。↓
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床の間の掛け軸は「一期一会(いちごいちえ)」 ↑
  松原泰道『禅語百選』1977.12.25.祥伝社 ノンブック)では「一期一会(井伊直弼)」と書いてあるので、え、一期一会て井伊直弼が言った言葉だったの? と思ったが、《ウィキペディア―一期一会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%9F%E4%B8%80%E4%BC%9A によると、「一期(いちご)」は仏教語で、千利休の弟子の山上宗二が著書に利休の言葉として「・・一期ニ一度ノ会ノヤウニ・・」と記したが、井伊直弼が「一期一会」と著書に書いたことから四字熟語として広まったというものらしい。

( ↑「 i 」マークが茶室。 )

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↑ 訪問は5月。きれいに咲いているが、これはツツジなのか、サツキなのか? そもそも、「ツツジ」と「サツキ」は一緒なのかどこか違うのか? 長年、よくわからなかったのだが、《ウィキペディア―ツツジ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%B8 によると、≪ サツキとマルバサツキおよびその交配種は特にサツキと呼ばれているが、クルメツツジなどと同じく常緑ツツジの仲間である。≫ そうで、《ウィキペディア―サツキ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%84%E3%82%AD によると≪ 他のツツジに比べ1ヶ月程度遅い5~6月頃、つまり旧暦の5月 (皐月) の頃に一斉に咲き揃うところからその名が付いたと言われている。≫らしい。
   ツツジだかサツキだかを見ると思いだす。私が小学校の5年~中学生にかけての時、あと1ヶ月弱で花が咲くというツツジだかサツキだかが我が家の庭に植わっていて、日曜日、それを刈れと命じられたのだが、どうやってどのように刈ればいいのかわからないので、「どんな感じに刈ればいいの?」と尋ねたのだが、「そんなもの、そのくらい自分で考えてやりなさいよ」と母に怒られたので、それで、しかたなく、「適当に」刈ったところ、父がそれを見て、「ああ~あ、ああ、ああ、ああ! こいつ、いったい、何をしよるんじゃ、こいつはあ! 花芽を皆、切ってしまいよった。こいつはいったい何ちゅうことをしよるんじゃあ!」と言って激怒! それを聞いて母もまた、「何でそんなことしますのん、あんたはあ!」と言う。「自分で考えて適当に刈りなさいて言ったでしょう」と私が言うと、二人そろって「誰が花芽を刈れと言った、誰があ! こいつはもう。花芽を切らずに刈るくらいできんのかあ! おまえはあ!」と言って激怒! 
   「適当に自分で考えて刈りなさいよ。そのくらいのことできないの!」と言うから、しかたなしに、外側を一通り刈って、その内側に花芽がいくらか残るように刈ったのだが、「なんで、花芽を切らんように刈れんのじゃ、こいつはあ。その程度のこともできんのかあ!」と二人よって怒鳴りつけられたのだった。そんなこと、言われても、「適当に自分で考えて刈りなさいよお」と言うから、だから、外側を一通り刈って、その内側にいくらか花芽が残るように刈ったのに、「何で花芽を切らんように刈れんのじゃあ」と怒るのなら、それならもう、やらんわと思って部屋中に入ったところ、父と母の2人で庭の手入れ・掃除をして、そして、芝や木の枝などを刈ったものを集めた籠を私が使っていた部屋に母が持って来て、「こいつめえ!」といって、それを部屋中に私がいる場所めがけてぶちまけた・・!!! ということがあった。それ以来、庭の植木の手入れをするのは嫌で嫌でしかたがなかったが、それでも、母が「この木を刈ってちょうだい」と命令するので、植木の手入れは、松だけは植木屋がやったが、それ以外は私がせっせと刈ったが、はたして、あと1ヶ月弱で花が咲くというツツジだかサツキだかを、花芽を切らないように刈るのは、いったいどうやればいいのだろうか・・と何十年間におよんで私の懸案事項であった。
   私が成人した後、父が他界後、私が造園屋に庭の植木の剪定を依頼した時、長年、疑問に思ってきたことを尋ねてみたのだ。 「あと1ヶ月弱くらいで花が咲くというツツジを、花芽を切らないように刈るのは、どうやればいいのでしょうか?」と。 ・・・・造園屋の答えはこういうものだった。・・・・→「それは、無理です」と。
   プロの造園屋が「それは、無理です」と言うものを、父と母は「なんで、あんた、そのくらいのこと、できませんのん!」と言って激怒していたのだった。 なるほど。 「あと1ヶ月で咲くtottottot都庭園美術館ということなら、刈らずに花が咲くまで待って、花が終わってから刈るようにされた方がいいでしょう。 それでも、どうしても、ひと回り小さくしたいということなら、外側だけ刈るようにすれば、咲く量は減ってしまいますけど、それでも、一応、花は咲きますから、そうされるかですなあ」と。 要するに、小学校の5年か6年か中学生だったかの頃の私がやったように刈れば、花の咲く量は減るけれども、いくらかは咲いて、ひと回り小さくすることはできる、というのだ。 「そやけど、できたら、あと1ヶ月で咲くというところまできたのなら、花が咲き終わるまで刈るのは待ってやってもいいのやないかと思いますけどなあ」というのが返答だった。私もそう思う・・・・が、父母はそれでは納得しないのだった。「なんで、あんた、そのくらいのこと、できませんのおん!」と言って激怒するし、激怒して、自分たちが刈った芝などを箱に入れて私が使っている部屋まで持って来て私にぶちまけたりしたのだが、いったい、どうすればよかったのかというと・・・・、どうしようもなかったと思う。 ・・・・だから、私はツツジとサツキは嫌いなのだ。
↑の花もきれいに咲いているけれども、これ、見ると、その時のことを思い出すので、ツツジとサツキはどちらも好きになれない。
   金持ちの家を指す表現に「あそこの家、植木屋が年に2回も入っている」という表現があったのだが、私は、この表現の意味するところがよくわからなかった。植木の剪定は年に1回やればそれでいいことで2回やっても意味ないのではないかと思ったのだ。ところが、そうでもない。造園屋にきいてみると、その木によって、花が咲く時期が違ってり、「見ごろ」の時期が違うので、剪定するのにふさわしい時期というのがその木によって違うらしいのだ。 だから、せめて、年に2回、剪定に入らせてもらえば、きれいな庭にできるということらしい。しかし、実際には、多くの家は年に2回、造園屋に入ってもらってカネを払うことはしたくないので、年に1回くらいですませることが多いらしい。 しかし、そうなると、造園屋が入ってしばらくすると、伸び放題、そろそろ、散発しなきゃみっともない・・・てことになるらしい。 父は「この家は、すべて、わしひとりの力で築いたものであって、わし以外の者が努力したものというのは、何ひとつとしてありませんわ。あんたがこの家のためにやったものなんぞというのは、何ひとつとしてないんやぞ。何ひとつとして。何ひと~つ! 何ひと~つ! 何ひと~つ!」と、私の顔を指さして何度も何度も言い続けたのだが、しかし、我が家の場合は、造園屋が剪定するのは年に一度でも、その後も私が植木の枝を刈っていたので、だから、1年間を通してきれいな庭で過ごすことができたはずなのだ。「おまえが、やったことというのは、何ひとつとしてないんやぞ。何ひとつとして。何ひとつやぞ。何ひと~つ! 何ひと~つ! 何ひと~つ!」と言われるのなら、やるんじゃなかった。失敗した。 やるべきでないものをやってしまったということを心より深く反省する必要があるようだ。
※ 《ウィキペディア―東京都庭園美術館》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%AD%E5%9C%92%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
東京都美術館HP https://www.teien-art-museum.ne.jp/

