「自由が丘」の駅名・地名と福沢諭吉像に思う事、及、ペテロ像のつま先を掴んでの記念撮影はやめてほしい

[第212回]
「自由が丘」の由来について。
  「○○が丘」というのは、最近、あちらこちらで、不動産屋が分譲した山手・・というより坂道だらけの分譲地によくつけられる名称で、面白くもなんともない。「○○が丘」とか「◇◇台」とかいう分譲地の名称にはうんざりしていますし、もともと、その地域にあった地名を消してしまって、そういうチャラい名前をつける知性のなさもどうかと思います。丘でも台地でもない場所に「・・丘」「・・台」という名前をつけるのもやめてほしい。JR武蔵野線の「北朝霞」に隣接して東武東上線にできた駅の駅名が「朝霞台」で、これも、チャラい「・・台」のひとつかと最初は思ったが、東武東上線に乗って窓から見ていると、「朝霞」駅からひとつ北の「朝霞台」に向かうと、「朝霞台」駅付近がその南より少し高くなって台地状になっているので、この駅名は実状を踏まえた駅名でおかしな命名でもないと思いました。しかし、東横線の「自由が丘」付近は地形としては「丘」ではない。
   田園調布の隣の「自由が丘」も、最近、不動産屋が適当に(この場合、「適当」は「しかるべく」ではなく、「いいかげんに」の意)つけた名称かと昔は思っていたのですが、実はそうではないらしい。田園調布から東急東横線に沿った道を自由が丘に向かって歩くと、田園調布から坂を下るようになっており、自由が丘は地形としては「丘」ではなく、自由が丘駅の南に今は緑道になっている九品仏川が流れていたように、むしろ、「谷」です。〔「九品仏」は「くほんぶつ」と読みます。〕 一方、そんなに最近の住宅分譲地という感じの場所でもない。なぜ、「自由が丘」という名前がついたかというと、「自由が丘学園」という学校があって、その名前を駅名にもつけて、その付近の名称にもなったらしい。それがいつの頃かというと、満州事変の頃で、お上から「自由」とはけしからんと言われ、名前を変えろと圧力を受けたものの、自由が丘の住民は頑張って「自由が丘」という名前を守り抜いたというのです。だから、田園調布の隣の「自由が丘」は、自由が丘は自由が丘でも、最近の分譲地に不動産屋が適当につけた自由が丘とは自由が丘が違う、らしい。 「丘」でもない場所に「・・・丘」という地名をつけているのは災害に対する備えを怠らせることにつながりかねないという点では好ましいとは言えないという面もあるが、田園調布の隣の「自由が丘」の場合は、不動産屋が適当につけたネーミングのセンスが感じられない安っぽい「自由が丘」とは意味が違うようです。
≪ この街、自由が丘の凄いところは、なんといってもその名、ネーミングだ。1930年代の日本で『自由』という言葉は、メジャーな権力からみればほぼ禁句だったのに、住民の力で、それを正規の町名にしてしまったのだから凄い。 おまけにその後、お上の町名変更の要求にも屈しなかったというのは、ほんとうに凄い。ぼくらは先輩に敬意を表し、この誇らしい町名をまもりつづけたい。≫
(前川嘉男「自由と節度」〔『自由が丘 オフィシャルガイド 2002-2003』2001.10.1. 自由が丘商店街振興組合 所収〕)
 

