橋下徹の貧困な学校観~「すごい学校」とは「とんでもない学校」の間違いではないのか?

〔第83回〕
   橋下徹が政治家になるという話を聞いた時、学校に関しては、ほんの少しだけ期待した部分があった。 それは、橋下が私立6年制受験校の出身ではなく、公立進学校の出身者であるということから、公立の学校の良い部分を理解しているのではないか、と、少しは期待したが、期待すべきでない人間に期待してしまったようだ。

   私は、橋下と同じ北野高校を橋下よりも10年ほど先に卒業した。私が入学する少し前までは、大阪府の豊能地区(主として、阪急宝塚線沿線)・三島地区(阪急京都線沿線)と大阪市の淀川地区など(東淀川区・淀川区・西淀川区と大淀区・北区〔現在は、合併して北区〕)を学区としていたが、私が入学する時点では、学区が少し小さくなって、三島地区は別の学区になり、結果として、少し入りやすくなり、進学状況としては、それまで、京都大学に毎年100人以上は合格していたのが、80人前後くらいに減ったが、それでも、しばらくは、京都大学の合格者数では1位の年が多かったが、その後、1学年あたりの定員が増えて、逆に、進学状況は低下していった。 橋下が北野に行っていた頃は、私の頃よりも、さらにひと回り、進学状況は低下していたが、それでも、一応、進学校であったように思う。 現在でも、一応、進学校ではあるかもしれないけれども、京都大学の合格者数も私が卒業した頃の半分くらいになり、私が北野高校に入学した頃、私よりも成績が悪かった人が「すべり止め」で受けたような私立高校よりも進学状況は下の学校になってしまったようだ。 進学状況が変わるのはしかたがない。しかし、高校に入学しようという人に魅力が無いことから、学力のある生徒が私立に流れるのであれば、公立の学校は、その状況で良いのかどうか考えるべきであろう。 進学成績だけで学校の値打ちが決まるのではないというのは、その通りであるが、自分が卒業してから何十年か経ち、高校時代の状況を考えると、進学状況が低下している公立の「名門校」というのは、全般に、それまで、「進学校」でも「名門校」でもなかった私立の学校で進学成績を伸ばしている学校に比べて「企業努力」が不足していたようなところはないのかな・・という気もしないではない。