  (2018.8.20.)



≪ 茶の湯の場合、あくまでその亭主は隠者であります。町中の喧騒を避け、いろいろ世の中の煩わしいことを避けて山中に詫び住まいして清らかな生活をおくり、花鳥風月を友とし世俗を越えた清らかな環境に身を置いている人、暮らしとしては不如意であっても、志の高い生活をするのが隠者の営みです。隠者の身になって客をもてなすのが茶の湯の営みと言ってよいと思うのです。
   ですから室町時代に、茶の湯を行なう人のことを「市中(しちゅう)ノ隠(いん)」と言っています。つまり隠者というと山中に隠れ住んで庵を結ぶ人のことを指すのですが、 「市中の隠」は山中に逃避しないで、町の中で隠者の境遇になって客をもてなすのです。
   不如意な生活であるから、いわゆる山海の珍味でごちそうをするというようなことはできません。しかし心を込めて、一服のお茶とささやかながら食事を進めるもので、物質的には必ずしも豊かな内容ではないのですが、心を込めたもてなし方を創意工夫するのです。これを茶の湯の遊びと定義しますと茶室はこうした隠者たちの住まい、庵でなければなりません。
   「草の庵(いおり)」という言葉がありますが、茶事を営む建物は、隠者の住まいである草の庵を手本にしたのです。また「山居(さんきょ)の体(てい)」という言葉もあります。大変にぎやかな下京の町の中、家の奥庭にしつらえられた茶屋が、まことに「山居(さんきょ)の体(てい)」であったというふうに評されています。こうした「市中の隠」や「山居の体」という言葉から、本来の茶室のありようや理想を読み取ることができます。 ・・・≫
( 中村 昌生〔まさお〕『茶室を読む―茶匠の工夫と創造』2002.10.26.淡交社 ↑)



