なぜ「高校英語」「受験英語」でなくTOEFL?~中原徹は大学受験の経験ないの? 特高と学ぶTOEFL

〔第93回〕 「特高警察と学ぶTOEFL講座」って価値があるだろうか? わが子をそういう講座に参加させたいか?
【 1 】   卒業式における「君が代」礼拝の強制に対し、教員が起立の強制に従っているかだけでなく、「君が代」を歌っているかどうか口元を調べて回るという、そこまでやった大阪府立和泉高校(大阪府岸和田市土生町1丁目2番1号)の「民間人校長」(大学で教職課程を履修したこともなく、教職免許も持たない男で、大阪府出身でもなく、大阪府の高校卒業でもないらしいにもかかわらず、この男よりも年長の教員も何人もいるはずであるが、おかまいなしに、なぜか、橋下徹の知人ということで「校長」になったらしい、裏口入学か縁故入社みたいな奇妙な「校長」)が、和泉高校で、≪TOEFL対策の「英語超人」という授業≫を新設し、≪授業時間外に自ら英語を教えている≫らしい。

「ウィキペディア―民間人校長」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%96%93%E4%BA%BA%E6%A0%A1%E9%95%B7  に、≪中原徹  授業時間外に自ら英語を教えている他、TOEFL対策の「英語超人」という授業を新設。≫
と書かれている。 又、中原徹は、自身のブログhttp://ameblo.jp/nakahara-toru/entry-10782129251.html に下記↓のように書いている。
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「最年少校長 中原徹のブログ」 なぜTOEICでなくTOEFL?
2011-01-28 08:36:12   http://ameblo.jp/nakahara-toru/entry-10782129251.html
テーマ:ブログ
和泉高校の女子生徒さんから表題のような質問を頂戴しました。
僕は昨年4月に校長として就任しましたが、入学時にはすでにTOEFLを授業でやりたいとの考えを持ち、その3か月後の7月には授業化することを学校として決定しました。
校長として就任する前、つまりちょうど一年前ころには、どのような英語教育が日本の英語教育に革新をもたらすのか、色々な教材や試験などを見て自分なりに考えました。
勿論、TOEICもいいなと思いました。日本の多くの会社が採用や昇進にTOEICを用いています。
しかし、僕はやぱっり高校生にはTOEFLだと結論づけました。TOEICは、TOEFLをしっかり学んだ後であれば、就職前の数か月でいつでも高得点を取れます。
TOEFLは、読・聴・書・話の4技能が試されますし、分厚い語彙力が試されます。TOEFLとTOEICを両方受験した人に話を聞くと皆、TOEFLの方が明らかに難しく、TOEICは短期間で点数を取れる、といいます。実際に、大手外資系の採用担当者に話を聞いたところ、「TOEICで仮に900点をとっていても、英語が話せない日本人が多いので、TOEICをそのまま当てはめるわけにはいかない」との回答も得られました。
TOEFLは、書・話という技能が必要なので、ある程度書いたり、話すこともできるようになります。そして、何よりも大きいのは、留学の切符が手に入ることです。一旦日本の大学に入学するにしても、人生のどこかで、1年でも2年でも3年でも、外国の大学・大学院で学ぶことにより、異文化にも触れて人間的にも幅が広がりますし、英語力も格段に上がります。日本の大学で、在学しながらぐんぐん英語力が上がる(英語を使いこなせるようになる)大学は数えるほどですので。
さらに、TOEFLは、日本の受験勉強よりもタフであり、内容的に日本の受験勉強を包含します。
従い、例えば、高校3年生の秋までTOEFLだけを学び、高得点を取った生徒は、日本の大学を受験するにしても、残りの数か月を希望の大学の傾向と対策にあてれば、どの大学でも(英語に関しては)問題なく対応できると思っています。TOEICではこうはいきません。
つまり、①書く・話す技能が鍛えられる、②海外に留学するチャンスが与えられる、③日本の受験勉強
を包含する、という3点で、僕はTOEFL授業=「英語超人」を設立しました。
女子生徒さんの質問の答えになっていれば幸いです。
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   ≪なぜTOEICでなくTOEFL?  和泉高校の女子生徒さんから表題のような質問を頂戴しました。≫≪女子生徒さんの質問の答えになっていれば幸いです。≫と中原は書いていますが、実際には中原自身が「質問」を作って回答を作成している可能性が高いと思われます。 ≪和泉高校の女子生徒さんから表題のような質問を頂戴しました≫なんて、ナマ言いやがって、て感じですが、≪TOEFL対策の「英語超人」という授業を新設≫したことについて、TOEIC ではなく TOEFL にした理由は何かという点について述べて悪いことはありません。
   それより、問題は「なぜ、高校英語ではなくTOEFL?」 「なぜ、大学受験の英語ではなくTOEFL?」という点です。 先に結論の方を言ってしまうと、中原 徹 というこの男、日本の高校の英語と日本の大学受験を知らないのではないか? というあたりにたどりつきます。
   もしも、私が高校の英語の教員であるか、もしくは、「民間人校長」という裏口入学みたいな「校長」か正規の「校長」かであったとして、授業外に英語の講座を設けようとしたなら、TOEIC対策講座、・TOEFL対策講座 のようなものを設けるなら、あくまで趣味の講座として、それほど力を入れたものにはしないですね。 もし、正規の授業以外に英語の講座を設けるなら、私なら、大学受験を想定した対策講座を設けるか、もしくは、英会話などを楽しく学びましょうという趣味的なものか、いずれかですね。