〔1〕  しかし、その一方で、私立の6年制受験校のような学校、及び、そういう学校の出身の人を見ると、進学状況が良くても悪くても、行きたいと思った大学に行けた場合も行けなかった場合も、はたして、これで、いいのかな? と思うケースがある。
(1)  大学受験において、ある程度以上の成績は取ったのかもしれないけれども、その割には、小学校から高校まででおこなっているもの、及び、そこから身に着く認識といったものが身についていないという人が、公立の「(落ち目の)名門校」の出身の人に比べて「新興の私立6年制受験校」の出身の人には多いような気がするのだ。もちろん、人によって違うだろうけれども、しかし、「多い」ように思う。
(2)  最近の東大は、私などが中学生や高校生、あるいは、大学に行くか行ったかという頃の東大に比べて、値打ちがなくなったような気がしている。 私が高校生の頃、高校の先生で、自分は、何学部の何学科に行きたいのか、何何大学に行きたいのか、という時に、何学部の何学科に行きたかったのであって、京都大学というのは接頭語であった・・とか言った人があったが、それはカッコつけすぎ。東京大学とか京都大学とかいう大学が“ 接頭語 ”などという軽いものであるわけないでしょうが。 しかし、何学部何学科という方が軽すぎる人というのも困りものではないかと思う。どうも、最近の東大は、東大に行きたかったのであって、何学部とか何学科とかはどうでもよかった・・・みたな人の割合が、昔に比べて増えていないか? そして、もしかして、東京大学という大学は、日本の大学の中で、何学部何学科に行きたいのか、何何大学に行きたいのか、どちらなのかという問題を考えた時、何学部・何何学科にではなく、何大学に行きたいという方の人の割合が、全国の大学で最も大きい大学ではないのか? というような気がするのです。 たとえ、入学試験の難易度が最も難しくても、はたして、そんな学校が一流大学だろうか? と、ふと、思ってみたりもします。 そういう傾向が、最近、強くなってきているように思えるが、その原因のひとつは、東大の入学者に、私立6年制受験校の出身者の占める割合が大きくなったことと連関しているような気がしている。 公立の「(落ち目の)名門校」の出身者は、すべて、何学部何学科で決めていたかというと、そうではない。大学はどこでもいいなどというわけないでしょう。小学校から高校まで、12年間、努力してきたのに、「大学はどこでも一緒や」とか勝手なこと言われても、「はい、そうですか」と思うかというと、思うわけないでしょうよ。しかし、何学部何学科でもいい、何大学でさえあればいいという人は、少なくとも、新興私立受験校の出身の人に比べれば少なかったように思う。
(3)  そして、小学校から高校まででおこなっていることというのは、大学受験にも必要かもしれないけれども、大学受験と関係ないものもあり、関係ないから無意味というわけではなく、大学受験に関係なくても、人間にとって、必要なもの、役立つものもある。 ところが、どうも、私立6年制受験校の出身の人を見ると、大学受験がすめば、高校までで扱ってきたものは、もう必要ない、としてしまう人が多いし、試験にない科目で扱っているものは価値が無い、と教えられてきたのかな?という感じの人が多い。 私が、慶應義塾大学の商学部に在籍した時、東京の開成高校出身の男がいて、たまたま、私が、プッチーニのオペラ『トスカ』の話を他の男としていたら、「そんなもの、何か価値があるのか」と横から口出してきたことがあった。 そうなんだ。 開成高校では、『トスカ』もアリア「星は光りぬ」も、「そんなもの、何か価値があるのか」と教えているんだ。 かわいそうにね。 東大に行けずに慶應に来たのはしかたがないとしても、『トスカ』を「そんなもの、何の価値があるのか」と教えられてしまったというのは、本当にかわいそうだ。 きっと、死ぬまで、その認識なんだろうね。
※プッチーニのオペラ『トスカ』の中の、マリオ=カバラドッシのアリア「星は光りぬ」は、たとえば、
→ 「YouTube―Placido Domingo - E Lucevan Le Stelle 」http://www.youtube.com/watch?v=MCF9m_dKsU0 
(4)   株式会社ミクシィの社長の笠原某氏が、北野高校の出身らしい。何年か前に、たしか、「AERA」だったように思うのだが、笠原氏を取材した記事を載せていたが、そこで、「AERA」の記者が、笠原氏の高校か中学校の同級生に取材し、ライブドアのホリエモンと笠原氏を比較して話をしたところ、元・同級生が、「でも、笠原くんは、ホリエモンみたいに、『人の心はカネで買える』などということは言わないと思いますよ。」と述べていたのを見ました。 笠原氏が北野高校に行っていたのは、私より後、橋下よりも前だと思っていたが、「ウィキペディア―大阪府立北野高校の人物一覧」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%8C%97%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7 を見ると、橋下よりも後らしい。 私は、笠原氏とも、ホリエモンとも、直接、会ったこともないので、実際にどうかなのかはわからないし、又、人間は学校だけで決まるものでもなく、ひとりひとり異なるとは思うが、一般に、「私立6年制受験校」の出身者と「(落ち目の)公立名門校」の出身者を比較すると、「私立6年制受験校」の出身者の方が、「人の心はカネで買える」というような文句を口に出しやすい人が多く、「公立名門校」出身者には、そういうような文句は簡単に口から出ない人間が多いという印象を受けている。


