小学校での留年は子供の学習意欲を削ぐ。 学力の「目標レベル」て何だ?―橋下徹の不認識にはあきれる。

〔第86回〕
   このブログは、橋下徹という白痴がどのように間違ったことを言っているのか批判することを主目的として設けたものではなく、他の話題で述べたいことがあるし、又、原発問題についても自分が過去にかかわった問題に関して述べたいものもあるのですが、橋下が次から次へと不認識なことを言いだすので無視するわけにもいかずにいる。又、このブログを発表しても、生活費につながるわけでもなく、貧乏人が趣味というのか物好きというのかで公開しているブログとしては、自分に可能なゆっくりとしたペースで発表したいと思うのだが、橋下の発言を見るとそうもいかなくなってしまう。
   
   YAHOO!ニュースを見ていると、小学校でも留年させるべきだと橋下が言いだしたという毎日新聞の記事が出ていた。
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<橋下市長>小中学生に留年検討 大阪市教委に指示
毎日新聞 2月22日(水)11時15分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120222-00000026-mai-soci 
  大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。
 橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。
 文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。
 市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。
 橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。【林由紀子】
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  ≪ 義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」≫というのは、基本的には間違っていないでしょう。  しかし、
1. だから、小学校で留年させた方がいいということになるかというと、そうでもないと思います。
2. 「目標レベル」って、どういうレベルですか?
3. もしも、留年しても、「目標レベル」に達しなかったとしたら、2年でも3年でも、永遠にでも留年させるのですか? 

   小学校の授業に「ついていけなくなる」という状態になってしまった人というのはいるのです。そして、「ついていけなくなった」ことから、その後の授業に対しても絶望感を持ってしまって、「やる気をなくす」という状態になってしまう人もいるようです。 それは、理想的な状態ではないので、なんとか対処するのが好ましいと思いますが、だから、留年させればよいかというと、小学校の段階においては、それは、むしろ、逆効果ではないでしょうか。
   対処法ですが、ひとつには、「積み上げ神話」の再検討 をおこなうべきです。遠山啓が『競争原理を超えて』(太郎次郎社)でも述べていましたが、「学校の勉強は積み上げだ。だから、最初の頃の事をやっておかないと、後のことはできなくなる」という説が、昔からあって、遠山は、それは神話であり、1年でやっていること、2年でやっていることができていなくても、3年・4年でやることを教える・学ぶことは可能である、というのです。しかし、それなら、1年・2年では、まったく、何も学習しなくても、後の学年でやることは簡単かというと、それも、極端だと私は思います。やはり、最初の学年でやることをきっちりとやっていた方が、後の学年でやるものは学びやすいということはあると思うのです。 「積み上げ神話」は正しいか間違っているか、というのは、どちらかと言うのは極端であり、「積み上げ」の面はまったくないことはないけれども、しかし、「積み上げる」基礎の部分がそれほどできていなくても、後で学ぶ部分を教える・学ぶことは、くふう次第で、それなりにできるし、後でおこなう部分を学びながら、先におこなった部分で不十分な部分を学びなおすということもできると思うのです。

   小学校の段階で、学校のお勉強があまりできない子供というのは、なぜ、できないのでしょうか。 
   家庭環境に原因があるのでしょうか、生まれ持っての能力が劣っているのでしょうか、学校が悪いのでしょうか。  
  