   普通に考えてみてください。 「高校は、大学受験のためにのみあるのか?」というと、私は違うと思います。 基本的には「高校の勉強は高校の勉強である」「高校の勉強は高校の勉強として、そのもの自体に価値がある」と思います。 その上で、大学に進学するのは、決して悪いことではないと思うのですが、私などが高校生の頃、その少し前から登場した兵庫県の灘高校をはじめとした私立6年制受験校というものは、「大学受験のためだけのもの」として存在しているのではという感じがして、それまでに存在した、東京では庄司薫が行っていた頃の日比谷高校など、大阪では北野高校・天王寺高校・大手前高校・三国ヶ丘高校などの「公立名門校」に問題点がまったくないかどうかはさておき、そういう「公立名門校」がまがりなりにも「高校の勉強は高校の勉強として価値がある」という前提でその上で大学受験を考える姿勢を取っているのに対し、「大学受験のためだけの存在」のようなあり方ではないかと批判もされてきたのです。 そうはいっても、高校を卒業した後、就職するのでなければ進学するわけで、大学に進学するのなら入学試験に合格しなければならないのです。 その後の「公立名門校」の進学成績の低下を見た時、もし、灘高などの私立受験校が大学入試に合格することに最善を尽くす体制を取って成功しているのなら、公立高校も、公立の学校の良さを残しながら私立受験校の良さを導入しても悪くないという考え方もでてくるわけです。
   「民間人校長」なるものが導入された時、いったい何を志向してのものか理解に苦しんだのですが、もし、私自身が「民間人校長」なるものを導入しようとしたなら、その目的・利点としては2つ考えます。 ひとつは、「高校生にとって高校で接する大人は大学を卒業して教員になった人が周囲に多いのですが、高校生の進路は教員だけではないので、教員以外の職業についた人で高校生の相談相手となることのできる人が高校にいても悪くないのではないか」という点。
   もうひとつは、大学受験において、高校の先生になった人というのは、数学の先生なら数学が好きで好きでたまらないという人、世界史の先生なら西洋史が好きで好きでたまらないという人など、そういう人が多いと思うのです。 もし、東大なり京大なりの法学部や経済学部に行って、官庁かそれなりの企業に勤めればそれなりに出世して年収もそれなりにもらえた可能性があるにもかかわらず、数学の勉強を続けたい、世界史の勉強を続けたいという気持ちから高校の先生になったという人が少なくないと思います。それは悪いことではないし、その科目が嫌いな人がなるのではなく好きな人が先生になり、その科目の面白さを生徒にも教えその科目へののめり込みが生徒にも感染することで生徒もその科目を好きになって学習するようになる・・というのは大いにけっこうなことだと思うのですが、大学受験のテクニックという点では、必ずしもそれがいいとはいえない面があると思うのです。どうしてかというと、その科目が好きでたまらないという人というのは、実際のところ、その科目について、自分の学習時間の半分前後くらいまで、もしくは大部分をあてている場合がある のです。それが三度の飯より好きでたまらないという人ですから。 そういう人から学習法を聞くと、それぞれの科目を、すべて、その人の学習時間の半分前後あてなければならないことになってしまうことになり、芸術科目や体育は仮に0としても、数学・英語・国語・理科2科目・社会2科目として、0.5×7=3.5 となり、3.5人分の学習時間が必要になってくるわけで、もともと、たいして学習していないならともかく、ある程度以上の大学に進学しようという人の場合、もともとある程度は学習時間を取っていますから、3.5人分となると1日24時間では足らなくなってしまい破裂してしまいます。 それで、「とにかくその科目が好きで好きでたまらないという人の学習法」を取るのと、「『いかにすればより高い確率で合格最低点を上回ることができるか』という、いわば、『 I D野球式』とでもいうか、『試験に通るということを考えた学習法』」を取るかで、目指す大学学部に合格するか不合格となるかが変わることがあると思うのです。 「どの大学に行ったかがすべてではない」し、「大学だけで人の値打ちが決まるのではない」というのもその通りだと思いますが、しかし、大学入試は通るために受けるので落ちるために受けるのではないし、試験に出る問題の出題傾向を分析し「傾向と対策」を考え「試験に出る」部分を「出る順」に学習するという方法、いかにして「合格最低点をより高い確率で超えるか」という学習法を取れば京大なり東大なりに十分合格できる可能性があるという生徒に対して、試験に出ないものばかり大量に学習させて、それで「大学はどこに行っても同じだ。大学に行ってから何をどれだけ学ぶが大事だ」とか言うのでは、後者の方が良心的ということではないと思うのです。
   「高校は大学受験のためだけにあるのではない」というのはその通りですが、卒業後、就職するのでなければ進学するわけで、そうである以上、 「入学試験に通る」ということを考えた学習をするべきで、「ひとつの科目の学習が好きで好きでたまらないという人の学習法」より、「その大学学部を卒業した人がつける仕事についてきた人であるが、高校の各科目自体の学習は好きでたまらないというわけではないという人の学習法」の方が試験に通りやすい学習法である可能性がある。 そういう人の意見も、高校生にきかせてあげることができても悪くないと思うのです。
   そう考えた時、なぜ、「『高校の英語』ではなくTOEFL?」「なぜ、大学入試の英語ではなくTOEFL?」という疑問が出て来るのです。
    大学受験を考えた科目ごとの時間の割り振りも何も考えずにTOEFLの学習を取り入れるようなことはしていませんか?