〔2〕  もうひとつ。 遠山啓の『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』(1976.1.31.太郎次郎社)には、
≪ 人間はどこまでいっても動物の一種類でなくなることはないだろう。したがって、よい条件反射を形成することが教育の一部分をしめることは避けられない。幼児期における母国語の習得もそのようなもののひとつであろう。また、身体や手足の合理的な使い方にかかわる体育・技術・図工などのトレーニングの部分がこれに属する。・・・・
  このような領域をかりに「術」と名づけることにしよう。もちろん、この「術」的なものは、多かれ少なかれ、すべての教科にふくまれている。数学では計算力などがこの領域にふくまれるだろう。
  ・・・・・つぎはそれぞれの個別科学や芸術のジャンルに対応する個々の教科で、国語・数学・理科・社会・美術・・・・などである。この領域を「学」と名づけよう(美術を学の中に入れるのはやや無理であるが。)・・・
  ・・・・この各教科の学習によってえられる知識をかりに「学」と呼ぶことにしよう。 ・・・・
  雑多な知識としてつめこまれている知識や技術を総合して、それらを統一して、それを世界観・人生観・社会観・労働観・職業観などにまで高めるような領域を「観」と呼んでみることにしよう。
  ・・・・・戦前の学校はこのような「観」の教育を行っていたが、そこで行われていたのは、軍国主義・国家主義とよばれる「観」の天下り的な注入であり、それは自己形成とは正反対のものであった。自己形成という条件こそ「観」の教育にとって絶対不可欠の条件なのである。ここでいくら強調しても強調しすぎるおそれのないことは、「観」の注入教育はいかなる立場からするものでも絶対に排除すべきだ、ということである。≫
といったことが述べられている。
(1)   私が慶應義塾大学に行った時、慶應の内部進学の人たちを見て、なあんか、この人たちは、「観」を自己形成するのではなく、「塾風」という「観」を注入教育されてきているような感じがする、と思った。 「この僕は中等部から慶應に言ってるんだぞお。わかってるのかああ! きみたち “ 外部の人間 ” とは違うんだ。」とおっしゃる商学部のある助教授が「われわれ、内部進学の者は、きみたち、“外部の者”よりも、入学する時の学力はないかもしれないが、そんなものは何の価値もあるものか。そんなものは受験勉強だ。そんなものは害があるんだ。われわれは学力はないかもしれないけれども、そのかわりに『塾風』というものを身につけている。 きみたち “外部の者” とは違うんだ。 わかっているのかあ!」と教壇で絶叫されるのを聞いた時、かわいそうな人ねえ~え・・と思ったし、なんか、ビョーキ移されそうで、こんな人とつきあいたくないなあ~あ・・・とも思ったし、こんな人の講義を受けさせられるのは嫌だなあ~あ・・とも思った。 小学校から高校まででやっていることというのは、「受験勉強」で「害がある」「何の価値もあるものか」と小さいころからずっと教えられてきたんですね。 そして、そのかわりに「塾風というもの」を注入されてきたんですね。 かわいそうに・・・・と思った。こういことを述べると、慶應の内部進学の人は怒ると思うし、「受験勉強の悪影響だ」とか言い出すと思う。 怒られることは言いたくないし、“外部の者”の言うことなんか聞く気もないだろう。・・・が、述べてしまった。どうも、私は、言って得しないようなことを言ってしまう病気が治らないようで困ったものだ。 もっとも、内部進学の人がすべて、この助教授のような調子かというと、そういうことでもないとは思う。人によっても違うと思うし、人間はすべて学校でだけ決まるのではなく、卒業してから、人生を歩んでいくにおいて、変わっていくと思うが、しかし、慶應の内部進学の人には申し訳ないけれども、私は、慶應の内部進学の人を見て、「観」の注入教育を受けてきているような感じの人が多いという印象を受けた。
〔だいたい、「この僕は中等部から慶應に言ってるんだぞお。わかってるのかあ」とか言われても、そのオッサンが中等部から慶應に行ってるなどという話は、その時、初めて聞いた事であり、わかってるわけないじゃないか。 バーロー
