日本基督教団田園調布教会(4)「ああ、無情」 太客⇔どうでもいい⇔酔っ払い-田園調布【8/14】

[第372回] 日本の教会シリーズ
    日本基督教団 田園調布教会 は、これまでとりあげたいくつかの教会とは違って、自分自身がそこに何度も行ったことがある教会でした。 私はそこで、奇妙な経験というのか、いい経験なのか悪い経験なのかはわかりませんが、他では見れない経験を2つしました。
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   1980年代前半のことです。私の両親はプロテスタントの教会で「洗礼」を受けていましたが、2人ともここの教会の教会員であったわけではなく、他の教会の教会員でした。 もっとも、キリスト教の「洗礼」を受けていたといっても、父親の方は、「焼き討ち織田信長大好き人間」で、しょっちゅう、「焼~き討ちじゃあ」「焼~き討ちじゃあ」 とか言って喜んでいる宗教弾圧大好き人間のおっさんで、なおかつ、普段は「戦艦長門の1隻でもあったら、ロスケどもをやっつけてやるのになあ~あ」「とってちってたあ~あ」とか家で毎日のように叫んでいる右翼・反動のおっさんのくせして「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る。甘ったれておってはならぬぞ、甘ったれておっては。とってちってたあ~あ」とか叫んでいるという「その部分限定の教条的マルクス主義者」というわけのわからんおっさんで、「聖書」読んでいるところなんて見たことない。なんか、そういうおっさんでした。 「わしは、同志社大学という立派な立派な大学をでておる」と言うておったのですが、どうも、同志社に推薦入学で入れてもらう時に、「プロテスタントの教会で洗礼を受けていること」というのが推薦してもらう時の条件だったようで、そのために、それまで、教会なんて行ったこともない、聖書なんて読んだこともないというおっさんに「洗礼を授ける」ということを牧師屋さんがして同志社に入れたみたいで、そういう「クリスチャン」だったようです。母は、大阪市内のプロテスタントの方のキリスト教系の幼稚園に行って、そこの幼稚園が良かった、と喜んでいましたし、伯父(母の兄)も早稲田大学に行っていた時に信愛学舎に入寮していたようで、伯父は「無教会の教会」(て、なんじゃ、そりぁ、て感じもするのですが)に行っていたようでした。そうなると、家の宗教であったお寺さんとはどうつきあうのか、檀家として対応できるのかという困った問題も出ていたようです。
  私は、カトリック系の幼稚園に行き、小学校の1~2年の時、YMCAの体操教室に通い、小学校の3年の頃には、両親が教会員であった教会の日曜学校の日曜ごとに通ったという経歴でしたが、「高校までエリート」でしたので、日本や世界の文学作品はある程度以上読んできましたので、そういった書物の中には、「クリスチャン」というわけでなくても、キリスト教の影響を受けた文学者はいるわけで、そういう作品の影響は受けていました。 私が高校を卒業した頃、1970年代後半から1980年代前半、慶應大学という大学は、「入学試験に国語がない大学」でした。法学部法学科・法学部政治学科だけが英語・数学・社会科が日本史か世界史のどちらか1科目と国語が試験科目でしたが、経済学部と文学部は英語と数学、商学部は英語と数学と社会科が日本史か世界史のどちらか1科目、医学部と工学部(→理工学部)は英語と数学と理科が物理と化学の2科目。これは、森川英正『日本経営史』(1981.日経文庫)に、慶應義塾出身の村井保固という人が森村組を受けた時に、「語学と簿記は不得手の方です」と答えて不採用にされ、その際、福沢諭吉が「馬鹿野郎、実業家を志して居るものが、其辺の支度が出来ていないとは言語同断だ」と言ったということがあったと出ていますが、昔から、東大は役人養成所で慶應はサラリーマン養成所だなどと言われたりもしますが、特に慶應の経済学部は経済界に勤める人間を養成する学部と考え、「近代経済学は数学を多用する」という点を考えると、重要な科目は英語と数学、商学部の場合、その英語と数学の次に必要とされるものといえば、世界の歴史の流れについての認識であるということで、英語と数学と「世界史」(日本を含む世界の歴史)か「日本史」(日本を中心とした世界の歴史)かであるということで、英語と数学と社会科は世界史か日本史の1科目、ということにしたのかと思います。又、その頃の早稲田大学は理工学部は別として、法学部・政治経済学部政治学科・政治経済学部経済学科・商学部・第一文学部・教育学部と理工学部以外のすべての学部の試験科目が一緒である大学では、どうしても、学部間の序列のようなものが受験生の間でできてしまうのに対し、慶應のように学部によって試験科目が異なれば、どちらがより難しいかといったことが考えにくいので、どの学部が上だの下だのといった考え方はしにくくなる制度であり、その点では慶應大学の制度の方がいいと私は思います・・・が、しかし、入学試験に国語がないという点については、入学試験に国語がないということは、文学・哲学・宗教学といったものを大学入学までにまったく学んでいない、日本や世界の主要な文学作品、まがりなりにも「一流大学」に入学しようという学生であれば、このくらいのものは読んでいておかしくないのではないかと思えるようなものを何ひとつ読んでいない、読んでいないがそこに書かれているような認識を身につけているのならいいが、そうではないという人間がそこに入学してしまうことになる、ということにもなるのでした。 