  一方、残念なのが、慶應の三田と日吉にある福沢諭吉像です。私が慶應大に入学する前後の頃(1980年前後の頃)、日吉には福沢像はなく、三田に「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さに福沢の顔と眼がある福沢諭吉の胸像」が、槇文彦設計という三田新図書館の脇にあったのです。「『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり』と言った福沢諭吉の像であるから、『普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さに福沢の顔がくる高さに設置されている』という像である」と説明されていました。三田の新図書館の脇の福沢像にはすぐそばまで誰でも行けるようになっていましたし、行きたくない人は無理に行かなくてもよいようになっていました。 ところが、最近、慶應の日吉と三田に行ってみて、がっかりしたのです。 日吉には、やはり、槇文彦設計という日吉新図書館が私がまだ「在学」していた時にできたのですが、その入口の前に、「普通の人間よりひと回り大きい大きさで、普通の人間より少し高い高さの台座に載っている中途半端に大きい福沢像」ができ、その前を通らないと図書館に入れないようになっていたのです。まるで、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)、ポンポン! としないとそこを通ってはならない、みたいに配置されていました。
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↑ これが、日吉(横浜市港北区日吉 の慶應義塾大学日吉キャンパス)の日吉新図書館前の「普通の人間よりひと回り大きくて普通の人間より少々高い」「この前を通らないと図書館に入れないという場所に鎮座する」福沢諭吉像です。 右後ろが第4校舎、左後ろは「有名建築家 槇文彦設計」・・ということで「建築家」は一生懸命頑張って賞賛する日吉新図書館です。(実際の建物を見て自分で考えるのではなく、設計者の名前を見て、ビッグネームだと一生懸命賞賛するバカのことを「建築家」とか「デザイナー」とか言います。)

   そして、三田の新図書館の脇に、福沢像のそばに行きたい者は誰でも行けたかつての場所から移動され、なんと、生垣の中、一般の学生が通る通路より少し高い場所に移され、通路との間には生垣で区切られて、そばに行けないようにされてしまったのです。
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↑ これが、三田(東京都港区三田 の慶應義塾大学三田キャンパス)の、かつては、槇文彦設計 慶応義塾大学三田新図書館の北側に「普通の人間と同じ大きさで」「普通の人間と同じ高さに」「その前を通らなくても図書館を利用することはでき、同時に、そばに行きたい者は誰もがすぐそばまで行くことができる場所に」存在したが、今は、三田旧図書館(曾根・中條建築事務所設計。 重要文化財指定)の前の「普通の人間が歩く通路より高い場所で」「普通の人間が通る通路と生垣で境を設けられた場所に」移動されてしまった「『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり』と述べた福沢諭吉であるから『普通の人間と同じ大きさで作られた』福沢諭吉像」です。