〔 末川 博『法律』(1961.9.20.岩波新書)には、≪あらゆる面にわたって詳細な知識をもつということは、何人にもできることではない。だが、そういう専門的な知識や研究を離れて、われわれは、一通りのことを知っておく必要がある。・・・今日の大学における一般教育で すべてのものについて何か(something about everything) を、また専門教育で 何かについてすべて(everything about something) を、知ることが求められているのと同じように、法律専門家でない一般人も、教養として法律に関する一通りのことを心得ておくのがよいといえるであろう。≫と述べられている。たとえ、「(落ち目の)」であっても、「公立名門校」出身の人間は、完全ではなくても、高校において「すべてについて一通り」、大学の一般教養課程で 「すべてについて何か」 を学び、その基礎の上に、大学の専門課程で 「何かについてすべて」 を構築しようとするのに対して、慶應の内部進学の人の場合、「すべてについて一通り」の部分を、「そんなものは受験勉強だ。そんなものは害があるんだ。そんなもの、何の価値もあるものか。」と教えられて否定し、「すべてについて一通り」「すべてについて何か」の上に専門を構築するのではなく、代わりに、「塾風」なるものの上に専門を作り上げる、ということをしている。私には、そう見えた。 「すべてについて一通り」「すべてについて何か」の上に「何かについてすべて」を構築しようとすると、構築してきたものと、現実の社会・現実の人間との間に一致しないもの・矛盾するもの、あるいは、「緊張関係」とでもいったものが発生するのに対して、「塾風」の上に構築しておけば「緊張関係」も発生しないので、その方が、社会に順応しやすいかもしれないし、現実の社会との間の「緊張関係」を持ち現実の社会に追随できかねる者を「モラトリアム人間(病)」だと嬉嬉としてののしることもできるかもしれないけれども、しかし、いかに、保守的な学問でも、ある程度以上、精進して学び、つきつめていけば、そこに現実の社会との「緊張関係」というものは発生するのが普通であり、「緊張関係」の発生しない・発生させないような「学問」とは、それは、いったい、何だろうか。 そういった「緊張関係」を大事にし、それを生かすことのできる社会こそ成熟した社会であり、民主主義の社会ではないか、と私は思う。 (2012.2.13.追記) ≪いかに、保守的な学問でも、ある程度以上、精進して学び、つきつめていけば、そこに現実の社会との「緊張関係」というものは発生するのが普通≫というのは、大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』(1978.4.20. みすず書房)の中で、大塚久雄が述べていて、確かにそうだと思ったものですが、今、この本のどこに載っていたか見つけることができません。見つけることができた際には、補足します。(2012.2.15.) 〕
(2)  そして、もうひとつ。 かつて、早稲田大学の「スーパーフリー」というサークルが女子大生を集めて、酒を飲ませた上で強姦を繰り返すということをやっていたというのが表に出たが、慶應の内部進学の人で、似たようなことをやっている人があるのを見たことがある。 私だって、特別に品行方正とか言うつもりはないが、しかし、よくあそこまでできるとあきれた。 小学校から高校まで、真面目に努力してきた人間にはできないことと思う。 小学校・中学校・高校とすべて慶應に行ってきた人には、上記の助教授のように「われわれには『塾風』というものがあるんだ。わかってるのかあ!」という意識の人が多く(「だから何やねん」と言いたくなるのだが、言うと怒る)、そして、そういう人は、小学校にしても、中学校にしても、高校にしても、公立の学校に行っている人間を “ ドジン ” のように思っている。 だから、“ ドジン ”には、「スーパーフリー」みたいなことしたっていいんだ、そういう教育を受けてきたということでしょ。 違うって? じゃあ、今、そこでやっていることは何?  “ ドジン ”扱いされる方も不愉快で迷惑だが、公立の学校に行っている人間を “ ドジン ”だと思うような教育をされてきた人も、かわいそうな人だなあ・・・と思った。 内部進学の人にとっては、公立高校出身の“外部の連中”って不愉快でしょうね。なにしろ、ちょっと前まで、大学入学前は“ドジン”の仲間だったし、大学入学後も、意識は内部進学の方々よりも “ ドジン ” の方の意識に近いんだからね。
   ・・・と述べてしまうと、猛烈に怒られると思うし、「受験勉強の悪影響だ」とか言われると思う。 なにしろ、慶應の内部進学の教授先生にとっては、自分が知らないこと・できないことは何でもすべて「受験勉強」で「悪影響」ですものね・・・。  それに、“外部の連中”が何を言っても、そこは、慶應義塾高校付属大学みたいな大学であり、内部進学の人の学校であって、“ 外部の連中 ”というのは、自分の家の軒先の先っぽに入れてあげてやっているような存在ですからね。
   私は、慶應義塾大学に在籍中に、内部進学のすべての人と仲が悪かったというわけでもなく、卒業後、内部進学の慶應のOBの方からお世話になったこともあり、人の出身校のことを、あんまりボロクソに言うのも良くないかもしれないけれども、私は、慶應義塾大学に行った時、正直なところ、上記のように感じたし、そういう経験をした。

