ブラト=オクジャワのすばらしさ、「君が代」の伴奏は音楽教諭の業務ではない、音楽を学んでいない橋下徹

〔第90回〕
  今から30年近く前くらいには、モスクワ放送の日本語放送というものが日本のラジオで聴くことができました。その頃、私が住んでいた神奈川県の川崎市では、音の質は良くないものの、十分聴きとれましたが、他の地域でも十分に聴きとれたかどうかはわかりません。 「ロシア民謡の時間」とか、チャイコフスキーの交響曲とかを日本人のアナウンサーが日本語で説明をして放送されていました。 「モスクワ放送」という名称でも、モスクワからではなく、ウラジオストクから流していたと聞いていましたが、一方で、ロシア民謡とかチャイコフスキーの音楽とかを流しつつ、「本日のニュース」として、「アメリカ帝国主義は・・・・・」といったものも流れていました。 私は、モスクワ放送の「ロシア民謡の時間」が好きで、何度か聴いていました。 こういうことを書くと、また、なんだか、「左翼」呼ばわりされそうで気持ち悪いのですが、別に、モスクワ放送だけ聴いていたのではなく、NHKのFM放送も聴いていたし、FM東京も聴いたし、厚木の米軍基地から流しているというFEN(Far East Net Work)も聴いていたのですが、(まかせてチョンマゲ ニッポン放送も聞いたし、はっきり言ってライオンズびいき の文化放送も聞いたし、ハイディー矢野の「百万人の英語」も聞いたんだけどね)・・・・それでも、モスクワ放送を何度か聴いていたというと、何かと人を「サヨク」呼ばわりしたい人は、私みたいな、「左翼」という人たちとはかなり隔たりがある人間でも「サヨク」と言うのかもしれませんね。 慶應義塾大学で自由科目で「ロシア語」という講座を受講させてもらったのですが、その時の先生にしても、ロシア文学やロシア語は好きでも、社会主義やソ連の体制については否定的な方でしたが、その先生なども、モスクワ放送を聴かれたりしていたようですが、あの先生のような社会主義・共産主義には否定的な方でも、それでも、何でも「左翼」にしてしまう人は、「左翼」にしてしまうのでしょう。 だから、まあ、・・いいや。なんとでも言ってください・・・ということで、かつて、好きだったモスクワ放送の「音楽の時間」というのは、今、どうなっているかな・・・と思って、ラジオのダイヤルを回してみると、・・・・受信できないのです。 だから、要するに、広告代も視聴料も取らずに、ロシア民謡とかチャイコフスキーの交響曲とか流してくれていたのは、一方で、「アメリカ帝国主義は・・・・」というお話を日本人の皆さんに聞いていただこうということで流していたのであって、社会主義もやめて、ソビエト連邦もなくなった今、あほくさい、なんで、そんなもの、無料で流してやらないかんねん、あほか、流してほしかったらカネ払え・・・とでもいったところでしょうか。

   それで、残念ながら、モスクワ放送の「音楽の時間」は聴けなくなってしまったのですが、30年近く前に、モスクワ放送の「音楽の時間」で聴いて知った「音楽家」というのか歌い手というのかに、ブラト=オクジャワ(Булат Шалвов ич Окуджава )という人がいます。 静かな語りかけるような歌い方で、歌謡曲でもない、クラシックのオペラ歌手のような歌い方でもないのですが、何か、心に響くような歌というのか語りというのか、でした。
   その時、アナウンサーが、「ブラト=オクジャワに、『希望とはなんですか』と尋ねたところ、オクジャワは『希望は、あるのかないのかもわからない。あるかと思うと、消えて見えなくなってしまう。あるのかないのかもわからない、その希望を求めて生きるということが希望である』と語りました」というようなことを話していたのを覚えています。 その言葉を聞いた上で、オクジャワの歌を聴くと、そういうような音楽であると思えます。
   ≪ モスクワのアルバート街生まれ。父はグルジア人で母はアルメニア人。 10歳年下の弟がいました。・・・幼い頃にはグルジア語やアルメニア語も話せましたが、スターリンの粛清が一家の運命を狂わせ、長じてのオクジャワは、ロシア語しか話せない「ロシア詩人」になりました。1937年に父がスパイ容疑で銃殺され、母も逮捕されて収容所へ送られると、彼は弟と共にグルジアの祖母に引き取られました。当時は、「人民の敵」と断罪された親の子どもは、モスクワに住むことも職を求めることもできなかったそうです。17歳で学徒兵に志願し、前線で2度も負傷して生還。・・・・ < 雪解け>期の清新な空気の中で彼の詩と歌は急速に注目を集めますが、まもなく1964年にフルシチョフが失脚してブレジネフが書記長に就任し、ソ連社会に再び硬直した思想統制が敷かれるようになります。社会主義建設を賛美する威風堂々の芸術が良しとされる体制下では、ありふれた身辺のことやちっぽけな市井の人間しか詠わないことだけでも、当局から睨まれるに十分でした。・・・≫(山之内重美『ロシア愛唱歌集 黒い瞳 から 百万本のバラ』〔2002.8.5.東洋書店 ユーラシアブックレット〕) ≪ 母が収容所から戻ってきた時、「若くて美しかった母がお婆さんのようになって戻ってきた」、「再会して、心から抱きしめたかったが、もうぼくと母の間には、言葉も心も通わなくなっていた。・・・・」≫(山之内重美『続・ロシア愛唱歌集 トロイカ から 私を呼んで まで』(2004.10.20. 東洋書店 ユーラシアブックレット) 

