日本基督教団田園調布教会(6)パイプオルガン他と偶像崇拝・惑溺-田園調布と教会【10/14】

[第374回] 日本の教会シリーズ
   日本基督教団 田園調布教会の建物は、1980年代の「教会らしい建物」から、2011年から2012年にかけて、東日本大震災と福島第一原発事故の直後に建て替えられて、なんだか、「倉庫みたいな建物」「鎧をかぶったような建物」「窓が少ない暗い建物」、そして、ファサードについては、言ってしまえば「『ち〇ぽ みたい』なデザインの建物」になりました。なおかつ、もうひとつ、《玄関扉については「『世界の丹下』設計の東京カテドラル聖マリア大聖堂の扉を物真似したような扉」の建物》になりました。念のため、お断りしておきますが、この場合、「世界の丹下」というのは皮肉であって、ほめているのではありません。ましてや、《丹下健三の物真似して「『世界の丹下』のエピゴウネン」として評価してもらおうなんて考えの人》をほめたりしません。
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    ( ↑ 「ち〇ぽ みたい!」 )
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そして、もうひとつ、気づいたのは、前の教会堂は、「プロテスタントの教会の教会堂という感じの建物」でしたが、今度の建物は、プロテスタントの教会であるにもかかわらず、「カトリックの教会の教会堂みたい」な印象のある建物ではないか、と私は感じたのです。
   「教会の建物は、特別の建物である必要はない」とウィリアム=メレル=ヴォーリズは言っていたというのですが、私もそう思います。しかし、基本はそうですが、番町教会(東京都千代田区)を前から見て、もうちょっと何とかならんのか・・と思ったことがあったのです。要するに「普通のビル」だったのです。もしかすると、雑居ビルの1フロアを借りているとかかもしれませんが、「ちょっと、味気ない」という気がしたのです。ですから、できれば、「教会らしい建物」の方がいいとは思います。 しかし、さらに問題として、そもそも、「教会らしい建物」とはどういう建物なのだろうか? ・・・これは、なかなか、難しいと思います。 日本の教会には、欧米の教会の建物を真似た建物がけっこう多いのですが、しかし、欧米の教会を真似なければならないという規則もなければ筋合いもないはずなのです。教会の建物は「洋風」であるべきだという決まりはない。「和風」の教会堂があっても悪いことはないはずなのです・・が、「和風の教会堂」とはどんなものだろう? ・・・これも、なかなか、難しい。
   基本として、落ち着いた雰囲気を確保できて、そして、誰もがそこに行きたいという気持ちになるような建物であるべきでしょう。ひとつ、考え方に違いがあるらしいのは、「教会の建物は特別の建物である必要はない」とヴォーリズさんが言われたのは大いにもっともなことだと私は思うのですが、別の考え方もあるらしく、「教会堂というものは、神と出会う特別の場であるべきだ」と考える人もあるらしいのです。
   これまで、いくつかの教会を見てきて感じたのですが、一般に、
1.カトリックの教会とプロテスタントの教会では、カトリックの教会の方が「教会堂というものは、神と出会う特別の場であるべきだ」という考え方をとっているのではないかと思われるものが多く、プロテスタントの教会の方が、特に奇異な建物でなければ「教会の建物は特別の建物である必要はない」という考え方をとっているものが多いように思える。
2.カトリックの教会とプロテスタントの教会では、カトリックの教会の教会堂の方が「暗い建物」が多く、プロテスタントの教会の教会堂は、立地の上で彩光が十分にとれない立地であるケースも中にはあるとしても、基本的には、「暗くない教会堂」が多い。但し、カトリックの教会の教会堂はすべての教会堂が暗いわけではない。ルルドのシュペリウール寺院なんかは暗くない。
3.外界との間に結界を設けて、教会の内部は外とは違うという姿勢をとるのか、そうではなく、外界との間には境界なんか要らない、誰もが自然にそこに入って来ることができる状態がいいのだ、という姿勢をとるのか、という問題において、カトリックの教会は前者のものが多く、プロテスタントの教会は後者のものが多い。
4.立派なパイプオルガンが設置されているのは、カトリックの教会が多い。
   パイプオルガンなんてのは、これは楽器ですから、教会でなくてもサントリーホールにだってあるし(《ウィキペディア―サントリーホール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB )、プロテスタントの教会の教会堂にあっても悪くはないのでしょうけれども、一般にカトリックの教会の方が多いように思います。
5. ぎょうぎょうしく、十字架を高く掲げている教会はカトリックの方に多く、プロテスタントの教会は、どこかに十字架マークがあればそれでいい、というような教会が多い。
・・と思いました。
   結論として、この日本基督教団 田園調布教会の2011年から2012年にかけて建替えられた、新しい教会堂の設計者というのは、カトリックの教会の教会堂を見てきて、それを参考にしたり真似たりして設計した、てことないのか? と思ったのです。「『世界の丹下』の東京カテドラル聖マリア大聖堂」だってカトリックですしね。
   外から見て、窓が少ないように思え、暗いのではないかと思ったのですが、まったく窓がないわけでもなく、これは内部に入ってみなければわからないことだとは思ったのですが、日本基督教団 田園調布教会HPの「教会の歴史」http://den-church.jp/history/index.html に「新会堂 礼拝堂」の写真が掲載されていますが、やっぱり暗いですね。
   実際問題として、「建築家」というのは、精神的に未熟な人というのが少なくないと私は思っていますが、この新しい教会堂を設計した人というのは、あまり精神的に成熟した人ではなく、教会堂についての考えも十分に身につけていない人で、どちらかというとカトリックの教会の教会堂をこれまでに見てきて、教会堂というのはそういうものだと思っていたという人ではないのでしょうか。
   ↑ 実際に、日本基督教団 田園調布教会の新しい教会堂は「プロテスタントの教会でありながら、どちらかと言えばカトリックの教会の教会堂みたい」て感じがしませんか?


