性風俗店は、一般女性の性を守るか、性の退廃化を促進するか防ぐか‐橋下徹の不見識。

[第127回]
  ああ、なんて橋下徹って馬鹿なんだろう。 なんて橋下徹って教養がないんだろう。
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(YAHOO!ニュース)
沖縄米軍に「もっと風俗活用を」 橋下氏が司令官に発言
産経新聞 5月13日(月)21時19分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130513-00000589-san-soci
  日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は13日夕、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)を視察し同飛行場の司令官と面会した際に「もっと日本の風俗業を活用してほしい」と促していたことを明らかにした。米兵による性犯罪などの事件が後を絶たない状況を踏まえての発言だが、司令官は「米軍では禁止されている」などと取り合わなかったという。
  橋下氏は今月1日、同飛行場を視察。その際、司令官に「合法的に性的なエネルギーを解消できる場所が日本にはある。真っ正面から風俗業を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーをコントロールできない」と述べたという。
  橋下氏によると、司令官は凍り付いたような表情をみせ、「米軍では禁止の通達を出している。これ以上、この話はやめよう」と打ち切った。
  橋下氏は記者団に対して「事件が収まる因果関係があるようなものではないが、活用を真っ正面から認めないとダメ。兵士は命を落としかねない極限状況に追い込まれており、そのエネルギーを発散させることを考えないといけない」と述べた。
  橋下氏はこの日午前、戦時中の慰安婦制度について「必要なのは誰だって分かる」と発言。夕方、その発言について改めて言及した際、司令官とのやり取りを明らかにした。
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   まったくつくづくなさけない男である。  井上清『現代日本女性史』(1962.5.21.三一新書)より引用する。
≪ 1951年、52年ごろに、売春婦が米軍将校からかせぎ出す金が、1億ドル(360億円)とも、あるいは百億円から百四十億円ともいわれる。 また横須賀市では、52年6月、米軍司令官が市当局に発表した数字では、同市内の米軍将校が日本円にかえる金が、月に八億七〇〇〇万円という。その大部分は、売春婦人と関係業者、みやげもの店の手にはいると推定されるが、この金額は、同市の51年度の予算七億円よりも多い。 ここには当時六千人ほどの街娼がいた。
   横須賀商業会議所は、この米軍将兵にもっと多くの金を使わせたいのか、市全体を売春ムードでつつむために、52年3月、「横須賀タマラン節」なるものをつくらせた。その歌詞は、
  (一)  ジャパン横須賀ワンダフル
      ビヤもガールもヴェリナイス
      チェリー咲いてるあの丘に
      スイートホームをつくりたい
      タマラン タマラン
  (二)  むかしャドントうつ意気の街
      今じゃ七色にじの街
      いきなハイヤーの行きかえり
      月のでる夜にキスの雨
      タマラン タマラン(下略)
というようなものであった。 これを朝日新聞神奈川版が報道した。 市の教育委員もおどろいた。まじえな市会議員、児童福祉司、児童文学者協会、子供を守る会準備会などが立ち上がり、PTAの母親たちもだまっておらず、これらの諸機関と団体が、市教組とともに、タマラン節追放の運動をおこして、勝利した。
   何のための戦争か、その目的も意義もわからないままに、戦場にかりたてられる米兵の、日本女性にたいする暴行も多かった。 呉市では、52年4月28日から7月6日までに、114件の米兵の強姦事件があった。東京芝では、わずか3年9ヵ月の幼女が、52年10月9日米兵に暴行され(* 中央公論53年3月号「日米行政協定は1年間に何を惹起したか」)、下半身を血だらけにされた。 警察へうったえても、全然とりあげてもくれなかった。 北海道の米軍基地は、パンパンの都として、海軍の横須賀とならぶ有名な基地であるが、そこでは、三千人の女性のうち、米兵に暴行をうけなかったものはわずか9%しかないという。(五島勉「続日本の貞操」)
   「良家の子女」をまもるために、売春も「必要悪」とせざるをえないなどと、もっともらしく説かれるが、それはとんでもないうそである。 売春婦のむらがる基地は、右のように暴行も多かった。のみならず、売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる。 青少年犯罪、とくに性犯罪が、50年以後多くなるが、それは、売春の盛行と関係がある。≫
   橋下は、かつて、横須賀市商業会議所が、恥知らずな「横須賀タマラン節」などというものを作って、米兵に横須賀の性風俗店をさらに利用させようとしたことと同様のことをさせようということか。 井上清が指摘しているように、≪売春婦のむらがる基地は、・・・・暴行も多かった≫のであり、≪売春がさかんになれば、社会全体の性道徳をたいはいさせる≫こともあり、決して、全体としては、≪風俗業を活用≫は性犯罪の防止には役立たないと思われる。
※「商業会議所」とは、《YAHOO!百科辞典‐商業会議所(しょうぎょうかいぎしょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 》http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%95%86%E6%A5%AD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E6%89%80/ によると、
≪1890年(明治23)商業会議所条例によって市域を単位に組織された地域別の資本家団体。≫で、≪1927年(昭和2)の商工会議所法によって商工会議所に再編成された。 ≫ということで、商工会議所の前身のようです。