   山之内さんの『ロシア愛唱歌集 黒い瞳 から 百万本のバラ』と『続・ロシア愛唱歌集 トロイカ から 私を呼んで まで』の2冊の本に収録されているオクジャワの歌の中では、私は、『紙の兵隊』という歌というのか詩が一番好きです。 山之内さんの訳詞を引用させていただきます。

一人の兵隊が 住んでいました
美しく勇ましい 紙の兵隊

この世を正しくしたいと思って
彼は出かけた 雄々しく戦さ(いくさ)に

みんなが幸せに 生きられるように
炎をかいくぐり 戦いつづけた

あなたのためなら 死んでもいいと
二度でも三度でも 死んでみせると

彼は進んだ 炎に向かって
すっかり忘れてた 自分が紙だと

彼は焼かれた 紙の兵隊
あとには灰さえ 残りはしなかった

≪絵本を読むような平易で愛らしい歌詞から始まっているだけに、結末の残酷さが胸を打ちます。・・・・「紙の兵隊」は銃殺された父を思う歌でもあります。≫(『ロシア愛唱歌集 黒い瞳 から 百万本のバラ』)
   自分が紙だということをすっかり忘れて炎に向かって突き進んでしまい、焼かれて灰さえ残らなくなってしまった「紙の兵隊」とは、第二次世界大戦における独ソ戦の最中に、グルジアのソ連からの独立運動をおこなって銃殺されたオクジャワの父親のことだったのでしょうか。
   モスクワ放送のアナウンサーが、「オクジャワの歌は、今まで、様々な歌手がオクジャワの歌を歌ってきましたが、オクジャワ本人の歌に勝る者はありませんでした。」と語っていましたが、そうでしょう。

   経済史の学者であった 大塚 久雄 の『生活の貧しさと心の貧しさ』(1978.4.20.みすず書房)に収録されている最初は「立春」という誌に掲載されたらしい「鬼」という文章に、
≪ キェルケゴールの短文に、たえず心に甦ってくる一説がございます。うろ覚えなのでかなり間違っているところがあるかも知れませんが、だいたいこうだったと思います。
  「詩人はそのうちに苦悩を秘めている。彼は苦痛のあまり大声で泣き叫ぶ。すると人々は、すばらしい歌だ、もっと歌え、という。 詩人たる者まったくたまったものではない。 批評家と詩人とのあいだには、髪の毛一本ほどの違いしかない。 批評家は見たところ詩人とまったく同じことをする。 しかし、彼のうちには苦悩がない」≫
と書かれています。

  中村 稔 編著『中也のうた』(1970.9.30.社会思想社 現代教養文庫)に収録されている 中原 中也 の「日記」(1927) 1.17.(月曜) に、
≪ 孤獨以外に、好い藝術を生む境遇はありはしない。
  交際上手な、この澱粉過剰な藝術家さん。≫ という文章が掲載されています。

