湯島聖堂(上)、アーチ構造・シンシ梁に似た聖橋。 思想的手錠・反動の聖人たる孔子

[第232回]日本の教会建築(13)の後半の1、ニコライ堂と湯島聖堂と聖橋(2)
   「湯島」というと、学問の神さま・湯島天神とか昌平坂学問所・湯島聖堂とかがあり、北には東大の本郷キャンパス、南には代々木と並ぶ浪人の街・御茶ノ水があって、「文京区」という区の名前からして、学問・文化・教養の街・・て感じ、しませんか?  でも、実は、夏目漱石の『坊ちゃん』なんか読みますと、
≪ 山嵐はむやみに牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染みのある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうといったら、そうだ僕はこの頃漸く勘づいたのに、君はなかなか敏捷だと大いにほめた。
「・・・(略)・・・・ 」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買いは精神的娯楽で、天婦羅や、団子は物質的娯楽なんだろう。 精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。 何だあの様は。 馴染の芸者が這入ってくると、入れ代わりに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡麻化す気だから気に食わない。 そうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亜文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとかいって、人を烟に巻くつもりなんだ。 あんな弱虫は男じゃないよ。 全く御殿女中の生まれ変わりか何かだぜ。 ことによると、彼奴のおやじは湯島のかげま かも知れない」
「湯島のかげま た何だ」
「何でも男らしくないもんだろう。―― ・・・・(略)・・・・・」 ≫
という文章がある。 岩波文庫の平岡敏夫の「注」には、
≪ 「かげま」 は江戸時代に流行した、男色を売る少年で、これを置くのが陰間茶屋。 湯島天神前のが有名だった。 ≫と出ている。
   東大の本郷の周辺に会社事務所を設けることで、文教的な会社だとアピールしたいという魂胆の会社もあるようだが、実は、東大本郷の南にある湯島天神の門前は、「陰間(かげま)」で有名な場所で、東大本郷の西の菊坂は、池波正太郎『鬼平犯科帳』では、岡場所があった所として出てくる。〔「鬼平犯科帳 029」http://www.h2.dion.ne.jp/~you3/29yotaka.htm 〕  高校生くらいの頃は、東大の近くにある会社というのは学問的・教養的な会社が多いのではないかと思った時もあったし、実際、硬派の出版社で本郷に本社のある会社もあるが、なにしろ、在来木造の(株)一条工務店なんていいかげんな会社まで、木場に東京事務所を持つ前に、一時的に本郷に東京事務所を持っていた時があったらしいと知って、「実際にはちっとも文化的じゃないのに、カッコつけたがる会社」もある、と実感させられた。 「文京区」も「湯島」も、実際以上に「文京」的に解釈しない方がよさそうにも思う・・・・が、ともかく、その湯島聖堂に行ってきた。

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↑  南東に「正門、西側に「聖橋門」と「正門」があり、通常、この3つの門が開いていて通行できる。 北東に明神門があるとこの図に書かれているが、こちらは普段は閉まっているようだ。  「正門」から入るのが本来の入り方なのだと思う。  [第211回]《「入墨クリスチャン」に感じた疑問+借金とりに追われる大変さ?、よその息子の学費の献金 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201507/article_2.html  で述べたが、父の「親友」で息子を関西医大に裏口入学させたというのを自慢にしていた「医者」がいて、「おまえとは違うんやぞ。おまえとは。 M先生の息子さんは関西医大、裏口入学やぞ。裏口入学ということは、『思考が柔軟』ちゅうことやぞ。わかっとんのか、ちゃんころ。わかっとんのんか、ちゃんころ、チャンコロ、ちゃん小郎、ちゃん虎狼、ちゃん古老」と毎日毎日、鼻の頭のあたりを指さされて何度も何度も言われてきて、その結果、裏口入学する人というのは尊敬すべき思考が柔軟な偉い人なんだな・・・・と思うようになったかというと、私の頭が悪いのかもしれないが、どうもその理屈がよく理解できず、逆に、私などはそのおえらい裏口入学というものをさせてもらおうと思っても、させてもらえるコネも持たないし、小学校の1年から同級生が遊んでる時も真面目に努力して勉強してきたのに、まともに勉強せずに人を薬漬けにしていじめ倒したたカネで裏口で入るやつのことを「わかっとんのか、おまえとは違うんやぞ、わかっとんのんか、ちゃんころ!、チャンコロ!、ちゃんころ!、チャンコロ!」と何度も何度も耳鳴りがするくらい言われてきたので、「裏口から入る」という行為に嫌悪感を持つようになった・・・・のだが、湯島聖堂の場合、最寄り駅のJR「御茶ノ水」、東京メトロ丸の内線「御茶ノ水」、東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅のいずれから行っても、西側が近く、特に、本郷通りの信号を渡って行くと、北西側にある「西門」から入るようになり、「裏口から入る」ようになってしまう。 今回は、特に、「ニコライ堂と湯島聖堂の2つの聖堂を結ぶ聖橋(ひじりばし)」を渡って行くということで行ったことから、西門から入ることになったが、湯島聖堂のみで考えると「正門」から入るのが王道であり、裏口から入るのが「思考が柔軟やということ」でえらいと思う人は裏口から入った方がいいのかもしれないが、「御茶ノ水」駅からではなく「秋葉原」駅から歩いていくと、自然と「正門」の方から入ることになるので、次に行く場合は「秋葉原」から行ってみたいと思う。