  今はむかし。1980年代前半のこと。慶應義塾大学に在学した時、教養課程の「英語(1)」という授業の最中に、教授が「売春などの風俗産業は一般の女性を守るために必要なものだと思います。」とご発言されたことがあり、私はそれを聞いて、まがりなりにも大学教授という立場の人間がなんてことを言うんだ、それも、大学の授業の中でなんてことを言うんだ、と思い、また、なんともレベルの低い大学だ、といや~な気持にならされたということがありました。 ひとつには、今から考えると、私も若かったので、今より純心だったということもあるかもしれません。 「大学教授」という人たちに対する期待が高すぎたかもしれません。
   結論を言うと、「売春などの風俗産業は一般の女性を守るために役立つ」かというと、それは正しくないと思います。 その先生は他の部分においては親切な方ではあり、私も世話になったのではあるのですが、この発言については不適切な発言だと今でも思います。
井上清『現代日本女性史』(1962.5.21.三一新書)より再度引用します。
≪  性的たいはいは、金さえもうければどんなものでもつくる映画資本や、不良出版によってもひろめられる。 50年(昭和25)の「乙女の性典」はいわゆる性典映画ブームのはじまりであり、52年(昭和27)の「娘はかく抗議す」、53年(昭和28)の「十代の性典」が、それぞれの年に性映画ブームをつくりdしたという。(戸川猪佐武「戦後風俗史」)。 出版物でも、低劣きわまるわいせつ雑誌が、何種類もはんらんした。≫
   性風俗産業は、性的退廃を広める、性的退廃を促進する性格がある。 ゆえに、全体として見るならば、「性犯罪から一般女性を守る」のではなく、男女の本来的な性のあり方を妨げることにつながることが考えられる。
   但し。 今はむかし、プロ野球の某球団の投手が、外車に乗って幼女に「いたずら」をして捕まったという事件があり、その際、プロ野球の主力選手などという金持ちが、何もわざわざそんなことしなくても、お金持っているのだから、お金を払えば相手にしてくれるプロの女性を相手にやればいいことではないのか、ばかなことをするもんだ、と思ったことがある。 その時などは、お金を払えば性の相手をしてくれる女性がいて、そういう人に相手にしてもらえば、「一般の女性」が被害にあわないで済むという結果にはなる。 こういうケースは他にも実際にあると思う。 だから、性風俗産業は「全体としては」性の退廃化につながり性犯罪を促進する方向につながることが考えられるが、「部分的」「局所的」「一時的」には、「一般女性を性犯罪から守る」という面もまったくないわけではないと思う。
   しかし、そうはいっても、やはり、全体としては、性的退廃を促進する傾向があるだろう。国民の性的退廃が進めば進むほど、性風俗産業は栄えるのだから。

