選挙に際し思う。さらば日本共産党。弁護士鳥獣戯画巻。「正義の味方」になりたい奴。法廷に遅刻する弁護士

[第256回]
   1970年代後半。 高校からの帰り、阪急箕面線(大阪府池田市の「石橋」から「箕面(みのお)」までの宝塚線の支線)に乗車中、隣の席に座っていた老人が「あなた、北野高校の生徒さんですか」と話しかけてきて、「私は、昔、北野の教師をやっていたんです」(記憶がはっきりしないのですが、もしかすると、「校長をやっていた」だったかもしれません)と言われ、「村上という議員がいるでしょう。彼は私の教え子なんですよ。彼は英語がよくできてねえ」という話をされました。「彼も、共産党から出るのではなく、議員に出るにしても、どこか他のところから出ればと私なんかは思うんだけども、まあ、本人がよく考えてやったことなんだろうから、それでいいのかもしれないけどね」と言われたことがありました。 「村上という議員」というのは、その頃、大阪1区選出の衆議院議員で、後にごく短期間だけ日本共産党の委員長をやった村上弘のことではなく、当時、20代で、大阪府箕面市の市会議員だった村上弘充(ひろみつ)のことのようです。 北野高校から信州大学に行き、信州大を卒業した後、20代後半で箕面市会議員になった人ですが、箕面市の我が家はT字路のカドで、選挙の時には、そこにクルマをとめて演説する議員が多く、彼もそこで話していたことがありました。 「この4年間、箕面の市議会での質問回数ですが、共産党の議員4名で3分の2以上を占めています。そのうち、私ひとりで◇回!」と、何十人もいる議員の中で市議会での市長への質問回数のほぼ半分は村上さんが一人で質問していたらしく、そして、「この前に議長をやっていた保守系無所属の人。 この人、この4年間で市議会で発言したことがどれだけあるか。 たったの1回。 なんと、言ったか。 共産党の議員が質問をしている最中に、『あとから来たもんが、ろくに税金も払わんと、あれやれ、これやれ、ぜいたくぬかすな、あほんだら』とヤジをとばした。そのヤジが議事録に書かれている。議事録に書かれている彼の発言は、そのひとことだけです。ほかは、ひとことも発言していない。そんな人が議員になってるんです」と言っていた。箕面市の市会議員選挙はいつも8月におこなわれていたが、ある保守系無所属の議員のおっさんは「箕面の市議会議員選挙は、夏に選挙あってかないまへんわ。外におったら、日焼けして、禿げ頭の皮膚がはがれてきまんねん。ほんま。顔の皮膚がはがれるのやおまへんねんで。頭の皮膚がはがれまんねんで。ハゲには夏の選挙はほんまこたえますわあ。もうちょっと、ハゲのことも考えて選挙の時期を決めてほしいですわあ」とか言っていたが(そのおっさんも、そういうユーモアをまじえて話すあたりは「なかなか」かもしれませんが)、村上さんは、若いこともあったかもしれないけれども(ハゲではなかったこともあるかもしれないが)、そんなことおかまいなしに、外を歩きまわっていた。 私が高校からの帰り道を歩いていると、選挙権のない高校生でもおかまいなしに、窓から顔をだして、低姿勢で「こんにちは」と挨拶をして、そういう姿を見ると、共産党がどうかは別として、議員に選ばれても4年間で「あとから来たもんが、ろくに税金も払わんと、あれやれこれやれ、ぜいたくぬかすな、あほんだら」とヤジを一言いっただけのおっさんに投票するより彼に入れた方がいいだろう、という気持ちになったものです。
   共産党の議長で最後は除名された野坂参三は、慶應の経済学部にいた時、小泉信三のゼミにいて小泉信三は野坂参三を大変評価していたそうで、小泉信三は近代経済学者で社会主義共産主義とは逆の立場の人間だったが、社会主義共産主義を志向する野坂参三をゼミで評価したという点について、小泉信三は「たとえ、自分と考えが違う者であっても、優秀な者は優秀と認めるべきだ」と言ったという話を慶應の「近代思想史」という講義で聞きました。 大学で評価するかどうかというのと、政治家として評価するかどうかは同じではないと思いますが、小泉信三は、『共産主義批判の常識』(1976.6.30.講談社学術文庫)の「序」で、≪マルクス、レエニン主義に対する著者の立場は、すでに読者に知られていることと思う。