同じ中学校から同じ高校、大阪府立北野高校に行き、私よりも先に慶應大学の経済学部に入学したS本などは、慶應大学の経済学部の試験には通ったわけですから、入学試験の時には英語と数学については慶應大学の経済学部の入学試験の問題はできたのでしょうけれども、高校の時から国語の成績の悪い男で、国語の勉強をしない人間であっただけに、何の因果か私も慶應大学に足をつっこむことになってしまって、会って話をしてみると、こいつ、知性がないなあ、こいつ、人間としての程度が低いなあ・・・という印象を受けました。たしかに、慶應の経済学部・商学部というのが実業家になろうという者を育成する学部として、」「語学と簿記」もしくは「英語と数学」が重要であるとしても、やっぱり、どの学部学科にしても国語は試験科目に必要なのではないか・・・という印象をS本を見て思いましたし、他の慶應大学の学生を見て同様のことを思ったこともあります。最近、慶應大学の広告研究会の人間が新入生の女性部員を輪姦(「まわし」)をしたとして、清家塾長が広告研究会に解散を命じたという事件がありましたが、そのあたりも、高校卒業まで(もしくは大学入学まで)に、国語、あるいは文学・哲学・宗教学といったものをちっとも学んできていない、「慶應経済学部型アタマが英語と数学だけ人間」の欠陥がそこに出た、と見ることもできるのではないかと私は思っています。もっとも、私が在学中に、慶應大学は私立大学で慶應だけが入学試験に数学が必須科目としてあるということから、私学一本で目指す受験生は慶應大学は受けにくいことから模擬試験では「偏差値」として示される数値が慶應は低くなってしまい、受験生からなめられてしまって受験者層が低くなってしまうということから試験科目を変更して他の私立大学に合わせた、ということがあったので、広告研究会の強姦魔どもがどういう試験科目で入ったのかはわかりませんが、そのアホどもがどうであったかにかかわらず、どうも、慶應という学校は昔から「実業家を目指す人間の学校」「全体が経済学部みたいな大学」、悪く言うと「ブタ商人の学校」という面があり、実行犯だけではなく、慶應という学校に強姦魔みたいな体質があったと思いますよ。 私は、結果として、2浪しても東大の試験に落ちてしまったけれども、特に、2浪目の年は、他の科目は別として国語については悪くない成績を取っていたはずで、東大の試験でも、東大の受験生の中でも国語に関しては悪くない方の成績、合格した人と比較しても国語については劣らない成績をあげていたはずです。 ですから、「慶應タイプのブタ人間」とは違ってキリスト教の素養といったものも持っていたはずです・・・が、キリスト教の教会で「洗礼」といったものは受けていませんでした。「洗礼」を受けていなかった、ということは、当然、ここの教会の教会員ではありませんでしたが、何回か礼拝などに参加させてもらったのです。だから、1回だけ、のぞいたことがあるという者とも違ったのです。
   何度も礼拝には参加させてもらった人間で、今でも、火曜日の午前に「聖書研究会」をおこなっているようですが、1980年代、「聖書研究会」は日曜日の礼拝より前に教会堂の別室でおこなわれ、それと別に、やはり、「聖書研究会」だったか他の名称だったか忘れましたが、水曜か木曜の夜に幼稚園の隣の「牧師館」でおこなわれていて、私はどちらにも参加させてもらったことがありました。教会堂の礼拝の前の「聖書研究会」は伝道師の方が担当されていましたが、「牧師館」での夜の「聖書研究会」でしたかは、牧師の高橋さんが担当されていました。それらは少人数ですから、そこに参加した人間は牧師や伝道師とも面識を持つことになります。

   私が見た印象に残る光景。ある時、日曜日の「礼拝」の後、高齢のおばあさんがひさしぶりに来られたようでした。すると、まだ、ずいぶんと遠くにいたはずなのに、まるで、『福音書』の中の「放蕩息子の帰還」の話みたいに、牧師の高橋さんは、説教壇の付近にいたのに、黒い牧師服をマントのようにひるがえして、まるで、黄金バットかスーパーマンのマントみたいにひるがえして、風をまいて飛んで行ったのです。「ああ~あ、◇◇すぁ~あん」と声まで裏返らせて。 はあ・・・、この人、私なんかにはこういう態度は取らんわなあ、このばあさん、「ええお客さん」なんやろか。「大口の顧客」もしくは「太客(ふときゃく)」なんやろか・・・・。 なんか、そんな感じでした。そういう対応をされて、そのおばあさん、うれしかったでしょうかねえ???
