湯島聖堂(中)。鬼龍子とシーサー。学問を勧めた人、実学と虚学―ニコライ堂と湯島聖堂と聖橋(3)

[第233回]
【3】-2 湯島聖堂(中)
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↑ 入徳門  1704年(宝永1)建造。 木造
  湯島聖堂は江戸時代からこの地にあるということですが、建物は1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けて焼失したものが多く、江戸時代からの建物は、↑の「入徳門」と「水屋」だけらしい。

   帰宅してから気づいてしまったのですが、「水屋」は「入徳門」と「杏壇門」の間の右手(東側)にあります。↓
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(写真はクリックすると大きくなります。)

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↑ 杏壇門
≪杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。≫(『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』(斯文会)
  紅葉がなかなかきれい。

≪ 大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、僅かに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。 この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊藤忠太博士の設計と(株)大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。 この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)3月竣工いたしました。 ・・・≫(『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』斯文会)ということで、↑の杏壇門、↓の大成殿が再建されたのは、1935年(昭和10年)、
1923年(大正12) 関東大震災 の12年後
1925年(大正14)(「ひどく不合理」治安維持法)治安維持法制定 の10年後、
1929年(昭和4)(「ひどく憎い」世界恐慌)世界恐慌 の6年後、
1931年(昭和6)(「ひどく災」・満州事変)満州事変 の4年後、
1932年(昭和7)(「ひどく醜い」・五・一五事件)五・一五の3年後、
1935年(昭和10) 湯島聖堂 杏壇門、大成殿など再建。
1936年(昭和11)(「ひどく寒い」・二・二六事件)二・二六事件 の1年前、
1937年(昭和12)(「人苦皆」)盧溝橋事件、日中戦争開始 の2年前、
1941年(昭和16) 金属類回収令 制定 の6年前、
1941年、真珠湾攻撃、太平洋戦争開始 の6年前。
そういう時期に再建された。
  「史跡」と言われる建物でも、地震・台風・津波・空襲などで損壊した場合、再建される場合とそうでない場合があります。 寺の場合は、檀家と信者が存在する以上、なんらかの形で再建することが多いと思いますが、国宝・重要文化財の場合、昔からの建物であってこその国宝・重要文化財ですから、損壊・喪失した場合に再建されるとは限りません。 湯島聖堂は寺でも神社でもなく、檀家とか氏子がいるわけでもないわけで、城などと似たところがあって、最近では「町おこし」「村おこし」「都市おこし」のために、観光施設として城郭を再建しようとする市町村があるようですが、東京に「町おこし」「村おこし」は必要なく、かつて、城郭があった場所でも「城跡」として残している所もあり、東京でも幸田露伴の小説『五重塔』のモデルである谷中の天王寺の五重塔は、関東大震災にも耐え、第二次世界大戦中の空襲も免れたものの、戦後、放火による心中で焼失してしまったわけですが、今も五重塔は再建されず、「五重塔跡」として残っているわけです。 湯島聖堂が満州事変と日中戦争の間という大変な時期に再建されたというのは、やはり、「父母二孝二」「君二忠二」という「教育勅語」体制のもとに、孔子廟を持つ湯島聖堂を再建して、国民を精神支配、マインドコントロールしようという国家政策の一環であった・・・・ということか・・・・といったことが推測されてきます。  史跡としての湯島聖堂があって悪いとは思いませんが、こういったことを考えると、史跡が再建されたということを無条件には喜ぶわけにもいかないことになります。