私は多年来反対陣営に属するものと目されている。 ただ私は、マルクス、レエニン主義を批判するにあたって何よりも厳正の一事を心がけ、証拠なくして断定することは最も慎んだ。≫ ≪ 本書(『共産主義批判の常識』講談社学術文庫)の本文脱稿とこの序文執筆の今日(昭和24年〔1949年〕2月中旬)との間に総選挙が行われ、日本共産党の著しい進出が現れた。 この成功は諸般の外面的事情のほか、彼らが理論と組織とそうしてある気概とを持つことによることは、何人も認めなければならぬ。・・・しかも彼らに反対する諸政党が、あるものは理論を欠き、あるものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が卑俗低調の謗りを免れないことは、いかにも弁護のしようがない。 彼らが今翻然として勉強に志し、確固たる理論とそれに基づく自信ある政策とをもつにいたるのでなければ、知識教養あるわが青年は、現状否定者以外には何処にも心を寄せるべき処を持たぬことになるであろう。 私は今回の総選挙の結果が、わが国諸政党に対する厳しい警告となることを祈る。 もしも共産党の存在そのものが他の諸政党に対する反省発奮の刺激となるならば、それは同党としてわが国民に為し得る何よりの貢献であろう。≫と述べており、≪あるものは理論を欠き、あるものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が卑俗低調の謗りを免れない≫というような、そんなヤツは、たとえ、経済体制の選択という点において自分と同じ考えであったとしても、そんなヤツ、落ちたっていいんだ、という意識でいるらしいことがうかがえる。 そして、特に、自民党という政党の人間だが、『共産主義批判の常識』の「序」が書かれた1949年2月から今日に至るまで、≪あるものは理論を欠き、あるものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が卑俗低調の謗りを免れない≫という点において、ちっとも成長しとらんのじゃないかという気がする。

    私自身は、どの政党の支持者かというと、結局のところ、「支持できる」「支持したい」という政党はどこもなくなってしまった、という者である。 自由民主党という政党は、いったいどこが自由でどこが民主でどこが政党なのか。 その上、「元プロレスラー」とか「元芸能人」とかそういうのが多すぎる。私なんぞは「戦後民主主義」と言われる教育を受けてきた世代で、「戦後民主主義」の考え方からいくと、自民党という政党は、“過去の遺物”、「戦前回帰を目指すアナクロニズムのじいさんどもの集団」であって、知識人が投票するような政党ではない。かつ、不思議なことに、「戦前戦中世代」の多くが引退して、「戦後民主主義の教育で育った世代」が現役の議員になっても、それでも、自民党は「戦前戦中世代の党」のまんま、というのは、どういうことなんだろ、と思うのだが、そういう政党のようだ。
    1981年の2月のことだったが、二子玉川のあたりで、何の選挙だったか忘れたが、ポスターが出ていて、自民党の候補者が「大人の政党 自民党」というコピーをポスターに書いていたのだ。嫌な文句を書くもんだと思った。自分の主張を「大人の」主張だとわめきたて、反対者は「子供みたいなこと言うとる」「未成熟だ」「モラトリアム人間(病)だ」と罵るという手法。 で、どういうのを「大人の政治」だと言っているかというと、原発はどんどん作りましょう、日米安保条約は護持しましょう、憲法を改正して自衛隊を軍隊にしましょう等等が「大人の主張」らしく、原子力発電所というものは大変危険なもので、電力は原発以外の方法で供給するようにするべきだといった主張をすると、「甘ったれとる」とか「子供みたいなこと言いおる」とか「人間的に未成熟だ」とか「モラトリアム人間(病)にかかっとる。治療してやらんといかん」とか言い出すわけです。 かつて、ナチズムが勢力を増すドイツにおいて、「詩人」だったか「文学者」だったかが言った文句だかが、『受験の英語』の表紙に出ていたのだが、
  Look if you like, but you will have to leap.
