大阪の (旧制)北野中学校〔北野高校〕と福沢諭吉の史跡、及、『福翁自伝』から見る 橋下 徹 の矮小さ

〔第76回〕
   このブログは、もともと、「雨にも負けず 風にも負けず」「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」、「人畜無害」な内容を、兼好法師のように「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付く」るごとく「日ぐらしパソコンに向かひて」ブログにするつもりで始めたのですが、原発事故が起こり、さらに、橋下徹のアホが、原発事故と放射能汚染のどさくさにまぎれて、火事場泥棒か巾着切みたいに、なんだかとんでもない方向に大阪と日本を動かそうとしはじめたことから、つい、義侠心にかられて橋下批判を続けてしまい、その結果、「ネトウヨ」(インターネット上にウヨウヨいる右翼)と言われる人たちの攻撃対象にまでなってしまったようです。 

    今は昔、私は、橋下徹が卒業した北野高校を、橋下よりも10年ほど前に卒業し、何の因果か、慶應義塾大学に行って卒業しました。
    最近、東京から千葉にかけてでも、北野高校のことを「橋下徹が卒業した北野高校」という言い方をする人がいますが、その言い方は、同校の卒業生としての愛校心から大変に不快に思います。 この言い方だと、北野高校の出身者というのは橋下みたいな白痴が多いかのような、なんか、そんな印象を与えてしまいます。 こんなアホしか卒業生がいない学校ではないのです。〔ひと昔前は、「森恒夫の出身校」という言い方をする人があり、そういう人は、連合赤軍の森恒夫が北野出身ということから、北野高校出身者は全員が連合赤軍のように言いたがるのですが、当然違います。そういうことを言う人は、底辺の方の「右翼突撃隊」みたいな私立学校出身の人が多く、言う人の知性のなさを表しています。 が、「橋下徹の出身校」という言い方はそれ以上に不愉快です。〕  有名人がエライというわけでもないのですが、卒業生の有名人としては、作家の野間宏〔『真空地帯』『暗い絵』『親鸞』『狭山事件』他〕、漫画家の手塚治虫〔『鉄腕アトム』『どろろ』『ブラックジャック』『アドルフに告ぐ』他〕、役者の森繁久弥、数学者の森 毅(つよし)〔『数学受験術指南』『元気が出る教育の話』中公新書 他〕といったところがかなり有名で、もう少し硬いところでは、法学者のビッグネーム・川島 武宜(たけよし)、慶應義塾大工学部卒で東京理科大助教授で『「学び」の構造』(1975.2.20.東洋館出版社)の著者・佐伯 胖(ゆたか)、あるいは、本来は憲法学者であったが大阪府知事にもなった黒田了一、マクドナルドの社長の藤田 田(でん)など、「少なくとも橋下徹よりはマシ」な有名人はいっぱいいるのです。〔東京の大田区のあたりから選出の衆議院議員で自殺したか殺されたかと言われる新井将敬も北野の出身だったらしい。日本史の教科書に名前が出る人では、戦前の刑法学者で滝川事件の滝川幸辰、戦前は外務大臣で、戦後、総理大臣になった幣原喜重郎、国語(文学史)の教科書に出る人では梶井基次郎(『檸檬』他)と上記の野間宏が出身らしい。〕 うちの親戚で(手塚治虫のかつての同級生で)『鉄腕アトム』に出てくる「ひげおやじ」のモデルというオッサンもいました。〔現在の北野高校校舎を設計した竹山聖(きよし)も「建築家」を名乗っているらしく、もしかすると本人は有名人のつもりかもしれませんが、悪いけど私はよく知らない 「ウィキペディア―竹山 聖」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E8%81%96 を見ると、「京都大学准教授」と書かれており、建築業界に勤務する者でも、私のような「そのへんの建築屋」と違って「エライ人」らしい。 でも、センス悪いと私は思う。 「エライ人」からすれば「そのへんの建築屋」の言うことなんかゴミだろうけれども。〕〔大石明守(あきもり)『女が口説けずに一流セールスマンになれるか・「生きざま」をぶっつけるセールス手法のすすめ』(1994.こう書房)には、大阪市の谷町九丁目にあったT建設で大石氏が鍛えられたK支店長が北野高校出身であったという話が出てきます。〕〔「週刊現代」2012.4.7.号掲載 佐野眞一「大王製紙井川家三代の知られざる物語 第3回 呪縛」を見ると、大王製紙2代目の井川高雄さんも北野の出身らしい。〕 現役世代の「政治家」としても、東京の東の方の衆議院議員で自民党の松島みどり というおばさんがいて、この人は私が入学する前くらいに卒業した人で、「おばさん」とは失礼だと言う人もあるかもしれませんが、この人は、北野高校在籍時は自治会長を務め、東京大学文科一類現役合格で、東大に入ったと思ったら応援部でいわゆる“チアガール”をやって「週刊文春」のグラビアに「東大生のチアガール」とかいうタイトルで出たりした人であったのですが、最近、東京の方で衆議院議員になってテレビに出ているのを見たり、東京の街角に張ってあるポスターの写真を見ると、なつかしい気持ちも持つとともに、「あの人もおばさん になったなあ」と感慨深いというのかそういう気持ちになり、こっちも同じだけ歳いったと認めたくないけれどもまったく認めないわけにもいかないのかなあと思ったりしています。但し、松島みどり さんは、かつて、まだ女性が東大にそれほど行かない時代に東大文科一類現役合格で、ちょっとした“英雄”みたいな感じだったのですが、衆議院議員になって言っていることといえば「小泉さんに追随しているだけ」で、「この程度か」とがっかりさせられたところがあります。 しかし、橋下 徹に比べれば、「まだしも、松島みどり の方がマシ」という気がします。 マア、法学者のビッグネームとか漫画家の大御所とか衆議院議員とかばかり卒業している高校なのかというと、実は、私みたいな安月給のサラリーマンもいたりするんですけれどもね。ごめんね。安月給のサラリーマンで。
〔「ウィキペディア―大阪府立北野高校の人物一覧」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%8C%97%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7 他参照。〕
   慶應義塾大学の方ですが、「何の因果か」というのは、北野高校は、北野高校に行きたいと思って行ったのに対して、慶應義塾大学は、国立大学に落ちてしまったことから、「何の因果か」行くことになり、そして、結果として卒業させてもらったのです。それで「何の因果か」です。 私が北野高校に入学する頃、兵庫県に灘高校という高校があって、というのか、今もあると思いますが、昔は、北野と灘であれば北野の方がはるかに「名門校」だったのですが、私が入学する頃は、灘に落ちて北野に通ったことから北野に来たという人もいたようですが、それでも、大阪では、灘は「受験校」ではあっても「名門校」ではなく、私が卒業した中学校の先生なんかは「あんな変な学校」と言っていましたし、世間一般にそう見ていたところがあり、私もそう思っていて、〔灘高出身者は離婚率が高いという話もありました〕 北野高校こそ内容のある「名門校」で、私は北野と灘であれば、灘は受けなかったけれども、たとえ、両方受けて両方通っても北野に行きたいと思って北野高校に行ったのですが、慶應は、国立大学に落ちたことから、あんまり喜べない気持ちで行って、それでも入れてもらって卒業させてもらったというものだったのです。 今でも、それが良かったか悪かったかわかりません。 ただ、もしも、行きたいと思った高校に行き、行きたいと思った大学に行ったならば、「純粋培養」みたいな「その高校・その大学そのもの」みたいな人間になったかもしれないところが、そうではなかったので、その学校の影響を受けたものはあり、そこから得させてもらったものはあったとしても、あくまで「自分は自分」、という状態になることができたという面はあるかと思います。慶應義塾の創立者・福沢諭吉は、「独立自尊」という言葉をよく口にしたと言いますが、学校については、できる限り行きたいと思う所へ行けた方が良いのですが、たとえ行きたいと思う所へ行くことなくそうでない所へ行くこととなったとしても、むしろ、その方が、「独立自尊」という精神構造を獲得する傾向になりやすいかもしれないとも考えられます。 「だから、センター試験 だかでミスがあって、それで大学入試がうまくいかなかったとしても、・・・受験生の人、そこで人生が終わるのじゃないんだよ、そこから人生が始まるんだよ。」・・・・なんて、法学者のビッグネームとか衆議院議員が言うならともかく、安月給のサラリーマンが言ってもしかたないか・・・・・。