   それだけなら、まだ、いいのです。 私らには特別どうってことない、て対応。 「太客」「大口の顧客」には、「ああ~あ、◇◇すぁ~ん」と声を裏返らせて牧師服をスーパーマンか黄金バットのマントのようにひるがえらせて風をまいて飛んでいく・・・・て、この人はそういう人なんだな、と。そんなところです。 しかし、それだけではなかった。
   私がこの教会に初めて訪問した時よりも前、バザーの前日だったそうですが、無断で教会堂に入って来ていた男性がいたというのです。 もっとも、「無断で」といっても、入口に誰もいなかったかから、「誰かいませんか」て感じで奥の方まで入って来たというのであれば「無断進入」とは別だと思います。又、一般に、神社というのは、入口で拝観料を求められる神社以外は、たいてい、誰でも神社の敷地内に入らせてもらうことができますし、お寺も有名寺院や本山といったお寺は拝観料を求められる寺と拝観料を払わなくても入らせてもらえる寺とがありますが、有名寺院や本山はたいてい誰でも入らせてもらうことができます。 教会の場合は、日本の教会は、礼拝などには「どなたでも参加していただくことができます」としている教会が多いのですが、普段、そうでない時に礼拝堂に入ることは、東京カテドラル聖マリア大聖堂のように「世界の丹下健三の建築」として見学に来る人が多い教会とかは別として認めていない教会が多いのではないかと思います。 しかし、ヨーロッパの文学者の文学作品を読むと、人生に重大な判断をしないといけないような場面において、教会堂に立ち寄って心を静めて祈りを捧げるという場面が出てきたりしますし、映画やテレビドラマなどでもそういう場面があったりすると思います。そういうのを見たことがある人が、教会堂というのは、それも、比較的大きな規模の教会の教会堂ならば、普段から誰でも入っていいものかと思ってしまう人もいるかもしれません。そういう人が無断で教会堂に入って来たとしても、その場合には、そうではないのですと説明すればいいことだと思います。
   しかし、そのバザーの前日に無断で入ってきた男性というのは、無断で入ってきただけではなく、階段を登って2階の和室の小室の、さらに押入れの中にいたというのです。 誰が発見したかというと、牧師の高橋さんだったそうです。 私は尋ねたのです。「押入れの中で、いったい、何をやってたのですか」と。 すると、牧師さんはこう答えられました。 「ああ~あ。酔っ払っとったんですよ。 酔っ払いですよ。酔っ払いが上がりこんで押し入れの中で寝とったんですよ」と・・・・・。 ・・・・・。 牧師さんはそう言われたのです。
   「なんだか、どこやらから、人のいびきが聴こえる、というので、私はそう~っと階段を登って、この部屋に来てみると、どうも、押し入れの中から聴こえるのです。 で、こそおっと押し入れを開けてみますと、そこで寝とるんですよ、酔っ払いが。 それで、私は押し入れの戸を閉めて、抜き足、差し足、忍び足~で、階段を下りまして、そして、110番通報を、したんですぬえ~え・・・・」と、牧師さんは、そうおっしゃったのです。 はあ、この人、そんなこと言うんだあ~あ・・・・と私は思ったのですが、高橋牧師さんは、私が感じた違和感について何とも思わなかったようでした。この人、聖書を読んだことあるのかなあ~あ・・・なんて、思ったりもしたのですが、高橋さんはそんなことを聞いた人間が思っているなんて、まったく考えない人だったようです。
    酔っぱらったおっさんが、なんか、教会があるからどんな所だろうと思って入ってみたが、誰も見当たらない。誰かいるかなと思って階段を上がっていったら和室があって押し入れがある。酒がまわって眠気もしてきた・・・てところで、ちょうどいいわ・・とそこで眠り込んでしまった・・・という、そんなところかな・・と思います。田園調布にも酔っ払いはいるわけです。 田園調布にいる人間は誰もがクロワッサンをかじりながらミルクティーでも飲んでいるのではなく、酒のんで酔っ払うおっさんもいるわけです。
    それで。 どういう理由であれ、ともかくも、教会という所に入ってきた人、どういう経緯であれ、何かの縁があって教会という所に入ってきた人を、警察につきだすということが好ましいことなのかどうか。 ・・・そういうことを、この高橋さんという牧師さんは考えない人なんだなあ~あ・・・と私は思ったのです。「ぬ~きあし、さ~しあし、し~のびあし・・・・と階段を下りまして。 そして、わたしは、電話の所に行って、110番通報をしたんですぬええ~え・・・・・」て、あんた、そういうことは得意になって話すことかどうか、考えへんの? て思ったのですが、考えないようです。