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↑ かつて、1980年代、私がこの大学の「大学生」であった頃は、ここにありました。 普通の人間が通る通路の新図書館の前の位置で、そばに行きたい者は誰でもすぐそばまで行ける、間に生垣などない場所でした。 これが、全体の中でどこかというと↓
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↑ 槇文彦設計の三田新図書館の入口付近、北西側から見た写真ですが、この左の面(北面)がひとつ上の写真です。

  一番の違いは、今の場所は、一般の人間が通行する場所から生垣で隔てられた場所で福沢像のすぐそばまで行くことはできないこと。 かつての場所と違って、今の場所は一般の人間が通行するよりも高い場所であること。 この2つです。 私が慶應義塾大学の4年の時、「就職ガイダンス」に出てきた就職部長という経済学部のT教授がおっしゃったお話ですが、「この間、私が三田のキャンパスを歩いていたところ、私の横で『お~い』と怒鳴りつけるヤツがいた。 遠くに友達がいたらしく、そいつに呼びかけるために大声出したらしいんだけれども、前を私が通ってるんだよ。この私が。この私がだよ。殴ってやろうかと思った。この私がいるんだよ、この私が」と叫ばれたのです。何千人を前にして講壇の上でマイクに向かって。 講義の休講の掲示において、東大では「◇◇教授 休講」と掲示が出るのに対し、慶應では「先生と呼ばれるのは福沢諭吉だけで、他は誰もが慶應義塾で学ぶ者同士である」という考え方で、「○○君 休講」と掲示される・・・・のだが、それは形骸化も甚だしい。 「この私がだよ。この私が」と言われる方、「殴ってやる」と何千人を前にしてマイクに向かって叫ばれる物騒な方がその「○○君」なんです。 おえらい方なんでしょうね。私なんかと違って。 そういう方が「福沢精神」とかおっしゃるのですが、福澤諭吉なら「この私がそこにいるんだよ。この私がだあ。殴ってやろうか」などとは言わないと思いますけれども・・・・。 むしろ、そんなことで人を殴るとか「殴ってやろうか」と言うとかはもってのほかと考えている人であったはずですが。T教授は『福翁自伝』とか読まれないのでしょうね。おえらい先生ですから。
   ≪ そのころ、人々がイエスのところへ子どもを連れてきて、手を置いて祈っていただこうとしたのを弟子たちがとがめた。 イエスはいわれた、「子どもはそのままに。 彼らがわたしのところへ来るのを妨げるな。 天国はこのような人たちのものである」と。 彼らに(祝福の)手を置いて、そこを去られた。≫(『マタイ福音書』19章13節‐15節。〔 『新約聖書』前田護郎訳 1983.12.10.中央公論社 〕)
  土曜の午後などに三田キャンパスに行って見ると、慶應の学生や教員ではないと思われるような人が来て福沢諭吉像の前で記念撮影をしたりしているのを見ることがあります。この人は慶應大学に行きたかったけれども行けなかったのかな・・という感じの人もいます。そういう人の多くは、福沢諭吉像は、かつては生垣で隔てられた普通の人間より高い場所ではなく、誰もがすぐそばまで行ける普通の人間と同じ高さの場所にあったということを知らないでしょうけれども、しかし、福沢諭吉という人が、普通の人間がすぐそばまで行くのを妨げてほしがる人かというとそうではないはずで、普通の人間よりも必要もなく高い場所に位置したいような人間かというとそうではないはずだ、ということを知っている人は少なからずいると思います。 「殴ってやろうか」とご発言なされた教授先生なら、そのおえらい先生には私などのようなえらくもない人間はおそばによってはならないのでしょうけれども、福沢諭吉という人はそのおえらい先生のような考え方をする人間ではないと私は思います。