   私の場合、家庭環境においては、学習しやすい環境であったかどうかというと、比較的恵まれていた面と極めて恵まれていなかった面の両方があったと思っている。 母の家系は学校の先生が多い家系で勉強をする人が好きという家系で、特に、母の叔母の夫婦が近くに住んでいて、母の叔母の夫が小学校の先生をしていたこともあって、家庭も小学校みたいな家庭であったところがあったので、その点、小学校の段階では、お勉強しやすい環境の家庭であったかもしれません。 もっとも、「小学生型」の勉強法が身につきすぎてしまって、高校から大学受験の際にはマイナスになった部分もなくはなかったのですが。
  私よりひとつ歳下で同じ中学校・同じ高校から東大に行った人がおり、たまたま、東京の電車中で会った時、これからコントラバスを習いに行くのだと彼が言ったのを聞きました。 私の場合は、父親が「大学みたいなもの、勉強するところと違うねん。大学みたいなもの、勉強せんでええんじゃ。甘ったれるな。アルバイト、アルバイト、アルバイト。とってちってたあ~あ!」と毎日のように言う家庭で、アルバイトを嫌がる者は「モラトリアム人間病」という病気にかかっているのだ、という主張であり、自分でアルバイトを見つけてこなければ、父の勤め先の会社の工場にアルバイトに行くと話を決めてきてしまうので、そこに行かされないようにするために、その前に、自分でアルバイトを決めてくるしかありませんでした。 最初に父の勤め先の工場に行かされた時、帰りがけ、阪急の車内で、同じ中学校・同じ高校から大阪大学の法学部に行った男と会い、どこに行ってきたかと彼がきくので、工場のアルバイトに行ってきたと正直に言ったところ、「へ~え、そんなことやってるのお。」と馬鹿にしたように言われたことがありました。彼はどこに行ってきたかというと「司法試験の勉強に大学に行ってきた」ということでした。 私が工場で汗にまみれて物を運んだりしていた時、彼はクーラーの入った部屋で司法試験の勉強をしていたらしく、彼は何年後かに司法試験に通りました。 東大に行った者は余裕のある時間にコントラバスの練習をし、阪大に行った者はクーラーの入った部屋で司法試験の勉強をしているのに、なんで私だけが、「とってちってたあ~あ!」とか言われて、こんなことをやっているのか、と情けなくなりました。 夏休みに、アルバイトとして、保養所の「雑務」を2カ月やった後、慶應義塾大学の後期が始まってすぐ、少人数の授業(受講者3人だけ)で、担当の助教授から、夏休みは何をやっていたかときかれて、保養所の雑務のアルバイトを夏休みの2カ月間おこなっていましたと言うと、「きみ、そんな保養所の下男みたいなものやっていたのでは、勉強できんだろお。」と言われたことがありました。実際、そうなのですが、「とってちってたあ~あ!」という考えの父親にしては、「あんたの大学の授業時間は、わしの会社の勤務時間よりも少ない。甘ったれるな。」と言ってきいてくれませんでした。会社と違って、学校というものは、学校の授業時間だけが学習時間ではなく、夏休みとか春休みといっても学校は休みでも勉強は休みではないと言っても、「甘ったれるな。大学みたいなもの、勉強するところと違うんじゃ。ぼけーっとしててもしかたがない。」と言い、「ぼけーっと、なんかしてない。」と言っても、「そうか。それでも、ぼけーっと、しててもしかたがない。アルバイト、アルバイト、アルバイト、アルバイト。とってちってたあ~あ!」と言って、理解してくれませんでした。 もしも、学費や生活費が足らないのであれば、あらかじめ、そのように言ってくれれば、その分を比較的勉学に支障がでないようなアルバイトを計画的におこなうか、もしくは、家賃が今より安いアパートに引っ越すかするから、いくら自分で稼いでくれということを言ってほしいと言いましたが、「わしは、そういう考えはまったくないねん。このわしはあんたに稼いでもらおうなどということはまったく考えてない。すべて、わしがだしてやってやってやってるねん。そういう人間やねん。わしは聖人やねん。」と言ってとりあってくれませんでした。そして、「アルバイト、アルバイト。とってちってたあ~あ!」と言っていました。 デンマーク人の哲学者 キルケゴールの哲学の研究をしたいと思い、白水社から出ていた『デンマーク語入門』という本を買ってきて読み始めていたところ、父がそれを見て、「デンマーク語みたいなもの、勉強することない。甘ったれるな!」と言って、取りあげられはしなかったけれども、取りあげられそうな感じになりました。 真面目に努力して勉強すれば、行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をしてやりたい研究ができると思って、小学校から高校まで努力してきたつもりでしたが、その結果は「とってちってたあ~あ!」でした。どうも、小学校から高校まで、私はない夢を追ってきたようでした。 それで、その阪大の法学部に行っていた男が、その男のお母さんが言うには「在学中に現役で司法試験に通った」(実際には、4年を2回やって2回目の4年の時に通ったらしく、そういうのを「現役で通った」とは言わないのではないかという気もしますが、「お母さんの表現」になるとそうなるようです。)、父親から「あんたとは違ってえらいなあ、爪の垢でも飲みなさい。」と言われたものですが、本当に心の底からあの男の爪の垢でも飲みたかったと思いました。爪の垢でも飲めば、私が工場で汗と原料にまみれて物を運んでいた時にクーラーの入った涼しい部屋で座って法律の勉強をしていた男のように、自分が勉強したいと思うものを勉強させてもらえるのなら、爪の垢でも糞でもションベンでも飲みたいところでした。( 私にとっては、弁護士とか裁判官・検事などという仕事についているヤツというのは、そういう類の人間のことです。 橋下が司法試験に通ったのも、そんな感じかな~、と私は思っているのです。 私が汗と原料にまみれて暑い工場で物をはこんだりしていた時に、クーラーの入った涼しい部屋で座って法律の勉強をして、それで、司法試験という難しい試験に通った「エライ人」みたいに思っているような人間が多いと思います。 ついでに、「副検事」というのは、検察官の中で2番目の役職の検察官のことかと思っていたら、そうではなく、検察官には司法試験に通って検察官になっている「検事」と司法試験に通っていないくせに「検察官」になっている「副検事」がいて、司法試験に通っていないくせに「検察官」の仕事をしている裏口入学みたいなヤツが「副検事」のようです。 もっと俗っぽい言い方をするならば、検察庁で検察官を名のっている人間のうち、どう見たってどう考えたって、司法試験に通ったという顔をしていない人間、東大とか京大とかを出たとは絶対に見えない顔をしている人間が「副検事」です。 ) 詳しく述べだすときりはないし、自分の過去の情けない思い出など、長々と述べても誰も理解もしなければ、面白くもないでしょうから、この程度にとどめますが、こんな感じであったので、小学校の頃は「勉強する家庭」であったとしても、だから、それが良かったかというと、そうとは必ずしも言えません。