  モスクワ放送のアナウンサーが、「オクジャワは、『魂のこもっていない歌は二束三文だ』と語りました」と述べていたのを覚えています。 

  その歌の歌詞を口にする時、その詩を口にした時の苦悩が心にある者とそうでない者との違いがあるのでしょう。 オクジャワ本人こそ、その詩が出てくる母体となる苦悩を最も持ち合わせている人間であったということでしょう。 本人以外で歌う人でも、オクジャワの心の苦悩を理解した人、あるいは、オクジャワとはまったく同じでなくても、その歌に自分自身の思い入れを感じるようになった人が歌う場合には、良い歌が歌えるのではないかと思います。 逆に、作詩者の意識も考えず、又、自分自身にその詩に対する思い入れもない者が、単に音声を出せばいいと思って口にするような、いわば、「澱粉過剰」な “歌”は「二束三文」であり、価値が無いことになるでしょう。

   〔第84回〕《ハンス=ホッター他のすばらしさ、「君が代」の伴奏は音楽教諭の業務ではない、音楽を学んでいない橋下徹 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201202/article_5.html で、数年前、市川市文化会館に演奏会を聴きに行った時、テノールの「声楽家」の 錦織 健 が、イタリア語の歌の歌詞を間違えたことを述べました。 錦織は、イタリア語の歌の歌詞を間違えて、かつ、間違えたのを正直に自分から話したのはいいとしても、へらへら笑いながら話したのです。 それを聞いて、こいつは、間違えたことの重要さがわかっていないようだな、と思い、そして、なぜ、間違えるかといえば、歌詞の内容を心に想いながら歌っていないから間違えるのであり、おそらく、カタカナで歌っていたのであり、聴衆は、「国立音楽大学の声楽家を卒業して、○○先生に師事して、なんたらかんたらくんたらそわか~」と効能書きを付けておけば、これがクラシックの音楽というありがたいものなんだ、ありがたやありがたや、と喜ぶだろう、という聴衆をバカにした態度で歌っていたから、だから、歌詞を間違えたのだ、と気づき、ふざけるな、バカヤロー! と思い、最後の曲が終わった時も、他の人は拍手するけれども、私は拍手する気になれなかった。 ところが、「ヤラセ」か「サクラ」かと思われる男が、後ろの方の席から「ブラボー」とか叫ぶので、アホか、どこが、ブラ―ヴォ(bravo)だ? と思いました。 これなら、俺の方がうまいとも思いました。日本の音楽大学の問題点が出ているのかもしれないとも思いましたし、日本の「音楽家業界」のレベルの低さが出ているのかな? とも思いました。
☆ bravo (形容詞)勇敢な、見事な、心のやさしい、正直な、有能な、すぐれた
(下位 英一・坂本 鉄男 編『大学書林 イタリア語小辞典』(1962.2.1. 大学書林)
   ハンス=ホッター は、ハンス=ドコウピルがピアノ伴奏のシューベルトの歌曲集『冬の旅』の4回目の録音において、一部分、音程が間違っているところがあると「音楽の友」の評者が述べていたのですが、同時に、「たとえ、音程が狂っていても、それでも、ホッターの『冬の旅』はすばらしい」とも述べていたのです。 私は、どこが違っているのかわからなかったし、実際のところ、プロの評者は気づいても、一般の人は気づいていないようなケースはけっこうあるのではないかと思います。 そして、実際に、一部分、音程が違っているという箇所があったとしても、ハンス=ホッターならば、音程を部分的に間違えるということはあっても、歌詞を間違えるということは、めったなことではやらないだろうし、万一、そういうことがあった時に、へらへら笑いながら話すなどということはないはずです。 ハンス=ホッターは、CDのジャケットに「最も聡明な歌手」「内省的な歌い方」と書かれていたと思うのですが、そういう歌い方であり、『冬の旅』の詩の文句をかみしめるように歌い、又、歌曲集『冬の旅』というものは、歌う者が自分の心を見つめ直すことなしには歌えない歌であると思います。自分の心を見つめ直しながら歌う者は、部分的に音程を間違えてしまうことはあったとしても、その歌詞を間違えるということは、めったなことではないはずなのです。
  そして、ブラト=オクジャウワ が、自分の詩を歌うにおいて、歌詞を間違えることがあるかというと、ないでしょう。オクジャワは、本格的に音楽を学んだこともなく、自分が作った詩にギターで旋律をつけて口ずさんだところから始まったという歌であるといい、モスクワ放送のアナウンサーも「オクジャワの音楽は、歌と旋律が一緒に生まれてきたもののようです。」と語っていましたが、そういう詩でそういう歌・そういう音楽であり、その詩をオクジャワ本人が間違えることはないでしょう。 音程については、もともと、正規の音楽教育を受けてきたわけでもなく、その詩に合わせて旋律をつけたというものなので、ホッターが間違えていると言われるように、部分的にそれまでと違った音程で歌うということはありうるでしょうけれども、それでも、心の苦悩が詩を通じて表現される歌で歌詞を間違えるということはないでしょう。 何より、心の苦悩が詩を通じて表現されるというものである限り、価値のあるものです。