見るのが好きなら見てもよいが、いずれ、飛ばなければならないことになるであろう。
→ 見る前に飛べ。
という意味だそうで、ファシズムを肯定せざるをえなくなった時期の言葉だったと説明書きが書かれていたように思います。小此木啓吾の「モラトリアム人間」論などというものは、要するにそれです。慶應大学医学部助教授で慶應の内部進学らしい小此木啓吾などという男の言うことなんぞ、まったくくだらない、極めて政治的色彩の強い論理であって、それを文学・哲学・社会学・政治学という次元で主張するならともかく、「精神医学」「精神分析学」だと言って主張するあたりが卑劣だと思います。 その1981年に見た「大人の政党」というコピーは、原発を推進しようというのが大人の判断なのか違うのかといったことを議論しようとせず、正しくとも間違っていようとも国民が自分自身で考えて判断するのではなく、自民党の主張に従うのが「大人」だと脅迫的にわめきたててやろうという手法なのです。 そういうコピーを載せるということ自体、ファッショ的、反民主主義的な態度です。 その1981年から、自民党は少しも進歩していない。むしろ、退化・退行しているのではないか。ひとつには、政党が分裂したり合併したりした過程で、かつての自民党の中で比較的良心的だった人が出て行って、問題の多い方の人が残ってしまった、ということがあるのではないか。
   株価が上がっても株を持っていない人にはしかたがないと言う人がいるが、株を持っているかという際、どのくらいかという問題があり、大企業を動かすことができるくらいの株を持っているという意味なのか、定期預金の金利は低く、投資信託は元本が保証されていないといっても投資の専門家が運営するのだから損することはあまりないだろうなどと思っていると損することはいくらでもあるわけで、それなら比較的無難そうな会社の株を買った方がいいかと思って1単位株・2単位株を買うような株主のことかにもよる。 1単位株・2単位株買った者には、それが下がったのでは「虎の子」を失ったようなものだから、株価は下がってもらっては困る。1単位株・2単位株持っている程度の人間というのは「資本家」なのか「庶民」なのか、2つに分けるなら「資本家」でない方だと思う。1単位株・2単位株持ってるなどというような、そんな「資本家」あるかいな。 株価は一般的には景気を反映するわけだから、下がる方がいいか上がる方がいいかというと、株を持っているかいないかにかかわらず下がらない方が良いはずだ。
   しかし、《産経ニュース 民進・辻元清美衆院議員「アベノミクスは粉飾決算なんです」》http://www.sankei.com/politics/news/160628/plt1606280037-n1.html では、辻元清美が「安倍さんは株価をつり上げるため、みなさんの大事な年金の積立金を半分以上、株に投入した。アベノミクスは見せかけ上のバブルのような株価のつり上げをやってきたんです。粉飾決算なんです」と京成津田沼駅前での応援演説で述べたことが載っているが、生命保険会社などでも加入者から預かったカネを株に投資して運用することはあるわけで、年金の積立金を株に投資して運用するというのも考えられる話ではあるのだが、株価が上昇という「アベノミクス」を維持する為に年金の積立金を投入したということであれば、株価がさらに上がれば良いが、下がったならば積立金はどうなるのかという問題もある。(株が上昇しそうであるのに、株を買わずに「タンス預金」しておく方がよいのかという問題もあるだろうが。)
〔 「朝日新聞」2016.7.1.<朝刊>の1面に、「年金 運用損5兆円」「株の比率増、影響受けやすく」という見出しが出ている。「運用」して悪いわけではないが、投資信託でも、上がる時は大きく上がるが安定性が低いものと、安定していて下がりにくいが上昇幅は比較的小さいものがあり、公的年金の積立金を運用するのなら、安定性が低いものの比率は小さ目にするべきであったはずなのだが。(2016.7.1.)〕

   気にかかるのは、「アベノミクス」で、なぜ株価は上がったのかという原因だが、1つには、中国政府が別の名前で日本の「大企業」「有名企業」「優良企業」の株を相当買っている、「爆買い」しているということがあるのではないか。日本の少なくない「大企業」「有名企業」はすでに相当の程度、中国政府に買い取られているらしい。これは、株価が上がったと言って喜んでいるわけにはいかない。

    日本共産党という政党については、いつしか幻滅した。福島県いわき市に住んでいた時、自宅から職場までの通勤経路の途中に日本共産党の事務所があって、そこの看板に「どんなことでもご相談ください」と書かれていた。職場の問題で困ったことがあり、「どんなことでもご相談ください」と書かれていたので、何かいい知恵はないものかと相談に行ってみたのだが、「それは法律の問題ですから、たまたま、明日、共産党の法律相談がありますから、そちらに行ってもらった方がいいと思います」とその場にいた市会議員から言われ、その法律相談に行ったところ、弁護士が「この法律相談は、共産党の党員と赤旗の定期購読者を対象としてもので、“ 支持者でない人 ”を対象とするものとは違うんです」と、そう言ったのです。 「支持者でない人」と。・・・・そういうことを言うかとあきれた。 「支持者でない人」てよく言うなあ、とあきれた。 たしかに、私は、たまたま、通勤途中に共産党の事務所があって、「どんなことでもご相談ください」と書かれていたので、もしも、何かいい知恵があったら聞かせてほしいと思って立ち寄ったのであって、「党員」でもなければ「赤旗の定期購読者」でもないが、そうであっても、何か困った問題があった時に、他の党の人間に相談するのではなく、そこに相談に行った人間というのは、その政党について何らかの評価をしているからそこに行った人間と違うのか? 