    ここで、気になったのはパイプオルガンです。立派なパイプオルガンのある建物というと、どちらかといえばカトリックの教会が多いように思います。
   私が最初にパイプオルガンというものを知ったのは、1970年の大阪万博の時のキリスト教館でした。それまで、オルガンというのはマーガリンみたいなものと思っていた。私は小学校の1年から2年にかけて、ヤマハのオルガンを中心とした音楽教室に通いました。1階がヤマハの楽器店になっている店の上の2階が教室になっていて、生徒は15人くらいだったか。ヤマハの教室では、右端にスイッチがあってスイッチを押すとピコっと電源が入って音がなるようになるオルガンを使用していたが、同じヤマハの音楽教室に来ていた生徒は新しく電気式のオルガンを買ってもらったようでしたが私だけは家にフンガフンガと踏んで鳴らす足踏み式オルガンがあったので、それで毎日練習をした。よその子供は新しく電気式オルガンを買ってもらっていたのに対し我が家は旧式の足踏式オルガンでしたが、それでも大事にしていたのです。ところが、ある日、突然、「オルガンをもらいにきました」と家に来た人があった。会社の従業員なのかたまたま喫茶店で会った人なのか今も母はよくわからないらしいのですがオルガンをほしいと言う人があったので、父が「うちにオルガンあるから、あげますわ」と約束したらしく、クルマで取りに来たらしい。私は、自分が、毎日、そのオルガンで練習していたのであり、毎日、練習が終わった時には、布で鍵盤を葺いて、オルガンの本体も葺いてして守ってきたのに、突然、それを持って行かれるということにショックを受け、「なんで、オルガン持っていくの?」「ぼく、そのオルガンで毎日練習してしてるんやで」「どうして、オルガン、持って行くの?」と訴えたが、有無を言わさず持ち去られてしまった。
   「あしたからどうやって練習したらいいの?」と母に言ったが、旧ソ連の映画『シベリア物語』で「ルビンシュタインは板の上で指を動かしてピアノの練習をした」と登場人物が言う場面がありますから、食卓に向かって指を動かして練習すればいいのでしょうけれども、母はその理屈は思い浮かばなかったようで、「うちは、ピアノがあるからピアノで練習すればよろしい。ピアノの方がオルガンよりも上なんだから」と言うので、その後はヤマハのオルガン教室の練習をピアノでやりました・・が、しかし、ピアノとオルガンは鍵盤を見ると似ていますが鍵盤を叩いた時の感触は全然違うし音色も全然違います。それより「ピアノの方がオルガンより上なんだから」と言うのなら、オルガン教室ではなくピアノ教室に行かせれば良かったはずです。ヤマハ音楽教室ではオルガンのグレードの高いものはエレクトーンと位置付け、ピアノとは位置付けていなかった。私が19歳の時、父は「あんたには、よそと違って、小さい頃から、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも、ええもんばっかし、買ってきてやってやってやったったから」などと言い出したので、「違いますよ。絶対に違いますよ」と言ったのだ。ヤマハのオルガン教室では、私以外の生徒は、新しくヤマハの電気式オルガンを買ってもらっていたのだった。旧式の足でペダルをフンガフンガと踏んで鳴らすオルガンで練習していたのはそのヤマハのオルガンを中心とする音楽教室で私だけだった。父の勤め先の人や取引先の人で、家にもよく来る人なら母は顔を覚えているが、その時、「オルガンをもらいにきました」と突然来た人は知らない人だったらしい。なんで、そんな人に、子供が毎日それで練習していて、子供が毎日、布で磨き上げているオルガンをあげなきゃならんのかと思うが、うちの父親はそういう男だった。私が練習していたオルガンを持ち去った人はそのオルガンをどうしたか。おそらく、その人の子供に与えてそのオルガンでオルガンの練習をさせたのではないか。父は私が「違いますよ」と言ったのに対して、「はあん? こんなこともわからんのか、こいつは! 難儀なやっちゃな。かなんな、こいつは。小さい頃からどんなもんでも、欲しいというものはこうてきてやってやってやったったて、こんなこともわからんとは、こいつ、ビョーキやわ、こいつ。絶対にビョーキやわ。薬のました方がええわ、こいつ」と。父はそう言ったのです・・が、しかし、私が毎日練習していたオルガンを奪い取ったのはその時にオルガンを取りに来た人とその人の子供であり、私は奪われた側であって奪った側ではない。よその子供は新しい電気式のオルガンを買ってもらっていたけれども、私は古い足踏み式のオルガンを使用して練習した。ヤマハのオルガン教室では、次週までにこれを練習してきてくださいと先生に言われても練習してしてこない人間もいたけれども私は毎日毎日律儀に練習していった・・にもかかわらず、その練習していた足踏み式オルガンも突然取りあげられた。オルガンに限ったことではなくすべてにおいてその調子だったのに、私が19歳になると「あんたには、よそと違って、小さい頃から、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも、ええもんばっかし、買ってきてやってやったったから」と言い出し、「はあん? こんなこともわからんのか、こいつは! 難儀なやっちゃな、かなんな、こいつ。こんなこともわからんとは、こいつ絶対にビョーキやわ。薬のました方がええわ」と言い出しやがった。このおっさんの方こそ、ビョーキと違うのか。こいつこそ、薬漬け療法(=「化学療法」「薬物療法」)とか強制労働・労働搾取療法(=「作業療法」)、逮捕監禁療法(=「入院療法」)、言いくるめ・精神支配(マインドコントロール)療法(「心理療法」「カウンセリング」)等々で「治療」してやった方がいいのと違うのか!・・と思ったが、オルガンというのはそういうものだった。「ピアノの代用品」、いわば「バターの代用品としてのマーガリン」、「カニ肉の代用品としてのカニ風味のタラ肉」、「松茸風味の永谷園のお吸い物」みたいなものだった・・が、大阪万博の時のキリスト教館にあった「オルガン」はそういうものではなかった。あくまで「ピアノはピアノ、オルガンはオルガン」だった。
    日本基督教団田園調布教会の入口に、「ご自由にお持ちください」と書いて置いてあったリーフレットを1部いただいてきて見ると、新しい教会堂には、「パイプオルガン」を設け、さらに「ハンドベル」も用意されたそうだ。≪礼拝では、パイプオルガンと聖歌隊とハンドベルクワイアが讃美を支えています。≫と書いてある。パイプオルガンは「松茸風味の永谷園のお吸い物」のことではなく、大阪万博のキリスト教館にあったようなのとかサントリーホールにあるようなのとかの方とわかるが、「ハンドベル」て何ぞや? 携帯用非常ベルとは違うのか?・・というと、違うらしい。《ウィキペディア―ハンドベル》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%AB によると、 ≪ハンドベル (Handbell) は、17世紀ごろにイギリスでキリスト教の教会のタワー・ベル(チャーチ・ベル、組鐘)を何人かで技巧練習をするために、生まれた楽器。正式名称をイングリッシュハンドベルという。アメリカで、独立した楽器となり、数人があわせて音楽を演奏する形態が完成し、賛美歌をはじめとして、色々なジャンルの曲を演奏するようになった。≫というものらしい。