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↑ 大成殿
≪大成とは、孔子廟の正殿の名称≫(『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』斯文会)
  中央に孔子。 その左(西)に「四配(西)」として孟子・顔子、右(東)に「四配(東)」として曾子、子思 を、さらに左(西)に「西哲五位」、右(東)に「東哲五位」を祀る。
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↑ 大成殿の屋根の装飾 と 屋根の上の何者か? (写真はクリックすると大きくなります。)
   上の方は、棟の両側に位置している。 『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』(斯文会)では、「鬼犾頭(きぎんとう)」として、≪寛政11年(1799)聖堂の規模が史上最大当時の鋳造である。 大正12年(1923)の関東大震災の際、罹災し焼け落ちたもの。鋳銅製。≫≪形態は、一種の鯱(しゃち)型で、龍頭魚尾、二脚双角、頭より潮を吹き上げ、外側を向いて取付けられている。 鯱はもと「鴟尾(しび)」と言い、古く漢代(BC206―AD2)に始まり、五代・宋(907―1279)の頃に魚型に変化した。 鬼犾頭は、想像上の神魚で、水の神として火を避け、火災を防ぎ、建物を守るために祀られる。≫(『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』(斯文会) というものらしいのだが、どうも、撮ってきた写真のものと、『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』(斯文会)に載っている写真とが違うように思える。 ≪聖堂の大成殿屋根、棟の両端に鎮座。≫と書かれているので、この上の方の写真のもののはずなのだが。
   下の方は、「鬼龍子(きりゅうし)」と言うそうで、≪寛政11年(1799) 聖堂の規模が史上最大当時の鋳造である。 大正12年(1923)の関東大震災の際、罹災し焼け落ちたもの。 鋳銅製。≫≪形態は、猫型蛇腹(豹型龍腹)で牙がある。 形態は狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似ており、牙を剥き、腹には鱗があり蛇腹・龍腹となっている。 鬼龍子は、想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるという。 古代中国伝説の霊獣「騶虞(すうぐ)」によく似ている。≫ (『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』(斯文会)

   沖縄には、「シーサー」という犬みたいだが犬ではないらしいものが屋根の上に鎮座しているようだ。 狛犬の場合、社殿の前の両側にいるのだが、シーサーの場合は屋根の上にいる。 湯島聖堂の「鬼龍子(きりゅうし)」も屋根の上にいるのだが、大成(殿)は孔子廟の正殿のことらしいので、湯島聖堂の大成殿も中国の影響のあるもので、中国に地理的に近い場所の沖縄のシーサーと同様、建物の前ではなく屋根の上にいるというのは、鬼龍子とシーサーは共通するところがあるのだろうか。
   「シーサー」は≪、沖縄県などでみられる伝説の獣の像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられる。家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されるケースが多いとされる≫(《ウィキペディア―シーサー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC ) ≪日本本土の狛犬などと同じく、源流は古代オリエントのライオンと伝えられている。犬という説もあるが、沖縄に関連の深かった中国や南方からの影響を考えてやはり獅子であろうという意見や[6]、またその音からも獅子と断言されるケースが見られる。≫(《ウィキペディア―シーサー》 )という。 建物の前ではなく屋根の上にいる点が、鬼龍子とシーサーは共通している。


   学問する人の代名詞のような人としては、日本人では、菅原道真、二宮尊徳、福沢諭吉。 中国人では、「孟母三選の教え」「孟母断機の教え」の孟子 と その師匠の孔子。 ギリシア神話の「ミネルバ」 といったところが引っ張り出される。 学問のできる人は体力がなく、体力のある人は学問ができないと中国では言われてきたが、それではいけない、そうではなく、学問もできれば運動もできるというようになるべきであると『体育の研究』(『毛沢東の体育の研究』ベースボールマガジン社)で主張し、自分自身も一方で図書館の本を読みまくり『実践論』『矛盾論』『文芸講話』他の著作を残すとともに、水泳(とくに遠泳)を高齢になってもおこない、これは本当か合成写真かわからないが高齢になっても揚子江を泳いで渡ったという写真を公開した毛沢東なんてのも、体育と学問の両立を主張した人として、学問を奨励した人の中に入るかもしれない。
※《ウィキペディア―ミネルウァ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A1