【2】 聖橋(ひじりばし) 
   で、JRの「御茶ノ水」駅、それから、なにしろ、「ずいぶんと深いところにありますからね。エスカレーターなんて長くって、下で水を入れて上まで行くとお茶になってるていうくらいですからね」という東京メトロ千代田線の「新御茶ノ水」駅から行くと、「聖橋(ひじりばし)」を通って行くことになる。
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↑ 西側の「御茶ノ水橋」から見たもの。 (写真はクリックすると大きくなります。大きくして見てください。)
右に見えるのはJR「御茶ノ水」駅のホーム。

北東側から見ると↓
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   昔から、在来木造の建物では、最上階の梁に曲がった木(主に松丸太)を使用して上に凸になるように入れてきたが、これは、上から荷重がかかった時に抵抗することになり、アーチ橋と同じ原理であり、そのアーチ橋の例がこの御茶ノ水の聖橋であると言われる。
   杉山英男『木造住宅は地震に強いか』(1985.6.20.講談社 ブルーバックス)に、二段梁の下側にシンシ梁といって上に凸に曲がった木を入れ、凸に出たところが上側の梁の中央部と接するようにすることで、上から下への荷重に耐える二段梁の構造はアーチ橋と原理が似ているということが述べられており、≪シンシ梁に似たアーチ橋≫として≪東京・御茶ノ水の聖橋≫の写真が掲載されている。『木造住宅は地震に強いか』の改訂版のような本である杉山英男『地震と木造住宅』(1996.丸善)にもアーチ橋写真は掲載されているが、御茶ノ水の聖橋ではなく他の山間部の橋の写真に変わっている。
   「アーチ橋」といっても、鉄筋コンクリート造のものと、石・煉瓦によるものとでは事情は同じではありません。山口廣監修・江口俊彦著『東京の近代建築―建築構造入門』(1990.11.25.理工学社)では、古代メソポタミアで作られた日干し煉瓦による建物の説明がされています。
≪ 当たり前のことですが、日干し煉瓦のような小さなブロック状の材料を水平にかけ渡しても、それらは重力で下に落ちてしまいます。 しかし、直方体のブロックを下から積み上げていき、ある程度立ち上げたところで台形のブロックにかえ、両側から半円形にかけ渡し、最後に、その頂上で、かなめ石すなわちキーストーンをはめ込んだ形をつくると、垂直過重は各ブロック間の摩擦力となって下方に流れていくことになります。これがいわゆる「アーチ」構造です。アーチを横につないでいくと「ヴォールト」、アーチを中心軸のまわりに回転させると「ドーム」になります。≫と出ています。
   聖橋の場合は、《ウィキペディア―聖橋》  を見ると、≪放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。≫と出ており、アーチ橋でも鉄筋コンクリート造のもので、組積造の場合は、石や煉瓦のようなものを横に並べただけでは落ちますが、アーチ状にして中央に「キーストーン」「要石」を入れれば力が斜めに加わることで落ちないようにできるわけですが、鉄筋コンクリート造の場合は、そうしなくともまっすぐな鉄筋コンクリートの梁でも落ちることはなく、組積造のアーチとは事情は同じではありません。