  それで、実際に、ブラト=オクジャワの歌がどうすばらしいのかは、やはり、オクジャワの歌を聴いてみるべきであり、実際に聴くことが一番であると思うのですが、一般の音楽CD店では、オクジャワのCDは置かれていない場合が多く、神田神保町の 新世界レコード社 ではロシア連邦(旧・ソ連)製のCDが販売されていたのですが、今、インターネットで見ると、新世界レコード社 は閉店してしまったということで、残念です。

  ≪ 橋下 徹 が卒業した大阪市立中島中学校の出身の人から聞いた話では、(橋下が卒業した)中島中学校では、音楽の試験というと、何でもいいから、好きな歌を歌えばそれでいい、という試験だったというのです。 実際には、歌謡曲を歌う人あり、さらには、「『あ』の歌」と称して、「あ。 終わり。」と言って、それで、通ったというのです。≫という話を、 〔第84回〕《ハンス=ホッター他のすばらしさ、「君が代」の伴奏は音楽教諭の業務ではない、音楽を学んでいない橋下徹 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201202/article_5.html で述べてしまいました。「しまいました」というのは、私は 橋下 徹 という男はケシカラン奴だと思っているのですが、中島中学校の卒業生の方や在校生の方に責任があるわけではないので、あまり悪く言うような話は載せたくないのですが、載せてしまいました。中島中学校の関係者の方、不愉快に思われたら、どうか、ごめんなさい。 それで、これは、もう40年近く前に聞いた話なのですが、「『あ』の歌、『あ』。 終わり」で、歌の試験が通ったというのですが、申し訳ないけれども、それは歌ではないし、音楽ではない。 中島中学校の人が悪い人だとか言うつもりはないけれども、その音楽の授業は、あまりにも悲しいし哀しい。 世界にはすばらしい音楽・すばらしい歌はいくらでもある。 それを学ぶのが「音楽」の授業であり、学ぶことができない状況であったというのは悲しいし哀しい状況であったと思います。
   橋下 徹 も、そういう音楽の授業しか受けてこなかった人でしょうか。 北野高校でも、美術・書道と音楽の3つの中から選択制であった芸術科目では、音楽は選択しなかったのでしょう。 「君が代」というのは、あれは、音楽ではありませんよ。 もしも、「君が代」を生徒に歌わせて、それで「音楽」を教えていると思う音楽教諭がいたら、それは、いかさまの音楽教諭だと思います。
   錦織 健 の歌は「音学」であっても「音楽」ではないと思います。 心のこもっていない歌は「音学」ではあっても「音楽」ではない。
   「君が代」とは、「音楽」か否かという視点で見た場合、どういう性質のものか。 山住 正巳『教育勅語』(1980.3.20. 朝日選書)に、教育勅語の朗読について、次のように書かれている。
≪ ・・・教育勅語の発布の頃、小学生であった生方敏郎(1882-1969)の『明治大正見聞史』(1926年)によると、いちはやく儀式で勅語棒読の行われた学校もあったことが分かる。・・・・
  そこへフロックコートを着た校長が現れて正面に進み、「御真影」に一礼の後、教育勅語を読むのである。生方はそのときの様子を次のように書いていた。

   彼は「朕惟ふ(おもふ)に」と冒頭まず音無きが如く静かに起こし来る。聴衆は水を打ったる如く静まり返り、ただ咳き(しわぶき)する音のみ聞こえる。 勅語の半ばに入るや音吐朗々、或は白玉の盤上をまろぶが如く、或は滔々として大河の奔流する如く、或は平らなる湖水に春風のたいとうたるが如く、桜花のらんまんたる如く、而して最後に白刃一閃下るが如くして止むのだ。