  2年ほど前、大阪に行った時、北野高校の前身の(旧制)大阪第一中学校→堂島中学校→北野中学校 があった場所 4か所、及び、私が卒業後に校舎が建て替えられた現在の北野高校の校地の計5か所と、慶應義塾の創立者・福沢諭吉が生まれた、大阪の旧・中津藩邸跡、及び、福沢諭吉が学んだ緒方洪庵の適塾の跡を見学してきました。
 
  そこで気づいたことですが、実は、福沢諭吉が生まれた大阪市福島区福島 の旧・豊前国中津藩邸跡は、北野高校の前身の学校が4番目の校地として、「府立大阪中学校→府立大阪尋常中学校→府立大阪第一尋常中学校→大阪府第一中学校→大阪府堂島中学校→大阪府立堂島中学校」という名称で19年間あった場所と、同じ場所だったのです。
  もったいつけずにお写真の方を出しましょう。
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 ↑ 元・豊前国 中津藩邸跡。 福沢諭吉生誕地。 堂島中学校(北野高校の前身)跡 4番目の校地。 現在、朝日放送ビルがある。
大阪市福島区福島1丁目。 最寄駅:京阪 中之島線「中之島」、阪神 本線「福島」、JR東西線「新福島」。
※朝日放送については、
「ウィキペディア―朝日放送」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%94%BE%E9%80%81 他参照。