   橋下 徹は、さらに、戦争中の「慰安婦」についてまで、「慰安婦制度が必要なのは誰だって分かる」などと言いだしたらしい。↓
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(YAHOO!ニュース)
維新・橋下氏が慰安婦是認発言=在沖米軍には風俗業利用促す―与野党から批判
時事通信 5月13日(月)20時25分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130513-00000127-jij-pol
  日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)は13日、旧日本軍による従軍慰安婦問題について、「慰安婦制度は必要だった」との認識を示した。橋下氏はまた、在沖縄の米軍幹部に対し、米兵による風俗産業の利用を促したことも明らかにした。
  歴史認識をめぐる安倍晋三首相の言動が中韓両国などとの外交摩擦となっている中、慰安婦の存在を是認した橋下氏の発言に対し、与野党双方から批判の声が上がった。
  橋下氏は同日午前、大阪市役所で記者団に対し、「銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だって分かる」と述べた。
  橋下氏は同日夕にも記者団に「軍の規律を維持するため、当時は必要だった」と改めて主張。さらに、大型連休中に米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)を視察した際、米司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と求めたことを明らかにした。その理由について橋下氏は「性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にはあるわけだから」などと語った。
 維新の小沢鋭仁国対委員長は、橋下氏が同時に侵略の事実を受け止めるべきだとする発言もしていることを踏まえ、「全体を通して聞いていただくことが重要だ」と釈明した。しかし、維新議員団幹部の1人は「歴史のタブーに触れる問題発言だ」と非難。別の幹部も「党の考えを代表したものではない」と火消しに躍起となった。
 一方、自民党幹部は「論外だ。致命的な発言になるだろう」と批判。民主党の海江田万里代表は「慰安婦制度は必要ない」と強調し、共産党の市田忠義書記局長は「戦慄(せんりつ)を覚えた。市長や党首の資格はない」と語った。 
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   あきれた。 「慰安婦」は必要だと「誰だって」思っただろうか?
   水木しげる氏の戦争を扱った漫画に、水木しげる氏が南方のニューギニアの方面に戦争で行った時、朝鮮人の「慰安婦」がいた話がでていた。 残念ながら、その漫画の題名を忘れてしまったが、何人もの兵隊の相手をひとりの女がしていて、水木氏も「おまえも行って来い」と言われたものの、見ると、何十人と行列をしており、たとえ並んだとしても、自分の番が回って来るのかどうかもわからず、並ぶ気もしなかったという。 その時、その「慰安婦」がいた建物を見ていると、ちょうど、「慰安婦」がトイレにでも行くのを見かけたという。 その姿を見た時、もし、この世に「生き地獄」というものがあるならば、こういうものを言うのではないかと思ったという。 兵隊の方だって、死にに行かされているのだから、兵隊だって「生き地獄」であったわけだが、そうはいっても、その時の「慰安婦」の姿を見ると、やはり、「慰安婦」の方が、より「生き地獄」であるように思えた。 そのうち、戦争が終わる直前、兵隊よりも先に「慰安婦」を帰らせてあげることになったと聞き、「日本の軍人も鬼ばかりではなかったんだ」と水木氏はほっとする気持ちになったが、その「慰安婦」を乗せた船が敵の攻撃を受けて撃沈されたと聞いたという。その哀しい「慰安婦」の姿を思い浮かべ、それを考えると、日本は、「慰安婦」の問題については、謝罪もするべきであるし、補償もするべきであると思うと述べておられたように思う。  もっとも、「慰安婦」と兵隊とどちらがより「生き地獄」かという問題については、夕方の5時頃、「慰安婦」が「もう、きょうはこれで終わりにしてちょうだい。もう、体が持たないわ。」と言うと、兵隊が、「いいじゃないか。おまえら、もうすぐ、帰らせてもらえるのだろう。俺たちは、もうすぐ、死なされるんだ。」と言う場面が、水木氏の別の漫画にあったので、どちらがより「生き地獄」かは、この点から考えるといちがいに言えないかもしれないが。
   私が、慶應義塾大学に言っていた時、ある教授が講義の中で言われた話であるが、戦争中、その教授がまだ若い頃、中国から帰って来た兵隊が、近所の若い者に話をしたのを聞いたが、その時、戦争で中国に行った時、中国人の村に行って、中国人の男と女を日本の軍隊のところにつれてきて、みんなの前で、「そこで、セックスしてみせろ」と言ってやらせた、ということをその中国から帰って来た兵隊が話したそうな。 それで、それまで、「綱紀厳しき皇軍が」と言われ、日本の軍隊というものは規律正しいものだと思っていたのに、その日本の軍隊が中国でそんなことをやっているのかと、びっくりした、という話をされたことがあった。「慰安婦」がいても、日本の軍隊はそんなことをやっていたのである。