   開成高校の人、慶應の内部進学の人、ごめんなさいね。 不愉快かもしれないけれども、そう感じたんだ。 人によっても違うというのはわかっています。 ごめんなさいね。


   それで、自分が卒業した公立の小学校・中学校・高校というものが、このうえもなくすばらしかったかというと、そうでもないと思うところもあるのですが、まあ、学校というものは、最高を求めてもしかたがないもので、あくまで、そこで、それを利用して学ぶものであって、「教えてもらう」と、あまりにも考えない方が良い所だと思うのです。

   それで、「戦後民主主義」と言われる時代のその地域の人間誰もが同じ学校に行く公立の小学校・中学校の卒業生として、公立の「名門校」である北野高校の卒業生として、学校というものは、どこが良いか、どこに行けば良かったかといっても、すべてにわたってこっちがいい、こっちに行っておけばよかったというのはないと思うけれども、公立の小学校・公立の中学校の良さ、公立の「名門校」の良さというものはある、あったと思うのだ。橋下には、公立の高校の出身者として、そのあたりの認識を少しは期待したのだが、期待する相手ではなかった。 「少しは」でも期待した私がバカだった。 その部分において、私はアホです。 すいません。 

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「すごい学校つくる」小中一貫特進校 橋下市長が方針
産経新聞 2012/01/14 00:04更新  http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/541942/
   大阪市の橋下徹市長は13日、市議会の民主系会派との面談で、市内に新設する予定の市立小中一貫校2校について「小中の特進校みたいな、すごい学校をつくろうと思っている」と述べ、高いレベルの教育をする学校として位置付ける方針を明らかにした。
   2校は既存の小中学校の施設を利用し、今年4月と平成25年度にそれぞれ設置する計画。
   橋下氏は「お金がなくても私立と同等、それ以上の教育ができる学校というコンセプトだ」と記者団に狙いを説明。「市内全域から入学を認める学校にしてもいい」と述べ、通学区域は限定しない方針だ。
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  またまた、変なこと言いだしたね。 
  「小中一貫校」がいいかどうか。 私は、小学校の途中で、一度、転校した。 だから、小学校は2つ、経験している。 中学校では、入学時、2つの小学校のすべてと、もうひとつの小学校の半分が同じ中学校に進学したが、途中で、新しく、もうひとつ中学校ができたことから、入学時の一方の小学校の出身者は新しくできた中学校に移り、半分だけが入学していた小学校の、もう半分の人たちが既存の別の中学校から移ってきた。 その結果、同じ中学校に3年間行ったけれども、1年の時と3年の時ではメンバーが違い、雰囲気も違った。 どちらが良いとは、いちがいに言えないけれども、少々、違った。 それが良かったかどうか、絶対にどうとは言えないと思うが、小学校から中学校にかけて、4つの異なる層とつきあうことになったのは、人間形成にとって、悪くなかったのではないかと思っている。 
  「小中一貫校」というと、9年間、同じ層の人たちとつきあうということですよね。 どうだろうね? 
 
  私立ではなく、それでいて、市内全域から行くことのできる「小中一貫校」が今までなかったかというと、そんなことないでしょ。 あったでしょうよ。 橋下は大阪にいたくせに知らないの?
   大阪教育大学付属小学校、同じく、大阪教育大学付属中学校 、さらに、大阪教育大学付属高校の池田・天王寺・平野があったでしょうよ。 今もあるでしょ。 国立ですよ。 私立じゃないですよ。 
   もっとも、知っている人で、大阪教育大付属の小学校・中学校・高校に行った人に聞くと、「国立」とはいっても、体質としては「私立」のようなところがある・・・といったことを聞きますが、でも、私立ではない学校で、小学校・中学校の「一貫校」でしょ。 別に目新しい話じゃないでしょ。

   都立大学の教育学の教授であった山住正巳さんが述べていたことでもありますが、小学校の時点から、行く学校を選ぶというのが良いかどうかという問題があるのです。 似たような家庭の子供っばかりが集まる学校になりませんか?  その地域の子供は誰もが同じ学校に行くということであれば、様々な家庭の子供と出会い、見聞を広めることができるところが、その機会を奪うことにはなりませんか?

   「特進校みたいな」って、まさか、ナチス養成所みたいな学校を作ろうとしているのじゃないでしょうね?