   ヴィクトル=ユーゴーの『レ=ミゼラブル』という小説があります。 小学校低学年向けの「良い子の世界名作シリーズ」て感じのシリーズでは『ああ無情』という題名で出ている場合がけっこうあります。 この『ああ無情』というのは、小学校低学年の子供に向けて「訳者」というのか「小学校低学年向けに書き換えた人」というのかがつけた題名かと思っていましたら、そうでもなくて、《ウィキペディア-レ・ミゼラブル》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB によると、≪ 日本では始め、森田思軒が一部を「哀史」の題名で訳したが完訳には至らず、黒岩涙香による翻案が『噫無情』(ああむじょう)の題で1902年(明治35年)10月8日から1903年(明治36年)8月22日まで『萬朝報』に連載され、これによってユーゴーの名が広く知れわたることになった。≫そうで、日本で翻訳されて出版された時に、黒岩涙香が『噫無情(ああ無情)』という題名にして出して、それ以降、子供向けの「縮約版」に『ああ無情』という題名でだされることがあった、ということのようです。 私は、その子供向けの『ああ無情』を小学校の2年の時に読みました。 子供向けでない『レ・ミゼラブル』を読んでみたいのですが、なにしろ、貧乏人のことで多忙なものですから、読めずにいます。
   その『レ・ミゼラブル』というのか『ああ無情』にあったお話は多くの人が知っていると思います。刑務所にずいぶんと長く入っていたジャン=バルジャンという男が刑務所から出てきて、ある教会を訪ねる。牧師はその男が何年も刑務所に入っていたなどということはまったく気にもかけずに歓迎しましたが、その男は牧師が親切にしてくれたにもかかわらず、牧師が所有していた銀の食器を盗んでいった。 ところが、おまわりがその男をつかまえ、見ると銀の食器を持っている。おまわりはその男を牧師の所に連れていって、「今、この男を捕まえたのですが、この銀の食器はあなたの物でしょう。この男があなたの物を盗んだのですね」と言うと、牧師は「これは、私がこの方にさしあげた物です。私は、他の物もさしあげると言ったのに、どうして、あなたはこれだけしか持っていかなかったのですか」と言う。おまわりは、「本当ですか」となおも疑わしそうに言うが、牧師が「決して盗まれたのではありません」と言うので、しぶしぶ、退去した。それ以来、ジャン=バルジャンは心を入れかえて神に仕える人生を送るようになった・・・・・という、なんや、泣かせる話やないかあ~あ・・・という気もするが、一方で、三文芝居というのか、菊池寛的通俗小説というのか、『走れメロス』か『杜子春』みたいにくだらん・・・・と思う人もいるかもしれません・・・・し、牧師という聖職者が銀の食器なんて、そんな「ブランドむおお~ん」なんて持ってるて、わしら、ダイソーでこうた食器つこうてるのにからに、牧師て「ええなあ、うらやましいなあ。わしぁ、貧乏やからなあ。わしぁ日陰の月見草やあ」。なんか、牧師になればよかったみたいやな、牧師てもうかんねんなあ、「商売繁盛で笹もってこ~い♪」て感じ、毎年、正月には今宮戎神社に参拝しとるんちゃうかとか、田園調布なんてブランドの駅のそばに「社宅」用意してもろうて住んでええなあ、わしら、駅から遠い所に住んで通勤も大変やのにからに・・・とか言いたくなったりとか・・・・するかもしれませんが、そのあたりはさておき、けっこう有名な話のはずです。
※ 今宮戎神社HPは⇒http://www.imamiya-ebisu.jp/
   教会に無断で入ってきたといっても、教会堂のいつも礼拝をおこなう場所に入ってきたというのではなく、2階まであがって和室の押入れの中でいびきかいて寝ていた・・・というのですから、いつも、礼拝をおこなう場所に座って祈っていたというのとは事情は違うでしょうけれども、それでも、刃物をもち、それを振り回して人に襲いかかったとか、拳銃をもって教会堂でぶっ放した・・・とかいうようなケースとはまったく違います。
   もっとも、そうであっても、バザーの前日ですから、教会員の人などがバザーに出品して、購入した人のお金を教会の運営費にあてようという出品品もそこにあるわけですから、せっかく、教会員の人が出品してくれた物を持って行かれてもいけないという気持ちもあったか・・・・というと、高橋さんの場合はそうではなかったと思います。単に「押入れの中で寝とったんですよ」というだけ。 そこまで考えていなかったでしょう。
   「わたくしも、教会という所になんらかの縁があって来た人を、警察に連絡するというのはどんなものかとも考えたのですが、そうはいいましても、皆さんからバザーのためにお預かりしている物もそこにあるわけですし、教会という所になんらかの縁があって入ってきた人を警察に連絡するのはどうかという気持ちもありましたが、これはやっぱり、警察に対処してもらった方がいいと考えたのです」とでも言うのなら、わからないこともありません。 しかし、「ぬ~きあし、さ~しあし、し~のびあし。 そうやって、私は階段をしずか~に下りて、そして、電話の所に行って、110番通報をしたんですぬええ~え・・・」て、得意になって話すというのは、この牧師、いったい、どういう人間性してるんだあ、このおっさん・・・・と私は思ったが、そう思った人もいるかもしれないが、思わなかった人もいるだろう。 牧師は自分はなんらおかしなことは言っていないと確信していたようだった。
   別に、必ず、『レ=ミゼラブル』の登場人物の牧師と同じことをしなければならないということはないと思う。どうするかはケースバイケースで考えて判断するしかないと思う。 しかし、たとえ、警察に連絡したとしても、その話し方というものもあると思うのだ。 そう思いませんか?