    私が大学生であったとき、小学生向けの通信教育の教材の訪問販売のアルバイトをやったことがあります。 なんで、私だけ、こんなことをしなければならないのかと思い、情けない気持ちで、又、東大や京大や阪大に行った者は、家庭教師や塾の教師をアルバイトでやっているのに、私は、こんなことをやっているのか、とも思い、「天地(あめつち)は 広しといへど 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる〔天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか〕」(山上憶良『貧窮問答歌』)(農民の悲哀~貧窮問答歌 http://www2.airnet.ne.jp/shibucho/hinkyuu.html 他参照)などとも思いました。 そう思いながら、東京都世田谷区の東急の二子玉川駅から10分ほど歩いたあたりの所に行きました。小学校の低学年の子供と幼稚園児のいる家庭の名簿を渡されて、チラシを郵便受けに入れて、2~3日後に訪問して話をして契約してもらおうというものですが、そう簡単に契約してもらえるものでもありません。 特に、その頃の私などは、教育論・教育学に関心があって、自分なりに、どうすれば学習効果は伸びるかといったことにも一家言持っていましたから、その会社から、この通信教育はこれほど効果があると言われても、そんなことしなくてもできるよ、と思ってしまうようなところがあり、多くの契約をもらったという人のことをきくと、どうも、「大学」でも底辺の方の大学の人が多く、要するに、どうすれば学習効果は上がるかという点について、自分でわかっていない人の方が、その会社の主張をすんなりと口にできるようでした。 自分なりに一家言持っている人が営業として不向きかというと、ある程度以上、長くやるならば、不向きというものでもなく、むしろ、自分なりの営業が確立できて成果はでる可能性はあると思いますが、大学生のアルバイトとしてであれば、一家言持っていない人の方がやりやすい面はあるかと思います。
    それで、二子玉川駅から北西に10分ほどの所で、2軒か3軒の連棟建ての平屋の借家の所に行った時、家の前で、小学校の1年生の女の子がひとりで、ドッジボールをついて遊んでいました。 「お母さんは?」ときくと、「もうすぐ、帰ってくる。」と言い、子供だけがいて、お母さんがもうすぐ帰ってくるというような場合には、子供に、その教材をやらせてみてくださいと言われていたので、「こういうの、やってみる?」と言うと、「うん。」と言って、やりだし、子供だけの家の中に入るわけにはいかないので、家の前にしゃがんでやっていると、そのうち、しゃがんでいる私の膝の上に腰かけて、やりだしたのです。 なんだか、居心地よさそうに座ってくれるけれども、こっちはしびれが切れてきて、姿勢がつらいのですが、子供が膝の上に座っている限り、母親が帰ってきた時には、無視されることはないだろうと思って、がまんして算数とか国語とかの教材を教えていたのです。 そうこうするうちに、母親が帰ってきたのですが、母親に教材の説明をしようとすると、「この子はねえ、どんなにしたって勉強しない子なんだからね。そんなもの契約してもしかたがないの。この子はどうしたって勉強しない子なんですからねえ!」と言って、そのまま行ってしまったのです。 私は言いたかった。「あなた、母親でしょう。母親が自分の子供のことを『どうしたって勉強しない子』なんて、そんなこと言ってどうするんですか。他人が言うならともかく、親がそんなこと言って、いったい、どうするんですか。」と。 今、思えば、その時、思ったその通り、口にすれば、それは相当に強力なセールストークになったと思うのです。