カント と ソクラテス から考える橋下徹・中原徹の 君が代礼拝式の愚劣さ―高神『般若心経講義』再読。

[第126回]
   今はむかし。 1970年代後半のこと。 北野高校の2年の時、「倫理社会」の先生が、「夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、プラトンの『ソクラテスの弁明』、ドストエフスキーの『罪と罰』・・・、こういった本も読んだことのない高校生というのは高校生として欠陥があるのと違うかと思いますねえ。ぜひとも読んでもらいたい。こういう本を読んでおくというのは、大学に受かるかどうかよりもよっぽど大事だと思うわ。」と言われた。 ふ~む、ふむ、なるほど~お・・・・と思ったが、しかし、「大学に受かるかどうかよりもよっぽど大事」かというと、それはちょっと、どうかな・・・とも思う。
   というか、さっさと合格・入学して読めば良いのではないのかという考え方もある。が、高校までに、こういったものをある程度読んできた者なら、大学に入ってから時間があれば、さらに読むだろうが、高校までに読まない者が大学に入ってから読むかというと読まないと思うのだ。 だから、別に、『人生論ノート』なり『こころ』なりを1冊、2冊読んだからといって、それで、英語や数学の勉強の時間がなくなって大学に落ちるというものでもないけれども、しかし、目指す大学の学部に合格するためということなら、「試験にでる」部分を「出る順」に勉強した方が合格できる可能性は高くなるのであり、「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか♪」とやってるよりも、英語の単語のひとつでもふたつでも覚えた方が1%でも2%でも合格可能性は高まるであろうが、しかし、大学の入試に合格するかどうかよりも大事とまで言ってしまっては良心的ではないと思うが、『こころ』『人間失格』『ソクラテスの弁明』『罪と罰』・・・は、そう言いたいくらい読んでおいてもらいたい、というなら間違いではないと思う。
※「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか♪」を知らない方は、
⇒「YouTube―suntory gold akiyuki nosaka 」 http://www.youtube.com/watch?v=uopVGKgd3n8
   もっとも、ドストエフスキーの『罪と罰』については、「進歩派」的雰囲気を持つ人がしばしば「愛読書」にあげる本ではあるのだが、私が読んだ感想としては、そこまで名作かなあ、という気もする。 読み進めると、たぶん、少なくない人が思うと思うのだ。「この作者は、なぜ、ここまで長ったらしく書かないと気がすまないのだろう。もっと、ゴーリキーの『どん底』くらいの長さに書けないものだろうか。」といったことを思うのだ。実際、ドストエフスキーは「長文書き」と言われ、「長文」と「大作」の意味は同じではなく、「長文書き」という評価は必ずしもほめことばではないようだ。 そして、一番の問題は、この作品は、どう考えても、竜頭蛇尾だと思う。 ドストエフスキーは、最後の結末のつけかたに困って、そして、クリスチャンである妻の助言を取り入れてまとめたとかいうが、無理にまとめてしまわない方がよかったのではないか、「エピローグ」の部分がよけいだと思うのだ。実際、ソ連映画の『罪と罰』では最後の部分を省いて作られているが、もう少し前、スビドリガイロフが自殺したところで終わらせてもよかったのではないかとも思う。 J=P=サルトルの『自由への道』(人文書院。 現在は、岩波文庫から出版されている。)は、サルトルは途中で執筆を中止し、結局、未完成に終わったが、小説の構成としては失敗作である面もあるが、あえて、無理に完成させようとしなかったからこそ、示唆に富む作品となっている。 無理に結末をつけなかったJ=P=サルトルの『自由への道』に対して、無理矢理結末をつけてしまったという点でドストエフスキーの『罪と罰』は、なんか、納得がいかない印象を読後に受ける作品になっているように思う。

   夏目漱石は『私の個人主義』(夏目漱石『私の個人主義』(講談社学術文庫 所収)で、
≪  私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。 その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちているといって叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生まれて何年に死んだとか、シェイクスピアのフォリオは幾通りあるとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。