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「まあ 大邸宅ね!」「いかにもお茶の先生の家って雰囲気ねっ。」
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「茶の湯の精神と豪華さは必ずしも一致しないものなんだけど・・・」

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「なるほど、皆さん、初心者ですな。 その点、同じ財界の方でも、昔から由緒ある会社を引き継いでこられた、財閥系の方は違いますな」
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「皆さんにお断りしておかねばならんことがある、と言うのは、お茶の道具は実に高価な物です。
たとえばこの茶碗ですが・・・ 志野です。 江戸初期の作で、これだけの名品になると五千万は下らない。」
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( ↑ そのままで十分においしい イチゴに砂糖とミルクづけ。 )
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「私が直接教えているのは皇族方、政財界のトップの方、文壇の大御所といった、日本の一流のお方達ばかりでしてな。・・・」
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「板山さん、帰りましょう。この人にお茶を教わることはない。」
( 雁屋哲 作・花咲アキラ 画『美味しんぼ [安らぎのひととき! 癒しの茶・せんべい編]』2005.4.1.小学館 My First BIG 所収。 「茶人といちご」 )
   「ヒゲはやせば”建築家”」とか「羽根付の真っ赤なスポーツカーに乗れば”建築家”」とか思ってるテアイとか、「『いっきゅうけんちくしい~い』と言えばひとは言うことをきく」とか思ってるヤツ、あるいは、フリーダムアーキテクツデザイン(株)https://www.freedom.co.jp/ の若造のように、《「『いっきゅうけんちくしい~い』と言えばひとは言うことをきく」と思っているが、ところがどっこいその一級建築士の試験に通らないものだから、かわりに「設計士(さま)」とかいうありもしない資格をデッチあげて名のったり、「エグゼクティブアーキテクト」とかなんとかわけのわからんカタカナ語を捏造して名のったりすると基礎的なことがわかっていないできそこないでもひとは言うことをきくと思っている未熟な不心得者》とかも、山岡士郎が「帰りましょう。この人に・・教わることはない」と言った茶の師匠みたいなものかもしれない・・と思います。
   「お茶」「おはな」「着付け」と「フランス文学科」というのは、 ”嫁入り道具 俗物4種の神器” というのか、高校時代は向学の志をもっていた女性が、「大学」に進学すると、とたんに俗物に「へ~んし~ん!」して始めるのが、これだった。嫌だった。 共学の進学校に行っていたので、同じ教室で学んできた女生徒というのは、別段、「つきあっていた」とかそういうものでなかったとしても、「仲間」のように思ってきたし、「同士」というと言いすぎかもしれないが、同じように向学の志をもって学んでいくものと思いこんでいたのだが、なんだか、節を曲げて俗物になってしまう姿を見るのは悲しかった。 そもそも、「けっこうなお点前ですこと。オホホ・・・・」とか言わにゃいかん・・とかいう「茶道」だか「お茶」とかは趣味に合わん。 父は「天の神さまは大変賢明なお方であってやなな、世の中ちゅうもんは、ひとに命令する人間ばっかしでもいかんし、ひとに命令されてせっせせっせとやる人間ばっかしでもいかん。両方の人間がおらんといかんわけや。そやから、神さまは人間を2つに分けてお造りになっているのでR。 わしいなんかは『ひとに命令するための民族』『ひとに命令するための階級』で、ドイツ人でアメリカ人やねん。それに対して、あんたあは『いかなる時も、ひとに命令されて服従する民族』『常にひとから命令されて号令かけられて何でも何でもせっせせっせとやる階級』として神さまに造られた民族、即ち、あんたはチャンコロやねん。わしはドイツ人でアメリカ人で慶應の民族やねんぞお。あんたあはロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖で浪商の民族。 民族の違いを忘れるな、チャンコロ! 階級の違いを忘れるな、チャンコロ、この浪商めが、よくも生まれやがったな、この浪商! おまえは北野高校へ行ったと思うておるかもしれんけどな。