   パイプオルガンて高いやろうなあ・・・て思うのだが、金持ちがいたのだろう。ここの教会には。やっぱり、「太客(ふときゃく)」が来ると、牧師が、私なんかは無視して、牧師服のすそをひるがえして風をまいて飛んでいくだけの御利益はあったということだ・・? やっぱり、私らみたいな貧乏人相手にしてたらあかんいうことや。なにしろ「わしぁ日陰の月見草。び~んぼうやからな」。〔 そういえば、あれだけ、何回も行った人間が、行かなくなったのですから、牧師か伝道師は、一度くらい、「どうされていますか」というハガキの1枚くらい送っても、バチあたらんのじゃないか・・なんてこと、思ったことありますが、来ませんね。別に、要らんけどね。私は要らんけど、牧師とか伝道師てのは、そういうのは仕事とちがうのか?・・とか思ったりもしますが、「大口のお客さん」がいっぱいあるから、私なんかは、別に来て要らんてことなのかもしれませんね・・。〕

   2つの点が気にかかった。ひとつは、「なんか、方向がずれとりぁせんか」てこと。もうひとつは、リーフレットに掲載されていた「聖歌隊」の写真だが、「前期高齢者」ばっかりじゃないの、という点。
   先に後の方を述べる。1980年代、母が行ってみたいと言うので、一度だけ、ここの教会の礼拝に連れて行ったことがあるのだが、その時、母が「やっぱり、東京やね」「やっぱり、田園調布の教会やね」と言ったのは、「聖歌隊」がうまい、というのだった。オルガンもうまいし、歌もうまい、と。母が行っていた大阪府の北摂地区の教会にも「聖歌隊」はあることはあったが、なかなか、メンバーがそろわないし、オルガンも下手だし、歌も下手だと言うのだ。 そして、「若い人が多い」と。実際、1980年代、東京の音大・芸大の学生だった女性が何人か「聖歌隊」に入ってやっていたと思うし、音大・芸大に行ってる人でなくても、男性でも、20代の人間が何人もいた。30代の人もいたし40代の人もいたと思う。ところが、今、日本基督教団 田園調布教会のリーフレットの写真を見ると、そこに写っている「聖歌隊」のメンバーは、言っちゃなんだが、「前期高齢者」ばっかりじゃないですか。 別名、「体だけ元気な年寄」なんて言うと怒られるかもしれん。「前期高齢者」には「体だけ元気な年寄」はいると思うが、すべての人が「体だけ元気な年寄」ということでもないだろう。体も頭も心も元気な人だっているだろう・・・が、それにしても、「前期高齢者」の割合が大きくて、20代くらいの人が見当たらない・・・というのは、パイプオルガンだのハンドベルだのといった、そういうものを用意したとしても、それでも、若い人に魅力がない、ということなのか? 少なくとも、場所から考えて、東京には大学が多いし、音楽大学や音楽学部のある大学は東京に多い。 それを考えると、20代くらいで「聖歌隊」をやりたい人がいてもおかしくないと思うのだが、「前期高齢者」の割合が大変大きい・・ということは、何か理由があるのではないか。

   そして、パイプオルガンとハンドベル・・・といったものを用意して、また、「聖歌隊」もまた、1980年代には「聖歌隊」の制服なんてなかったと思ったのだが、日本基督教団 田園調布教会のリーフレットを見ると、「聖歌隊」のおじさん・おばさんはそろいの白い服を着ている・・・が、何か、方向が変な方向に進んでいないか?
〔 フォイエルバッハ『キリスト教の本質(上)』(船山信一訳。1965.改版。岩波文庫)の「第16章 キリスト教的キリスト、または人格神の秘密」に、
《 キリスト教徒はたいへん幸運であって、この願望もまたみたされたのを見たほどである。異教徒は書かれないおきてをもち、ユダヤ教徒は書かれたおきてをもち、キリスト教徒は先例・模範・人格的に生きており眼に見えるおきて・肉になった人間的なおきてをもっていた。ここから、ただキリスト教だけが罪に抵抗する力をもち且つ与えるのである。そして人びとはこの名声を少なくともここではキリスト教に否認してはならない。ただ、徳の先例がもっている力は徳の威力であるよりはむしろ範例一般の威力である、ということだけは注意されるべきことである。そしてそれはちょうど、宗教音楽の威力は宗教の威力ではなくて、音楽の威力であるのと同じことである。