「右でも左でも、自民党でも共産党でも、もし、その問題に協力してくれるなら、協力してくれる者は味方だ」という考えで相談に立ち寄った者であっても、自分の所に相談に来た者というのは、自分になんらかの評価をしているから相談に来たのではないのか。 そういう相手に向かって「支持者でない人」て・・・・、よく言うよな・・・・。言ったのは弁護士であるけれども、隣に女性の市会議員が座っていた。彼女は横でその発言を聞いていたが、何も言わなかった。 俺は「支持者でない人」なのか・・・。たしかに、「党員」でも「赤旗の定期購読者」でもないし、はっきりとどこの政党の支持者というわけではないが、しかし、選挙ごとに誰に投票するべきか、どの政党に投票するべきかを考え、棄権はできるだけ避け、ともかく、選挙には行くようにしてきたし、そして、その時の政治のバランスを考えた時、共産党には今回は頑張ってもらいたいと考えて、共産党の候補者に投票したこともあったのにな。そういう相手に「支持者でない人」と言うのか・・・。そうか。
    私が、何かいい知恵があったら聞かせてほしいと言った問題について、「いい知恵」をアドバイスするということはできなかったのはしかたがない。 私だって、誰かから何か相談されたとして、いい知恵があればいいが、ない場合だってある。しかし、それならそれで、2週間後なり、1か月後なりにでも、電話の1本でもかけて、「○○さん、この間、話されていた問題は、どうなりましたか」とでも言うなら、たとえ、どうもならなかったとしても、あの人、心配してくれていたんだと思って、次の選挙の時には、その人に投票しようかな・・・という気持ちになるかもしれないが、彼女はそういう電話は1本もかけてこなかった・・にもかかわらず、その後、「支持者でない人」と言った相手の家に、選挙の日の朝だけ必ず電話してきたのだ。「日本共産党から◇◇という者が立候補していますから、お願いします」と言って。何、それ? あんた、共産党の弁護士が私に「支持者でない人」と言った時、横に座って黙っていたじゃないの。私、「支持者でない人」なんでしょ。なんで、「支持者でない人」に、選挙の日の朝だけ投票してくれと電話してくるの? アホちゃうか! そんな電話のしかたなら電話しない方がよっぽどいい。ふざけんな。誰が入れるか!・・・という気持ちになりませんか? 
    その福島県いわき市で、なぜ、日本共産党の事務所にいい知恵があったら聞かせてほしいと行ったかというと、その前に東京都の江東区で、「なんでも相談所」と看板を出していた区会議員がいて、「なんでも相談」してくださいと言うからには、「なんでも相談」にのってくれるのかと思って行ったことがあった。その区会議員Sさんは、自分の選挙区の住人でもない人間に、本当に親切に話を聞いてくれて親身になって考えてくれた。だから、江東区の区会議員Sさんについては、もしも彼の選挙区に住んでいたならば、彼に投票する。くだらないおかしな人間がいっぱい議員になっていることを考えるならば、彼は議員になっていいと思う。「選挙区の住人でもないのに、すいません」と私が行った時、彼は「いいえ。そんなことは、私らにはまったく関係ないです。私らは北海道でも九州でも行きますよ」と言ったのだ。そう言われると、その人に投票したくなるし、もし、その人がこの人に入れてくれと言うなら、その人にも、入れようかなという気持ちになる。
   その江東区の区会議員Sさんの所に、上に述べた福島県いわき市でのことを言ってみたのだ。私はお宅の政党の党員とかではないけれども、Sさんには前にお世話になったことだから言いますが、「党員」と「赤旗の定期購読者」だけが「支持者」であって、それ以外の人は「支持者でない人」かというと、そういうものではないと思いますよ、と。 又、その後、選挙の日の朝だけ電話してくるというのは、そういう電話のしかたはやめた方がいいと思いますよ、と。
   慶應義塾大学に行っていた時、自民党のなんとか委員をやっているという某教授が、講義の中で、「実は、私は赤旗を購読しているんですけれど」と言われたことがあった。え? 自民党のなんとか委員やってる人が赤旗を購読してるの?と思って聞いていると、「私の住んでいる所で、近所の問題で困ったことがあって、その時に、共産党の区会議員さんが本当によくがんばってくれたんです。それで、何かお礼をしたいと思ったんですけれども、『要りません』と言って受け取られないので、それで、お礼のつもりで、赤旗を購読しているんです。私は、共産党の支持者ではないけれども、区会議員の選挙ではその人に入れているんです」と言われた。
   その教授のように国政レベルでは支持していないけれども、区会議員の選挙では、あの人に入れたいと思って投票しているという人だっているのであって、当選した人というのは「党員」と「赤旗の定期購読者」の票だけで当選しているのではなくて、その区会議員さんがよくやってくれる人だということで投票する人だってあるし、政権を担当するまでの議席を獲得してほしいとは思わないけれども、批判する勢力だって必要だから、今の状況においては、共産党の人にもう少し当選してほしいと思って投票する人だってあるはずです、といったことを話したところ、彼は「その通りです。『支持者でない人』とかそういう発言はもってのほかです」と言ったのです。「まあ、『支持者でない人』という言葉を言ったのは議員ではなく弁護士ではありますけれども」と言うと、彼は「でも、議員がそこにいたのでしょ。私なら、『先生、それはねえ・・・』と言って、弁護士に言います」と言ったのです。だから、江東区の区会議員のSさんは、↑で述べた福島県いわき市でのような対応はいけないと認識していた人のようです。