   福沢諭吉という人はお殿様ではなく、下級武士の出身で「門閥制度は私にとっては親の仇」と言ったような人であり、一般の人間がそばに寄るのを生垣で遮るようなことをされて喜ぶ人ではないはずなのです。
   さらに、「塾」という慶應の学校が出していて、日吉や三田で無料で取得できる冊子があるのですが、それには、「福沢諭吉の銅像に肘をついたり足をかけたりすると、留年すると言われています」というお話まで創作されてしまって書かれているのです。おろかな! 福沢諭吉は、子供の頃、殿様の名前を書いた紙の上をまたいで通ったところ、兄から、「お殿様の名前を書いた紙の上をまたぐとは何事か」と言われ、「お殿様の顔を踏みつけにしたとでもいうならよくないであろうが、名前を書いた紙でしかないものをまたいだということで、そこまで怒られなければならないというのは納得いかない」と思ったという人間であり、別に、福澤諭吉の像に肘をつけとか足をかけろと言うつもりはありませんが、福沢諭吉自身ではなく、あくまで銅像に肘をついたとか足をかけたとしても、、福沢諭吉という人が、そんなことで留年させてやろうなどというちっぽけな人間かというと、そうではないはずだと思うのです。 そんな了見の狭い人ではないはずです。そういうおかしな話を捏造した者は、おそらく、福沢の著作や伝記を読んでいない、「福沢」「福沢」とぎゃーぎゃー叫ぶのが「福沢精神」と思っているような人ではないでしょうか。そんなおかしな話を捏造する人というのは、福沢諭吉を尊重している人ではない。むしろ、逆だと思います。
   聖書には「みだりに神の名を唱えてはならない」というくだりがありますが、慶應義塾という団体においては、福沢諭吉の著作や伝記を1冊も読まずに「みだりに福沢の名を唱える」人が多いという印象を受けました。特に大学から入った人間は『学問のすすめ』であったり『文明論之概略』であったり何か1冊くらい福沢諭吉の著作を読んだことがあるとか日本史を学ぶ過程において福沢諭吉についても学んだり、あるいは「現代国語」において、私が高校で使用した「現代国語」の教科書では北村透谷と福沢諭吉が明治初期の思想家として出ていたのですが、北村透谷と福沢諭吉として学んだり、あるいは森鴎外や夏目漱石とともに明治初期の知識人として福沢諭吉を学んだりしてきているのに対し、内部進学の人(及び、大学から入った人間でも「頭が内部進学」の人)というのは、福沢諭吉の墓参りとかはしても福沢諭吉の著作は1冊も読まない、福沢諭吉の伝記やその時代の歴史も学ばないという人が多く、それでいて、「みだりに福沢の名を唱える」習癖がある人が多いという印象を受けました。 森鴎外の『青年』に夏目漱石がモデルらしい拊石という男が「イプセンは初め諾威(ノオルウェイ)の小さいイプセンであって、それが社会劇に手を着けてから、大きな欧羅巴(ヨオロッパ)のイプセンになったというが、それが日本に伝わって来て、又ずっと小さいイプセンになりました。なんでも日本に持ってくると小さくなる。ニイチェも小さくなる。トルストイも小さくなる。ニイチェの詞を思い出す。地球はその時小さくなった。そしてその上に何物も小さくする、最後の人類がひょこひょこ踊っているのである。我等は幸福を発見したと、最後の人類は云って、目をしばだたくのである。・・・」と語る場面がありますが、これを言うと慶應の内部進学の人は怒ると思いますが、「福沢諭吉は最初、大分県の中津藩の小さい福沢諭吉であったが、今日においては日本の福沢諭吉になった。しかし、慶應義塾においては、今も『慶應の福沢諭吉』という小さい福沢諭吉である」と慶應の内部進学の人を見て思った。こういうことを言うと、内部進学の人に怒られますし、慶應の教授は激怒します。福沢の著作や伝記など1冊も読まないような人に怒られますから、世の中、生きていくためには黙っていた方がいいのかもしれませんが、何しろ、あんまり人間ができていないものですから、言うたらいかん言うたらいかん・・・と思いつつ・・・、あ、言っちゃった・・・て、ここで言っちゃった。
   「『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』と言った福沢諭吉であるから、『普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さの胸像』である」という話は、もしかすると、後から作られた話かもしれませんが、たとえ、後から作られた話であっても、それは価値のある話であり、そして、福沢諭吉の像の前を通らずとも(三田新)図書館を利用することはできて、決して福沢像に対しての礼拝を強制されたりはしない、同時に福沢諭吉の像のそばに行きたいと思えば誰でもすぐそばまで行くことができるという福沢像の配置とともに守り続けたいものであったのですが、守り続けるのは簡単ではないものだったのかもしれません。 日吉に「普通の人間より少々大きめで普通の人間より少し高い位置の福沢諭吉像」が「その像の前を通らずには図書館に入れない場所」に設置され、三田の福沢像は、普通の人間が通る通路より高い場所で間に生垣を設けた場所に移動されてしまった。 田園調布の隣の自由が丘の「自由が丘」と言う地名・駅名は、名前自体は、「最近の新しい分譲地に不動産屋があちらこちらでつける名称」で特別のものではないが、「自由」とはけしからんという戦時の風潮の中にあっても、「自由が丘」という名前を住民が守り続けたというところに価値があると言えます。 それに対し、福沢諭吉像は、「『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり』と述べた福沢諭吉の像であるから、普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さにある」というすばらしい考え方のお話と、その前を通らないとどこかに入れないことはなく行きたくない人にそこに行くことを強制するようなことはなく、同時にそこに行きたい人は誰もがすぐそばまで行くことができるという配置は守ることができなかったようです。
  