   歳の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでしょう、果たしてこれが英文学かどうだかいう事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これでは到底解るはずがありません。それなら自力でそれを窮め得るかというと、まあ盲目の垣覗きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛かりがないのです。・・・・≫
   夏目漱石は、『三四郎』(角川文庫 他)にも、
≪ すると与次郎が突然立った。
「ダーターフェブラ、シェイクスピアの使った字数(じかず)が何万字だの、イプセンの白髪の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。 もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。第一幅がきかない。・・・・・」 ≫ と書いている。
   私が高校生の頃、大学入試で社会科は、「世界史」と「日本史」の2科目か、1科目の場合はそのどちらかを選択というのが北野高校では普通であった。 共通1次試験(→共通テスト→センター試験)が実施される前は、東大は、東大で1次と2次の試験をおこなっていて、東大1次の社会科は2科目の選択のしかたで、「地理A(系統地理)」と「地理B(地誌)」を選ぶことができ、同じ中学から灘高校に行った者に聞くと、東大の理科1類に進んだ彼は、「地理A」と「地理B」で受けると言っていたので、全科目に力を入れて、全科目総合点主義の京大(及び、阪大)志向の北野高校と仮想受験校・東京大学の灘高校との違いを感じた。 全科目総合点主義の京大(及び、阪大)をめざすなら北野で悪いことはまったくなかったが、東大をめざすなら、理科1~3類を目指す者は、東大1次の社会科は1.5科目分の学習で2科目扱いにできる「地理A」「地理B」の選択を考える灘高校は東大合格者数が多いだけあって、考えていると思った。 もっとも、たとえ文科ではなく理科(1~3類)に進学する者であっても、東大1次の社会科の試験を「地理A]「地理B」の選択ですますことができるからといって、高校での「世界史」「日本史」の学習を軽視していいのだろうか、とも思ったのだが、それは、京大型思考・京大進学者型思考(≒当時の北野高校型思考)なのかもしれない。
   共通1次試験(→共通テスト→センター試験)が実施されるようになり、それまでは、社会科は「世界史」「日本史」なら、たいていの大学で選択可能だが、「倫理社会」は選択できる大学が少なかったので試験科目として選択する人が少なかったのが、共通1次試験では選択できるようになり、特に、工学部・理学部などを受ける人には「倫理社会」を選択する人が多くなったらしい。 なぜか、というと、高校のある数学の先生が言った文句、「教科書の厚さを考えてみ。 世界史・日本史の教科書と倫理社会の教科書の厚さを比べれば、わかるだろう。」という説らしい。 
   しかし、「倫理社会」とは、プラトンの『ソクラテスの弁明』であるとか、漱石の『こころ』であるとかをじっくりと読んで、その意味をよく考えて・・・というものこそ、本来、「倫理社会」で学ぶべきものである、としても、その学習をしても、共通1次試験(→共通テスト→センター試験)のマークシート式・○を鉛筆で塗りつぶす式試験ではあまり効果はなく、考えることよりも、むしろ、≪シェイクスピアの使った字数(じかず)が何万字だの、イプセンの白髪の数が何千本だの≫の類を覚えた方が試験での獲得点数アップにはつながりそうだ。
   しかし、そうはいっても、 「夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、プラトンの『ソクラテスの弁明、』ドストエフスキーの『罪と罰』・・・」といったものばかり読んで入試に落ちたとしても、読めといった先生が責任取ってくれるわけでもないので、ほどほどにせざるをえないところもあるが、しかし、そういうものを1冊も読んだことのないような人間が、東大に通ったとしても、はたして、それでいいのだろうか? とも思う。 

   その「倫理社会」の先生が読むように言われて読んだ本に、高神覚昇(たかがみかくしょう)『般若心経講義』(角川文庫)がある。著者は元・大正大学教授だそうで、「なんか、坊さんが、ぐじゃぐじゃ言ってるだけ」みたいな部分もあるけれども、なるほどと思えるところもある。そして、高校までに学んでおくべきであろうと思われる部分もある。 それを2箇所引用する。