   これは、校長のなかでも勅語の読み方がうまい人の棒読であったと思えるが、多くの校長が聞く者にこういう感じをもたせようとして、棒読のための練習をくりかえしていたのである。≫
   「君が代」という歌は、かつて、戦中に、「教育勅語」を校長が上記の生方の文章のように読んだのと同様に、「君が代」の文言を調子をつけて読み上げたというものである。 そういう性質のものであり、「歌」「音楽」という位置づけをする性質のものではない。
   「教育勅語」は、決して復活させてはならないが、 「教育勅語」の棒読が音楽とか歌ではなかったのと同じく、「君が代」もまた、音楽とか歌という位置づけとするべき性質のものではない。 
   だから、かつて、「教育勅語」の棒読が音楽教諭の仕事でなかったのと同じく、「君が代」の伴奏もまた、音楽教諭の仕事ではない。
   わざわざ、「『あ』の歌」などというものを歌わなくても、世界にはすばらしい歌はいくつもある。 それを生徒に教えるのが音楽教諭の業務である。 「君が代」が歌だとか音楽だとか教えるならば、その音楽教諭は、業務に反することをおこなっていることになる。 それは、音楽ではないよ、と教えるのが仕事である者が、逆を教えるようなことはするべきではないし、逆を教えるようなことを音楽教諭に求めるような校長は、校長としての業務に反することをしていることになるし、教育者とは言えないことになる。
   学校における君が代礼拝の強制はあってはならないことであるが、たとえ、おこなう場合にしても、もしも、ピアノ伴奏が必要であるというのであれば、「君が代」が好きな人が伴奏するべきであり、音楽教諭に伴奏させるべきではない。  


   インターネットのヤフーニュースを見ていると、AKB という十代後半くらいの女の子のグループが、野球の巨人と西武のオープン戦で「君が代」を歌うという記事が出ていた。 かわいそうに。 
   私に「どういう女性が好みですか。タレントで言うと? AKBなんかどうですか?」などと言う人が、たまにあって、「あのなあ、いいかげんにしなさいよ。 いくらなんでも、あの しょんべんくさい小娘どもを、私がどう思うも思わないもないでしょうが」と思うのだが、どういうつもりで言っているのか、そういったことを言う人がある。 
   かわいそうになあ。 「君が代」などというものは歌ではないし音楽ではないよ。 
   なにより、その歌に対して、思い入れのない者が、「これを歌いなさい」と言われて歌うようなものは、オクジャウワも言っていたように、そのような「魂のこもっていない音楽は二束三文だ」し、中原中也が書いていたように「澱粉過剰な」ものが価値があるとは言えないし、AKBの小娘どもは、「君が代」を口にする場合、何か心に「苦悩」とでもいうものがあるかというと、ないでしょ、何も。 それは音楽ではない。 このあたりに気づかないのなら、あんたたちが歌を歌っていても、それは音楽とは言えない・歌とは言えない歌かもしれない。 AKBの小娘どもが、このあたりについて気づいたならば、その時は、今の職業を失う時かもしれないが、人間としては、ひとつ学び、ひとつ成長したことになると思う。 
   私はよく知らないが、AKBというのは、未成年もいたのではないのか? 未成年に、訳も分からずに、問題のある文言を唱えさせる大人というのは、良心的と言えるだろうか? 
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
AKB48が巨人開幕戦で君が代斉唱
日刊スポーツ 3月4日(日)16時58分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120304-00000048-nksports-base
 巨人は4日の西武とのオープン戦(東京ドーム)5回終了後、30日のヤクルトとの開幕戦(東京ドーム)でAKB48が君が代斉唱をすることが決定したと発表した。球団が発表したAKB48前田敦子のコメントは、以下の通り。
 「読売巨人軍の開幕戦という大舞台。しかも国歌斉唱の大役に身が引き締まる思いです。あこがれの東京ドームという場に恥じないよう、精いっぱいがんばります」
最終更新:3月4日(日)16時58分  
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「精一杯がんばります」とコメントしたというが、もし、「精一杯がんば」るのなら、「君が代」を拒否することをがんばることができるかどうか、考えてみるべきだ。 気づくと今の仕事を失うかもしれないが、気づかずにバカの人生を生きるほうがいいかどうか、考えてみた方がいいだろう。
もしも、気づかずに、歌詞の意味も考えずに口にして抵抗を感じないようなら、「AKB」というのは、「 Aho な Komusume Bakari 」かということになってしまうだろう。 
   