   ≪ 地下鉄丸ノ内線の赤い電車に乗り、淡路町からお茶の水に向かう途中に、その場所はあります。暗い地下鉄の穴を走っている電車が一瞬明るく照らし出されると、そこは神田川です。 神田川の両岸は緑が美しく、都会の雑踏を忘れさせてくれます。 その緑豊かな岸と岸の間に、ねずみ色の鉄筋コンクリート橋が架けられています。この橋は、ほんのまばたきする間の短い時間だけ私たちの前に姿を現しますが、川の流れや樹木の緑とも相まって、非常に深い印象を与えてくれます。
   「聖橋」(ひじりばし)は、昭和4年(1929年)、山田守によってつくられた橋です。近くには湯島聖堂があり、命名の由来が理解できます。 鉄骨の橋が多いなか、鉄筋コンクリートでつくられた橋は、やはり私たちの心を引きつけます。
   川をひとまたぎする大アーチが、左右それぞれ四個ずつの細長いアーチを押し上げ、橋全体を支えています。頂点を並べ、両岸から中央に向かって押し上げられる八つのアーチがリズミカルな印象を与えます。
   この橋のデザイン上の特色は、細長い放物線状のアーチです。アーチはもともと組積造の産物であるため、半円形であるのが自然です。ゴシック様式のポインテッド アーチや、イスラム様式の様ざまな形態のアーチもありますが、やはり大半は、半円形に近いアーチが建造物には用いられます。
   放物線のアーチは、第一次世界大戦前後に、ヨーロッパ、とくにドイツを中心として活躍した建築家たちによって用いられました。彼らによる建築を「表現派の建築」と呼びます。聖橋のアーチは、この表現派の影響によるものなのです。 ・・・≫
(山口廣監修・江口俊彦著『東京の近代建築―建築構造入門』1990.11.25.理工学社 「RC造の表現派「お茶の水聖橋」―鉄筋コンクリート構造の技術」)

   木造住宅で丸太梁を入れた場合、ひとつには、梁は上から下へと重力が加わるので、木材の芯材側を上、辺材側を下に入れると、乾燥が進んだ時に辺材側の方が芯材側よりも収縮が大きいことから上に凸になろうとし、重力により下に下がろうとする力と逆の動きをすることで、梁が下がらないというのと同様に、もとから上に凸になった曲がった木を使用することで、重力で梁の中ほどが下に下がろうとするのを防ぐという意味合いがあると思われます。 しかし、それだけではなく、組積造のアーチ橋が、中央の「キーストーン」「要石」から両側に斜めに力が伝わっていくようになり、まっすぐな梁であれば、単に梁の強度だけで持ちこたえるのに対し、上に凸に入れた丸太梁では中央から両側に斜めに力が加わることで、力の加わり方が梁の繊維方向へのものとなり、木は一般に繊維方向での圧縮力に対しての方が繊維に垂直方向のせんだん力に対してよりも強度は強いのでまっすぐな梁よりも強いのではないかと推測することもできるのではないでしょうか。
   木造の建物の丸太梁については、「シンシ梁」という言い方があって、杉山英男『地震と木造住宅』(1996.丸善)では≪「シンシ梁」の呼称であるが、シンシは漢字で書けば「伸子」で、洗い張りや染色のときに布をぴんと張るために用いた竹製の材で、布を張るとき弓状に曲げて用いた。 胴梁のこの曲がり方がシンシを曲げたときの形状に似ていたところから「シンシ梁」の呼び方が起こったといわれている。 ≫と書かれ、≪写真16はシンシ梁の原理に似た現代の端である。≫として、山間部のアーチ橋の写真が掲載されている。 「伸子(シンシ)」ととらえると、これは両側にぴんと張る機能を持つという意味と考えられる。
  杉山英男『地震と木造住宅』では、千葉県の旧作田家(⇒川崎市立日本民家園 作田家住宅 http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/11_sakuda_house/ )の≪曲がった梁を用いた格子梁と梁算段≫の写真が掲載されているが、その旧作田家の写真では、曲がった梁を使用しているといっても、必ずしも上に凸ということでもなく、曲がった部分で交差させることで梁を削ることなく格子状に入れることができており、上に凸に入れるということよりも、そちらに目的があるのではないかという感じがする。
  もうひとつ考えられることとして、「シンシ」として考えるならば、上に凸になる曲がった梁を入れると両側で柱の部分を外に広げるように力が加わり、逆に、下に凸になるように曲がった梁を入れると両川の柱の部分で内側に狭めるように力が加わることになるので、上に凸の曲がった梁と下に凸の曲がった梁の両方を入れると、外壁ラインにおいて外側に広げようとする力と内に狭めようとする力の両方の力が加わって建物の構造を安定させることになる、ということが考えられるのではないだろうか。
   鉄筋コンクリート造のアーチ橋の場合、在来木造の曲がった梁の「シンシ」としての機能、曲がった梁を使用することで梁を削ることなく曲がった部分で交差させて格子状に梁を組むという機能は、そこにはないと思えるが、中央の部分に柱を立てなくとも、アーチによって力を両端に伝えることで橋を支えるということになっており、上に凸の丸太梁を使用することで力の加わり方が斜め方向になり、まっすぐな梁なら繊維と垂直方向に加わる力が梁材の繊維方向になるのと似たところがあるのではないでしょうか。