おまえはほんまは浪商やねんぞ、この浪商の民族めが、この浪商。おまえは慶應大学に行ったと思うておるかもしれんけれども、おまえはほんまは拓殖やねんぞ、この拓殖の民族めが、よくも生まれおってからに。産まれなければよかったのに、この拓殖、この浪商、このチャンコロめが、このチャンコロ!」と毎日毎日言われてきましたので、「お茶」と言っても、「お~い、お茶」の方のお茶なら嫌いではないが、「けっこうなお点前ですこと、オホホぉ・・・」とか言うような「お茶」とか「おはな」「着付け」「フランス文学科」などというものは、いわば、「ドイツ人でアメリカ人で慶應の民族」がやるものであり、私は「ロスケでイタコでチャンコロ」なもんですから、「ロシア人」といたしましては・・・・→《YouTube-仕事のうた》https://www.youtube.com/watch?v=6GRUhyhiKjY ということで、「お茶」「おはな」「着付け」「フランス文学科」というのは、肌が合わん。
「大学生」であった時だが、父が「いらいらっとしたから、仕送り送るのやめたってん」と、突然、仕送りを送ってこなかった時があり、1週間ほど、何も食べずに水だけ飲んで過ごしたことがあった。自動販売機のまわりか下に50円玉か100円玉でも落ちてないかと思って日吉の街を歩き回り、ある自動販売機の下に50円玉があるのを見つけて、地面に腹ばいになって手をつっこんで引っ張り出して、その50円玉と財布に残っていた10円玉3枚ほどと合わせてメロンパンを買って食べたが、その時のメロンパンのおいしかったこと、おいしかったこと。あの時のメロンパンほどおいしいと思ったものはない。 私が自動販売機の下にでも50円玉か100円玉でも落ちてないかと思って日吉の街を歩いた時、けっこう高いレストランだった不二家から、その時、日吉台学生ハイツに住んでいた、兵庫県の甲陽学院高校http://www.koyo.ac.jp/ から1浪で東大の法学部に行き、私とは全然違ってアルバイトなどは何一つせず、国家公務員1種試験に合格して外務省に入省した加藤という男がでてきたのを見た。 こいつは「ドイツ人」で「アメリカ人」の民族なんだなと思った。 私は「ロスケでイタコでチャンコロの民族」であるから、だから、これだけ差があるのだな、とよくわかった。 高校では同じ教室で同じように学んでいた女性も、「大学」に行くととたんに変わって、「玉の輿の嫁入りのために、その1、その2、その3」とかいうことで・・・かどうかわからんが、「金持ちのブタ人間の息子の嫁になるため養成ギプスだあ」と「お茶」「おはな」「着付け」なんてのを初めて「フランス文学科」に進学して・・・と、俗物四天王を始めるが、そういう「金持ちの息子との結婚のための養成ギプス」みたいなもので努力する女が結婚する相手というのは、私が食べるものがなくて1週間何も食べずに苦しんで自動販売機の下に100円玉か50円玉でも落ちてないかと腹ばいになって探していた時に、アルバイトなんて何ひとつせずに勉強させてもらって、不二家で食事していたような「ドイツ人」で「アメリカ人」の民族、「加藤みたいなやつ」のことであって、私のような「ロシア人」で「イタリア人」で「中国人」と結婚するためのものではないはずだった。だから、「ロスケでイタコでチャンコロの民族」から見ると、「お茶」「おはな」「着付け」やる女、「フランス文学科」に行く女というのは、いわば、侵略者の仲間みたいなものだったのだ。「ロスケでイタコでチャンコロの民族」としては、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と、「お茶・おはな・着付け・フランス文学科の民族・階級」を見ると、不快感を覚える。今、思っても、「お茶」「おはな」「着付け」に「フランス文学科」やる女というのは、けったくそ悪い! 裏切者め! けっちゃんぱっちゃんくわっちゃんにしてやりたいところだが、そうもいかんから、かわりに、ここに「けっちゃんぱっちゃんくわっちゃん」と打ち込んでおくことにする。
  「けっちゃんぱっちゃんくわっちゃん!」 

※ 《YouTube―SHALYAPIN(シャリアピン) Earliest Record of Doubinushka ДУБИНУШКА(ドゥビヌーシカ) 1908 》https://www.youtube.com/watch?v=plkjap_Vgrk&list=PL6BD5C1249C6F676B&index=4

  (2018.8.20.)

 次回、芝庭、目黒駅まで。https://tetsukenrumba.at.webry.info/201808/article_8.html  

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