   しかし、その後。選挙の日の午前、千葉県船橋市の我が家に電話がかかってきた。「日本共産党ですが」と。またか。また、「日本共産党では、◇◇という者が選挙に出ていますから投票おねがいします」と言うのかと思ったら、そうではなかった。選挙の日の午前、「日本共産党」を名のり個人名は名のらず電話してきた男は何と言ったかというと、「選挙、行きましたか」と・・・。 はあ?その時、すでに投票をすませていたのだが、「行きましたよ。行きましたけれども、お宅とは違う党の候補者に投票してきましたよ。いけませんか?」と言おうかとも思ったが、そこまで言うことないと思ったので、「行ってません」というと、「行ってください」と言うので、「はい」というと、それで納得したのか電話を切った。何の電話だったのか。「支持者でない人」の家に電話して、他の党の候補者に入れてもいいから選挙に行ってくださいという電話だったのか? 変なの・・・。

   さらに。千葉県で、ある共産党の党員らしい弁護士Sに依頼したことがあった。共産党の弁護士に依頼したつもりはこちらはなかったのだが、弁護士会に紹介してもらった人がその人だった。で、その時、感じたのだ。 「この人は、『正義の味方』になりたいみたいだな」と。「依頼者の味方」ではなく、「正義の味方」になりたいらしい、と。 弁護士というのは「依頼者の味方」にならなければ、その職業として不適切だと思うのだ。「正義の味方」になりたかったら、弁護士にならずに裁判官になった方が良いではないか。だが、共産党の党員らしい弁護士にとっては「正義の味方」になることが共産党として何より大事なのかもしれない。「依頼者の味方」ではなく「正義の味方」になりたがる弁護士という存在が「正義」かどうかかなり疑問に思うが。そもそも、相手方の文面を読んでそれに感化・洗脳された上での「正義」というのは相手方の主張する「正義」でしかないのであって、こちらの主張する「正義」を文章にして主張するのが弁護士の仕事と違うのか、と思うのだが・・、なんか弁護士てあんまり頭よくないな!と思った、彼を見て。その後も送られてくる、その法律事務所が発行している旬報だかに載っている彼の時事問題についての感想は、共産党の見解をなぞっているだけで自分の考えはまったく見られない。 J=P=サルトルが『反逆は正しい』(人文書院)で、(フランスの)共産党の人間と話をすると、サルトルは自分自身の意見・考えを述べるのに対し、共産党の人間はあくまで「党の見解」を述べる、ということを述べていたが、フランスの共産党に限らず、日本の共産党の人間も「党の見解」しか述べられない、自分の考えを述べる能力のない人間だらけなのか。それとも、弁護士というのは司法試験に合格するために自分の脳みその大部分を使ってしまった人間で、その分だけ世間一般の人間より他の問題についてはアホなのか。
   さらに。何の因果か、共産党の党員らしい弁護士に依頼したことが他にもあったのだが、その別の弁護士N(上記の弁護士と同じ法律事務所に所属)は、私にこう言ったのだ。「私は、あなたの問題より、もっと重要な問題を他に担当している」と。はあ? 私の問題は重要ではないと言いたいの?石原都知事を相手に裁判やってるかなんかそんなこと言っていたような気がしたが、石原都知事相手に裁判やるのは重要だが、普通の人間が普通のおっさん相手にやる裁判は重要じゃないと言いたいの? でも、着手金とって引き受けたんでしょ。引き受けたからには、すべての事件が等しく重要なんじゃないのかと私などは思うのだが、共産党の党員らしい弁護士にとっては、一般人が一般人を相手としてやる問題なんて、石原都知事相手にやる裁判などに比べて重要じゃないらしい。先に言ってほしかった。先に言ってもらったら、そんな認識の人に頼むのじゃなかった。頼むなら、その職業としてやる以上は、すべての依頼者は同等に重要だと考えてくれる人に頼みたかった。ともかく、その人が担当したものは「勝訴的和解」で終了したが、しかし、「私は、あなたの問題よりよっぽど大事な問題をやっている」という発言は、ちょっと、物事の考え方を間違えていらっしゃるのでは?と思った。

   弁護士について言うと、共産党とは別に関係ないらしい別の弁護士Aだが、「この男は、小早川秀秋だ」と思ったことがあった。関ケ原に行って、そこでどっちにつこうかなあ・・・と迷って。小早川秀秋になりたいなら、弁護士ではなく裁判官になるべきだ。裁判官なら、この裁判はどっちにつくのが法の論理として正しいか、と考えて、これは東軍につくべきものだと判断して「東軍の勝訴」の判決を出したとしても悪くはないわけだが、弁護士が、関ケ原(裁判所)まで行って、どっちにつこうかなとか考えるようなら、依頼者としては裁判所まで連れて行かない方がいいくらいだ。関ケ原の戦いに、小早川秀秋を連れて行く(裁判所に、姿勢がふらふらしている弁護士を連れて行く)くらいなら、そんなヤツ、つれていかない方がよっぽどいい。 Aは、裁判所のロビーで10分前に待ち合わせしましょうと言って、自分は10分前までに来たためしがなかった。法律事務所に「☆☆先生と○時に約束しているのですが、まだ来られないのですが」と電話しても、「こちらには来ておられないですねえ」などと無責任なことを言う。待ち合わせに遅刻するだけでなく、法廷にも遅刻してきた。「弁護士は忙しい」とか言うが、法廷に遅刻してくる弁護士というのは、何に忙しいんだ??? 忙しいから仕事ができないなら、辞めたらどうだ? 何日までに着手金を振り込んでくださいと要求して振り込ませておきながら、まともに働かない弁護士というのは、いわば、「振り込め詐欺」と違うのか?