   在来木造の一条工務店では、2本の丸太梁(野物)を交差して入れることをしていて、これを「しばりに入れる」と言い、この「しばりに入れる」入れ方をすることで屋根の上からの荷重が四方に分散されるのであって、丸太梁を使用しても「しばりに入れる」ことをせずに並べていれたのではその効果はない、ということを言っていました。 しかし、同社の建築中現場で見ると、 「しばりに入れる」ために、2本の太い丸太梁が交差する部分の仕口で丸太梁を削ってかみ合わせており、「しばりに入れる」ことでその部分で削られた分だけ細くなっています。又、「しばりに入れる」ことをした丸太梁は「一般」の米松(ダグラスファー)のまっすぐな梁に載せられているのですが、「しばりに入れる」入れ方をした上の方の梁は、米松(ダグラスファー)の梁との仕口(しぐち)部分のかみ合わせが小さくなってしまうという問題もあります。 木構造の構造材は太いものを使用した方がよいか細いものを使用した方がよいかというと、安全性・耐震性・耐風性を考えると一般には太いものを使用した方がよいと考えられますが、もしも、倒壊する事態になった場合、上から梁が落ちてきたとすると、細いものなら上に載っかかられても押しのけて脱出するということもできても、一条で使用している丸太梁のような太くて思いものにもしも載られたとすると、押しのけようとしても簡単ではなく、その前に上から落下してきた時点で相当の怪我をすることが考えられます。実際、阪神大震災の時、太い梁が落下して下敷きになって脱出できず命を落としたというケースもあったようです。 そういったことを考えると、はたして、「しばりに入れる」ということをした丸太梁というのは、構造上、プラスになるのかマイナスになるのかよくわからないようにも思えてきます。 同社の場合、もともとが「地方」を得意とする会社で、「地方」においては上棟の時など、太い丸太梁が交差して入っているのが見えるというのが好評であったわけで、私が同社に入社した1990年代初めにおいては東京など都市部では上棟前後、近所の人が丸太梁を見て「すごい木を使っていますね」と言ったりすることがある一方で、「田舎の家」「田舎臭い発想の会社」という印象を与えることになり、「そんなのいらないよね」とか「うちは田舎で建てるのじゃないですから」と言われかえってマイナスに評価されることもあったのですが、都市圏での施工が少なかった1990年代初めと違って同社が都市部でもけっこう建てられるようになってきた最近においては営業上はプラスになる方が多いのではないかと思いますが、構造上、プラスになるのかマイナスになるのかはよくわからないところがあります。
  一条工務店の浜松の工場見学会で、説明役のNさんが「野物(松丸太梁)は角材の梁と違って繊維がとぎれていないという点で強いと言われます」と説明していたが、たしかに、角材と違って元の形のままで使用するので繊維がとぎれていない面もありますが、「しばりに入れる」ことで交差する部分で削ることで繊維がとぎれるという面もあります。


【3】 湯島聖堂
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↑ 仰高門(ぎょうこうもん)  1935年(昭和10)4月竣工。 鉄筋コンクリート造。
南東の「正門」から入ると、まず、この仰高門に出会う。