実際、百科事典のセールスで成績を残したという伊藤光雄という人が『驚異のセールストーク』(1979.11.20.こう書房)で、ほとんど同じことを言い、小学生向けの通信教育ではなく、百科事典の販売に成功した例をあげています。 でも、その時の私は、営業の経験もなく、言えなかったのです。見込み客に対して、そういうことは言えないと思っていたのです。 言えば良かったのですけれどもね。 そして、子供がこちらの膝の上に座っている限り、無視されることはないという予測も甘かった。 「この子はどうしたった勉強しない子なんですからねえ。」と言うと、娘を私の膝の上に座らせたまま、また、すぐに出かけてしまったのです。 「待たんかい。ばかママ~あ。自分の娘を初対面の男の膝の上に座らせて、どこ行くんじゃい。 もし、俺が子取りだったら、どうするつもりじゃあ。待たんかい。こらあ。」と思ったのですが、母親の方がそうは思わなかったらしく、さっさと行ってしまったのです。 そして、母親にそういうことを言われても、娘の方は、「次はどれするの?」と言って、「どうしたって勉強しない子」どころか、私は特別のことをしていないのに、うれしそうに言い、そして、それから、さらに、私の膝の上で、教材を2枚ほどおこなったのでした。 しかし、私が小学校の先生ならば、いくらでも見てあげるのですが、小学校の先生ではなく、チラシには「家庭教師のつもりで」とか書いてありますが、実際には仕事は「家庭教師」ではなく教材の販売員ですから、契約してくれない家庭の子供のために、いつまでも時間を費やすわけにもいかないし、契約してくれない家庭の子供に商売物の教材をいくらでもさせるわけにもいかないので、それで、子供の方は、まだまだやりたがっていたのですが、「申し訳ないけれども、もう、ちょっと、行かないといけないから。」と言って、そこを去りました。子供は、「ばいば~い。」と言って、手を振って見送ってくれたのですが、立場上しかたがなかったとはいえ、まだ、勉強したがっている子供から教材を取り上げるようなことをして、これが原因で、あの子は、将来、変な方向に進まないだろうか、とか、そこまでいかなくても、勉強のできない子になってしまわないだろうか、とか、罪の意識にさいなまれました。 そのすぐ後、ある大企業の社宅に行った時、訪問すると、母親がでてきて、「ちょっと、待ってくださいね。」と言い、「○○ちゃ~ん。ちょっと、来てえ。」と子供を呼び、そして、「こういうのだけれども、やってみる?」ときき、子供が「うん。やるう。」と言い、契約してもらえたということがありました。 その時の仕事として考えれば、契約してもらえたお宅のおかげて、高額ではないけれども、歩合をもらったのであり、契約してもらえなかった家庭の子供にいくらつくしてもただ働きなのですが、「○○ちゃん、こういうの、やってみる?」と子供にやらそうとする親の家庭と、「この子はどうしたって勉強しない子なんですからねえ!」という家庭では、その子は何も悪くないのに、おそらく、後者の家庭の子供の方が、学校の成績は良くない成績になる可能性が高いのではないかと思い、なんとも、複雑な思いがいたしました。
  人様の家庭の内容を変えるなどということは、そんなに簡単なことではないと思います。 橋下は、小学生にも留年させるという主張をするようですが、「この子はどうしたって勉強しいない子なんですからねえ。」という家庭の子供には、果てしなく留年させるというつもりでしょうか? 「勉強しない子」じゃないですよ。 だって、私の膝の上で、喜んで勉強していたんだから。 どうすればいいでしょうか。 どうすればいいのか、私は、はっきりとした解答があるわけではありませんが、とにかく、一定の基準を設けて、それに達しなければ留年させるというようなことをすれば、それでいいというものではないと思います。