   私の父は、戦争中、「満州」に行ったことがあったそうで、よく、「軍隊で鍛えられた」「満州で苦労した」と私などに言っていた。 私はそう聞かされて、それで、特に、「満州で苦労した」というのは、映画『二百三高地』に出てくる日露戦争の時の「旅順要塞の攻防」みたいなことを毎日、毎日、「海は死にま~すか、山は死にま~すか、愛はどうで~すか♪」とか言いながらやっていたのかと思い、そりゃあ、たいへんだっただろうなあ~あ・・・と思ったのです。しかし、よく考えて見ると、父が「満洲」に行った時というのは、別に、「二百三高地」やっていたわけでもなかったはずなのです。 むしろ、日本人は「満洲」では有利な立場の時であり、10年ほど前、8月15日の「終戦記念日」に野坂昭如がテレビで、「戦争中、『満洲は日本の生命線だ』と言われ、軍人であれ民間人であれ、満洲に行っている人には、日本国内にいる人間よりも、食べる物も着る物もいいものが供給された。 それが、戦争が終わる時には、満洲にいた関東軍を沖縄に移動させ、それまで、強いものといえば『関東軍』、こわいもの、無茶苦茶するものといえば『関東軍』、『鬼より強い関東軍』『鬼より怖い関東軍』と言われた関東軍が、戦争の終わりの頃、ソ連軍がソ連と満洲の国境から満洲に攻めてくるという時には、もう、装備にしても兵員にしても、そこには関東軍の精鋭はいなかった。・・・・」といった話をしていたが、「終戦」の時に「満洲」にいた民間人の人は、引きあげるのに大変な思いをされただろうけれども、それよりも前に「満洲」に行っていて、比較的早くに国内に戻って来た者は、「満洲」ではそんなに悪い思いはしていなかったのではないか、ということに気づいたのです。どうも、あのおっさんが言った「軍隊で鍛えられた」とか「満洲で苦労した」とかいう話は胡散臭かったのではないかと気づいたのです。
   在来木造の I 社にいた時、同僚だったおっさんが言うには、そのおっさんのお父さんも戦争中、「満洲」に行ったそうであるが、そのお父さんは、私の父よりも正直だったのか、「満洲に行っておもしろかった」などと言われたそうだ。 どこが面白かったかというと、「戦争中」とはいっても、その時、「満洲」で実際に敵と戦っていたわけではなく、日本よりはるかに広い満洲の広野で、毎日、「戦車をゴーカートみたいに走らせて遊んでいた」のであり、簡単に海外旅行になんか行けない時代に、国からお金を出してもらって海外に行かせてもらった上で、毎日、毎日、戦車という超豪華なゴーカートを走らせて遊んでいたのだから、「こんないいことない」思いをした・・・・というのだ。 この話もまるまるそのまま信じていいのかどうかはわからないが、たしかに、「満洲」は、冬の寒さは半端ではなく、父が言うには、外で小便などしようものなら、地面につくかつかないかのうちに凍るそうで、その寒さには「苦労した」だろうけれども、まあ、しかし、戦中世代の人間が言う「満洲で苦労した」という話は、マユにつばをつけて聞いた方がいいかもしれないと思うようになった。
※映画『二百三高地』と「海は死にますか、山は死にますか♪」を知らない方は、
⇒《YouTube―映画「二百三高地」劇場予告》 http://www.youtube.com/watch?v=UdTze_0gXb4
   それで、その「軍隊で鍛えられた」「満洲で苦労した」という言葉は、私の父のような戦中世代の人がよく口にする文句で、ともかく、話をするには、ぜんぜん関係のないことを話す時でも、「わしらは軍隊で鍛えられた」「わしは満洲で苦労した」と、ひとくさり言わないと何も話ができない世代、逆らうとうるさい世代だから、「満洲で苦労した」「最近の若い者と違って、軍隊で鍛えられた」とかなんとか言いだした時には、「はい、はい、はい、はい、はい、は~い。」と言っておかないと、逆らうとうるさいから、反論しちゃだめな世代・・・・とその世代を父親に持つ者の多くが思うものでした・・・・が、その私の父が「満洲」に行った時も、朝鮮人の「慰安婦」がいたそうです。そして、「おまえも行って来い」と上官から、水木さんのように言われたそうですが、倫理的な気持からどうというよりも、どこのどういう人間かもわからない相手で、むしろ、気持ち悪いような印象を受けて、「やりにいく」気持になれなかったそうです。 「学徒動員」ということで行った時のはずで、まだ、20歳前後の頃の若い時であったこともあったでしょうけれども、上に述べた慶應義塾大学の教授が話された話のように、中国人の村に行って、性的に相当に悪いことをする日本兵がいたことを聞いたようで、「えらいことをしおる。」とその話を聞いてびっくりした、と父は日本に帰ってから母に話していたそうです。 父は特別に倫理的な人間でも何でもなかったと思いますが、それでも、聞いて「えらいことをしおる」とびっくりするようなことを日本の兵隊は中国でやっていたようです。 そして、「慰安婦」がいたから、「慰安婦」でない女性には性的に問題のあることを兵隊はしなかったかというと、そうではなかったようなのです。
 