  昔、私がまだ慶応大学の学生であった時のこと、今は「無期限休刊」になった「朝日ジャーナル」に載っていた話ですが、慶應には、年度末になって留年しそうだという時に、「留年を回避する方法」という真偽は定かでない話があって、単位を落としそうな科目の教授の家に一升瓶を持っていくというのと、福沢諭吉の墓参りをするというのがあり、それよりも強力なやつとして、「日本橋の三越本店の入口の前に鎮座しているライオンの像に、三越の開店時間中に人が見ている前でまたがると留年しない」というのがある・・・と書いてあったのです。 それで、私、三越本店まで、そのライオンを見に行ったのです。↓
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↑ 東京都中央区 日本橋の三越本店の入口と入口手前のライオンの像。 このライオンに、三越本店の営業時間中に人が見ているところでまたがると願いがかなう???・・・??

※三越HP「日本橋三越本店の歴史再発見」https://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/history/list02.html
       「日本橋三越本店アクセス」http://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/access/index.html

  そこには説明書きがあって、「ロンドンのトラファルガー広場にあるライオンの像を真似て作られたもので、このライオンに人に見られることなくまたがることができれば願いがかなう」というもので、「人が見ている前でまたがると留年しない」とは、ちょっと話が違うようでした・・・・
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(↑写真はクリックすると大きくなります。どうぞ、大きくして見てください。)
・・・・が、「日本橋の三越本店の入口の前に鎮座しているライオンの像に、三越の開店時間中に人が見ている前でまたがると留年しない」という話は、さすがに実際にまたがった人を見たことはありませんが、センスも悪くない機知にとんだお話だと思います。
   「ローマのサンタマリアインコスメディン教会の入口脇にある像の口には、嘘つきが腕をつっこむと腕をかみきられる」とか、「ナポリのカステルデツローヴォ(卵城)の基礎の下には卵が埋まっていて、その卵が破壊されるとカステルデツローヴォ(卵城)も破壊され、その時、ナポリの街も破壊される」とか、「コロッセオが滅ぶとローマも滅び、その時、世界も滅ぶ」とか、そして、サンピエトロ寺院の中にあるペテロの像の片足の先だけてかてか光っているのですが、これは「信徒がひざまづいて接吻を繰り返してきた結果、光るようになった」とかいう話などと同様、実際は違うとしても機知にとんだセンスのいいお話だと思います。それに対し、「福沢諭吉像に肘をついたり足をかけたりすると留年する」という「お話」はお話としてのセンスも悪い。
〔  さらに言いますと、こういうことを言うと「僭越だ」とか言って怒られそうですが、慶應義塾大学の大学院法学研究科博士課程を修了して明治の法科大学院大学の教授で司法試験の委員をやっておられた青柳幸一先生が、「教え子」の20代の女性に試験問題を教えた・・・というニュースが出ておりましたので、それから考えると、「留年しそうだ。困る・・・」という時には、「一升瓶もっていく」のではなく、女を提供した方が効果があるのかもしれませんね。(なんて言うと、また、怒られるか・・・。 こわい、こわい・・) さらに、「週刊新潮」2015年10月29日号によると、≪早稲田大学の中島徹教授(60)。司法試験考査委員も務める憲法学者が教え子に贈ったメッセージは、・・・ ポルノ小説まがいの文面・・・このメールを受け取った中島氏の元教え子の女性(22)・・・・ 中島氏は現在、早大大学院法務研究科の教授で、司法試験問題を教え子に漏らして在宅起訴された、“ ブルー卿 ” こと、青柳幸一・元明大教授と同じく司法試験考査委員も務めている。≫そうだ。 ようやる男とようやる女の早慶戦。 愛と痴と力のパフォーマンス。 馬鹿き血に吠える者ビョーキ持てる奴ら♪ ほんま、ようやる・・〕

〔  ついでに。 その頃、やはり、「朝日ジャーナル」に載っていた話で、「東京で予備校を選ぶ方法」というのがあって、「実績で選ぶなら 駿台、 講師の知名度なら代ゼミ。 そして、机で選ぶなら河合塾」と書かれていたのですが、「机の河合塾」とは何ぞや・・というと、他の予備校、高校、大学の机と比べて、河合塾の教室の机というのは、ずいぶんといい机が備えられているらしいのです。私は河合塾の模擬試験は受けたことがあるものの、予備校生として河合塾に行ったことはないのですが、言われてみると、小田急線「東北沢」駅の東のあたりにあった(今もあるのかな?)の河合塾駒場校に行った時、ちらっと見えた教室の机は、たしかに、けっこういい机だったような気がします。 この「実績の駿台、講師の代ゼミ、机の河合」というのも、センスが悪くない表現だと思います・・・。 まあ、机で選ぶことないけれども、「福澤諭吉の像に肘をついたり、足をかけたりすると留年する」とかいう下品でセンスの悪い「お話」なんかよりは、よっぽどセンスがいい。〕