  もうひとつ、私が大学生であった時の経験があります。 川崎市の幸区でのことです。 「アルバイトニュース」だったか「アルバイト情報」だったかに、小学生向けの学習塾の講師のアルバイトの募集がでていて、応募したことがありました。 応募に行った時、「学習塾にもいろいろあって、相当できる子供をよりできるようにしようという学習塾もあるけれども、ここは、本当にできない子供が集まっているという方の学習塾です。」と説明され、「今、子供が来ていますから、一度、実際に教えてみてもらえますか、これが、今日の教材です。」と言われて、にわか教師として、少しの時間、「先生」をやったのですが、その後、本職が、子供たちに、「きょうの先生は、どうだったあ?」と子供に印象をきくと、子供が皆で、「○○ちゃん、かわいそう。 ひど~い。かわいそうだあ。」と何人もで言うのが聞こえました。 何が「かわいそう」かというと、何であったか問題を説明して、ある子供にあてて、きいてみたところ、答えられず、理解できていないようだったので、それで、「本当にできない子供が集まっている学習塾」だということなので、ひとりひとり、できるように、「できぬなら、できるまでやろう、ほととぎす」とでもいう気持ちで、その子の所へ行って、懇切丁寧に説明して、そして、次に進み、そして、その次にも、答えられない子供には、そばまで行って、わかるまで説明して、ということをやったのですが、「本当にできない子供」にとっては、そばまで来られて説明されるというのが、「かわいそうだ」「ひど~い」ということになったようなのです。 できなくても、そのまま放置しておいた方がいいのでしょうか? そうではないでしょう。 でも、「先生」が横まで行って、個別指導をすると、個別指導をすること自体が、何人もの前でペナルティーを受けているように受け取られてしまうらしいのです。 たぶん、「できる子」なら、そうは受け取らなかったのではないかと思います。 「できない子」は、適当に放っておいた方がいいのでしょうか。 学習塾の経営としては、その方が、子供はできなくても来るし、親は、月謝を払うので、経営は成り立つのかもしれませんが、放置して、その時間、適当に、そこですごさせて帰らせるのでは、指導していることにならないのではないでしょうか。 そこでは、結局、不採用になりました。 それが原因で不採用になったのか他に原因があるのかはわかりません。 「できない子」を、なんとか、できるように指導しようと思っても、指導しようとすること自体が、「できない子」には、罰を受けているというように受け取られてしまう可能性があるのです。 大学生なら、留年することで、取得できいなかった単位を留年した年に取得するということはあっても、小学生で「できない子」に留年させても、ますます、やる気をなくしてしまうだけではないか、と思います。 
   橋下は、こういう経験ないのじゃないのかな。 こういう経験を持たず、頭の中だけで考えているのじゃないのかな?