(原注) この点においてアウグスティヌスの自己告白は興味あるものである。「私は快楽の危険と〔心の〕健康の試練との間をこのように動揺しながら、ついに次のような結論に到達する。それはすなわち、私は教会で歌う習慣にいっそう多く引きつけられているので、耳を楽しませることによって弱い魂を敬虔な感情に高めよう、という結論である。しかし私は、歌うことがそのことが歌の内容よりもわれわれを感動させることがいっそう多いということが私に起こる場合には、私がたいへんな罪をおかすのだということを告白する。」【『告白』(”Confessiones”)第十章第三十三章――服部英次郎訳『告白』(岩波文庫)中巻192-193頁】》 とある。〕

   キリスト教には、「偶像崇拝の禁止」という規定が「聖書」に書かれている。 それに対して、仏教では「偶像崇拝の禁止」という考え方はない。むしろ、「仏像を拝むことを通じてホトケの道に入る」ことを教えているはずだ・・・・が、いついかなる場合も奨励するわけでもないようである。懐奘(えじょう)編『正法眼蔵随聞記』(和辻哲郎校訂 1982.改版 岩波文庫)よりに引用します。
≪ 一日示して云く、続高僧伝の中に、或禅師の会下に一僧あり。金像(こんざう)の仏(ぶつ)と亦仏舎利とをあがめ用ひて、衆寮等にありても常に焼香(せうかう)礼拝し恭敬供養しき。 有時禅師の云く、汝ぢが崇(あがむ)る処の仏像舎利は、後には汝がために不是(ふぜ)あらんと。其の僧うけがはず。師云く、是れ天魔波旬(てんまはじゅん)の作(な)す処なり、早く是(これ)を棄つべし。其の僧 憤然として出(いで)ぬれば、師すなはち僧の後(しり)へに云ひ懸(かけ)て云く、汝箱を開(ひらい)て是を見るべしと。 其の僧いかりながら是を開てみれば、毒蛇わだかまりて臥せりと。是(ここ)を以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏(ひとへ)に是を仰(うやま)ひて得悟(とくご)すべしと思はば還(かへっ)て邪見なり。天魔毒蛇の所領となる因縁なり。仏説の功徳は定まれる事なれば、人天(にんでん)の福分(ふくぶん)となること生身(しょうじん)と等しかるべし。総じて三宝(さんぽう)の境界(きゃうがい)を恭敬供養すれば罪滅び功徳を得、また悪趣の業(ごう)をも消し人天(にんでん)の果(くわ)をも感ずることは実(じつ)なり。是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり。仏子(ぶっし)と云(いふ)は仏教に順じて直(じき)に仏位(ぶつゐ)に到る為なれば、只教(おしえ)に随(したがひ)て工夫弁道(くふうべんだう)すべきなり。其の教(をしへ)に順ずる実(じつ)の行(ぎゃう)と云(いふ)は、即(すなはち)今の叢林(そうりん)の宗とする只管打座(しかんだざ)なり。是を思ふべし。 ≫
   これは、懐奘(えじょう)編『正法眼蔵随聞記』(和辻哲郎校訂 1982.改版 岩波文庫)の冒頭なのですが、私は、最初、この文章を読んで、言いたい意味がよくわからなかったのです。「只管打座」と座禅を勧めるのはわかりましたが、仏像・仏舎利を恭敬供養するというのがよくないとは言わないが、この場合は良くなかったということのようですが、それはどいういう場合なのか。今は意味がわかるように思っています。 仏像・仏舎利を恭敬供養するということが悪いというわけではないが、それはあくまでも、仏像・仏舎利を恭敬供養することを通じてホトケの道に到るのであればいいけれども、そうではなく、仏像・仏舎利を恭敬供養すること自体が目的になって、ホトケの道に到るということがなくなるのであれば、むしろ、それは好ましくないものと考えるべきではないのか、と。そういう意味ではないかと思います。