    匿名にする必要もないと思うので法律事務所の名前を言うと、上の2名の弁護士の所属の法律事務所は千葉中央法律事務所という所だ。 最後の1名は千葉第一法律事務所という所だ。 どちらも、二度と頼む気はない・・が、弁護士というのは、殿様商売なのか、他にもどっこいどっこい、もしくは、それ以上に問題があるような人はゴマンといるみたいなので、他との比較で考えるならば、もしかすると、「悪い方ではない」のかもしれない。(他はどんだけ悪いねん!て感じだが。)
    話がそれてしまうが、ついでに言うと、もう10年以上前、東京都の新宿の東口にあった東京共同法律事務所という法律事務所にいた弁護士Kは、打合せだとして話すと、そのたびに相槌うってうなづくが、鶏と一緒で三歩あるくと忘れるのか、まだ、その当時30歳代だったはずだが、認知症なのか、同じことを何度も何度もきいてきた。 そのたびに何度も何度も言うと、そのたびに相槌うってうなづき、そして、また、同じことを何度も何度も尋ねてきた。書いて送ってくれというので大変な思いをして書いて送ると読まない。さらに、同じことを、書いて送ってくれと言うので書いて送るということが重なると、同じことを書いたものが何通もたまるらしく、「こんなにいっぱい書かれても読めない」とか言うが、おまえが読まないで同じことを書いて送れと言うから、同じものが何通もたまったんだろうが、この殿様商売が。(彼は後に、優理法律事務所という法律事務所に移籍し、インターネットで見ると、優理法律事務所は、合併して東京神谷町総合法律事務所になったらしい。≪「優理総合法律事務所」は,1997年5月に,和久田修弁護士(司法修習第43期)が「人としての優しさ」と「法律家としての条理」を兼ね備えた法律事務所でありたい,という願いを込めて設立しました。≫などと東京神谷町法律事務所の「事務所概要」http://www.tkm-law.com/overview/index.html に書かれているが、そこの弁護士に依頼した経験のある者の感想としては、そんなけっこうなものではないな。とりあえず、同じことを7回も8回もきくの、やめてもらいたい。記憶力が極端に悪いのなら「記憶」ではなく「記録」してもらいたい。そのくらいできなかったら仕事にならんだろうと思うのだが、それでも、他の仕事と違って弁護士屋は食べていけるらしい。)
  東京共同法律事務所に約束の時刻に訪問して待っていると、隣の部屋で、事務員らしき女性が、何人かで大声で「わあっはっはあ~あ」と歓声あげている。葬儀社の従業員が葬式の最中に大声だして笑うか? 法律事務所の従業員は、相当深刻な問題で相談に来ているクライアントが隣の部屋で待っている時に、「わあっはっはあ」と大声だして笑い転げるというのは、なんともないらしいが、クライアントとしては、いかにも不真面目という印象を受ける。葬儀社の従業員だって遊びに行きたい時もあるだろうし、ふざけたい時だってあるだろうけれども、葬儀場でそれをやったりしないはずだ。法律事務所の従業員が遊びに行く相談するなり従業員同士でふざけたいなら、喫茶店でも行ってやるべきだ。隣の部屋に深刻な問題で相談に来ている人間が待っているのにあまりにも不謹慎ではないか、と思うのだが、「そんなこと言うなら、引き受ける弁護士は誰もない」とか彼らは言い出すのだろう。 物もらうのも、当たり前みたいにもらう事務員の態度も、なんだか・・。 渡してもいいが、当たり前じゃないからな、と思うのだが、殿様商売の者の感覚は一般の会社員とは違うらしい。千葉第一法律事務所と東京共同法律事務所は日本共産党とは関係ない。東京共同法律事務所は旧社会党系とか聞いたことがある。

    弁護士の話で話がそれてしまったが、そういったことで、日本共産党という政党には幻滅した。あんたらは、票が欲しいだけなんでしょ、と。私は「支持者でない人」なんでしょ。「支持者でない人」に投票してくれと言うのは筋違いですわな。「党員」でもなければ「赤旗の定期購読者」でもない者は「支持者でない人」なんだから、日本共産党の候補者に投票する理由はないわなあ。

    小泉信三は『共産主義批判の常識』で、自分自身は逆の側の立場の人間でありながら、日本共産党について、保守系の政治家にない気概があるとか、よく勉強しているといった、高く評価できる面を述べているが、そういう人もいるかもしれないが、そうでもない人もいるのではないかという印象を私は受けている。