   もっと、言ってしまえば・・だ。 警察に言うほどの問題と違うのじゃないか。 もちろん、私はその場にいて見たのではないので、あまり、断定的なことは言えないけれども。 牧師の高橋さんの話がそのまま本当のことだったと仮定して考えると、単に、酔っ払いのおっさんが入ってきて、階段を上って行ったら和室があって押し入れがあり、眠気がしたので、そこに入って寝てしまった・・・・というだけのことと違うのか。 もし、私が牧師だったとしたならば、「ちょっと、おとうさん、おとうさん。 こんな所で寝てもろたら困るがな」と言って肩でもたたけばいいこと・・・と考えるだろう。それですむことと違うのか。 そりぁ、押入れの中にまで黙って入って寝ていたというのはいいことないかもしれないけれども、いちいち、警察漢を呼ばなきゃならんほどのことと違うのじゃないか。

   片方で、「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」のおばあさんがやってくると、「ああ~あ。◇◇すぁあ~ん」と声を裏返らせて叫んで、牧師の黒い服を黄金バットかスーパーマンのマントみたいに翻して風をまいて飛んでいく・・・・。 片や、酔っ払いのおっさんが、押入れの中で寝ていると、「ぬ~きあし、さ~しあし、し~のびあし・・・。そうして、しずかあ~に階段を下りまして、そして、電話の所に行って、私は110番通報を、したんですぬええ~え」て。 そういうおっさんなんだ、この人は・・・・・。 とりあえず、一回、ヴィクトル=ユーゴーの『レ=ミゼラブル』を読ませてやりたいような気もしたのですが、読んだとしても、それでも、そういうおっさんだろうなあ・・・。 息子が慶應の内部進学、慶應義塾高等学校になんて行くくらいですから、そういう人なんでしょう。

   で、「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」のおばあさんと 酔っ払いのおっさん の2種類ではないのです。もうひとつあったのです。
   私は、この教会の礼拝には何度も行きました。 もちろん、この教会の教会員ではないので、「月定献金」などは払っていません。 献金は礼拝の時に、毎回、100円、献金箱に入れたくらいのものです。 小学生なら10円でもいいかもしれませんが、大学生が10円というわけにはいかないと思いますし、同時に自分で生活費を稼いでいない人間があまり多額の献金をするのも不適切だと思いましたので、毎回、100円入れてきました。母が言うには、母が毎日曜日、通ってきた大阪府の日本基督教団のM教会でも、大学生は、たいてい、100円くらい入れていた、といいます。 だから、献金の金額はそんなものでしょうけれども、礼拝に行けば、帰りにトイレを借りることだってあったような気がしますし、トイレを借りれば水道代だってかかるでしょう。 教会堂を使用すれば、建物の減価償却費用もかかると考える必要があるかもしれません。ですから、日曜日に100円払ってもらったとしても、決して「もうかる客」ではなかったかもしれません。 しかし、それでも、何度もそこに行ったのです。そして、周りの人が掃除をしたり座席を並べたりする時には一緒に掃除をしたり座席を並べたりもしました。 何の行事だったか忘れてしまいましたが、ポスターを作りたいと伝道師さんから言われて、「教育館」(幼稚園)で、ポスターを作り、そして、伝道師さんと一緒に貼らせてもらえるように近隣にお願いに足を運んだりもしました。もちろん、それらに対して報酬はもらっていません。それらは、労働力を提供したと考えるならば、もし、金銭に換算したならば、それなりのものになるのではないかと思います。バザーの時にも、販売の作業に協力もしました。「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」のおばあさんとは違うかもしれませんが、そうやって、この教会の作業には協力してきたつもりでした。
   今、考えると、ああいう「労働力を提供する側がカネを払う」もしくは、たとえ、少額でもカネを払う側が労働力を提供する」という、まるで「作業療法」みたいなことはするべきではなかったのではないか、とも思います。 大熊一夫『ルポ 精神病棟』(朝日文庫)には、「作業療法」の話が出ています。取材のために「アル中」という設定で「入院」した「週刊朝日」副編集長だった大熊一夫が「入院」した「精神病院」では、「患者」に民社党から選挙に立候補した理事長だか院長だかのポスターの作成作業を無賃労働・強制労働でさせていた。それを「作業療法」と言うのです。「患者」に強制労働をさせておいて、それを「作業療法」と称して、「患者」から(あるいは「患者」の家族から)カネを取るのです。子供の頃、海苔のついてせんべい・おかき というのは「精薄(精神薄弱)の子が、ハナをたらしながら、そのハナをつけて海苔をせんべいにつけている」というお話があり、本当かな・・・と思っていました。「都市伝説」かみたいに思えますが、実は100%作り話ということでもなさそうです。怪人21面相から標的にされた江崎グリコは、標的にされるだけの理由があります。 「グリコのおまけ」て誰が作っていたか知っていますか?  あれは「精神病院」の「作業療法」なんですよ。 怪人21面相事件があった時、権力・体制に媚びる不良評論家が「社会正義のため、怪人21面相を断固として捕まえないといけない」とか「子供たちの夢を守るため、グリコ・森永をなんとしても守らないといけない」とか無茶苦茶言うひとが続出しました。