   内田康夫『平城山(ならやま)を越えた女』(2017.新版 講談社文庫)では、仏像に魅力を感じた・・のはいいが、単に魅力を感じる段階にとどまらず、「惑溺」という状態にまでなった男、さらには、仏像ではなく、仏像に似た顔つきの女性に魅力を感じ、大企業の社長であるという社会的地位を利用して、仏像に似た顔の若い女性を手に入れて・・・といった行為に到る男の話が出ています。 その男に限らず、美術工芸としての仏像の魅力を感じるのは悪いということはないが、それも程度の問題もあり、あまりにものめりこむと、危険な状態、好ましくない状態になる・・・といったことが出ています。
≪ 「これ、見てください」
  美果は十二神将をグルッと巡って、ふたたび正面に立ったとき、指先を本尊である薬師如来の足元に向けた。
  本尊が座る須弥壇の手前二メートルばかりのところに、古びたお厨子が立っている。黒漆に金箔を貼って、かなり豪華なものだったであろうことは、浅見のような門外漢にも、ひと目で分かる。
「この中に、本来は香薬師物が納めてあったのだそうです」
  なるほど、厨子の脇に説明書が置かれていて、この香薬師仏は昭和十八年に盗難に遭い、以来、杳として行方がしれない――という趣旨のことが書いてあった。
・・・・・
「もちろんですよ。私はいちど、白黒の写真で見ましたけど、微笑したお顔はとても美しくて、優しくて、しかも威厳に満ちていました。美術品として見ても、かなり優秀な作品だったのじゃないかしら。それを彫った人の信仰心が、見る者の心に伝わってくるような気がしました。仏さまとは、こういうお姿をしていらっしゃるっていう、そういう信念みたいなものが・・・」
  美果は、空っぽの厨子の中に香薬師仏が存在しているかのような視線を注いで、うっとりした口調で話した。
  浅見はそういう美果の向こう側に、またしても、失踪した野平繁子のイメージが思い浮かんだ。そして、さらにその向こうには、比叡山であえない最期を遂げた女性のことまで見えるような気がしてならなかった。
  ひとつのことに取りつかれたときの人間のひたむきさには、たしかに魅力があるし、美しくもある。しかし、何かにのめり込むということは、平常心を失う危険性をつねに内包している。
  どれほどみごとな仏像であろうと、縁なき衆生の浅見の目には偶像にしか映らない。それらはあくまで、木製の、あるいは金属製の造形物でしかないのだ。像に美を感じたり、作者の信仰の深さに共感を覚えたりしたとしても、それは鑑賞者としての立場からのもので、信仰そのもの、宗教そのものに共感したり、のめり込んだりすることはない。
  美果の仏像や寺院巡りも、もともとは、おそらくそれらのもつ美しさに憧れてのことであったにちがいない。それがいまは、明らかに、仏像に込められた「こころ」の虜になっている。しかもそれは、本来の宗教とは異質のものかもしれない。仏像それ自体の魅力に眩惑されている状態を、あたかも宗教心であるかのように錯覚するのは、きわめて危険なことのように思える。
(あぶないな――)
 浅見は美果の横顔を眺めながら、彼女の惑溺をひそかに危惧していた。・・・ ≫
≪ 「だけど、何のために盗み出したりしたのですか?」
美果は許せない――と言いたげに、強い口調で言った。
「愚行だろうね」
細岡はあっさり言った。
「いまとなって振り返ると、愚行としか言いようがない。・・・・」
「目的は何だったのですか?」
「一人だけは、目的がはっきりしている。しかし、あとの三人はその男の情熱に引きずられた感がなくもないかな。その男は――かりにAとしておきますか――彼は香薬師仏に惑溺したのですよ」
「惑溺・・・・」
「そう、もう少し美しく言えば、愛したのだね」
  美果も浅見も、そのことについては多くを聞きたいとは思わなかった。美果はもちろんだが、浅見にも仏像に「惑溺」するマニアの心理は、理解とはいえないまでも知識としてはあった。・・・・ ≫
≪ 「だとすると、そのスキャンダルとは?」
「橋口氏の『惑溺』が香薬師仏にとどまっていたかどうか、です」
「というと、ほかの像にまで触手を伸ばしたとでも?・・・ たとえば、弥勒菩薩や思惟の像にまで・・」
 まさか――と、細岡は首を振った。
「まさか」と浅見も言った。
「そこまで望むことはしなかったでしょう。弥勒菩薩は香薬師仏のように簡単に盗み出せるものではありません」
「それでは、何を?」
「橋口氏の『惑溺』の対象は女性だったのではないかと思います」
「はっ・・・・」と細岡は口を開け、短く息を吸った。思い当たるものがあったらしい。
橋口氏は弥勒菩薩に似た女性に、異常な――それこそ惑溺といっていいほどの関心を懐いていたようです。じつは、そのことについて警察のほうに内偵を進めてもらって、主として銀座のクラブあたりの証言をまとめているのですが、橋口氏のそういう傾向は、たしかにかつてはあったそうです」
「かつてはあった・・・・というと、現在はないという意味ですか?」
「そうです、現在はないそうです。というよりも、橋口氏が銀座に来ること自体が激減したと、クラブの連中はぼやいていたそうです」
「ということは、橋口の関心が、弥勒菩薩に似た女性からほかに移ったというわけですかな?」
「いえ、そうではなく、より純粋にその傾向を強めたのだと、僕は理解しています。つまり、お金のため、商売のために装う贋者ではあきたらず、純真無垢に、より弥勒菩薩的であってほしい――そうねがったのではないでしょうか」
  浅見はゆっくり美果に視線を向けて、「たとえば、阿部さんのように」と言った。
  その瞬間、美果は電撃に体を貫かれたように震えた。
「それじゃ・・・・」
 口を開いたが、舌がもつれた。
「・・・それで、私に似た・・・いえ、弥勒菩薩に似た女性を毒牙にかけたっていうことなんですか?」 ≫
   仏像を拝むことを通じて「ホトケの道に到る」のならいいのでしょうけれども、仏像を拝むこと自体、さらに、仏像の魅力にひかれること自体が目的になり、さらには「仏像に似た女性」に異常な魅力をを感じるようになっていく・・・ということでは、それは本来の仏教とは異なるものであるだけでなく、誰のためにも困った方向に進むことになるわけです。