   もう30年以上前、私は北野高校を卒業した年、東大の入試に落ちました。なぜ落ちたかというと、私と知り合いの人間なら「努力が足らんのだ」と言うかもしれませんが、はいはい、私の努力が不足しておりまして申し訳ございません、私が悪うございます、と言ってもよいのですが、それはここでの論題とは関係ありません。何回か前のブログでも述べたのですが、「試験の点数というものは、その試験の出題傾向によって相当差が出る」という事実を認識することが大学入試、資格試験においては必要です。 過去の恥をあえてさらすと、私は高校の3年の12月に受けた代々木ゼミナールの「東大模試」で、1次に関しては「文科1類」で「合格80%以上」という分類上最高の「判定」を受けたのです。それも「80%以上」にぎりぎり入ったのでなく余裕を持って「80%以上」に入っていたのです。1次に関しては。本番でなくあくまで「代ゼミの模試」では。 今の高校生は「東大の1次に関しては」と言っても意味はわからないと思いますが、私が高校を卒業する年までは、東大の入試には1次と2次の試験があって、1次に合格した人が2次を受けることができたのです。 翌年から共通1次試験が実施されて、東大は、それまでの「1次と2次」から「共通1次試験と東大の試験」に変わりましたが、共通1次より前、本番の試験では、1次に通っていない人は2次を受験できませんから1次と2次で受験者層は同じではありませんが、模擬試験は全員が1次も2次を受けますから、1次と2次の受験者層は同じです。 最終的には2次で合否が決まるといっても、「最高学府」の文科で最も合格最低点の高い「文科1類」で余裕持って「80%以上」ということですから「たいしたもの」という見方もできるかもしれませんが、2次の「判定」の方はかなり情けないものでした。2次対策ができていないことを痛感したものの、本番の試験までに十分対策を取ることができずに落ちました。 それで、です。「大学入試は、それぞれの科目についての学習と、試験問題についての対策の両方で取得できる点数は決まる」という事実を認識しなければいけません。資格試験にしてもそれ以外の試験についてもそうだと思います。高校を卒業した年に落ちてローニンし、行った予備校の人間がこれを理解してくれなくて困りました。 その予備校の担当者は「ぼくは早稲田の政経を卒業してるんだけれどもな」と、一日に最低3度は言わないと気が済まない男で、私は、その男の話を聞いて早稲田というのはくだらない大学なんだなあと思ったのですが、実際に大学を卒業して、本当に早稲田大学を卒業した人と接する機会を持って考えてみると、たしかに早稲田大学は「玉石混交の度合いが大きい大学」だと思いますが、それにしても「あんな早稲田ないわなあ・・・・」と思うようになりました。 それで、その人が学歴詐称であったか実際に早稲田を卒業していたけれども、その程度だったのかは、どっちでもよろしい。「学歴詐称」か「学歴詐称ではないけれども学歴詐称の人間と同程度の人」かなどは大した問題ではないのです。
   