   私は、まず、北野高校の前身の学校が最初にあった難波御堂(南御堂)に行き、それから、緒方洪庵の適塾に行きました。そして、北野の前身学校があった中之島校舎があった付近と堂島校舎があった付近に行き、それから、福沢諭吉生誕地に行くつもりで、こちらに行ったのですが、北野の前身学校の堂島校舎があったはずの場所へいくと、このモニュメントがあり、北野高校の前身の堂島中学校があった場所と福沢諭吉生誕地とは同じ場所であったことに気づいたのです。 しかし、ここに来て、なんだか「傍若無人」という印象を受けたのです。何にかというと、この記念碑にです。 
   そこには「福沢諭吉生誕地」と書かれた石碑が立ち、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」と書かれた石碑も経っています。福沢諭吉の『学問のすヽめ』(学問のすすめ)の冒頭の文章で、本来は、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用によるもののようです。(「ウィキペディア―学問のすヽめ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%82%9D%E3%82%81 ) おそらく、慶應の関係者の人が建てたのでしょう。 建てて悪いことはないのです。 石碑の文句も悪い文句ではないのです。 しかし、そこは、私にとっては、「福沢諭吉生誕地」であるとともに、北野高校の前身の堂島中学校跡地でもあるのです。なんだか、まるで、そこは「福沢諭吉生誕地」であって、それ以外のどんな場所でもない場所、みたいな、なんか、そんな感じの石碑・・・・。 慶應関係者には怒られるかもしれないけれどもそんな印象を受けたのです。
   これは、歴史上の遺跡・史跡などを保存する場合、どのように保存するべきなのかを考えるにおいて議論される難しい問題でもあると思います。 保存するとして、いつの時点のものを保存するのか、いつの状態のものとして保存するのか、という問題。
   原発事故が起こってしまった福島県浜通りの 福島県いわき市 内郷(うちごう)にある 福島県では唯一の建築の国宝である白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)と、放射能汚染を受けて「ホットスポット」になってしまった「ユネスコ世界遺産」にも指定された岩手県平泉の平泉金色堂は、同じ頃に建てられた建築物らしく、阿弥陀堂建築の代表的な建物とされています。 平泉金色堂は、創立の頃の状態に復元されているらしいのですが、それに対して、白水阿弥陀堂は、これ以上痛まないようにという最低限の補修にとどめ、年月による変化を受け入れた状態で保存されているというのです。どちらがいいでしょう。 建築とはいつの時点をめざして作るべきものなのでしょう。竣工時でしょうか。 必ずしもそうではないでしょう。 灯篭などは、完成させておしまいではなく、そこから雨や風にあたっていって風情がでてくるものと一般に考えられているはずです。 桂離宮は何度も増築を繰り返して、そして、今日あるような桂離宮になった。 私は、いわき市に何年か住んだこともあり、白水阿弥陀堂にも何度も行きましたが、最初に訪問した時、お坊さん(住職?)が、白水阿弥陀堂と平泉金色堂の保存の仕方の違いを説明された上で「どちらがいいとはいちがいに言えないと思いますが、私はこちらの方が好きです。実際問題として、平泉に比べてお金がない、ということもありますけれどもね。」と話されたのを覚えています。確かに、年月の変化をある程度受け入れた状態で保存した方が、本来の建物の保存と言えるのかな、と思います。但し、さらに、年月の変化を受け入れるとすれば、痛んで崩壊するところまで受け入れるのか、そうはいかないとすれば、どの時点のどの状態のもので保存するのか、という問題がでてきます。
   大阪城は、豊臣秀吉が、かつて、石山本願寺があった場所に作ったといい、大阪冬・夏の陣で、豊臣が徳川に敗れた後、徳川は、豊臣の大阪城を完全に破壊し、豊臣秀吉が築いた石垣と別に、新たに石垣を築き、天守閣も新たに別の物を作ったといいます。その新たに作った天守閣は江戸時代初期に焼失し、今の天守閣は、1930(昭和5)~31(昭和6)に、鉄筋コンクリート造にて、豊臣の大阪城の様式で、復元されたといい、今現在の大阪城は、「徳川の石垣の上に豊臣の天守閣が建っている」状態になっているらしい。 もし、大阪城を保存するとすれば、豊臣の大阪城を保存するべきなのか、徳川の大阪城を保存するべきなのか、それとも、石山本願寺の状態に戻すべきなのか?
   東京の上野公園に、「世界三大巨匠」のひとり・ル=コルビュジェ設計の国立西洋美術館があります。一時、ユネスコの世界遺産に登録されるかという話が出たりしていました。 ユネスコの世界遺産に登録されて永久に保存されるべき・・・・かどうか。 上野公園という場所は、もともと、寛永寺の境内でした。 江戸時代の寛永寺は、上野公園全域、上野動物園・東京芸大・東京文化会館や上野駅も含めた広大な土地を占めていて、上野公園の中央噴水のあたりに本堂(根本中堂)があり、東京国立博物館のあたりに本坊があったと言われています。 ル=コルビュジェの国立西洋美術館を永久に保存するということは、寛永寺を復元するのは永久にやめるということです。 奈良の薬師寺などは、かつての白鳳の伽藍を復元しようとして、少しずつ、建築物を増やしています。もし、薬師寺のように、最盛期の状態に戻すべきとすれば、寛永寺も上野公園中央噴水のあたりに本堂を作り、東京国立博物館を解体して本坊を作って、西洋美術館も東京文化会館も解体し、上野動物園も移転してパンダもどこかに引っ越してもらって・・・ということになります。 ちょと、それは難しそうですが、しかし、「保存」「復元」するとすれば、どの時代のどの状態のものに「保存」「復元」するのがふさわしいのでしょうか。
   記念碑の場合、ひとつの記念碑を建立すると、他のものを建てられないということはなく、中津藩邸跡にしても、今現在、朝日放送のビルが建って利用されています。 他の記念碑を建てることもできるのですが、それよりも、ひとつの記念碑を建てる際、ここは、「○○△△というエライ人にゆかりの地」なんだぞ、とあまりにも、それを強調した記念碑を建てるのではなく、その記念碑を建てるに際して、その場所は他にどういうように使われてきた場所なのかということも調べて、そして、「ここは、このような歴史のある場所である、○○△△はそういう場所で◇◇してきたのである・・・・」と、その場所の歴史全体を記した上で、その歴史の流れの中で、○○△△がそこに生きたという記念碑にした方が良いのではないか、というように思います。 この中津藩邸跡であれば、『学問のすヽめ』を書いた福沢諭吉の生誕地において、後に、大阪で最初の(旧制)中学校である堂島中学校(現・北野高校)が3番目の校地として設置された、というのは大いに喜ばしいことであり、そして、他にも、この場所には歴史はあっておかしくないと思うのです。 福沢諭吉という人は、自分の生誕地は、あくまで自分の生誕地であって、それ以外の場所ではないと主張したいというような、そんな排他的で心の狭い人では決してなかったと思います。 この場所に限らず、記念碑を設置する場合は、自分が思い入れがあるもののみを刻んだ記念碑とするのではなく、他の人には他の人で思い入れがあるものがあるかもしれないということも理解した記念碑にする方がより良いと思います。