   橋下は、「人間である以上、特に、男性は、性的欲求というものは抑えることのできないものであるのは当然で、誰もがそう思うこと」というようなことを、話していたようですが、愚かだと思います。
   売春など、性風俗産業にはまるというのは、性の退廃化であるとともに、性における疎外であるといえるでしょう。 なぜ、性風俗産業や性犯罪が存在するようになるのか、というと、その社会で、すべての男性、すべての女性が、疎外されない男女関係を構築・獲得することができていないからでしょう。
   川島武宜『結婚』(1954.5.20.岩波新書)より引用します。
≪  元来、男女の社会的隔離は必ずしも家父長制(特に封建制の)所産であるとはかぎらず、家父長制のきわめてよわい未開社会においても存在するが、わが国では封建制の時代に、その道徳思想或いは価値観念の影響の下に、特に家父長制の組織の中に再編成され教化されて、今日に至っているのである。
   ・・・・
   結婚外=性関係について、男性には二つの社会圏が区別される。第一の社会圏は、結婚に至る可能性をもたない相手(売笑婦・女中など)に対する関係で、第二の社会圏は結婚に至る可能性のある相手(彼らと同等もしくはほぼ同等の社会階層に属する女性)に対する関係である。 第二の社会圏においては強い程度の禁止が支配する。そうして、このことが彼らの行動の「礼儀正しさ」の一構成要素となる。これに反し第一の社会圏のおいては、少なくとも寛容(放任)が支配し、また時には、「過ち」を犯さないように――すなわち、第二の生活圏での禁止を破ることのないように――するための防止手段として、或は社交のための一種の訓練という教育的手段として、親によって奨励されることも決して稀ではない。 わが国で、売笑性度が公に許されまたしばしば政府によって保護されたという事実は、それがこのように家族制度と男女の社会的隔離との必要的補償物であった、という機能的関係にも基づいている。  右の原則は、結婚前の社会的接触についてであるが、結婚後においても同じ原則が支配し、またしばしば花柳界における浪費や、妾を所有することは、彼らの仲間における「かお」prestige を彼らに与える。 ≫
   男性も女性も疎外されることのない男女関係を構築できる社会が実現するならば、その度合いに応じて、性風俗産業は必要とされる度合いが低下していくと思われます。 また、人間のあり方として、性的退廃に陥った状態は、決して、橋下が言うような「誰であれ当然の欲求」などというものではなく、「非本来的な状態」であると考えるべきではないでしょうか。