   そして、
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↑ 孔子銅像  1975年(昭和50)
≪ 中華民国台北市ライオンズクラブより寄贈。 11月3日除幕式を挙行した。 丈高15呎(フィート)〔4.57メートル〕 重量約1.5トンの孔子像は世界最大。≫ と湯島聖堂の斯文会館で購入した『写真と図版で見る 史跡 湯島聖堂』に書かれている。
   北京の「中華人民共和国」ではなく台北の「中華民国」からの寄贈です。 「中華人民共和国」もずいぶんと変わったもので、1975年頃というと、まだ、その頃までは「孔子を批判せよ」と言われていた時代だったはずなのです。 パンダが上野動物園に来たのが1973年で、周恩来が他界したのは1976年1月、毛沢東が他界したのは1976年9月です。
   「中華人民共和国」において、孔子批判がされたのはどういうことでかというと、フランソワ=マルモール『毛沢東』杉辺 俊英 訳 1976.12.5. 白水社 文庫クセジュ)には次のように出ている。
≪ 孔子の哲学、その道徳は2500年前の大昔から中国人の生活にしみこんできた。 日常生活から言葉にいたるすべてのものが孔子思想の痕跡をとどめている。 すでに五.四運動のときも孔子批判が革命的学生の緊急の時務とされたことがあった。 こんにちこの孔子批判は巨大な政治的・思想的教育運動のスローガンとなっている。
   この孔子批判は、常に圧制者の権力に奉仕し、中国民衆の《思想的手錠》となってきたこの哲学に対する本格的な対決である。 中国共産党員の目から見れば、孔子はまさに楊栄国の言う《反動階級の聖人》なのである。 民衆にとっては、正史が長年にわたって広めてきた、賢明にして有徳の聖人という虚像を粉砕しなければならなかった。
   孔子批判の方法の一つに、高徳の聖人というにはほど遠い彼の実生活をその理論(ドクトリン)と対照させるというやり方がある。 孔子に対する非難のなかで、最もたびたび言及されるのは次の諸点である。
――彼は奴隷制の擁護者であった。
――彼は農業に従う労働者を《賎民》として軽蔑した。
――彼は女性を奴隷のように考えた。
――彼の哲学は、天の意思、寛恕、孝などの概念を軸として人民に対する圧迫を正当化した。 彼の思想はすべて、従順と服従を説くものであった。
   中国史上このことを見落とした反動勢力は決してなかった。 彼らは常に政策の中に孔子崇拝を盛り込んできた。 袁世凱と蒋介石は孔子こそは「万世不易の徳と義の師」「人類永遠の師表」と賛え、儒教の価値を誇った。 蒋介石は儒教の中に「異端の説、徳に反する共匪の教理(ドグマ)」を粉砕するための支持を求めた。 また中国共産党の最近の歴史について見ても、陳伯達、劉少奇ないし林彪などは毛沢東の政治路線に反対して《資本主義路線》に走り、儒教の中から反革命的な宣伝テーマを汲みあげた。 L・アルチュセールが言っているように、「理論と思想の舞台において人間主義が前面に出てくるとき、その背後では常に、経済主義が勝利する」のである。 ・・・・≫
≪  孔子批判は決して一部のものが主張するように、たんなる民俗、時代錯誤の《シナ趣味》の結果ではなく、中国人民の社会主義的理想とあい容れない保守的原理に対する糾弾なのである。
    孔子批判こそは人民の英知、言語、習慣の中にくまなく、諦念、屈従、不幸にじっと耐えるという毒をくまなくしみこませたこのイデオロギーに対する総決算なのである。 中国人には、家庭的・文化的社会化によって、儒教的性向ともいうべきものが定着してしまい、これがいうなればあらゆる反逆を双葉のうちに摘みとり、反逆などというものを言語道断な、考えることもできないものにしてしまっていたのである。 ≫
   その後、大陸の「中華人民共和国」も台湾の「中華民国」もずいぶんと変わったように思いますし、最近の中国(中華人民共和国)政府の対応については疑問を感じるものもありますが、1975年の時点において、台湾の「中華民国」から寄贈されたという寄贈の経緯を考えると、≪「抑圧の側の思想家」「人民に敵対する思想家」の神格化を画策して、その時代の日本よりも文化的に反動的な勢力が力を持っていた台湾(「中華民国」)において製造した「反動の聖人たる孔子像」「国民を抑圧し、思想的手錠をはめるための像」を日本に持ってきたもの≫と評価をするべきものかもしれない。