  そして、適塾(緒方塾、緒方洪庵住宅)が、↓です。
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 ↑ 北側から見たもの。
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 ↑ 西側の公園から見た適塾(緒方塾。緒方洪庵住宅)。 重要文化財。 手前は、緒方洪庵の像。
大阪市中央区北浜3丁目。 最寄駅:地下鉄御堂筋線・京阪本線「淀屋橋」、地下鉄堺筋線・京阪本線「北浜」。
   『福翁自伝』(1978.10.16. 岩波文庫)に、
≪ 裸体(はだか)のことについて奇談がある。ある夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思い付きに、この酒をあの高い物干(ものほし)の上で飲みたいと言うに、全会一致で、サア屋根づたいに持ち出そうとしたところが、物干の上に下婢(げじょ)が三、四人涼んでいる。これは困った、今あそこで飲むと彼奴(きゃつ)らが奥に行って何か饒舌る(しゃべる)に違いない。邪魔な奴じゃなと言う中に、長州生に松岡勇記という男がある。至極元気の宜い(いい)活発な男で、この松岡の言うに、僕が見事にあの女共(おんなども)を物干から逐い払って(おいはらって)みせようと言いながら、真裸体(まっぱだか)で一人ツカツカと物干に出て行き「お松どんお竹どん、暑いじゃないか」と言葉を掛けて、そのまま仰向き(あおむき)に大の字なりに成って倒れた。この風体(ふうてい)を見ては、さすがの下婢(げじょ)もそこにいることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして、みな下りてしまった。すると松岡が、物干の上から蘭語で、上首尾早く来いという合図に、塾部屋の酒を持ち出して涼しく愉快に飲んだことがある。≫
≪ …虱は塾中永住の動物で、誰一人もこれを免れることは出来ない。・・・・ 私は一案を工夫し、そもそも虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公(おれ)が一発で殺して見せようと言って、厳冬の霜夜に襦袢を物干に晒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工夫は私の新発明ではない。曾て(かつて)誰かに聞いたことがあるからやってみたのです。≫
と書かれている物干しとは、この写真のもののことなのでしょうか。 
   福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾(緒方塾)で塾長を務めたようですが、緒方家と大阪大学医学部とはつながりがあって、適塾は、現在、大阪大学が管理しているらしい。(「ウィキペディア―適塾」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E5%A1%BE 他参照。)