   しかし、学問を好んだ人・学問ができた人・学問を奨励した人といっても、それぞれ、ずいぶんと違いがある。
    菅原道真の場合は、≪ 明治・大正時代では、無実の罪におちいりながら君を恨まなかった忠臣の代表として、忠君愛国の教育において、かれの事績が賛美せられた。≫(坂本太郎『菅原道真』1962.第一版。 1990.新装第一版。 吉川弘文館)ということで、戦前は「忠臣の代表」で学問ができた人として「天神さん」が広まったらしいが、しかし、菅原道真は、もともと、宇多上皇からとりたてられて出世した人間であり、藤原時平とともに道真の左遷を決定した醍醐天皇も宇多上皇の息子であり、その政権によって昇進・出世した人間が、その政権を崩壊させようとしても自分自身も崩壊させることになり、又、藤原時平らの方が自分の側よりも強力であり、たてつきようがなかったわけですし、≪君を恨まなかった≫というのはあくまでも生存中のことで、死後、怨霊となっては、「恨み、晴らさでおくべきか」と暴れまくったわけで、そちらを見ると、≪無実の罪におちいりながら君を恨まなかった≫というわけでもなさそうです。 ≪延喜23年(923)3月21日には、皇太子保明親王が21歳の若さで薨じたので、天皇ももはやすておくことはできなかった。・・・保明親王の薨後、直ちに皇太子に立てた慶頼(よしより)王(母は時平の娘)は延長3年(925)5歳で薨じた。・・・(醍醐)天皇も病気となった。天皇はこれによって9月譲位し、まもなく薨じるが、これらがただごとならず感ぜられたことは無理もない。 ・・・・ 女子では宇多天皇の女御となった褒子も、皇太子保明親王の御息所(みやすどころ)となった人も、ともに早く歿した。・・・・ ≫(坂本太郎『菅原道真』1962.第一版。 1990.新装第一版。 吉川弘文館)。
   戦前は、「無実の罪におちいりながら君を恨まなかった忠臣」とされたが、戦後においては、その部分は消えて、今では、「合格祈願の神さま」として、ちっとも勉強せんかったくせしやがって合格させておくれと祈願してお守りもらっていく神さまで、教義があるわけでもなく、政治的色彩はあまりない。「無実の罪におちいりながら君を恨まなかった忠臣」ではなく、むしろ、「冤罪を晴らす神さま」として祀られている。