   《「バカのくせにプライドばっかり高い」という人間をわざわざ養成する学校》 を税金で作ることになったりしませんか? 現実に、そんな感じの学校ない?

   「一貫校」であれば、進学成績が伸びるというものでもない、てことくらい、わかってるでしょ。 
灘でも開成でも、中学校から入った人間よりも高校から入った人間の方が成績は良い場合が多いって、知ってるでしょ。 かつ、中学校から入った人間より成績の良い高校から入った人間には、中学校に入学する時点でその中学校を落ちた者も少なからずいる、て知ってるでしょ。

   今は昔、慶應義塾大学の日吉キャンパスの教室の机に、「公立小学校→公立中学校→公立高校→現役京都大学 これこそ、最高のエリート」と書かれた落書きがあった。 書いた人は、それを目指したのだけれども、最後の部分で京都大学に行けなくて、慶應に入学したのでしょう。 (そういう国立大学を落ちた人も受け入れてきて、そして、他の大学を落ちた人を受け入れたからということで、別に、値打ちが下がるということはなく、存続してきたというところが、慶應という大学の良いところだと思う。) 
   その「公立小学校→公立中学校→公立高校→現役京都大学」と書いた人は、自分は、その地域で誰もが同じ学校に行く小学校から中学校に行き、一般の人間と同じ条件の学校で成績を残してきたのだというプライドがあったのでしょう。 出世するかどうかはわからないけれども、それだけのプライドのある学生生活を送ってきた者として、「スーパーフリー」みたいなことをする連中とは俺は違うんだ、という矜持があったのでしょう。 橋下が言う≪小中の特進校みたいな、すごい学校≫≪私立と同等、それ以上の教育ができる学校というコンセプト≫の学校では、そういう学校の出身者には、「公立小学校→公立中学校→公立高校→」で最後に「現役京都大学」のはずだったのに・・・・、という人が持つような矜持なんかないと思いますよ。
   公立でありながら、≪私立と同等、それ以上≫に公立の学校の人間を “ ドジン ”視する人間を養成することになるのじゃないですか?
    高校の場合は、その高校に入学できるだけの点数を入学試験で取って入るのですが、小学校では、「入学試験」と称するものをやっても、実質上、「ほとんどくじびき」ですよね。 「ほとんどくじびき」で入った小学校のために、一般の公立の学校の人間を “ ドジン ”視する習慣を身につけさせられて、それで、大学はというと、あんまり、たいした所へは行けないんじゃないでしょうか。
   慶應の幼稚舎(小学校)なら、大学まで行った時、大学から入った人間よりも学力で劣っても、それでも、慶應義塾大学に行ける場合が多いし、自分たちがその大学の主人だ、みたいな顔ができますが、橋下義塾の小学校に行っても、たぶん、大学に行く頃には、「フツーの小学校」を卒業してきた人間よりも、大学入試で取れる点数は低いと思いますよ。 それでいて、「プライドばっかり高い」という人間になるのではないかと思います。 なにより、慶應の内部進学の学校と違って、内部進学する大学はないでしょ。 あんまり、価値ないね。その「小中一貫校」って。

  野蛮人・橋下徹・松井一郎・中西正人による「日の丸」「君が代」の教員と生徒への強制については、なんとしてでも、阻止しなければならない問題であるが、この「小中一貫校」については、
「マア、やってみ。 たぶん、うまくいかんだろう。」・・・という気もするが、税金を無駄遣いするのは、ほどほどにしてほしいように思う。

  橋下 徹 は、要するに、《 公立でありながら、上記の〔1〕(1)~(4)、〔2〕(1)~(2)の欠点を持った学校 で、かつ、内部進学できる大学のない学校》 を税金を使って作り上げようとしている、ということか?  ・・・・まあ、そんなところかな・・。 
  橋下 徹 自身が、「私立新興6年制受験校」ではな「(落ち目の)公立名門校」の出身でありながら、く〔1〕(1)≪大学受験において、ある程度以上の成績は取ったのかもしれないけれども、その割には、小学校から高校まででおこなっているもの、及び、そこから身に着く認識といったものが身についていないという人≫のひとりだしね・・・。