   キリスト教では「偶像崇拝の禁止」ということを言うものの、実際にはキリストやマリアの像が作られ、あるいは、キリストや使徒の絵が描かれた絵や彫刻が教会にあったりします。それは、教会によっては「字が読めない人にもわかるように」といった「言い訳」みたいなものがついていたり、あるいは、それはあくまでも、絵画や彫刻であって、それを拝むものではない・・・・とか言いながら、結局、それに礼拝していたり・・・しています。 私が子供の頃に行ったカトリック系の幼稚園では、幼稚園の入口を入って園舎に到る途中にマリア像があって、毎日、それを拝んでいました・・・が、自分で『聖書』を読んでみると、あれは「偶像崇拝の禁止」という点から考えるとおかしいのではないのか・・といった疑問を感じたりしました・・が、現実に、多くの人間がそこを通る時に手を合わせて拝むというのか祈るというのかしていました。
   『旧約聖書 出エジプト記』の≪ 「・・・君は上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの彫像、いかなる像(かたち)をも作ってはならない。彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない。何故なら君の神であるわれヤハウェは妬む神であり、わたしを憎む父たちの咎をその子らに罰して三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わが誠命を守る者のためには恵みを施して千代に及ぼすのである。・・・」 ≫(『旧約聖書 出エジプト記』20章4-7節 関根正雄訳。 1969.岩波文庫) という教えは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通のもののはずですが、この件について、もっとも、厳格なのはイスラム教ではないかと思います。
    イスラム教では、『聖書』の登場者の絵や像を作って拝むということは、厳格に禁じておこなっていないはずです・・・・が、しかし、人間というのは、どうも、何か「あるもの」を拝みたいという誘惑にどうしても陥るのか、イスラム教においては、イスラム教の会堂が崇拝の対象になってしまっているのではないでしょうか。 モーセやキリストやマリアの像を拝まなくても、会堂を拝むというのでも、それもまた、「偶像崇拝」になるのではないか。ともかく、地上にある何らかの「物」を拝むなら、それは「偶像崇拝」になるのではないでしょうか。
    教会であるとか、教会堂であるとかを拝むなら、それも「偶像崇拝」でしょう。そして、パイプオルガンとかハンドベルとかを、もしも、楽器としてではなく、あまりにも、それを尊重しすぎるのなら、「偶像崇拝」に近いものになってしまう危険もあります。