≪  仏教では一口に、智慧と申しましても、これに三種あるといっております。 聞慧(もんえ)思慧(しえ)習慧(しゅうえ)との三慧がそれです。 すなわち第一に聞慧というのは、耳から聞いた智慧です。・・・・ 次に思慧とは、思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。思索して得た智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。 思索して得た智慧です。 
すでにいったごとく、 カントは、教えている学生に向って、つねに哲学することの必要を叫びました。
「諸君は哲学を学ぶより、哲学することを学べ。私は諸君に哲学を教えんとするのではない。哲学することを教えるのだ」といったと、伝えられております 、
そのいわゆる哲学することによって得た智慧が、この思慧に当たると思います。 だから思慧は哲学の領分です。 次に習慧とは、実践によって把握せられた智慧です。・・・・≫
≪  その昔、ソクラテスがアテネの町の十字街頭に立って、まっ昼間、ランプをつけて、何かしきりに探しものをしていました。 傍を通った門人が、
「先生、何を探しているんですか。何か落としものでも?」
と、尋ねたのです。ソクラテスは門人にいいました。
「人をさがしているのじゃ」
「人って、そこらあたりをたくさん通っているじゃアありませんか」
と再ねて(かさねて)訊ねますと、哲人は平然と、
「ありゃ皆人じゃない」といい放ったという話ですが、真偽はともかく、ソクラテスとしてはありそうな話です。 ほんとうに「人多き人の中にも人ぞなき」です。
・・・・≫

   高校の先生の中に、「大学はどこでも一緒や」とかいう人があった。 というより、私が高校の3年の時の担任の教諭がそういうことをしばしば口にしていたのだ。 これが正しいか間違っているかというと、私は、これは、正しいか間違っているかよりも、
ズルイ! と思うのだ。
   どこがズルイ!かというと、「どこの大学に行ったかでひとの値打ちが決まるのではない」 とか、「大学はどこに行ったかではなく、そこで何をどれだけ学んだかが大事だ」とかいった、たいていの人間が否定しない一般的な言葉の中に、自分勝手な特殊な意味をまぎれこませているからだ。
   たしかに、「どこの大学に行ったかでひとの値打ちが決まるのではない」というのは間違いではないであろう。 しかし、だ。 「試験に出る」部分を「出る順」に学習する、という、いわば、「I D野球式学習法」 を取れば、東京大学とか京都大学とかに合格できる可能性がある人間に、試験にでないようなものばっかり大量に勉強させて、関関同立(関学・関大・同志社・立命)くらいに行かせて、「よかったじゃないか。大学はどこでも一緒や。」とかのたまうのが良心的だろうか? わたしは、それはちょっと違うと思うぞ。
   それで、その先生が、なぜ、「大学はどこでも一緒や」とかなんとかかんとか、くちゃくちゃぐちゃぐちゃぬっちゃりこんぬっちゃりこんと言い続けたかというと、結論を言うと、大学入試の指導をする能力がなかったからでしょう。 私は気づいたのです。 私が高校の1年の時に新任された数学の男性教諭には、校長先生が「○○先生は、本校・北野高校を卒業後、大阪大学の理学部数学科に行かれ、この3月に大阪大学の大学院修士課程を修了され、母校の数学の教師として赴任いただくことになりました。」と紹介された。 同じ時に大手前高校から転任された化学の女性教諭には「◇◇先生は、奈良女子大学の化学科を卒業され、長く大手前高校で勤務されてきましたが、今年より本校に来ていただくことになりました。」と、3年の時に新任された英語の女性教諭には「□□先生は本校を卒業され、大阪外大の英語科に行かれ、この春、卒業され、母校の英語の教員として勤務していただくことになりました」という紹介があったのだ。 それに対して、その日本史の先生には、「○○先生は、大手前高校で日本史を教えてこられましたが、今年から北野高校に来ていただくことになりました」というだけだった。 他の先生と違って、卒業した大学の名前がなかったことに気づいたのだ。 