   福沢諭吉は「実学」と「虚学」ということを言い、「実学」を勧めたわけだが、この「実学」とはどういうものを言い、どういうものを「虚学」としたのか、ということを、ずいぶんと前から考えてきた。 何を「実学」と考え、何を「虚学」と考えるのか、多くの人がこの問題に悩んできたのではないだろうか。 カネ儲けに役立つ学問、パンのための学問が「実学」で、文学・哲学・社会学・人類学・宗教学といったものは「虚学」だというのか、福沢諭吉は両腕いっぱいにカネと女をだかまえて生きるブタ人間を勧めたのか・・というと、そうではないはずなのだ。
   森川英正『日本経営史』(1981.1.13.日経文庫)には、《「学卒」者による管理者的人材の充足―同族へのドッキング》として、慶應義塾を卒業した村井保固が森村組に入った経緯の話が出ています。
≪ 三菱会社と三井物産に次いでは、明治11年(1878)暮に慶應義塾を卒業した村井保固を、翌年(1879)5月に森村組が採用し、ただちにニューヨークに派遣したのが早い事例です。 森村組は、森村市左衛門が、明治9年(1876)、特産工芸品の直輸出を目的として設立した商社です。 森村は、福沢諭吉に慶應義塾卒業生の推薦を依頼し、福沢は村井を送り込んだのです。
  森村組の条件は、「第一健康、第二英語の達者なこと、第三簿記が出来ること」の三つでした。 村井は、「語学と簿記は不得手の方です」と言って、福沢から「馬鹿野郎、実業家を志して居るものが、其辺の支度が出来ていないとは言語同断だ」と大喝され、悄然とします。 当時、慶應義塾、商業講習所、三菱商業学校は企業からの求人を争う関係にあり、村井が条件にあてはまらぬとなると、せっかくの求人を他校卒業生に奪われます。 福沢は、それが残念で叱ったのでしょう。
  村井は、あらためて福沢を訪ね、「森村さんは偉い人と聞くが、英語と簿記を条件に人を採用するとはおかしい、小手先の利く小者がほしいのか、将来森村組を背負って立つ大黒柱になる人がほしいのか」と反論します。福沢も村井の意気込みを評価し、あらためて森村と交渉した結果、村井の森村組入社が決まったのでした。 ≫
  福沢諭吉は、「英語と簿記」を「実学」と言って、「将来森村組を背負って立つ大黒柱になる」ような学識を「虚学」と言ったわけではなさそう、「英語と簿記」も重要であるが、「将来森村組を背負って立つ大黒柱になる」ような学識といったものも軽視していないようです。 私が慶應大学に行っていた時、「労務管理論」のK教授が「ぼくは、大学では、商学部の専門科目よりも、文学・哲学・宗教学・社会学・人類学・歴史学といった一般教養の方を重視した学習するべきじゃないかと思うんだ。 労務管理論なんてのは会社に入ってから勉強したっていいんだから。ぼくの書いた本なんて、読んでもらって悪いことはないけれども、文学・哲学・宗教学・社会学・人類学・歴史学といったものを6、商学部の専門科目を4くらい、いや、6対4じゃなく、7対3くらいで勉強していいのじゃないかと思う」と話されたことがあった。 実際に会社というところに勤めてみると、専門とするものは勤めてからの方が理解しやすいところもあり、一般教養的なものがあれば専門的なものは学べるが、最終学校卒業までに一般教養的なものを学んでいなければ勤めてから一般教養的なものを学ぶのは困難なところはあり、その先生の言われたことは一理あると思ったのだが、もっとも、一方で、勤め先にありつこうと思うと、「一般教養的なもの」よりも「英語と簿記」「商学部の専門科目」ができた方が勤め先にありつきやすいということはあるように思う・・が、「英語と簿記」「商学部の専門科目」が「実学」で「一般教養的なもの」が「虚学」だとは福沢は言っていないはずである。
   「社会科学概論」という社会科学全般についての講義を担当されていた商学部の I 教授が、かつて、I 教授のゼミの人で、ゼミに入る時に、「太宰治論」を卒論のテーマとしてやりたいと言った人がいたという話をされたことがあった。 「どうしても、太宰治論をやりたいのです。だめですか」と言うので、「やってもいいけれども、卒論のテーマが太宰治論では就職の時に不利じゃないか」と言ったのだが、「それでも、どうしてもやりたいんです」というのでやったが、卒業する時になると、やはり、就職には不利だったが、ひとつのものを一生懸命勉強した人はそれによって、勉強のしかたを習得するようで、公認会計士の資格をとると言って勉強を始めると1年で通った、という話をされた。 学問として太宰治論と商業学とか会計学・経営学・経済学といったものとどちらが価値があるかというと、いちがいにどちらの方が価値があるとは言えないはずだが、会社というところに勤めるにおいては、太宰治論よりも商業学・会計学・経営学・経済学といったものの方が評価される場合が多いようだ・・が、そうであっても、商業学・会計学・経営学・経済学が「実学」で太宰治論は「虚学」だとは福沢諭吉は言っていないはずです。