  北野高校出身の漫画家・手塚治虫の作品『アドルフに告ぐ』(『手塚治虫の収穫 アドルフに告ぐ 1』『同 2』『同 3』小学館) で、
ドイツ人の父親が「この子は故郷に帰らせて エリート校であるAHS(アドルフ・ヒットラー・シューレ)に入学することになっとるのです。」と言い、
子供(アドルフ=カウフマン)が「いやだ ぼく ドイツなんか行かないよ」
「ぼく ヒットラー・ユーゲントなんか入りたくないんだ!!」 
と言うのに、無理に入らせるという場面があった。
  橋下が作ろうとしている学校は、そんな学校にならないか? 

  『アドルフに告ぐ』では、その子供(アドルフ=カウフマン)が、学校で、
他の子供から「こいつだけいつもヒットラー・ユーゲントの歌 歌わないんです!」  
「・・・こいつったらヒットラー・ユーゲントなんか大嫌いだって言うんです。 だから歌わないんだって・・・・」
と言われ、校長先生から、
「ヒットラー・ユーゲントはきみ達のあこがれじゃないのかね ・・・」と言われ、
「あんなもん いやですッ!!」と言い、校長先生が
「あんなもんとは何だ?・・・・」
「いいか ヒットラー・ユーゲントはな ユダヤ人がいかに世の中に害毒を流すクズかちゃんと教えてくれるんだよ」と話す場面があります。
  小学校に入る段階から学校を選ぶということになると、選ぶのは親であり、むしろ、子供の自主性を奪うことになる可能性があり、子供が「あんなもんいやですッ!!」と思っている学校に行かせることになるケースもありえます

  橋下徹・松井一郎・中西正人 が、「日の丸」「君が代」を強制しようとする態度と、「ヒットラーユーゲントの歌」を嫌がる人間に無理に歌わせようとする『アドルフに告ぐ』に出てくる学校は似ていますね。


  橋下 が根本的に間違っているところがある。
橋下は、≪ 「・・・すごい学校をつくろうと思っている」と述べ≫たそうだが、
学校というものは、橋下であれ、その他の者であれ、学校外の誰かが作るものではない。 今、その学校に行っている・通っている生徒、及び、教員が、日々、努力することで、作られるものだ。

  私が北野高校の1年の時(橋下徹は、まだ小学生にもなっていない頃)、北野高校の図書室で、大脳について述べた本を借りて読んだことがある。そこに、何十年か前の高校生が書いたらしい落書きがあった。 落書きである以上、無条件にほめるわけにもいかないとは思うが、しかし、何十年も前のその高校の高校生が書いた落書きは、その本の内容以上に面白かった。 その高校は、何十年か前に、その本に落書きをした人が何パーセントか作ったのであり、そして、その本を読んでいる人間が、何パーセントか作っているのである。 
  実際に、そこの学校に行っている人間が作るのではなく、橋下であれ、他の誰かであれ、外部の人間が「つくろうと思っている」として作られるような学校は、たいした学校ではない。

  それから、今、その学校に行く人間も、「学校を作ろう」などと思って行くものではないと思う。 自分が、そこで、何かを学ぼうとして行くものであり、その結果として、学校を作ることにもなる、というものだと思う。 「学校を作る」ために行くのではないと思う。

  橋下は、あまりにもアホである。  橋下には、「(落ち目の)」とついても公立の「名門校」を卒業した人間の良いところが見られない。

  
   こんなくだらない男に、私が愛した大阪の公立小学校・公立中学校・公立高校が、かきまわされて、踏みつぶされるのは悲しい。 橋下に踏みつぶされる学校を悼み、橋下に銃殺される大阪の学校を悲しみ、プッチーニのオペラ『トスカ』の中のマリオ=カバラドッシのアリア「星は光りぬ」を歌おうか・・・・。 

   インターネットで見る限り、橋下のあほくさい「政策」を好意的な文調で取り上げるのは「産経新聞」が多いようだ。 『諸君』『サンケイ』『正論』の類が橋下の支持者ということか・・・・。  あほくさ・・・・。
 (2012.2.9.)