   セーレン=キルケゴールは『死にいたる病』(桝田啓三郎訳 『世界の名著 キルケゴール』1979.7.20.中公バックス 所収)の「第一編 死にいたる病とは絶望のことである」の冒頭において、
≪ A 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。
絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合〔非本来的な絶望〕。
絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。
絶望して、自己自身であろうと欲する場合。 ≫
と述べている。 そして、「序」において、
≪  絶望は、この書物全体を通じて、病として理解されていて、薬として理解されてはいないということを、わたしはここで、きっぱり注意しておきたい。・・・≫と述べている。
   売春その他の性風俗産業にはまった状態というのは、いわば、キルケゴールが言うところの「絶望」の状態、なかでも、橋下のような「人間である以上、特に、男性である以上、性的欲求というものは抑えることのできないものであって・・・・」うんぬんと言って、売春や「慰安婦」を必要であると考えるのが当然だなどと主張する状態というのは、「絶望して、自己自身であろうと欲しない場合」に該当するものと思われる。

   そして、「一般の女性を守るために、売春婦は必要」という主張をする人というのは、哀しい精神の病に陥っていると考えるべきではないかと思います。
≪  あなた方はどう思うか。 ある人に羊が百匹あって、その一匹が道に迷ったら、九十九匹を山に置いたまま迷ったのを探しに行かないか。 そしてそれが見つかったら、わたしはいう、この一匹のほうが迷わなかった九十九匹よりうれしい。 そのように、これら小さいもののひとりが滅びるのは、あなた方の天の父のみ心ではない。≫(『新約聖書 マタイ福音書』18章12節‐14節 前田護郎訳 〔『新約聖書』前田護郎訳 1983.12.10.中央公論社〕)
≪ 取税人や罪びとが皆彼の近くに集まって耳傾けようとしていた。 しかしパリサイ人と学者らはつぶやいた。「この人は罪びとを迎えて食事を共にする」と。 そこで彼らにこの譬をいわれた、「あなた方のだれかが羊を百匹持っていて、その一匹を失ったとき、九十九匹を荒野に置いて、その一匹を見つけるまで探し歩かないか。見つけると、よろこんで肩にのせ、家に帰って友だちや隣びとを呼び集めていおう、『いっしょにおよろこびください。失われた羊を見つけましたから』と。わたしはいう、このように、ひとりの罪びとが悔い改めると、悔い改めなくてもよい九十九人の正しい人にまさって天によろこびがあろう。≫(『新約聖書 ルカ福音書』15章1節‐7節 前田護郎訳 〔『新約聖書』前田護郎訳 1983.12.10.中央公論社〕
  99人を守るためなら1人が犠牲になったとしてもよいというのだろうか。 99匹の羊が牧場にいるならば、1匹はどこかへ行ってしまったとしてもよいだろうか。 そうではなく、いなくなってしまった1匹の羊を探し求め、牧場にいる99匹をそこに残して1匹を探しに行くというのが、神の姿勢であろう。 神ならぬ私たちは、神と同じことはできないであろうけれども、99匹が無事であるならば、99匹が無事であるようにするためならば、1匹が無事でなくなってもやむをえない、という考え方は、物事の考え方として間違っているのではないのか。