   それで。 私が高校に入学する時点では、それまでの数年間、東大合格者数1位の高校が兵庫県の灘高校で、京大合格者数1位の高校が大阪府の北野高校でした。私は、高校に入学時、何が何でも東大に行きたいという気持ちは持っておらず、高校として最も魅力を感じた高校は北野高校で、もしも、北野と灘と両方受けて両方通ったとしても北野に行きたいと思って北野に行きました。
   高校の3年の時の担任の教諭は「東大も京大も難しさに差はないですよ」と言ったのですが、私にとっては東大の方が手ごわいという印象でした。 今、考えると、その頃の東大と京大とでは、全般的に東大の方が相当に難しいということはないと思いますが、試験科目や出題傾向が同じでないので、「京大合格者数全国1位を何年も続けているけれども東大合格者数は毎年10人以上20人未満の高校からは、東大に行くよりも京大に行く方が行きやすい」ということが事実として言えると思うのです。 ある程度以上の進学校には「仮想受験校」のようなものがある。 「仮想受験校・京都大学」の高校から東大を目指すのと、「仮想受験校・京都大学」の高校から京大を目指す場合、「仮想受験校・東京大学」の高校から東大を目指す場合では、「仮想受験校・京都大学」の高校から東大を目指すのは、その分、不利だと思います。 「どれだけ勉強したかで決まるのであって、どの高校に行っているかは関係ない」とか言う人がありますが、私は、その言い草は無責任だと思います。京大合格者数1位の高校に行けば何もしなくても京大に行けるわけではなく、東大合格者数1位に高校に行けば何も努力しなくても東大に通るわけではないというのはたしかですが、京大に毎年何人も合格している高校には京大に進学しやすい状況があり、毎年、東大に何人も合格している高校には東大に合格しやすい状況があるのです。

   さて、大阪府立和泉高校では、「仮想受験校」はどこでしょうか?

   大阪府立和泉高校の「仮想受験校」は、TOEFL ですか?   

 TOEFL の試験である程度の点数を取ることができたとして、それで、大学入試に落ちたなら、それは生徒の為だと思いますか?
   「TOEFLが大事であって、大学なんて、どこでもいっしょや。」とか言いますか?

   「大学の名前だけで人を評価するのは間違っている」と言う人がいます。 それは基本的には間違っていませんが、しかし、実際問題として、大学の名前で評価される場合がまったくないわけではないのです。 就職の時、何大学何学部卒でゼミはどこに入っていた入ってか等は関係します。 大学の卒業証明書・成績証明書を提出して応募するわけです。 「大学の名前だけで人を評価するべきだ」などと言うつもりはありませんが、好むと好まざるとにかかわらず、大学の名前が関係する時はあります。
  一方で、「今の世の中は、学歴とか肩書で人を判断する世の中だ。」と言う人がいます。こういう人というのは、自分が「高卒」「中卒」であるか底辺の方の大学の出身であることから、自分は本当はもっと評価されていいはずなのにこの程度の評価なのは学校が悪いからだ・・と言いたい人が多いのですが、こういうことを言う人には、言っちゃ悪いけれども、あんたならそんなもんだろ、学校のせいにするな・・・と言いたくなる人も少なくありません。 
  実際に、大学の名前だけで評価されるのか、大学は関係ないのかというと、「どちらか」というのは極端だと思います。大学の名前だけで何でも決まるものではないけれども、実際問題として、関係ないわけでもないと思います。
  TOEFL を受けるだけなら誰でも受けることはできるわけで、ある程度以上の高得点を取ってこそ、私はこれだけの点数を取りましたと、外資系企業であったり、商社であったり、外国語を必要とする会社にアピールできるわけです。
   但し、社会的にある程度以上高い評価を受ける外資系企業や商社に勤めようと思ったら、「TOEFLで高得点」だけではだめだと思うのです。 《ある程度以上の大学で評価される学部学科を卒業した上で「TOEFLで高得点」》でないと。
   となると、高校時代にTOEFLを必死こいて勉強するよりも、高校時代は「高校の英語」「大学受験の英語」を力を入れて学習して、ある程度以上の大学に合格できた時に、TOEFLで高得点取れるように学習するというようにするべきで、そうでないと、TOEFLではある程度以上の点数を取れたけれども、大学は行きたい所に行けなかった・・・あ~あ・・・となることが、十分、考えられるのです。
   さらには、高校時代にTOEFLを必死こいて勉強して、それで大学は落ちて、二ローでもして浪人中は大学受験に集中し、それで、どこかの大学に入ったというよりも、高校の時には大学受験に専心して現役で大学に入り、大学に入ってからTOEFLで高得点を取れるように頑張るという方が、効率的なはずです。
   英語の「認定資格」でも、 「英語検定」の場合は、英検1級・準1級・2級を取得すれば、その後、英語力が落ちても資格は失いませんが、TOEFLは、あくまで、「その時点で何点」という評価ですから、高校時代に高得点を取っても、大学に行くときに浪人したり、大学に行ってからアルバイトに明け暮れたりしてTOEFLの点数が低下してしまうと、何をやっていることかわからない。  高校を卒業してすぐに勤めるならともかく、大学に行って大学卒業後に勤めるのなら、TOEFLで高得点を取るのは、大学卒業時に照準を合わせるべきであって、高校時代ではないはずです。