  北野高校の前身の学校の場所の方を見てみましょう。
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 ↑ 難波御堂(なんばみどう)〔真宗大谷派難波別院、南御堂(みなみみどう) 大阪市中央区久太郎町 最寄駅:地下鉄御堂筋線・中央線「本町(ほんまち)」〕 本堂
 北野高校の前身・欧学校→集成学校 が最初に設けられたという場所。
〔1873(明治6)(明六社ができた年)~1877(明治10) 4年間〕
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 ↑ 御堂筋の東側から見た 難波御堂〔真宗大谷派難波別院、南御堂〕の山門を兼ねる御堂会館
※難波御堂〔真宗大谷派難波別院、南御堂〕については、
「南御堂」ホームページ http://minamimido.jp/ 他参照。
  難波御堂(なんばみどう)〔南御堂(みなみみどう)〕は、「難波御堂」という名称ですが、地下鉄御堂筋線の「難波(なんば)」駅が最寄り駅ではなく、「難波」の北側の「心斎橋(しんさいばし)」でもなく、さらにその北の「本町(ほんまち)」が最寄駅です。  この少し北に、北御堂(きたみどう)〔浄土真宗本願寺派 津村別院〕があります。

  北野高校のホームページの「沿革詳細」http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/chronicle.html によると、1874(明治7)(欧学校→集成学校 ができた翌年)東進級学校 が東区今橋通り5丁目に、 西進級学校 が西区靭南通り5丁目に設立。 1876(明治9)東進級学校を難波御堂内に移転し、集成学校と東進級学校を併設、1876(明治9)に、西進級学校を東進級学校に合併したという。

  北野高校の校歌(http://www.rikuryo.or.jp/museum/song/song01.html )の2番に、
≪そのむかし難波御堂に、堂島に、次ぎて北野に ♪
育英の門を 開きて、♪
百有余年花は薫りぬ ♪≫ とありますが、
≪難波御堂に≫というのが、↑の真宗大谷派難波別院です。

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 ↑ 北野高校の前身 の2番目の校地。 ここで、集成学校と進級学校が合併して大阪府第一番中学校となったらしい。  集成学校・進級学校→大阪府第一番中学校→府立一番中学校→(私立中学校)
  難波御堂の次に移転した中之島校舎があったあたりと思われる所。 大阪市北区中之島。 堂島川の北側・豊前国中津藩邸跡(現・朝日放送)の前から堂島川を経て見る。 この中之島校舎は、期間が短かったということもあるのか、校歌には入っていません。
〔1877(明治10)~1881(明治14) 4年間〕

  その後、1881(明治14)に、大阪府会師範学校内に移転。 大阪府中学校→府立大阪中学校
〔1881(明治14)~1883(明治16) 2年間〕 この場所がどこか私はわからないのですが、ここが3番目の校地ということになるのでしょうか。 ここも期間が短かったからか校歌には歌われていません。

  校歌に≪堂島に≫と歌われる4番目の校地が、上の、豊前国中津藩邸跡、福沢諭吉生誕地、朝日放送ビル、の場所です。 〔1883(明治16)~1902(明治35)(日英同盟が結ばれた年) 19年間〕
北野高校のホームページの「沿革詳細」http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/chronicle.html によると、府立大阪中学校→府立大阪尋常中学校→府立大阪第一尋常中学校→大阪府第一中学校→大阪府堂島中学校→大阪府立堂島中学校 と、この場所にあった19年間に名称が5回 変わっているようです。
  この堂島地区に校舎があった1896(明治29)に、1・2年生を第5尋常中学校(現天王寺高校)に分割しているようです。 又、現在の十三地区の校舎に移って後、戦後の1948年(昭和23)に、男女共学制となり、その時、大手前高等学校と教員・生徒の交流をおこなっているので、難波御堂にできた欧学校→集成学校・東区今橋通り5丁目にできた東進級学校・西区靭南通り5丁目にできた西進級学校をルーツとする学校は、現在の北野高校が後身というよりも、現在の北野高校と天王寺高校と大手前高校の3校が後身というべきかもしれません。
  

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 ↑  大阪府済生会中津病院(大阪市北区芝田二丁目。最寄駅:阪急「中津」)の前庭に立つ
「大阪府立北野中学校跡記念碑」
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 ↑ 大阪府済生会中津病院 正面玄関 と 「大阪府立北野中学校跡記念碑」の後ろ側
北野高校の前身・(旧制)大阪第一中学校 の5番目の校地。 校歌の≪次ぎて北野に≫というのが、この済生会中津病院の所です。 この場所が「北野」という地名であったことから大阪府立北野中学校という名称となり、現在の「北野高等学校」という名称につながったらしい。 
〔1902(明治35)(日英同盟が結ばれた年)~1931(昭和6)(満州事変の年) 29年間〕
  かつては(私が子供の頃)、この前を阪神 北大阪線という路面電車が走っていて、阪急の高架をくぐった東側に「北野」という駅がありました。 阪神北大阪線は、今の阪神の「野田」駅から、阪急「中津」駅を経て、阪急・地下鉄堺筋線「天神橋筋六丁目(天六)」まで走っていました。 私は、小学生の頃、阪神北大阪線に乗りたくて、わざわざ、北大阪線に乗りに行って、「中津」から「野田」まで乗ったことがありますが、「中津」から「天六」までの間は乗ることができないうちに廃線になってしまいました。
※大阪府済生会中津病院 については、
「大阪府済生会中津病院」ホームページ http://www.nakatsu.saiseikai.or.jp/ 他参照。
※阪神北大阪線については、
「ウィキペディア―阪神北大阪線」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E5%8C%97%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%B7%9A