   ある意味において、売春や性風俗産業は、宗教と似た面がある。 カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(城塚登訳 岩波文庫)の、有名な一節、
≪  宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
   民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。
   批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖をになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実の太陽を中心として動くためである。・・・≫
なお、「それ(宗教)は、民衆の阿片である」という表現が誤解されてきたところがあるが、蔵原惟人氏はその点について、
≪ ・・・マルクスがここ(『ヘーゲル法哲学批判序説』)で言っている意味は、宗教が悩めるもののなぐさめであるということで、かならずしもそれが毒薬であるということを言おうとしているのではないということ、・・・≫
(蔵原惟人「宗教にかんする二、三の問題 一「宗教は阿片である」ということ」 〔蔵原惟人『宗教・その起原と役割』1978,5.25.新日本出版社 新日本新書 所収〕)と述べている。
   キリスト教のような宗教が、抑圧的な社会における抑圧された民衆のなぐさめである場合、もしも、抑圧的な社会でなくなったならば、それまでに必要とされた「なぐさめ」としての宗教は必要なくなる可能性がある。 但し、抑圧的でない社会が実現できたならば、抑圧的な社会において必要とされた「なぐさめ」としての宗教は必要なくなるとしても、それまでの「なぐさめ」としてのものとは異なる、それまでとは異なったあり方としての宗教はその後も存在することになるかもしれない。より本来的な宗教が実現されるという可能性も考えられる。
   売春や性風俗産業を求める人たち(特に男性)の多くは、性的に疎外されている場合が多いと思う。 もしも、性的に疎外されない社会が実現できて、多くの人間(特に、男性)が性的に疎外されないようになるならば、≪夢も慰めもない鎖をになう≫のではなく、≪むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘む≫ことができるならば、≪慰め≫としての売春や性風俗産業は必要なくなっていく、少なくとも、量的に減っていくことが考えられると思う。
   政治家は、「保守」の政治家であれ「革新」の政治家であれ、こういったことを考えるべきである。そして、誰もが≪慰め≫としての売春や性風俗産業を求めることなく、≪活きた花を摘む≫ことができる疎外されない男女関係を構築できる社会を建設するべく努力するべきである。 それを求めず、「人間であれば、特に、男性であれば、性的に欲求するのは当然のこと・・・・」だのなんだのと言っている橋下徹は、政治家として「絶望」の状態、「絶望して、自己自身であろうと欲しない」状態に陥っていると言わざるをえない。

   橋下は、「男性である以上、誰であっても・・・・」などと言っていたようであるが、それに対しての私の返答は次の通りである。
   「おまえと一緒にするな!」

   そして、もうひとつ。 この時、この場で、こういうことを言うと、得するか損するか、ということくらい考えられないのか、ここでこういうことを言うとまずいぞとか考えないのか・・・・とも思うのであるが、それでも、口にしなければおれない、というあたりが、石原慎太郎と同様の病的暴言大好き人間・橋下徹の特徴なのだろう。 大阪市民・大阪府民は、もう、次の選挙では、こんなアホに投票しないでほしい。 こんなアホを市長だの知事だのに選ぶのは、大阪の恥だと思うぞ。 そう思いませんか?

   (2013.5.18.)
  
☆ 次回 (http://tetsukenrumba.at.webry.info/201305/article_3.html )、アメリカ合衆国さんの橋下や「維新の会」の連中への認識について述べます。 御覧下さいませ。

   アドルノらによる『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)は名作です。 橋下は自分で気づいていないのではないかと思いますが、「なぐさめが必要」だとして異性をそういう性質の存在として考えるあたり、そのこと自体が、すでに、ファシズム的性向(≒ 権威主義的パーソナリティー ≒ サドマゾ的人格)の傾向を幾分なりとも示していると考えるべきだと思います。 なにかと「独裁」と口にしたがるところなどを見ても、豊かな人間性を感じることができません。 (2013.8.9.)


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