   そして、私が過去の恥をさらして上に述べた私の大学受験の時の経験談を思いだしてください。 「仮想受験校・京都大学」の高校から東大を受けるのは「仮想受験校・東京大学」の高校から東大を受ける場合、「仮想受験校・京都大学」の高校から京大を受ける場合よりも不利だ、ということ。 これと同様の事態が発生します。 英語に関して、「仮想受験試験・TOEFL」で学習したとしましょう。 「仮想受験試験・東大の英語」で学習した場合、「仮想受験試験・京大の英語」で学習した場合と比較して、有利か不利か考えてみてください。

  私の「 I D野球式大学受験術」 
    ⇒ 原則 : 「戦力の集中」
 


  「大学入試の英語」ばかり考えるのではなく、「高校の英語」も考えてみた方がいいと思います。私は、日本の「高校の英語」というのは、完全にすばらしいかどうかはともかく、そんなにけしからん内容だとは思っていませんから。
   森 毅(もり つよし)『数学受験術指南』(1981.3.25. 中公新書)から引用します。
≪ 受験がある以上、「受験数学」に没頭するのは仕方がない。しかし、そればかりやるのも考えものだ。たぶん、一年間ぐらいに集中して、没頭するほうが有効だと思う。  それは、いろんな点で、「高校数学」と異質なものだ。そこのところは割り切った方がよい。
  そのためにも、高一あたりから、「受験数学」ともつかず、「高校数学」ともつかない、中途半端なものをダラダラやることを、ぼくは奨めない。むしろ、入試前の一年間だけ、キッパリと「受験数学」に徹した方がよい。
  ・・・・・・(略)・・・・・・・
  じつはぼくは、受験校といわれる高校ですら、やっているのは「高校数学」で、「受験数学」ではない、と考えている。そんなに受験を看板にするのなら、最後の一年は徹底的に「受験数学」をやったほうが、いっそサッパリしてると思う。≫
  科目によって受ける大学学部によって程度の違いはあるとしても、入学試験に合格する為には、その科目自体の学習と試験問題についての対策の両方を考えるべきではあるけれども、一方で、「試験に合格するため」という視点で考えて、「高校の○○」をやらずに「受験の○○」ばかりやるのが、試験対策として絶対的に有効とも限らない。
  そう考えた時、英語については、「高校の勉強は高校の勉強だ」「高校の勉強は大学入試のためにだけあるのではない」ということからだけでなく、大学入試に合格する為という視点で考えても、「大学受験の英語」だけが大事であるのではなく、「高校の英語」もまた必要で軽視すべきではない、と考えるべきではないかと思うのです。

  そして、 「高校の英語」と「大学受験の英語」をある程度以上、精進して学んだ者ならば、大学に合格・入学した後、TOEFLであれTOE I Cであれ、自分で学ぼうとすることもできるし、それぞれの学習書も書店で販売されているし、対策講座をおこなっている外国語学校もあれば、大学でも対策講座を設置している大学もあるわけですから、大学入学後に自分で考えて選択することができるはず です。 
  ≪高校3年生の秋までTOEFLだけを学び、高得点を取った生徒は、日本の大学を受験するにしても、残りの数か月を希望の大学の傾向と対策にあてれば、どの大学でも(英語に関しては)問題なく対応できる≫と考えるのではなく、≪「高校の英語」と「大学受験の英語」を真剣に学んだ者ならば、大学合格・入学後に、TOEICであれ、TOEFLであれ、学び、成果を上げることはできやすい≫と考えるべきです。
  この中原徹という男、≪日本の大学を受験するにしても、≫などと言っていますが、和泉高校の生徒の大部分が卒業後、外国の大学に進学するのならともかく、実際は、高校卒業後に就職するのでなく進学する生徒のうち、多くの生徒は日本の大学を受けるのと違いますか? 
  私の経験から言いましょう。 東大なり京大なりに現役で合格しようとするならば、≪高校3年生の秋までTOEFLだけを学び、≫それから、おもむろに、東大の試験では英語はどういう問題がでるのかしらん、京大では英語はどういう問題が出題されるのかしらん・・・などと、こりゃのん気だねえ、ありゃ、のん気だね・・・・というようなことをしていてはだめです。 比較的早いうちから(基本的には高校の1年のはじめから)、その大学学部の試験問題を自分で見て「傾向と対策」を考え、「試験に出る」部分を「出る順」に学習するという、いわば「I D野球式学習法」を取るか、≪高校3年生の秋までTOEFLだけを学び≫とかアホなこと言っているのとで、行きたいと思う大学学部に合格できるか不合格かの差が出ます、もしくは、合格できる大学に差が出ます。  あたり前のことです。