こいつら、許せんなと思いました。私はたまたま知っていたのです。「グリコのおまけ」というのは、「精神病院」の「作業療法」で作られているということを。江崎グリコ(株)https://www.glico.com/jp/ は、「内職」として「精神病院」に「グリコのおまけ」を組み立てる作業を依頼するのです。「内職」というのは、「好きな時間にできて、好きな時間だけ作業をして、できただけの報酬をもらえる」というものなので、報酬は安いのです。その無茶苦茶安い報酬の「内職」を「精神病院」は「患者」に強制的にさせて、当然、その作業に対しての報酬を「患者」に支払ったりはしません。おそらく、江崎グリコ(株)は「病院」に払っているでしょう。安いとしても。 しかし、「病院」は江崎グリコ(株)から受けとった報酬を「患者」には渡しません。逆に、「患者」からは「作業療法」代として「治療費」を取ります。「一粒で、二度おいしい」とはまさにこのことです。 「患者」もしくは「患者」の家族は「病院」にカネを払って「入院」しているのであって、「病院」からカネもらって「入院」しているのではないのですが、「病院」は「患者」に強制労働をさせて、その報酬は「病院」がとり、さらに「患者」もしくは「患者」の家族からも「作業療法」代を取るのです。「精神医学」の「◇◇療法」なんてものはたいていがそんなものです・・・が、江崎グリコ(株)は、「内職を依頼しただけで報酬は払っている」から問題はないのか、江崎は問題ないと主張するでしょうけれども、誰であれ、自分自身が納得して労働契約を結んだわけではない労働をさせられる義務はないはずなのです。江崎グリコ(株)は「病院」と契約はしたとしても「患者」と契約はしていないはずなのです。労働契約を結んだわけでもない相手に強制労働させているのは事実であり、「病院」の中での作業であるから安い報酬でも江崎グリコ(株)はその作業を依頼することだできていたのです。 江崎グリコ(株)が「作業療法」という反社会的な行為に加担していたのは間違いのない事実です。 怪人21面相事件の時、「評論家」と称するアホどもが、「社会正義のために怪人21面相は絶対に許してはいけない」とか「子供たちのためにグリコ・森永を何としても守らないといけない」など言いまくることがあった際、もう時効だから言いますが、慶應大学のある教室の壁に落書きしたことがありました。「安い内職代でグリコのおまけを作らせて自分たちだけが儲けている反社会的な江崎グリコをつぶせ」と。すると、しばらくして、その隣に、反論を書かれました。「安い内職代だといっても、それで生活している人がいるのだろうが。バカか、おまえは。江崎グリコがつぶれたなら、その内職で生活している人間が困るだろうが。このアホが」と、そう書かれたのです。さすが、慶應ですね。さすがは「経営者のイヌ養成所大学」の学生ですね。 内田康夫『白鳥殺人事件』は、怪人21面相事件をヒントにして、それと似ているけれども同じではない話を描いていますが、内田康夫『白鳥殺人事件』では、江崎グリコ(株)がモデルかと思われる会社の経営者に恨みを持つ人達が、現経営者を懲らしめてやろうと考えて、その会社を脅すが、その結果として、江崎グリコ(株)の下請けの会社の人間が苦しむようになり、それを見て標的を同業他社に移す・・という話になっています。たしかに、下請けの業者とかは、江崎グリコ(株)がたとえどんなに悪い会社でもなくなったら困るでしょう。しかし。「精神病院」で「作業療法」させられている「患者」にとっては、江崎グリコ(株)がなくなったからといって困るものは何もないのです。「患者」は江崎から「作業療法」と称して強制労働をさせられ、その報酬も「病院」にとりあげられているのであり、江崎グリコ(株)がなくなっても、今、「作業療法」と称してさせられている強制労働がなくなるか、ほかのものに変わるかであって、マイナスになるものなんて何ひとつないのです。 「反論」を書いた慶應大学の学生、おそらく、「思考の柔軟な慶大生」とか「独立自尊の精神を身につけている」とか「自我が確立されている」とか「福沢精神を身につけている」とか称している人間(もしかすると「ギャルにもてもて」とか言っているかもしれません)は、そういうことを知らないのです。知らないから、「患者」に強制労働させた「グリコのおまけ」の「報酬が安くても、なくなったら内職やっている人が困るだろうが」などと加害者に加担することを書くのです。いかにも慶應て感じがしました。それ、書いたヤツ、今頃、私なんかと違って、けっこういい会社に就職してけっこう出世してるでしょうね。私なんかと違って。
   で、少々、話がそれてしまいましたが、その「作業療法」みたいに、「カネを払っている側が労働力を提供する」「労働力を提供する側がカネを払う」というアホなことを、この教会にしてしまったことがあったのです。だから、牧師さんにとっては、ものすごい貢献ではないとしても、この教会にちょっとは貢献してくれた人、その分だけくらいは貢献してくれた人だったはず・・・と私は思っていたのです。