   日本においても、「教育勅語」を復活させようとする反動勢力が存在した。 今も存在していると思う。 「教育勅語」は孔子の思想の影響を受けているものであるが、孔子の思想そのものでもない。 1975年に台湾(「中華民国」)で製造された「世界最大の孔子像」を「中華民国からの寄贈」という形式をとって日本に持ち込んだ日本国内の勢力が存在した、と見るべきかもしれない。
   私が20代の頃、父は毎日のように、「親に感謝」と言いまくっていた。 「親に感謝せえよお」と言うのだが、最初、この意味がわからなかったのだ。 なぜなら、 「感謝する」という日本語の動詞は、「感謝する」対象があってこそのもので、親に何か感謝するべきことをしてもらった時に「感謝する」「感謝しろ」というのはわかるのだが、親子の関係においても、親が何か感謝するべきことを子にしたわけではない時に「親に感謝せえよお」と言われても、「何に感謝せえと言うんだ?」と疑問に思うわけです。 又、親子間においても、子が親のために何かをする場合もあるわけで、その場合は、親の方が子に感謝しても良いはずであるのですが、そういう場合においても「親に感謝せえよお」「わしに感謝せえよお」と言うので、その思想が良いかどうか以前に、論理的に成り立たない話であり、言っている意味がわからなかったのです。
   「産んでやってやってやっていただいていただいてくださってくださってもらってもらってあげてあげてやあってやあってやあってもらってもらっていただいてもらってあげてやってやってやあってやったった」とか言っていましたが、産んだのは母親であっておっさんと違うだろうが・・・と思ったのです。 たしかに、出産は大変なことでしょうから、だから、「母親が大変な思いをして産んでくれたのだから、そのことに感謝して、決して産んでもらったその体を粗末にしてはいけませんよ」というのはわかりますし、産んでくれた母親を大事にしましょうというのも間違っていないでしょう。 しかし、産んだのは母親であって、おっさんと違うはずなのに、なんで、産んだわけでもないおっさんが「産んでやあってやってやってあげてあげていただいていただいてもらってもらってあげてやってやってやってやったった」とか言うのか。 おっさんが産んだのか?  それなら、いったい、どこから出したんだ? 女性が産むのだって大変なのに、男が産むとはいったいどこから出したんだ? もしかして、ちん○ の先の穴から産んだのか? もし、そうなら、こりぁあ大変だわ、さぞかし痛かっただろうなあ~あ・・・と思うが、まさか、それはないだろう。 それはないとすると、ケツの穴から出したのか? なんか、ウン○みたい。 なんか、汚そうで臭そうやな・・・・・。 結論として、産んだのはやっぱり母親であって、おっさんではないと思うのだ。 なんで、産んだわけでもない男が「産んでやってやってやあってやってあげてあげていただいていただいてもらってもらってあげてあげてやってやってやあってやあってもらってもらってやあってやあってやってやってやってやったった」とか言うんだ?  ・・・・と思ったのです。
   それに対して、父は回答してくれました。 「女に産んでもらったなんぞと思ってはならんぞ。」と言うのです。 じゃあ、おっさんが産んだんかい!?! ちん○ の先から出したんかい? それとも、うん○ みたいにケツの穴から出したんかい? と思うと、父が言うには、「女は単なる畑じゃ。 その畑に種を植えていただいてくださってあげてあげてやってやってもらってもらってあげてあげていただいてくださってあげてもらってやってやってやってくださった方のおかげで、畑から種が芽を出すことができたんや。 勘違いしてはならんぞ! 心得違いを起こすなよ! ええか、わかっとるか、ええか! ちゃんころ! おまえが生まれることができたのは、畑に産んでもらったからとは違うんやぞ。 わかっとるか、ちゃんころ! 畑に産んでもらったのではなく、畑に種を植えていただいてくださってあげてあげてもらってもらってくださってあげてあげてもらってもらってあげていただいてくださった方のおかげで生まれることができたんやぞ。 間違ってはならんぞ。 ええか。ええか、ちゃんころ。 茄子でもキュウリでもそうやろ。 畑が芽をだしたんやないわけや。芽を出したのは種を植えてもらっていただいてくださってもらってあげていただいたおかげで芽をだすことができたんや。 それで、いったん、芽をだしたら、そこから育てるのは畑の役目じゃ。 畑はそれを育てるためにあるんや。 だから、子供も生まれたら、子供を育てるのは畑の役目じゃ。 心得違いを起こしてはならんぞ。間違ってはならんぞ。子供を育てるのは畑の役目じゃ。 それで、育って、実がなるようになったら、その実に対しては、種を植えた者に権利があるんじゃ。 畑に権利があるのではないんじゃ。 ましてや、茄子やキュウリに権利があるわけがない。 そうやろ。それと一緒や。子供っちゅうもんは、女が育てるもんじゃ。 間違ってはならんぞ。勘違いしてはならんぞ。心得違いを起こすなよ。ええか、わかっとるか、ちゃんころ。わかっとるのか、チャンコロ。 それで、実がなるようになったら、その実に対しては種を植えた者に権利があるんや。 畑には何の権利もあらへん。ましてや、茄子やキュウリに権利があるわけがないんじゃ。 ええか。 だから、種を植えてくださってあげてあげていただいていただいてもらってもらってあげてあげていただいていただいてもらってあげてあげてもらってくださってやってやってやってやあってやあってもらってもらってくださってもらってあげていただいてもらってやあってやtってやってやってやってやったくださったこのわしに感謝せんといかんのやぞ。 わかっとるか、ちゃんころ。 わかっとんのんか、ちゃんころ!」と説明してくれたのだ。