  それで、この中原徹という男は、なぜ、こんなアホなことをいうのか・・・・ということを、一度、考えてみる必要があります。
  中原のブログhttp://ameblo.jp/nakahara-toru/ を見ると、中原徹という男の「プロフィール」として、
≪ 性別:男
誕生日:1970年4月26日
血液型:O型
出身地:神奈川県横浜市
前職:カリフォルニア州、ニューヨーク州および日本国弁護士 ≫ と書かれています。
  横浜市出身なら、「民間人校長」になるにしても横浜市の高校でなればよさそうですが、なぜ大阪でなるのでしょう。 大阪の高校のことも大阪近辺の大学のことも知らないでしょうに。
   「校長」であれ「民間人校長」であれ高校に勤めるわけですから、自分はどこのどういう高校に行っていて、高校時代はどんな感じだった、大学はどのようにしてどこに行った、その際、どういうところはうまくいって、どういうところはうまくいかなかった・・・といった話が書かれていて良いはずですが、そういう記述が一切ない。 変だと思いませんか?≪カリフォルニア州、ニューヨーク州および日本国弁護士≫とかいうことは書かれていますけれどもね。
  世間では、法学部に行った人では、法学部を卒業した後、企業に勤めた人よりも、弁護士などになった人の方がエライみたいに思っている人もいますが、そうではありません。 昔から、慶應義塾大学で評価が高いのは経済学部と医学部で、「法学部には不定冠詞の“ a ”がつく。」「政治学科には丁寧語の『お』がつく」と言われたりして、司法試験合格者も、最近では旧型司法試験の時でも法科大学院大学になってからも少なくないようですが、昔は、早稲田や中央などに比べても少なかったのですが、ひとつには、慶應の法学部は裁判官・検事・弁護士になる人を育成するのではなく法律の知識をある程度以上持った上で企業に勤める「企業法人」を育成するという性質の学部であったからだと言われました。 どの大学を卒業した人であれ、裁判官・検事・弁護士になった人と法律の知識をある程度身につけた上で企業に勤めた人は、どちらが上でも下でもありません。 それで、法学部を卒業しても、企業に勤めたような人には英語などの語学もある程度以上できる人がいますが、司法試験を経て裁判官・検事・弁護士になった人には語学はそれほどは得意でないという人の方が多い。 実際には、国際問題を扱う弁護士などは英語を中心として語学は必要でしょうけれども、一般には、同じ大学の卒業生でも、司法試験を経て弁護士や裁判官になった人は、そうでない人と比べて語学は得意でない人が多い。 なぜかというと、司法試験に合格する為の勉強は決して簡単ではなく、司法試験の(2次試験の)科目には、英語その他語学はないからです。 最後の頃の旧型司法試験では憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法の6科目、それより前は、憲法・民法・刑法・商法の必須4科目と、民事訴訟法・刑事訴訟法から選択1科目、行政法・労働法などの法律選択科目から1科目、心理学・経済学・会計学などの一般教養科目から選択1科目の7科目、どちらの時点でも学習量は相当のもので、それだけの科目を合格レベル以上に達しようとすれば、語学についてはそれほど学習時間は取れない。司法試験合格と外国語をとことん習得という片方でも大変なものを両方実現するのは難しいのです。
   それで、中原徹ですが、自分で書いているブログの「プロフィール」で高校に関する部分が欠落していること、それと、なぜか、相当に英語ができるらしいこと、さらに、日本の大学の大学入試について、どうもわかっていないようなところがあること、この3つから考えられることとして・・・。 ピッタシカンカンで言ってしまいましょうか。 この人、いわゆる「帰国子女」と違いますか?  一般の大学入試で早稲田大学に入った人ではなく、「帰国子女枠」で早稲田大学に入った人と違いますか?  それから、弁護士についても、日本よりも弁護士の資格を取りやすい外国で取得して、それで、日本でも有効とできるように手続きを取ったという人と違いますか?
   それがいいとか悪いとかいうことではないのです。 早稲田大学がどういう制度になっていたかは私はよくわかりませんが、慶應義塾大学には「帰国子女」を受け入れる制度があって一般の入試とは別枠で入ることができました。 「帰国子女枠」は裏口入学と違って制度としてあるもので入って悪いということはありません。 もし、この中原徹という人が「帰国子女枠」で早稲田大学に入った人で、弁護士の資格も日本よりも弁護士の資格を取りやすい外国で取得して日本でも有効となるように手続きを取った人だとすると、辻褄が合います。
   日本で弁護士の資格を取得した人なら、授業外で何かの科目を持つとしても、≪授業時間外に自ら≫何か≪を教えている≫という場合でも、その教えるものは英語ではなく、私などが高校時代の科目名でいえば、社会科の中の「政治経済」あたりで、英語などは司法試験合格者が得意とするものではないはずですが、英語圏の国から日本に戻ってきた人ならば、要するに、木佐 彩子(きさ あやこ)みたいなもので、英語ができても不思議ではないわけです。 木佐彩子が英語ができたからといって、エライエライと言いましたか? 言わないですよね。 英語ができる分、日本語ができないのですから、外国人と同じようなものですよ。 この中原徹という人も、その類と違うのですか?
   そのあたりを公開したくないので、それで「プロフィール」の欄に、出身高校の記載がなく、自分が高校から大学に行く際にどうであったかの記述もない。 
   大阪における早稲田大学の評価は東京における早稲田大学の評価より低く、上に述べた私がかつて行った予備校の「ぼくは早稲田の政経でてるんだけれどもな」ときかれもしないのに一日に最低三度は言わないと気がすまない人はものすごく不満だったらしいのですが、中原徹の場合、早稲田大学は詐称ではなさそうですが、入学については日本の高校から一般入試を受けて入ったのでない可能性を感じます。 「帰国子女枠」は裏口入学ではありませんが一般入試とは別です。
   はっきり言ってしまいますが、「帰国子女枠」〔や内部進学〕で大学に入った一般入試を知らない人の言うことなんか本気で聞いていたのでは、一般入試を受けて大学に進学する一般の高校生は、えらい目にあいますよ。 実際問題として。
   それから、橋下徹と同じく、「弁護士」というのが、高く評価されてしまっているような感じがしますが、この人は日本よりも弁護士の資格を取りやすい外国で取得した人と違うのですか?  橋下は弁護士と言う割に遵法精神に欠ける所がありますが、中原徹という人は、外国で弁護士の資格を取得したのなら、その分、英語などはできても、逆に、日本の司法試験に合格するまでに学ぶものを学んでいないということが考えられますね。
〔中原徹は、私立早稲田中学校・私立早稲田高校から早大法学部へ内部進学した人であることを、〔第92回〕http://tetsukenrumba.at.webry.info/201203/article_6.html へのコメントで「オサム」様より、又、日本の司法試験に合格して、東京永和法律事務所に約2年勤めた後、アメリカ合衆国のニューヨーク州・カリフォルニア州の弁護士資格を取得したことを、「中原徹氏(大阪府立和泉高等学校長)意見発表」http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1310848.htm で述べていることを、〔第94回〕http://tetsukenrumba.at.webry.info/201203/article_8.html へのコメントで「大阪府立高校卒業生」様から教えていただきました。〕