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 ↑ 6番目の校地である現在地。(大阪市淀川区新北野。 最寄駅:阪急「十三(じゅうそう)」)  現在の大阪府立北野高校。 2003年に、北野高校卒の「建築家」竹山聖設計という建物に建て替えられた。
〔1931(昭和6)(満州事変の年)~    今、入力している時点までで80年間。〕
大阪府立北野中学校→大阪府立北野高等学校
 前の校舎は窓が小さく、暗かったことから「刑務所みたい」と言われることもあったという。しかし、今のこの校舎は、外見しか私は知らないが、実際に使用する者が使いやすいかどうかよりも、「“建築家”として変わったデザインをなんとしてでもこしらえなければ気がすまない」という強迫観念に取りつかれた「丹下健三のエビゴウネン病」とでもいうのかそういうデザインで、私はあまり好きではない。
前の校舎では屋上にあった「北中」というオブジェが校門の右下の部分に保存されています。
※大阪府立北野高等学校のホームページは、http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/index.html 

   橋下 徹は、私が北野高校を卒業した10年ほど後で、同校を卒業し、イチローした後に早稲田大学に進学したようです。 卒業して、国立の大学に行きたかったのが行けずに、慶應義塾大学に行って、結果として卒業させてもらった私と、おそらく、どこかはわからないけれども、国立の大学に落ちて早稲田に行ったと思われる橋下には、その点で共通点があるようにも思います。 異なる点は、なんといっても、橋下は出世して大金持ちであり、私は安月給のサラリーマンでしかないというところがひとつ。 そして、もうひとつは、私は、「君が代の強制」などということを教員にも生徒にも、おこなってやろうなどという恥知らずではない、ということです。

   『福翁自伝』(岩波文庫)から引用します。
≪ また私の十二、三歳のころと思う。 兄が何か反古(ほご)を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝一声、コリャ待てと酷く(ひどく)叱り付けて「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫(おくだいらだいぜんのたいふ)と御名(おな)があるではないか」と大層な剣幕だから「アア左右(そう)でございましたか、私は知らなんだ」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずじゃ、御名(おな)を足で踏むとは如何(どう)いう心得である、臣子(しんし)の道は」と、何か(なんか)、六かしい(むつかしい)事を並べて厳しく叱るから謝らずにはいられぬ。 「私が誠に悪うございましたから堪忍して下さい」と御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りもせぬ。 「何のことだろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだ」と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんのいうように殿様の名の書いてある反古(ほご)を踏んで悪いと言えば、神様の名のあるお札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。 「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗干場(ちょうずば)に持って行って遣ろう(やろう)」と、一歩を進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない(なんともない)。 「ソリャ見たことか。 兄さんが余計な、あんなことを言わんでも宜い(いい)のじゃ」と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず姉にも言われず、言えば屹と(きっと)叱られるから、一人で窃と(そっと)黙っていました。 ≫
「反古(ほご)」とは。 西尾実・岩淵悦太郎・水谷静夫編『岩波 国語辞典 第三版』(1963.4.10.岩波書店)には、
≪ ほご【反故・反古】 ものを書き損じたりして、不用になった紙、転じて、役に立たない物事。むだ、ほぐ。ほうぐ。ほうご。 「約束を――にする。≫ と書かれています。
  橋下徹は、学校において、「天皇が支配する世の中が永遠に続くように願いたい」という呪文のような歌、すなわち、「君が代」に対して礼拝を拒む者に対して、解雇などを行おうとしているのですが、天皇の頭を踏みつけにしたとでもいうなら良くないであろうけれども、「天皇が支配する世の中が永遠に続くように」という歌詞の「歌」に対して礼拝しなかったから、ということで、何で解雇されなきゃならんだろう・・・・・、と福沢諭吉なら考えるのではないだろうか。 
  「君が代」という「歌」の歌詞は、
≪ 君が代は、
   千代に八千代に、
   さざれ石の巌となりて 苔のむすまで≫
というもの。 即ち、
≪ 天皇の支配する世の中は、
   いついつまでも永遠に、
   小さい小石が大きな岩となって、 さらに、その岩に苔が生えるまで。≫
というものです。 かつて、「君が代」を「国歌」と制定しようという話が国会で出た時、民主党の議員で、「象徴天皇制の歌だ。」と言って賛成した人がいましたが、いったい、どこが「象徴天皇制の歌」ですか?  
天皇の支配する社会が続くように、という歌ではありませんか。 「象徴天皇制」の日本の「国歌」としてふさわしいとはいえないのは疑いの余地はありません。 それに、礼拝させようという野蛮人は民主主義の敵と言わざるをえません。
   しかし、その歌でも、歌いたいと思う人が歌う、聴きたいと思う人が聴くのはよいでしょう。 しかし、それに対して、礼拝させられるのは勘弁願いたい、敬礼させられるのは容赦願いたいという人間にまで、礼拝・敬礼させてやろうというのは、まともな人間の考えることではありませんね。あんまりいい人間性をしていませんね。
   右翼の人は、「君が代」に対して敬礼・礼拝しないというのはケシカランと怒るようですが、しかし、天皇の頭を踏みつけにしたとでもいうなら、それは良くないでしょうけれども、しかし、そういう話ではないのです。 あくまで、呪文のような「歌」に対してどうという話なのです。 そこまで怒らなければならない話ではないでしょう。 橋下は、何を考えているのでしょうね。 橋下 徹に、『福翁自伝』の一読を勧めたいですね。