   毎週のように礼拝に行っていた時もあったのですが、その後、しばらくご無沙汰しました後、日曜日の夕方に「夕拝」に参加させていただいたことがありました。「夕拝」は朝の日曜礼拝に比べれば参加者はずっと少人数です。 その際、夕拝が終わった後、玄関付近ででしたが、牧師の高橋さんと会ったので、「こんばんわ。ご無沙汰してます」とこちらから挨拶したのです。 私は「牧師館」での「聖書研究会」にも参加させてもらったことがある人間ですから、教会員ではないとしても、当然、牧師の高橋さんとも面識があります。こちらから、そう挨拶したならば、当然、牧師ならば、「ああ、〇〇さん。久しぶり。元気にしてましたか」とでも牧師は言うと思ったのです、私は。 ところが、高橋さんはそうではなく、私の方から挨拶したにもかかわらず、私の方を見て、「あ、」と言っただけで、顔を上下に5mm以上、10mm未満、動かしただけで、それ以外、一言も口をきかなかったのです。 この人、「こいつは、別に来てもらわなくてもいい人間なんだ」とでも思っているのか? と思いましたが、そうであったのかないのか。 おそらく、そこまでは積極的に考えていなかったのではないかと思いますが、しかし、牧師ならば、「ああ、〇〇さん。久しぶり。元気にしてましたか」くらい言うかと私は思いこんでいたのですが、彼は言わなかったのです。「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」でない相手にそんなこと言う必要はない、と思っていたのかもしれません。 しかし、たとえ、「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」でなかったとしても、「ああ、〇〇さん。久しぶり。元気にしてましたか」と一言いうのに、いったい、いくらカネかかるよ???  そのくらい、言って何かバチあたるのか???

   この話を、「クリスチャン」の人にしますと、「牧師なんてそんなもの」と言う人が少なくないのですが、「牧師」てそういうものなのでしょうか?  それとも、田園調布なんてブランド地名の場所にある教会では、「大口のお客さん」が檀家についているから、私なんかには、こちらから挨拶しても、「あ、」と口にするだけで顔を上下に5mm以上、10mm未満動かすだけで十分であって、そんなやつ、来なくなっても別にちっともかまわん、とでも思っていたのでしょうか。
   この教会に行き始めてしばらくした時、母が、一度、この教会に行ってみたいと言うので連れていったことがありました。 母にとっては教会というのは息子(私)の悪口を言う所でした。 だから、母が行く教会には私は行きたくなかったし、行ってもしかたがないと考えていましたから行きませんでしたが、母を連れて行くと、やっぱり、母は「教会」という所を「息子の悪口を言う所」にしようとしました。 どうも、「教会に来ている人」というのは、息子の悪口を言いに来る人がいると、他の所の人と違って、「そうよねえ~え」と同調してくれるらしいのです。で、母と合いそうな人が、「ここの教会には、慶應の先生も来ておられますよ」と、母にそう言ったのです。 私が、慶應などという不品行の大学に行くというのは、それはキリスト者としての精神と相いれないのではないのか、と考えたりしていたのに対して、そういうことをまったく考えない、いわば、「塾風教徒キリスト派」みたいなおっさんが来ていたようです。 「塾風教徒キリスト派」が。
   牧師の高橋さんの息子は、慶應義塾高校から慶應大学の医学部に進学したと聞きました。慶應義塾高校から慶應大学に進学するのは、どの学部でもいいなら、大学から一般入試を受けて通るよりもずっと入りやすいらしいけれども、医学部に進学するのは内部進学でもけっこう難しいらしいと聞いていますが、それに行ったらしい・・・・が、もしかして、慶應義塾高校に入学する際、「塾風教徒キリスト派」のおっさんに「先生、どうぞ、よろしくお願いします」とお願いして、その結果として通ったのかどうかはしらんが、その後に通った、ということがあったのではないか。そういう「塾風教徒キリスト派」のおっさん、「塾風」の範囲の中限定でのキリスト教徒のおっさんとか、先にあげた、「ああ~あ、◇◇すぁあ~あん」と声を裏返らせて、牧師の服を黄金バットかスーパーマンのマントのように翻らせて風をまいて飛んでいくおばあさんとか、そういう人は「大事にしないといけないお客さん」であって、私なんかは顔を上下に5mm以上、10mm未満動かして「あ、」でおしまい、酔っ払いのおっさんだと「ぬ~きあし、さ~しあし、し~のびあし!  そうやってしずかあ~に階段を下りまして、そして、私は電話の所に行って、110番通報をしたんですぬえええ~え・・・」て。 はっきりしとるな、このおっさんは。
    いや~あ・・・・・、しかし、それにしても、「わかりやすいおっさん」やな、このおっさんは。 普通、いくらなんでも、そこまでやるかあ~あ・・・・。

   戸建住宅建築業の小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→(株)ヤマダエスバイエルホーム 〕に入社してすぐの新卒社員研修の時、「お客さんを相手にする際、いい土地をもっていて、相当、カネもってるお客さんもあれば、そうでもないお客さんもいるわけだけれどもなあ。 おまえら、いい土地もっていて相当カネもってるてお客さんにはへこへこして、そうでないお客さんだと粗末にするなんて、そういう下品な真似はするなよな」と言われたものです。 もちろん、ビジネスとしてやっている以上は、高い金額をだしてくれる人にはできるけれども、安い金額しか出せない人にはできないものもありますが、営業として接する姿勢においては、どちらも大事なお客様のはずなのです。 日本基督教団 田園調布教会の牧師の高橋さん(今の牧師の高橋さんと親戚なのか赤の他人なのかはわかりませんが別人)は、まさに、小堀住研(株)の新卒社員研修で、「そういう下品な真似は絶対にしてはいかんぞ」と教えられたことを実行していたのです。