   いずれにせよ、 なぜ、こんな人を、裏口入学か縁故入社みたいに「校長」にならさないといけないの?
   小学校の時も中学校の時も高校の時もこの人よりも優秀な成績で、真面目に努力して学んできて、それで、教員になって生徒のために尽力しようとして、京大なり東大なりの理学部物理学科・化学科・生物学科・数学科や文学部国文学科・史学科・地理学科・哲学科・英文科などに進学して教職課程を履修して、それで教員として高校に勤めた人で、この人より年上の人もいると思うのですが、そういう努力をしていないこの中原徹という男が、なぜ、いきなり、そういう人より上の役職の「校長」になるの?
 おかしいと思わないですか? 何、この変な制度!?!  橋下が口をきいたから採用されたのではないと教育委員会は言っているというけれども、何の関係もないと考える方が不自然と違いますか?


   なぜ、TOEFLをやろうとするのかというと、結局、要するに、この中原という人には、そのくらいしかできないのと違いますか?  
   相撲の高砂親方(元・大関朝潮)が、朝青龍を十分指導できなかったのは親方が元横綱ではなく大関どまりで、元横綱の親方に比べ元大関の親方は劣っているように言われることがあるがそうではない、横綱までなった者は自分は最高の所まで達成できたと思っているのに対し、大関までしかなれなかった者は「なぜ、自分は大関までしかなれなかったのか」といつまでも考え続ける。それを弟子に活かそうという気持ちになる。 だから、元大関の親方が元横綱の親方に劣ることはないと思う、と本に述べていたという記事を週刊誌で見ました。朝潮が述べていたことは一理はあると思います。その理由から、行きたいと思った大学に合格・入学できた者と、必ずしも行きたいと思ったところに行けなかった者とどちらが教員として良いかは一概に言えないと思いますが、一般の大学入試の経験のない人に一般の大学入試の指導はできないと思います。
   高校は大学に進学するためにだけあるのではないというのは、まったく、その通りですが、高校生がせっかく一生懸命努力して学習しているのであれば、出来る限り行きたいと思う所に合格させてやりたいと思うのが「親心」であり「教師心」ではないでしょうか。 仮に、目の前の高校生にある大学学部に合格させたとしても、大学合格者の数が決まっている以上は、どこかで誰かが落ちているのであり、特別に「世のため人のため」に尽くしたことにはならないかもしれませんが、たとえ、そうであっても、目の前の高校生が、せっかく一生懸命努力しているのであれば、なんとか合格できるように協力してあげたいと思うものと違いますか? なんとか合格させてあげたいと思ったとしたら誰か迷惑しますか? 
   もし、私が高校の「民間人校長」になったとしたら、一般の教員の方と協力して、生徒にそれまで以上に「行きたい大学に行けるように」してあげることができると思います。 中原さんはできないでしょ。 そういう能力はないでしょ。 「君が代」礼拝の強制に際して、正規に教員になった人が実際に歌っているかどうかスパイしてまわるという人間のカスみたいな能力はあっても。