   それを言われて、そんな恩着せがましいたいそうな種なんか、植えていらんわ、と思ったのです。 そこまで「やあってやっていただいてくださってあげてあげてやあってやあって・・」とか言わんといかんようなたいそうな種なんか、植えていらんわ、と思い、そして、言ったのです。「別に、植えていらんけど」と。 そうすると、「何を心得違いを言うとるんじゃ。 感謝せんといかんだろうが、ちゃんころ。 種を植えていただいてくださってあげてあげていただいてくださってもらってもらってあげてあげてやってやってもらってもらってあげてくださっていだだいてもらってあげてあげてやってあげていただいた方のおかげで種が畑から芽を出しておまえはこの世に生まれることができたんやぞ。種を植えてくださってあげてあげていただいてもらってくださってもらってあげていただいた方に心から感謝して、親孝行せえよお、親孝行せえよお、ええか、わかったるか、わかっとんのんか、わかっとるか、ちゃんころ、わかっとんのんか、ちゃんころ、ちゃんころ。 わかっとんのんか、ちゃんころ。」と言って説明してくれたのです。 で、わかったかというと、わかりませんでした。 そんな汚らしい恩着せがましい種なんか、植えて要らんわ、と思いました。
   ある時、山住正巳『教育勅語』(朝日選書)を読んで、それで、意味がわかった。 要するに、父が言っていたのは、「教育勅語」の思想だったのです。 一般に、「感謝する」というのは、何かの行為に対してするもので、親が子の為に何かをしてくれた時に「感謝する」というのはわかるのですが、そうではなく、親が子に何か有益なことをしたわけでもなく、むしろ、子が親のために何かした場合でも、子は親に「感謝しろ」、親が変なことをして子に対して迷惑をかけた場合でも「親に感謝しろ」というのは、まず、日本語として成り立たないのではないのか、と私は思ったし、そう思う人は少なくないのではないかと思うのですが、 「教育勅語」の思想ではそうではないのです。  「教育勅語」で言うところの「親に感謝」というのは、親が子に何か役に立つことをしてくれたから、その行為に対して「感謝する」のではなく、「親であること」に対して「感謝しろ」ということなのです。 それが「教育勅語」なのです。 だから、「戦後民主主義」と言われる教育を受けて育った「戦後世代」の私にとっては、戦中世代の父の言っていることがわけがわからなかったのですが、「教育勅語」というものがどういうものかを理解すると、なるほど、おっさんの言っていた、「畑に種を植えてくださってあげてあげてもらってもらってあげていただいてもらってやってやってあげてもらってもらってあげていただいてくださった方に感謝せえよお」というのは、「親に感謝」という「教育勅語」の「親であること」に対して「感謝せえよお~お」という思想を説明したものだった、とわかったのです。 なるほど・・・と思いましたが、同時に、つくづく、「教育勅語」というのはくだらない、けしからん、反文化的なものだなあと実感しました。
   横浜市港北区の慶應大日吉キャンパスの脇にある日吉台学生ハイツ〔⇒[第105回]《慶應義塾大学YMCAチャペル(ヴォーリズ)~日本の教会建築(2)、及、日吉箕輪町方面の現在 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201206/article_3.html の後半、参照。〕の「館長」が「ハイツだより」に「親に感謝」と書き、私の父はそれを見て、「ええ~えこと言いはる。 『親に感謝』じゃ。 ええこと言いはる。『親に感謝』せんといかんぞお。『親に感謝』せえよお、わしにじゃ、わしにい。わしにわしにわしにい~い!」と言っていましたが、防衛庁・自衛隊関係者が運営しているという日吉台学生ハイツ(1980年代のことです。今もそのままかどうかはわかりません)の「館長」が言う「親に感謝」というのも「教育勅語」の思想で、親が何かをしてくれたことに対して感謝するべきだというのではなく、「親であること」に対して「感謝せえよお~お」ということを言っているものです。 そういう人、そういう前時代的、戦前戦中思想の人が防衛庁・自衛隊を運営しているのです。 1980年代、慶應義塾の塾長であった石川忠雄は、中曽根康弘内閣の臨教審の委員として、「教育勅語のようなもの」を制定しようと主張したことがあったが、そういう人が委員になっていたのが中曽根内閣の「臨教審」であり、その時代の慶應義塾はそういう人が「塾長」になっていた、ということです。