   「できる人」は、努力したからできるのか、生まれながらに才能があるからできるのか、どちらでしょうか? 
   数年前、ラジオの野球中継で、誰であったか解説者(確か、豊田泰光氏だったと思うが、他の人だったかもしれません)が、巨人の高橋由伸を取材したところ、彼の手のひらには、ものすごいマメがあったと言い、「彼を天才などと言う人がいますが、そうじゃないですよ。彼は努力していますよ。 『天才とは努力の代名詞』と言いますが、その通りです。」と述べていたのを聞きました。 私は、在来木造の I 工務店に在籍していた時、宅地建物取引主任者・インテリアコーディネーター・キッチンスペシャリストの資格を取得しました。 インテリアコーディネーターは、 I 工務店の営業本部長が取得してくれと言うので、それで、大変な思いをして取得したものです。 キッチンスペシャリストは、会社という所においては、上役が10のことをやってくれと言えば10のことをやる人もおり、10やってくれと言われても7か8くらいしかやらない人もいれば、12か13やるひともいる、インテリアコーディネーターを取得してくれと言われたのであれば、インテリアコーディネーターとキッチンスペシャリストを取得しようと考えて、それで取得したというものです。相当に苦労しました。 ところが、在籍後半にいた営業所の営業所長になっていたKさんという人が、何と言ったかというと、「インテリアコーディネーターにしても、宅地建物取引主任者にしても、ぼくらは、どんなに努力しても通らないのに、あんたは、簡単に通る。ずるい! 不公平だ。」・・・・。  ふざけるな! 「簡単に」なんか、通ってるか! 会社の上司が取ってくれと言うから、片方で仕事をこなしながら、大変な思いをして取得したものを、「ずるい」とは何だ! 裏口で通ったわけでもなし、私立金権医学部と一緒にするな! 失礼な・・・と思ったのです。 だいたい、「ぼくらは、どんなに努力しても」て、どんな努力したんだ? 何もやってないじゃないか。 勝手なこと言うな! と思ったのです。実際、勝手な言い分だと思います。 
   しかし、これも、ラジオの野球中継の時に、アナウンサーだったか解説者だったかが言っていたことですが、巨人からアメリカ合衆国の大リーグに行った松井秀喜の父親は宗教団体をやっているらしく、その父親が「努力しようという気持ちになれるということが才能である」と言ったというのです。 なんだか、いかにも、宗教団体の人が言いそうな文句ですが、そういう面はあるのかもしれないと思っています。 確かに、何の努力もしないで通ったのではなく、大変な努力をして通ったのであろうけれども、しかし、そういう精進をして血のにじむような努力をすることができる人というのは、そういう努力をしようという気持ちになれるという才能があるのではないか、そういう努力をしない人というのは、努力をしないから通らないのであっても、努力をしようという気持ちになれない人なのかもしれない、という考え方はあるでしょう。 この論理は気をつけないと、努力しない人に、だから、俺たちにも精進して努力して成果を出した人間と同じだけの評価をしてもらって当然だと開き直られてしまうおそれがあり、要注意な論理ではあるのですが、しかし、そういう面はあるのではないかとも思えるのです。
   ある程度以上の年齢になった人間の学習能力の違いというのは、どこからきているのでしょう。 I 工務店で営業所長をしていたKさんが、宅健主任にしろインテリアコーディネーターにしろ、通らないで、私が通った原因は何かというと、一番大きな理由は通る気があったかなかったかだと思いますが、学習能力の違いもあったでしょう。 それは、どこからきたかというと、
1. 〔一般的学習能力〕 小学校から中学校・高校までに真面目に努力して学習してきた者には、基礎学力とでもいうものがあり、それのある者とない者とでは、その後に何かを学習するにおいても、学習しやすさ、しにくさは異なるのが当たり前です。 それまでに努力していない人が、それまでに努力してきた者と同じだけの学習能力が身についていたのでは、それこそ「不公平」です。
2. 〔試験に通る、受験に勝つ能力〕私は「受験のベテラン」であったからです。 「不公平」ではありません。 今、残っている、かつて大学受験の頃に使用したテキストなどを見返してみると、「よく頑張ったなあ」と思うとともに、すでに何十年か経って過去の自分というのが今の自分そのものではなく、自分の弟のような存在になってきた今では、「こんなに頑張ったのに、かわいそうになあ」という気がします。 努力して行きたい大学に行けた者は良いけれども、行けなかった者でも東大とか京大とかに行こうとした者というのはそれなりに努力しているのであり、それだけ努力して、行きたい所へ行けた人はいいけれども、行けなかったというのは自分のことなら「かわいそうに」などとは思わないけれどもかつての自分が「自分の弟のような存在」になると、かわいそうになあ・・という気になってみたりします。 しかし、そこから学んだものもあるのです。私が高校を卒業した年、東大の試験に落ちて、落ちた時はそうも思わなかったのですが、2か月か3カ月くらい経った頃、自分の経歴に傷がついたように思い、それを挽回するにはどうすればいいかというようなことを考えました。