    共産党名誉幹部会委員の蔵原惟人氏の『宗教 その起源と役割』(1976.5.25.新日本出版社 新日本新書)を読むと、この人、よく勉強してるなあと感心するし、書かれている内容も良心的である。そういう著作を読むと、「支持者でない人」でも、小泉信三と同じく、よく勉強している点とその気概について、高く評価したくなるが、そうでもない人もいるのではないか。 J=P=サルトルが、『反逆は正しい』(人文書院)の中で、フランスの共産党の人間について、共産党の人間と話をしても、サルトルは自分自身が考えたこと思ったことを述べるのに対して、共産党の人間は常に「党の見解」を述べる、といったことを述べていたが、日本の共産党にもそういう人がいるように思う
   但し、創価学会のおっさんは「選挙は公明党だからね」ばっかり言って、なぜ公明党なのか、公明党はどういう政策をとるべきだと言っているか、国民にとってその政策をとるとどういうメリットがあるかといったことは一切言わない。「公明党に入れなきゃだめだよ、わかったね。公明党以外に入れちゃだめだからね」と言って人の気持ちなんか全然考えずに執拗に追いかけて来るだけで、それを考えると、共産党の人間は、たとえ「党の見解」でも述べるだけいいのかもしれないが

   最初に戻り、大阪府の箕面市会議員の村上弘充さんだが、1970年代後半、私が高校生の時、阪急箕面線で隣に座っていた元 北野高校の先生というおじいさんは「私なんかは、議員になるにしても、共産党じゃなくて、どこか他のところから出ればいいのにという気がするんだけど、まあ、自分でよく考えて決めたのだろうから、それでいいのかもしれないけれども」と言われたのだが、それを聞いた頃は、まだ、世界にソビエト連邦も存在し、「社会主義国」も東欧その他にいくつもあって、日本でも日本社会党が自民党に次ぐ議員数の政党で、選挙制度も衆議院は今のような小選挙区制ではなく4~5人程度の中選挙区の制度であり、大阪府でも、北摂地区の衆議院議員は定数が4で、自民・社会・公明・民社・共産の5党が候補者を1名ずつ出し、定数4で政党が5だとどこかの誰かが1名落ちるわけだが、自民党が2人以上の候補者を出した時に片方落ちるとか最悪の場合共倒れということはありえても定数4の選挙区に1人だしてその1人が落ちるなどということはないだろうと思っていると大臣経験者の原田憲が落ちたことがあり、公明党の候補者は組織選挙だから落ちないだろうと思っていると公明党の近江己巳男が落ちたこともあり、共産党の村上弘は副委員長になっていたから副委員長は落ちないだろうと思うと落ちたこともあり、最近では大きな顔をしている中野寛成が民社党で彼も落ちたことがあり、毎回、思いもよらない人間が落選していたが、後に定数が4から5になって、定数5で政党が5なら“平和共存”みたいに一時なったが。そういう状況の時代においては、何党に入ろうが、20代後半で市会議員になれば、いずれは、府会議員にも国会議員にもなりそうな感じがした。しかし、時代が変わり、小選挙区制という1番目の政党か2番目の政党、もしくはいずれかの政党と提携する政党の人間でないと選挙区での当選は極めて難しいという選挙制度になり、その状況では共産党の候補者が小選挙区で当選するのは簡単ではなくなった。
   私は「戦後民主主義」と言われる時代に生まれて、「戦後民主主義」と言われる教育を受けてきた世代であるので、共産党の支持者ではないが、同時に、特に敵対する者でもなかった。小泉信三が「たとえ、自分と考えが違う者であっても優秀な者は優秀と認めるべきだ」として、慶應のゼミでは野坂参三を高く評価していたというのだが、大学での評価のしかたにおいて「優秀なものは優秀だと認める」というのと、実際の政治において認めるのは同じではないとしても、そして、私自身、上に述べたように日本共産党という政党には幻滅した人間であり、あの人たちと私とは立場は違うとも認識するに至った者であるが、元プロレスラーとか、元芸能人・元運動選手とかだらけの保守系候補者を見ると、村上さんなんかは、他の政党にいたなら、府会議員にも国会議員にも当選しているだろうにと思うと、たしかに、箕面線で隣に座った元北野高校の先生だったというおじいさんが言われたようになってしまったかなあ、という感じがするとともに、歩いて、あるいは、クルマで一生懸命まわっている姿を見てきた者として、前の時代なら府会議員にも国会議員にもなれただろうに、毎回落選しているのは気の毒になあという印象を受ける。