   「高校は大学に進学するためにだけあるのではない」というのは、まったくその通りだと思う。 しかし、「試験に出る」部分を「出る順」に学習すれば、東大なり京大なりに合格できる可能性のある者に、関関同立くらいに行かせて、「大学はどこでも一緒や。 よかったじゃないか。」とかいうのが、「よかった」だろうか。 それはちょっと違うように思う。 大学は行きたいと思ったところにさっさとすんなりと合格出来た方がいいか出来なかった方がいいかというと、さっさとすんなり合格できた方がいいに決まっている。 しかし、「さっさとすんなり」合格した人には、なぜ合格することができたのか、どうしたから合格できたのか、ということがあまりわかっていないうちに合格してしまったような感じの人もいる。 だから、受験の指導をする場合に、「さっさとすんなり合格した人」とローニンした者・ローニンしても落ちてしまった者とどちらが指導する能力があるかというと、どちらがいいとはいちがいに言えないと思う。 しかし、経験のない人には受験の指導はできないのだと思う。 できないから「大学はどこでも一緒や」とか「序列主義というのは・・・」とかなんじゃらかんじゃらくちゃくちゃぐちゃぐちゃねったりこんねったりこんと言いまくるのだと思う。

   「どの大学に言ったか、どの大学を出たか、でひとの値打ちが決まるのではない」というのは、たしかにそうだと思うが、そうであっても、せっかく一生懸命勉強している生徒には、できるかぎり、行きたいと思うところに行かせてあげたいものだ。 「行きたいところ」に行けなかったとしても、「納得することができるところ」に行かせてあげたいと思う。言い訳みたいに「大学はどこでも一緒や」とか言うのがいいとは思わない。
   しかし、その一方で、もしも、東大なり京大なりに合格できたとすれば、高校までに学ぶべきものが身についていなかったとしてもいいのか、というと、それもいいとは思わない。
   私が、慶應義塾大学に在籍していた時、たしか、大阪教育大付属池田高校卒の男と話していた時だったと思うのだが、オペラの話をしていた。 プッチーニのオペラ『トスカ』の話をしていたような気がする。 すると、横にいた開成高校出身の男が口出したのだ。「そんなもの、何の価値があるんだ。」と・・・・。 かわいそうなやつだなあ、と思った。 オペラ『トスカ』の良さ、アリア「星は光りぬ」の良さをわからないやつ。 なぜ、彼が「そんなもの、何の価値があるんだ」と言うかというと、「試験に出ないから」らしい。 開成高校では「大学入試の試験にでないものは何の価値もない」と強烈に観念的に教え込んできたらしい。 だから、開成高校の出身者には、東大に合格した人間にも、慶應あたりに行く「落ちこぼれ」にも、オペラ『トスカ』などを「そんなもの、何の価値があるんだ。」と口にする者が多い。 そして、音楽とは、どういう音楽を知っているか、歌とはどういう歌を知っているかというと、「恋かな~っ、イェイ。恋じゃな~い。イエ~イ♪」しか知らないのだ。それが音楽でそれが歌だと思っているのだ。 (「恋かな~っ、イェイ。恋じゃな~い。イエ~イ♪」というのは、むかし、早見優がそんな歌詞の歌を歌っていたはずだ。⇒《YouTube-早見優 夏色のナンシー》https://www.youtube.com/watch?v=HvMXNEAX-wQ ) そして、同じように、横から、「そんなもの、何の価値があるんだ。」と口出す人間に、慶應義塾高校卒の者がいた。 但し、開成高校出身者が「そんなもの、何の価値があるんだ。」と言うのは「大学入試の試験にでないから」であるのに対して、慶應義塾高校出身者が「そんなもの、何の価値があるんだ」と言うのは「そんなものは受験勉強だ。何の価値もあるもんか!」と言うのである。慶應義塾高校出身の学生とか教授というのは、自分が知らないものわからないものは入学試験にはまず出ないものでも「受験勉強」で「悪影響」だと無理矢理決めつけてしまうのです。 「入学試験にでない」ものは、入学試験終了後においても、「何の価値があるんだ」と考える人と、自分が知らないものできないものは試験に出ようが出まいが何でも「そんなものは受験勉強だ。何の価値もあるもんか」と決めつける人がいて、結果として、オペラ『トスカ』は開成高校出身者からは「入学試験にでない」ゆえに「価値がない」と判定され、慶應義塾高校出身者からは「受験勉強だ」ゆえに「価値がない」と判定され、不思議なことに結論はいずれも「価値がない」と判定され、どちらの人間も、「恋かな~っ、いえい♪」の方が「価値がある」と思っとるようなのです。(特に、慶應義塾高校出身の教授というのは、「恋かな~っ、いえい♪」が「ガ~クモン」でオペラ『トスカ』は「受験勉強」で「悪影響」だと思っとるようです。)