≪ エリコの町の近くに来られた時のこと、ひとりの盲人が道ばたに坐って物乞いをしていた。 群衆が通り過ぎる音を聞くと、あれは何ごとかとたずねた。 人々がナザレ人イエスのお通りだとおしえてやると、盲人は、「ダビデの子のイエス様、どうぞお慈悲を」と言って叫んだ。・・・・イエスは立ち止まって、盲人をつれてくるように命じられた。盲人が近づいてくると尋ねられた、「何をしてもらいたいのか。」 彼がこたえた、「主よ、見えるようになりたい。」 そこでイエスが、「見えるようになれ。あなたの信仰がなおした」と言われると、たちどころに見えるようになって、神を讃美しながらイエスについて行った。人人は皆これを見て、神に讃美をささげた。≫
(『新約聖書 福音書』〔塚本 虎二 訳。岩波クラシックス。〕  『ルカ福音書』第18章 25-38 40-42 )
   見えると苦しむ場合もあるが、見えずに生きていった方がいいか、たとえ、苦しむ時があっても、見えた方がいいか。 たとえ、苦しむ時があっても、見えるように助力するのが「教育」であり「学校」ではなかったかと思うのだが。

※ブラト=オクジャワ の歌については、楽譜と歌詞とその解説については、東洋書店から出版されているユーラシアブックレットに、
1.山之内 重美『ロシア愛唱曲集 黒い瞳 から 百万本のバラ まで』(2002.8.5.東洋書店)
2.山之内 重美『続ロシア愛唱曲集 トロイカ から 私を呼んで まで』(2004.10.20.東洋書店)
で、1には、「紙の兵隊」など5曲、2には2曲が掲載されています。山之内重美さんは、大阪外大のロシア語科で学び、ロシア文化研究家というだけあって、山之内さんの訳は、比較的信頼できそうです。
  ブラト=オクジャウワの歌のCDは、日本では、一般の音楽CD店では置いていない場合が多いが、神田神保町の 神田古書センタービルの中にあった 新世界レコード なら、ロシア連邦(旧・ソ連)製のものが販売されていました。 ところが、インターネットで検索すると、つくづく残念なことに、新世界レコードは2007年に閉店してしまったようです。誠に残念です。 私は特別に品行方正な人間でも何でもありませんが、神田神保町界隈では、アダルトビデオ(DVD)の店が続出して増えるのと引き換えに、このような価値のある店が減っていっているように思えます。悲しいことです。 朝日新聞出版から「男の隠れ家」という雑誌が出版されていますが、「男の隠れ家」がひとつ減ってしまいました。 我が家には、新世界レコード社で購入した ブラト=オクジャウワの歌のCDが2枚あります。 私なんかより、はるかに出世して、はるかに年収の高い人はいっぱいいると思いますが、女性が結婚する場合を考えるなら、私みたいなかいしょなしと結婚するよりも、ブタ人間と結婚した方がいいかもしれませんが、魂の叫びのようなオクジャウワの歌の良さを感じることができず、二束三文の歌と言えないような歌をありがたがっているようであるならば、たとえ、どんなに出世してどんなに多くの年収を得ても、最高の人生を歩んでいるとは言えないようにも思います。
   今回、検索すると、アマゾンショップでも、ブラト=オクジャワの歌が販売されているようで、うれしく思いましたが、新品は、無茶苦茶高い値段がついていました。新世界レコードなら、一般のCDと同じような値段で買えたのですが・・・。
(参考)「ワールドミュージック町十三番地―追悼・新世界レコード社」http://blog.goo.ne.jp/lunaluni/e/2211e75df69855cbb1f9d0890c507f00
「最新情報―新世界レコード社」http://plaza.rakuten.co.jp/informant/diary/200907050000/
※ ブラト=オクジャウワ について、
「ウィキペディア―ブラート・オクジャワ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF 
※ 山之内重美さんが歌う オクジャワの「アルバートの歌」「真夜中のトロリーバス」がYouTubeに入っているようです。 山之内さんには悪いけれども、オクジャウワ本人の歌唱の方がもっとすばらしいけれども、山之内さんは、ロシア語とともに、日本語でも歌ってくれているので、ロシア語がわからない人にとって、意味がわかって良いと思います。
「YouTube―山之内重美 アルバート街の歌/真夜中のトロリーバス 」http://www.youtube.com/watch?v=VkCgX2bet40
     (2012.3.5.)








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