★★★  この回を公開後、《YAHOO! 知恵袋―「すごい学校つくる」小中一貫特進校 橋下市長が方針ってどう思います?(頑張れ!...》http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1379344818 を見ました。
   そこで、tukudani54さん  という方が、回答として、なかなか鋭い指摘をされています。(私が質問者なら、この tukudani54さん の回答の方を「ベストアンサー」に選びます。) この際、そのまま引用させていただきます。
≪ 新設する2校のうち1校は橋下氏の出身校である東淀川区の大阪市立中島中学校です。
  橋下氏は府知事時代、同じく自身の出身校である府立北野高校をエリート校に選びました。北野高校は元々進学校なのでまだ理解できますが、今回ばかりはさすがに公私混同です。
  こういう政治の行く末は歴史が証明しています。橋下氏を応援するのは自由ですが、質問者さんは近視眼的かつ信仰的な支持をしている特徴があるので感心しません。
  あと…あまり書きたくないのですが、選ばれた2校は東淀川区の中島中と啓発小、東住吉区の矢田南中と矢田小です。橋下氏の出自報道を思い出すと、なるほど!と思いました。質問者さんはそれでも「頑張れ」と?≫

   大阪府と縁のない方は、≪東淀川区の中島中と啓発小、東住吉区の矢田南中と矢田小≫と言われても、どういう地域のどういう学校かわからないでしょうし、tukudani54さん が、≪あと…あまり書きたくないのですが、≫と書かれている意味もわからないと思います。 要するに、「部落」と言われる地域を学区に持つ学校です。tukudani54さん が、≪あと…あまり書きたくないのですが、≫≪橋下氏の出自報道を思い出すと、なるほど!と思いました。≫と述べられているのは、そのことです。
   「部落」と言われる地域の方が、常に悪いとかいうようなことでは決してありません。 「部落」の問題の改善に取り組むのは市長・知事の仕事のひとつでしょう。 しかし、「部落」と言われる地域の改善を志向しているのであれば、それは、ここで、橋下が言っていることとは別の問題でしょう。
   橋下が卒業したという大阪市立中島中学校は、JR「新大阪」駅の少し東にあります。 私が北野高校に行っていた時にも、橋下と同じ中島中学校出身の人はいました。 中島中学校の出身の人からも、中島中学校の周囲の中学校の出身の人からも話は聞きましたが、北野高校の学区のうち、豊能地区と大阪市淀川地区であれば、一般的には、豊能地区の方が学力水準は高いのですが、淀川地区の中学校の中でも、 中島中学校は学力のレベルの低い学校で、かつ、相当に「こわい学校」だ、というように聞きました。 自分自身が行ったわけではないので、詳しいことはわかりませんし、聞いた内容がすべて正しいのかどうかもわかりません。 聞いたというのは、何十年か前のことで、今は、その頃と同じではないかもしれません。 「学力のレベルの低い学校」の出身の人が、悪い人ということでもないと思います。
   しかし、「部落」の問題の改善を志向しているのであれば、それは悪いことではないでしょうけれども、橋下が、「小中一貫校」として「すごい学校」を作るとして、表だって言っていることとは、別のことですね。 正直に、本当に目指しているものを述べた方が良いと思います。もしも、「部落」の問題の改善を志向しているのであれば、何も悪いことではないでしょうし、市民・府民にきっちりと説明した方が良いと思います。 
   実際問題として、大阪市でも、「比較的高級住宅地」の住民は、いくら、「すごい学校にする」と言われても、行かないですね。 子供を行かさないですね。 「部落」差別をおこなうべきだなどとは思わないでしょう。 「部落」の人がすべて悪い人だなどとは、まったく思っていません。 しかし、たとえ、「市内全域から入学を認める学校にしてもいい」と言われても、「『部落』の人間でない者が、知らずにうかつに入りこむと、半殺しにされるかしないと出ることはできない」と言われている地域、「そういう場所・そういう学校だということを知らずに転校してきた者が、あっという間にリンチにあって、病院送りにされて、転校して逃げて行った」等等と言われる学校に、わざわざ、他の学区から行かせるかというと、行かさないですね。実際問題として。  
        (2012.2.9.)


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この記事へのコメント

在日3世
2017年08月13日 15:23
しかし読みにくい
中島中の検索から来たがこの左向きなブログに来てしまった。
これ、PCなら普通に読めるのか?

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