   しかし、橋下 徹 という男、ちっぽけな野郎だなあ。

   北野高校出身の作家・野間宏の小説に『真空地帯 (上・下)(岩波文庫)があります。 かつての、戦争中の軍隊における精神的に閉塞した環境を描いたものですが、橋下はかつての戦争中の軍隊のように、大阪の学校を改悪したいのでしょうか。 「君が代強制」という野蛮な行為をおこなおうと北野高校の「後輩」にあたる橋下が画策しているということを、野間宏さんが、もし、生きていて知られたら、さぞかし悲しまれることでしょうね。

    大阪に関係の深い天皇として多くの人が思い浮かべるのは、なんと言っても、仁徳天皇でしょう。『古事記』( 岩波文庫)から引用します。
≪ 大雀命(おほささぎのみこと)、難波の高津宮に座しまして、天の下治らしめしき(しらしめしき)。・・・・
ここに天皇、高山に登りて、四方(よも)の國を見たまひて詔りたまひしく、
「國の中に烟(けぶり)發たず(たたず)。 國皆貧窮し(まずし)。 故、今より三年(みとせ)に至るまで、悉に人民(たみ)の課(みつぎ)、役(えだち)を除せ(ゆるせ)。」とのりたまひき。 ここをもちて大殿破れ(やれ)壊れて(こぼれて)、悉に雨漏れども、都て(かつて)修め理る(つくる)ことなく、楲(うつわもの)をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる處に還り避けましき。 後に國の中を見たまえば、國に烟(けぶり)満てり。故、人民(たみ)富めりと爲ほして(おもほして)、今はと課(みつぎ)、役(えだち)を科せ(おほせ)たまひき。 ここをもちて百姓(おおみたから)榮えて、役使(えだち)に苦しまざりき。 故、その御世を稱へて、聖帝(ひじりのみかど)と謂ふなり。≫(『古事記』倉野憲司校注 1963.1.16. 岩波文庫)
   民の苦労を理解した人として描かれる仁徳天皇であれば、「君が代」礼拝の強制に従わなかったからということで解雇する、などという野蛮・下劣・過酷なことをおこなうということはないでしょう。 象徴天皇制の現在においては、今の天皇がどう発言するということはありませんが、今の天皇にしても、こんなことで国民がもめる、こんなことで解雇されたりする国民が出るということは喜ばれはしないと思いますよ。
  橋下徹、松井一郎、中西正人 の3名。 こいつら、いったい、何様?

   灘高から慶應義塾大学文学部に進んだ作家・遠藤周作の小説に『沈黙』があります。 ヨーロッパからキリスト教の布教の為、はるばる日本まで来たにもかかわらず、自分が棄教してしまう「転びバテレン」を描いた話です。
私が慶應義塾大学に在籍した時、慶應の生協が遠藤周作氏を招いて、『沈黙』の映画を上映の上、講演会を開催したことがありました。 私は、その「映画上映会、兼、講演会」に行けなかったのですが、生協が、生協の新聞に掲載した遠藤周作氏の講演記録を読みました。
「『踏み絵』は、今でもあると思います。私たちも『踏み絵』を踏んでいるのと違いますか。『生活』のために『人生』という『踏み絵』を踏んでいるのと違いますか。」 という発言があったのを覚えています。
   遠藤周作氏の小説には、「生活のために人生を踏む」という踏み絵、それに対して痛みを感じながら、踏み絵を踏むのを拒否する強い人間になれない「弱者」の話がよく出てきます。
   しかし、あくまで、「踏み絵」の話は、今、私たちが生きる日本においては、たとえだと私は思ってきました。 まさか、北野高校の「後輩」が、実際に「踏み絵」を実施して国民を、大阪府民をいじめるとは思いませんでした。
   リベラルな校風の北野高校の「後輩」がそういうことをするとは思わなかった。私が北野高校の1年の時、ある英語の先生が「どこの大学に通るかとかいうようなことはさておき、北野高校を卒業したら、北野を出た人間としてのものを習得して卒業してもらいたい」と言われたことがあった。その発言は、直接的には、英語力のことを指しているのであるけれども、この発言内容は学識全般に言えることではないかと思う。 思想・良心の自由、信教の自由を侵害してやろうという 橋下 徹 は、北野高校で何を勉強してきたのだろうか。 こんな男に「北野を出た」と言う資格はない。  