  試験に出ようが出まいが価値があるものは価値があるし、ないものはないのだ。 「恋かな~っ、いぇい♪」が絶対に悪いとまで言わないが、シューベルトの『冬の旅』であるとかプッチーニの『トスカ』であるとかが本体としてあって、その上で、早見優があるなら別にいいけれども、「ゆりかごから墓場まで早見優しかない」人間、そんな歌しか歌・音楽を知らない人間で、なおかつ、そういう人間が世界一エライと思っている人間、あるいは、それが「福沢精神」だとか思っとる人間というのは、どの大学に通ろうが落ちようが、かわいそうな人だなあと思う。 もちろん、大学ですべてが決まるのではないのと同じく、高校ですべてが決まるのではなく、開成高校卒の人にも慶應義塾高校卒の人にもいろいろな人がいると思うし、あまり決めつけすぎるのも良くないと思うが、私が出会った人には、この2つの高校の出身者にはこういうタイプの人が多かった。
※オペラ『トスカ』の「星は光りぬ」は
⇒「YouTube―プッチーニ トスカより星は光りぬ》https://www.youtube.com/watch?v=zm1qpe0iYH0
  「ニコニコ動画―プッチーニ 《トスカ》「星は光りぬ」ジュゼッペ・ディ・ステーファノ」 http://www.nicovideo.jp/watch/sm19302565

   ところで。 ≪哲学を学ぶより、哲学することを学べ。私は諸君に哲学を教えんとするのではない。哲学することを教えるのだ。≫という認識で学んできた者、学ぼうとする者なら、「君が代」などというものを、《強制的に》歌わせる、歌わせられるというのがまともか? ということ、「君が代」とはどういう性質の「歌」なのか、そもそも、「歌」というものは、それを好まない者にまで強制して歌わせるのは好ましいか好ましくないか、といったことを考えるのが普通だと思うのだ。 高校は卒業後に進学する者にとっては大学受験の為、就職する者にとっては就職の為のものという性質もあるが、その前に、大前提として、高校は学問するところであるはずである。学問とは≪シェイクスピアの使った字数(じかず)が何万字だの、イプセンの白髪の数が何千本だの≫を覚えることではなく、≪哲学を学ぶより、哲学すること≫、疑いなく信じさせられることではなく、自分自身で考えることであるはずだ。そうであるなら、「君が代」というものを、疑うことなく唱えさせられるのではなく、「君が代」というものはどういう性質のものなのか、それを唱えさせようとする動きはどういう性質を持つのかを考えるのが学問的態度であり、民主主義的態度であるはずだ。
  考えてみていただきたい。 ≪シェイクスピアの使った字数(じかず)が何万字だの、イプセンの白髪の数が何千本だの≫であっても、もしも、それが入学試験にでるならば、それがくだらないからなんとかかんとか・・・と言っているよりも、「試験に出る」なら覚えた方がいいだろう。しかし、価値があるのは、≪哲学を学ぶより、哲学すること≫であるはずである。 そして、社会にとって価値があるのも、「君が代」などというものを、《強制的に》歌わせる、歌わせられるというのがまともか? ということ、「君が代」とはどういう性質の「歌」なのか、そもそも、「歌」というものは、それを好まない者にまで強制して歌わせるのは好ましいか好ましくないか、といったことを考える人間の方であって、考えない人間の方ではないはずだ。
≪ われらは
バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
われらをとりこにした者が、
われらに歌を求めたからである
われらを苦しめる者が楽しみにしようと、
「われらにシオンの歌を一つ歌え」と言った。
われらは外国にあって、
どうして主の歌をうたえようか。
エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、
わが右の手を衰えさせてください。
もしわたしがあなたを思い出さないならば、
もしわたしがエルサレムを
わが最高の喜びとしないならば、
わが舌をあごにつかせてください。・・・≫
(「旧約聖書・詩編」第137編1節‐6節 〔日本聖書協会口語訳『聖書』〕)
と思い、野蛮人・中原徹らの「君が代」強制に抵抗するならば、教員は職場での扱いが悪くなる可能性がある。生徒はそこで軋轢が生じ、「受験勉強」にマイナスになることもあるかもしれない。
しかし、だからといって、「君が代」強制に何ら抵抗を感じない者がまともだろうか? 「君が代」強制に何ら抵抗を感じずに加担する者がまともだろうか? ソクラテスは「人をさがしているのじゃ」と言ったというが、「君が代」強制に何の抵抗も感じない者、何の抵抗も感じずに「君が代」強制に加担できる者というのは、「ありゃ皆人じゃない」のではないか。 何の抵抗も感じないような人間を、そんな人間を人間と言えるか?