    それで。
  府立和泉高校の生徒の皆さん、
  中原徹が担当しているという≪TOEFL対策の「英語超人」という授業≫ですが、純粋に英語の学習として考えて、いいかどうかわからないですよ。
  中原は「英語の使える弁護士」として評価された人だったわけです。 英語そのもので評価された人ではなかったのです。 「英語の使える○○」として要求される英語力と、英語そのものの教員に要求される英語力のレベルは同じではありません。 「英語の使える○○」であれば、基本的には「通じればよい」のです。 少々、スラングが入っていても、通じればよいのです。 「ノバの講師みたいなもの」と考えてみてください。 「ノバの講師みたいなもの」というと言いすぎかもしれませんが、もしかすると、言いたらないかもしれませんよ。 
  「ノバの講師」とはどういうものかというと「日本人は、白人に対してコンプレックスがあるから、白人で・イケメン(もしくは美女)で・元気があって・ユーモアがあれば、それでいい」という基準で採用されていたという話でした。 「英会話学校に行くなら、行く学校を選ばないとかえって良くない」という話は、私が慶應義塾大学に行っていた時にも、ある教授が講義の中で言われたことがありました。 「街の英会話学校」などでは、アメリカ合衆国のヤンキーで東南アジア方面に遊びに行くのにこづかい稼ぎに日本で英会話学校の講師をやってやろうなどというのがいて、そういうのに学ぶとスラングが多くてガラの悪いろくでもない英語を教えられてしまって、かえって害がある、と言われたのです。 その教授が講義の中で言われた時、学生で英会話学校に行っているという人がいて、そこなら悪くないでしょうと教授が言われたのは、アテネ・フランセと慶應外語学校で、その教授が「私ならここを勧める」と言われたのは、I LC(インターナショナル ランゲージ センター)でした。 私はこういう話をきいていたので、「ノバ」がいいかげんな講師を雇っていたという話を聞いた時にも、まあ、ノバならそんなもんだろと思い、特別のこととも思いませんでした。
  それで、中原徹という人が、≪授業時間外に自ら英語を教えている≫ということですが、この人の英語というのは、どのようなものなのでしょうね。 「英語の使える弁護士」として評価される英語だったとしても、英語学校の教師として評価されるものかどうかは別問題ですよね。 「ノバの教師」と比べてどうでしょうか? 「ノバの教師」よりはマシか、「ノバの教師」と同様か、「ノバの教師」よりひどいか? 
   いずれにせよ、私が高校生なら、あるいは、大学生なら、英語教師でない人に英語を学ぶのではなく、英語は英語の教師として評価された人に学びたいですね。 私が親なら、自分の子どもには、英語は英語の教師に学ばせたいですね。


【2】   何より、この中原徹という男は、「校長」を名のっていますが、「先生」とか「教育者」だなどと勘違いしてはいけません。 
   「反精神医学」派の「精神科医」でニューヨーク州立シラキュース大学の精神科教授であったトマス=サズが『「精神医学」という神話』(邦訳名は『精神医学の神話』 岩崎学術出版社)の中で、アインシュタインの言葉を引用して述べていた箇所があります。 どういう言葉を引用していたかというと、
  「 彼らが何を言っているか ではなく、彼らが 何をしているか を見るべきだ。」 
  という言葉です。

  中原 徹 という男が、自分は何だと言っているかではなく、実際に、中原徹が何をやっているか を見るべきです。 

  中原 徹 が自分は何だと言っているかというと、「校長」「民間人校長」「最年少校長」と言っているわけです。

  しかし、中原徹とそのテカ(手下)の「教頭」が実際にやっていることは何かというと、《「君が代」礼拝の強制において、「君が代」を教員が実際に歌っているかどうかをスパイしてまわるということ》で、 中原徹は「極右勢力から学校に派遣されたスパイ」であり、 「現代における特高警察」です。 

  何も、物好きに「特高警察」と一緒に英語を学ばなくても、英語の学び方は他にもっと良い方法があるはずです。

  「特高警察と学ぶTOEFL講座」 に価値があると思いますか?
    ―――――ないと思いますよ。


  大阪は、まだまだ橋下徹と中原徹の“ダブル徹”に悩まされそうですね。 
            (2012.3.22.)

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