≪ 彼(イエス)は弟子たちにいわれた、「つまづきが来ないようにはできない。 しかしそれを来させる人はわざわいである。 これら小さなもののひとりをつまずかせるよりは、ひき臼を首にかけられて海に投げ入れられたほうがその人にましである。・・・・≫(「ルカ福音書」第17章1‐2 前田護郎訳 『世界の名著 聖書』1978.9.20.中公バックス) 
「君が代」への礼拝・敬礼を強制しようとする 神をけがす男、橋下 徹 こそ、この
≪ひき臼を首にかけられて海に投げ入れられたほうがその人にましである。≫
という文章があてはまる。
それに追随する 松井 一郎 ・ 中西 正人 も同様である。


  ああ、かわいそうだ。神をけがす者ども。生まれなかった方がその人にとってよかったのではないか。 
       (2012.1.21.)

(追記)
  同じ学校の出身者でも、出世する人は出世すればいいし、うまくいかない時があってもそれは世の常と思います。(私なんか、うまくいかない時ばっかりなんだけどお~ ) 北野高校(及び、その前身の学校)の出身者には、議員になった人でも、自民党から共産党までの人がおり、この学校の良いところとして、進学校であるので、「勉強しろ」とは言っても、卒業生に自民党の人がいても共産党の人がいても、学校として政治的にどうしろというようなことは言わない、自分自身が右であれ左であれ、そうでない人の存在も認める学校、認められる学校であったと思うし、私は、その点がこの学校は好きだった。
  ≪「橋下氏の思想は右側に偏り過ぎている。もっとバランスのとれた人じゃないと任せられない」(73歳無職・男性)・・・≫という「週刊現代」2011.11.19.号〔講談社〕に《大阪まっ二つ!「橋下死ぬほど嫌い」「オヤジが暴力団? それがどうした 橋下に一票」》として掲載されていたのを、〔第61回〕《橋下徹、君が代強制に見られる右翼思想に影響与えた「ヤクザの息子」の出自。無関係と言いはる愚か加地伸行》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201111/article_7.html で引用しましたが、橋下は、橋下自身が相当に「右」であるだけでなく、そうでない人の存在を認めようとしない「幅のなさ」「許容性のなさ」が問題です。 橋下徹の「幅のなさ」「許容性のなさ」は、出身者にも在校生にもさまざまな人がいて、さまざまな人の存在を認めてきた北野高校の校風・伝統とは異質なものです。
  学校という所は、君が代への礼拝・敬礼など、宗教的行事・思想的行事・政治的行事の強制は、決してあってはならない所です。北野高校の出身者がそれをわかっていないというのは情けないと言うしかない。 (2012.1.25.)

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この記事へのコメント

死の街東京から脱出しましょう。
2012年02月03日 15:52
放射能汚染が東京に加えて関東や東北地方に広がって、原因不明の急死者が増えている。癌や白血病など全身のいろいろな病気が多発する東日本では、もはや明日のいのちは運まかせ風まかせになっている。しかし、政府は知らんぷりをしたまま公務員は汚職に夢中になっている。東京は放射能の厚い汚染雲におおわれている。この際いっきょに九州に遷都すべきである。成長する中国経済と一体化できる国づくりが必要なのである。長い日本の歴史で九州はいつも辺境に追いやられてきたが、それは日本という悪い国の中にいるからである。本来、上海や広州のように中心機能を担えるにもかかわらず、日本の中にいる限り九州はへんぴな村落にさせられてしまう。東京が汚染地帯になった今こそ、政治的にも経済的にも中核となりうる九州の機能を首都として発揮すべきだ。さもないと、九州も四国も未来永劫に日本のへんぴな村落で終わってしまう。九州に首都を移すことによって、かつて征服された国としての沖縄のあり方もずいぶんと発展するであろう。
中年ニート
2012年02月26日 21:34
本当に、「ハシゲ」「ハシカ」(「橋下」の字の入力の際にこのように打ち込む人が多いようで、双方ともネット上での渾名にもなっています)には腹立たしさを感じます。
小生は橋下現市長より5年前に北野高校を卒業した者です(「定員割れ」の学年でした)。
小生は運よく京都大学工学部に進学出来ましたが、現在の身分は「フリーター」です。
その昔、手塚治虫先輩(故人)は、「挿絵が欲しい」という依頼に対し、右派の人からの依頼も、左派の人からの依頼も、快諾して描いていたそうです。
精神が大らかだったと思われる手塚先輩と比較して、偏狭さを感じさせる橋下後輩、北野OBも様々だと思います。

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  • 橋下の信者からコメントを頂きました^^その2

    Excerpt: 皆さま、拙ブログにお越しいただき有難うございます。 ↓のエントリー(青文字部分をクリック)を読めば、 橋下徹はコリア系アナーキスト大前研一の忠実なる弟子 「狂人=橋下徹知事」の凄い手法 ①武士.. Weblog: 日本の狂った反日スポーツライターたち racked: 2012-01-25 18:31