   「聖ペテロ像の片方の足のつま先が信徒が跪いて接吻を繰り返すことでてかてか光るようになった」というのは「お話」ではあるのですが、その「思い」は嘘でもなく、サンピエトロ寺院のペテロの像などは、そういう「思い」をその場所を訪ねるキリスト教徒は持ってきたのだと思うのです。 ロンドンのウエストミンスター大聖堂にもペテロ像があり、やはり、突き出た方の足のつまさきだけてかてか光っていました。 それは、実際には「信徒の接吻によって光るようになった」のではないと思うのです。 群馬県館林市に「彫刻の小道」というのがあります。もともとは、防風林だった場所だと思うのですが、通路の両側に像が並んでいます・・が、なんだか、彫刻家て裸婦像しか思い浮かばないみたいな感じ。その裸婦像の乳首だけてかてか光っているのです・・・が、これは「信徒の接吻によって」ではなく、夜な夜なよじ登って乳首をぺろぺろなめるおっさんがいたから、それでテカテカ光るようになったのか・・・というと、そうではないと思います。もともと、そういった彫刻の像というものは、足のつま先であれ乳首の先であれ、出っ張ったところはテカテカ光るようになりやすく、へっこんだ所はくすんだようになりやすいのだと思います。だから、サンピエトロ寺院の聖ペテロ像のつま先も、実際は、「信徒が接吻を繰り返すことによって」テカテカ光るようになったわけではないと思います・・・が、そのような気持ちでペテロ像を見てきた信徒はいたと思うのです。 1997年1月にローマに行き、バチカンのサンピエトロ寺院で、そのペテロ像を見ていたところ、なんと、日本人オバサンの3人連れが来て、写真撮影禁止の堂内で、その「信徒の接吻で光るようになった」という足のつま先をひとりがつかんで記念撮影・・・・。 「何、すんねん!」とびっくりして見ていたら、次に、別のひとりが、今度は別の方の足をつかんで記念撮影・・・・・。アタマ、おかしいんじゃないか! と思いました。こういうオバサンて、サンピエトロ寺院に行ってもらいたくないと思うのです。「信徒の接吻によって光るようになった」というのは、実際はそうではないとしても、そういうお話がある像の足をつかんで写真撮影禁止の堂内で記念撮影をするとは、どういう神経をしているんだ。 その日本オバサンにはあきれ、これでは日本人は嫌われるわ、と思いました。

   ちょっと話がそれましたが、「自由が丘」は住民が「『自由』が丘」という名称を権力に屈せずに守り抜いたことで価値のある地名になった。 三田の福沢諭吉像も、「天は人の上に人を作らず」ということからくるお話と像の大きさ、決して福沢像への礼拝を強制はされず、同時に、福沢像のそばに行きたい者は誰でもすぐそばまで行けるという配置というものは、守り続ければ価値のあるものであったのですが、「自由が丘」と同様に守ることはできなかった。 「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さの福沢諭吉像」を大事にする人は、その人自身がどういう宗教の信者であるかにかかわらず、「信徒の接吻で光るようになった」というお話のあるペテロ像の足をつかんで記念撮影などしないと思う。
  三田の福沢像を移動させた人、日吉の福沢像の大きさと場所を決めた人は、同じ「塾員」でも私なんかよりもはるかに「えらい人」なのだと思いますが、えらい人ならば、なおのこと、こういったことを考えていただきたいものです。( 実際には、私なんぞがこのようなことを言うと、「福沢精神を身につけている」そういうおえらい方は、おそらく、「この私に向かって」とか「僭越だ」とか言い出されることでしょうけれども、ね。)
  又、日本人でローマ・バチカンやキリスト教圏の国に行く人はこれからもあると思いますが、「信徒が接吻を繰り返すことで光るようになった」というお話のある聖ペテロの像のつま先をつかんで写真撮影禁止の教会堂内で記念撮影をするというのは、どうかやめていただきたいと思います。