   毛沢東は、「刺繍に花をつけたすこと」と「雪に閉じ込められた地方に石炭を送ること」という比喩を述べている。 自分たちがやるべきことは「刺繍に花をつけたすこと」ではなく「雪に閉じ込められた地方に石炭を送ること」だ、と。 学問においても、「刺繍に花をつけたす」ような学問と「雪に閉じ込められた地方に石炭を送る」ような学問があるのではないか。 文学・哲学においても、「刺繍に花をつけたす」ような文学・哲学と「〔精神的に〕雪に閉じ込められた地方に石炭を送る」ような文学・哲学があるのではないか。 さらには、「人民を〔精神的に〕雪に閉じ込めようとする」ような文学・哲学もあるのではないか。
   1970年代後半、大学受験の現代国語において、頻出作家と言われる人が何人かいたが、大学別では東大・京大や早稲田大の出身者・教授の作品が多く、慶應大の教授はあまり名前があがっていなかったが、唯一、名前があがっていたのが哲学の沢田允茂教授で、大学入試において現代国語をある程度以上勉強した者の間では、慶應の哲学・倫理学の教授では澤田教授だけが「有名人」だった・・・・・が、慶應の内部進学の人に聞いた話では、「澤田教授の哲学は『サロン的』」という批判もある」ということだった。 「サロン的」とはどういう意味かというと、「お茶しながら、哲学談義でもして楽しみましょうか」という感じ、「へ、へ、ヘーゲルかヤスパースか♪」みたいな・・・、だから何なんだよ、と。〔⇒《YouTube―【なつかCM】ソクラテスかプラトンか サントリーCM 》https://www.youtube.com/watch?v=5bgxI7qBNIE〕 「精神的に雪に閉じ込められた地方に精神的石炭を送る」ようなことはしてはならない、やるべきことは、あくまで「精神面において、刺繍に花をつけたすことである」というような、そんな感じの「哲学」だという批判もあった、というのだ。
※《ウィキペディア―沢田允茂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E5%85%81%E8%8C%82
   サルトルの紹介者として有名な白井浩司教授が「文学と政治を一緒にしてはいけない」と発言したと言って憤慨していた学生がいた。 文学・哲学というのは、あくまで、文学論・哲学論として「学問」としてやることで、文学・哲学によって社会を動かし政治を動かそうなどとは絶対に考えてはならぬ、と言いたいらしく、その態度に、それを聞いた学生(当然、非内部進学)は、なんだ、あの人はと憤慨していた。 ≪毛沢東は「哲学を教室から、書物を哲学者から解放し、これを民衆が手に持つ鋭利な武器とする」ことを望んだ。≫≪哲学は書物と教室を出て街や工場や人民公社に入り、ベル・ラッセンなどは、いまや中国には「八億人の哲学者がいるのだ」とさえ書いた。≫(フランソワ=マルモール『毛沢東』杉辺利英訳 1976.12.5. 白水社 文庫クセジュ)という主張と正反対の主張を白井浩司教授はされたらしい。 どうも、慶應の哲学・文学などの教授というのは、哲学・文学などの使命は「刺繍に花をつけたすこと」であって「精神的に雪に閉じ込められた地方に精神的石炭を送る」ようなことは絶対にしてはならない、と強い意志を持っているような人が多いという印象を受けた・・・・が、それが要するに、福沢諭吉が言うところの「虚学」ではないのだろうか。 「英語と簿記」も「実学」であろうけれども、文学・哲学でも「精神的に雪に閉じ込められた地方に精神的石炭を送る」文学・哲学は「実学」であり、それに対して、「刺繍に花をつけたす」文学・哲学、及び、「人民の心を精神的に雪に閉ざしてしまおう」とする文学・哲学は「虚学」だ、と考えるべきではないか。 福沢諭吉の言う「実学」「虚学」とはそういう意味ではないのだろうか。

   朝日新聞の編集委員であった本多勝一が、新聞の一面に、特に重要と思えない記事、人畜無害な記事が掲載されていた時は要注意で、重要性がない記事、載せても良いけれども、もっと後ろの方に小さく載せるので十分ではないかと思われる記事が一面に大きく載っている場合、実は、一面に載せるべき重大問題の記事があるのにそれを掲載させないようにするため、もしくは、重大な記事を後ろの方に小さく掲載するようにするために、重要性が低いものを一面に大きく掲載している時がある、ということをどこかで述べていた。
   読書にしても、どうでもよいもの、もしくは、そこまでいかなくても、「刺繍に花をつけたす」ような性質のものを大量に読んだとしたならば、その結果として、「精神的に雪に閉じ込められた地方に精神的石炭をおくる」ような書物を読むことができなくなってしまう可能性がある。 となると、「刺繍に花をつけたす」行為は「人を精神的に雪に閉じ込める」行為と同じではないとしても、「精神的に雪に閉じ込められた人に精神的石炭を送る」行為を妨げることになる、という点で、「虚学」、学問としての価値は低い、という評価がされることになる。

   孟子は、「孟母三選の教え」「孟母断機の教え」など、精進して学問を続けましょうという姿勢を象徴するような面もあり、孔子にもそういうところがないわけではないとしても、一方において、孔子とその後継者の論は、国民を抑圧する「反動の道具」という性質も持っているものであり、明治維新体制において、「教育勅語」という国民を精神支配する用具が開発されたのだが、このあたりを考えると、湯島聖堂と孔子廟・孔子像というものは、少なくとも無条件に歓迎できるものでもないように思えてくる。