そして、「一番で通る」「最高得点答案を書く」ということをすれば挽回できるのではないか、というようなことを考えたのです。(実際にはある程度以上手ごわい大学の入試で「一番で通る」とか「最高得点答案を書く」とかいうのは決してたやすいことではありませんが。) そして、ローニンしても合格できなかったのは、なぜかというと、理由は2つ以上ありますが、ひとつには、そんなことを考えたからです。 「一番で通る」などと、「ふと」でも考えるから、8月に受けた駿台の東大模試で、合否ぎりぎりくらいの判定がでていたのに、よっぽど悪い成績を取ったように思ってショックを受けたりしたのです。模試で合否ぎりぎりの成績なら、本来はショックを受けることなどなかったはずですが、たとえ、「ふと」でも「一番で通る」などと意識するから、ショックを受けるのです。 結局、二浪しても合格することができなかったのですが、おかげで、「入学試験・資格試験というものは、大事なのは、合格最低点を1点でも上回ることであって、それ以上取るかどうかは重要ではない」という認識を身につけました。 これは、それまで、まったくわかっていなかったというわけでもないのですが、「骨身にしみてわかった」のは、ここでつらい思いをしたからであり、そして、その後、仕事を持ちながら、宅健主任・インテリアコーディネーターの資格試験を受けるにおいて、より実感として思うようになったのです。『あしたのジョー』の中で、丹下段平が矢吹ジョーにクロスカウンターを教えるのに、「おのれの肉と骨のきしみで覚えるしかねえ」と言ってジョーに実際にクロスカウンターを浴びせる場面があったと思いますが、「いかにして合格最低点を上回るか」「合格者最高得点答案なんか、どうでもいい」という認識、それが、入学試験・資格試験における「勝負強さ」であり、「おのれの骨と肉のきしみ」と引き換えで身につけた者と同じだけの認識を経験のない者が身につけたとしたら、そちらの方が「不公平」です。 
※私が、二浪しても合格できなかった年、街には映画『あしたのジョー』のテーマ曲が流れていました。
「YouTube―あしたのジョー ~美しき狼たち~ ― おぼたけし 」http://www.youtube.com/watch?v=MhtHaAroIDM 
この曲を聴いて、その時の気持ちを思い出す者と何もない者が同じでは「不公平」だと思います。
3. 〔特定の技能について〕  宅健主任の試験・インテリアコーディネーターの1次試験(学科)は、それでほぼ独学で合格できましたが、インテリアコーディネーターの2次試験(製図・論文)の製図は、それまで本宅的に製図を学んでいないので苦労し、独学では厳しいと判断してハウジングエージェンシーのインテリアコーディネーターの2次試験対策講座に通い、言われた通りにやってみて、そして、やっと合格できたのですが、頂点でない方の大学でも建築学科を卒業して「設計」といった職種についていた人は、製図試験については私より楽に合格できたようです。 それは、それまで私より製図を多くこなしてきていたからで、建築士の資格試験での製図も経験していたからでしょう。 私も、インテリアコーディネーターの2次試験での製図、キッチンスペシャリストの製図試験を経験して乗り越え、もし、その後、もうひとつ、製図の試験を受けることになっても、今後は独学でもある程度以上できるのではないかと思うようになりました。
   以上、1~3、学習能力一般、試験に通る・受験に勝つ勝負強さ、その試験で問われる特定の技能 の3つが、あらかじめある人はない人よりも通りやすい、ない人はあらかじめある人に比べて通りにくい ということです。
   しかし、もうひとつ、あるのかもしれないとも思います。 それは、生まれながらの能力というもので、あまり、自分で、自分は生まれながらの能力が無いなどとは思わない方がいいと思いますし、特に、若い人は、自分で自分は能力がないなどと思ってしまうと、もともとはそれほどだめでもないのに、そう思ってしまうことでできなくなってしまうということもあるので、少しくらいできない時があっても、自分は能力が無いなどと思わない方が良いと思います。 しかし、それでも「生まれながらの能力」に差はまったくないとは言いきれないでしょう。 巨人の高橋由伸が「天才」ではなく「大変な努力をしている」とラジオの解説者は言いましたが、努力もしているでしょうけれども、もし、私が野球に彼と同じだけの努力をしたとして彼と同じだけの成績を残せたかというと残せなかったのではないかと思うのです。やはり、「持って生まれたもの」もあるのではないか。 I 工務店のKさんは、それを言っていたのだと思うのですが、しかし、何の努力もしないで「ぼくは、どんなに努力しても通らない。不公平だ。」などと言われても、勝手なこと言うな!ということになります。 しかし、「持って生まれた能力・才能の違い」はないとは言えないとは思います。但し、小学生くらいから、あまり、そういうことを言うと、できる可能性のある人までできなくしてしまうおそれがあるので、あまり言わない方がいいとは思います。