   ミルトン=マイヤー『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員十人の思想と行動――』(田中浩・金井和子訳 1983.未来社)の「第5章 入党者」には、次の文章がある。
≪ 「クリンゲルヘッファーさん、あなたはいつも、『人間なんてみんなそんなもんです』といわれるのですが、本当にそう思っているのですか」と私はきいた。
 「ここではみんなそうですよ。アメリカではちがうんですか」と彼はいった。
  弁解、弁解、弁解。ドイツ人の弁解。その昔、不正をするのがいいか、不正をされるのがいいかと問われて、「どちらもいや」と答えた人の弁解。すべてのドイツ人が、知ってかどうかはいざ知らず、彼らがせざるえなかった決定的選択に、私たちアメリカ人は一度も直面したことはない。しかし、私たちもこれほど決定的選択ではないまでも、これと同じ種類の選択に、毎日公私の生活のなかで直面している。 これは日常的な事実である。 概して、私たちには、ソクラテスを羨むより、たたえることのほうがやさしく、とくに曇り空の日曜日などには、十字架を背負うよりあがめるほうがやさしいのである。 ・・・ ≫

   1978年、昨日のことのような気がするのだが、今となっては40年前になった。大阪府高槻市のYMCA予備校高槻校で、「主事」というどうも意味のよくわからない職種になっていた藤井という男(当時、40代?)が、「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから。あんなもの、読むものと違う。聖書みたいなもん、読んではいかん。聖書なんてものは、たとえ、読むにしても、相当年齢をいってから読んで、『はあん、そんなものか』と思えばいいものであって、若い頃に読むようなことはするべきではない。『聖書』なんて若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてことは、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。聖書みたいなもん、あんなもん、読まんでも、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金はらっておけば、それでいいことなんや。聖書なんてものは絶対に読んではいかん」と、彼はそう言ったのだ。何度も何度も。胸張って大きな声で。
   私はそれを聞いて、「この人、なんで、洗礼うけたんだ?」と思ったものだった。世の中にはいろんな人がいるのだから、『聖書』というものを読んで、大変すばらしいと思う人もあれば、藤井のように、「あんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんだから」と思う人だっているかもしれない。それは、人それぞれであろう。どういうように感じなければならないとかいうものはない。その人が感じたように、その人が思ったように感じるしかないことだ。しかし、「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんだから。あんなも~ん」と何度も何度も言いまくる人が、なんで、洗礼うけるの? 受けなきゃいいのじゃないの? ・・・と私は思ったのだ。 そりぁ、洗礼うけて毎週礼拝に出ている人だって、「クリスチャン」として立派な生き方をしているかどうかというと、そうとも言い切れない部分だってあるかもしれない。それをどう考えるかはその人が自分自身で考えることであって、他人がどうこう言ってもしかたがない。しかし、「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから。あんなもの、読むものと違う。聖書みたいなもん、読んではいかん。聖書なんてものは、たとえ、読むにしても、相当年齢をいってから読んで、『はあん、そんなものか』と思えばいいものであって、若い頃に読むようなことはするべきではない。『聖書』なんて若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてことは、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。聖書みたいなもん、あんなもん、読まんでも、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金はらっておけば、それでいいことなんや。聖書なんてものは絶対に読んではいかん」て、そんなこと思っている人が、なんで、洗礼うけるのお? なんで? 
   答えは2つほどあるようです。1つは、キリスト教の教会で洗礼を受けると、YMCA予備校で雇ってもらえる、ということ。仕事にありつけるのですね♪ もうひとつは、この男の言うことは極めていかげんで、大学入試に際して、無茶苦茶なことばっかり吐きまくるので、私はうちの親に「あの藤井という男は大学入試について、何もわかってない男だから、あの藤井の言うことは聞かないでほしい」と言ったのです・・・・が、父は「専門家の言うこと、専門家。せんもんか、センモンカ、専門家、せんもんか、せ~んむお~んくぁあ~あ!!!」と言って私の言うことを聞いてくれなかった。母は「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪い人じゃない」と言い、さらに「あの人は、YMCAに勤めて『主事』になっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。クリスチャンでも相当にえらいクリスチャンのはずや」と言って私の言うことを聞いてくれないのでした。 その「クリスチャンの中でも相当にえらいクリスチャン」とか「クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない」という「クリスチャン」が、YMCA予備校高槻校では、毎日のように、「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて、何ひとつとして書いてないんだから。あんなもの、読むものと違う。聖書みたいなもん、読んではいかん。聖書なんてものは、たとえ、読むにしても、相当年齢をいってから読んで、『はあん、そんなものか』と思えばいいものであって、若い頃に読むようなことはするべきではない。『聖書』なんて若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてことは、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。聖書みたいなもん、あんなもん、読まんでも、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、献金はらっておけば、それでいいことなんや。聖書なんてものは絶対に読んではいかん」と言いまくって「布教活動」をするのでした。
   たしかに、「おのれの十字架を背負って生きる」よりも、「洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、牧師先生の『けっこうなお話』を聞いて、献金はらってくる。それだけで人は義とされる」のなら、その方が楽ですわなあ。 でもって、YMCA予備校で仕事にありつけるし、ろくな仕事ぶりでなくても、「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪い人じゃない」とか言ってもらえるのですから、けっこうな宗教ですわなあ、ほんま・・・、たいした御利益ですこと・・・。