   雁屋哲が書いていた文章で、寿司屋には、値段も何も書いてなくて、入っても極めて愛想が悪いという店があるけれども、そういう店はいくら名店と言われている店でも行かない方がいいと書いていたのを見ました。なぜなら、歓迎されてないのですから、歓迎されてない店に行ってもしかたないですから、行かない方がいい、と。 そうでしょう。ですから、キリスト教の教会でも、こちらから挨拶しても、牧師が「ああ、〇〇さん、久しぶり。元気にしてましたか」すらも言わない。顔を上下に5mm以上10mm未満動かして「あ、」と言うだけで、「大口のお客さん」「太客(ふときゃく)」とか「塾風教徒キリスト派」(おそらく、「江崎グリコを守れ」とか言う連中)が来ると、「ああ~あ、◇◇すぁあ~ん」と声を裏返らせて、黒い牧師服を黄金バットかスーパーマンのマントのようにひるがえらせて風をまいて飛んでいく・・・というそんなおっさんが牧師やってる教会なんて、要するに、顔を上下に5mm以上10mm未満動かして「あ、」と言うだけの相手というのは、その牧師は歓迎していないと意思表示しているわけですから、そんな教会に献金でカネ払ったり、「作業療法」で労働力を提供したりなんて、するべきではなかった・・・・と考えるべきかもしれません。 但し、寿司屋の場合は、寿司屋のおっさんがその店を運営しているわけであって、そんな感じの悪い店に無理に行ってカネやる必要はないけれども、教会の場合は、牧師が経営者というわけでもないはずであり、どこに行ってもいろいろな人がいるわけですし、「牧師なんてそんなもの」と言う教会員の人はどこの教会に行っても少なくないので、牧師を見て行くのをやめる必要はない、でしょうけれども。・・・・それにしても、「わかりやすいおっさん」だった。 ほんと。
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↑ この「セコム」のシール。 あなたを守るためのものか、あなたを追い出すためのものか。 どちらだと思いますか?

  次回、9.日本基督教団田園調布教会(5) バザーの際の違和感。 新教会堂ファサードは・・・みたい http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_9.html

   (2018.6.1.)


☆ 田園調布と田園調布の教会
1. 魅力のある街(東京圏)。田園調布はどこまでか。態度の悪い不動産屋にへつらうな。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_1.html
2. 放射線状道路の扇の要の位置の田園調布駅はおしゃれ http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_2.html
3. 放射線状道路の扇の要の位置の広場。 独特のデザインの田園調布駅 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_3.html
4. 居住環境を考えた田園調布の街並み。居心地のよい宝来公園 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_4.html
5  日本基督教団 田園調布教会(1) 高すぎる樹木、鎧をかぶったみたいな教会堂、倉庫みたいな建物 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_5.html
6.  同 (2) 跳ね返す素材、教会堂は重厚である必要があるか。「セコム、必要ですか」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_6.html
7.  同 (3) 牧師館がなぜ教会堂の脇にないのか。遮る扉の玄関扉 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_7.html
8.  同 (4) 「ああ、無情」 「太客」vs「どうでもいい来場者」vs「酔っ払い」 〔今回〕
9.  同 (5) バザーの際の違和感。 新教会堂ファサードは・・・みたい http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_9.html
10. 同 (6) パイプオルガン・ハンドベルと偶像崇拝・惑溺 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_10.html
11.台(うてな)人体実験と精神医学ファシズム 吉益脩夫 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_11.html
12.今は見当たらない「矢野一郎邸」と「旧人見純一画室」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_12.html
13.カトリック田園調布教会と聖フランシスコ修道院 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_13.html
14.日本福音ルーテル田園調布教会、事故物件田園調布警察署 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_14.html

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