≪  明治憲法時代には国民の三大義務というのがあって、それは兵役・納税・就学でした。・・・(略)・・・・ いまの若いかたはご存知ないと思いますが、兵隊にいくことは「兵隊にとられる」といった。 つまり、「とられる」という感じがあったのです。 もっとはっきりいうなら、「生命をとられる」危険があるということです。 私などの年齢のものは、徴兵ということがつねに気がかりであった。・・・(略)・・・・ それから税金。これは文字どおり「とられる」という感じです。 三番目の就学、つまり、学校へいくということは、まさか「学校へとられる」とはいわなかったでしょうけれども、よく考えてみると、それは「魂をとられた」のだと思います。 国家の好きなような考え方を長いあいだにわたってつぎこまれたのです。 ≫(遠山 啓『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』1976.1.31. 太郎次郎社)
   明治維新政府が実施した政策で、「学制」はプラスの面はあったわけで、マイナスばかりではない。 韓国のかつての大統領であった朴正熙は≪自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。≫( 金完燮 日韓「禁断の歴史」p.212 小学館 2003年10月)(《ウィキペディア―朴正熙》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95 と述べたそうで、これは韓国の人についてだけでなく、日本国内においても、学制が実施されたことで学べるようになったケースはあると思え、その点でプラスの面はあったと考えられるが、一方で、「魂をとられた」という面もあったわけです。 その典型的なものが「教育勅語」で、また、最近、入学式・卒業式において「君が代」を歌うことを強制する動きが大阪府の橋下徹とその友人らしい中原徹らによってなされていますが、これも「魂をとられる」という動きのひとつです。
   学問には、「精神的に雪にとじこめられた地方に精神的石炭を送る」ようなもの、「刺繍に花をつけたす」ようなもの、そして、「国民を精神的に雪にとじこめる」ためのものがありますが、橋下徹・中原徹らが実行している「君が代」斉唱の強制は「国民を精神的に雪にとじこめる」性質のもので、国民から「魂をとる」行為です。
   インターネットで見ていると、橋下徹について、「早稲田大学の学部に全部通ったらしい」と称賛している橋下ファンの右翼さんがいたが、早稲田大学の政治経済学部・法学部・商学部・文学部(旧・第一文学部)は試験科目と配点、出題傾向が似ており、かつ、合格難易度にそれほど差がないので、私が高校を卒業した1970年代後半においても、橋下が高校を卒業した1980年代後半においても、複数学部を受験した場合、「全勝ち」か「全負け」になる可能性は十分あったわけで、もしも「全勝ち」したらだから何なんだ、というよりも、京大など国立大志向の北野高校を卒業して1浪で早稲田大に行ったということは国立大学に落ちたということだろうが(松嶋みどり さんなんかは、早稲田大に落ちても東大に通った・・らしいく、早稲田大に落ちた時、絶対に東大に通って、この早稲田大学を軽蔑してやるんだと心に誓った、とかエール出版社から出ていた『東大入試合格作戦』に書いていたらしいし)・・・といったことは、それは今となっては彼の個人的な問題でありどうでもよろしい。 問題は、彼とその盟友らしい中原徹という白痴が「国民を精神的に雪に閉じ込める」方向の行為、「国民の精神を自由にするのではなく精神を支配された状態にする行為」をおこなっているという点である。 学問の目的は、国民の精神を自由にする方向であるべきで、「魂をとられる」方向でおこなうものではない、ということがわかっていないような男は、複数学部を受けて「全勝ち」であろうが「全負け」であろうが、どちらであっても、評価できる人間ではない。

   すべての過去の人物は、神でない生身の人間である以上、良いところもあれば、良いと言えないところがあって不思議ではありません。 孔子であれ孟子であれ、どこがよくてどこがよくないか、ということをそれぞれの人が自ら考えて分析するべきですが、「教育勅語」という天皇へーかが下されたとして唱えさせられるようなものが当然のことながら害があります。 
   その根っこが孔子や朱子学につながっているとなると、湯島聖堂も「史跡」としてはともかく、それ以上のものとしては、無条件に高く評価するわけにもいかず、むしろ、要注意な面があると言わざるをえません。
   (2015.12.11.)

  次回、湯島聖堂(下)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_6.html  に続きます。

☆ ニコライ堂と湯島聖堂と聖橋
1.ニコライ堂 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_2.html 
2.湯島聖堂(上)、聖橋 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_3.html
3.湯島聖堂(中) 〔今回〕
4.湯島聖堂(下) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_6.html


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