( ↑ かつて、YMCA予備校高槻校があった場所。 現在は、大阪医大 本部北西部キャンパス となっている。)

   YMCA予備校の藤井のおっさんは、そういうのが「クリスチャン」だと思うておるわけです。そういう人のことを「敬虔なクリスチャン」とか「クリスチャンの中でも相当えらいクリスチャン」とか思う人もいるようです・・・けれども、そういうのは嫌だという人もいるのです。又、その方が楽だという人もいるかもしれないけれども、特別に立派かどうかはさておきそういう生き方をしようと思ってもできない人もいるのです。

   さて、私が日本基督教団 田園調布教会のリーフレットを見て、気にかかったのは、パイプオルガンとハンドベルですが、パイプオルガンを演奏して悪いということはないし、ハンドベルを鳴らして悪いということもないのですが、それが、そのこと自体が目的になってしまうという危険はないか、という点です。
   「洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝に出て、牧師先生の『けっこうなお話』を聞いて献金はらっておけば、それでいいことなんや。聖書みたいなもん、読むもんと違う。あんなもん、読んではいかん。ましてや、聖書に書いてあるようなことを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」という思想の人が、日曜ごとに教会に行って「牧師先生のけっこうなお話」を聞いて献金はらって、そんでもって、パイプオルガンひいてハンドベル鳴らして、それで、「クリスチャン」の完成・・・・て、そういうのがいいか? そうしようと思って、パイプオルガンやハンドベルを用意されたのではないかもしれません。 しかし、なんか、そういう方向に進みそうな感じがしてしまって、疑問を感じたのです。

   そもそも、あのハンドベルって、スナックで酔っ払いのおっさんがカラオケで歌謡曲を歌って、それにホステスのねーちゃんがタンバリンたたいてくれるのと、どこか違いがあるか?  ・・・・なんて言うと、怒る方もあるかもしれませんが・・、なんか、あんまり変わらんような気がして・・・なんて言うと怒られるかもしれませんが、どれだけ、違うかというと・・・・、???
   もし、パイプオルガンひいてハンドベルならして歌うたって「すっとした」としても、それはソープランドに行ってやることやって「すっとした」というのと、たいして変わらんのと違うか・・なんて言ったら怒られるかもしれませんが・・・、もしかして、実際たいして変わらん・・なんてこと・・ないか?

   仏教では「偶像崇拝の禁止」という考え方はなく、仏像を拝むことを通じてホトケの道に進む・・ということが勧められるらしいけれども、しかし、そうであっても、もしも、仏像を拝むこと自体が目的になってしまうなら、むしろ、それがホトケの道に進むことの妨げになる可能性も出てくる。特別な教会堂、異様な雰囲気を漂わせる教会堂や、特別な楽器というものは、それが、むしろ、キリスト教の教えに沿った生活を送ることに対して妨げになる・・・ということも可能性としてはあるのではないか。 それが、「偶像」になってしまう危険があるのではないか。 私は、日本基督教団田園調布教会のリーフレットを見て、そうなっているとまでは言わないけれども、そうなってしまう危険がないとは言えない、と感じたのです。

  次回、11.台(うてな)人体実験と吉益脩夫 精神医学ファシズム http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_11.html

   (2018.6.1.)

☆ 田園調布と田園調布の教会
1. 魅力のある街(東京圏)。田園調布はどこまでか。態度の悪い不動産屋にへつらうな。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_1.html
2. 放射線状道路の扇の要の位置の田園調布駅はおしゃれ http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_2.html
3. 放射線状道路の扇の要の位置の広場。 独特のデザインの田園調布駅 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_3.html
4. 居住環境を考えた田園調布の街並み。居心地のよい宝来公園 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_4.html
5  日本基督教団 田園調布教会(1) 高すぎる樹木、鎧をかぶったみたいな教会堂、倉庫みたいな建物 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_5.html
6.  同 (2) 跳ね返す素材、教会堂は重厚である必要があるか。「セコム、必要ですか」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_6.html
7.  同 (3) 牧師館がなぜ教会堂の脇にないのか。遮る扉の玄関扉 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_7.html
8.  同 (4) 「ああ、無情」 「太客」vs「どうでもいい来場者」vs「酔っ払い」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_8.html
9.  同 (5) バザーの際の違和感。 新教会堂ファサードは・・・みたい http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_9.html
10. 同 (6) パイプオルガン・ハンドベルと偶像崇拝・惑溺 〔今回〕
11.台(うてな)人体実験と精神医学ファシズム 吉益脩夫 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_11.html
12.今は見当たらない「矢野一郎邸」と「旧人見純一画室」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_12.html
13.カトリック田園調布教会と聖フランシスコ修道院 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_13.html
14.日本福音ルーテル田園調布教会、事故物件田園調布警察署 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201806/article_14.html 

キリスト教の本質 (上) (岩波文庫) - フォイエルバッハ, 信一, 船山
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