   小学生で「留年」ということをさせると、どうなるか?  おそらく、(申し訳ない言い方だけれども)「持って生まれた能力」の部分で相当に劣る人と、家庭環境がお勉強する環境でない人が留年させられることになると思います。 

   「持って生まれた能力」が劣る・劣らないといっても、人間の能力というのは、複雑で多元的であり、たとえば、山下清のような人というのは、能力がないと評価するのは正しいでしょうか? そうではないのではありませんか? 
※ 山下 清 については、たとえば、
「ウィキペディア―山下 清」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85
 
   もしも、「きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」という主張で留年させれば、おそらく、山下 清のような人は永遠に留年することになるのではないでしょうか。 それが良いでしょうか?

   中原中也は、小学校くらいの時は成績優秀であったが、だんだんと成績が悪くなっていったというのですが、たとえ、成績が悪くなっていってしまったとしても、それでも、中原中也の詩はすばらしいと思うのですが、杓子定規に「目標レベルに達」しなかったら「留年」させた方がよかったでしょうか。

  「義務教育」といっても、小学校・中学校に行くのは、基本的には国民の権利だと思いますが、「きちんと目標レベルに達するまで」いかないと進級させてもらえない、かつ、行かないわけにはいかない・・となると、小学校・中学校の教育は、本当に「義務」になってしまうのではないでしょうか。 

  もしかして、橋下は、小学校で「目標レベルに達」しない子供は「子供のため」と言って「留年」させて、それでも進級できない子供は、かつて、ナチスが「精神障害者」におこなったようにガス室に送るとか考えているのではないでしょうね。

  小学校の時にあまり勉強しなかった人でも、後から、もっと勉強しておけばよかったと思うようになる人がいます。 そう思っても、前の段階のことがわかっていないから後のことは学びにくいということで、挽回できずにいるという人もいます。 小学校の低学年で扱っていることを、中学年・高学年になってからでも振り返って学習できるシステムを、中学校になってからでも小学校でやっていたことを学びなおせるシステムを作るというのならば、やっていいと思います。 しかし、 「留年」ということをさせたのでは、むしろ、学習意欲をそいでしまう可能性が大きいと思います。 上に述べた「できない子」の学習塾で、すべての生徒に理解できるようになってもらおうという気持ちから「先生」が横に行って個別指導をしようとしたことを、みんなの前で罰を受けたと解釈してしまう程度ではなく、もっと強く≪この人は「できない子」と公式に認定された≫と意識してしまうのではないか と思います。

   だから、小学校の各学年で扱っていることを、十分に学べなかった子供に、学年が進んでからでも学びなおすことができるシステムを作るというなら賛成ですが、「留年」はできる限りやめた方がいいと思います。 
   就職する際にもマイナスになる可能性が考えられます。もし、小学校でも「留年」させるなら、それが原因で就職にさしさわりが出ないように配慮する必要がありますが、橋下に配慮する能力があるとも思えません。

   ところで、卒業式などで、「君が代」を強制して、決して侵されてはならない国民の「信教の自由」を侵害することに抵抗を感じず、又、戦前の天皇制とは異なり、戦後の象徴天皇制では、天皇は象徴であって元首ではないはずであるのに、天皇制においては元首は天皇だと言ってみたり、さらに、日弁連などが「憲法違反」と指摘する全職員に対する政治・組合活動に対するアンケートを平気でおこなったりする この橋下 徹という男、義務教育の小学校・中学校で「目標とするレベルに達」していないのではありませんか?  もう一度、小学校から行き直させて、このあたりをきっちりと理解できるようになるまで、中学校を卒業させずに「留年」させた方がいいのではないかとも思うのですが、どうでしょうか。
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毎日jp
橋下・大阪市長:全職員の政治活動調査 日弁連など「憲法違反」  http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120217ddm012010051000c.html
 大阪市の橋下徹市長が全職員を対象に政治・組合活動に関するアンケートを16日まで実施し、日本弁護士連合会や市労働組合連合会などが「憲法違反」と猛反発する事態に発展。共産党の志位和夫委員長が16日の記者会見で「憲法で保障された思想・良心の自由や政治活動の自由をじゅうりんし、労働組合活動を侵害する不当労働行為。二重の憲法違反だ」と批判し、アンケートの廃棄を求めた。
 アンケートは、昨年11月の大阪市長選で労組が前市長の支援活動をした疑いがあったとして、橋下氏が指示。市職員約3万5000人に記名式で回答を義務づけ、今月10~16日に実施された。特定の政治家の応援や組合活動への参加の有無など22項目を尋ね、非回答なら処分も検討するとしている。結果は、橋下氏の検討している職員の政治活動を制限する市条例案などに反映されるという。
 志位氏は橋下氏率いる「大阪維新の会」が次期衆院選の政権公約の骨格を発表したことにもかみつき、「大阪で進めている独裁政治を国政に押し広げようというのが本質だ。(橋下氏が)日本の改革者のようなポーズで出てくることに無批判であってはならない」と述べた。
 橋下市長は16日、報道陣に「厳しい調査だが、法律に違反しているならしかるべき機関から修正される。ルールの中で進めればいい」と述べた。【犬飼直幸】

毎日新聞 2012年2月17日 東京朝刊
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  「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」という文句、橋下 徹 は人に言うのではなく、自分自身に言ってはどうか?  橋下には「きちんと目標レベルに達するまで」「留年」してもらった方がいいのではないのか、「留年は」橋下「のため」であり、国民のため、大阪市民のため、大阪府民のためではないかと思うが、いかがか?
    (2012.2.23.)


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    Excerpt: 小学校での留年は子供の学習意欲を削ぐ。 学力の「目標レベル」て何だ?―橋下徹の不認識にはあきれる。 哲建ルンバ/ウェブリブログ Weblog: エアマックス 2013 racked: 2013-07-09 23:44