村上さんは京大合格者数全国1位であった時代の北野高校から当時は二期校であった信州大学に行ったということは一期校は京大か阪大か神戸大か受けたのではないか。豊中高校→関西大学→豊中市会議員 の中野寛成が国会議員になって大臣にならせてもらったり衆議院副議長にならせてもらったりしたことを考えると、学校の名前で何でも決まるわけではないとしても、仮に学校の名前だけ見ると、北野高校→信州大学→箕面市会議員 の村上弘充さんの方が学校の名前は上であり、国会議員くらいになっても悪くなさそうだが、時代が変わり、「他のところから出ておれば」というのが現実になってしまったようだ。

   岸信介の孫だけあって改憲に熱心な安倍晋三の自民党にこれ以上多くの議席を持たせたくないし、福島第一原発事故の影響による放射能汚染が解消しているとは思えないのに、そんな場所に帰還させようとし、安全でもないのに危険はなくなったかのようにふるまおうとする政党を支持したくないが。
   一方、結婚相手とめぐりあうことができて子供にも恵まれた人間に、ふさわしい結婚相手とめぐりあうことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる人間から取り上げた税金から「子供手当」をくれてやろうという政党・民主党の後継政党の民進党にも入れたい気持ちになれない。

   ひとつには今の選挙制度がよくない。
《1番目の政党か2番目の政党、もしくは、1番目の政党か2番目の政党と提携している政党でないと小選挙区での当選は極めて難しい。》、
《与党議員は、比例区での当選をねらおうと考えると、総理総裁に逆らえない》、
《「ほとんど全勝ち」か「ほとんど全負け」になりやすい》、
というこの制度。 どう考えてもいい制度と思えない、民主主義的傾向の制度とは思えない。
   (2016.6.26.)

   誰も言わないようだが、今の選挙制度は、衆参ともに、かつての制度に比べて、《「全勝ち」「全負け」しやすい制度》、《獲得票数以上に獲得議席数に差がつきやすい制度》、「3分の2」を達成しやすい制度であり、 憲法を改正せずに、憲法に規定されている憲法改正の基準が緩くなってしまっている、というのは問題ないとは言えないのではないか。
  (7.1.)



≪図02で日本会議の組織の概要と図03で現在の役員名簿を示した、四角で囲んだ肩書きをもつのが宗教団体の責任者である。集会などへの動員は、その教団の信者がおもに招集される(上杉/2003)。その教団は、神社本庁、霊友会、念法眞教、崇教真光(すうきょうまひかり)、解脱会、黒住教、佛所護念会、新生仏教教団、オイスカ・インターナショナル、大和教団、倫理研究所、モラロジー研究所、日本青年協議会などである。遺族会や郷友連盟などの旧軍関係の団体も一部見えるが、今の彼らに動員力はほとんどなく、名誉幹部として名を連ねているだけである。・・≫
(上杉 聰『日本会議とは何か 「憲法改正」に突き進むカルト集団』2016.5.15.合同出版 ↑)
  ↑で名前があがっている団体のうち、特に、「倫理研究所」(=倫理法人会)は、神道系の宗教団体で「教育勅語」を教義とした戦前の「ひとのみち」の後継団体で、「(皇祖アマテラス オオミカミ だという設定の)太陽を拝みなさい」と教え、誰もが自分自身で考えて判断するのではなく「親孝行を丸山先生に教えてもらいなさい」と要求する、「父母二孝二」と一方の人間が他方の人間に「孝行」を「教える」という「教育勅語」の思想の影響を受けた団体で、↑にも書かれているように改憲その他政治に強く関わっている右翼系政治団体であるにもかかわらず、宗教団体の認可をとっていないという理由で「宗教の団体ではないんです。政治団体ではないんです。あくまで倫理・道徳の団体なんです」と強弁し、自営業の社長に取り入って「親孝行を丸山先生に教えてもらいなさいと社長が言ってるんだあ」「太陽を拝みなさいと教えてやってやろうと社長が言ってるんだあ」と従業員に強制するということをおこなっている「反社会的勢力」です。個人個人を勧誘しようとするのではなく、オーナー企業の経営者に取り入って従業員に強制するという手法をとっているという点が卑怯であり、宗教としてのあり方としても邪道です。(2016.6.29.) 

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