   「太宰治の『人間失格』、これは、ぼくは『人間合格』だと思うわ。」と北野高校の「倫理社会」の先生が授業で言われたことがあった。 人間とはどういうものか、どうあってこそ人間といえるのか。 それで、人間といえるのか、と自分自身についてふりかえり、もしかして、「人間失格」でないのか、と考える経験のある者こそ、「人間合格」であり、何も考えずに、自分は人間であり、「人間失格」であるわけないではないかと勝手に決めつけている人間の方こそ、「人間失格」ではないか、ということを言われたのではないかと思う。
   平気で、「君が代」をひとに強制してやろうとするような者は「人間失格」だと思う。 少なくとも、それに疑問を感じることができてこそ「人間合格」であると思う。 
   府立和泉高校の「民間人校長」などというへんてこりんな「校長」になった橋下徹の友人だという中原徹という男なんぞ、「ぼくは、あんな男は、人間として欠陥があると思うわ。」と思う。
   「哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶ」「人間として生まれたから人間であるのではなく、人間とはどういうものかと自ら問いかけ、人間というに値する人間でありたいと考えた者が人間である」とするなら、橋下徹・中原徹らが強行する「君が代」強制式・「君が代」礼拝式にされてしまっている入学式・卒業式などというものは、人間を人間でなくする儀式、高校生と高校教員の頭を破壊する行事である、と言うことができると思う。

≪(森 毅)  宿舎に帰って、いま理学部長をしてる山口昌哉としゃべったら、彼は極端でね、おれは小学校以来、いまだかつて授業中にわかったことはないとかね。彼はわりかた鈍いと自慢しとる。本人は鈍いつもりでおるわけ。それで、彼の説は、「わかる」というのは自己の内面に関わることだから、あんな教室みたいなとこで、一方向的にわからせられたりしてたまるかという・・・(笑)。 ・・・≫
(斎藤 次郎・森 毅『元気が出る教育の話』(1982.6.25.中公新書)
   卒業式なり入学式なりにかこつけて、「君が代」なる思想を一方向的にわからせられたりしてたまるか。
       (2013.5.11.) 

≪  周利槃特(しゅりはんとく)という人の話です。・・・物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓名さえ忘れることがあったので、ついには名札を背中に貼っておいたということです。・・・
ある日のこと、祇園精舎の門前に、彼はひとりでションボリと立っていました。それを眺められた釈尊は、静かに彼の許へ足を運ばれて、
「おまえはそこで何をしているのか」
と訊ねられました。この時、周利槃特(しゅりはんとく)は答えまして、
「世尊よ、私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子たることはできません」
この時、釈尊の彼にいわれたことこそ、実に意味ふかいものがあります。
「愚者でありながら、自分(おのれ)が愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だから、おまえは真の愚者ではない」・・・ ≫
(高神覚昇『般若心経講義』角川文庫)
   「君が代」を人に強制しようとする行為が愚かであることを理解できない人というのは、≪自分(おのれ)が愚者たることを知らぬ≫≪ほんとうの愚者≫であろう。 中原徹などというそのような≪本当の愚者≫を、教員資格も経験もないのに、わざわざ、「民間人校長」などといって「校長」にならせようという者も、愚かです。 「“民間人”校長」などという呼び名が、もとより、まやかしです。
      (2013.5.13.)


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