   旧「社会主義国」においては、巨大な銅像が作られているものと思い込んでいる人がいますが、必ずしもそうではありません。 2000年にロシア連邦のイルクーツクに行った時、街道沿いに人の背より高い台座の上に載った巨大なレーニン像がありましたが、一方で、ある公園内には、「普通の人間と同じ大きさで」「普通の人間と同じ高さ」のカール=マルクスの像が「誰でもそばまで行ける場所に」「その前を通らなければ何か用事ができないということはない場所に」ありました。 巨大な像は遠くからでも見えるようにその大きさに設置されたようです。 栃木県佐野市の郷土博物館には田中正造の全身像があり、「普通の人間と同じ大きさ」で、そして、「普通の人間と同じ地面の上に」立っています。 田中正造の像はもうひとつ、藤岡町の渡良瀬川沿いにもあり、これは人の背より高い台座の上に載った巨大な像ですが、南の方、渡良瀬川から旧 谷中村(現・渡良瀬川遊水地)の方を睨みつけるように立っています。田中正造は永遠にその地を見守り続けるということでしょうか。
   「エライ人」の像は、「普通の人間よりひと回り大きく」「普通の人間より少し高い位置に」設けるものだと思っている人がいるようで、日吉の福澤諭吉像もそう作られていますが、私が今まで見てきた限りでは、「普通の人間と同じ大きさで」「普通の人間と同じ高さに」銅像が作られる人と、「普通の人間よりひと回り大きい大きさで」「普通の人間より高い位置に」銅像が作られる人ならば、「普通の人間と同じ大きさで」「普通の人間と同じ高さに」銅像が作られる人の方が値打ちのある人が多いように思います。 渡良瀬川から旧谷中村の方を睨みつける 田中正造翁の像とか、イルクーツクの街道沿いに立っていたレーニン像は遠くからでも見えるようにその大きさで作られたのに対し、日吉の福澤諭吉像は「普通の人間よりひと回り大きい中途半端な大きさで」作られる必然性必要性はなく、「『おれはエライんだぞお』みたいに普通の人間より少々高い位置で」作られる必要性もないはずです。 日吉の福澤諭吉像は下劣です。アホが作ったのでしょう・・・・と書くと、「エライ人」に怒られるかもしれませんね。 「殴ってやろうか」とか言われるかもしれません。「この私が考えたんだよ。このわたしがあ」とか言われるかもしれませんね。 すいませんねえ、えらくない人間がこんなこと言ってからに・・・・・。 でも、福澤諭吉が生きておれば、「普通の人間よりひと回り大きい中途半端な大きさの像」を「普通の人間より少し高い位置に」作って欲しがるかというと、福澤諭吉はそんなものを作ってほしがらないと思いますけれども・・・・、なんて言うと、また怒られますね。「僭越だ!」とか言われるかもしれません。「塾風『僭越』主義」の方から、お叱りを受けそうですね。 そういう、何かにつけて、「僭越だ」と言って人が自分自身で考え自分自身の考えを述べることを妨げようという姿勢が福沢諭吉が望んでいた姿勢かというと違うと思うのですが、そういった「僭越だ」と言って人を黙らせようという「塾風『僭越』主義」の人に限って、「福沢精神を身につけている」とか「独立自尊の精神を身につけている」とか言うのです、慶應という学校では。
「みだりに神の名を唱えてはならない」「みだりに福沢の名を唱えてはならない」と思いますが、そう言うと、また、「僭越だ」とか言われそうですね。 まあ、私と違って年収の多い「ブタ財布」持ってるえらい人がお金を出されるのでしょうから、気のすむように「中途半端に大きいセンスの悪い福沢諭吉像」でも作ってください。私はそれがいいとは思いませんけれども・・・なんて、言ってはならないんですよね、慶應義塾という所では。 それが「福沢精神」なんだそうですが・・・なんだか・・・・。
〔「ブタ商人のブタ財布」という表現がJ=P=サルトル『自由への道』に出ていたのですが、最近では私の財布なんかの方が、ナナコカードとかなか卯や吉野家のサービス券とかで厚くて、金持ちの方が薄くて内容のある財布を持ってたりするみたいですね・・〕
     (2015.10.12.)

自由が丘オフィシャルガイドブック〈2006‐2007〉 (タウンガイド)
自由が丘商店街振興組合

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↑ 私が見た、前川嘉男「自由と節度」が掲載されていた『自由が丘 オフィシャルガイドブック』は、2002-2003年版なので、↑の「2006-2007年版」に、同じものが掲載されているか掲載されていないかは知りません。

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