   「教育勅語」は孔子の思想そのものというわけでもありませんが、孔子の思想が影響して作られたものです。 自民党の中の「タカ派」「右翼」、親台湾派には、その「教育勅語」を復活させたいという連中がいたわけです。 あんまり賢くないアホが。 そういう人たちが、日本の国の税金で建てるわけにもいかないから、台湾(「中華民国」)で作ってもらって、それを「寄贈」という形式にして日本に持ち込んで、「親に孝行せえよお」「わしに孝行せえよお」「種を植えてもらってもらってあげてあげていただいてもらってやってやってもらってくださった方に孝行せえよお~お」という趣旨で建てたのが、↑の孔子像だった・・・・というところでしょう。 

   湯島の聖堂 は、江戸時代において、「学問所」であったわけですが、学問所だからということで無条件に賞賛してよいわけでもなく、儒教の中でも、朱子学という体制擁護・権力擁護の学派を保護したものであり、もともとが、民主的な存在といいがたい面もあったのです。 「種を植えてくださってあげてあげてやってもらってあげてくださった方に感謝せえよお~お」という思想につながるものを持っていたのです。

≪  (藤原)惺窩・(林)羅山がひろめ、幕府諸藩の御用学となり、近世日本の儒学の主流となったのは、中国の宋朝の末期(12世紀)に朱熹(しゅき)が大成した学説=朱子学である。 それによれば、宇宙の根元として「理」があり、理の静と動とが陰と陽になり、陰陽二気の作用によって天地自然の万物および人間社会とその秩序が生成される。 理は自然と社会と人間を一貫しており、人間社会の秩序(封建的秩序・道徳)も、たとえば君臣上下の秩序は、天が上にあり地が下にあるのとまったく同一の理の貫徹であり、永遠不動である。 これよりして、君臣上下の「大義」と臣たり子たるものの忠孝をつくすべき「名分」(大義名分)、および中華(内)を護持してい夷狄(いてき)(外)を排除するという華夷内外の別を明らかにし、厳守することは、社会の最高のおきてとされる。
   こういう世界観と実践道徳が、自家の領国にとじこもり、身分制と家父長制を人民支配の最重要の制度としている封建領主にうってつけであることは、いうまでもなかろう。 朱子学の思弁的な世界観は、将軍・大名にはわけがわからなかったであろうが、その大義名分論は、彼らの階級的本能によっても容易に信奉できた。 また理・気の説にたいしては、儒学者の間からも、さまざまの異論・批判がおこるが、大義名分と家父長制道徳の教を強調することは、儒教のどの学派にも共通していた。・・・ こうして儒教道徳は、社会の支配的道徳となった。≫(井上 清『日本の歴史(中)』(1965.10.23.岩波新書)

   こういったことを考えると、湯島聖堂・昌平坂学問所は、学問の聖地ととらえて無条件に賞賛するわけにもいかない、ことになる。 聖橋は南のニコライ堂(東京復活大聖堂)と北の湯島聖堂を結ぶということで聖橋(ひじりばし)と名づけられたが、親を大事にしようということについても、キリスト教的なヒューマニズムからのものと、儒教でいうもの、さらに「教育勅語」の「親に感謝せえよお~お」というものとは、実質的にずいぶんと違いがあります。
  最近、「教育勅語てもっと問題のあるものかと思って読んだら、別に悪い内容じゃないと思った」などと言い出す若い人がたまにありますが、そういう人は「教育勅語」の実質的意味合いを理解できずに言っているのであり、その理解不足につけこむようなことをする連中もいるわけで、日本の社会の将来を考えると、そういう良心的と言えない人たちの動きには憂慮せざるをえません。

  教育勅語を教義としていた戦前の「ひとのみち」は、戦後、PL教団と実践倫理宏正会と倫理研究所(=倫理法人会)の3つに分かれましたが、倫理研究所(=倫理法人会)は宗教団体という形式をとらず、あまり賢明でない会社経営者にとりこみ「宗教ではない」から従業員に強要してもかまわないという「論理」で強要して拡張しており、その点は大変卑怯です。
   (2015.12.11.)

次回、 湯島聖堂(中)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_5.html  に続きます。

☆ニコライ堂と湯島聖堂と聖橋
1.ニコライ堂 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_2.html
2.湯島聖堂(上)、聖橋 〔今回〕
3.湯島聖堂(中) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_5.html
4.湯島聖堂(下) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_6.html 

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